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第一部 星誕

第四〇話 それぞれの算段

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 五亨庵に、玲陽はすっかり溶け込み、今では臣子としてだけではなく、事実上の犀星の半身として、業務にあたっていた。持ち前の探究心で、物事を深く読み取り、確固とした根拠に基づいた判断を下す彼は、根っからの文官である緑権や慈圓にも評判が良い。それに加えて、身を挺した東雨の一件もあり、二人の玲陽への評価はさらに高まっている。
 慈圓は、玲陽を孫娘の婿に欲しい、と言い出したが、東雨と緑権に一蹴され、断念した。
 緑権は逆に、犀星と玲陽の仲に積極的で、東雨と一緒にあれこれと手を回し、色事に不得手な犀星を焚き付けようとしたが、ことごとく失敗に終わっていた。原因には、玲陽の勘の良さと、犀星の鈍感さ、この二極面が大きい。
 忙しい中でも、やりがいのある仕事に、玲陽はいつしか夢中になっていた。
 始めは、犀星の力になりたい、という思いからだったが、今は自分の理想もそこに重なり、彼は一人前の政治家の風態を帯びてきている。
 今も、何やら何枚もの地図を並べて見比べながら、考え込んでいた。
「陽様?」
 東雨が自分の片づけものを済ませて、玲陽の机に近づいてきた。玲陽の席は犀星のすぐ隣だが、仕事中、二人はほとんど会話をしない。それぞれが、それぞれのやるべきことに夢中である。
「朝からずっと、何を悩んでいらっしゃるんですか?」
「ええ、この地図なんですけれど……」
 玲陽は東雨に意見を求めるように、地図を並べ直した。左右に分けて数枚ずつ、重ねる。
「これは、どちらも、都周辺のものですね」
「はい。困っているのは、ここなんです」
 玲陽は縮尺を測る物差しを、地図の上に置いた。
「こちらの地図では、都の北門から、北を流れる川までの直線距離が、二里、となっています」
「確かに……」
 東雨は説明に合わせて玲陽が示す縮尺を確かめながら、頷いた。話題が気になって、緑権も覗きにくる。
「でも、こちらの地図では、同じ場所が三里なんです」
「どれ?」
 緑権が自ら地図上を測り、首を傾げた。
「そうですね。どちらの地図が正しいのか……」
「はい。それがわからなくて」
 玲陽はじっと両方を見比べながら、
「この、二里の地図は、都の民たちが一般的に使っているものです。そして、この三里のものは、宮中で利用されているものです」
 玲陽はそれぞれ、複数枚の地図を集めていた。都のもの、宮中のもの、で、その差ははっきりと分かれている。
「うーん、どっちが正解か、どっちも違うのか……何で判断したらいいんでしょうか?」
 東雨が玲陽に問いかける。
 玲陽はもう一枚の紙を地図の間に置いた。
「私も悩んで、書庫で調べてみたんです。これは、その写しです」
「この数字は?」
「地図が作成された時の、測量結果です。でも、この結果によると、距離は、二里半なのです」
「また、違うんですか?」
 東雨が嘆かわしい、と言わんばかりに首を振った。
「結論、出ないじゃないですか」
「そうなんですよ。それで、今、兄様に頼み事をしていて……」
 玲陽が言いかけた時、ちょうど、五亨庵の扉が開いて、犀星と慈圓が戻ってきた。
「兄様、お帰りなさいませ」
 玲陽が立ち上がる。
「ほら、これ」
 犀星は、手にしていた書物を、玲陽に渡した。
「お前が待っていたのは、俺じゃなくて、この本だろ」
 からかうように笑って、犀星は自分の席についた。
「そんなこと…… 兄様のことも、待っていました」
「それはどうも」
 そっけなく言う割には、犀星は楽しげである。東雨と緑権、慈圓は顔を見合わせて、にやにやと笑う。
 玲陽が来て、一番変わったのは、犀星だ。そして、そんな犀星の仕草が、三人にとっても嬉しく、玲陽に感謝する最大の点である。
『光理どのが、伯華様に人の心を吹き込んでくれた』と、慈圓はよく、話の種にしていた。それほどまでに、犀星の変化は彼らにとって好ましく、日々を豊かにしてくれるものだった。
「だが、何に使うんだ? 軍用地図など」
「これが、一番正確だと思いましたので」
 玲陽は、犀星が涼景の所から借りてきた地図帳を嬉しそうに抱きしめた。
「なるほど、確かに涼景……様がまとめられたものですし、一番信憑性がありますね」
 東雨が期待を込めて、玲陽の手元を見つめる。
「はい。果たして、どれが正解なのか……」
 期待しながら玲陽が地図を開こうとした時、東雨がそれを止めた。
「せっかくだから、賭けませんか?」
「賭ける?」
 東雨の提案に、玲陽と緑権が顔を見合わせた。
「はい。果たして、どの数字が正しいのか」
 黙ったまま、犀星がちらり、と三人を見た。
「陽様が最初に選んでください。一番、よくご存知だと思いますから」
 玲陽は数秒、思案して、
「では、測量結果の二里半にします。数字で示してあるものは、これだけですし、他の地図は書き起こす際に間違った可能性があります」
「わかりました。では、次に謀児様、選んで下さい」
 東雨が先輩にゆずる。一つ唸ってから、緑権は宮中の地図を指した。
「宮中の地図は帝もご覧になりますし、それに、もし誤りがあれば、真っ先に訂正されると思います。少なくとも、仙水様の軍用地図と一致するのは、これではないでしょうか」
「謀児様は宮中、と…… では、俺は都の地図ですね」
「いいんですか、東雨どの、残ったもので?」
 玲陽が気遣わしげに問うた。東雨はにっこり笑って、
「俺は元から、これを選ぼうと思っていましたので、問題ないです。確かに、安い地図ではありますけれど、商売や旅などで、一番よく地図を使うのは民です。その民たちが信用しているものですから、事実に一番近いと思います」
「確かに、道理ですね」
 三人のやりとりを、犀星は口元を緩めながら聞いていた。そのままの顔で、奥に座った慈圓を見ると、向こうもこちらを見て、ニッと笑う。
 二人とも、正解を知っているのだ。
「お前たち、選択肢は決まったようだが、何を賭けるんだ?」
 犀星が、わざと興味なさそうな調子で、問いかけた。
「そうですね……」
 東雨が腕を組んだ。
「お金ではつまらないですし……それじゃ、薪割り当番にしませんか?」
「え?」
 緑権が、一瞬たじろいだ。彼は薪割りが苦手だ。それを知っている東雨が、いたずらっぽく笑った。
「謀児様は、書物にはお詳しいですけれど、体を使うのは不得手でしたものね」
「そ、そんなことはないです! 私だって、一通りの剣術は、嗜みとして身につけています!」
「でも、謀児様が刀を振っている所を、見たこと、ありませんけれど?」
「そ、それは、ここ十年、休んでいるだけです!」
 東雨と緑権の掛け合いに、思わず玲陽も笑いをこぼす。
「わかりました。では、負けた者が一回ずつ、勝った者の当番を代わりましょう」
「光理どのが、そうおっしゃるなら……」
「陽様は、謀児様と違って文武両道ですから、薪割りなんて朝飯前ですよ」
「一言余計です」
 緑権が目を細めて東雨を睨む。それさえ、和気藹々とした一幕である。
「では……」
 三人は、額を寄せ合って、地図帳を調べた。
 涼景が軍事の際に用いる地図だけに、その正確さは期待できる。
 三人で慎重に探し出した箇所には、思いがけない結果が待っていた。
 玲陽が地図を辿る。
「あれ、川が二本ありますね。ええと…… 雪解け時期が南側に寄り、それ以外は北側に寄る…… これって、季節によって、流れが変わるってことですか?」
「そういうことだ」
 あっさりと、犀星が答えた。
 三人は恨めしげに主人を見た。
「若様、ご存知だったんですか?」
「ああ」
「ああって……だったら、教えてくれたっていいじゃないですかぁ」
 東雨が口を尖らせる。
「答えるのは簡単だが、自分達で考えることに意味がある」
「若様ったら、また、そんな面倒なことを……」
 犀星のこのような性質だけは、いくら玲陽と一緒でも、変わることはなかった。
「それより、東雨、考えてみろ。流れが変わるというのに、宮中と都で、使われている地図がそれぞれ統一されているのはなぜなのか」
 犀星は、資料を書き写してまとめながら、
「大切なのは、理由を知ることだ。結果だけ知ったところで、半分しか理解したことにはならない」
「測量の数字が二里半なのは、この測量が六月に行われているから、ですね」
 玲陽は、自分が調べてきた書付けを見直した。緑権は、宮中の地図を見ながら、
「確か、このあたりの地域は、左相の領地でした。少しでも、自領を広く見せるために、川が最も北部に寄っているものを一般化したのでしょう」
「権力の証、ってわけですか」
 これだから貴人は嫌いだ、と東雨が首を振った。
 玲陽が都の地図を手に取る。
「では、民が逆にこちらの、南寄りに流れる地図を使っているのは……あ、もしかして、氾濫、ですか?」
「そうでしたか!」
 緑権が手を打った。
「確かに、この川はよく氾濫するんです。それで、都の北部は定住するには向かない。この地図は、安全に住むことのできる範囲を表しているのかも……」
「それで、民衆に広まっている、ということですね」
 玲陽が納得した。
「立場が変われば、川の流れも、その意味も変わる」
 犀星は手を止め、三人を見た。
「些細なことかもしれないが、こういったところから、人の心を知ることができる」
 同時に三人が苦笑し、犀星が眉を寄せた。
「なんだ? 俺は何か変なことを言ったか?」
「……い、いえ……若様が、『人の心』、なんて言うから……」
「……東雨、それは、どういう意味だ?」
「あぁ、賭けは不成立ですね!」
「薪割り当番が増えなくてよかったよかった」
 東雨と緑権はそれ以上この話題には触れず、逃げるようにそれぞれの仕事に戻った。
 玲陽は地図帳を閉じると、犀星を見つめて、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます、兄様」
「別に、俺は何もしていないが……」
「それが嬉しいんです。いつもそうやって、私たちを、導いて下さる」
 犀星は気恥ずかしそうに、仕事に向き直ったが、動揺しているらしく、手元が狂って筆を取り落とす。書いていた途中の紙を台無しにして、彼はため息をついた。
 玲陽は、そんな犀星の全てが愛しかった。
 二人でいる時と、こうして皆で仕事をしている時では、犀星はまるで違った側面を見せる。
 それでも、本来の犀星は、自分と一緒にいる時のままなのだ。五亨庵では、それなりに立場をわきまえた言動をとるが、本心は、自分に惚れ込んでくれる愛しい一人の人間である。
 政治家として、武人として、恋人として、それぞれの犀星を、玲陽は全て愛しく想う。その全てを、自分は守りたい。一番近くで、見つめていたい。幼い頃からそうだったように、玲陽には、犀星しか見えない。
 玲陽の熱い視線を感じたのか、犀星が困ったようにこちらを見る。
 二人を繋ぐ想いの糸が、東雨たちにも見えるようだった。緑権が、東雨に耳打ちする。
「東雨、あのお二人、帰宅してからはどんな様子なんだ?」
「え?」
「お部屋を一緒にした、と聞いているが……その……だな……」
「仲が良いですよ。喧嘩しても、じゃれあいみたいなものですし、すぐに元通りになりますし」
「それは想像がつく。そうじゃなくて……ちゃんと、やることはやっているんだろうな?」
「え?」
「だから、夜の……」
 こそこそと話していた二人の後ろで、一際大きな、慈圓の咳払いが聞こえた。
「謀児、余計な詮索をしている暇があるなら、薪割りでもしてこい!」
「い、いえ、私は予算書の計算が!」
 緑権があわてて自分の仕事机に戻る。
 慈圓が、じろり、と東雨を見る。
「それで? どんな具合だ?」
「仲草様まで!」
 東雨は肩をすくめた。
「多分、何もないです……毎晩、静かですから」
「嘆かわしいことだ!」
 慈圓はやれやれ、とため息をついた。
「東雨、お前は元々、伯華様にそういう手ほどきをするのも仕事のうちだったのだろう? 何もお教えしていなかったのか?」
「て、手ほどきって……」
 今更、そのような任務を蒸し返されて、東雨も顔が赤くなる。
 何も考えていない頃ならばともかく、犀星の玲陽への恋心を意識してからは、それこそ、臆病になって手出しなどできなかった。それより何より、犀星は一切、そのようなことには関心を示さず、東雨が知る限り、浮ついた話は一つもない。
「俺だって不思議だったんです。俺に興味がない、と言うより、誰にも興味がない、というか……欲望そのものが欠落している、というか……」
「確かに、変わったお方だが、光理どのがいらっしゃる以上、お幸せになって頂かねば……」
「今のままでも、十分、幸せそうですけれど」
 東雨は苦笑いした。
 犀星と玲陽の間に、実際のところ、どこまでの関係が生まれているのか、東雨は確かめたことはない。
 二人が身体を寄せ合って眠っているの日常だ。しかし、寝台が情事の跡を残して乱れることは一度もなかった。それは、毎朝、二人を起こしに部屋に伺う時に見て知っている。湯殿を使うのも、二人は別々だった。夜中に屋敷を見回ることもあるが、彼らの部屋からそれらしい物音も声も聞いたことはない。
「いかんな。若い者がそのようでは……」
 何が良くないのかわからないが、慈圓は不満そうに仕事に戻っていく。東雨は老体の心中を計りかねて、引き攣った笑顔のまま、立ち尽くした。
 東雨とて、気になってはいるのだ。
 しかし、今、屋敷には玲凛も滞在している。妙齢の女性と一つ屋根の下にいて、果たして、あの二人が情を交わすようなことが起きるのだろうか。
 いかに玲凛が二人の味方だと言ったところで、慕う兄達が情欲に耽ける姿を見ては、気まずいに違いない。それは、犀星達とて同じはずだ。
 やっぱり、玲凛は邪魔だ。
 東雨は、半ば本気で、そう思った。
 そんな東雨の背後で、入り口の扉が叩かれる音が響いた。
「はい!」
 東雨は気持ちを持ち直して、出迎えに向かう。訊ねてきたのは、十数人の共を連れた、一人の姫君だった。
「うわ! 趙姫様!」
 東雨の大声に、五亨庵の面々が震撼する。
 事情を知らない玲陽以外の三名は、揃って立ち上がると、どこか隠れ場所はないかと、反射的に見回した。犀星までが、慌てふためく様は、ちょっとした見ものだった。
「兄様?」
「陽……」
 助けを求めるように、犀星は玲陽を引き寄せた。
「頼む、俺のそばを離れるな」
「は、はい…… でも、一体……」
 慈圓も緑権も、これはまずい、という顔で、こちらを見ている。
「あの、何が……」
 玲陽は、この後、我が身に降りかかる災難を何も知る由もなく、犀星に肩を抱かれたまま、首を傾げて突っ立っていた。
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