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第17章 猛勉強
猛勉強Ⅰ
しおりを挟む音楽室の前ではルーナが待ち構えていた。キャサリンは何かをルーナに囁くと、一人音楽室の中へと入っていく。置いていかれた私はどうすれば良いのだろう。
「……お母様?」
「お嬢様」
首を傾げる私にルーナは声を掛ける。
「扉の向こう側は当日の婚約発表の会場だと思って下さい。奥様とヒルダ様は招かれた貴族様です。私が先導しますので、お嬢様はその通りに歩くだけで構いません」
「うん……」
気の抜けた返事だったからなのか、困惑した表情だったからなのか。ルーナは腕を組んで小さな溜め息を吐く。
「お嬢様、一度深呼吸しましょう」
言われ、何度か深呼吸してみる。心臓の鼓動が少し落ち着いてきたような気がした。
「では、行きますよ」
「うん」
蝶番が軋む音を立て、扉は開かれる。視界が広がっていく。
そこはいつもの音楽室ではなかった。楽器は全て片付けられ、部屋の奥にはひな段が置かれている。
「当日はあのひな段に、旦那様、奥様、クローディオ様がいらっしゃいます」
「うんうん……」
あのひな段まで緊張を隠して辿り着け、という事なのだろう。
「このまま真っ直ぐ貴族様の脇を通り抜けて、ひな段の前まで行ってください」
「分かった」
ルーナは私の返事を聞くと、ヒルダの隣にトコトコと駆けていった。
キャサリンとヒルダはと言うと、凛とした顔で私に視線を向けていた。と、不意にヒルダが私に向かってガッツポーズをする。
「……ぷっ」
その仕草が可愛らしくて、思わず笑ってしまった。キャサリンの眉間に皴が寄る。
「ミエラ、笑ってはいけませんよ」
「……はい!」
胸をピンと張りなさい。背筋をしゃんと伸ばしなさい。初めておヒルダに言われた言葉を思い出し、若干猫背になってしまった背中をしゃんと伸ばした。
一人前の貴族らしく。見くびられないように。立派に堂々と。
手を前で組み、すっと前方を見据える。ゆったり、一歩一歩を確実に前へと進んでいく。ひな段の前まで辿り着くと、くるりと反転し、キャサリンとヒルダを見た。
「あら。ミエラ、やればちゃんと出来るじゃない」
「うん、いつもののほほんとした雰囲気は無かったよ」
「お母様とお姉様が教えて下さったお陰です」
これまでの間、家庭教師を付けてもらえていなかったなら、貴族らしい立ち居振る舞いなんて出来なかっただろう。
「ミエラ、こっち来て」
「うん」
言われた通り、三人の所へ向かった。三人は私を笑顔で迎えてくれた。
ところが、次の瞬間にはキャサリンは視線を上の方に向けて何かを考え始め、ヒルダは腕を組む。
「うん、お披露目は上手くいきそうな予感がしてきたけどさ、問題はそのあとのパーティーなんだよね」
「ダンスはミエラに教えられたワルツだけ流す事にして……気が緩んだ時にいつものミエラが出ないかどうか……」
「そうだよ。『えっと』『あの』は禁止だからね」
当然、と言えば当然なのかもしれない。『えっと』『あの』なんて連発してしまえば、気の弱い利用しやすい人間だと思われてしまうだろう。ルーゼンベルクの威厳に関わってくる。
「ミエラの出身何だっけ?」
「え、えっと……エメラルドのハウランダー子爵です」
突然の質問だったのと、日本とエメラルドのどちらを答えたら良いのか判断に苦しみ、いつもの癖が出てしまった。キャサリンとヒルダは大袈裟に溜め息を吐く。
「ほらぁ、駄目って言ってるのにこれじゃん」
「急がなくても良いから、言葉には出さないで頭で考えなさい」
「はい……」
期待に沿えなかったことがショックで、肩を落としてしまった。
でも、このままでは駄目だ。気を取り直しもう一度背筋を伸ばしてみる。
「ミエラのお父様のお名前は?」
「トラヴィスです」
「うん! その調子!」
お姉様のガッツポーズに笑顔で頷く。
「クローディオの何処に惹かれたの?」
危うく『えっと』が口から出そうになってしまった。口を開きかけて飲み込む。
「……誠実で、素直で、優しくて……全部です」
頬が熱くなるのを感じながら、俯くのを何とか我慢した。
キャサリンは「ふふっ」と微笑む。
「そんな感じで、意識して話す事。良いですね?」
「はい」
ヒルダも笑顔で私の肩を軽くポンポンと叩いてくれた。
「あとは、教えておかなきゃいけない事……何だろうなぁ……」
「ちょっとこれは練習とは関係ないけれど……」
キャサリンは遠慮がちに言い淀む。
「辛いのは分かっています。でも、ミエラの左腕の傷を貴族たちに見せておきたいの。次にルーゼンベルクの者に危害を加えたら、命の保証は出来ないと」
「お母様! それはいくら何でもミエラが可哀想だよ!」
ヒルダはキャサリンに食って掛かる。
確かに傷を見せるのは嫌だけれど、抑止力として利用出来るのなら喜んで差し出そう。もう、二度とあんな怖い目には遭いたくない。
「私は……大丈夫です」
「ミエラ! 無理しなくても良いんだよ?」
「無理はしてないよ。もう、ホントに怖い目に遭わなくて済むなら、そっちの方が良いから」
ヒルダは怒りとも悲しみともとれる表情に変わっていく。
「あの犯人たち、私、一生許さない……!」
ヒルダは苦しそうに唇を噛んだ。
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