稀代の魔法使いと魔法が使えない唯一の弟子~引きこもり魔法使いが術を失敗して~

笠岡もこ/もこも

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― 引き篭り師弟の日常 ―

引き篭り師弟と、師匠の親友1

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 立ち並ぶ水晶の樹。その一本にもたれ掛かっている体が、大げさに震える。霧が立ち込めていて、ひんやりしている。

「長い時間、ここいるは、まだ無理かな。あとちょっとしたら、もう少し、奥で、待とう」

 でも今のは、気候とは別要因から。結界の境界辺りは、肌がぴりっとする。

「一年たって、ちょっとは、平気なってる、思ったのにな」

 自分が、この場所では異質な存在なのだと自覚させられる一瞬だ。
 このメメント・モリと呼ばれる師匠が結界を張っている範囲でだけは、世界で一番澄んだ魔力しかないため生きていける。私の魂に師匠の魔法が絡んで、存在固定されているのが理由らしい。

「私、ししょーの魔力で、生かされてる状態、実感する」

 胸元のネックレスを掴むと、絡み合った感情が解けていく。
 私の存在固定のための魔法道具なんだけど、師匠から初めて貰ったアクセサリーでもある。加工なんて一切ない、原石のままの不恰好な形。
 それでも、師匠の瞳と同じアイスブルー色が、とても綺麗だ。

「はっ! 見とれてる、ないよ! 私、とんでもなく、にやけていた、自覚ある。よく、わからないけど」

 ぶんぶんと大きく頭を振り、熱を吹き飛ばしてやる。
 ついで、ポケットから取り出した懐中時計を凝視だ。ピンクゴールドの蓋を開けた先にあった針は、お昼過ぎを指していた。約束の時間の五分前だ。

「歯車の音、静かな森で、いっそう、心地よく、聞こえる」

 外界と結界の堺付近なので、澄んだ空気が大好きな動物や精霊さんたちはいない。歩いてきた道も、大人二人がようやく並んで歩けるほどの幅しかない。
 森と境界の壁のように並んでいる樹の間から、身を乗り出すと。

「センさん、いらっしゃい!」

 ナイスタイミングで現れた人物。笑顔で駆け寄ってしまう。駆け寄ると言っても、私が動ける範囲は、壁になっている樹から境界線までの数歩だけど。

「アニム?」

 視線があったセンの薄桜色の瞳が、わずかに見開いた。
 境界に私が一人で訪れているのが理由だろう。センさんも師匠に勝るとも劣らず心配性なんだ。

「やぁ、アニム。元気そうで何よりだね」

 ぶぉんと、耳に痛い振動音を発した魔法陣の壁。センさんが内側に入ってくる間、魔法陣は大きく波を起こしていた。センさんが完全にこちら側へ入ると、綺麗な形に戻っていく。
 煌めいていた色は、もう透明だ。結界の向こう側が、深い碧色の大きな川に取り囲まれているのもあって、とても神秘的な光景。

「はい! 会えて、良かったです。センさん、いつも、ここから来る、聞いてたので、お迎えです」
「ありがとう。体は冷えていないかい?」

 柔和な笑顔で魔方陣の壁を通り抜けてきた紳士なセンさん。静かで気遣う口調に、ほっこり。
 頭を撫でてくださる仕草にあわせて、純白のマントがふわりと広がる。

「はい! 私、健康、取り柄です」
「アニムが元気なのは嬉しいけれど。髪がひんやりとしているよ?」

 顔を覗き込んできたセンさんは、わずかに眉間に皺を寄せている。距離の近さにも、さらっと流れた薄紫の長い髪にも鼓動が跳ねてしまう。肩まである長い前髪のせいか、端整な顔立ちがはっきりと映りこんじゃうんだ。
 センさんてば、一言で表現するなら、まさに王子様がしっくりくる美形さん。どきどきするのは仕方がない。

「水晶の森、ひんやりは、心地よいので!」

 一年経っても、未だにどきどきしてしまう自分を誤魔化すように、つい大きくなる声。
 えへんと胸を張った私に呆れるのでもなく。センさんはふわりと目元を綻ばせてくれた。師匠なら間違いなく、うっせぇって頬を引っ張ってくるな。

「水晶の森は最もウィータの魔力が濃く満ちていて、なおかつ澄んだ場所だからね。ウィータの魔力を、魂と全身に巡らせているアニムには、最高の居場所なのだろうね」

 えと。センさん。口元に指を当てて、くすくすと笑わないでくださいませ。
 センさんの言い回しに、無性に恥ずかしくなってしまったのはなぜだろうか。

「おっしゃる通り、です。でも、よく、わかんないけど、むずむずです」
「それは、良い傾向だね」
「むずむずが、です?」

 動揺する私に返事はくれない。センさんは、地面に置いた大きな袋を漁り出した。
 師匠は、私の疑問に「うっせぇ」や「あほアニム」なり何かしらの返事をくれる。一方、センさんは突然会話を終わらせるのが通常運転。私も慣れっこだ。

「約束していた、僕の奥さんお手製のお菓子と、それにあう紅茶だよ」

 持ち上げられたのは、可愛い花柄の包み。ふわりと漂ってきた甘い香りに、頬が落ちそうだ。
 チョコレートの焼き菓子の匂いに、心が踊る。紅茶は桃ベースかな。これ、前にもいただいたけれど、とろんとした微糖で大好き。
 空気が綺麗な水晶の森に引き篭っていたら、いつの間にか嗅覚きゅうかくが動物的になってきちゃったんだよね。食べ物オンリーに。

「とっても、おいしそうな、香りです! センさん、奥さん、ありがとですよ!」

 センさんの奥さんであるディーバさん。体調が思わしくないらしくて、未だにお会いしたことはないんだけど、いつもレシピやお菓子をくれるのだ。
 センさんの奥さんを交えて、幼馴染《おさななじみ》っぽいのだと聞いた覚えがある。

「ディーバさん、いつもありがとです、伝えてください。フィーネとフィーニス、大喜びです」

 ぎゅっと。お菓子がつぶれない程度に抱きしめると、どうしてか胸が締め付けられた。
 おかしいな、私。前は、引き篭りの師匠に幼馴染がいた! って驚くだけだったのに、ちょっと……うらやましいなとか思っている。師匠はあまり自分の過去について話してくれないから。

「アニムにも早く僕の愛妻《あいさい》を紹介したいな。あ、家までは僕が持っていくから……」

 センさんは、人をよく見ていらっしゃる方だ。私の中に沸いて出た感情にも、敏感に反応する。
 すっと伸ばされる手に、気を遣わせちゃいけないと笑顔を浮かべる。
 師匠も敏感だけど、気遣うんじゃなくってずけずけ言ってくるタイプなんだよね。

「大丈夫、です。センさん、今回、泊まり込み、作業しに来られた、知ってます。荷物いっぱい。私、力持ち。それに、お菓子の香り、幸せ」
「アニムに喜んで貰えるなら、嬉しいな。お菓子の方が主じゃないと、もっと幸せなんだけどね」
「うん! じゃない、はい。どっちも、ですよ! フィーネとフィーニスも、うきうき、してます! フィーニスはね、ディーバさんのレシピ、一緒見るの、好きです。フィーネは、一緒に、作るの!」

 笑顔で頷くと、センさんの目元が綻んだ。うぅ。気恥ずかしい。
 私、元の世界では長女なうえ、弟と妹とは年が離れていた。だから、慣れないんだよね。年長者から向けられる、見守られている視線に。

「それなら、良かった。アニムと子猫たちが作ってくれるお菓子は、僕の楽しみのひとつでもあるしね」
「センさん、喜んで貰える、私、幸せです」

 センさんの外見は二十半ば。実年齢は私の師匠と良い勝負なのだ。いわゆる、不老不死さん。人を見た目で判断してはいけません。けど、やはり自分より年上風だと素直になっちゃうよね。
 うちの師匠の場合、外見よりも口の悪さが問題かもしれないけれど。

「それに、ウィータがにやけながら愚痴っていたよ? アニムの料理は美味し過ぎて、ついつい食べ過ぎてしまうって」
「しっししょーが、ですか⁉ たっ確かに、ししょー、前は全然、ご飯食べなかった、です。魔力あれば、そこそこ、生きていけるから」
「うん。僕の奥さんもすごく驚いていたよ」

 センさんがかもし出す柔らかい空気に、ついつい早足になっていく。
 長身なセンさんは、なんなくついて来てくださる。それがまたくすぐったい。
 そういえば、師匠の場合は、半歩後ろから背中を眺めているのが多いかも。
 決してたくましくはないのに、大きく感じられる背中。手を伸ばせばすぐに触れられる。でも、そうしちゃいけないみたいな……。
 なんでだろう。ちょっと寂しい。

「ししょーも、たまには、センさんみたい、優しく、笑ってくれれば、いいのにな」

 師匠は、優しくない訳じゃない。遠まわしながらにも、甘やかしてくれているのは重々承知している。
 でもね。遠まわしなんだよね。触れてくるのも手袋越しだし。

「僕、みたいにかい? ウィータがアニムを見つめる視線の色には、だれも適わないと思うけれど」

 はて。適わないとは。首を傾げてしまう。
 センさんは、私の思考なんてお見通しのようだ。うーんと唸った私に、上品な笑いを零した。

「僕としては、今の状況がとても楽しいし、安心出来るよ」

 横を歩くセンさんが、目を細めた。隣にいるはずのセンさんの視線は、ただ真っ直ぐ前に向けられている。
 ふとした瞬間に、師匠が見せる色と一緒だ。私には知りえない世界――壁がある感覚。

「苦しい、な」
「うん?」
「あ、ごめんです。なんでも、ないのです」

 慌てて頭を振れば、センさんは「そうかい?」と小さく笑った。それ以上は踏み込んでこない。それがセンさんだ。師匠は間違いなく頭を掴んで問い詰めてくる。
 師匠も黙っていれば整った顔をしているけど、センさんは何をしていても飛びっきりの美人さん。
 ぼうっと見とれていると、センさんの掌が目の前に翳かざされた。女性顔負けに繊細な指だ。

「そうだ、アニム。君は魔法に耐性がないのだからね。ウィータからお許しが出るまでは、境界付近になるべく近づかないのが良いよ。今日も見た瞬間、肝が冷えたよ」
「でも、少し離れてる、大丈夫。肌、ぴりぴりするけど、静電気みたい」

 魔法陣には絶対触れるなという師匠の忠告は、きちんと守っている。厳密に言うと、魔法陣に触れるなではなく、外界に近づくなっていう意味合いだ。
 どっちにしろ、外に出られないのには変わりない。

「冒険心は、フィーニスとフィーネ、担当です。自分、対する、作戦指示、常に『命を大事に!』です」
「ウィータは、アニムが好奇心旺盛こうきしんおうせいだってぼやいていたよ? 家の外に出ると、ひやひやして目が離せないって」

 悪戯めいた声色のセンさんは、小さく肩を揺らしている。
 うぅ。だって、この世界のことちょっとでも多く知って、自分に出来ることを増やしたいんだもん。危険な行動はとっていない、はず。

「この水晶の森は、ウィータが長年掛かって作り上げた特殊な空間だからね。この世界の人間でも見慣れない景色や物に溢れているから、アニムがもっとなのは、理解出来るけれど」

 ふと。センさんの歩みが止まった。
 道横に飛び出ている水晶の葉をちぎり、私に向けてきた。

「それに結界自体、世界で一番上質で綺麗な魔力が溢れている。澄んでいるとも言えるね。だから、この世界の普通の人間には、逆に強すぎて心身共に辛く感じられるんだ」

 センさんが指先に力を込めると、水晶の葉は粉々になってしまった。
 師匠の見た目は少年と青年の間くらいだけど、魔法の腕に関してはかなりのモノ。
 今のように、センさんが良く話してくれる。この話も、耳にたこが出来るくらい聞いている。

「引き篭る場所、すごい魔法技術使って、わざわざ作る。ししょー、筋金入り引き篭り」
「ははっ、確かにね。本当の理由はなんであれ、彼が百年も森に引き篭っているのは事実だからね。とんでもない執念だよね」
「執念、です? ししょー、あんまり、物欲とか、執着するの、ないです」

 はてと首を傾げてしまう。
 横に通り過ぎざまに、センさんはぽんと頭を撫でてきた。瞳を細めて。
 こうなると、センさんは絶対に続きを話してはくれない。残念。あの師匠が執着するなんてモノ、興味があったんだけどな。

「ほら、アニム。行こう? 雨が降ってきそうだ」
「ほんと、です。水晶の森、雨、多いですからね。天気も、急に、変わるです」

 空を見上げると。センさんのおっしゃる通り、魔方陣の向こう側に雲が立ち込め始めていた。
 フィーニスとフィーネは大丈夫かな。二人のことだから、雨が降ってもきゃきゃと喜ぶだろう。とは言え、濡れすぎはいけない。

「冷えてきたし、もしかしたら雪になるかもしれないね」

 センさんの言葉に、小走りがもう少し早めの歩幅に変わる。

「早く家に帰って、お茶にしようか。あったまらないとね。今回のお菓子は、ウィータもお気に入りなんだよ。アニムにも、ぜひ一度食べてもらいたくて」
「嬉しい、です! いつも、ありがとうです。センさん、優しい、えっと、愛です」

 センさんの目がわずかに見開いた。慣れない長文を話そうとしたせいかな。大事な主語が抜けていたよ。

「間違い、主語、お菓子つきます」
「そう? それは残念だね。僕にも慣れてきてくれたのかと、思ったのだけど」
「それは間違い、ないです! でも、その、すみません。親愛でも、言うの、難しく、じゃなくて、慣れなくて」

 センさんは優しい微笑みを浮かべながら、頭を撫でてくれた。慈愛に満ちた眼差しと綺麗な顔立ちは、心臓に悪いなぁ。
 その反面。照れくさくはあるけど、暖かくて安心する温度だ。私も、もう撫でられて喜ぶ年でもないような気もするけど、相手はうん百才の方だ。ムキになって抵抗することもないだろう。

「無理して丁寧に話さなくて良いんだよ?」
「ぐちゃぐちゃ、じゃなくて、えーと、ししょー、以外、くだけて話す、ししょー、不機嫌になるです」

 また間違えた。未だに、すっと出てこない言葉もあるんだよね。
 私の黒い髪を柔らかく撫でていたセンさんが、ぴたりと動きを止めた。
 視線をあげると、センさんは口に手を当てて肩を震わせていた。顔を背けてしまっているので表情は伺えないけど、時折漏れてくる声は、明らかに笑っているモノ。

「センさん?」

 センさんは落ち着いていて大人っぽい方なのに、師匠の話になると一変、感情豊かになる。師匠のこと、ほんとに大好きなんだなぁ。
 しかも、素直な愛しさではなく、ちょっと歪んだモノを感じてしまう。これは色めがねだろうか。師匠が、からかい甲斐あるのは同意だけど。

「センさん、ししょーのこと、大好きです」
「そうだね、この年になっても反応が新鮮だからね。ウィータと話していると、楽しいよ。もちろん、アニムともだよ?」
「私、ししょーの弟子、で、良かったです。でも、最初、センさん、私のこと、嫌い――じゃなくて、警戒してました」

 当時の様子を思い出して、小さな笑いが零れた。懐かしい。
 センさんは困ったように鼻を掻いている。
 当たり前なんだけど、私が強制的に師匠の弟子になった当初は、思い切り警戒されていた。

「センさんは、私が、召喚巻き込まれて、目を覚ました時、ししょーの後から、部屋入ってきました。行き成り、染めてた茶色の髪に、ついて、地毛なのか、聞かれたですね。瞳の色も」
「あー、うん。ごめんね? 今はすっかり黒……とはいっても、ウィータの魔力が混じっているから深紫っぽくなっているかな」

 今ではすっかり打ち解けている。センさんが会わない間の師匠話を、がっつり貢いだおかげだろう。
 そうこう話している内に、視界がぱぁっと開けた。我が家の前の広場だ。

「それにしても。アニム、警戒なんて難しい単語、良く知っているね」
「ししょー、いつも、口すっぱく、言うです。お前は、ぼけらっと、しているからって」

 全く知らない場所、しかも魔法なんて使えるファンタジーなところだ。いくら引き篭っているとはいえ念頭に置いておくにこしたことはない、そういう理由で警戒心と一緒に叩き込まれた。
 ファンタジー世界って、森の中の様子だけでも充分実感は出来るけど、あの頃はいまいち現実感がなかったというか。夢の中にいるような気分だったからだろう。

「ははっ、全く。何に対して警戒心持てなんて意味を含ませて、言ったのか。想像するだけで、ウィータに同情するよ」

 玄関へ続く小さな階段の途中で、センさんは再び噴き出した。そのままお腹を抱えてしゃがみこんでしまう。
 階段は大きくて幅もあるので、うっかり転げ落ちるなんて事故は起きないだろう。別の心配が浮かぶ。

「センさん? お腹、痛いですか?」
「うん」

 痛がっている割に即答ですね、センさん。しかも、きっぱりと。

「大変です。旅の、お疲れ、出ましたか」

 慌てる私を余所に、センさんから大きな笑い声が飛び出した。あまりの音量に、水晶の樹で羽を休めていた鳥たちが、けたたましい音を立てて羽ばたいて行ったくらい。
 未だにセンさんの笑いのツボがわからない。師匠関係、ということだけは断言出来るけど。

「ひー苦しい。とっ、ところでさ、アニム一人で迎えに来たのが、ずっと疑問だったんだ。過保護なはずのお師匠様は、出掛けているの?」

 リアルにひーひーと笑う人もあまりいない。センさんは端正な顔のまま、苦しそうに息を吐いている。センさん、師匠程ではないにしても、ちょっと残念イケメンの素質があるかもしれない。
 とりあえず、笑いすぎで出ている涙を拭いてくださいと、ハンカチを差し出しておいた。綺麗な微笑みを付けて受け取ったのは、さすがです。

「ししょー、一眠りしたら、センさんお迎えする、言ってました」

 少しときめいてしまった胸を叱咤しったして、二階の窓を見上げる。

「でも、アニムが来てくれたんだよね?」
「はい。内緒ですよ」

 内緒という単語を教えてくれたのはセンさんだったなぁ。
 初めて使ってみせた時の、師匠の嫌そうな顔と言ったら。センさんが、からかいたくなる気持ちがわかってしまった。師匠はいじりたくなるタイプだ。

「ぐっすり香、たきました」

 私が唇の前で人差し指を立てて見せると、センさんはしゃがみこんで、顔を膝に埋めてしまった。

「あー! もう、駄目だ! いや、ウィータもアニムもなかなか良い師弟関係だね」

 もうって言える程、センさん笑いを堪えていない。むしろ、さっきから笑いっぱなしだ。
 センさんが立ち上がる気配を見せないので。私もしゃがみこんで、センさんに目線を合わせる。一段一段の高さは子猫ほどしかないので、長身のセンさんとも無理はない。

「ししょー、平気で、何日も徹夜するです。センさんいらしたら、酒盛りするは、絶対。その前に、ちょっとでも、寝て欲しかったですよ」

 私たちは普通の師弟とは違うかも。私は、弟子と言っても魔法が使えるわけじゃないので、魔法調合や料理の手伝いをする、どちらかというと家政婦さんに近い存在だ。
 自然と尖っていく唇。抱きかかえた包みが、かさりと音を立てた。
 拗ねた私を見てか、センさんが目元を綻ばせた。

「アニムの髪、さらっとしていて触り心地が良いよね」

 両側で緩く編んでいる髪の先を、指の腹で擦ってくるセンさん。一瞬、私の背後の扉に視線を流した気がしたが、気のせいだろう。
 脈絡のない発言に、瞬きを繰り返しちゃう。

「はぁ。私は、センさんの髪、羨ましいです」

 今なら触っても許されそう。イケメン度が高い時は、恐れ多くて手も伸ばせない。センさんも私の髪に触れている今なら、お互い様だよね。
 荷物を片手に抱え直して、そっと指の腹で触れてみる。薄い紫色の髪は、キューティクル満載でつるっつる! 引っかかることなく滑っていく。一房掬って離すと、髪がさらりと流れていく。ハープのように、ぽろんぽろんと音を奏でそうだ。水晶に反射したわずかな光りでも、一段と輝きを増しました。

「センさん」
「うん?」
「今度、使っている、洗髪剤、おしえ――」

 うっとりとしていると、ぎぎぎっと立て付けの悪い調子で動く扉らしき音が鳴る。
 背後から怪奇な空気が漂っている気がする。恐る恐る振り返った先には、予想に違わない、わが師匠のお姿だった。

「お前ら、玄関先で、なに戯れてやがる。アニムは、人気のねぇ場所で男に触れるな」

 腕を組んで仁王立ちしているわが師匠ウィータが、現れた。
 こめかみがぴくついているのは気のせいじゃないよね。森の奥に住んでいる主様も、裸足で逃げ出したくなる威圧感だ。

「しっしょー」

 お召しになっている黒い魔法衣が、とても良く似合う雰囲気。下から見上げると、襟に口元が埋まっていて見えない。目力だけで、一般人な私は腰を抜かしそうなのでした。
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