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第二部 落日
第四六話 新風
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煌びやかな着物も、あでやかな化粧も、繊細で美しい玉飾りも、一振りの名刀の前には敵わない。
玲凛は、午後のうららかな日差しのもと、中庭で思う存分に刀を振るった。
先月の誕生日に二人の兄から贈られた新しい太刀に、早く体を慣らしたかった。
十五歳になった少女に、刀剣を贈るという犀星たちの感覚に、東雨は顔を引き攣らせた。
世間には、着物や装飾品、化粧道具や鏡、簪や琴など、女性への贈り物が溢れているというのに、なぜ我が家はこうも物騒なのだろう。第一、本人より遅れて歌仙から送られてきた玲凛の荷物には、軽装の鎧と甲冑、長槍二本に長弓と矢に弩、長刀と短刀、匕首がそれぞれ二振り、そして、東雨でさえ扱いきれない、大斧が含まれていた。
一人で都を占領しにきたのではないか、と思われる武器の数々に、東雨は逃げ出したい思いだった。
こんなに武具があるのに、そこへ更に太刀を渡すとは……
犀星はともかく玲陽まで、それが一番だ、と考える神経は、東雨を一晩嘆かせた。
これ以上、玲凛の戦闘力を上げてどうするつもりだよ、と、東雨は内心呆れ返った。犀星たちが、彼女に一体何を期待しているのか、さっぱりわからなかった。
東雨の気持ちはさておき、玲凛としては二人からの贈り物を大変気に入っていた。それはただ、新しい得物を手にしたからではない。東方伝来のわずかに湾曲した大太刀は、この国では珍しい逸品であったし、何より、犀星や玲陽が普段から使っているものと同種だ。
『これ、ずっと欲しかったんです!』
満面の笑顔で、太刀を抱きしめて笑った玲凛を、東雨は恐ろしいものでも見るように見つめていた。
そんな思いのこもった太刀を、彼女は自在に片腕で扱った。すっかり慣れたように見えるが、本人としてはまだ、納得していないようだった。
玲凛の額に汗が光る。
犀遠に武術を叩き込まれていた彼女には、兄達の真意がわかっていた。
大人の男でさえ扱いが難しい太刀だが、それに慣れておくことには、大切な意味がある。
玲凛が行動を共にすることが最も多いのは、犀星や玲陽だ。彼らが携帯する武器を彼女も使えるようになっていれば、何かあった時に応用が効く。つまり、彼女に同じ武器を渡した裏には、暗に共に戦うことを認めた、という意味が込められていたのだ。
だからこそ、玲凛はひときわ喜び、また、鍛錬にも熱が入る。
彼女の胸には、いつか、犀星や玲陽と組んで、比翼を踏む自分の姿があった。勝ることはできなくても、せめて安心して任せてもらえるようにならなくては。
足りない腕力は、体重で補う。
素早さを生かす戦い方を、犀遠は徹底して彼女に教えていた。
『剣士として大成したいなら、自分が得意とするものを極めよ。人真似で強くはなれないぞ』
単純な力技では、玲凛にも限界がある。彼女は自分が女性であることを嘆いたことは、一度もなかった。自分の特性を自分が一番に認め、受け入れなければ、その先はない。性別というよりも、得手不得手の問題だ。
夢中になっていた玲凛の目が、フッと裏木戸へ向いた。振り返り様に、そちらに向けて、正面に太刀を構える。
「誰!」
玲凛の鋭い牽制が飛んだ。
「出てきなさい!」
しん、と静まって、春風が抜けていく。
「もう、バレてるわよ」
更に続く沈黙。
玲凛は警戒しなら、そばに置いてあった弓に矢をつがえると、引き絞った。弓と弦が軋む音が、その矢に込められた力の大きさを示していた。
「待て!」
その声と、矢が放たれるのは同時だった。
木戸の端一寸のところに矢が深々と突き立ち、顔を覗かせた蓮章は、まさに自分の喉元の高さで震える矢の威力に、冷や汗が流れた。
「おい、冗談じゃないぞ、これは……」
牽制でわざと外して射った矢だが、貫かれていれば首が飛んでもおかしくない。
「死にたくなければ、失せろ!」
すでに玲凛は二の矢を構えている。その体には、いつでも手に取れるように、抜き身の太刀が立てかけられている。
「実践慣れしてやがる……」
蓮章は両手を開いて敵意がないことを示しながら、木戸の裏から一歩横にずれて、玲凛に姿を見せた。
「その鎧……あんた、暁?」
「ああ」
蓮章は、部下達が玲凛の安否確認を代わってくれ、とせがんだ気持ちがよくわかった。涼景の指示で、暁隊が都警備にあたる日は、玲凛の様子を見に行くように言われている。だが、当番になった兵士達が、二度と行きたくない、と嘆くものだから、気になって蓮章が覗いてみた、という次第である。
「孫梨花だ。お嬢さん。お会いできて光栄だ」
苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見ている玲凛に、蓮章は笑顔で言った。
「貴女が、陽の妹君か?」
「兄様の名を呼ぶとは、いい度胸だな」
弓を構えたまま、玲凛は答えた。蓮章は、彼女の引く弓に、目を奪われた。彼は刀より弓を使う方が慣れているため、その扱いには詳しく、そして厳しい。
そんな蓮章が見ても、玲凛の腕前が相当なものであることは認めざるを得なかった。
「……悪かった。弓を下ろしてくれ」
蓮章は、猫撫で声を出すのをやめると、真顔になる。彼女は明らかに、世の中の女性とは違う存在だ。
「殺気立つなって。その弓の構え、さっきの太刀の扱い、そこまでできる者は、暁隊にも多くはない。あんたの実力は察した。俺はあんたの警護でここに来ている」
「…………」
蓮章は、肩をすくめた。
「……まぁ、警護の必要はなさそうだな」
蓮章は、そのまま、後ろに下がった。玲凛の矢が確実に自分の命を狙っているのがわかる。
「気に入らない。帰りな!」
玲凛が低めた声で警告する。
「三度目は言わない」
と、更に弓に力を加える。軋む音に反して、彼女の腕も指先も、微塵も震えてはいない。蓮章は舌を巻いた。
「さすがは、あいつの妹だな。大した肝だぜ」
蓮章は首を振った。
「そう、怒るな。ここで俺を殺せば、お前の大切な兄上に迷惑がかかるぞ」
「脅す気?」
「そうじゃない。とにかく、弓を下ろしてくれ。落ち着いて話もできない」
玲凛は蓮章の目を真っ直ぐに見つめた。遠慮なく、蓮章もそれを見返す。
世間一般では、男女のこのような目配せは、求愛と受容の合図だが、到底、この二人には当てはまらなかった。
「いいわ」
玲凛がようやく構えを解いた。
「ただし、それ以上近づかないで。一歩でも庭に入ったら……」
「わかっている」
蓮章が冷や汗を拭うと、木戸にもたれて、腕を組んだ。
「俺はここを動かない。だからそう、喧嘩腰になるな」
「気配を消して、こっそり近づいたりするからよ。正面から堂々と入ってくるなら、ここまではしないわ」
「あんたの身を心配して、俺たちを寄越している陽の身にもなれ」
「お生憎様。私は必要ない、と断っているの。兄様が過保護すぎるのよ」
「確かに、お前に警備は必要ない。俺から涼景にも伝えておいてやる」
部下が可哀想だしな、と、本音は隠して、蓮章は言った。
「俺の素性は本当だ。孫蓮章の名、聞いたことはないか?」
「……あるわ。涼景様の部下で次官だと」
「少し違うな…… 部下というより、片腕、だ」
「涼景様、腕を取り替えた方が良さそうね」
玲凛は、にこりともせずに、
「あんたみたいな腕じゃ、猫の手の方がマシよ」
「言ってくれるじゃないか」
一度は大人しくしていよう、と思った蓮章だったが、思わず挑発に乗りそうになる。
「陽の妹だから、下手(したて)に出ていれば……」
「また、それ!」
玲凛が忌々しそうに首を振った。
「何かと言うと、玲陽の妹、犀星の従兄妹。もうたくさん! 私は私よ。兄様達の付属品じゃないわ」
「若いな」
蓮章は敢えて、玲凛の気持ちを逆撫でした。
「そうやっていちいち突っかかる。若くて未熟な証拠だ」
「あんた、そんなにヤりたいの?」
玲凛が、太刀に手をかけた。
「ああ、ヤりたいね」
蓮章も、自分の剣の柄に手を置く。
「いいわ。殺す気できなさい」
身を低めて、蓮章は一気に踏み込んだ。
直線的なその動きを、玲凛はぎりぎりまで引きつけて、紙一重で横に飛んでかわす。それを予測していた蓮章が、その勢いのままに体を回転させて引き抜きざまに剣を水平に払った。だが、その剣は鋭い音を立てて空を切る。玲凛は蓮章の太刀筋の下に身を屈めて避けていた。
大振りの直後にできた隙を狙って、蓮章の足元から、玲凛の太刀が振り上げられる。体をそらしてそれを交わしながら、蓮章が後ろに跳ねる。それを追って、玲凛の素早い突きが容赦無く蓮章の胸を狙った。
剣で太刀を払い落として玲凛の体勢を崩すと、蓮章はその背後を取る。そのまま後ろから首に刃を突きつけようとしたが、視界が眩い光に遮られた。身を低めていた蓮章と、太陽との間に立っていた玲凛が素早く動き、見開いていた蓮章の目が、まともに陽光に眩んだのだ。
こんな立ち回りもできるのかよ!
一瞬、視力を失って動きが鈍った蓮章の背中に、強烈な衝撃が走った。思わず膝をつくと、そこに二度目の蹴りが入る。
のけぞるように振り返った蓮章の咽喉に、玲凛の太刀の切っ先がピタリと当てがわれた。
観念して、蓮章が目を閉じる。玲凛は太刀を引いた。
「やるじゃない」
玲凛は、露ほども呼吸を乱さず、蓮章に手を差し伸べた。その手を掴んで、蓮章は立ち上がった。
「お前もな」
彼は、素直に認めた。
蓮章には、わずか、玲凛に対する油断があった。だが、それを言ったところで見苦しい負け惜しみにしかならない。自分より十歳以上年下の少女に、これ以上恥は晒せない。
「蓮章、だっけ?」
「ああ」
「訂正するわ。猫の手よりはマシね」
「若くて未熟ってのも、言い直さないとな。若いが、未熟ではない」
二人はようやく、それぞれの刀を鞘に収めた。
「あんた、本当に強いな。型だけかと思っていたが」
「山賊相手に立ち回ったことしかないわ。実践経験が足りないのは事実よ」
「そうは見えない。あんたの動きには隙がない。東雨より、よほど護衛として役に立つだろ」
「あんな雨蛙と比べられても、嬉しくないわね」
「雨蛙?」
「こっちのことよ」
玲凛は、裏木戸へ歩み寄ると、戸に突き刺さっていた矢を掴み、足で戸を蹴って引き抜いた。
「荒っぽいなぁ…… さっき、俺のことも足蹴にしただろ」
「私は腕力じゃ男に敵わないからね。使えるものは何でも使う」
「その戦い方、素人じゃない。誰に教わった?」
「叔父上……犀侶香様」
その名に、蓮章が驚いた顔をする。
「犀将軍かよ……」
「ええ」
「そりゃ、強くなるわけだ……」
「あんた、叔父上を知ってるの?」
「まぁな」
「教えて!」
突然、玲凛は今までの厳しい態度を忘れたように、蓮章に期待の目を向けた。
「叔父上は、どんな将軍だったの? いつか話してやる、って言われたけれど、その前に亡くなってしまって……」
「そう、か」
「ねぇ、知っているんでしょ? お願い!」
蓮章は、急に少女のように(元々、少女なのだが)無邪気に自分を見る玲凛に、わずかながら戸惑った。
「兄様達も、都でのことは知らないって言うし……」
「俺も、宮廷時代の将軍のことは知らない。だが、非公式だが、一緒に戦場に立ったことがある。でも、俺より涼景の方が……」
と、言いかけて、蓮章は思い出したように、
「そういえば、あんた、確か、涼景の妹と同い年だったよな?」
「……春ちゃんとは、幼馴染だけれど」
「最近まで、会っていたのか」
玲凛は頷いた。蓮章が、眼差しを鋭くする。
「じゃあ、取引だ」
「え?」
「犀将軍のことを教えてやる。あんたは、春のことを教えろ」
「春ちゃんのこと?」
「そうだ」
玲凛は、いぶかしそうに蓮章をまじまじと見た。
「どうして、春ちゃんのことが知りたいのよ? 涼景様から聞いているんじゃないの?」
「確かに、涼景から話はある」
蓮章は静かに言った。
「だが、俺は、あんたの評価を聞きたい。同じ人間でも、見る者によって印象は違う」
「それはそうだけれど……」
「涼景にとって、春は人質のようなものだ。あいつが帝に逆らえないのは、妹が弱点であることを知られているからだ。今はまだ大人しくしているが、これから先、帝が春に手を出す可能性もある。俺は涼景の、兄としての目線だけではなく、他の奴の評価も聞きたい」
「…………」
玲凛はしばし沈黙して、考え込んだ。
蓮章の言わんとすること、宝順帝が春を盾に涼景の道を遮るなら、それは何としても止めたかった。
涼景のためにも、春のためにも。
いけ好かないが、蓮章が詳しいことを知っていて、悪くは働かないだろう。しかし、玲凛は蓮章が想像するほど、若くはなかった。
『戦場では兵糧、巷では情報』
それが、犀遠の教えだった。
それぞれ、最も慎重に扱うべきものだ、と師は言っていた。
犀遠のことは知りたいが、それと引き換えにするには、春の情報は重い。涼景から聞きながら、なお、他にも尋ねるということにも疑問が残る。
さらに、玲凛には、もう一つ、気がかりなことがあった。
「せっかくだけど、応じられないわ」
少なからず残念そうに、玲凛は首を振った。
「悪いけれど、私の話が聞きたいなら『一人で』来てちょうだい」
蓮章が目をしばたいて、怪訝そうな顔をした。
「俺は一人だが?」
「嘘」
玲凛はさっさと庭先の得物を片付けながら、
「しらばっくれても無駄。もし、本当に気づいていないなら、教えてあげる。あんた、つけられてるわよ」
言って、玲凛は未練なく、屋敷の中へと入って行った。
蓮章は黙ったまま、きびすを返して裏木戸から路地を抜け、表通りへと出た。
急に、人が多くなり、まるで別世界のようだ。
蓮章の後ろから早足で、一人の商人風の男が近づいてくる。
「消しますか?」
蓮章の横に並ぶと、男は短く問うた。
「いや、いい」
蓮章は男を振り返りもせず、小さく答えた。
「毒にはなるまい」
男はまた足を早めて、蓮章を追い抜いて行った。
「全く、玲家ってのは、恐ろしい血だな」
呟いて、蓮章は空を見上げた。
今年の夏は、酷く暑くなりそうな予感がした。
玲凛は、午後のうららかな日差しのもと、中庭で思う存分に刀を振るった。
先月の誕生日に二人の兄から贈られた新しい太刀に、早く体を慣らしたかった。
十五歳になった少女に、刀剣を贈るという犀星たちの感覚に、東雨は顔を引き攣らせた。
世間には、着物や装飾品、化粧道具や鏡、簪や琴など、女性への贈り物が溢れているというのに、なぜ我が家はこうも物騒なのだろう。第一、本人より遅れて歌仙から送られてきた玲凛の荷物には、軽装の鎧と甲冑、長槍二本に長弓と矢に弩、長刀と短刀、匕首がそれぞれ二振り、そして、東雨でさえ扱いきれない、大斧が含まれていた。
一人で都を占領しにきたのではないか、と思われる武器の数々に、東雨は逃げ出したい思いだった。
こんなに武具があるのに、そこへ更に太刀を渡すとは……
犀星はともかく玲陽まで、それが一番だ、と考える神経は、東雨を一晩嘆かせた。
これ以上、玲凛の戦闘力を上げてどうするつもりだよ、と、東雨は内心呆れ返った。犀星たちが、彼女に一体何を期待しているのか、さっぱりわからなかった。
東雨の気持ちはさておき、玲凛としては二人からの贈り物を大変気に入っていた。それはただ、新しい得物を手にしたからではない。東方伝来のわずかに湾曲した大太刀は、この国では珍しい逸品であったし、何より、犀星や玲陽が普段から使っているものと同種だ。
『これ、ずっと欲しかったんです!』
満面の笑顔で、太刀を抱きしめて笑った玲凛を、東雨は恐ろしいものでも見るように見つめていた。
そんな思いのこもった太刀を、彼女は自在に片腕で扱った。すっかり慣れたように見えるが、本人としてはまだ、納得していないようだった。
玲凛の額に汗が光る。
犀遠に武術を叩き込まれていた彼女には、兄達の真意がわかっていた。
大人の男でさえ扱いが難しい太刀だが、それに慣れておくことには、大切な意味がある。
玲凛が行動を共にすることが最も多いのは、犀星や玲陽だ。彼らが携帯する武器を彼女も使えるようになっていれば、何かあった時に応用が効く。つまり、彼女に同じ武器を渡した裏には、暗に共に戦うことを認めた、という意味が込められていたのだ。
だからこそ、玲凛はひときわ喜び、また、鍛錬にも熱が入る。
彼女の胸には、いつか、犀星や玲陽と組んで、比翼を踏む自分の姿があった。勝ることはできなくても、せめて安心して任せてもらえるようにならなくては。
足りない腕力は、体重で補う。
素早さを生かす戦い方を、犀遠は徹底して彼女に教えていた。
『剣士として大成したいなら、自分が得意とするものを極めよ。人真似で強くはなれないぞ』
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夢中になっていた玲凛の目が、フッと裏木戸へ向いた。振り返り様に、そちらに向けて、正面に太刀を構える。
「誰!」
玲凛の鋭い牽制が飛んだ。
「出てきなさい!」
しん、と静まって、春風が抜けていく。
「もう、バレてるわよ」
更に続く沈黙。
玲凛は警戒しなら、そばに置いてあった弓に矢をつがえると、引き絞った。弓と弦が軋む音が、その矢に込められた力の大きさを示していた。
「待て!」
その声と、矢が放たれるのは同時だった。
木戸の端一寸のところに矢が深々と突き立ち、顔を覗かせた蓮章は、まさに自分の喉元の高さで震える矢の威力に、冷や汗が流れた。
「おい、冗談じゃないぞ、これは……」
牽制でわざと外して射った矢だが、貫かれていれば首が飛んでもおかしくない。
「死にたくなければ、失せろ!」
すでに玲凛は二の矢を構えている。その体には、いつでも手に取れるように、抜き身の太刀が立てかけられている。
「実践慣れしてやがる……」
蓮章は両手を開いて敵意がないことを示しながら、木戸の裏から一歩横にずれて、玲凛に姿を見せた。
「その鎧……あんた、暁?」
「ああ」
蓮章は、部下達が玲凛の安否確認を代わってくれ、とせがんだ気持ちがよくわかった。涼景の指示で、暁隊が都警備にあたる日は、玲凛の様子を見に行くように言われている。だが、当番になった兵士達が、二度と行きたくない、と嘆くものだから、気になって蓮章が覗いてみた、という次第である。
「孫梨花だ。お嬢さん。お会いできて光栄だ」
苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見ている玲凛に、蓮章は笑顔で言った。
「貴女が、陽の妹君か?」
「兄様の名を呼ぶとは、いい度胸だな」
弓を構えたまま、玲凛は答えた。蓮章は、彼女の引く弓に、目を奪われた。彼は刀より弓を使う方が慣れているため、その扱いには詳しく、そして厳しい。
そんな蓮章が見ても、玲凛の腕前が相当なものであることは認めざるを得なかった。
「……悪かった。弓を下ろしてくれ」
蓮章は、猫撫で声を出すのをやめると、真顔になる。彼女は明らかに、世の中の女性とは違う存在だ。
「殺気立つなって。その弓の構え、さっきの太刀の扱い、そこまでできる者は、暁隊にも多くはない。あんたの実力は察した。俺はあんたの警護でここに来ている」
「…………」
蓮章は、肩をすくめた。
「……まぁ、警護の必要はなさそうだな」
蓮章は、そのまま、後ろに下がった。玲凛の矢が確実に自分の命を狙っているのがわかる。
「気に入らない。帰りな!」
玲凛が低めた声で警告する。
「三度目は言わない」
と、更に弓に力を加える。軋む音に反して、彼女の腕も指先も、微塵も震えてはいない。蓮章は舌を巻いた。
「さすがは、あいつの妹だな。大した肝だぜ」
蓮章は首を振った。
「そう、怒るな。ここで俺を殺せば、お前の大切な兄上に迷惑がかかるぞ」
「脅す気?」
「そうじゃない。とにかく、弓を下ろしてくれ。落ち着いて話もできない」
玲凛は蓮章の目を真っ直ぐに見つめた。遠慮なく、蓮章もそれを見返す。
世間一般では、男女のこのような目配せは、求愛と受容の合図だが、到底、この二人には当てはまらなかった。
「いいわ」
玲凛がようやく構えを解いた。
「ただし、それ以上近づかないで。一歩でも庭に入ったら……」
「わかっている」
蓮章が冷や汗を拭うと、木戸にもたれて、腕を組んだ。
「俺はここを動かない。だからそう、喧嘩腰になるな」
「気配を消して、こっそり近づいたりするからよ。正面から堂々と入ってくるなら、ここまではしないわ」
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「お生憎様。私は必要ない、と断っているの。兄様が過保護すぎるのよ」
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「俺の素性は本当だ。孫蓮章の名、聞いたことはないか?」
「……あるわ。涼景様の部下で次官だと」
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「言ってくれるじゃないか」
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「そうやっていちいち突っかかる。若くて未熟な証拠だ」
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玲凛が、太刀に手をかけた。
「ああ、ヤりたいね」
蓮章も、自分の剣の柄に手を置く。
「いいわ。殺す気できなさい」
身を低めて、蓮章は一気に踏み込んだ。
直線的なその動きを、玲凛はぎりぎりまで引きつけて、紙一重で横に飛んでかわす。それを予測していた蓮章が、その勢いのままに体を回転させて引き抜きざまに剣を水平に払った。だが、その剣は鋭い音を立てて空を切る。玲凛は蓮章の太刀筋の下に身を屈めて避けていた。
大振りの直後にできた隙を狙って、蓮章の足元から、玲凛の太刀が振り上げられる。体をそらしてそれを交わしながら、蓮章が後ろに跳ねる。それを追って、玲凛の素早い突きが容赦無く蓮章の胸を狙った。
剣で太刀を払い落として玲凛の体勢を崩すと、蓮章はその背後を取る。そのまま後ろから首に刃を突きつけようとしたが、視界が眩い光に遮られた。身を低めていた蓮章と、太陽との間に立っていた玲凛が素早く動き、見開いていた蓮章の目が、まともに陽光に眩んだのだ。
こんな立ち回りもできるのかよ!
一瞬、視力を失って動きが鈍った蓮章の背中に、強烈な衝撃が走った。思わず膝をつくと、そこに二度目の蹴りが入る。
のけぞるように振り返った蓮章の咽喉に、玲凛の太刀の切っ先がピタリと当てがわれた。
観念して、蓮章が目を閉じる。玲凛は太刀を引いた。
「やるじゃない」
玲凛は、露ほども呼吸を乱さず、蓮章に手を差し伸べた。その手を掴んで、蓮章は立ち上がった。
「お前もな」
彼は、素直に認めた。
蓮章には、わずか、玲凛に対する油断があった。だが、それを言ったところで見苦しい負け惜しみにしかならない。自分より十歳以上年下の少女に、これ以上恥は晒せない。
「蓮章、だっけ?」
「ああ」
「訂正するわ。猫の手よりはマシね」
「若くて未熟ってのも、言い直さないとな。若いが、未熟ではない」
二人はようやく、それぞれの刀を鞘に収めた。
「あんた、本当に強いな。型だけかと思っていたが」
「山賊相手に立ち回ったことしかないわ。実践経験が足りないのは事実よ」
「そうは見えない。あんたの動きには隙がない。東雨より、よほど護衛として役に立つだろ」
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「こっちのことよ」
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「荒っぽいなぁ…… さっき、俺のことも足蹴にしただろ」
「私は腕力じゃ男に敵わないからね。使えるものは何でも使う」
「その戦い方、素人じゃない。誰に教わった?」
「叔父上……犀侶香様」
その名に、蓮章が驚いた顔をする。
「犀将軍かよ……」
「ええ」
「そりゃ、強くなるわけだ……」
「あんた、叔父上を知ってるの?」
「まぁな」
「教えて!」
突然、玲凛は今までの厳しい態度を忘れたように、蓮章に期待の目を向けた。
「叔父上は、どんな将軍だったの? いつか話してやる、って言われたけれど、その前に亡くなってしまって……」
「そう、か」
「ねぇ、知っているんでしょ? お願い!」
蓮章は、急に少女のように(元々、少女なのだが)無邪気に自分を見る玲凛に、わずかながら戸惑った。
「兄様達も、都でのことは知らないって言うし……」
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「じゃあ、取引だ」
「え?」
「犀将軍のことを教えてやる。あんたは、春のことを教えろ」
「春ちゃんのこと?」
「そうだ」
玲凛は、いぶかしそうに蓮章をまじまじと見た。
「どうして、春ちゃんのことが知りたいのよ? 涼景様から聞いているんじゃないの?」
「確かに、涼景から話はある」
蓮章は静かに言った。
「だが、俺は、あんたの評価を聞きたい。同じ人間でも、見る者によって印象は違う」
「それはそうだけれど……」
「涼景にとって、春は人質のようなものだ。あいつが帝に逆らえないのは、妹が弱点であることを知られているからだ。今はまだ大人しくしているが、これから先、帝が春に手を出す可能性もある。俺は涼景の、兄としての目線だけではなく、他の奴の評価も聞きたい」
「…………」
玲凛はしばし沈黙して、考え込んだ。
蓮章の言わんとすること、宝順帝が春を盾に涼景の道を遮るなら、それは何としても止めたかった。
涼景のためにも、春のためにも。
いけ好かないが、蓮章が詳しいことを知っていて、悪くは働かないだろう。しかし、玲凛は蓮章が想像するほど、若くはなかった。
『戦場では兵糧、巷では情報』
それが、犀遠の教えだった。
それぞれ、最も慎重に扱うべきものだ、と師は言っていた。
犀遠のことは知りたいが、それと引き換えにするには、春の情報は重い。涼景から聞きながら、なお、他にも尋ねるということにも疑問が残る。
さらに、玲凛には、もう一つ、気がかりなことがあった。
「せっかくだけど、応じられないわ」
少なからず残念そうに、玲凛は首を振った。
「悪いけれど、私の話が聞きたいなら『一人で』来てちょうだい」
蓮章が目をしばたいて、怪訝そうな顔をした。
「俺は一人だが?」
「嘘」
玲凛はさっさと庭先の得物を片付けながら、
「しらばっくれても無駄。もし、本当に気づいていないなら、教えてあげる。あんた、つけられてるわよ」
言って、玲凛は未練なく、屋敷の中へと入って行った。
蓮章は黙ったまま、きびすを返して裏木戸から路地を抜け、表通りへと出た。
急に、人が多くなり、まるで別世界のようだ。
蓮章の後ろから早足で、一人の商人風の男が近づいてくる。
「消しますか?」
蓮章の横に並ぶと、男は短く問うた。
「いや、いい」
蓮章は男を振り返りもせず、小さく答えた。
「毒にはなるまい」
男はまた足を早めて、蓮章を追い抜いて行った。
「全く、玲家ってのは、恐ろしい血だな」
呟いて、蓮章は空を見上げた。
今年の夏は、酷く暑くなりそうな予感がした。
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