新月の光〜月なき夜に君は輝く

恵あかり

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第二部 落日

第四九話 動き出す時間

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 東雨は扉にもたれながら、五亨庵の入り口で、ひたすら、北西の空を眺めていた。
 決して、仕事を惚けているわけではない。空の監視。これが、今、彼に与えられた仕事なのだ。
 空をじっと見ていた彼は、その雲行きを見定めて、嬉しそうに唇を横に引いた。
「若様!」
 待っていました、とばかりに、五亨庵の中へ飛び込んで、嬉しそうに犀星を探す。
 彼が溺愛する主人は、自分の机のそばで、必要な書物を丁寧に油紙で包み、麻の袋に収めているところだった。
「東雨、どうだ?」
「はい、もうすぐ、雨になりそうです!」
「よし、やっと出かけられるな」
 嬉しそうな主従を見て、慈圓と緑権は顔を見合わせた。
 数日前から、彼らは都北に雨が降るのを待っていた。
 治水工事を行う調査として、実際に大雨直後の現地を見に行く必要があったのである。
 親王自らそこへ向かうということ自体、異例ではあるが、犀星ならば当然そうするに決まっている、と、五亨庵の面々はすでに誰も疑問にすら思わない。
「伯華様、風邪をひいたりしないでくださいよ。無茶をして雨の中を出歩いたり、雨上がりの突然の増水に巻き込まれないように……」
「大丈夫だ、権。ちゃんと身の安全ははかるから。それより、留守を頼む」
「……頼まれた計算は、終わらせておきます」
 緑権は苦手な算術の仕事を片付けることを思って、辟易したように肩を落とした。
 犀星は、そんな緑権を微笑ましく見ながら、麻袋を斜めに肩に掛けると、防水用の長靴に履き替える。
 玲陽が、自ら油を塗り直した傘を二本、いつでも渡せるように手に取る。
「お気をつけて、兄様」
 ふと、犀星は全ての動きを止めて、玲陽を見つめた。
 本来であれば、玲陽を連れて行く必要があることを、犀星は知っている。
 玲陽も、自分の目で、これから工事計画を立てる都北の雨天時の地盤状況を見ておきたい、と、同行を希望してくれた。それを断ったのは犀星の方であり、そこにはどうしても譲れない事情があった。
 都北は、三年前に北方民族の襲来があった折り、戦場となった地域である。今なお、遺骨が泥の中に埋もれて、発見されていない者も多い。戦死者の中には、兵士ではなく、民間人も含まれている。また、祖国に帰ることなく命を落とした北方民族の幽霊を見た、という類の話も絶えない。
 そのような、怨念渦巻く場所に玲陽を連れて行くことを、犀星は頑なに拒んだ。都北の治水は必要な事業ではあるが、できる限り、玲陽を危険な目に合わせることは避けたい。
 玲陽とは一時たりとも離れたくはなかったが、傀儡を喰らわねばならない状況に陥った玲陽の苦しみを想像すると、連れて行く決断はできなかった。
「陽……」
 犀星は、残していかなければならない玲陽を思った。
「兄様、傀儡に気をお許しになりませぬよう」
 玲陽は、死者の姿は見えないにせよ、声が聞こえる犀星の身を案じた。
 犀星は玲陽を抱きしめたい思いを、噛み殺した。東雨から、人目をはばかるよう、口うるさく注意されているのだ。抱きしめる代わりに、傘と共に差し出された玲陽の手を、両手で握って力を込めた。そのまま引き寄せ、食い入るように顔を寄せる。
 助けを求めるように、玲陽は朱に染まった頬で、東雨を見た。
 それを見て、東雨は半分目を閉じてあきれ返る。
「あのですね、若様」
 玲陽の手を握り、切なげに見つめ、無言で情を確かめるような主人に、東雨は口の端を引きつらせながら、
「そういう仕草を、謹んでください、って言っているんです!」
 東雨の大声に、慈圓と緑権が、それぞれの仕事を止めてこちらを振り返った。
「陽様がお困りですから、手を離してください!」
「う……」
 名残惜しそうに、犀星はゆっくりと指をほどいた。
「東雨、しばらく、会えないのだから、これくらい……」
「ダメです!」
「圓や権は知っていることだ。今更、隠す必要などないだろう?」
「日頃から気をつけておかないと、どこで誰に見られるかわからないのです」
 東雨は腰に手を当てて、
「若様と陽様の関係を外に知られたら、それだけ、陽様が危険な目に遭うんです。若様を陥れようとしている政敵ばかりではありません。むしろ、陽様を恋敵だと思う女の方が危険です!」
「……恋敵……」
 思わず、玲陽が照れて俯いた。
「そうじゃなくても、最近は色々宮中は物騒なのに……」
 東雨は自分の荷物を体にゆわえると、玲陽に礼を言って傘を受け取った。
「陽様、お屋敷への帰り道は、蓮章様に頼んでありますので、迎えに来るまでは、ここで待っていてくださいね」
「はい」
「決して、お一人で出歩かないように、お気をつけください。陽様に何かあったら、若様が生きていけませんので、くれぐれも、自重なさってください」
 東雨の物言いに、犀星が顔を引きつらせ、玲陽が苦笑し、慈圓と緑権はため息をついた。
 最近では、東雨がすっかり場の空気を作るようになっていた。
 もともと、活動的で物怖じしない性格だったのが、学問や武芸の研鑽を積むに従って身につけた実力が、東雨の言動を支えている。
 東雨としては、少しでも犀星の役に立ちたい、という強い思いからの成長だったが、その急変ぶりに、周囲の反応が追いつかないほどである。
「それじゃ、俺は先に出ますので、若様、来てください」
 東雨は口早に言うと、さっさと五亨庵を出て行く。
「あいつ……」
 どこか嬉しそうに、その後ろ姿を目で追った犀星のそばに、玲陽が一歩、近づいた。
「お優しいですね」
「ああ。あいつらしい」
 犀星は玲陽を振り返ると、慈圓たちの視線など気にすることもなく、玲陽を抱きしめた。一瞬、遠慮してから、玲陽も犀星の背中に腕を回し、丁寧に撫でて温もりに浸る。
「陽」
 何かをねだるように、犀星が甘く呼んだ。玲陽は目を細めると、
「兄様、です」
 言いながら、そっと犀星の左耳の下に唇を寄せ、小さく痕を残した。
 東雨は、東雨なりのやり方で気を利かせて、この二人に別れを惜しむ時間を残したのだ。
「どこにいても、私は兄様をお護りします」
 顔を寄せて、眼差しを交わす犀星と玲陽の周りだけ、時間が止まる。
 慈圓と緑権は、目のやり場に困りながらも、視界の隅で、抱き合う二人を眺めて、ひっそりと笑う。東雨も、彼らも、この二人が慈しみあう姿が好きだった。犀星と玲陽の、互いをいたわり支え合おうという姿には、不思議と周りを穏やかな気持ちにさせる力があるようだ。東雨が案じている通り、犀星の弱点が玲陽であることを貴人たちに知られることは避けたかったが、二人の自然な姿を封じるのは忍びない。その思いは、誰もが同じである。
「伯華様」
 慈圓が犀星の後ろから、無遠慮に声をかける。
 邪魔をするつもりはないが、逆に、気を遣うこともしない。そうすることが、犀星に取って楽だということを、彼らは知っていた。
「光理どののことは、我々もしっかりお守りいたしますゆえ、無事にお帰りなさいますよう」
「ああ」
 犀星は玲陽と額を合わせ、目を閉じた。
「行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ」
 玲陽は寂しさを隠して微笑んだ。その気遣いに、犀星もかすかな笑みを返す。
「伯華様、急がれませんと、明るい時分に宿までつけませんぞ」
 いつまでも離れようとしない犀星を、慈圓は心を鬼にして追い出した。
「全く、光理どのがいなければ、何もできないのだから」
 慈圓はようやく出かけて行った犀星を見送り、扉を閉めて、やれやれと首を振った。
「甘えているだけですから。兄様はお一人でも大丈夫です」
 玲陽は何でもない、というように、自分の席に戻ると、絵地図をもとに、測量の計算を続ける。
「光理どのは、平気なんですか?」
 緑権が、自分の席から、玲陽に向かって問いかけた。
「やっぱり、伯華様と一緒に行きたかったのでは?」
「兄様がお戻りになるまでに、終わらせておかなければならない仕事が山積みです。寂しがっている暇はありませんから」
 玲陽は算術機を使いながら、顔を上げずに早口に答えた。慈圓と緑権が目配せする。
 強がっているな、と、二人の間に声にならない言葉が交わされる。
 一見穏やかそうな玲陽が、実は相当に気が強い性格であることを、最近、二人は理解しつつあった。犀星と二人きりの時は別なのかもしれないが、第三者がいる席では、気丈に冷静に振舞うことが多い。それに反して、犀星はすっかり玲陽に心を許し、穏やかな表情を見せることが多くなった。
 玲陽がそばにいることで、犀星の緑権たちに対する態度も軟化し、半年前とは別人のようである。口数は相変わらず少ない方だが、話す内容は随分と変わった。今までは事務的な会話しかしなかったというのに、この頃では、さらりと冗談を口にしたり、玲陽への惚気を真顔で言ってのけたり、と、周囲を驚かせることも増えた。
 この変化を一番喜んだのは、慈圓だった。
 彼は犀星の養父である犀遠の盟友だった。
 犀遠はまさに、今の犀星のような、穏やかだが、毒舌が混じることも多い、それでいて周りを和ませる話し方をする男だった。特に、妻の玲心を溺愛しており、仕事仲間相手にも、当然のように妻の愛しさを嬉しそうに話した。
 慈圓にとっては、犀星の変化はまるで、旧友が帰ってきたかのような懐かしさを覚えるものであった。
「あの、光理どの」
 緑権が、遠慮がちに、玲陽のそばに近づいた。手には、数枚の紙が握られている。
「ええと、取り替えっこしませんか?」
「え?」
 玲陽は顔を上げた。緑権は気まずそうに、
「あの、私、算術が苦手で…… 光理どののお仕事の中に、算術以外のものがあれば、取り替えていただけると……」
 情けない同僚の取引に、慈圓は苦笑した。対して、玲陽はにっこりして、
「では、こちらの写本に注釈をつける作業の続き、お願いできますか?」
「注釈、ですか?」
「はい。角子論と唐書記を引用して、簡単にまとめていただけたら……」
「簡単にって……」
 緑権は玲陽から写本を受け取ると、中を開いた。玲陽の細い筆文字で、びっしりと注釈が書き添えられている。簡単にまとめる、どころか、内容を理解することさえ相当な苦労がありそうだ。緑権はめまいがした。
「……やっぱり、自分で計算します」
 玲陽は首を傾げた。
「謀児、光理どのの仕事を、お前が代われるはずがないだろう?」
「だったら、仲草様、替えてください」
「おぬし、少しは東雨を見習って励め」
 慈圓はさっさと自分の席に戻って、書面作りに取り掛かった。都北工事に際して、多くの部署に予算や物品の申請を出さねばならない。そういう類の文書は、一括して慈圓が引き受けている。先方部署の人材にも詳しい慈圓は、相手に合わせた文面を作ることが得意である。残念ながら、人脈に乏しい緑権にはできないことだ。
「伯華様、十日くらい留守にしてくださるとありがたいんだけれど……計算、終わらないですよ」
「そんなにはかからんだろう。せいぜい、四、五日だ」
 あっさりと、慈圓は緑権の望みを断ち切った。
「でも、天候が相手の仕事ですから、思ったようにはいかないかもしれません。長くなってもおかしくないじゃないですか」
 食いさがる緑権に、慈圓は不敵な笑みを浮かべて、
「あの伯華様が、十日も光理どのと離れていられるわけがないだろう?」
「!」
 無言ではあったが、玲陽の手が、数秒、止まった。
 その反応が面白くて、慈圓はさらにニヤニヤと笑っていた。
 どうやら、犀星だけではなく、玲陽もまた、慈圓にとっては興味の尽きない観察対象であるようだった。

 蓮章が五亨庵に玲陽を迎えに来た時には、雨は本降りとなっていた。
 蓮章は役目通り、安全に玲陽を屋敷へ送り届けたが、玄関で思わぬ罵声を浴びることとなる。
「なんであんたが、陽兄様と一緒なのよ!」
 玲凛の一喝である。
 蓮章は口いっぱいに苦虫を噛み潰した顔で、恨めしげに玲陽を見た。懇願されたところで、玲陽にも妹の癇癪はどうにもできない。かろうじて、玲凛の気持ちをなだめるために、事実を説明する。
「凛どの、蓮章様は私をここまで護衛してくださったんです。ですから、お礼を……」
「どうしてこの人なの? 大切な兄様の護衛なら、ちゃんと腕の立つ人を寄越さないと意味がないです! 涼景様はどうしたのよ?」
「涼は今夜、天輝殿の当直で、離れられないんだ」
 どこまで納得してもらえるかわからないが、蓮章は素直に事実を伝えた。案の定、玲凛の不機嫌は収まらない。
「帝なんかより、陽兄様の警護の方が大事でしょ!」
「凛どの……」
 玲陽は困って、
「涼景様は、皇族の近衛ですから、帝や親王のためにしか動けないんです。そもそも、私は警護していただける立場にはいないので、こうして蓮章様が送ってくださること自体、職務を超えたご好意によるものであって……」
「だいたい、星兄様が悪いんだわ!」
 次の標的は親王か……と、蓮章も苦笑いが消えない。
「陽兄様を置いていくなんて、絶対に許せない! いくら傀儡溜まりだからって、留守番をさせるなんて! 残された陽兄様が、どれだけ心配するか、考えればわかるでしょうに!」
「凛どの。あの、お願いですから、落ち着いてください」
「私は落ち着いています! ただ、怒っているだけです!」
「無茶苦茶だな……」
 小声で、蓮章が玲陽に耳打ちする。その行動を、玲凛は見とがめた。
「あんた! そんなに陽兄様に近づくんじゃないわよ! 殴られたいの?」
「ああ、ああ、悪かった」
 蓮章が投げ出すように手を振った。
「そんなに陽が大事なら、お前が守ってやるんだな」
「言われなくても、そのつもり!」
 玲凛は喧嘩腰に蓮章を睨みつけたが、玲陽がすぐに間に割って入る。
「凛どの、とにかく、今夜は蓮章様にお泊まりいただきますので、それだけは許してください」
「泊める? なんのために?」
「ですから、護衛で……兄様の命令ですので、蓮章様も従わないわけにはいきませんから……」
「……役に立つことは期待してないけれど、邪魔はしないでよ。絶対に、陽兄様の寝所には立ち入らないこと! あと、中庭に出てきたら切り捨てるから!」
 玲凛は釘をさすように蓮章を一睨みすると、屋敷の奥へと足早に戻って行った。
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