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第二章

第4話 完結しているそうです

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 肩をゆすられる感覚に、マリアヴェルはのろのろとまぶたを持ち上げた。ぼんやりとした視界が焦点を結ぶと、すまなさそうなアルフレッドの顔が目の前にある。状況がいまいちよく、わからない。

「起こしてごめんね。寝室まで運ぼうかとも思ったんだけど、ドレスのままだったから」

 体を起こしたマリアヴェルは、そこでようやく居間のソファで寝ていたことに気づく。

 確か、夕方近くにフローリアがやってきて。悶々とした想いを抱えながら一人で夕食をとって。その後、居間で考え事をしながらアルフレッドを待っていて――いつのまにか、眠ってしまったみたいだ。

 ソファの前に膝をつくアルフレッドの顔は、なんだか久しぶりに見るような気がしてしまう。

「おかえりなさい、お兄様」

 無性に甘えたくなって首に腕を回してぎゅっと抱きつくと、アルフレッドも優しく抱きしめ返してくれた。馴染んだ体温はホッとするもの。抱擁を解いて、自宅ですら眩い美貌を見上げる。

「パーティは楽しかった?」
「久しぶりに会う知人もいたし、それなりにね」

 答えながら、アルフレッドがこちらを凝視してくる。

「なあに?」
「なにかあった?」

 びっくりした。今の流れに気づける要素があっただろうか。

「どうしてわかるの?」
「顔に書いてあるから」
「そんなはずないわ」

 信憑性のない回答に、頬を膨らませる。クスリと笑んで立ち上がったアルフレッドは、マリアヴェルの隣に腰掛けた。

「マリィがこういう甘え方をするのは、気持ちがしょんぼりしている時だね。僕の可愛い妹は、どうして沈んでいるんだい?」

 首を傾げるアルフレッドの、慈しみに満ちた眼差し。もしフローリアと結婚したら、契約上の関係であってもこんな風に彼女を甘やかすのだろうか。

「……このままお兄様を屋敷に閉じ込めておけば、ずっとわたしだけのお兄様でいてくれるのかしら」
「そんなことしなくたって、僕の妹はマリィだけだよ?」
「もうっ! そういう意味じゃないわっ!」

 ちょっぴりズレた解釈は、今に始まったことじゃない。マリアヴェルの想いをまったくわかってくれなくて、だんだん腹が立ってくる。

 ――だいたい、お兄様がフローリア様との噂を他人事みたいに放っておくから、こんなことになるんだわ。

 アルフレッドの人脈を持ってすれば、フローリアに利用される前に対処できたはず。そう思うのは、マリアヴェルの身贔屓だろうか。

 はぁ、と嘆息し、困惑気味な紫苑の瞳を見上げた。

「……フローリア様は、お兄様との結婚を諦めていないわ」

 アルフレッドが目を瞠る。

「フローリア嬢と会ったのかい?」
「夕方頃に我が家にやって来て……何が何でもお兄様と結婚するって意思表示して、帰られたわ」

 事前の約束もなしに押しかけてくる非常識さも、美しい顔から放たれた失礼な言動も。思い出すだけでもやもやした。

「……へぇ」 

 アルフレッドの反応は薄かった。離婚を視野に入れた契約結婚とはいえ、あれほど美しい令嬢に渇望されているのだ。嬉しくない男性はいないだろう。アルフレッドだって悪い気はしていないのでは、と顔色を窺ってみる。何かを考えるように沈黙していた彼はふと、首を傾けた。

「……フローリア嬢は、今回も一人で我が家に?」
「ええ」
「直接会ってみたマリィの感想は?」
「悪女の中の悪女だったわ!」

 断言すると、アルフレッドが苦笑した。

「マリィが言うと謎の説得力があるね」
「フローリア様に比べれば、わたしなんて可愛いものだわ。どうしてお兄様がいいのか尋ねたら、お淑やかに笑って綺麗なお顔は好みです、なんて返してきたんだからっ」
「正直な子だね」

 クスクスと笑うアルフレッドに、眩暈がしてしまう。

「好意的に解釈し過ぎだわ」
「そうかい? 僕をよく知らないフローリア嬢からすれば、当たり障りのない回答だと思うけどな」
「もう! 面白がっていないで真剣に聞いてっ」

 このまま能天気に構えていたら、外堀が埋まってしまう。

「あの方、相当計算高くて強かなんだから! このままだと外堀が埋まってしまうわ」

 クッションをぺしぺし叩きながら、一生懸命、事態の深刻さを主張する。すると、アルフレッドの目の色が変わった。

「……ということは、記事はフローリア嬢の仕業か」

 呟きに、ピンときた。昨夜、記事を読んでアルフレッドが笑った理由はこれだ。

「お兄様、あの時に気づいていたのね?」
「流石にね」

 わかっていて、放置した。その事実にマリアヴェルは一気に不安になった。

 アルフレッドほど聡明な人が、フローリアがただ記事をでっち上げるだけで満足すると、楽観視しているのだろうか。そんなはずない。兄の真意がまったく読めなくて、マリアヴェルは眉を曇らせた。

「……化かし合いはお兄様の専売特許でしょうけど、油断していたら足をすくわれることだってあるかもしれないわ」
「それはそれで、経験してみたくはあるな」

 目を伏せたアルフレッドの口許に浮かんだ笑みに気づけば、不安はますます膨らむ。

 目の前のアルフレッドは、明らかにフローリアの策謀を面白がっている。このままフローリアの思惑通りに事が進んだら。アルフレッドはそれすらも面白がって、フローリアと契約結婚するのだろうか。

 あり得る、と思った。

 アルフレッドには駆け引きを楽しむ傾向がある。先を見通す力に長けている義兄は、心のどこかで自分が裏をかかれるのを望んでいる節があるのだ。今し方、経験してみたくはある、と答えたように。

「お兄様、フローリア様と婚約するの……?」

 不安は、いつのまにか言葉として漏れてしまっていた。自分でもびっくりするくらい、悲嘆に暮れた声。アルフレッドが意外そうな顔になる。どうしてそんな表情をするのだろう。フローリアの策略を楽しそうに受け止めているのは、アルフレッドじゃないか。

 フローリアは、アルフレッドの心は要らないと言った。契約結婚だから、そのまま兄君を独占すればいい、と。でもマリアヴェルは、そんなの嫌だ。政略結婚が当たり前の世界だとしても、アルフレッドには、きちんと彼を愛してくれる誰かと結ばれて欲しい。そうじゃないと納得できない。だって、こんなにもアルフレッドのことが大好きなマリアヴェルから、彼を奪っていくのに。マリアヴェルが欲しくて欲しくて堪らないものを要らない、なんて言う人が。アルフレッドの伴侶として隣に並ぶ光景なんて見たくない。

 そっと伸びてきた手が、あやすように頭を撫でてくる。男性にしては華奢で繊細な手のひらは、今はマリアヴェルだけのものだ。それがいつか、こんな風にフローリアにも触れるかもしれないなんて、想像するだけで苦しい。

 表情を引き締めたアルフレッドが、はっきりと首を横に振った。

「しないよ。僕がマリィとの約束を破るはずないだろう? フローリア嬢との縁談は断った。この話はこれで完結しているよ」
「……お兄様の中では完結しているから、フローリア様の好きにさせておくの?」
「噂はただの噂だからね。放っておいたところで、不味い事態に発展するわけでもないし――」
「発展するわ。フローリア様は記事が真実だって、ご両親に打ち明ける気でいるんだものっ」

 怪訝な面持ちのアルフレッドには、意味が正しく伝わっていなさそうだった。いつもは打てば響くのに、どうしてフローリアの件では鈍いのか。焦《じれ》ったく思いながら、戸惑いで揺れる紫苑の瞳を覗き込む。

「お兄様の目から見て、公爵のお人柄は娘の言葉を信じてお兄様に責任を取らせようとする方か、お兄様の誠実さを信じて娘の言葉を空想と取る方か、どちら?」
「――えぇと、ちょっと待って」

 頭痛を堪えるように額に手を当てたアルフレッドは、困惑顔でマリアヴェルを見下ろした。

「フローリア嬢が、君にそう言ったのかい?」
 
 はっきり頷くと、アルフレッドはあからさまに眉をひそめた。

「具体的に、フローリア嬢と交わした会話の内容を教えてくれるかい?」

 フローリアの思惑を、彼女が語った言葉通りに伝える。マリアヴェルが話し終えても、アルフレッドは無言だった。何の反応もくれないことがもどかしくて仕方ない。

「フローリア様は、公爵夫妻に信じ込ませる自信がありそうだったわ」

 だから楽観視するのはよくない、と伝えようとして――アルフレッドの目を見たマリアヴェルは、口をつぐんだ。紫苑の瞳は恐ろしいほどに真剣で、深い色を湛えている。こういう時のアルフレッドの思考を遮るのは、無粋だ。

 暫しの沈黙のあと、

「……なるほどね」

 腑に落ちたという顔でアルフレッドが呟く。それから彼は、そっとまぶたを伏せた。何かを悩むように黙っていたかと思うと、はぁ、とため息を吐き出して。

「そういうことなら、話しておこうかな」 

 目が合った時には、アルフレッドはいつも通りの柔和な笑みを浮かべていた。

「僕の意見は変わらないよ。フローリア嬢の提案を、僕は断った。この話はこれで完結しているんだ。僕にその気がない以上、フローリア嬢が何をどうしたって話が進むことはない。あの記事だって、噂以上の効力はもたせられないよ。フローリア嬢の見通しは……少々甘い」
「見通しが甘い?」

 公爵夫妻から娘を弄んだと非難されたら、アルフレッドの分が悪いのはその通りだと思うのだけれど。

「本当は他言してはいけないんだけど。状況が状況だし、マリィだから話すんだよ?」

 内緒だよ、と唇の前で人差し指を立て、

「確かに、公爵家からしてもアッシュフォードとの縁談は望むところだろうね。夫妻は娘の証言の真偽を問わず、噂に乗るかもしれない。でも、僕がその気にならないと話は進まない。公爵の影響力は強いけど、アッシュフォード相手ではそうもいかないんだ。僕を非難して縁談を強硬しようとすれば、よくて共倒れ、僕が上手く立ち回れば公爵家だけが破滅かな。シュタットノインは、アッシュフォードに弱みがあるから」
「弱み?」
「もう三十年近く前になるのかな? 当時のシュタットノイン公爵が、母上に泣きついたのは」

 アルフレッドが紐解き始めた昔語りに、マリアヴェルは目を丸くした。
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