眠れない夜に

Gardenia

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第1章

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疲れた土曜日を過ごし、日曜日はぐったりと何もする気が起きない真理亜であったが、

月曜日には勤め人の習性でいつもの時間に目覚め、会社に出勤した。

決算期は終わったはいえ、今週いっぱいは残務がある。

それが終われば、通常業務の合間に各部所の新人達が作成する書類の不備を
その都度指摘し指導していかなければならなかった。

4月はこの対応が一番面倒なのだ。


気を引き締めて取り組んだ一週間も終わり、真理亜が一番楽しみにしている金曜日となった。

先週の失敗を忘れずに、今夜はいつものように早めに Angel eyes に行くことにした。

ところが決算書の最終締切日ということもあり、定時に終われなかった真理亜は1時間半ほど残業して慌ててエレベーターに乗った。

今日はヨガ教室は行かずに軽く食べてから行こうと考えていると、「これから行くのか?」という声がした。

エレベーターに田所が乗り合わせていたのだ。

先客が居るとは思っていたが、ややうつむき加減でエレベーターに乗った真理亜は
顔までは確認しなかったのだ。

「あ、お疲れさまです。・・・はい」と返事をしたものの、田所は僅かに顎を動かしただけで何も言わない。

気のせいだと思いたかったが、田所は真理亜をじっと見ているようだった。

気詰まりなままエレベーターは途中の階で止まった。

「気をつけていけよ」と言い残して田所がエレベーターを降りる。

「・・・はい、ありがとうございます」と真理亜が言い終わった頃はエレベーターの扉はすでに閉まっていた。


会社のビルを出て、途中で何か食べればいいかととりあえず Angel eyes の方向に歩き始めた真理亜は、ふと立ち止まって振り返り本社ビルを仰ぎ見た。

田所は確か人事部だった。3月ほどではないかもしれないけど、今月もまだまだ人事部は忙しいだろうなと思う。

先週、タクシーを捕まえてくれた時の田所を思い出した。

Angel Eyesのカウンターでカクテルを飲んでいた姿を思い出した。

印象の強い人であった。

それ以上は考えないようにして真理亜は歩き出した。


その夜、真理亜が Angel Eyes の扉を開けた頃には、店はお客が入り始めた時間帯だった。

カウンターの隅に座り、とりあえず水割りを頼んでから携帯を取り出した。

譲二は次から次へと入るオーダーに忙しく、真理亜には話しかけてこない。

一人でカウンターに座っていても、メールチェックをしていれば間が気にならなかった。

「次、何にします?」

いつの間にか譲二が真理亜の前に来ていた。

真理亜が譲二に顔を向けたところで、真理亜の返事を待たずに、「モルト飲んでみる?」と譲二が聞いた。

「私、あまりウイスキーはわからないので譲二さんのお薦めでいいですよ」

「前回も言ったけど、シングルモルトの良いのが入ってね、ちょっと試してもらいたいんだ」

そう言って、ワイングラスを小さくしたような足つきのグラスを2つ、真理亜の前に並べた。

琥珀色のウイスキーをほんの少量グラスに注ぐ。

「このまま飲んでみて?強かったら舐めるくらいでいいから」

おそるおそる真理亜がグラスを口に近づける。

少し匂いを嗅いで、眉間に皺が寄った。

譲二がじっと見ているので、思い切ってそのまま液体を口に含む。

むせ返るような香りと舌を刺激するウイスキーを真理亜は慌てて飲み込んだ。

「これ、かなり強いですね。喉を通るのが苦しい・・・」

「後口はどうだい?」

「一時的にぎゅってきた後は、少し甘くて芳香がかなり広がる・・・」

「うん。じゃ、これはどうかな?」

譲二はそう言って同じウイスキーをもう1つのグラスに注ぎ、その上からボトルに入った水を加えた。

そうして、クラスの足を指で持って、くるくると器用に回す。

中の液体もくるくる回って、見えない香りが渦巻くようだった。

それが終わると真理亜の前にグラスをスライドさせた。

譲二が微笑みながらひとつ頷く。

真理亜はひそかに譲二のこの微笑を『天使の微笑み』と名づけていたが、これに嫌と言える女性は居ないだろうと思っている。

たとえこのグラスに毒入りのウイスキーが入っていても、嫌とは言えないと思わせる微笑だ。

真理亜は苦笑したくなるのを我慢して、グラスを手に取った。

先ほどと同じようにまず匂いを確認する。

氷を入れてないこともあって、ふわっと浮き立つような香りがした。

口に含むと、先ほどよりも刺激が少ない。

喉越しもまろやかで、余韻は同じように長くいつまでも続いた。

「あぁ、断然飲みやすいです。それに、美味しい・・・・」

ぽつんと呟いた真理亜の言葉に、譲二は嬉しそうな口調で「じゃ、それを二杯目として飲んでてね」

「はい」

「シングルモルトってわかる?」

「言葉くらいはわかりますよ~」

「じゃ、時間のあるときに検索して勉強しておいてね」

「はーい、先生」

「良い子だ」

譲二はウインクをしてまたカクテル作りに戻っていった。

サブバーテンダーが別のグラスに水を入れて持ってきてくれる。

「そのウイスキーに加えた水は、スコットランドの水なんですよ」と教えてくれた。

譲二さんらしいこだわりだと思いながら、ゆっくりとグラスを口に運ぶ。

常温でウイスキーを飲んだことがなかったが、これほど豊かに味と香りを楽しめるならこれからは氷はいらないと真理亜は思った。


他のスタッフも時々声をかけてくれて楽しく話してはいたが、真理亜は先ほど譲二が言った「良い子だ」という言葉が頭から離れなかった。

何度聞いたであろうか。

「良い子だ」と言われたことが嬉しかった時期もあった。

そしてひたすら良い子になろうとしたのに・・・・。

記憶の中の声は、譲二の声よりもう少し高くて、声にそれほど甘みがなかったことを思い出す。

それは、『良い思い出』と『悪い思い出』のどちらに属するかといえば、あきらかに後者だった。


グラスが空になったら譲二が目ざとく真理亜の前に立つ。

「実はほんとうに飲んでもらいたいのはこれなんだ」

先ほどとは違うボトルを出してきた。緑がかったボトルだった。

注いですっと真理亜の目の前に置かれたグラスを手にとって、光にかざしてみた。

蛍光灯ではないオレンジがかった優しい色の照明が、さらにウイスキーを美味しく見せていた。

「きれい・・・」

真理亜が無意識に呟くと、「意識が肯定的だから、きっと真理亜ちゃんはモルトが好きになるよ」と譲二が言った。

「さっきのも美味しかったもの。もうとっくに好きになってるよ」

笑いながら真理亜がウイスキーを口に含む。

ストレートなのでかなり強い味だが、先ほどのとは香りが決定的に違った。

飲んだ後口も強すぎて真理亜は口を開くことができない。

「少しずつゆっくり飲むお酒なんだ」

「はい、わかりました。お言葉に甘えてゆっくり飲むので、邪魔になったら追い出してね」

「はいはい。絡みだしたら蹴り出すよ?」

「酷いなぁ。酔うために来てるのに」

「酔い方が大事なんだ、特にレディーは」

「じゃ、蹴り出されないように酔っ払います」

「そうそう、それでお願いしますよ」

それからは譲二は真理亜の前に居て、スコッチウイスキーについて話始めた。


真理亜のグラスが空になったので、「もう一杯どう?」と勧めてくれたが、真理亜はお会計を頼んだ。

支払いを終えた真理亜のために、店のスタッフが扉に手を伸ばしたところで、扉を押して入ってきたお客が居た。

「おっと、失礼」

記憶にある声に真理亜が視線を上げると、田所が立っていた。

「帰るのか?」

「あ、はい」

「じゃ、タクシーを捕まえよう」

「いえ・・・・」

と断ろうとした真理亜の言葉を無視して、「すぐに戻るから1席取っておいて」とスタッフに声をかけた田所は、真理亜のために扉を押さえている。

入り口を塞ぐのも気が引けて、「ありがとうございます」と会釈をしながら真理亜は外に出た。

何もいわずに道を横断しようとする方向に歩き始めた田所の背中に、真理亜は声をかけた。

「あの、今日はこちら側から乗るんです」

「ん? 家に帰るんじゃないのか」

「はい」

体の向きを変え、真理亜と向き合った田所はそれ以上なにも言わずにじっと真理亜を見た。

ほんのりと頬を染め、潤んだような濃い茶色の瞳、いつも会社で見かけるひっ詰めた髪。

確か先週はこの髪を下ろしていた。

3歩ほど真理亜のほうに近づく。

田所はそれほど背が高いというわけでもないが、真理亜を見下ろすことになった。

小さくて、華奢な首をもつ小動物のようだと真理亜のことを見ていた。


真理亜のほうは近づいてきた田所の存在感に緊張を覚えた。

先日も同じ匂いがした。少しスパイシーな香り。

辛いうのではなく、何かのスパイス、セージのような匂いがした。

背は特別に高くない、おそらく175~6cmなのに骨格がしっかりしているのか、
スーツの胸のあたりの厚みはかなりあった。

田所の手をみると格闘技でもやっているのか指の関節が太く、無骨な感じがした。


その手がふっと動いた。

うつむき加減になっていた真理亜の顎に田所の指がかかる。

「何を飲んだんだ?」

「ウイスキーを・・・モルトです」

田所は人差し指を真理亜の顎にかけたまま、頬の上で親指を1度だけそっと動かした。

「そんな目で男をみたら危険だ。気をつけるんだぞ」

そう言ったあと真理亜が何も言わずにいると、ゆっくりと手をはずして背中を向け、通りに出てタクシーを止めた。

前回と同じように真理亜がちゃんと座席に座るまで、ドアに手を置いていたが、
何も言わずに後ろに下がってドアが閉まると、タクシーが動くのを待たずに Angel Eyes のほうに歩いて行った。




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