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詠外伝

皇家の宴

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 今まで、歌仙の野山を駆け回り、大好きな友と毎日を過ごしてきた十五歳の少年にとって、宮中は牢獄と同じであった。何を見ても、聞いても、心動くことはなく、ただ、胸の中が空っぽになったように寂しさだけが溢れていた。
 涼景が用意した隠れ家がなければ、都入りした夜に、不審火で焼き殺されたような場所である。誰もが敵で、誰にも心を許すことはできなかった。
 元々、養父の犀遠から、質素倹約の暮らしを教えられていた犀星には、都や宮中は、余計なものに溢れかえっている。物が多過ぎて、息が詰まる。人が多過ぎて、心が疲れる。
 次第と、食が細くなり、体力が落ちていくのが自分でもよくわかった。
 無理にでも、と体を動かし、疲れさせても眠れない。食べ慣れた粥を用意しても喉を通らず、ともすると、吐き戻してしまう有様だった。
 もうすぐ、親王としての戴冠式が予定されているというのに、それまで体が持つかどうかもあやしい。
 常に体が重く、心が潰されるように苦しく、だからと言って、頼ることができる相手もいない。
 昼間は、自分につきまとう東雨の手前、平気な振りをしているが、夜になると、不安と心細さで一人、寝台で声を殺して泣く毎日が続いていた。
新芽より
泉が如くに
溢れども
心も姿も
見えぬともがら
( 伯華)
「会いたい」
 すぐに、ここを飛び出して、歌仙に帰りたい。あの、懐かしい人に会いたい。
 だが、自分は人質なのだ。帝の意志に反することをすれば、犀家は愚か、歌仙一帯が戦場となるだろう。
 民たちの平穏な暮らしは壊され、家族を失い、失意に落とされるのは明らかだった。
 民のために、家のために、自分はここに残らなければならない。
 厳しい宮中の上下関係やしきたり、煩わしい人との関わりや謀略の数々、そんなものには耐えて見せよう。むしろ、それらを跳ね除けてでも、我が道を切り開いてやろう。誰にも屈しず、皇帝をも凌駕する力を手に入れてやろう。
 民心より心強いものはない。
 犀遠は、常に犀星にそう、教えてきた。
 そして、民心より薄情なものはない。
 と。
 民の心は素直である。
 自分達に利があるとなれば、これほど頼りになるものはないが、同時に、見放される時はあっという間だ。わずかな隙や手抜きは、すぐに見抜かれる。
 民より賢く、民より愚かなものはなし、と、犀星は繰り返し、思い知らされてきている。
 犀遠と共に、気心の知れた領地の民と接していてさえ、そうだった。
 ましてや、完全に余所者である自分が、この都の民の心をどれだけ掴めると言うのか。
 そんな犀星の孤独を知ってか知らずか、なぜか毎日のように訪ねてくる人物がいる。
 燕涼景だ。
 彼も近衛隊の部隊長という立場で、夜遅くまで宮中に詰めていることが多い。それでも、仕事が終わると、決まって、犀星の様子を見にきた。ここは本来、涼景の持ち物の邸宅であるから、犀星がそれを断ることはできない。
「また泣いてるのか」
 東雨を起こさず、楽々と室内に入ってくるあたり、さすがに戦慣れした将軍である。
「盗人にでも転職した方がいいんじゃないか」
 泣き声を押し殺して、それでも涙に腫れた顔は見せまいと、犀星は背中を向けたまま、つっぱねた。欄間から差し込む満月の光は、室内深くまでその光芒を伸ばしている。
「考えておこう。俺も宮中暮らしは好きじゃない」
「だったら、どうして将軍にまでなった?」
 恨みがましく、犀星は言った。
 自分より三歳年上の涼景は、その若さなど全く感じさせず、宮廷内で大いなる存在感を持っている。しかも、民衆からの信頼も厚い。同じ歌仙の出身だが、幼い頃から都入りしていた涼景と自分とでは、周りが見る目も違うのか。
 各地で数々の戦功をあげ、数年前の歌仙の乱の際に、正式に将軍職についた。異例の出世は、並大抵の努力で成し遂げられるものではない。
「宮中で出世するのは、そんなに楽しいか?」
「家のため、故郷の民のためだ」
 涼景の答えに、思わず犀星は振り返った。目の周りが赤く腫れている。
「やっぱり泣いていたのか」
 涼景は遠慮なく、犀星の横たわる寝台に座った。
「そんなことはどうでもいい」
 犀星はじっと暗がりの中で涼景の顔を見た。
「お前は、故郷の者たちのために、ここに残っていると言うのか?」
「そうだ。お前と同じだよ」
 犀星には、その答えは意外だった。
 てっきり、地位や名誉を求めて宮中に上がったものとばかり思っていたが。
「地方から呼び出されている連中は、ほとんどがそうだ。薄情なやつは、故郷を捨てて逃亡するが……」
「そんなことをすれば……」
「そうだ。だから、俺はしない。何があろうと」
「俺だって!」
 犀星は強気に言った。
「絶対に、歌仙を守る」
「領民のため、家のためか」
「それもある。父にはそう、教えられてきたし、俺もそれが正義だと思う」
「そうか」
「だが、もうひとり……」
 と、言いかけて、犀星は口をつぐんだ。
 これ以上を、今、信用できるかもわからない涼景に伝えることことは、いずれ自分の弱みを握られることになるかもしれない。
「まぁ、誰にでも、知られたくないことくらいあるさ」
 初めて会った時と同様に、涼景は気楽に言った。
「こんな所で泣いていても、どうせ、眠れないんだろう? せっかくの月夜だ。散歩に行かないか?」
「何を言っている? 近衛の護衛なしで、俺は出歩けない」
「俺も近衛なんだが?」
「……空き巣かと思った」
「そいつは副業だ」
 冗談を言って、涼景は動きの鈍い犀星を寝台から立たせると、晩春の寒さに耐えられるよう、厚手の着物と長衣、襟巻きを用意した。
「どこへ行く気だ? 真夜中だぞ」
「だから見せたい場所があるんだ。信じてついてこい」
「お前なんか、信じられるか」
「はっきり言ってくれるじゃないか、歌仙親王」
「俺をそう、呼ぶな」
「おっと、まだ戴冠式前だったな」
「そういう意味じゃない」
 何だかんだと言い合いながら、犀星は涼景について行った。
 この男は得体が知れないが、どうやら自分の敵でないらしい。少なくとも、危害を加える様子はないし、東雨のように妙に体に触れてくることもない。
「涼景」
 犀星は並んで白い息を吐きながら、疑問に思っていたことを尋ねた。
「東雨のことなんだが」
「ああ、あの稚児か。もう抱いたか?」
「……は?」
 目を丸くしている犀星を、涼景は、信じられない、という顔で見る。
「おいおい」
 涼景は裏通りをのんびりと歩きながら、呆れ声で、
「お前、東雨がどうしてお前のところに寄越されたのか、わかってないのか?」
「皇帝からは、身の回りの世話をするように、と聞かされている」
「その身の回りの世話、ってのには、夜伽の相手も含まれる」
「夜伽? 一緒に寝るってことか?」
「どのような性行為も受け入れるよう、東雨は仕込まれている」
 何でもない、と言う調子で軽く言う涼景に、犀星は唸ってしまった。
「……噂に聞いたことはあった。都の貴人たちは、年齢性別関係なく、肉体関係を持つと」
「酷い言われようだが、真実だな」
「俺が東雨を抱かないと、あいつは咎めを受けるのか?」
 明らかに、嫌なんだが、という感情のこもった声で、犀星が言う。涼景は首を振った。
「いや、それは関係ない。お前があいつを気に入らない、と皇帝に訴えれば別だが」
「気に入るも何にも、身の回りのことを甲斐甲斐しくやってくれている。別に不満はない」
「だったら、無理に抱く必要はない」
「ずっと、しなくてもいいか?」
「お前なぁ」
 涼景は、すっかり犀星の世間知らず、ならぬ宮中知らずに、驚かされてばかりだ。
「したくないのか? 東雨が相手じゃなくてもいい。その年齢で、興味がないのか?」
「ない……わけじゃ……」
「だったら……」
「ただ、誰ともしたくない」
「……そうか。心に決めた相手がいるか」
「え?」
 明らかに動揺して、犀星は声を高めた。
「そ、そんなことは! あいつはただの友人でっ!」
「その友人のために、人質に甘んじる」
 勘のいい涼景には、すっかりと全てを見抜かれてしまった。
 そうとわかれば、言い訳をする犀星ではなかった。
「大切な人を、歌仙に残してきた。生涯、共に生きたいと願う人だ。だが、連れてくることはできなかった」
「だろうな。今のお前の立場は危うすぎる。巻き込まれてそいつは命を落とすだろう」
「それでも……寂しいんだ」
 珍しく、犀星が素直になったのは、月の光のせいだろうか。
 涼景は、同じ故郷を持つ犀星を、特に大切にしているようだった。
 近衛隊師団長として、歌仙親王付きを命じられてはいるが、それも、自ら志願したことらしい。同郷の者の方が、互いにとって心が通じやすいだろうとの情状も、彼に味方した。
「なぁ、星」
 まるで長年の友のように、親しく涼景は話しかけた。
「俺はまだ、寂しいとか、辛いとか、そんな感情を自覚するより前に、都に連れてこられた。だから、お前の気持ちを理解することは難しいだろう」
「涼景……」
「だが、故郷を、残してきた大切な人を守りたいという思いはわかるつもりだ。それだけは、信じてほしい」
「宮中の者を信じるな、と言ったのはお前だ」
「矛盾しているな。だが……信じてほしい。決めるのはお前だ。だが、俺はお前を信じる」
「お前が俺を信じようと、俺がお前を信じる理由にはならない」
「手厳しいな」
 涼景は苦笑いしたが、それでもどこか満足そうだった。
 月夜の晩、自分が待ち焦がれていた相手と、二人で都を歩いている。
 犀星が知らない昔から、ずっと涼景は犀星を待ち続けていた。
 五年、彼は待った。
 いずれ、親王として犀星が都に上がった時には、自分がその身を守ると誓って、腕を磨き、位を得て、待ち望んでいた。
 犀星がそれを知るのは、ずっと後になってからのことである。
 涼景は宮中へと犀星を連れて行った。
 宮廷門には見張りがいたが、涼景と犀星を足止めなどできない。
 二人は、昼間とはうって変わって静まり返った宮中の朱雀大路を進んだ。少し行ったところに、古い山桜の木がある。二人が、初めて出会った場所だ。
 犀星は、あの時のことを思い出した。
 いきなり切り付けてきたんだよな。
 今となっては、そのようなことはしないが、あの時の涼景の一撃は、命を落としてもおかしくないものであった。
 彼は試したのだろう。
 犀星が、自分が命を懸けて守る価値があるかどうかを……
 ほんの数日前のことが、はるか昔のように思われる。
「お前とここで会った時」
 涼景も、同じことを思い出したいた様子で、懐かしそうに言った。
「俺は決めたんだ。必ず、お前を守ると」
「その前に、殺そうとしただろう?」
「そこでやられるようなら、俺に守られる資格はない。だが、お前は俺の刀をかわした」
「…………」
「本気で殺す気で、放った一撃だった」
「……おい……」
 今になって、犀星の額に当時の迫力が蘇る。本当に髪一筋の差で、避けた一撃。
 それが、自分の命運を決めたというのか。
「お前がこの桜の前にいるのを見た時、俺には、この古木の向こうに世界が開ける気がしたんだ」
「この山桜の向こう、とは?」
 涼景が灯籠を掲げて示した。
 山桜を角に、朱雀大路を西へ向かって、藪が続いている。よく見れば、古い石畳が朽ち果てて地面を蛇行していた。もう、しばらく人通りはないようだ。
「この先に、何かあるのか?」
「今はない。だが、昔、この道の果てに、美しい御所があったという。火事が出て、焼け落ちてしまったそうだが」
「いつ頃の話だ?」
「先帝が即位して間も無くのことだそうだ。俺も、年かさの者たちから話を聞いた程度しか知らない」
「そんな場所に、どうして俺を連れて行こうとする?」
 涼景はじっと、犀星を見つめた。
 その目は不思議と、犀星を惹きつけた。人付き合いの不得意な彼は、まともに相手の目を見ることはないのだが、この時ばかりは、涼景から視線を外せなかった。彼が真剣であることが伝わったのかもしれない。
「犀伯華。この先に、お前の居場所がある。お前なら、この宮廷を、今の朝廷を変えてくれる。そのために、お前の助けになる場所が、長い間、お前が来るのを待っていた」
「…………」
「根拠も理屈もない。だが、俺の勘がそう言っている。お前を、連れて来いと、呼ぶ声が聞こえる」
 涼景は、彼のものとは思われないほど、静かで穏やかな声で言うと、先に立って歩き始めた。
 足元が悪く、砕けた石が邪魔をして悪路が続く。
 涼景は犀星の歩みを心配したが、さすがは最近まで、歌仙の山道を駆け回っていただけのことはあると見えて、慣れた様子で、危なげなくついてくる。むしろ、それを楽しんでいるかのようでさえある。
 どのような身分であろうと、まだ心の幼い子どもではないか。
 涼景はふと、笑みをこぼした。それが犀星の目に触れることはなかったが、彼のことを大切に思う真意が込められていたことに、間違いはない。
「星、都は嫌いか?」
「別に。まだ、よく知らない。好きとも嫌いとも判断できない」
「そうか」
「ただ、宮中は嫌いだ」
「なぜ?」
「みんな、そこにいるようで、そこにいないから」
「不思議なことを言うな」
「そう、感じる」
 先を行く涼景には、犀星の表情は見えなかったが、それでも、素直な気持ちを吐露してくれていることだけは、感じられた。本来の犀星は……そう、彼が大切にしている人と共にいる時の犀星は、このように真っ直ぐで純粋な言葉を紡ぐ少年なのだろう。
「お前の感覚、わからないでもない」
 涼景は、犀星にならって正直に答えた。
「全てが作り物で、中身が見えない。お前より長くここにいるが、それでも、真実を見抜くことは難しい」
「何が真実かを決めるのは、自分自身だ」
 犀星は不意に、大人びたことを言った。
 涼景が、その言葉にハッとする。彼は、以前、同じことを別の人物に言われたことがあった。
「それは……」
 涼景は遠慮気味に、
「お前の育ての親、犀侶香様の教えか?」
「……ああ」
 やはりな。
 涼景はなぜか心が浮き立った。
「星、俺は俺の真実を見つけたようだ」
「……なんのことだ?」
「そのうち、わかる」
 行手に、開けた場所が現れた。
 開けた、と言っても、草が彼らの胸まで生え、風に任せて飛んできた植物が好き勝手に咲き乱れる、荒地である。
「ここか?」
 犀星が涼景に並ぶ。
「ああ」
 広さだけは申し分のない、だが、荒れ放題の草地だ。
「どうして、ここに俺を連れてこようと? そう、聞こえた、と言ったな?」
 犀星は涼景を振り返った。
「俺にもわからない。だが、呼ばれている。お前はこの場所の主人だ」
「野山育ちには、このような場所が似合いだ、と言う嫌味か?」
「違う!」
 こればかりは、涼景が強く否定したため、犀星も皮肉を引っ込める。
「悪かった。お前が何かを感じたなら、きっと、俺にも何か……」
 と、犀星の目が、一点に止まる。
「あ!」
 急に草をかき分けて走り出した犀星を、慌てて涼景が追う。万が一、怪我でもさせたら、大事である。
「星!」
「涼景、これ!」
 犀星は、草の間に咲き乱れる花を見つけて、かがみ込む。
「なんで、こんな季節に曼珠沙華が……」
「俺が、一番好きな花なんだ」
 犀星は、懐かしそうに、花弁に触れた。
「待っていてくれたのは、お前なのか?」
 と、犀星の耳に、あたり一面から、不思議な音が立ち上るように聞こえてくる。
 楽の音でもなく、人の声でもなく、風と木の葉のざわめきでもない。
 だが、どこかで聞いたような、昔から知っていたような、懐かしい響きだ。
 空を見上げると、満月がちょうど天頂にあり、それをめぐる星々が降るように輝いている。
「これは……」
 犀星を取り巻くその光景に、涼景は息を呑んだ。
 彼には何も聞こえてはいなかったが、明らかに犀星の様子が変わったことは見てとれる。
「星、どうした? 大丈夫か?」
 犀星に近づこうとした涼景を遮るように、一陣の風が吹きすぎる。
 近づくな。
 ぞくりとして、涼景は後退った。
 犀星はゆっくりと立ち上がると、柔らかな風の 中、目を閉じて、天を仰いだ。

 この世界は、今とはまるで違う。
 厳かに、五つの巨石が広場の各所に規則正しく置かれ、それぞれの石を頂点に、五角形を描いて巨大な東屋が建てられている。朱塗りの柱なのだろうが、色が褪せて、彩度が低く霞んで見える。
 それは柱だけではなかった。
 低く張り巡らされた柵や、天井に貼られた板、雨樋の竹も、風に揺れる簡素だが柔らかく豊かな布飾りも、その刺繍の糸の色さえ、まるで別世界のように曇っている。
 数段の階段を踏み締め、犀星は東屋の中へ入った。
 自分が歩いているという感覚はなく、まるで視界だけが移動しているかのようだ。
 五角形をした床には、腰を下ろせる長椅子や低めの卓、中央には花崗岩で作られた炉があり、東屋に引火することがないよう、丁寧な細工が施されている。各所に人の背丈ほどもある樹木が、土から生えたままの状態で建物の一部として残されており、さらに梁には蔦葛や藤の枝が絡みついて、季節を問わずに何かしらの花と緑の葉が茂るようである。
 まるで、東屋自体が、幾本もの天然木が重なってできた、一つの植物のようだ。
 犀星は不意に、涼景の言葉を思い出した。
 ここには、火事でやけ落ちたが、邸宅があった、と彼は言った。
 だが、この建物らしきものは、人が暮らす邸宅とは別物である。そこだけが、不思議な空間であり、人間の世界と切り離されたようだ。
 と、背後から、子供の声がした。
 何人かの少年と少女が、笑い合いながらこちらに駆けてくる。
 犀星は入り口に突っ立ったままの自分に気づき、退けようとしたが、その瞬間、自分の体の中をいくつもの熱い感情が駆け抜け、同時に、肉体をすり抜けて、少年たちは東屋の中に駆け込んで行った。
「な、何だ、今の……」
 間違いなく、彼らとぶつかったはずだ。
 確かに感じた熱は、彼らの心の動きだったようにも思われる。
 自分の中を通り過ぎて行った彼らの姿もまた、他の全ての景色同様、彩度の低い、掠れたものだ。
「これは、夢?」
 そうだ。先ほどまで、真夜中だったはずなのに、今は太陽が輝いているではないか。
 そして、この世界の色彩。
 今の不思議な体験。
 それら全ては、夢であるなら説明がつく。
 そうだ、これはただの夢だ。
 自分は、あの曼珠沙華を見つけた場所で、眠ってしまったのだろう。
 かなり無理のある展開ではあるが、そうとしか、考えられない。
 それとも、ここは異世界で、自分はそこへ連れてこられた?
 いや、ならばむしろ、このまま歌仙に帰ることもできように……
 事態を飲み込めず、かといって声をかける相手もいない中、犀星は黙って成り行きを見守った。
 子供たちは、都も歌仙も変わらない。
 服を汚そうと、怪我をしようと、興味があるものには飛びついて、全身でその存在を確かめ、そうやって物事を覚えていく。世界を知っていく。
 ぐっと、胸が詰まって、犀星は溢れ出した涙に声を漏らした。
 そうだ。
 自分もそうして、幼馴染と共に育った。
 歌仙の野山は優しく、厳しく、全てを教えてくれた。
 ただ一つ、人間の醜さをのぞいて……
 駆け回っていた子供たちには、犀星の姿が見えているのだろうか?
 彼はそっと、子供たちの様子を伺った。
 だが、誰一人、こちらを振り返ったり、近づいてくる者はいない。
 これが夢なら、俺は別に、何をする必要もない。
 犀星は、長椅子の一つに腰掛けた。
 ゆっくりと袖で涙を拭う。誰にも見られていないのだ。どんなに泣いても、知られはしない……
「どうして、泣いているの?」
 突然、頭の中に、少女の声が響いた。
 犀星は驚いて周りを見回した。
 先ほどまで、誰もいなかったはずの隣に、十歳ほどの赤い着物を着た少女が座り、こちらを見上げている。
 不思議なことに、彼女だけは、他の全てのものと違って、自分と同じ明るい色彩を保っている。
 少女の顔に見覚えはない。
「俺が、わかるのか?」
「うん」
 少女は素直に頷いて、じっとこちらを見つめ続ける。
 赤い着物には、白い曼珠沙華の模様が入っている。
 白地の帯は楽に締めて残りは長く垂らし、黒い下駄に白い鼻緒、襟には金糸で美しい刺繍がある。
 何より印象的なのは、着物と同じ、真紅の髪と、赤い瞳だった。
 犀星もまた、碧玉の髪に同色の目を持ち、周囲から稀有の視線を浴びてきたが、似たような人間に出会ったのは初めてだった。
 いや、人間なのか?
 その問は、そのまま、自分にも返ってくる。
 確かに、自分の両親ははっきりしているが、それでも、この容姿は異様と見なされ、子供の頃から気味の悪い存在として避けられ続けてきた。
 そんな記憶が蘇ると、自然に表情が柔らかくなる。
 自分と同じように、変わった姿の相手に、親近感さえ覚える。
「ここに来るのは、二度目だね」
 少女は、犀星を見たまま、そう、言った。
「二度目? 俺は初めてここへ来た……」
「ああ、そうか。あの時はまだ、見えていなかったんだ」
「何の話だ?」
「ここにはね。お屋敷があったの」
 犀星の質問に答えているのか、勝手に話しているのかわからない調子で、少女は続けた。
「この国で、一番偉い人がね、女の人を閉じ込めていたお屋敷」
 ぐらり、と世界がゆらめいて、犀星は思わず椅子に捕まった。
 だが、実際に揺れたわけではない。ただ、周囲の景色が大きく崩れ、歪み、別の景色へと変化していく。溶けた飴細工のように、ゆるゆると風景が変わると、そこは、調度品にあふれた豪華な客間となる。自分達は、壁際のやわらかな長椅子に座ったまま、それを見つめているのだった。
「これは……」
「ここがね、一番大きなお部屋だったの」
 少女が、奥の方を指差した。
 自分の足元から、その方向へ、床が迫り上がるようにしていくつもの食卓が盛り上がり、それを挟むように両側に大振りの椅子が並ぶ。椅子には、立派な身なりの男女が座り、食卓の上には花が飾られ、食べきれないほどの料理がびっしりと並んでいる。
 少女が指した奥の席には、夫婦らしき男女がこちらを向いて座っていた。
 遠く、また、色彩が薄いことから、その風貌ははっきりとしない。
 人々の声は聞こえるが、好き勝手に話しているせいなのか、そもそも、意味がないのか、何を言っているのか、内容は全くわからなかった。
 ただ、騒がしく、賑やかな空気感だけが伝わってくる。
 目の前に並んだ料理の匂いは感じられず、絵に描いただけのようだ。
「父上と、母上」
 少女が、奥の二人のことを、そう、呼んだ。
「あなたは、ここの娘さんか?」
「わからない」
 少女は即答した。
「でも、ずっとここにいる」
 ああ、そうだ、これは夢だ。
 犀星は、思い出したように、そう、自分に言い聞かせた。
 辻褄が合わなくて当然だ。
 これは自分が見ている、無意味な夢。
 そこに真実も、道理もあるはずがない。
 この少女とて、自分の想像力が作り出した幻なのだ。
 そう思えば、何が起きようと、驚くには値しない。
 落ち着いて見渡せば、そこは貴人たちの宴席のようだ。
 主人である夫婦が上座に座り、招待された客人たちに料理を振る舞っている、ごく平凡な世界だ。
 自分はまだ、宮中でこのような席に参列したことはないが、想像していることが形になったのだろう。
「ここは、あなたの家?」
「わからない」
 同じようなやりとりを、犀星は少女と繰り返した。
 答えなど、不確かで構わない。
 ただの、夢なのだから……
 と、再び世界が様相を変えた。
 広かった部屋は急速に縮小され、自分達の椅子はそのままに、奥の壁がこちらに迫ってくる。
 座っている夫婦や客人たちが折り重なり、色が混ざり合うように形を失いながら、自分を押しつぶすように、急速に近づいてくる。
 思わず、犀星は目を閉じ、腕で顔を庇った。
 ぶつかる!
 だが、静けさの中、そっと腕を下げると、そこは平穏な寝室に変わっている。
 脅威になるものは何もなく、自分も、少女もそのままだ。
「違う部屋?」
「わからない」
 少女はまた、そう答え、犀星も特に追求する気は起きなかった。
 寝室は簡素で、天蓋のある大きな寝台と、その向こうに鏡台が置かれているだけだ。飾り気のないその部屋もまた、今までと同様に、彩度の落ちたくすんだ世界である。
「母上」
 少女が、寝台を指差した。
 部屋の様子に気を取られていた犀星は、少女の声に、寝台を見た。
 降ろされた天蓋の薄い布の向こうで、裸体の男女が絡み合っている。
 夢とはいえ……と、犀星は目を逸らした。
 自分は何を想像しているんだ。
 男女の睦ごとなど見たことも無いというのに、勝手に自分で妄想を膨らませていることに、羞恥心が湧き上がってくる。
 しかも、隣には年はも行かぬ少女がいる。子供に見せるものではないだろうに、自分は……
「母上」
 少女が繰り返した。
 犀星は耳を塞ぎたい思いだった。
 先ほどの宴席のように、意味のない、しかし確かに重なって聞こえる男女の声。
 そして、無垢な少女の声。
 身体の芯が熱くなり、自分自身が目の前の光景に高揚していくのを感じて、犀星はその場を去ろうと体に力を込め、動けないことを知る。
 体の自由は効かず、目を閉じることもできない。
 泣き叫ぶ女と、欲望に狂ったように体を振る男の姿が、視界いっぱいに焼き付いていく。
 同時に、見たこともない情交の絶頂が、女の体を不自然に歪め、男が肌を打ち付ける音が高く響く。
 これは何だ?
 こんなものが、男女の幸福な情事であるはずがない。強姦される女と、それを楽しむ男。
 自分の想像が、そんな世界を作り出すなど……
 犀星は涙が溢れるまま、ただ顔をそらすこともできずに見つめ続ける。
 その時、少女が一言、つぶやいた。
「母上……あなたの」
 ぞくり、という悪寒が、全身を貫いた。
 薄布で顔は見えないが、女が、自分の母?
「ほら、あなたが来た」
 少女が、どこか嬉しそうに、そう言った。
 確かに、自分の母親は、先帝の妾とされ、自分を産んだ。
 だが、愛されていたのではないのか?
 このような虐待の末に、自分は宿った?
 狂ったように泣いて許しを乞う女の姿はあまりに強烈で、犀星の中で限界の糸が切れる音がした。
「やめろぉっ!」
 絶叫が喉をつき、身体中から冷や汗が流れ、一瞬、立ち上がったように感じたが、すぐに脱力して、犀星はその場に体を投げ出した。
 ばらばらに四肢が崩れ、溶けて景色の一部となっていくように、重たい脱力感が彼の呼吸を止めていく。
「おかえりなさい」
 自分を覗き込んで、少女が寂しそうに言った。

「星っ!」
 崩壊したと思われた体は、力強い涼景の腕の中で、かろうじて原型を留めていた。
「星! しっかりしろ! おい!」
 激しく揺すられ、閉じていたらしい目を開けると、血の気のひいた涼景の顔が間近にあった。
「……ゆ……め」
「夢?」
 涼景は犀星の体をあちこちと確かめ、怪我のないことを確認してから、呼吸を整えた。
「お前は眠ってなどいない。いきなり倒れたんだ」
「……え?」
 涼景の目の前で、天を仰いで立った犀星は、わずか数秒後、崩れ落ちたという。
「大丈夫か? 怪我はないようだが……どこか痛むか? 具合は? 頭痛や吐き気はないか?」
「わからない」
 犀星は、思わず口にした言葉に、ハッと我に返った。
「涼景……ここ、この場所……」
「……何か、見えたんだな?」
 犀星は涼景に支えられて立ち上がると、草をかき分けて、心当たりの場所を探った。
「あった……」
 ちょうど、曼珠沙華の花を囲むように、巨石が五つ、半分以上が土に埋もれて残されていた。
「涼景……」
 犀星は我知らず、涼景の襟にすがり、静かな涙を流したまま、彼の顔を見上げた。
 月明かりの中、あまりに幻想的なその表情の美しさに、涼景は息を呑んだ。
 口付けてしまいそうになる誘惑を断ち切るように、涼景は犀星の頭を自分の肩に押し当て、抱き締めた。
「どうやら……俺は、ここに帰ってくる運命だったみたいだ」
「…………」
「涼景、俺はここに、決めた。この場所に、俺の都での住まいを造る。そして、ここから、すべてを始める」
「……星」
「そばにいてくれ」
 それは、犀星が初めて、涼景に心を許した瞬間。
 最後の扉が、開かれた瞬間……
「ああ!」

裏庭の
蔦葛あり
宵なれば
我は立ちぬる
君が背に寄り
(仙水)

 まだ、幼さの残る犀星を抱いて、涼景は誓った。

 犀星は親王の即位式を前に、儀礼や作法を学ぶため、たびたび、涼景と時間を共にしていた。
 歌仙育ちで、都のしきたりにはさっぱり縁がなかった犀星に、涼景はあれこれと宮中を案内したり、細かな礼儀を直接教えてくれた。
 それ自体は必要なことであったし、犀星としても大変役に立つことだったが、いかんせん、堅苦しい空気には慣れない犀星の気質が、彼をより一層、愛想の無い鉄面皮の少年へと変えていったことも、事実だった。
 元々、感情を一才見せない犀星だったが、そこに日々の疲労も加わって、日を追うごとに機嫌が悪くなるのが、東雨にもよくわかった。
「お茶をお持ちしました」
 東雨が部屋を訪ねたとき、涼景は犀星に宮中の人間関係を説明していた。
「ああ、すまないな」
 難しい顔で(最近は、いつもそうだった)家系図を睨みつけている犀星に代わり、涼景が振り返って声をかけた。
「皇家の系図ですか?」
 東雨が机の上に広げられた書面を見る。
「ああ。星は自分の身内のことも知らされていなかったらしい」
 涼景は早速、香りの良い茶をすすった。この幼い東雨が、気難しい犀星の世話を一身に任されていることが、忍びなく思われる。
「東雨、お前は知っているか?」
「はい、仙水様」
 東雨はすんなり頷いた。
「若様のおそば付きが決まったとき、教えていただきました」
「そうか。では、同席してくれ」
 涼景は、東雨を隣りに座らせると、一緒に犀星に向き合った。
「星、どうだ?」
「……ややこしい。この前、お前が持ってきた系図と、名前が違うんだが?」
「ああ。あの後、いくつか養子縁組があったり、逆に離縁したりと人が動いてな。これが、最新のものだ」
 犀星よりも、東雨の方が興味深そうに系図を覗き込む。
「あれ、常宝臣子様、お名前を改められたんですね?」
「ああ。帝の命令で、『宝』の字を変えろと言われたそうだ。姪の立場で自分と同じ文字を持っていることを、快く思っていなかったからな」
「周防(すおう)親王殿下が亡くなられてから、ご一族は随分な目に合っているとか」
「仕方がない。宝順帝からしてみれば、自分の皇位を奪おうとした兄の一族だからなぁ」
 呑気に茶を注ぎ足しながら、涼景はゆっくりと言った。それは東雨との会話の一部だが、同時に犀星に状況をわからせるための説明でもあった。
「……待て、周防っていうのは、ここにある……常稔(じょうねん)親王のことか?」
 犀星が、系図を指差しながら、
「それで、常宝っていうのが、この……常峰……臣子、だっけ?」
「そうだ」
 涼景が頷く。
「なぁ、何で周防って呼ぶんだ?」
「亡くなられてから、常稔様と名前をお変えになりましたから」
 東雨が恐る恐る、犀星に伝える。
 犀星は眉間に皺を寄せて、顔を上げた。
「どういうことだ? 死んでから?」
「はい。皇帝陛下が、お命じになられたのです。周防殿下のお里……ええと、母方の苗字が常でして……それで、先帝様から授かった周防の名を改めて、奥方様の家系に……」
「死んでから?」
 犀星が表情を変えずに問う。
「本当は、ご存命の時から、その話は出ていました」
「それなら、どうして死後に?」
「ええと……それは、周防殿下が、拒んでいらっしゃったから……」
「帝の命令を聞かなかったってことか。二人は、仲が悪かったのか?」
「……はい。周防殿下は、先帝様の第一子ですが、お母上が側室でした。ですから、皇位は正室の御子である宝順陛下がお継ぎになられたのです。周防殿下は、それが納得できず、先帝が亡くなられてから、あからさまに陛下と対峙なさるようになり、それで余計に疎まれていらっしゃいました」
「宝順帝としては、目障りだったということか」
「え!」
 東雨は、露骨な犀星の言い方に、びくり、とする。
「そ、そんなこと、外でおっしゃらないで下さい! 若様まで、睨まれてしまいます!」
「だが、事実だ」
 涼景が、犀星同様、何でもない、というように言ってのける。
「仙水様! あなたのお立場で、そのような発言は……」
「東雨、お前は警戒しすぎだ」
 涼景はやれやれ、と首を振って、
「お前の年齢から、そんな相手の顔色ばかりうかがっていては、心を病むぞ。星だって、馬鹿じゃない。俺たちが相手だから言えるんだ。分別くらいある」
「そうでしょうか……」
 と、思わず、東雨が目を細めた。
 彼の偏屈な主人は、帝を前にしてさえ、平気でずけずけと何でも言いそうで、東雨は想像しただけで冷や汗が止まらない。
「若様……怖いもの知らずですから、俺の方が恐ろしくて……」
 涼景は鼻で笑った。
「そういうお前も、星に対して遠慮ない口をきくじゃないか」
「そ、そんなことは……」
「あるだろ」
 我が身を振り返って、東雨は言い返せなかった。
 確かに、涼景が言う通り、自分はいつしか、犀星に気をつかわなくなっているような気がする。
 始めこそ、丁寧な対応を心がけていたが、どう接したところで、犀星は気にした様子もない。
 堅苦しいことを、元々好まない犀星である。気を遣って疲れるだけ損だ、と、東雨も次第と無遠慮になっていた。そうなっても、思った通り、犀星の東雨に対する態度は変わらなかった。
「若様は……格式ばったことは気にしませんから。本音で話さないと、聞いてくれません。特別です」
「ほう?」
 涼景が面白そうに笑う。
「東雨、やはりお前も、俺と同じ部類だな」
「え?」
「いや、将来が楽しみだ」
「…………褒めていませんね」
 東雨は横目で涼景を睨んだ。涼景は弟にでもするように、東雨の頭を乱暴に撫でた。
「期待してるぞ」
「なにをですか……」
「さぁな」
 馴れ合う二人をじっと見ていた犀星が、頃合をはかって口を開いた。
「なぁ。俺の、もう一人の兄って、この人だろ?」
 犀星が指先で、とんとん、と書面を叩く。
「なんて読むんだ、この名前? ゆう……せん?」
 涼景が笑いながら、
「夕泉(ゆうぜい)殿下だ。以前は、詩仙といったが、お前が歌仙の名を受けたからな。それで、名前を変えた」
「何だか申し訳ないな」
 犀星は本気で心配しているようだった。
「気にすることはない。名前の変更など、よくあることだ。夕泉親王は、本名を夕玖蘭(きゅうらん)と仰る。字(あざな)は潤稀(じゅんき)だ」
「また、ややこしい……」
「すぐに慣れるさ」
 夕泉の名が出たことで、東雨がどこか、ほっとしたような顔をする。それに気づいたのは、犀星だった。
「東雨、お前、この人を知っているのか?」
「え? あ、はい」
 東雨はなぜか、顔を赤らめた。
「詩仙殿下……夕泉殿下は、とてもお優しい方なんです。俺たちみたいな子供にも、とても親切にしてくださって、ご自身の俸禄で慈善活動をなさっていらっしゃいます」
「慈善活動?」
「はい。貧しい農民から町人の子供まで通える学問所を作ってくださったり、お庭やお屋敷に招待してご馳走してくださったり……」
「…………」
 犀星は、じっと東雨の嬉しそうな顔を見ていたが、不意に、涼景に視線を移した。
「会ってみたい」
「ええっ!」
 東雨が、大声を出す。
 犀星が、誰かに会いたいなど、初めてのことだった。
 涼景がこうして訪ねて来るのさえ、面倒がっていたほどである。
「涼景、取り次いでもらえるか?」
 すでに犀星は帝への目通りを済ませているため、他の誰と会おうと自由である。涼景はニヤリ、として、
「ああ。まかせろ。夕泉殿下も、お前に会いたがっていた。お前が人見知りだとお伝えしたら、無理強いはしなくていいと言われたから、今まで黙っていたが」
「そうか」
 犀星は難しい顔をやめて真顔に戻った。これが、犀星の機嫌がいい時の表情だ、と東雨は思うことにしている。
 犀星は整った美しい顔をしている。それに加え、稀有な髪色と瑠璃の瞳だ。そんな彼は、真顔でいるだけで周囲を魅了する。逆に、少しでも険しい顔をされると、常人の倍は迫力がある。東雨としては、笑顔でなくてもいいから、せめてしかめっ面だけはしないで欲しい、と常々思っていた。必要以上に怖いのだ。
「東雨、お前も行くか?」
 犀星が東雨を改めて見た。
「いいんですか?」
「当然だ。お前は俺付きなんだから。いいだろ、涼景」
「さぁ、それはどうかな」
「何か支障があるのか?」
「夕泉様は、確かに面倒見の良い方だが、普段はあまり人とお会いにならない。今回は、星、お前一人の方が良いと思うぞ」
「……そうか。残念だが……」
「平気です、若様!」
 東雨が無理した様子もなく、首を振った。
「まずは、若様と夕泉殿下がお近づきななられて、それから、俺を呼んでください」
「ふふ……近づきになれるものだろうか」
「きっと大丈夫ですよ。夕泉様は、他の貴人なんかよりずっと、優しい方です」
「だと、いいな」
 涼景は、面白くなってきた、と笑みを浮かべている。犀星が、腹違いの兄と、どんな顔で、どんな会話をするのか、涼景としても興味がある。
「早速、手配しよう。できれば、戴冠式の前に会っておくといい。俺が教えた礼儀作法の実践、仕上げにもなるからな」
「よろしく、伝えてくれ」
 珍しく、犀星は一言、付け加えた。

 夕泉親王は、先帝の第三子にあたる。犀星のすぐ上の兄であり、年齢は三つ違いだった。亡き周防同様、側室の子で、現在、第一帝位継承権を持つ。最も、宝順が正式に世子を決めれば、その権利は手放すことになる。
 本人に自覚は無いが、犀星は第二帝位継承者である。国の二位と三位の初顔合わせが、犀星の気まぐれで突然決まった。
 涼景が面白がったのも頷ける。帝に続く権力者が揃うのだ。そこでどんな話が出るのか、それは国のいく末を占うことにもつながる。
 犀星が思うより、事は重大だった。
 涼景の手筈で、すぐに日取りが決まり、両者は宮中の夕泉の私的な住まいである吟慈園で会見を持つこととなった。
 犀星は慣れない礼服を着て、緊張した面持ちで吟慈園に向かった。
 一足先に治安の確認をしていた涼景が到着して、門で待っていた。
 二人は、吟慈園の落ち着いた前庭に通され、そこから、裏の池へと案内された。
 宮中の喧騒が遠のいた、静かで緑豊かな庭を、一目で犀星も気に入った。
 今、自分の宮中での屋敷として、五亨庵の設計に着手しているが、その敷地にも、こんな庭を作ろう、と思いを馳せる。庭の奥の、池のほとりの東家で、透き通るような薄水色の長衣を緩く着付けた、妙齢の男が、こちらに気づいて微笑みかけた、まるで太陽の光を避けるかのように、素肌を布の内に潜め、髪も長い薄布で覆い、顔の下半分も隠している。
 砂嵐を避ける西方の民の服装に似ている。
 犀星は、書物で見たことのある装束を思い出した。
 涼景が、犀星に頷いて見せると、先を歩んだ。男の数歩手前で膝をつく。
「夕泉殿下。歌仙殿下をお連れ致しました」
 夕泉は、じっと犀星を見つめた。
 黒く、吸い込まれそうな瞳を、犀星は懐かしい思いで見返した。
 あの人に、似ている……
 穏やかで、情け深いという噂に違わず、夕泉の雰囲気は、周囲の者を自然と安心させ、警戒心を解いていくようだった。
「お会いしたかった、歌仙親王」
 どう話しを切り出してよいか迷っていた犀星に、夕泉は優しく語りかけ、歩み寄った。
「慣れぬ宮中での暮らし、さぞかしご苦労もあろうかと思う。私にできることならば、何なりと頼って欲しい」
 夕泉の声は透きとおり、やはり、どこか、犀星の意中の人に似ている気がした。
「夕泉殿下」
 犀星は、涼景に教えられたように、失礼のないよう、立ち居振る舞いに気を払った。
「わたくしのような者に、勿体無いお言葉でございます」
「何を言う。そなたは私の、大切な弟ではないか」
 夕泉は犀星に微笑みかけた。
 面纱のために表情は全て見ることはできないが、それでも、本心から言ってくれているのだと、犀星は感じ取った。
「暁将軍、席を外してくれないか。私は、弟と二人で話がしたい」
 涼景はちらりと犀星を見た。だが、今の犀星は夕泉に魅入られたようで、こちらを見ることもしない。
「わかりました。おそばにおりますゆえ、ご安心を」
 涼景は引き下がると、二人の姿は見えるが、会話は聞こえない位置まで離れた。
 改めて、二人を振り返り、周囲に怪しい動きはないか、と涼景が目を光らせてすぐ、異変が起きた。
 一瞬、我が目を疑う。
 夕泉が、犀星をその腕で引き寄せ、自らの衣で包むように抱きしめた。
 咄嗟に、涼景が刀の柄に手をかけた。
 もし、妙な動きがあれば、すぐに飛び出せるように身構える。
 夕泉が、自分を脅かすかも知れない犀星を暗殺しようとしたとしても、おかしくはない。
 未だ、正式に戴冠を済ませていない犀星が死んでも、第四親王の話など最初からなかったことにされてしまうだろう。
 だが、犀星とて、みすみす殺されるような男ではない。剣術の腕前は涼景の知るところであるし、彼が誰かに完全に心を許すとは思い難い。ましてや、今会ったばかりの、しかも政敵となるやも知れない兄に、隙を見せることなど……
 だが、犀星は抱きすくめられても、抵抗する様子はなかった。
 本当に安全だと確信しているのか、それとも、何らかの事情で、逃げ出せないのか……
 涼景には、二人の会話は聞こえない。

 突然、その胸に抱きしめられて、犀星は動けなかった。
 薄い夕泉の着物から、体温が容赦なく伝わってくる。鼓動までが感じられる。それはやけに生々しく、男女の経験のない犀星には、完全に知らぬ興奮だった 。
「歌仙親王」
 愛しげに、夕泉は呼びかけた。
「確か、そなたの名は、犀星であったな。字は伯華」
「……はい」
「私のことは聞いているか?」
「夕泉親王殿下、先の名を詩仙親王とおっしゃられたとか」
「そなたの名と対になって、私は嬉しかったのだが、周囲がどうしても反対したのだ。そなたと同列に思われる名は変えろ、とな。他意はない。気にしないで欲しい」
「……わたくしのために、煩わせてしまいました」
「いいや、お前のせいではない。歌仙の号を決めたのは、陛下だ」
「何故、このようなことを……」
「陛下は、私のことを、よく思ってはいないゆえ、何かと些細なことを仕掛けてこられる。そなたのせいではない」
「陛下と、わだかまりがおありですか?」
「私には、何もないつもりだ」
 夕泉は、遠慮なく、犀星の首に顔を寄せ、腰と背中に回した腕で、軽く持ち上げるようにさらに引き寄せる。
「なき兄上のように、皇位を狙っているわけでもない。諫言を呈するわけでもない。ただ、静かにこの宮中の片隅で生きていたいだけだ」
「無欲なのですね」
「覇気がない、と叱られる」
 夕泉は、少し笑ったようだった。
「歌仙親王。私にとって、そなたは唯一、心を許せる弟であると思っている。この宮中は敵ばかり。そなたが簡単に私を信じてくれなくても、それを咎めるつもりはない。だが、いずれ、わかって欲しい。私は、寂しいのだ」
 この人は、一体……
 犀星は、されるに任せながら、夕泉の人柄を不思議な思いで観察していた。
 初対面の自分に、本音を囁いていると言うのか。
 本当に、自分のことを、思っていると?
 否。
 宮中は、そのような甘言が罷り通る場所ではない。絡め取られて命を落とすのが関の山だ。
「そなたのこと、伯華と呼んでも良いか?」
 犀星は突然の申し出に少々迷ってから、はい、と承諾した。
「嬉しいな。では、私のことは、兄と呼んでくれ」
「……はい」
 考えることに夢中になっていた犀星は、夕泉の手が、そっと腰をくだり、臀部を撫で回していることに、ハッと気づいた。
 その手の動きは、何も知らない犀星ですら欲望の片鱗を感じるほど、際どく体に食い込み、皮膚を焼くような刺激が与えられる。
「あの……ゆう……兄上?」
「伯華……」
 明らかに、様子がおかしい。
 犀星は瞬時に思考を放り出し、身の危険を察した。
 宮中では、男女年齢立場を問わず、乱れた肉体関係が暗黙の内に認められていると聞いていた。
 まさか、こんなに早く、しかも、実の兄に自分は身をひさぐことになるなど……
 冗談ではない!
 犀星は全身の力を抜いた。
 それは、夕泉にしてみれば、犀星が自分を受け入れる意志を見せた、と捉えられる反応だった。
「伯華…… そなたは美しい」
「ありがとうございます」
 犀星は、苛立つ心の内を隠して言った。
「そなたも、私を気に入ってくれるか?」
「ええ」
 犀星はため息のように答えてから、わずかに声を高めた。
「あなたは、私の愛しい人に、似ているように思います。その人とは、離れねばなりませんでした。あなたは、その人の身代わりに、ちょうどよい」
 夕泉の動きが止まる。
 犀星が、さらに追い討ちをかける。
「私には、その人しか考えられません。しかし、あなたが望むのなら、相手をして差し上げてもよい」
 涼景や東雨が聞けば、明らかに動揺して犀星に無理にでも謝罪させたことだろう。
 兄であり、親王としての立場を確立している夕泉に対して、あまりに無礼な発言だった。しかも、初対面である。
 だが、犀星は少しも揺るがない。
 動きを止めていた夕泉は、そっと、犀星の体を押し戻し、一歩、離れてまじまじとその顔を見た。
「そなた……どういう神経をしている?」
「どういう、とは?」
「私の自尊心を傷つけ、身を守るなど、随分と肝が据わっているな」
「私はただ、本当のことを申し上げたまでです」
 しばし、二人はじっと見つめあった。
 やがて、夕泉が長く息を吐くと、目元を緩めた。
「そなたを、みくびっていたようだ。もう、このようなことはしない。済まなかった」
「それは助かります。あなたを傷つけなくてすみます」
「言うな、そなた……本当に気に入った」
 夕泉は面纱を取り去ると、素顔を見せた。
 やはり、あの人に似ている。
 犀星はそう、心ひそかに思った。
「伯華。お前が誓った相手とは、どのような人だ?」
 犀星は、顔色一つ変えずに、思索した。
「いつでも、慎ましやかで、自分を大きく見せようとはせず、誰に対しても公平に接し、人の痛みを自らの痛みとし、贅沢を好まず、質素を旨とし、何より、誰より、私を大切にしてくれる人です」
 言いながら、昔、その人が詠んだ歌を思い出し、犀星はつぶやいた。

足らずより
足りしを知るは
我のみぞ
君が笑みにて
ただ足るを知る
(光理)

「なるほど」
 夕泉は、その歌を聴き、一つ、頷いた。
「そなたの思い人に、いつか会いたいものだ。そして、今日のそなたの話をしよう。その頃にはきっと、互いに笑い話にできるだろう」
 犀星は、夕泉を気に入り、深く礼をした。
 都の奇妙な慣習の中にいるとはいえ、彼はまだ、人の心を理解する人間だと、犀星は確信していた。
 こうして、二人きりの親王の会見はつつがなく終了した。
 これを機会とし、犀星と夕泉の兄弟は、志を共にする同士へと、絆を深めていくことになる。
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