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詠外伝

公主の帰京

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 東雨は久しぶりにのんびりと厨房仕事をしていた。

 すっかり仕事にも慣れた玲陽が手伝ってくれるのが嬉しい。仕事が楽になるから、などという安易な考えではなく、あれこれと話しをしながら、まるで楽しいままごとのようである。

 玲陽の食事は相変わらずだが、それでも、自分達の分まできちんと手伝い、日持ちのする漬物や干物もよく作ってくれる。てっきり、良家の御曹司で何もできないのではないかと思っていたが、真逆だった。

「小さな頃から、家の手伝いはよくしていたんです」

 玲陽は食器を洗いながら、

「家の上の人たちからは嫌われていましたから……奉公の方たちは、本当によくしてくれました」

「そりゃ、陽様みたいに綺麗で優しい子供だったら、俺だって可愛がりますよ」

 東雨はにこにこと上機嫌だ。

 彼が機嫌がいいことの理由は、もう一つある。

 それは、最近、涼景が訪ねてこないことだ。

 彼のことは嫌いではないが、何と言っても、皇帝直属の近衛右隊長である将軍だ。どうせ、若様に面倒ごとを持ち込んでくるに違いない。

 それに、彼の分まで料理を用意しなければならない。

 犀星は元々贅沢を好まず、食事も質素なのだが、さすがに客人となると、そうもいかない。涼景は美食家ではないが、それなりに量を食う。二日分の食料が消える計算になる。

「それだけ、体を使うお仕事ですから」

 と、玲陽は優しく庇うのだが、犀星としてはせめて弁当くらい持参しろ、と言いたげだ。

 東雨はともかく(犀星の中で、順序があるらしい)玲陽にまで厨房仕事をさせて、涼景に飯を食わせるつもりはない、というのが、彼の持論である。

 そのため、涼景が上がり込む時には、犀星は玲陽をすぐに自室に呼び、厨房にはやらない。したがって、東雨が一人で全てを片付けなければならなくなるのである。

 百害あって一利なし、というのが、東雨の涼景に対する評価だった。

 そういうわけで、避けて通りたい涼景が、どういうわけか、最近足が遠のいているのは、まさに幸いなのである。

 厨房を全て片付けて、茶でも入れてゆっくりしようか、と支度していた時、唐突に玲陽が顔をあげた。この仕草は、何か良くないことが起きる前兆、と決まっている。案の定、奥の部屋から、犀星が飛び出してくる。

「なんだ、今の音は!」

 犀星が言う『音』とは、常人には聞こえない。玲陽には視覚として、犀星には音として、この世ならざるものの存在が感じられるらしい。東雨は二人のこの特殊な力にはすっかり慣れたが、次の出来事は、さすがに彼を驚かせた。

 裏木戸が乱暴に破られ、何かが庭に投げ込まれる。

 三人は、急いで裏庭へ出た。

 すでに、息たえているのか、若い女性が草むす中に倒れていた。

 夜露を祓いながら助け起こしたが、やはり、手遅れだ。

 犀星が音を聞いた時点で、絶命したのだろう。

 犀星は周囲の様子を東雨に探らせ、追手などがいないか確かめさせているうちに、玲陽と共に、女性を土間へと運び入れた。

「抜きん出て身なりが良いです。身分のある方のようですね」

 玲陽が丁寧に着物の乱れを治してやる。

 外見の問題なのか心がけか、玲陽が女性の衣服に触れても、下卑たところが感じられず、普通の心持ちで見ていられるから不思議である。

「致命傷は、背中の矢傷か。胸を貫いているそれも、三本がほぼ一箇所に、とは……」

「この矢の太さでは、強弓ということはありませんね。おそらく、遠方から風に乗せて狙い打ったものかと」

「この暗がりだぞ。相当な手練れだ」

「そして、そんな相手に狙われたとなると、この女性も普通の方ではありますまい」

 玲陽が憂鬱そうに言う。女性を憐れむ気持ちもあるが、同時に、彼には、これから悪夢が始まることの方が恐ろしい。犀星は玲陽の手を取った。その手を握り返して、玲陽は美しい陽(ひ)の瞳で犀星を見た。

 ずるいよな、といつも、犀星は思う。

 こんな目を向けられたら、誰だって、そのまま玲陽を求めてしまいたくなるだろうに……

 多分に私感の入った考えではあるが、事実、玲陽は何度か危ない目に遭っている。傀儡が相手ならばまだしも、魂を一つしか持たない女性などに惚れ込まれた時には、大変な騒動になったものだ。

「このような死に方……無念でしょうね」

「それもそうだが、この女性が誰なのかわからないことには、遺体の引き取り手も探せない」

「涼景様にお聞きになるのが一番早いかと」

「そうなんだが……」

 と、珍しく犀星は涼景の関与を渋った。

「あいつ、今、立て込んだ用が入っていて、都を離れているはず」

「何です?」

「二十里離れた小葉まで、遜姫(そんき)様を迎えに行くとか」

「遜姫様って、皇帝陛下の御息女の?」

「ああ。当時は妾だったが、遜姫の母、燿瑛(ようえい)が正妻に迎えられれることとなり、それに伴って、公主として都に上がることに……」

「…………この方が、その公主様ですか?」

「え?」

 唐突に話題が飛んで、犀星が度肝を抜かれる。

「なぜ、そうなる?」

「これを、ご覧ください」

 玲陽は女性の右手首の裏を見せた。

「刻んだばかりの刺青です」

 濃紺の紋様は入り組んでいて、何を意味するのか、犀星にはわからなかった。こういうことは、玲陽の方が造詣が深い。

「皇帝の直系である家紋と、遜の文字です。紋様のように変形されていますが、見る者が見ればわかります」

「お前が詳しくて助かったよ」

「でも、星兄様、これは少々……」

「ああ、まずいことになったな」

 そのまずいこと、の原因が、東雨を押し退けて裏庭を駆け抜けてきた。

「姫を見つけたと!」

「遅かったな」

 犀星は申し訳なさそうに、女性を見下ろした。

「毒の有無はわからないが、背後からの矢が致命傷だ」

「蛾蓮衆(がれんしゅう)の仕業だろう」

「あの、何にでも首を突っ込む、金の亡者の猛者たちか?」

「雇い主は見当がついている。正妻の座を追われた宇城(うき)妃か」

 確かに、宇城妃が自分を追いやった遜姫の母、煬瑛(ようえい)への恨みから、娘の命を狙ったことは十分考えられる。

 事前になんらかの動きがあり、、涼景が手を尽くして警護に当たらねばならないほどの、大事になっていたわけである。

 だが、結末は最悪の形で訪れた。

「涼景様は、此度のこと、咎められたりはしませんよね……」

 心底、心配そうに玲陽が涼景を見つめる。

 だから、その目はずるい、と涼景すら思う。

「俺は今夜、陛下の元で、お迎えの準備をしていた。城門まで送ってから、宮中にとって返したんだ」

​「では、城門から宮中までの警護は誰が?」

「近衛左将軍だ。俺より経験もあるし、このような任務には慣れている。陛下の信頼もある。そこに落ち度があったとは思えないのだが……」

「落とし穴なら、誰でも簡単に掘れるものです」

 サラリと、玲陽は怖いことを言う。だが、どうやら、このたびのことは、それが関与しているらしい。

 しばらく、三人は口をつぐむと、それぞれがそれぞれに、事態の真相を予測した。

 やがて、涼景が口を開く。

「……なぁ。あの宝順ってのは、どこまで悪趣味なんだ?」

 ちょうど裏口を閉めて入ってきた東雨が、涼景の言葉に飛び上がった。

「りょ、涼景様、何という恐れ多いことを!」

「……やはり、そういうこと、ですか」

 玲陽が切なそうに女性、遜姫を見つめた。

「命じた者はわからないが、あいつなら、やりそうなことだ」

 犀星も、涼景の言おうとしたことを察したらしく、吐き捨てるようなため息をつく。

 東雨一人だけがついていけないばかりか、目の前で現皇帝に悪言を言う三名に、どう接していいかわからない。

 仕方なく、とりあえず俺は無関係ですよ、と言わんばかりに、土間の隅の方へこそこそと座り込んだ。

「とにかく、姫のご遺体は預からせてもらう」

「そうしてくれ。ここに残されても、どうしようもない」

「陽、しばらく、宮中に参上するなよ。こんな死に方をしたんだ。さぞ、無念だっただろう」

 遜姫の彷徨う魂が、誰かに憑依しようものななら、皆の前で陽の力を披露する羽目になる。そうなれば、帝が放っておくはずなどない。

 そのために、名を変え、身を潜めているのだから。

 遜姫の体を抱き上げた涼景を、玲陽は呼び止めた。

 部屋の中から、敷布を持ってくると、姫君の体にすっぽりとかけ、自分が髪に刺していた菫の花を、胸元に備えた。

「目立ってはいけませぬゆえ。それに、そのように苦しみに歪んだお顔を、見られたくなはいでしょう」

​ いかにも、陽らしい心遣いである。これは俺にはできないな、と、犀星も素直に認める。

​「かたじけない。報告は入れるが、お前たちも気をつけろ。死に際に関わってしまった以上、この後、何が起きるかはわからない」

「これから五日は、出仕できません」

「問題ないように伝えておく」

 土間の隅にいた東雨を、犀星が振り返った。

「東雨、悪いが、涼景について行ってくれ。宮中で他の衛兵に合流するまででいい」

「わ、わかりました」

 東雨は、両手が塞がっている涼景に変わって道を開きながら、灯籠の火を掲げた。

 土間には、姫から滴った血と、その姿に濡れて色の変わった土が残された。

 玲陽はそっと側に膝をつき、手を合わせた。

「どうか、その魂の安らかなる道へ帰らんことを。我、天理の名において、願うものなり」

 犀星も、黙ったまま、手を合わせると、玲陽を支えて立ち上がらせた。もう、自分の力で動くことができる玲陽ではあるが、それでも、犀星はつい、手を出してしまう。玲陽も、それを煩わしく思うこともなく、むしろ、大切な宝を差し出されたように暖かく握り返した。

 二人の間に許された、わずかな触れ合いは、そばにいるという実感に繋がっていく。繋いだ手を引き寄せて、犀星は玲陽の頬を肩に押し当てた。愛しそうに自らも頬擦りするその姿は、決して東雨や涼景に見せられるものではない。

「陽、大丈夫か?」

「はい、何とか……」

 辛い時には辛いと言う。それが二人の約束だった。相手を安心させるための嘘は、巡り巡って互いを傷つける結果にしかつながらない。

「夕餉は?」

 玲陽が首を振った。

「少しは食べないとな」

 犀星は玲陽から腕をほどくと、土間の奥に用意してある特製の陶磁器の箱の蓋を開けた。

 薄紅色の煮凝りのようなものが入っている木椀が、幾つも並んでいる。

 匙を揃えると、玲陽を促して家の中へ戻る。

 自分の部屋の寝台に座らせ、枕元の灯りを吹き消した。

 窓からのわずかな月明かりだけの中で、玲陽に木椀と匙を渡す。

 玲陽は少しずつ、食べ始めた。明るい場所で、好んで食べたい代物ではない。

 犀星は体をぴたりと寄せて玲陽の肩を抱き、首をもたれさせる。

 玲陽が口にするのは、相変わらず、涼景が考案した冷菓子である。名前こそ美しいが、その材料は動物の生き血に砂糖を加え、水で薄めて少々の塩を混ぜただけの、不快極まるものだ。

 もうしばらくの辛抱だ、と涼景は励ますのだが、その『しばらく』さえ耐え難い。

 玲陽は文句一つ言わず、黙って匙を口に運び続ける。決して好む味ではない。犀星も試してみたが、嗚咽を堪えた結果、吐き出してしまった。玲陽の喉が動き、無理に飲み込むたびに、犀星は彼の体をより強く抱く。自分のために、このような思いをしてまで生きようとしてくれている玲陽に、自分は何ができるのだろうか。

 不意に、先ほどの遜姫のことが思い出された。

 妾の子として地方に追いやられ、今度は母の出世に合わせて呼び戻される。

 しかも、都の皆に歓迎されるわけでもなく、先の正妻にねれわれた果てに、あのような末路に達するとは。

 彼女は、何のために、都へきたのだろう……いや、来なければならなかったのだろう?

 死して公主の帰京せり。

 彼女自身、我が身に迫る危険は承知していたはずだ。

 あの涼景が手を出していた一件である。それがどれだけ重たいことか、少女の身でもわかっていただろう。

 自分と似ている。

 犀星は、遠い昔の出来事を思い出していた。

 

待ちわびし 
君の文なき 
日々なきを 
今改めてたつ 
故郷(くに)の雲霞に
(​伯華)

​ 母に、友に、会いたかったであろう少女が、ようやく辿り着いた都は、雲霞のように頼りなく、彼女を受け入れることはなかった。
 まさに雲の切間に落ちるように、その魂は宙へと放たれていったのである。
「!」
 陽の手が止まったことに、犀星は視界の隅で気がついた。
「兄様」
 陽は食器を寝台の隅の押しやると、犀星を庇うように前にたった。
「傀儡です」
 こと、傀儡が相手となれば、犀星にできることはない。陽に任せるほか……
「星!」
 大声で玲陽は振り返った。
「え?」
 と、見返す間も無く、見えない力が犀星の首を締め上げる。
「遜姫に同情しましたね!」
 玲陽が犀星の上に馬乗りになって、必死にその力を引き剥がそうと、首元を祓う。
 犀星は呼吸を整えながら、そのまま手を引かれて立ち上がると、部屋の隅まで逃げた。
「いるのか?」
「ええ。寝台の上、こっちを見ています。兄上に憑くつもり?」
「なぜ?」
「同情なんかするからです!」
 玲陽が厳しく言った。
​「いつも注意しているじゃないですか! 傀儡に情けをかけてはいけない、と!」
 犀星の目に、遜姫の姿が見えないことは幸いだった。姿が見えれば、それだけ感情移入してしまうだろう。だが、彼には聞こえるのだ。『声』が。

『我が身を貫く三本の矢は、放ちし者へと返る。一つは心臓を、一つは眉間を、そして最後の一つは首を貫き、その恨みを遂げるであろう』

 犀星は、聞いた言葉を、一言一言、自分の声で玲陽に伝えた。犀星が連れていかれないよう、しっかりとその体を抱いて周囲に仙水を撒き、結界を張っていた玲陽は、傀儡が姿を消すまで、じっとその場を動かなかった。

「兄様、今の言葉、書き記して涼景様に」

「ああ。すぐに用意する」

「兄様、本当に……」

「分かっている。気持ちは寄せない。相手は少女とはいえ、復讐を口にした。これ以上の犠牲は出せない」

「ならば良いのですが……あなたは、人を信じないくせに、傀儡は信じてしまうから……」

「何か言ったか?」

「いえ、忘れる前に、お早く」

「ああ」

 犀星が素早く手紙をしたためている間、玲陽はその背中にぴたりと身を寄せて、わずかな悪意も寄せ付けないよう、霊力の結界を巡らせた。守らねばならない。いや、守りたい。大切な人を。非力な自分にできる、せめてものこと。

 傀儡に触れたせいだろう。食べかけていた玲陽の冷菓子は、すっかり腐っていた。

 涼景を送り届け、屋敷に戻ってきた東雨は、今度は再び、犀星の手紙を涼景に届ける、という仕事を言いつかった。

「またですか! 明日じゃダメなんですか?」

「傀儡は夜、活発化します。人の心に隙が生まれるからです。できるだけ早い方が……」

「東雨、頼む。俺たちがこの時刻に出歩くわけにはいかない」

 二人の言い分は最もだ。玲陽はともかく、皇族である歌仙親王には、近衛兵なしで邸宅を出ることは許されていない。

「わかりました。涼景様は今、帝にお会いになっているはずですから、手紙を渡すのには、少し時間がかかるかもしれません」

「可能な限り急いでくれ。もし、待つ時間が長いようなら、先に、この殿の警備隊長に、怪しい動きがあるかもしれないから、気を付けるように、と伝えてくれ」

 犀星は、宮中殿の名を書いた紙を一緒に託した。

「わかりました。そのかわり、明日の午前中は眠らせてもらいますからね」

「ああ。すまないな」

「いいえ、若様のわがままには慣れています」

「東雨どの」

 玲陽は、腰に下げている仙水で指先を濡らすと、東雨の額に呪の文字を書いた。

「夜明けまでしか効果はありませんが、余計な傀儡を遠ざけてくれます」

「ありがとうございます、陽様」

 犀星に対するより丁寧に、東雨は拝啓した。

 元気よく飛び出していく東雨の姿を、玲陽はすまなそうに見送る。

「すっかり、巻き込んでしまいましたね」

「とはいえ、あいつに実害は生じてない。お前は俺より、東雨を気遣ってくれるからな」

「違います! 兄様が勝手に情を動かしたりするから! ……あれ?」

 玲陽は犀星の顔を見たまま、目を止めた。

「どうした?」

「いえ、今、何か違和感のようなものが……」

「なんだ?」

「ええと……」

 煮え切らない返答に、犀星が重ねて問う。玲陽は確信が持てないことは、容易に口にはしない。周囲を余計に不安にすることを避けている。

「わかりません。はっきりしたらお話しします。それより、教えてくれませんか? その、遜姫様と、身辺のこと。私は疎くて……」

 犀星は部屋に戻ると、紙を広げた。

「宮中の人間関係はややこしい。帝や貴人の気分次第で、ころころ変わる。血筋も入り組んでいて、誰が誰の子だか把握するのも面倒なくらいだ。そこに、権力がらみの養子縁組が入ってくる上、縁起を担いでしょっちゅう名前を変える。覚えるだけ無駄だ……」

 犀星は文句を並べたてながら、現状を示そうと系図を書いた。

「まず、遜姫について。彼女の母親は燿瑛という妾だ。帝の寵愛も厚く、もう一人、那毘という娘もいる。遜姫の妹だな」

「燿瑛どの、遜姫どの、那毘どの。この度、お妾様から、正妻になられた理由は?」

「今まで正妻だった宇城の失脚だ」

「宇城様には、皇子がいらっしゃいましたね。鹿紗王様という。先日、病で亡くなったとお聞きしました」

「ああ。まぁ、あの帝は、皇子の一人や二人が死んだところで、気にも留めないだろうがな」

「お妾様の中に、他に世継ぎ候補の皇子が多数いるとか」

「ああ。大勢のうちの一人にすぎん。それに、元々、皇帝は宇城を気に入っていなかった。彼女は先帝の推挙で正妻に迎えるよう、押し付けられただけだからな」

「それでは、宇城様もお可愛そうです」

「宮中など、そんなものだ」

 嫌悪感を露わに、犀星は言った。

「長い間、子はなかったが、四年前に男児・鹿紗王が生まれた。だが、その頃、皇帝は燿瑛に夢中で、娘がすでに二人いた」

「それが、遜姫様と那毘様」

「ああ。宇城は皇子の誕生と共に、権力を得た。気に入らなかった妾の燿瑛を陥れるため、まずは年上の遜姫を帝から遠ざけた」

「四年前、というと、遜姫様はまだ六歳ですよね」

「その六歳の娘が、鹿紗王を殺そうとした、と、噂を流してな」

「そんなこと、できるわけないじゃないですか」

「できるかどうか、が問題ではない。噂になったことで、宇城が心を病み、帝に遜姫を遠ざけるよう、嘆願した」

「自分で噂を流しておいて、あんまりです。帝は、それを聞き入れたのですか?」

「宝順は、女性同士の揉め事を嫌う。煩わしく思うのだ。それに、娘なら他にいくらでもいる。帝が執着したのは燿瑛であって、遜姫ではない」

「では、そんな虚言のために、六歳の少女が、母親から遠ざけられ、幽閉されたと? 燿瑛様は、何も仰らなかったのですか?」

「燿瑛とて、子に興味はない。しかも、公主だ。皇子ならばともかく……」

 玲陽はすっかり言葉もなかった。

 自分もまた、周囲に疎まれて育った身ではあるが、少なくとも、玲芳は母として自分を守ろうとしてくれていた。

 遜姫には、そのような頼れる人物すらいなかったというのか。

 幼い子供が、宮中で生き延びるのがいかに困難であるか、たとえそれが、皇帝の子であったとしても。いや、むしろだからこそ、というべきか……

 玲陽は、先ほどの犀星の言葉を思い出した。

「確か、心臓、眉間、喉……三人に復讐する、と言いましたよね」

「ああ。誰かはわからないが、おそらく、ここに関わっている三名だろう。東雨には、宇城と燿瑛の屋敷に伝えるように書いて渡したんだ」

「まず、遜姫様が現れたとなると……」

 玲陽は少女の名を大きく丸でくくった。

「言葉通り、三名を狙うとして……鹿紗王様はすでに亡くなられている」

 玲陽は小筆で、鹿紗王の名の右上に斜め十字の印をつけた。

「となると、残るは、宝順帝、宇城様、燿瑛様、那毘様……」

「その中で、遜姫が最も憎む相手は、宇城だろうな」

「相手の一人が宇城様だとして……」

 玲陽は続けて、宇城の名の右上に小さく丸印をつける。

「確か、蛾蓮衆が関わっている、とおっしゃいましたよね?」

「この暗闇で、小柄な少女にあれだけの矢を打ち込めるような奴らは、限られる。宇城が蛾蓮衆を金で雇い、動かしたと考えるのが自然だ」

「もし、遜姫様が、宇城様ではなく、蛾蓮衆の刺客を直接狙うのだとしたら、手の出しようがありません」

「自分を射った三人を直接? 確かに、それなら宮中はこれ以上荒れないで済む」

 犀星はふと、初歩的な疑問を抱いた。

「なぁ、陽。傀儡ってのは、その……死んだ後、自分を殺した相手がわかったりするのか? つまり、生きている時に知らない相手に、突然後ろから射殺されて、死んでから正体を知る、なんてことができるのか?」

「ないです」

 あっさり、玲陽は答えた。

「傀儡は、死んだ時点で時が止まります。その後に起きたこと、隠されていたことを調べて新たに知るなんてことはできない」

「だとしたら、もし、蛾蓮衆を狙うなら、追われている時に、姿を見ていることになる。果たして、暗闇で追われながら、相手を記憶できるだろうか」

「……ないですね、しかも三人全員を、など……」

「別々ではなく、続け様に一人が射った可能性も…… いや、待て……だとしたら……あ!」

 犀星がハッとして、先ほどの声をもう一度思い出す。

「俺の聞き間違いではないなら……遜姫が言ったのは、三人じゃないかもしれない」

「?」

「一つは心臓、一つは眉間、一つは喉……彼女は、一人、とは言っていない。一つ、と言った」

「彼女自身、体に三本の矢を受けた。同様に、一人に三本……狙う相手は一人?」

「ならば、生前に彼女が恨みを抱き、なおかつ、現在も生きている相手は、宇城しかいない」

「宇城様が黒幕であるかどうか、それは遜姫様にはわからなかったかもしれません。しかし、そう考えてもおかしくない。四年前の恨みゆえに……」

 二人はすぐにそれぞれの支度を整えた。犀星は寿魔刀を履き、天草で固めた自分の髪を欠片に切って用意する。玲陽は水を浴び、薄めた酢と塩で口を清め、白と黒の呪い着に着替える。

 夜明けと共に近衛が来ればすぐに、邸宅を出られる準備を整え、二人は互いに寄り添って寝台に横たわると、額を合わせ、静かに眠りに落ちた。



面影も
やつれはてたり
身であれど
一目と願わん
君は気づきか
(光理)


 公主としての帰京。しかし、それは死しての帰京となった。

 誰が、このように変わり果てた未来を知り得ただろうか。

 時を同じくして、涼景は遜姫の遺体を密かに宮中へと運び入れると、そのまま、帝が住まう天輝殿(てんきでん)へ向かった。

 宝順はどのような場合にも、涼景の面会だけは断ることはない。それが単なる気まぐれか、それとも夜伽の相手として余程気に入っているのかは知れないが、周囲には、涼景への絶大なる信頼、として受け止められている。

 夜着の上に厚手に織り込んだ長衣を羽織って、宝順は涼景を迎え入れた。

「珍しいな。ちょうど今日は空いている。抱かれにきたか?」

「陛下」

 涼景は、自ら抱えていた、遜姫の遺体を宝順の前に横たえた。

「なんだ、これは」

 涼景はそっと、敷布をめくり、その顔貌を宝順に向けた。苦しみに歪んだ顔は、美しい少女の面影をとどめてはいない。

「遜姫公主様にございます」

 それを見ても聞いても、宝順は眉ひとつ動かさない。

「都入りしたと、知らせがあった娘か」

「はい。その後、琳戒(りんかい)様より使者があり、行方知れずとなったとのこと、市中を探索しておりましたところ、このようなことに」

 今日の午後、遜姫は確かに涼景の手によって、近衛左将軍・琳戒に預けられた。そこから先は、琳戒の責任によるものである。

 琳戒は涼景より経験のある宮中の重鎮である。都の門から宮廷までを護衛するのは、一つの儀式でもあり、それを務めるのは若い涼景よりも、彼の方がふさわしかった。

 今夜は都の門内に用意された邸宅で過ごし、明日、明るい中を人々に見守られながら、行列が進むはずだった。

 それが、なぜ、その前夜に邸宅を抜け出し、犀星たちがひっそりと暮らす都の裏通りへ逃げ込んだのか。

 琳戒が罪を問われるのは間違いないが、犯人が彼である証拠はない。

​ むしろ、犀星が口にした、蛾蓮衆に縁のある者が、宮中から糸を引いたと考える方が自然である。

「捨て置け」

「は?」

 涼景は、宝順の言葉に耳を疑った。

「そのような娘に興味はない」

「しかし、陛下。燿瑛様を正妻に迎えられた今、遜姫様は正式な公主様でございます。せめて、丁重なるご葬儀を……」

「朕の子かどうかもわからぬ」

「!」

 涼景は思わず顔を上げそうになり、慌てて伏せた。

 宝順とは、このような人物なのだ。わずか十歳で命を奪われた娘に対し、たとえ他人であろうとも、わずかでも憐れみを感じるのが人ではないのか。そのような心すら、宝順帝は持ち合わせてはいない。

「それより、涼景」

 ゾッとする間も無く、宝順は涼景の顎をつかむと、首を吊るほどの力で自分の方へ向けた。

「その娘の血か? 着物が汚れている。脱げ」

「陛下!」

「そうだ、こうしよう」

 涼景の目が恐怖に震えた。かつて宝順から与えられ、植え付けられた恐怖心が、彼の心臓を鷲掴みにする。何があろうと、涼景は宝順に逆らうことはできない。歌仙に残してきた、妹と民の命運は、宝順が握っているのだ。

「その娘が本当に遜姫かどうか、確かめようではないか」

 宝順は、すでに目の光を失い、震えている涼景の右頬の傷を撫でた。

「その娘を、朕の前で死姦せよ。さすれば、公主として十分な葬儀を出してやる」

 狂っている!

 やはり、宝順はすでに、人ではない。

 救いを求めるように、涼景は遜姫を振り返った。正しくは、彼女に敷布をかけてくれた、あの心優しき友に、すがりたい一心だった。真っ白な敷布は、玲陽の心そのもののようであり、そこに染みた少女の血は、鮮やかな花の花弁をも思わせる。

 玲陽が弔いに、と、彼女に捧げた菫の花が、突如、炎を上げて燃え上がった。

「なんだ!」

​ 宝順が遺体から後退る。

 玲陽だ!

 理屈はわからないが、玲陽が髪に刺していた花が、涼景を、少女の亡骸を救ったことは確かだった。

 炎はまるで、油を注いだかのように燃え上がり、遺体を焼き尽くしてゆく。

 勢いを増す炎から庇うのを口実に、涼景は宝順を部屋から連れ出すと、近衛たちを呼び集めた。

 公主の遺体が突如燃え上がるという怪事に、宮中が大騒ぎになったのは言うまでもない。

 犀星に手紙を託されていた東雨は、天輝殿の消火の指揮をとっていた涼景を見つけて駆け寄った。

「涼景様!」

 聞き慣れた声に振り返った涼景は、なぜか顔色が良くない。

 東雨はあやしみながら、犀星からの手紙を渡した。

「急いでいる様子でした。それから、こちらの邸宅の警護を強めるように、と」

 ついでに、と、東雨は宇城と燿瑛の名が書かれた紙を涼景に押し付ける。

「将軍! 火の手はおさまりました!」

 涼景の部下が駆けて報告してくる。

「ご苦労だった。怪我や体調を崩した者は?」

「大丈夫です、誰もいません」

「よかった。陛下は?」

「ひとまず、英城院へ」

 皇帝より先に部下の心配かよ、と、東雨は相変わらずな涼景の過保護ぶりに苦笑いする。が、そこでハッと思い出す。

「涼景様、英城院って、燿瑛様の?」

「ああ、御所だが?」

「それ!」

 涼景は東雨が指差した犀星からの紙切れを見た。

「燿瑛様と宇城様が危ないかもしれない、って」

「……そうか」

 涼景は焦った様子も、心配した様子もない。何かがおかしい。

 確かに、涼景が皇帝を良く思っていないことは、東雨も知っている。あわよくば、傀儡によって命を落としてくれればよい、とでも考えているのかもしれない。

 だが、いかに恨み募る皇帝がらみのこととはいえ、涼景もまた、犀星同様、玲芳から寿魔刀を与えられた身である。傀儡の災いを放置して良いことにはならない。

「仙水どの!」

​ 立ち尽くしていた二人の元に、初老の男が息を切らせて馬で乗り付けた。琳戒である。

「琳将軍」

 涼景は位は同じなれど、年上の琳戒を立て、拝礼した。

「すまぬ、仙水どの。わしの不始末だ!」

「遜姫様のことでしたら……」

 と、涼景は切り出しにくそうに、

「お咎めはないものと」

「何? 陛下がそう?」

「はい。捨て置け、と」

 悔しそうに肩を震わせた涼景を、東雨は不安な気持ちで見つめた。

 傀儡に心を寄せてはならない。

 玲陽が常に言い聞かせていることだ。

 だからこそ、自分も死んだ少女のことはできるだけ考えないようにしてきた。涼景とて、それは同じはずである。

「涼景様!」

 無礼を承知で、東雨は涼景の体を揺すった。

「しっかりなさって下さい!」

「東雨?」

「おかしいですよ、あなたらしくない! せめて、若様たちがいらっしゃるまで、持ち堪えて下さい」

「何の話だ?」

 事情を知るはずもない琳戒に、東雨はとにかく、宇城と燿瑛の御所を守るように犀星から言いつかってきたことだけを伝えた。

「証拠の手紙もここに! 確かに親王の字です!」

「何やらわからぬが、これ以上の犠牲は出せぬ。歌仙親王がおっしゃるのなら、それなりの理由があるのだろう」

 こういう時は、犀星の人望の厚さがありがたい。

「それから、至急、誰か護衛の近衛を親王様の元へ! お急ぎ、邸宅を出たいと仰せです」

「わかった。すぐに手配しよう」

 琳戒は馬の首を返すと、部下たちの元へ戻って行った。

 東雨はできるだけ天輝殿から涼景を遠ざけようと肩を貸し、五亨庵へ向かった。少しでも早く、この場を離れた方がいい。

 時を追うごとに、涼景は苦しそうに胸を押さえた。

「涼景様、どれくらい効果があるかわからないですけど、俺と一緒にいて下さい。陽様から、傀儡を遠ざける呪いをもらっています。何もないよりはましだと思います」

「すまない、東雨、休ませてくれ……」

「え?」

 言うなり、涼景はその場に倒れ込んだ。息遣いが荒く、うめき声を上げ続けているが、外傷はない。

 東雨は、茂みの陰に涼景の身体を引き摺って人目から隠すと、そのそばにしゃがみ込み、一瞬、ためらってから、そっと額を合わせた。以前、自分が傀儡に取り込まれたとき、犀星がそうやって自分を守ってくれたことを思い出したのだ。

 犀星の炎の印のような力はなくても、玲陽の呪いがあれば、多少の効果が期待できるかもしれない。

 呪いは朝までしかもたない、と玲陽は言っていた。だが、それまでに彼らがここへ来てくれたら……

 涼景の熱い吐息を感じながら、東雨は思わず、その肩を抱きしめた。

 自分のことを、信じないと言いながら、最後まで庇ってくれた涼景である。誰よりも、自分の境遇を知りながら、人として接してくれた兄のような存在である。

「涼景様……」

 東雨は泣きながら、ひたすら祈った。

「どうか、助けて……」

 誰に、何を乞うたのかわからないが、それ以外、言葉が見つからない。

 東雨にとって、あまりに長い時間が過ぎていく。

「東雨!」

「涼景様!」

 待ち焦がれた声が、遠くから聞こえた気がした。

「若様……陽様…… 若様! ここです! 急いで!」

 東雨は茂みから飛び出すと、大声を上げた。

「東雨!」

 声が近づく。

 暗がりの向こうに、灯籠の灯が見えた。

「東雨どの!」

 玲陽が気配に気づいて駆け寄り、暗闇から東雨を引き寄せた。

「陽様!」

 東雨は玲陽に抱きつくと、そのまま泣きじゃくる。

「何があったのです?」

「涼景様がっ!」

 必死に後ろの茂みを指差し、東雨は座り込んだ。

「兄様」

「ああ」

 犀星は茂みの奥に倒れた友を見つけて駆け寄ると、抱き起こし、容体を確かめる。

「陽、取り憑かれてはいない。ただ、助けを求めて追ってきたらしい。それに、遜姫じゃない」

「え?」

「もっと幼い声だ」

「何と言っているんです?」

「苦しい、息ができない……」

 犀星はその声に集中して、耳を澄ませる。

「大丈夫、すぐに楽にしてやる……」

 涼景に対してか、それとも彼にまとわりついているものに対してか、犀星は囁くように言った。

 目を閉じ、意識を集中して心に響いてくるものを自分の体を通してゆっくりと吐き出す。

 玲陽には、犀星の体を通って、ゆっくりと立ち上がった少年の姿が見えた。

「『姉上を、止めて、下さい』」

 犀星が聞こえた声を代弁する。

「これは、鹿紗王様?」

「姉上って、遜姫のことか!」

「兄様、すぐに宇城様のところへ」

「東雨、涼景を頼んだ。五亨庵で待っていろ!」

「え……」

 暗闇に取り残され、その上、意識のない涼景を任されたところで、自分にどうしろというのだ。

「もう、我が儘なんだから……」

 東雨は、安心したのと、途方に暮れたので、また涙が溢れ出してきた。



 宇城の御所は、琳戒の手はずで警備が厳重にされていた。

「ここの指揮官は誰だ?」

 犀星が鞍上から叫んだ。

「わたくしです」

 歌仙親王の姿を認めて、一人の兵士が進み出た。

「護衛、ご苦労。宇城様は?」

「御所内で、二十名の兵がお守りしております」

「ここに、矢を持つ者はいるか?」

「弓兵は何名かおりますが……」

「すぐに、弓兵を下がらせてくれ。代わりは剣兵か槍兵を」

「御意」

 指揮官が部下の配置を指図している間、玲陽はじっと御所の周囲の暗がりに目をこらしていた。

 夜明けまでもう少しだ。朝になれば、傀儡の動きも鈍る。

「いるか?」

 犀星が馬を寄せてくる。玲陽はかぶりを振った。

「生前の姿をしていると思うんです。まだあの年齢ですし、見間違うことはないのですが……」

 玲陽はふっと地面に視線を落として、呼吸を整えた。

「この宇城様という方、随分と恨まれていますね。今にも動き出しそうな傀儡が、御所に何体も張り付いています」

「……見えなくてよかった」

 犀星は玲陽の額に手を当てた。

「無理はするな。お前がそこまで責任を負う必要はないんだ」

「ありがとうございます。けれど、他の傀儡が動かない、ということは、それ以上の力を持った傀儡が、近くにいる、ということ。それがおそらく、遜姫様……!」

 びくん、と全身を震わせて、玲陽は反対方向を振り返った。

「違う! 兄様! 遜姫様が狙っているのは、燿瑛様です!」

 言うなり、玲陽は燿瑛の御所である英城院へと、馬を狩った。慌てて犀星がそれに並ぶ。

「行かないで!」

 玲陽は、彼にだけ見えている傀儡たちに向かって叫んだ。

「行っちゃだめです!」

「遜姫が集めているのか!」

「もし、この傀儡たちが遜姫様に取り込まれてしまったら、力が大きくなりすぎます!」

「彼らは自分の意志で?」

「いいえ、より強い力に引き寄せられているだけ!」

「恨みが恨みを呼び込む……」

「おかしい」

 玲陽は焦りながらも、必死に考えているようだった。

「いくら何でも、遜姫様の傀儡が、ここまでの影響力を持つなんて……」

「それだけ恨みが深いと?」

「確かに、深い恨みを持っていました。邸宅で一度見ていますから、それは確かです。けれど、その後、何かがあった…… そういえば、天輝殿で火が出たと、近衛の方がおっしゃっていましたね」

「ああ」

「あれ、私のせいです」

「何?」

「傀儡がさらに恨みを増幅させる時、自分の肉体に戻っていくことがあります。それを防ぐために、肉体に傀儡が近づいたら肉体を焼き尽くすように術を……」

「だが、遜姫が燿瑛を狙っているなら、どうして天輝殿に? 真っ直ぐに英城院に向かうはずだろう?」

「何かが、強い憎しみの力が、彼女を引き寄せたんだと思います」

「だが、その時天輝殿の遺体の傍にいたのは……皇帝と、涼景……」

「二人の間に何かがあって、どちらかが、遜姫様を引き寄せてしまった」

「それで、偶然そこにあった遺体に遜姫の傀儡が触れて発火を?」

「それを考えるのは後です! 今は、燿瑛様を!」

 その頃には、玲陽の目にはもう、傀儡の姿はなく、全てが一箇所に、英城院の一室へと吸い込まれている。

 そこに、遜姫の傀儡本体がいる!

 二人は衛兵たちの間を駆け抜けて、英城院へ入った。

「弓矢を遠ざけろ! 持ち込ませるな!」

 犀星が叫びながら先を行く。玲陽はすでに傀儡喰らいの呪文を繰り返し、いつ、取り憑かれた本体と出くわしても良いように、準備に入っている。

「どけろ!」

 犀星は強烈な叫び声が聞こえた一室を開けた。そこにいたのは、怯え切った燿瑛と、それを守るために周囲を固めている近衛兵たち、そして、遜姫より幼い、一人の少女。その足元には兵士が一人倒れており、少女の手には、その兵士から奪ったらしい弓が握られていた。しかも、三本の矢を、同時につがえ、真っ直ぐに燿瑛を狙っている。弓は強弓である。とても、少女の腕で引けるはずがない。明らかに、傀儡が体を操っている。このままでは、少女の体も力に耐えきれず、無事では済まない。

「な、那毘様がご乱心を!」

 近衛兵たちが口々に叫ぶ。だが、たとえ心を乱したとて、公主を斬るだけの度胸のある者はいない。

​「取り憑かれたか……」

 相手が那毘となれば、厄介だ。燿瑛や近衛兵の前で、玲陽が傀儡喰らいなどしたなら、玲陽は間違いなく冒涜の罪で死罪である。かくなる上は、道は一つ。犀星は寿魔刀を抜いた。近衛が何もできないなら、自分がやるしかない。

 乱心し、皇妃である燿瑛を射殺そうとしている者を斬る。たとえそれが公主でも、罪には問われない。

「か、歌仙親王……」

 燿瑛が震える声で助けを求めた。母の前で、娘を斬るのか? 遜姫を失ったばかりの燿瑛の前で、残された那毘さえ、斬り殺すのか?

 柄を握る犀星の手が震える。その手に、玲陽が自らの左手を重ねる。

 ふっと緊張が解けて、犀星は玲陽を振り返った。

「星、私をお願いします」

「任せろ」

 玲陽は隠し持っていた煙玉を右手で床に叩きつけた。同時に、放たれた三本の矢が、天井に突き刺さる。

 真っ白な白煙が視界を遮る。

「陽!」

 犀星は触れていた左手を頼りに、玲陽を手放さない。と、耳をつんざく絶叫と、煙の届かぬ天井までとぐろを巻くような黒い傀儡の塊が視界に入る。玲陽を支えながら、犀星は自分の髪の破片を取り出した。

 玲陽の体が、巨大な力にがたがたと震えるのを感じて、犀星は破片をその口に押し込む。

 煙が晴れていくにつれ、あたりは息を呑むような静寂に包まれた。

 苦しみに喘ぐ玲陽の顔を見るなり、犀星は自分の胸に押し付け、強く抱きしめた。額を合わせ、何度もその紋様や首筋に口付ける。すでに周囲の目など、気にしてはいられない。第一、自分と玲陽が何をしようと、咎められる筋合いはない。

「那毘様!」

 近衛たちが、弓を取り落として床に倒れていた那毘を助け起こした。

 元々、乱心などしていない。傀儡が取り除かれた今、彼女はいつものあどけない少女に戻ったのだ。

「な……」

 部屋の隅で、燿瑛がうめいた。

「ご安心下さい。ご無事です!」

 那毘を助け起こした近衛が嬉しそうに叫ぶ。那毘はぼんやりとした目で、周りを見回した。何も覚えていないようだ。

 だが、燿瑛の次の言葉が、全員の心を凍りつかせた。

「何をしているの! その子を殺して!」



 五亨庵。

 宮中にあって、唯一清浄な空気が流れる場所。

 涼景はその中央の石畳の上で目を覚ました。

 傍には、疲れきった様子で、東雨が眠っている。

 涼景はゆっくりと思い出した。

 ここまで、俺を連れてきてくれたのか。大変だったろうに。

「もう少し、眠っていてくれないかな……」

 上ずった声に振り返ると、長椅子で玲陽を膝枕に抱きながら、犀星がこちらを眺めていた。玲陽がゆっくりと上半身を動かすのに合わせて、犀星はため息のように喘いでいる。傀儡喰らいの後の、玲陽の浄化は欠かせない。

「傀儡の件は終わったようだな。面倒をかけた。東雨を連れて出ていくよ」

 涼景が体を起こす。

「今、外には出ない方がいい」

 喘ぎながら、犀星が言う。

「お前は火事の悪い空気を吸って、体調を崩したことにしてある。しばらく宮中に上がるな。嫌な思いをするだけだ」

「何があった?」

「燿瑛の気がふれた。自ら那毘を殺して、近衛に取り押さえられた」

「何だと!」

「玲陽が、必死に助けたのにな……」

「星?」

 情事の癖か、感情の問題かわからないが、犀星は泣いていた。

「姉上を、止めて」

「え?」

「お前にすがっていたのは、鹿紗王だった。昨夜、俺のところにも来た。力が弱くて、陽にも違和感としか感じられなかったと……」

「鹿紗王が言った『姉上』とは、遜姫じゃない。那毘だったんだ。あの二人は、仲が良かったから……」

「……どうして遜姫様は、燿瑛様を恨んだ?」

「お前が……男だったら……」

 絶頂近く、犀星は、声を途切らせながら、

「最後に、遜姫の声が聞こえた」

「燿瑛に、ずっと、言われ続けていたのか」

「愛されていないことを……子供だから……余計に感じたのだろう……」

「…………」

「涼景、見ないで」

 慌てて、涼景は犀星に背中を向けた。

 五亨庵に響く犀星の声は、あまりに澄んで美しかった。生きる喜びに震えながら、同時に悲しみの底から発せられる嬌声。

 自分には、はるかに遠い。

 犀星の声を背に聴く涼景の視界に、東雨の姿が映る。

 自分も、東雨も、遜姫も、そして、もしかすると、那毘も……

​ 愛されたいと願いながら、誰の愛も得られぬまま、孤独の中にいた。その絶望は、途方もなく深い。



血塗られし
身の穢れ解く
術もなく
いかにて会えと
妻の瞳に​
(仙水)

「春……」
​ 涼景はたまらず、自らの肩を強く抱きしめた。
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