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外伝

狂戯を喰む

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​ 都へ入ってふた月が過ぎようとしていた。

 宮中での馴れない習慣と、毎日のように新しく持ち込まれる資料を覚える生活の中で、犀星はすっかり疲れきり、屋敷に戻ると身支度を済ませてすぐに床についた。

 幼いながら、東雨の方はそんな主人の身の回りの世話を器用にこなし、同時に、数日後に迫った、犀星を正式に親王とする戴冠式の対外的な準備にまで手を回していた。

​ お前が親王になればいい、と、犀星に呆れられるほどの働きぶりだった。

「若様、おやすみ前のお茶をお持ちしました」

 東雨がすでに寝支度を整えて、机で一筆したためていた主人の脇に、茶器を並べる。

 文机の一本の灯火のもと、犀星は夢中になって筆を走らせている。

「今日も、お手紙ですか? 本当に毎日書くのですね」

 関心した、というよりも、こちらもまた、呆れたように東雨は息をついた。

 この二ヶ月の間に変わったことがあるとすれば、二人の距離かもしれない。

 始めは東雨が一方的に話しかけるばかりだったが、今では時折、犀星の方から他愛のない話を切り出すこともある。東雨の方も、そんな犀星の変化を、内心喜んで、兄のように慕っている。その彼が、唯一、賛同しないのが、この犀星の日課である手紙だ。

「毎日毎日、何をそんなに書くことがあるんですか?」

「書くことなら山ほどある」

 筆を止めることなく、犀星は答えた。

「今日は、都で初めて兎を見た。故郷では、兎は食糧だが、ここでは愛玩用らしいな」

「う、兎を食べるんですか!」

「食べないのか?」

「食べたことはありません……」

「今度、食わせてやる。兎なら小刀があればさばけるから」

「そういう問題ではありません!」

「では、なんだ?」

「ですから、都では兎を食べる習慣はないのです」

「食うものに不自由がないからな」

 思わず、東雨が言葉に詰まる。彼が困惑した気配を察して、犀星は一瞬だけ、顔を上げると、また、書き続けながら、

「別に、お前を責めているわけじゃない。兎だけでも、これだけ話題になる。俺が今、どんな場所にいるのか、俺の周りに何があって、何がないのか、何を見て、何を感じたのか、それを書き記しているだけだ」

「でも、なぜ、そんな細かなことまで、逐一報告する必要があるんですか? お疲れなのだから、早くお休みになればいいのに」

「忘れないように、その日のうちに書きたいんだ。それに、細かいことの積み重ねが、人と人の絆を強くする」

「絆って……手紙の返事、一度も来ないじゃないですか」

 一瞬、犀星が文字を乱した。動揺より、落胆に近い。

「若様は、こうして毎日手紙を書いているのに、お相手からの返事は、一度もありません。そんなの、不公平です」

「……不公平、か」

 犀星は自分の署名をゆっくりと書き付けながら、

「別に、返事をもらうために書いている訳ではない。あいつが読んでくれたら、それでいい」

「……読んでないかもしれませんよ」

「東雨!」

 声を上げた犀星に、しまった、と、東雨が怖気づく。

「いや、東雨……済まない、つい……」

「いいえ、俺の方こそ、若様のご家族に、失礼なことを言いました」

「家族?」

「その手紙のお相手です。一緒に育った家族に送る、と、言っていましたよね」

「家族……か。確かに、形式的にはそうなる。そうか、お前にはそう、伝えていたのだったな」

「違うんですか?」

「いや、違わない。だが……」

「?」

「それ以上の存在」

「それ以上……もしかして、恋人、ですか?」

 一瞬で、犀星の顔色が変わったのを、東雨は見逃さない。

「そう、なんですか?」

 好奇心溢れる表情で主人を覗き込む。

 犀星は乱暴に茶器を手にすると、中身を一気に飲み干し、むせ返った。

「図星ですね」

 咳き込む犀星を楽しそうに見ながら、東雨は笑いを禁じ得ない。

 六歳を迎えたばかりの東雨から見れば、犀星は十分に大人である。その事情に触れたことが、楽しくて仕方がないようだった。

「そんなんじゃない!」

 頬を赤らめて、必死に否定する主人が面白く、東雨は懲りずに冷やかした。

「だって、どんなに疲れていても、手紙を書いている時だけは、若様は優しい顔になります」

「え……」

「気づいてなかったんですか? とってもお優しいお顔をなさっています」

「まさか!」

「鏡をお持ちしましょうか?」

 冷静さを欠いて言い訳をする主人を、にやにやしながら東雨が眺めていると、

「随分楽しそうだな」

 突然、背後から声がした。

 驚いて二人が振り返れば、庭に面した窓が開かれていて、そこから、長身の男がこちらを覗き込んでいる。

「燕将軍!」

 主人の手紙の秘密を早速報告しなければ、と東雨が駆け寄る。反して、犀星は顔をしかめた。

「なぜ玄関から入って来ない?」

「玄関で声をかけたが、誰も出て来なかったからだ」

「すみません、話に夢中だったので……」

「構わん」

 ひょい、と身軽に窓枠を飛び越えて、涼景が室内に入ってくる。

「そんな所を出入りするな。非常識な……入ったなら、窓くらい、閉めろ」

「東雨、お前の主人は相変わらず、肩っ苦しいな」

「これでも、少しは融通が効くようになったんですよ」

「涼景! お前こそ、宮仕えの身で、どういう神経をしているんだ。しかも、こんな遅い時間に…」

「まだ、宵の口だろ」

「若様はお疲れなので、早めにお休みになりますから……」

「ああ、そうか、子供は早く寝なくてはな」

「涼景!」

 自分より口の達者な二人を相手に、元々話すことが得意ではない犀星は、不貞腐れて寝台に寝転んだ。

「もう、寝る。要件があるなら、明日にしろ」

「大事な話なんだが……」

「そうだ、涼景様、俺にも大事な話が……」

「東雨! 余計なことを言うな!」

「そんなに怒鳴らなくてもいいだろうに」

 さすがに面食らったように、涼景は東雨をなだめて下がらせると、犀星の横たわる寝台の端に腰掛けた。

「しつこいな。何の用だ、早く言え」

「お、聞いてくれるのか? 嬉しいねぇ」

「お前はふざけた奴だが、理屈の通らないことはしない。だから、人に気づかれないよう、庭から侵入した。それも、宮中での仕事を終わらせ、急いでここまできた」

「俺が真っ直ぐここへ来たこと、なぜわかる?」

「先ほど雨が降り出した。お前の肩は、わずかしか濡れていない。走ってくれば、その程度で済む。そうじゃなければ、ずぶ濡れだろう。日中の晴天を考えれば、傘を持っている訳もない」

「大した観察眼だな」

 軽い調子を装いはしたが、涼景は内心、犀星の洞察に舌を巻いた。普段は口数が少なく、何を考えているのかわからないような男だが、実際には全てを見通している切れ者だと、涼景は見抜いている。

「それで、何の用だ? 明日の戴冠式のことで、頭がいっぱいなんだ。手短に頼む」

「その戴冠式のことだ」

 背中を向けていた犀星は、涼景の声色が変わったことに気づいて、半身を起こした。

 枕元の燭台の炎が、ぱちりと音を立ててはぜる。

「戴冠式で、何がある? 毒殺か? それとも惨殺か?」

「その方がましかもな」

 薄い夜着の襟元から覗く犀星の白い肌に、炎が妖艶な影を落とした。

 涼景は軽く唇を舐めた。

「切り出しにくい話のようだな」

「遠回しに言っても、誤解を招き時間がかかるだけだ。単刀直入に言うから、言葉を選ばないぞ」

「遠慮などいらない」

「こちらも、する気はない」

 涼景は一度、部屋の外の気配を伺って人気が無いことを確認してから、更に声を低めた。

「明日、お前は正式に第四親王として冠を受ける。式典も、その後の宴も、問題はない」

「では?」

「重要なのは、その後に、何があるか、だ」

「宴の後?」

「ああ。お前の立場、経歴、そして、その容姿。俺の経験からすると、間違いなく、皇帝陛下がお前と側近を別室に連れ出す」

「何のために?」

 涼景は大きく息を吸ってから、

「これからお前の臣下となる者たちの前で、お前の衣服をはぎ、体を晒し、男に犯させる」

「……なるほど、わかった」

 動じるか、と思った涼景は、冷静な犀星の反応に一瞬戸惑った。涼景が黙った隙に、犀星が続ける。

「臣下の前で、親王としての俺の品格も権威も失墜させ、醜態を見せつけ、俺の自尊心を砕き、皇帝に逆らう意志を捨てさせるために、か?」

「察しが良くて助かる」

「俺が謀反を起こすことを、恐れている?」

「いや、お前に限らず、良家や力量のある者たちは、皆、そうやって牙を折られてきた」

「普通の神経なら、自害を選ぶかもな」

「事実、何人も死んでいる」

「戴冠式だか、葬式だか、わからないな」

「冗談を言っている場合じゃない。星、明日の今頃は、お前は辱めを受けているのだぞ」

「それで、俺にどうしろと?」

 静かに、しかし、どこか凄みのある声で、犀星は涼景を真っ直ぐに見つめた。その眼差しには、生き抜く強さと曲げることのできない意志が色濃く現れている。

「皇帝は、お前に選ばせるはずだ。誰を相手にするか」

「自分を犯す相手を?」

 さらりと言って退けた犀星の口元に、冷たい微笑が浮かぶ。

「いい趣味してやがる」

 涼景は、その鋭い雰囲気に、背中が凍りつく感覚を覚えた。何度も死線をくぐり抜けてきた涼景ですら、犀星が時折見せる底知れぬ闇に何が潜んでいるのか、読み取ることはできなかった。

「星、俺を選べ」

 掠れた声で、涼景は言った。

「お前を?」

「ああ。そこで俺のものになれば、他の連中は今後、お前に手出しはできない」

「暁将軍様のお手つきなら、俺の身は安泰、というわけか」

「言っておくが!」

 涼景は語気を強めた。

「今後、俺がお前を抱くこともない」

「当然だ」

 涼景に反して、犀星の声は穏やかだ。

「俺もお前も、心に決めた相手がいる。此度のことは、生き残るための芝居にすぎない」

「この話、乗るか?」

「ひとつ、教えてくれ」

 犀星は涼景から不意に視線を逸らした。今までの鋭さが消え、突然、弱々しい雰囲気さえまとう。

「涼景。どうしてお前、そこまでして俺を助けようとする?」

 本当に信じていいのか?

 犀星の心によぎる弱さ、心細さを感じて、涼景は思わず、少年の肩に手を置いた。

 どれほど賢く、聡明であろうと、犀星はまだ、宮中の醜さに翻弄される弱い存在である。

「星、俺はかつて、犀遠様に命を救われたことがある」

「父上に?」

「返しきれない恩がある。詳しいことは、時間があるときにゆっくり話させてくれ。今は、俺を信じて欲しい」

 薄暗い燭台の明かりのもと、犀星は小さく頷いた。



 翌日、夜通し降り続いた雨が空気を洗い、いつもより眩しく思われる太陽が差し込む中を、犀星は正装を身にまとい、東雨と共に参上した。

 広大な宮中の正門から、戴冠式が行われる霞河殿(えんかでん)への道は、昨夜の雨で舞い散った桜の花びらが敷き詰められ、散らされることを知りつつ歩む犀星の心と重なった。

 もし、昨夜、涼景が何も知らせに来なければ、今より心は軽かったかもしれない。

 涼景の言葉を、全て信じることはできない。

 彼もまた、宮中の人間であり、皇帝お抱えの将軍に変わりはない。

 いかなる理由があろうとも、こちらの味方になることはなく、あくまでも、ことを最低限にとどめるための助言と受け止めるべきだ。

 霞河殿の前には、彼を迎える臣下の列が並び、犀星の姿を見つけるや、静かに腰を落としてひざまづいた。

 犀星は懐から、昨夜したためた書状を取り出すと、宛名にそっと唇で触れた。

「俺を守ってくれ」

 隣に立つ東雨にも聞こえない声で、小さく願う。

「東雨、この手紙を」

「はい。お届けするよう、手配いたします」

 慣れた様子で、東雨は手紙を受け取ると、数歩、下がった。ここから先は、犀星の付人にすぎない自分は立ち入ることができない。

 涼景が何の用件で主人を訪ねてきたのかも聞かされていない東雨は、晴れやかな顔で主人の背中を見送った。



 先帝である洪武帝には、四人の男児がいる。

 正妻の子である現在の帝、宝順帝。妾腹であり、長男となる伯親王(本名を順果蘭(じゅんからん))、第三子で伯親王と母親が異なる、夕玖蘭(ゆうきゅうらん)。そして、第四子、犀星である。

 伯親王はすでにこの世を去っており、帝位の継承順であれば、犀星は第二位継承者となるが、宝順帝にはすでに正妻と多くの側室がおり、中には世継ぎと目されている男児も数人いるという。今回、犀星の親王としての戴冠も、形式上のものに過ぎない。

 わずか十五歳の辺境育ちの妾腹の親王に、宮中の者たちが目を向けることなどなかった。

 霞河殿で行われる戴冠式も、帝の権威を引き立てるものであり、犀星の身分を明確化し、その力の幅を定めるための事務的な行事となる。いわゆる慶事には当たらない、という扱いだ。

 東雨などは、そのことに酷く腹を立てていたが、犀星の方はあっさりしたもので、騒ぎ立てられるより気が楽だ、といった心境だった。

 少なくとも、昨夜までは。

「お待ちしておりました」

 名も知らぬ者たちの待ち受ける式場へ導かれ、形ばかりの祝詞や祝杯を他人事のようにつつがなくやり過ごしながら、犀星は上目遣いに、腹違いの兄、宝順の姿を目に焼き付けていた。身分の低い者が、上の者を直視することは非礼にあたる。ましてや、目を合わせるなど、もってのほかだ。それが帝であれば、なおのこと、ただでは済まない。

 戴冠式は問題なく終了し、場は霞河殿の庭に設けられた宴席へと進む。

 むしろ、この退屈な式典に集まった宮廷人の多くは、この宴で出される酒と料理、そして人脈を目当てにしていた。

 身分のある者たちとはいえ、その全員が金銭的に豊かであるとは限らない。

 裏では陰謀と血生臭い命のやりとりが渦巻く場所だ。少しでも味方を得て、自分の手駒やら後ろ盾を増やすことに余念のない連中ばかりである。

 わかってはいながら、犀星はそんな者たちの盃を断ることなく受け、世辞と知っていて愛想笑いを浮かべた。

 犀星には、手駒も後ろ盾もいらない。ただ、敵を作らないこと。それだけが目的だった。今の自分には、狡猾に都で生き抜いてきた目の前の貴族や官吏たちに立ち向かうだけの力はない。いずれ、自分の身を自分で守れるようにならねばならない。母を亡くし、兄弟である帝でさえ、信じるわけにはいかない。頼りになる親類が他にあるわけでもない。

 犀星の立場というものは、そのような完全に孤立したものなのだ。

 まさに、虎の群れに放り込まれた兎、である。

 周囲もまた、それをよく知っている。

 ほとんどの者たちが、今日、初めて犀星の姿を目にした。中には、田舎者の愚鈍な小僧だろう、と陰口を叩いていた者も多い。

 しかし、目の前に現れたのは、到底、自分達には及ばない身のこなしと、目を見張る美貌の少年だった。時がたつにつれ、誰もが、皇帝にはない人を惹きつける犀星の魅力に気づき始めていた。

 鳶色の正装を身につけた、中年の背の低い男が一人、帝に挨拶をしたのち、犀星の前にもすり足で近づいてきた。

「歌仙親王様におかれましては……」

 男は、うやうやしいながらも、どこが下卑た表情を浮かべながら、一通り、決まり文句を並べたてた。

「そなたの運びに感謝する」

 犀星も、特にそれ以上話しをする気もなく、他の者たちと同様に、労をねぎらって追い返そうとする。が、男はそこで、もう一言、付け加えた。

「して、親王様。東雨はしっかりと努めておりますでしょうか?」

「ん?」

 思いもよらない名前を聞いて、思わず犀星は男の顔を見た。

 口髭の薄い、目つきの鋭い顔をしている。

「東雨を知っているのか?」

 興味を引かれたのか、犀星は問いかけた。

「ええ、それは、もう!」

 男は、高頼(こうらい)と名乗っていた。立場としては左相にあたるらしい。権力者には違いないが、どうにも威厳がない。官位を姑息な手段で手に入れたように思われる。

「東雨は、二歳の頃から、私が仕込みましたゆえ」

 スッと、犀星の作り笑いが消えたことに、高頼は気づかない。

「親王様のおそばにお仕えするべく、一通りのことを学ばせましてございます」

「一通りのことを、な」

 犀星は、じっと、高頼の下げられた顔を見つめた。その表情には、隣にいた帝も気づいたらしい。二人のやりとりを微笑を浮かべて伺っている。

「それで、いかがですか、具合の方は」

「東雨は問題ない。優秀すぎるほどだ」

 犀星の言葉に嘘はないが、同時に温度も感じられない。

「あそこまで仕込むのは、大変だっただろう」

「お褒めいただけましたこと、光栄でございます。今後とも、どうぞ、ご贔屓に」

 高頼は満足そうに笑みを浮かべたまま、いそいそと犀星の前を下がっていく。

 冷ややかに見送っていた犀星に、宝順帝が声をかけた。

「高頼が育てた稚児の具合は、それほど良いのか」

 犀星は、顔色一つ変えず、目を閉じた。

「侍従として、素晴らしい働きをしてくれております」

「侍従として、だけか」

「わたくしの身の回りの世話と、護衛が、彼の務めですから、それで十分にございます」

「ほう? そなたはそれで十分、と?」

「慣習の違い、でございましょう」

「では、都の慣習にも、慣れてもらわねばな。親王ともあろうものが、それでは困る」

 犀星は伏せ目がちに兄を振り返ると、表面だけの敬意を見せて深く頷いた。

「そなたは見目が良い。もっとよく見てみたい」

 宝順の言葉は、昨夜の涼景からの情報の鍵となった。

「陛下の、お望みとあらば」

 犀星は高頼への思いを一度押しとどめ、今は、自分の身を守ることに集中するよう、切り替える。

​ 太陽が西に傾くころ、酒の回った宴席に、軽武装した一団が入ってきた。

 先頭に立つのは、燕涼景だ。他の兵士が甲冑を身につける中、彼だけは華やかな装いである。

「来たか」

 宝順が手招きする。

 普段、犀星の前で見せているような気軽な空気は微塵もなく、まるで別人のように引き締まった表情と作法で、涼景は帝の前に膝をついた。続いて、部下の兵士たちもそれにならう。

「要人の方々の帰路の護衛に参りました」

「ご苦労。では、手はず通りにせよ」

「は」

 涼景が部下を振り返って頷くと、それを合図に、兵たちはそれぞれが割り当てられている高官の側へゆき、帰り支度を促した。

「では、朕も場所を変えて飲み直そう」

「警護仕ります」

 涼景は犀星との知己の関係など、全くないかのように、目配せすらしない。涼景と、数人の兵の護衛のもと、宝順はゆっくり立ち上がった。

 重ねた盃に、酒に強くない犀星は、さすがに足元が危うくなる。立ちあがろうとしてよろめいたところを、宝順が支えに入った。

「随分、酔ったようだな」

「恐れ入ります」

 眠気を堪えながら、歩こうとするが、思うようにいかない。蒼く宝玉のような瞳が夕刻近い日の光に潤んだように煌めいた。

「そなたのその瞳、まこと、美しい」

 されるがままに、抵抗できない犀星の顎に手を添えて上向かせると、宝順は腰に腕を回して体ごと引き寄せた。

「そなたの母も、そのような目をしていたのか?」

「……いいえ。知る限り、わたくしだけでございます」

 わずかに、呂律が回っていない。そのやりとりを、涼景は背後に聞きながら、心中、焦燥感を覚えた。忠告はした。自分にできるのはここまでだ。すでに酔いが回っている犀星に、これ以上酒を飲ませれば、その忠告さえ無駄になるかもしれない。酔い潰れて意識を無くした親王を宝順がどう扱うかなど、それこそ、悪夢以外の何ものでもない。

 輪姦(まわ)されるな……

 最悪の場合を想像して、涼景の心は重かった。

「親王様をお支えしろ」

 涼景は部下に命じ、まずは宝順から引き離す。庭には、帝と親王を見送る宮廷人が残っている。こんなところで、宝順が犀星に触れることなど、涼景は我慢ならなかった。一瞬、自分の苦い過去が脳裏をよぎる。

「参りましょう。陛下に馬を。親王様は籠にお乗せしろ」

 庭の外で控えていた部下たちに命じると、涼景は自らも馬のあぶみに足をかけた。と、

「親王様!」

 部下の声に初めて、涼景は犀星を振り返った。

 犀星は、意識はかろうじてあるものの、よろめいた拍子に、近くの茂みに崩れ、座り込んでいる。

「失礼致します」

 たまらず、涼景は犀星に駆け寄ると、一思いに身体を抱き上げた。

 ぐったりと力の抜けたその身体から、ふと、何かの匂いがする。酒ではない。どこかで嗅いだ記憶があるが、涼景はすぐには思い出せなかった。

 碧玉の瞳が、チラリと涼景を見上げた。声をかけたかったが、帝もいる手前、余計なことを言うわけにもいかない。戸惑った涼景の心境を読んだかのように、犀星は彼にしか見えない角度で、ニヤリと口元に笑みを浮かべてみせた。

「(こいつ!)」

 さすがの涼景も、これには驚きを隠せなかった。全て、演技だというのか? 泥酔した振りをして、帝に隙を見せ、油断させたと?

「涼景、親王は大丈夫か?」

 鞍上から、宝順が声をかけた。

「はい、おやすみのご様子です」

 帝を振り返って飄々と答えた涼景の顔に、すでに動揺はない。

 涼景は、犀星を丁寧に籠に乗せると、簾を降ろした。

「急ごう。親王が目覚めぬうちにな」

 宝順の目に、残虐な光が宿る。嬉しくてたまらない、という狂気の混じった笑みは、涼景の忌み嫌うものだ。だが、そのような素振りを見せる彼ではない。

「先導いたします」

​ 涼景自らが先頭に立ち、一行は霞河殿を後にした。

 目指すのは、帝の寝所にも近い、楼閣である。

 聚楽楼(じゅらくろう)は、帝が好んで使う、言うなれば暗黙の遊郭だ。

 普段は妾や気晴らしの女郎を囲うのだが、今夜は賓客を迎える。

 螺鈿の細工と、眩い鏡が随所に散りばめられ、わずかな光も乱反射して妖しく周囲を照らし出す。

 どこにいても、自らの姿が何枚かの鏡に反射して、否が応でも目に入る趣向である。唯一、鏡に姿を映さない位置に、玉座が据えられている。ここで、宝順は自らが何かをするではなく、気に入った者たちが痴態を晒すのを、酒を手に、嬉しげに眺めるのだ。時には、目の前で命を落とす者がいたとしても。

 聚楽楼では、すでに数十名の貴族官吏たちが、帝の到着を待ちわびていた。中には、先に宴席を抜けた者たちも混じっており、歌仙親王の美しさについて、噂は広がっていた。

 一歩先に広間に入った涼景は、宝順が玉座に着くと、その横に膝をついた。暁将軍として、帝の護衛を直々に任されている彼は、この場所で、何度も惨劇を目にしてきた。自分に助けを求める者の声にも心を閉ざし、逆上して帝に近づく者があれば、容赦無く切り捨てた。累々たる恨みと憎しみと死体の上に、今、自分の地位がある。それも、全ては故郷の妹のため、家のためと思えばこそ、堪えてきたことだ。

 反して、壁に沿って居並ぶ貴族たちは、帝同様、好んでここへと足を運ぶ。中には、興味はなくとも、周囲と歩調を合わせるために来ている者もいるだろうが、それは少数だ。

 涼景の部下が、籠を広間の入り口に下ろし、御簾を開いた。

 瞼ごしに感じた炎の光に、犀星はゆっくりと目を覚ました。

 兵士に支えられ、犀星はまるで罪人のように、広間の中央へ引き出され、その場に座り込む。

 兵士が犀星から離れ、籠を広間から運び出して、ようやく、準備が整った。

 広間に残ることを許された帯刀者は、帝と、涼景のみである。

 他の兵士たちは、広間の扉を閉め、その向こう側で警備にあたる。

「歌仙親王」

 帝が、倒れ込んでいる犀星を呼んだ。

 その声に、犀星はゆっくりと立ち上がると、着衣を正し、流れるような動きで礼を失することなく、拝啓した。一瞬、空気が凍りつく。

 親王は泥酔していたのではなかったのか?

「気分はどうだ? 酷く酔っていたようだったが?」

「ご心配には及びません」

 凛と響いた返答に、一番面食らったのは、涼景だ。その声は紛れもなく正気の、それも、冷静に策略を巡らす時の犀星の声そのものだった。

「慣れぬ宴席での失態、ご容赦の程を」

「そうか。では、一献」

 侍従が、帝と犀星に盃を渡す。

「頂戴いたします」

 やめろ!

 涼景は歯を食いしばったまま、視界の隅の鏡で、一気に酒を飲み干す犀星を見つめていた。目が放せない。

​ 犀星が口にしたものに、媚薬が仕込まれていることを、彼は知っている。ただでさえ、大量の酒気に耐えている体に、その薬は即効だろう。いくら精神的に張り詰めていようと、これ以上は肉体がもたない。今まで、そんな者たちを嫌になるほど見てきたのだ。

 犀星の意識が遠のく前に、早く、指名を…

 だが、決定権は宝順にある。いかに焦ったところで、こればかりはどうにもならない。

「もう一杯」

 反射的に、涼景は帝の横顔を見た。すぐに顔を伏せたが、残虐性を隠さないその表情が、目に焼きつく。

「はい」

​ 断ることなく、犀星は素直に二杯目を飲み、深く息を吐く。鏡に映る犀星の眼差しは、正気を保つぎりぎりのところだろう。

 頼む、倒れるな。ここで気を失えば、体も精神もズタズタに引き裂かれる。

 涼景の願い虚しく、帝はただじっと、犀星を見つめている。

 まるで、薬と酒が周り、彼が倒れ込むのを待っているかのようだ。

「次」

 三杯目を宝順が指示する。

「……陛下、さすがに……」

 たまらず、涼景が声を上げたのをかき消すように、

「ありがたく、頂戴いたします」

 犀星の声が響く。

 驚いて、涼景は直接、犀星の顔を見た。

 犀星の方も、涼景を見ていた。ふらついた振りをして、わずかに首を横に振る。

 ここで涼景が帝の機嫌を損ねれば、事態は悪い方にしか進まなくなる。涼景の立場もさることながら、この場から追い出されでもすれば、犀星が彼を指名することもできなくなる。

 俺は平気だ。

 涼景には、犀星の、そんな声が聞こえた気がした。

 強がりやがって……

 涼景の心配をよそに、三杯目も飲み下すと、乱れた様子もなく、犀星は宝順に礼を排す。

「お前が見たい」

 宝順が、低く命じる。

「言ったな? 朕の望みならば、見せてくれると」

「はい、陛下」

 犀星の声は揺るがない。涼景の方が、焦燥と不安とで心臓が高鳴り、体が熱く火照る。

「では、衣を脱げ」

「はい」

 躊躇なく、犀星は帯を解き、着付けの紐を外してすみやかに衣を脱ぎ落としてゆく。まるで、そうすることが当然であり、何を恥じることも戸惑う必要もない、という仕草だ。

 事前に知っていたこととはいえ、こうも堂々とされては、涼景も感心するしかない。

 周囲で見守る貴族たちも、こそこそと耳打ちし合いながら、期待を込めた眼差しを送っている。

 命じた宝順自身さえ、犀星の行動に目を見張る。

 薄衣一枚、最後の締め紐を解いて、白絹の襦袢を脱ぎ去ると、その下から、絹に劣らぬ艶やかな柔肌が現れる。

 十五歳の、大人になりきらない身体は、欲望を掻き立てる色気を放ち、普段は視姦するだけの宝順までが、血のたぎりを感じた程だ。

「髪も、解くのだ」

 容赦無く、辱める気か。

 静かに身体の震えを堪えながら、涼景は目を閉じた。

 青みがかった、不思議な色合い長い髪が、炎の光のもとで、妖艶に揺れた。同様に、稀有な色の瞳が潤んで煌めく。

 感嘆のため息が四方から上がり、それに誘われるように涼景が目を開くと、まるで色画から抜け出してきたような少年が立っていた。

 無防備に肢体を晒しながら、犀星は真っ直ぐに皇帝を見据えた。

 これには、宝順も魅入られる。しばし、言葉を無くして見つめ合う兄と弟の間には、決して相容れない溝があった。お互いに、一線を引き、超えた方が相手の首をとる。だが、今はその時ではない。

 宝順ならば、この場で犀星を斬り殺すことも容易だ。だが、犀星の視線が、その決定を許さない。強い眼差しは、本来であれば非礼にあたることを知りつつ、犀星は一歩も引かなかった。酒と薬で朦朧としているはずの犀星に、これほどの気迫が残されていようとは。

 宣戦布告である。

 この状況にありながら、か弱い親王が、権力の絶頂に立つ宝順帝に対し、言葉にならぬ挑戦を挑んでいる。

 こいつ、やはり、只者じゃない。

 涼景は、焦りも不安も吹き飛ぶ思いで、二人の無言の時間を見守った。

「面白い」

 宝順がつぶやいた。

「そなたは、実に、面白いな」

 犀星は答えず、眉一つ動かさない。

​「その毅然とした姿が、どう崩れるか、興味がある」

 宝順は犀星を見据えたまま、未だ自分が有利であることを知っている。

「朕はそなたの全てが見たい。どのように喘ぐか、その顔、声、身体のもだえ、絶頂の瞬間、その全てを見せてもらおう」

「仰せのままに」

 一切動じない犀星に、更に宝順はほくそ笑む。

 主人の悪癖に、虫唾が走る思いをしながら、涼景は次の一言を待った。

「ここに集まっているのは、誰もが宮廷内で力を持つ者たちだ。お前自身が選ぶのだ」

「選ぶ、とは?」

「この中の、誰にその身を委ねるか。そなたを満足させられる者を選べ」

 不条理を感じつつも、涼景は安堵した。これで、とりあえず片が付く。犀星には申し訳ないが、一夜の情交には耐えてもらう他ない。

「それでは……」

 犀星は一人一人と視線を合わせ、相手を射抜いていく。目があった者は、総じて、身体が強張り、情欲よりも恐怖に震えた。

「決めたか?」

「はい、陛下」

 犀星は宝順に向き直ると、

「全員を、所望いたします」
 この、馬鹿!

 涼景は咄嗟に叫びそうになる声を飲み込んだ。

 酔っているのか、薬のせいか、それとも、正気だとでもいうのか!

 一瞬の静寂のあと、広間に、宝順の笑い声が響き渡った。

「よく言った! それでこそ、朕の弟よ」

 涼景は、地獄絵図を覚悟した。

「涼景」

「……は、はい、陛下」

「親王を無事、邸宅へ送り届けよ。今宵は終わりだ」

 息を呑んで、涼景は宝順の言葉に耳を疑う。

 笑いながら、広間を出ていく帝を、慌てて、貴族たちが追う。広間には、犀星と涼景だけが残された。

 再び閉じられた扉を、呆気に取られて見ていた涼景は、犀星が床に倒れる音に我に返った。

「おい!」

 駆け寄ってみれば、脱ぎ捨てた衣の上で、息も絶え絶えにうめきながら、犀星がきつく目を閉じている。明らかに尋常ではない。

「来い!」

 犀星を抱えて広間の隅に連れていくと、涼景は親王のみぞおちに一撃を入れる。堪えきれず、犀星は込み上げたものを吐き出した。

 大量の酒と、入り混じった薬の匂い。

「馬鹿! 全部吐け!」

 何度も嘔吐を繰り返し、ようやく呼吸が落ち着いてくると、涼景は水瓶から桶に一杯の水を汲み、頭から犀星に浴びせかけた。

「目を覚ませ! 陛下の気が変わらないうちにここを出る」

「涼景……」

「謝るなら後にしろ!」

「違う」

 犀星はよろめきながらも、立ち上がった。

「身支度を手伝え」

 真顔で自分を見上げた犀星に、涼景はかける言葉もなかった。



  *



「気分はもういいのか」

 庭の東家で、呑気に書物をめくっていた犀星に、これまた覇気のない燕涼景が訪ねてきたのは、翌日の午後だった。​

「いや」

 犀星は机の上に書物を投げ出すと、気だるそうにのけぞった。

「頭が痛くて、集中できない」

​「あれだけ飲めばな」

「高価な薬も、たっぷりいただいたしな」

「媚薬入りだと、知っていたのか?」

「匂いでわかった」

「なら、なぜ平気な振りなどした? 適当に酔った演技をしていれば、計画どおりに……」

「計画どおりに、あいつらの前で、お前に抱かれたか?」

 涼景は向かいの席に座りながら、

「そんなに、俺に抱かれるのが嫌だったのか?」

「ああ、ごめんだ」

「はっきり言うなぁ」

「お前だって、嫌だろ」

 どこか、遠くを見るような目で、犀星は庭の景色を眺めながら、

「愛する人を裏切らなくて済んだ。お互いに。これで、よかった」

「一歩間違えば、お前は今頃、どんな姿にされていたか……一体、何を考えてあんな無謀なことを?」

「俺の目的はただ一つ。皇帝陛下を欲情させること」

 言いながら、犀星は小さな紙包みを帯の間から取り出し、涼景に預けた。

「そいつを、あらかじめ俺の身体に塗り込んでおいた」

「この匂い……確か、お前を抱えた時に……」

「ああ。宴席の間、ずっと皇帝は俺の隣にいた。そして、わざと酔った振りをして寄りかかり、最後にそいつを、陛下にも嗅がせた」

「思い出した! こいつは、淫羊藿(いんようかく)か!」

「ああ、どこででも手に入る。茶にすることもある。ちょうど、俺が疲れているからと、滋養強壮のために東雨が用意していたものを、使わせてもらった。皇帝陛下は、高価な媚薬には慣れているだろうが、こういう庶民的なものには耐性がないだろうと思ってな」

「…………」

「広間のあの状況下で、輪姦される俺を見れば、陛下とて我慢できるものではない。まさか、臣下の前で自ら自慰にふける訳にもいかないだろうしな」

「呆れたやつだ…………」

 頭痛に顔をしかめながら、それでも犀星はほっと息をついた。

「お前が事前に教えてくれたおかげだ。礼を言う」

「お前なぁ!」

「何のお話しですか?」

 涼景に気づいて、二人分の茶器を運んできた東雨が、興味津々に尋ねる。

「な、何でもない! 怒ったら喉が渇いた」

 涼景は東雨の持つ盆から直接茶碗をとると、勢いよく飲み干す。

「ふふ……それ、淫羊藿だぞ」

 犀星の言葉に、涼景は、頭を抱えて黙り込んだ。
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