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第一章
第7話 気が気でない時間
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アッシュフォード邸に帰宅し、五日ぶりにアルフレッドと顔を合わせても、マリアヴェルの気分は沈んだままだった。
いつデニスとの縁談話がアルフレッドの耳に入ってしまうかと、気が気でない。リナーダが考え直し、話が流れてくれれば憂いは晴れるのに――。
「マリィ?」
テーブル越しにかかった兄の声に、我に返る。
「口に合わなかったかい?」
眩いばかりの美貌は、不安そうに曇っていた。
アルフレッドがお土産に買ってきてくれたのは、ダズリー地方で採れたラズベリーをふんだんに使用したケーキだった。生地はふわふわで、生クリームはまろやか。生地にたっぷりと塗られた甘酸っぱいラズベリージャムは、絶品だ。
「お兄様の選んだケーキがハズレだなんてこと、あるはずないわ。とっても美味しい」
ケーキを一欠片口に入れ、にっこりと微笑む。しかし、アルフレッドの表情が晴れることはなかった。端正な面差しは、ますます曇りを帯びた。
「僕が帰宅してからずっと上の空だけど……。僕がいない方が伸び伸び過ごせた?」
「やだ、そんなわけないわっ!」
即座に否定すると、紫苑の瞳が細まった。
「じゃあ……そうだな。デニス・オートレッドに何かされた、とか?」
ぎくりと肩を揺らしたマリアヴェルは、慌てて平静を装う。
「どうしてデニスが出てくるの?」
「昔から会うたびに意地悪されるってこぼしていただろう? 今度も何かあったのかなって」
義兄の鋭さには感嘆するばかりだ。今回の件を相談するかしばらく葛藤していたマリアヴェルは、長考の末に口をつぐむことに決めた。
アルフレッドがマリアヴェルを疑うはずないが、デニスとの婚約はアッシュフォード家にとって良縁だ。自ら藪をつつく必要なんてない。
「なんでもないわ。ちょっと、憂鬱なことはあったけど……問題ないもの」
にっこり微笑めば、アルフレッドはそれ以上何も言ってはこなかった。
大丈夫。仮にデニスと婚約することになっても、結婚できる年齢になるまで一年の猶予がある。それまでに彼との婚約を解消すればいいだけ。
幸い、デニスはマリアヴェルを嫌っている。利害が一致しているのだから、婚約を解消するのはそう難しいことでもない。この時のマリアヴェルは、そう思っていた。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
オートレッド一家が屋敷を訪ねてきたのは、翌日のことだった。
約束のない突発的な訪問なんて、用件は容易に想像できる。執事に案内されて客間に入ってきたオートレッド夫人は、ソファに座るとたおやかに笑んだ。
「不躾な訪問でごめんなさいね。わたくしったら、あまりにも嬉しくて」
「不躾だなんて。嬉しいサプライズですよ」
対面したアルフレッドは、人懐っこい笑みでそう応じた。嬉しそうに笑みを深めた夫人が、隣に座る娘を視線で示す。
「リナーダから、マリアヴェルがデニスとの婚姻を望んでくれていると聞いたのよ。本当なら、ぜひ話を進めなくてはと思って」
「マリィがデニス殿と? 本当なのかい?」
「事実よね? マリアヴェル?」
差し込まれたリナーダの声は、マリアヴェルの逃げ道を塞ぐ。驚愕で瞠られたアルフレッドの瞳。ツキリと胸が痛んだ。彼の前で他の男性を想っているだなんて、口にしたくない。
せめてもの抵抗で、
「でも、わたしとの婚約はデニスの名誉を傷つけてしまうかも――」
「あら。こんなにも可愛らしくて、由緒ある侯爵家のお嬢さんを娶れるんですもの。見る目のない者たちの声なんて気にならないわ」
そこは気にして欲しい、と切実に思った。
どうにかしてデニスとの縁談を回避する手立てはないものか。必死に思考を伸ばそうとするも、キラキラした夫人の瞳を前にすれば、頭が回らなくなってしまう。こんなにも喜んでいる夫人に真実を語れるはずがなかった。
黙りこくっているマリアヴェルをじっと見つめていたアルフレッドが、そっと口を挟んだ。
「夫人。お恥ずかしい話なのですが、この件に関して僕は何も知らないのです。婚約は義妹の未来に関わる繊細な問題です。縁談のお返事は、日を改めても構わないでしょうか?」
「まぁ、わたくしったら。素敵なお話に気が逸ってしまって。お許しくださいね」
「マリィの評判はあの通りですから。有り難いお話ですよ」
アルフレッドの返事に絶望する。やはり義兄は縁談に乗り気なのだ。夫人から視線を逸らしたアルフレッドは、神妙な面持ちでマリアヴェルを見た。
「マリィ。せっかくだから、夫人と一緒に庭園を散歩してきたらどうだい?」
「え?」
脈絡のない言葉の意味を図りかね、マリアヴェルは戸惑う。
「オートレッド夫人。お嬢さん方と三人だけで話をさせてもらえないでしょうか? マリィが打ち明けた内容を詳しく聞きたいのです」
「もちろん構わないわ。マリアヴェル、一緒にお散歩しましょう?」
リナーダが何を語るか、不安しかない。
「待って、お兄様。わたしも――」
「マリィ」
柔らかくも鋭い声。
この場に残りたいという訴えを、アルフレッドは許してくれなかった。綺麗な顔に浮かぶ笑顔には、滅多にない圧がある。こういう時の兄に逆らってはいけないことを、マリアヴェルはよく知っていた。
素直に引き下がるしかなく、気が気でない想いを抱えながら、マリアヴェルは席を外した。
いつデニスとの縁談話がアルフレッドの耳に入ってしまうかと、気が気でない。リナーダが考え直し、話が流れてくれれば憂いは晴れるのに――。
「マリィ?」
テーブル越しにかかった兄の声に、我に返る。
「口に合わなかったかい?」
眩いばかりの美貌は、不安そうに曇っていた。
アルフレッドがお土産に買ってきてくれたのは、ダズリー地方で採れたラズベリーをふんだんに使用したケーキだった。生地はふわふわで、生クリームはまろやか。生地にたっぷりと塗られた甘酸っぱいラズベリージャムは、絶品だ。
「お兄様の選んだケーキがハズレだなんてこと、あるはずないわ。とっても美味しい」
ケーキを一欠片口に入れ、にっこりと微笑む。しかし、アルフレッドの表情が晴れることはなかった。端正な面差しは、ますます曇りを帯びた。
「僕が帰宅してからずっと上の空だけど……。僕がいない方が伸び伸び過ごせた?」
「やだ、そんなわけないわっ!」
即座に否定すると、紫苑の瞳が細まった。
「じゃあ……そうだな。デニス・オートレッドに何かされた、とか?」
ぎくりと肩を揺らしたマリアヴェルは、慌てて平静を装う。
「どうしてデニスが出てくるの?」
「昔から会うたびに意地悪されるってこぼしていただろう? 今度も何かあったのかなって」
義兄の鋭さには感嘆するばかりだ。今回の件を相談するかしばらく葛藤していたマリアヴェルは、長考の末に口をつぐむことに決めた。
アルフレッドがマリアヴェルを疑うはずないが、デニスとの婚約はアッシュフォード家にとって良縁だ。自ら藪をつつく必要なんてない。
「なんでもないわ。ちょっと、憂鬱なことはあったけど……問題ないもの」
にっこり微笑めば、アルフレッドはそれ以上何も言ってはこなかった。
大丈夫。仮にデニスと婚約することになっても、結婚できる年齢になるまで一年の猶予がある。それまでに彼との婚約を解消すればいいだけ。
幸い、デニスはマリアヴェルを嫌っている。利害が一致しているのだから、婚約を解消するのはそう難しいことでもない。この時のマリアヴェルは、そう思っていた。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
オートレッド一家が屋敷を訪ねてきたのは、翌日のことだった。
約束のない突発的な訪問なんて、用件は容易に想像できる。執事に案内されて客間に入ってきたオートレッド夫人は、ソファに座るとたおやかに笑んだ。
「不躾な訪問でごめんなさいね。わたくしったら、あまりにも嬉しくて」
「不躾だなんて。嬉しいサプライズですよ」
対面したアルフレッドは、人懐っこい笑みでそう応じた。嬉しそうに笑みを深めた夫人が、隣に座る娘を視線で示す。
「リナーダから、マリアヴェルがデニスとの婚姻を望んでくれていると聞いたのよ。本当なら、ぜひ話を進めなくてはと思って」
「マリィがデニス殿と? 本当なのかい?」
「事実よね? マリアヴェル?」
差し込まれたリナーダの声は、マリアヴェルの逃げ道を塞ぐ。驚愕で瞠られたアルフレッドの瞳。ツキリと胸が痛んだ。彼の前で他の男性を想っているだなんて、口にしたくない。
せめてもの抵抗で、
「でも、わたしとの婚約はデニスの名誉を傷つけてしまうかも――」
「あら。こんなにも可愛らしくて、由緒ある侯爵家のお嬢さんを娶れるんですもの。見る目のない者たちの声なんて気にならないわ」
そこは気にして欲しい、と切実に思った。
どうにかしてデニスとの縁談を回避する手立てはないものか。必死に思考を伸ばそうとするも、キラキラした夫人の瞳を前にすれば、頭が回らなくなってしまう。こんなにも喜んでいる夫人に真実を語れるはずがなかった。
黙りこくっているマリアヴェルをじっと見つめていたアルフレッドが、そっと口を挟んだ。
「夫人。お恥ずかしい話なのですが、この件に関して僕は何も知らないのです。婚約は義妹の未来に関わる繊細な問題です。縁談のお返事は、日を改めても構わないでしょうか?」
「まぁ、わたくしったら。素敵なお話に気が逸ってしまって。お許しくださいね」
「マリィの評判はあの通りですから。有り難いお話ですよ」
アルフレッドの返事に絶望する。やはり義兄は縁談に乗り気なのだ。夫人から視線を逸らしたアルフレッドは、神妙な面持ちでマリアヴェルを見た。
「マリィ。せっかくだから、夫人と一緒に庭園を散歩してきたらどうだい?」
「え?」
脈絡のない言葉の意味を図りかね、マリアヴェルは戸惑う。
「オートレッド夫人。お嬢さん方と三人だけで話をさせてもらえないでしょうか? マリィが打ち明けた内容を詳しく聞きたいのです」
「もちろん構わないわ。マリアヴェル、一緒にお散歩しましょう?」
リナーダが何を語るか、不安しかない。
「待って、お兄様。わたしも――」
「マリィ」
柔らかくも鋭い声。
この場に残りたいという訴えを、アルフレッドは許してくれなかった。綺麗な顔に浮かぶ笑顔には、滅多にない圧がある。こういう時の兄に逆らってはいけないことを、マリアヴェルはよく知っていた。
素直に引き下がるしかなく、気が気でない想いを抱えながら、マリアヴェルは席を外した。
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