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第一部 星誕
第三四話 ある桜の物語
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五亨庵に、確かな春が訪れた。
祇桜の枝に、初めての花が開いた日、犀星と玲陽は、その根本に椅子を置いて、暖かな午後の日差しにまどろんでいた。
着物の袖で隠れた二人の手が、長椅子の上でしっかりと重なっている。
玲陽は目を閉じ、犀星は空を見ていた。
まるで、幼い日に戻ったような、懐かしいひととき。
とん、と、玲陽が犀星の肩に頭をもたせかけた。眠りたいのか、何も言わない。
宮中を行き交う貴人や商人、旅芸人に、新規採用された使用人たち……
春と共に増えてきた人の流れ。
誰もが、思わず、二人の姿に歩みを緩めた。まだ、一輪しか開かない、質素な桜の古木の下で、寄り添う美しい二人の青年の姿は、誰の目にも神聖な存在として、また、忘れられない宮中の景色として、焼き付いた。
犀星はそっと、肩掛けで玲陽の寝顔を周囲から隠した。
見せたくない。この人の安らいだ顔も、無防備なその肢体も、自分だけのものだ。
『犀伯華』
不意に、自分を呼ぶ声がした。
低く、落ち着きのある、柔らかくも芯の強い男の声だ。
(祇桜)
犀星は枝を見上げた。
何度も、自分はこの木に宿る、遠い先祖と話をしている。だが、いつもそれは、火急の事態が迫った時ばかりで、平生に話しかけられたことはなかった。
犀星は腕と肩を玲陽に貸したまま、もう一方の手で、耳にかかった髪を掻き上げた。
祇桜の声は、傀儡同様、直接聞こえてくるものだ。だが、人の習性なのか、どうしても聴覚を頼ってしまう。
(陽を起こさないでくれ)
犀星は、頭の中で、祇桜に語りかけた。
小さな、笑い声が聞こえた気がした。
桜に宿る魂の声。元々は人であったのかもしれないが、今は桜の精霊だ。
『案ずるな。お前にしか聞こえない』
(よかった)
犀星は知らぬ者が見れば、男女の逢い引きかと思われるほど、玲陽の体を自分に傾けた。
昨夜は遅くまで、資料の整理を手伝ってくれた。その後は、自分の研鑽のために書物を読んでいた。
その横顔が灯籠の灯りで照らされ、美しく浮かび上がる様を見ながら、自分は先に眠りに落ちた。
目覚めた時も、すでに玲陽は起きていて、朝餉の支度に出てしまっていた。
(おそらく、ほとんど寝ていない)
犀星は玲陽を起こさぬよう、柔らかく額に口付けた。遠くから、二人の様子を興味深々で眺めていた女たちから、黄色い声が上がる。うるさそうに、犀星は睨んだが、その表情まで、彼女たちには好ましいもののようだ。歌仙親王がこちらを向いた、と、色めきたつ。
(ここは騒がしすぎる)
再び、祇桜が笑う声がする。
『お前たちがきてから、急に騒がしくなった。それまでは、誰もが目を背ける、宮中の辺境だった』
(俺たちは、あなたの静かな日々を壊してしまったか)
『いや、私はお前たちが来るのを、ずっと待っていた』
意外な祇桜の言葉に、犀星は瞬いた。
『私の身の上を、知ったのだろう』
(陽から聞いたこと、慈圓が調べたこと、それらを結びつけて、何となく見えてきた)
思考だけで会話が成立する。
人と話すのとは違う、不思議な感覚。
犀星はふと、いつか、玲陽が言っていたことを思い出した。
(祇桜。あなたには、姉がいたそうだな。特に、一番年の近い姉が、よくしてくれた、と)
『そうだ』
犀星にも玲陽にも、祇桜の姿は見えない。しかし、まるで隣に座って話してくれているように、犀星には感じられた。
『玲祇梅(れいぎばい)といった』
(梅に桜か……)
『私はもともと、祇王という。だが、いつからか、祇梅が私を、桜と呼ぶようになった』
(なぜ?)
『姉たちはみな、花の名を持っていた。私だけが、与えられなかった。それをおもんばかったのかもしれぬ』
(そう、か)
『お前も知っていよう。名はただの記号ではない。その者を支配する呪(まじな)いだ』
(ああ)
犀星は優しい眼差しで、玲陽を見つめながら、
(叔母上もおっしゃっていた)
数ヶ月前の記憶が、あまりに遠い。玲陽との再会から、まだ、半年も過ぎていない。
(叔母上と母上が子供だった頃、不思議な世界に迷い込み、「生まれてくる子には、光の名をつけよ」、そう、言われた、と)
『仙界へ行ったのだろう』
(仙界? そんなものは、想像ではないのか?)
『かもしれぬ。だが、傀儡と同じように、限られた者にしかわからぬ世界も、確かに存在する』
(あなたの声が、聞こえるように、か。これは、俺が生まれ持ったものなのか?)
『資質はあった。だが、種子と同じだ。芽吹く力を持ってはいても、水も温もりもない場所では、固く閉ざされた種子のままだ』
(俺には、水と春の日差しがあったってことか……)
犀星は微妙な表情を浮かべた。これが良いことだったのか、悪いことだったのか、判断はつかない。
『お前は土壌を得て、芽吹いた。しかし、植物がそうであるのと同様、お前が生きていくためには、日の光が必要だ』
(それが、陽……)
『期せずして、適切な名を得たものよ』
確かに、と犀星は思った。
昼は玲陽が照らし、夜は自分が照らす。
道を照らす存在。互いの道を、確かめ合う存在。この世に、闇が訪れることがないように……
『犀伯華。お前に忠告がある』
(あなたの言葉には従うつもりだ。あなたのことは信じている。いつも、俺たちを助けてくれる)
『だが、今回ばかりは素直に聞けぬかもしれぬ』
祇桜は、深く思いに沈んでいるようだ。
(俺たちが背負った運命が、生やさしいものではないことは、聞かされている。今更、それに逆らおうとは思わない。教えてくれ。陽を守るためなら、俺はなんだってする)
『……それを、よせ、と言いたいのだ』
一瞬、犀星は祇桜の言葉の意味がわからなかった 。 自分が聞いた言葉を、飲み込めなかった。
(……それは……)
『これ以上、玲光理と深く繋がってはならない』
冷水を浴びせられたように、犀星は目を見開き、桜の一輪を見上げた。
(……なぜ!)
『私がどうして、姉のもとを離れたか』
(…………)
『姉上は、私を庇って逃したのではない。確かに、当時、私は家に居場所がなかった。疎まれていたのも事実。そして、そんな私を、姉上が案じてくれたのもまた、事実』
(…………)
『私たちは、互いに想い合った。それ自体が罪とは言わぬ。だが、その先にあるのは、苦しみだ』
(それと、俺たちと、どういう関係がある?)
『お前は、すでに、玲光理の声を聞いているのではないか?』
ゾッとして、犀星は身体をこわばらせた。
『姉上も、私の心の声を聞いてしまった。本人の意思とは関係なく、私が思うことを、姉上も感じ取り、二人分の心の重さに耐えられなくなった』
(…………)
『姉上は、私のために、心を痛め、気が狂って自害した。私は、その後、家を出たのだ』
(……どうして……そんな……)
犀星は確かに、玲陽の声を、心を聞いている。
だが、それは単に、傀儡と変わらないものかと、軽く考えていた。
(二人分の心の重さ……確かに、あなたたちの境遇には同情する。だが、俺は、陽の心を受け止めてみせる)
『今はまだ、耐えられるだろう』
祇桜の声は、苦しげに掠れた。
『だが、私も、玲光理も、人間ではない。少なくとも、お前たちと同じではない。心の作りも、感情の激しさも桁が違う。お前では、受け止めきれなくなる時がくる。そうなることを、私は避けたい。姉上と同じ末路を、お前に歩んで欲しくはない』
犀星は玲陽の額に唇を寄せた。
『これ以上、想いを深めるのは寄せ。苦しむのはお前自身だ。そして、真実を知ったとき、玲光理もまた、地獄を味わう。自分のために、愛する人を死に追いやった者の辛さ……私と同じ苦しみを、その子には背負わせたくない』
犀星は、唇にうっすらと笑みを浮かべた。
祇桜の言わんとすることは、よくわかる。
だが、答えなど、最初から決まっている。
(祇桜)
犀星は玲陽の額の紋章に口付けながら、
(あなたが言いたいことは、よくわかった。俺たちを心配してくれていることも、それが賢い手段であることも、わかった上で言う。俺は、陽と共にいることを、やめない)
『……犀伯華……』
(辛い想いを、伝えてくれたこと……忠告に感謝する)
『そうか……』
祇桜の、やはりな、という小さなため息を、言外に聞いた気がした。
『私たちは最悪の道を辿った。お前たちが、別の未来を掴み取ってくれることを、祈っている』
(すまない……)
『いや、私は、知っていた。お前なら、どう決断するか、わかっていた。むしろ、期待していたのかもしれぬ』
(祇桜?)
『お前が、私の忠告より、自分の想いを選ぶことを。だが、気をつけろ。私たちの感情を、受け止め切れる人間はいない』
(そんなの……)
犀星は目を閉じたまま笑った。
(やってみなければわからない。人間とか、そうじゃないとか、そんなことで一括りにしないでくれ。それを理由に、諦めることなんて、俺にはできない)
『……そうだな。事実、私も、お前が人間なのかどうか、わからない』
犀星は細く目を開いた。
(どういう意味だ?)
『確かに、お前の肉体は、玲心と先帝との間に生まれたもの。だが、魂がどこから来たのかは、私にもわからぬ』
(肉体と魂が別だ、って言うのか?)
『……仙境の話をしたな』
(ああ)
『まだ、見えないもの、わからぬことが、この世界には多く残されている。ごく一部の、限られた者が、限られた瞬間にだけ、まみえる事柄が、無数にあるのやもしれぬ』
(祇桜。あなたにも、わからないことが?)
自嘲のような笑い声がした。
『私など、中途半端な存在だ。愛する相手ひとり、幸せにできなかった、情けない、力のない存在でしかない』
(……あなたは強い)
犀星は、慰めではなく、本心から、そう言った。
(枝吊りの後、陽が言っていた。あなたが、どれほど強いか。自分には耐えられない、と。今の話を聞いて、俺もそう思う。もし、俺なら、あなたのように、姉の死後も人に尽くす生き方はできない。その場で後を追っていただろう)
何かに気づいたように、犀星は息をついた。
(そうか……罪滅ぼしだったのか……あなたが、人々を助けて旅をしたのも、こうして長い時間、桜に宿って苦しみ続けているのも……確かに、死ぬより辛い……生き続けることを選び、自らを罰し続ける……俺には、耐えられない。陽が言ったように、あなたは強い)
『お前は、私の希望なのだ……いつか、対等にお前と話をしたい』
(今だって、俺はそのつもりだ)
『こんな、死に損ないの私でも、か?』
(俺にとっては、大切な存在だ)
周囲の空気が、突如、フッと熱を帯びた。
犀星は反射的に祇桜の枝を見上げた。
越冬芽が一斉に開き、わずか数秒の間に、満開の花を宿す。
祇桜からの言葉はなかったが、それは明らかに、犀星の想いに応えた、祇桜なりの最上の感謝の意だった。
「……兄様?」
異変を感じて、玲陽が目を覚ます。
「陽、見てみろ」
そっと、犀星は玲陽に囁いた。
「兄様……?」
寝ぼけた目で、玲陽は不思議そうに犀星を見つめ、それから、薄紅色の祇桜の花に、ため息をつく。
「どうして……?」
「ありがとう、と」
「え?」
「それから、頑張れ、かも知れない」
「え? え?」
さっぱりわからず、玲陽が戸惑う。その様子が愛らしく、犀星は微笑んだ。
また、向こうで女たちが騒ぎ立てる声がする。
だが、それももう、気にはならない。
自分には、そんな声を聞いている余裕などない。
二人分の心。
玲陽の声。
それを受け止めると誓った犀星には、他者の感情に惑わされる余裕など、残されてはいないのだ。
(祇桜)
返事はなくとも、聞いていると確信しながら、犀星は語りかけた。
(あなたとの出会いに、感謝する)
声もなく、音もなく、風もなく。しかし、桜の枝は大きく、美しく二人の上で揺らめき、甘い香りが降り注ぐ。
「陽」
「はい……」
「ずっと、一緒だ」
「……はい」
玲陽は、素直に頷いた。
自分が眠っているわずかな間に、犀星が少し、変わったような気がする。何があったのかは聞かない。時が来れば、話してくれるだろう。今は、先祖の宿る桜の下で、ただ、幸せなひとときを過ごしていたい。
夜。
忘れ去られたような路地の奥から、突如、怒鳴り声と争い合う刀の響きが聞こえてきた。
上限の月の明かりの中、抜き身の刀から血を滴らせ、自分が斬り捨てた男の骸を見下ろしているのは、右近衛隊副長兼暁連隊副将、遜蓮章である。
「あ…………」
蓮章の後ろで、震えながら、若い男が一人、乱れた呼吸で喘いでいる。
「怪我はないか?」
「は、はい……」
蓮章は男の腕を掴んで立たせた。
「朝になる前に、都を出ろ」
「で、でも、追手がかかったら……」
「そこまでは面倒見きれん。俺にできるのは、ここまでだ。あとは自分でどうにかしろ」
「…………」
「大丈夫だ。今夜の都の門番は暁隊だ。俺の名を出して、この鑑札を渡せ。通してくれる」
「ほ、本当に……?」
「足抜けなんかするような仕事に、もう関わるな」
「あ、ありがとうございます!」
若い男は、蓮章から鑑札を受け取ると、急いでその場を走り去った。
「全く……俺はいつになったら、抜けられるんだか……」
月明かりが照らす蓮章の目は、鋭く一部の隙もない。すでに、別の追手が動いている。
「世話の焼ける……」
気配を探って位置を確認すると、蓮章は身軽に闇の中へ姿を消した。
彼が手にかけた男の血が、路地の塀に鮮やかに飛び散り、満開の夜桜のように月光に映えていた。
祇桜の枝に、初めての花が開いた日、犀星と玲陽は、その根本に椅子を置いて、暖かな午後の日差しにまどろんでいた。
着物の袖で隠れた二人の手が、長椅子の上でしっかりと重なっている。
玲陽は目を閉じ、犀星は空を見ていた。
まるで、幼い日に戻ったような、懐かしいひととき。
とん、と、玲陽が犀星の肩に頭をもたせかけた。眠りたいのか、何も言わない。
宮中を行き交う貴人や商人、旅芸人に、新規採用された使用人たち……
春と共に増えてきた人の流れ。
誰もが、思わず、二人の姿に歩みを緩めた。まだ、一輪しか開かない、質素な桜の古木の下で、寄り添う美しい二人の青年の姿は、誰の目にも神聖な存在として、また、忘れられない宮中の景色として、焼き付いた。
犀星はそっと、肩掛けで玲陽の寝顔を周囲から隠した。
見せたくない。この人の安らいだ顔も、無防備なその肢体も、自分だけのものだ。
『犀伯華』
不意に、自分を呼ぶ声がした。
低く、落ち着きのある、柔らかくも芯の強い男の声だ。
(祇桜)
犀星は枝を見上げた。
何度も、自分はこの木に宿る、遠い先祖と話をしている。だが、いつもそれは、火急の事態が迫った時ばかりで、平生に話しかけられたことはなかった。
犀星は腕と肩を玲陽に貸したまま、もう一方の手で、耳にかかった髪を掻き上げた。
祇桜の声は、傀儡同様、直接聞こえてくるものだ。だが、人の習性なのか、どうしても聴覚を頼ってしまう。
(陽を起こさないでくれ)
犀星は、頭の中で、祇桜に語りかけた。
小さな、笑い声が聞こえた気がした。
桜に宿る魂の声。元々は人であったのかもしれないが、今は桜の精霊だ。
『案ずるな。お前にしか聞こえない』
(よかった)
犀星は知らぬ者が見れば、男女の逢い引きかと思われるほど、玲陽の体を自分に傾けた。
昨夜は遅くまで、資料の整理を手伝ってくれた。その後は、自分の研鑽のために書物を読んでいた。
その横顔が灯籠の灯りで照らされ、美しく浮かび上がる様を見ながら、自分は先に眠りに落ちた。
目覚めた時も、すでに玲陽は起きていて、朝餉の支度に出てしまっていた。
(おそらく、ほとんど寝ていない)
犀星は玲陽を起こさぬよう、柔らかく額に口付けた。遠くから、二人の様子を興味深々で眺めていた女たちから、黄色い声が上がる。うるさそうに、犀星は睨んだが、その表情まで、彼女たちには好ましいもののようだ。歌仙親王がこちらを向いた、と、色めきたつ。
(ここは騒がしすぎる)
再び、祇桜が笑う声がする。
『お前たちがきてから、急に騒がしくなった。それまでは、誰もが目を背ける、宮中の辺境だった』
(俺たちは、あなたの静かな日々を壊してしまったか)
『いや、私はお前たちが来るのを、ずっと待っていた』
意外な祇桜の言葉に、犀星は瞬いた。
『私の身の上を、知ったのだろう』
(陽から聞いたこと、慈圓が調べたこと、それらを結びつけて、何となく見えてきた)
思考だけで会話が成立する。
人と話すのとは違う、不思議な感覚。
犀星はふと、いつか、玲陽が言っていたことを思い出した。
(祇桜。あなたには、姉がいたそうだな。特に、一番年の近い姉が、よくしてくれた、と)
『そうだ』
犀星にも玲陽にも、祇桜の姿は見えない。しかし、まるで隣に座って話してくれているように、犀星には感じられた。
『玲祇梅(れいぎばい)といった』
(梅に桜か……)
『私はもともと、祇王という。だが、いつからか、祇梅が私を、桜と呼ぶようになった』
(なぜ?)
『姉たちはみな、花の名を持っていた。私だけが、与えられなかった。それをおもんばかったのかもしれぬ』
(そう、か)
『お前も知っていよう。名はただの記号ではない。その者を支配する呪(まじな)いだ』
(ああ)
犀星は優しい眼差しで、玲陽を見つめながら、
(叔母上もおっしゃっていた)
数ヶ月前の記憶が、あまりに遠い。玲陽との再会から、まだ、半年も過ぎていない。
(叔母上と母上が子供だった頃、不思議な世界に迷い込み、「生まれてくる子には、光の名をつけよ」、そう、言われた、と)
『仙界へ行ったのだろう』
(仙界? そんなものは、想像ではないのか?)
『かもしれぬ。だが、傀儡と同じように、限られた者にしかわからぬ世界も、確かに存在する』
(あなたの声が、聞こえるように、か。これは、俺が生まれ持ったものなのか?)
『資質はあった。だが、種子と同じだ。芽吹く力を持ってはいても、水も温もりもない場所では、固く閉ざされた種子のままだ』
(俺には、水と春の日差しがあったってことか……)
犀星は微妙な表情を浮かべた。これが良いことだったのか、悪いことだったのか、判断はつかない。
『お前は土壌を得て、芽吹いた。しかし、植物がそうであるのと同様、お前が生きていくためには、日の光が必要だ』
(それが、陽……)
『期せずして、適切な名を得たものよ』
確かに、と犀星は思った。
昼は玲陽が照らし、夜は自分が照らす。
道を照らす存在。互いの道を、確かめ合う存在。この世に、闇が訪れることがないように……
『犀伯華。お前に忠告がある』
(あなたの言葉には従うつもりだ。あなたのことは信じている。いつも、俺たちを助けてくれる)
『だが、今回ばかりは素直に聞けぬかもしれぬ』
祇桜は、深く思いに沈んでいるようだ。
(俺たちが背負った運命が、生やさしいものではないことは、聞かされている。今更、それに逆らおうとは思わない。教えてくれ。陽を守るためなら、俺はなんだってする)
『……それを、よせ、と言いたいのだ』
一瞬、犀星は祇桜の言葉の意味がわからなかった 。 自分が聞いた言葉を、飲み込めなかった。
(……それは……)
『これ以上、玲光理と深く繋がってはならない』
冷水を浴びせられたように、犀星は目を見開き、桜の一輪を見上げた。
(……なぜ!)
『私がどうして、姉のもとを離れたか』
(…………)
『姉上は、私を庇って逃したのではない。確かに、当時、私は家に居場所がなかった。疎まれていたのも事実。そして、そんな私を、姉上が案じてくれたのもまた、事実』
(…………)
『私たちは、互いに想い合った。それ自体が罪とは言わぬ。だが、その先にあるのは、苦しみだ』
(それと、俺たちと、どういう関係がある?)
『お前は、すでに、玲光理の声を聞いているのではないか?』
ゾッとして、犀星は身体をこわばらせた。
『姉上も、私の心の声を聞いてしまった。本人の意思とは関係なく、私が思うことを、姉上も感じ取り、二人分の心の重さに耐えられなくなった』
(…………)
『姉上は、私のために、心を痛め、気が狂って自害した。私は、その後、家を出たのだ』
(……どうして……そんな……)
犀星は確かに、玲陽の声を、心を聞いている。
だが、それは単に、傀儡と変わらないものかと、軽く考えていた。
(二人分の心の重さ……確かに、あなたたちの境遇には同情する。だが、俺は、陽の心を受け止めてみせる)
『今はまだ、耐えられるだろう』
祇桜の声は、苦しげに掠れた。
『だが、私も、玲光理も、人間ではない。少なくとも、お前たちと同じではない。心の作りも、感情の激しさも桁が違う。お前では、受け止めきれなくなる時がくる。そうなることを、私は避けたい。姉上と同じ末路を、お前に歩んで欲しくはない』
犀星は玲陽の額に唇を寄せた。
『これ以上、想いを深めるのは寄せ。苦しむのはお前自身だ。そして、真実を知ったとき、玲光理もまた、地獄を味わう。自分のために、愛する人を死に追いやった者の辛さ……私と同じ苦しみを、その子には背負わせたくない』
犀星は、唇にうっすらと笑みを浮かべた。
祇桜の言わんとすることは、よくわかる。
だが、答えなど、最初から決まっている。
(祇桜)
犀星は玲陽の額の紋章に口付けながら、
(あなたが言いたいことは、よくわかった。俺たちを心配してくれていることも、それが賢い手段であることも、わかった上で言う。俺は、陽と共にいることを、やめない)
『……犀伯華……』
(辛い想いを、伝えてくれたこと……忠告に感謝する)
『そうか……』
祇桜の、やはりな、という小さなため息を、言外に聞いた気がした。
『私たちは最悪の道を辿った。お前たちが、別の未来を掴み取ってくれることを、祈っている』
(すまない……)
『いや、私は、知っていた。お前なら、どう決断するか、わかっていた。むしろ、期待していたのかもしれぬ』
(祇桜?)
『お前が、私の忠告より、自分の想いを選ぶことを。だが、気をつけろ。私たちの感情を、受け止め切れる人間はいない』
(そんなの……)
犀星は目を閉じたまま笑った。
(やってみなければわからない。人間とか、そうじゃないとか、そんなことで一括りにしないでくれ。それを理由に、諦めることなんて、俺にはできない)
『……そうだな。事実、私も、お前が人間なのかどうか、わからない』
犀星は細く目を開いた。
(どういう意味だ?)
『確かに、お前の肉体は、玲心と先帝との間に生まれたもの。だが、魂がどこから来たのかは、私にもわからぬ』
(肉体と魂が別だ、って言うのか?)
『……仙境の話をしたな』
(ああ)
『まだ、見えないもの、わからぬことが、この世界には多く残されている。ごく一部の、限られた者が、限られた瞬間にだけ、まみえる事柄が、無数にあるのやもしれぬ』
(祇桜。あなたにも、わからないことが?)
自嘲のような笑い声がした。
『私など、中途半端な存在だ。愛する相手ひとり、幸せにできなかった、情けない、力のない存在でしかない』
(……あなたは強い)
犀星は、慰めではなく、本心から、そう言った。
(枝吊りの後、陽が言っていた。あなたが、どれほど強いか。自分には耐えられない、と。今の話を聞いて、俺もそう思う。もし、俺なら、あなたのように、姉の死後も人に尽くす生き方はできない。その場で後を追っていただろう)
何かに気づいたように、犀星は息をついた。
(そうか……罪滅ぼしだったのか……あなたが、人々を助けて旅をしたのも、こうして長い時間、桜に宿って苦しみ続けているのも……確かに、死ぬより辛い……生き続けることを選び、自らを罰し続ける……俺には、耐えられない。陽が言ったように、あなたは強い)
『お前は、私の希望なのだ……いつか、対等にお前と話をしたい』
(今だって、俺はそのつもりだ)
『こんな、死に損ないの私でも、か?』
(俺にとっては、大切な存在だ)
周囲の空気が、突如、フッと熱を帯びた。
犀星は反射的に祇桜の枝を見上げた。
越冬芽が一斉に開き、わずか数秒の間に、満開の花を宿す。
祇桜からの言葉はなかったが、それは明らかに、犀星の想いに応えた、祇桜なりの最上の感謝の意だった。
「……兄様?」
異変を感じて、玲陽が目を覚ます。
「陽、見てみろ」
そっと、犀星は玲陽に囁いた。
「兄様……?」
寝ぼけた目で、玲陽は不思議そうに犀星を見つめ、それから、薄紅色の祇桜の花に、ため息をつく。
「どうして……?」
「ありがとう、と」
「え?」
「それから、頑張れ、かも知れない」
「え? え?」
さっぱりわからず、玲陽が戸惑う。その様子が愛らしく、犀星は微笑んだ。
また、向こうで女たちが騒ぎ立てる声がする。
だが、それももう、気にはならない。
自分には、そんな声を聞いている余裕などない。
二人分の心。
玲陽の声。
それを受け止めると誓った犀星には、他者の感情に惑わされる余裕など、残されてはいないのだ。
(祇桜)
返事はなくとも、聞いていると確信しながら、犀星は語りかけた。
(あなたとの出会いに、感謝する)
声もなく、音もなく、風もなく。しかし、桜の枝は大きく、美しく二人の上で揺らめき、甘い香りが降り注ぐ。
「陽」
「はい……」
「ずっと、一緒だ」
「……はい」
玲陽は、素直に頷いた。
自分が眠っているわずかな間に、犀星が少し、変わったような気がする。何があったのかは聞かない。時が来れば、話してくれるだろう。今は、先祖の宿る桜の下で、ただ、幸せなひとときを過ごしていたい。
夜。
忘れ去られたような路地の奥から、突如、怒鳴り声と争い合う刀の響きが聞こえてきた。
上限の月の明かりの中、抜き身の刀から血を滴らせ、自分が斬り捨てた男の骸を見下ろしているのは、右近衛隊副長兼暁連隊副将、遜蓮章である。
「あ…………」
蓮章の後ろで、震えながら、若い男が一人、乱れた呼吸で喘いでいる。
「怪我はないか?」
「は、はい……」
蓮章は男の腕を掴んで立たせた。
「朝になる前に、都を出ろ」
「で、でも、追手がかかったら……」
「そこまでは面倒見きれん。俺にできるのは、ここまでだ。あとは自分でどうにかしろ」
「…………」
「大丈夫だ。今夜の都の門番は暁隊だ。俺の名を出して、この鑑札を渡せ。通してくれる」
「ほ、本当に……?」
「足抜けなんかするような仕事に、もう関わるな」
「あ、ありがとうございます!」
若い男は、蓮章から鑑札を受け取ると、急いでその場を走り去った。
「全く……俺はいつになったら、抜けられるんだか……」
月明かりが照らす蓮章の目は、鋭く一部の隙もない。すでに、別の追手が動いている。
「世話の焼ける……」
気配を探って位置を確認すると、蓮章は身軽に闇の中へ姿を消した。
彼が手にかけた男の血が、路地の塀に鮮やかに飛び散り、満開の夜桜のように月光に映えていた。
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