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第3話 濡れ衣
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婚約者がいる良家の令嬢に手を出して、火種にならなければいい。そんなリディアの懸念が現実となったのは、二日後のことだった。
昼休み。大半の生徒が集まる食堂で、喧騒を掻き消すほど大きな男の怒声が上がった。
「なんとか言ったらどうなんだ!? イアハート!」
友人と共に昼食を楽しんでいたリディアは、息を呑んだ。
――ノア?
広い食堂に響き渡ったのは、幼馴染の姓だった。オムレツを切り分けていた手を止めて、リディアは慌てて立ち上がる。人だかりのできたテーブルに近づくと、うんざりした顔のノアと対峙する男子生徒の姿があった。リットン子爵家の令息ケビンだ。
凄まじい形相の彼を、ノアが椅子に腰掛けたまま面倒くさそうに見上げている。周囲の生徒たちはとっくに避難していて、テーブルはガラ空きだった。
「やめて、ケビン! 悪いのは私なのです……っ」
そう言ってケビンの腕に取り縋ったのは、アッシュベリー伯爵令嬢だ。エリーゼ・アッシュベリーの顔を見た途端、リディアの脳裏に苦い映像が浮かび上がる。
「彼が特別に魔術の手解きをしてくださるとおっしゃるから……呼び出しに応じて不用意に二人きりに……。安易に信じてしまった私が悪いのです……っ」
エリーゼがわっと泣き出す。彼女の肩を抱き寄せながら、ケビンがノアに捲し立てた。
一昨日の放課後、ひと気のない第二魔術実験室でエリーゼが男子生徒と逢い引きしていた。そう、ケビンの知人が教えてくれたのだという。逢い引き相手の顔までは見えなかったが、婚約者が浮気しているのは間違いない、と。ケビンがエリーゼに問い詰めると、罪悪感から口を割った彼女は不貞の相手がノアだと白状したらしい。
野次馬のあいだでざわめきが広がっていく中、リディアは眉を顰めた。
一昨日の放課後といえば、まさにリディアが目撃した光景ではないか。あの日エリーゼが逢瀬を交わしていたのはノアではなく、リディアの婚約者殿だ。一体全体、何がどうしてこんな話になっているのか。
ノアが軽率に女性に手を出したりしないというリディアの個人的な考えを差し引いても――間違いなく濡れ衣だった。
だというのに、ノアは口を開かない。冷ややかな瞳でケビンと泣き暮れるエリーゼを見上げながら、押し黙っていた。
「貴様が強引に迫ったんだろう!? エリーゼ一人を悪者にして黙り込むとは、恥を知れ!」
物言わぬ彼に、ケビンの苛立ちは募る一方なのだろう。今にも殴りかかりそうな様子を見兼ねたリディアは、割って入った。
「ケビン様。この場はわたしが取り持ちます」
「無関係な侯爵令嬢が割って入るな」
「ノア・イアハートの後見人はわたしの父です。執り成す権利はあるはずです」
「ちっ、落ちこぼれが……。論だけは立派だな」
実家の身分を考えればケビンはリディアに敬意を払うべきなのだけれど。彼が軽んじるのは、学園でのリディアの成績が血筋とは裏腹に、取り立てて優秀なものではないからだ。実技も座学も並。どれだけ実家の爵位が高くとも、魔術師としての実力が伴わなければ侮られる。魔術師の卵が集う学園では仕方のないことだった。
口を挟めば嫌な想いをするとわかっていても、黙っていられなかった。
「話を聞いていましたが、誤解があるようです。あなたの婚約者が会っていたのは――」
「余計な口は挟まないでくれる? 侯爵令嬢」
先ほどまで固く口を閉ざしていたくせに。ようやく口を開いたかと思えば、よりにもよってノアがリディアの言を遮った。冴え冴えとした銀の瞳が鋭くリディアを見据える。
「ケビン・リットンの言う通りだよ。無関係なんだからしゃしゃり出てこないでくれる?」
「あなたねぇ~~」
だったら誤解を解く努力をしなさいよ、と幼馴染に食ってかかる前に。
「騒がしいぞ。格式ある学園の生徒でありながら、食事の作法を知らない者しかいないのか」
張りのある声がざわめきを静めた。野次馬を掻き分けてやって来たのはこの国の第二王子――ジークだった。空気が変わるような存在感は、流石は王族というべきか。ジークは宥めるようにケビンの肩に手を置いた。
「話は聞いていた。この場で騒ぎ立てるのは君の婚約者の名誉にも関わる。彼女を愛しているのなら、沈黙を貫くのが男というものじゃないか? 無理強いされたというのなら尚更だ」
「ですが、殿下!」
「君も知っているだろうが、ノア・イアハートは陛下のお気に入りだ。僕も腹立たしいが、才ある魔術師がしでかしたやんちゃは――大抵、なかったことになる。わかるだろう?」
ジークの発言に、リディアは眩暈がした。
アッシュベリーも名門ではあるが、ノアの魔術師としての才能は王国に革新をもたらすと囁かれるほど。彼が伯爵令嬢に手を出したなんて事実はないけれど、仮に事実であっても、伯爵家が訴えたところで国王が仲裁に入り、最終的にはなかったことになるだろう。子爵家ならもっと悲惨な末路を辿るかもしれない。
ケビンも分が悪いと悟ったのか、項垂れて食堂から出て行った。事態が収まると、生徒たちはひそひそと言葉を交わしながらも食事に戻る。彼ら彼女らは、不躾な視線をノアに送っていた。そこに浮かぶ軽蔑の色に、リディアはやりきれなくなる。
ジークが蒔いた種なのに。ケビンの誤解を利用して、素知らぬ顔でノアに濡れ衣を着せる言動を取ったジークに、リディアは失望を隠せなかった。
「ジーク様」
リディアの呼びかけに、紫苑の瞳がちらりと反応した。口元にふっ、と得意げな笑みを浮かべた後、彼はリディアを無視してノアを見やる。
「礼なら要らないぞ? 憐れな庶民の若気の至りに理解を示す程度の器なら、備えているからな」
「……」
事態を収拾させたことに感謝しろと言っているらしい。リディアが抗議する前に、ノアが口を開いた。
「……ジーク様にちょっと確認したいことがあるんですけど。二人きりで話しません?」
「ああ。ちょうどいい。僕もお前に言っておかなくてはならないことがあるからな」
ノアを毛嫌いしている彼がすんなり応じたものだから、リディアは驚く。ジークが先導する形で二人は食堂を出て行った。
伯爵令嬢の浮気相手がジークだと、ノアも知っている。王子に恩着せがましいことを言われたノアは、どんな心境でいるのか。気が気でなかった。
心配そうにこちらを窺っていた友人たちにひと声かけてから、リディアは二人の後を追った。
昼休み。大半の生徒が集まる食堂で、喧騒を掻き消すほど大きな男の怒声が上がった。
「なんとか言ったらどうなんだ!? イアハート!」
友人と共に昼食を楽しんでいたリディアは、息を呑んだ。
――ノア?
広い食堂に響き渡ったのは、幼馴染の姓だった。オムレツを切り分けていた手を止めて、リディアは慌てて立ち上がる。人だかりのできたテーブルに近づくと、うんざりした顔のノアと対峙する男子生徒の姿があった。リットン子爵家の令息ケビンだ。
凄まじい形相の彼を、ノアが椅子に腰掛けたまま面倒くさそうに見上げている。周囲の生徒たちはとっくに避難していて、テーブルはガラ空きだった。
「やめて、ケビン! 悪いのは私なのです……っ」
そう言ってケビンの腕に取り縋ったのは、アッシュベリー伯爵令嬢だ。エリーゼ・アッシュベリーの顔を見た途端、リディアの脳裏に苦い映像が浮かび上がる。
「彼が特別に魔術の手解きをしてくださるとおっしゃるから……呼び出しに応じて不用意に二人きりに……。安易に信じてしまった私が悪いのです……っ」
エリーゼがわっと泣き出す。彼女の肩を抱き寄せながら、ケビンがノアに捲し立てた。
一昨日の放課後、ひと気のない第二魔術実験室でエリーゼが男子生徒と逢い引きしていた。そう、ケビンの知人が教えてくれたのだという。逢い引き相手の顔までは見えなかったが、婚約者が浮気しているのは間違いない、と。ケビンがエリーゼに問い詰めると、罪悪感から口を割った彼女は不貞の相手がノアだと白状したらしい。
野次馬のあいだでざわめきが広がっていく中、リディアは眉を顰めた。
一昨日の放課後といえば、まさにリディアが目撃した光景ではないか。あの日エリーゼが逢瀬を交わしていたのはノアではなく、リディアの婚約者殿だ。一体全体、何がどうしてこんな話になっているのか。
ノアが軽率に女性に手を出したりしないというリディアの個人的な考えを差し引いても――間違いなく濡れ衣だった。
だというのに、ノアは口を開かない。冷ややかな瞳でケビンと泣き暮れるエリーゼを見上げながら、押し黙っていた。
「貴様が強引に迫ったんだろう!? エリーゼ一人を悪者にして黙り込むとは、恥を知れ!」
物言わぬ彼に、ケビンの苛立ちは募る一方なのだろう。今にも殴りかかりそうな様子を見兼ねたリディアは、割って入った。
「ケビン様。この場はわたしが取り持ちます」
「無関係な侯爵令嬢が割って入るな」
「ノア・イアハートの後見人はわたしの父です。執り成す権利はあるはずです」
「ちっ、落ちこぼれが……。論だけは立派だな」
実家の身分を考えればケビンはリディアに敬意を払うべきなのだけれど。彼が軽んじるのは、学園でのリディアの成績が血筋とは裏腹に、取り立てて優秀なものではないからだ。実技も座学も並。どれだけ実家の爵位が高くとも、魔術師としての実力が伴わなければ侮られる。魔術師の卵が集う学園では仕方のないことだった。
口を挟めば嫌な想いをするとわかっていても、黙っていられなかった。
「話を聞いていましたが、誤解があるようです。あなたの婚約者が会っていたのは――」
「余計な口は挟まないでくれる? 侯爵令嬢」
先ほどまで固く口を閉ざしていたくせに。ようやく口を開いたかと思えば、よりにもよってノアがリディアの言を遮った。冴え冴えとした銀の瞳が鋭くリディアを見据える。
「ケビン・リットンの言う通りだよ。無関係なんだからしゃしゃり出てこないでくれる?」
「あなたねぇ~~」
だったら誤解を解く努力をしなさいよ、と幼馴染に食ってかかる前に。
「騒がしいぞ。格式ある学園の生徒でありながら、食事の作法を知らない者しかいないのか」
張りのある声がざわめきを静めた。野次馬を掻き分けてやって来たのはこの国の第二王子――ジークだった。空気が変わるような存在感は、流石は王族というべきか。ジークは宥めるようにケビンの肩に手を置いた。
「話は聞いていた。この場で騒ぎ立てるのは君の婚約者の名誉にも関わる。彼女を愛しているのなら、沈黙を貫くのが男というものじゃないか? 無理強いされたというのなら尚更だ」
「ですが、殿下!」
「君も知っているだろうが、ノア・イアハートは陛下のお気に入りだ。僕も腹立たしいが、才ある魔術師がしでかしたやんちゃは――大抵、なかったことになる。わかるだろう?」
ジークの発言に、リディアは眩暈がした。
アッシュベリーも名門ではあるが、ノアの魔術師としての才能は王国に革新をもたらすと囁かれるほど。彼が伯爵令嬢に手を出したなんて事実はないけれど、仮に事実であっても、伯爵家が訴えたところで国王が仲裁に入り、最終的にはなかったことになるだろう。子爵家ならもっと悲惨な末路を辿るかもしれない。
ケビンも分が悪いと悟ったのか、項垂れて食堂から出て行った。事態が収まると、生徒たちはひそひそと言葉を交わしながらも食事に戻る。彼ら彼女らは、不躾な視線をノアに送っていた。そこに浮かぶ軽蔑の色に、リディアはやりきれなくなる。
ジークが蒔いた種なのに。ケビンの誤解を利用して、素知らぬ顔でノアに濡れ衣を着せる言動を取ったジークに、リディアは失望を隠せなかった。
「ジーク様」
リディアの呼びかけに、紫苑の瞳がちらりと反応した。口元にふっ、と得意げな笑みを浮かべた後、彼はリディアを無視してノアを見やる。
「礼なら要らないぞ? 憐れな庶民の若気の至りに理解を示す程度の器なら、備えているからな」
「……」
事態を収拾させたことに感謝しろと言っているらしい。リディアが抗議する前に、ノアが口を開いた。
「……ジーク様にちょっと確認したいことがあるんですけど。二人きりで話しません?」
「ああ。ちょうどいい。僕もお前に言っておかなくてはならないことがあるからな」
ノアを毛嫌いしている彼がすんなり応じたものだから、リディアは驚く。ジークが先導する形で二人は食堂を出て行った。
伯爵令嬢の浮気相手がジークだと、ノアも知っている。王子に恩着せがましいことを言われたノアは、どんな心境でいるのか。気が気でなかった。
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