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第一部 星誕

第二九話 凪

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 永遠に止まない雨はなく、去ることのない嵐はない。

 だがそれは、豪雨と荒波を乗り越えた者にのみ、与えられる静けさだ。

 運命を狂わせた、新月から三日後。

 涼景は蓮章に抱かれて天輝殿を出た。

 すっかりやつれて力を無くした涼景を、まるで荷物のように、蓮章は無表情のまま、床から抱き上げた。

 最後には、誰のものとも知れぬ吐瀉物にまみれ、ただの肉塊のように打ち捨てられた涼景に、蓮章は心を動かさなかった。

 もし、彼が人の心を感じれば、間違いなく、自分には理解しがたい、傀儡という存在に飲み込まれていただろう。

 そして、宝順を殺していただろう。

 それを望まず、耐え抜いた涼景に対し、自分がその心を裏切る真似ができようか!

 今は、凪だ。

 感情はいらない。

 伊織庵で一通りの治療をし、意識のない涼景の口に、薬を染み込ませた布の端を含ませる。

 彼が目覚める様子はなかった。

 生きているのかさえわからぬほど、身動きもしない。

 胸に耳を当てれば、かすかな心音。だが、呼吸が弱く、このまま消えてしまうのではないか、という不安。

 目立った外傷はなかった。無理な情交の痕が赤く腫れ上がり、裂傷と、摩擦で破れた粘膜に、血と、白濁してこびりついた残滓が覗いていたが、涼景にとっては、年に数度はあることだ。蓮章は顔色一つ変えずに手当したが、その目は、まるで何も見えていないかのようにうつろだった。床に擦り付けられたのか、無数の傷で全身の皮膚を痛めている。手首や腰の辺りには、強く抑えられたことを示す、鬱血が見られた。

 瞼が腫れ、目の周りが赤い。おそらく、ずっと泣き続けていたのだろう。

 身体ではない。宝順が壊したのは、涼景の心だ。

 昔からずっと、宝順は涼景の心を砕くことに執着した。

 まだ、宝順が涼景に直接の情交を求めなかった時代から、彼は目の前で、犯され、破壊されていく人々を見せつけられてきた。

 泣き叫ぶ力もなくなった者が、どんな表情で心を失くしていくか、狂っていくか、毎晩のように宝順は涼景にその様子を教え込んだ。

 勤務によっては、自分も同席することがあったが、目を閉じ、耳を塞いで、その場を逃げ出したいほどの惨劇だった。そんな中で、涼景は宝順のすぐ隣で、全てから、目も心も閉ざすことを許されなかった。

 蓮章は、天輝殿へ入っていく涼景を見るたび、引き止めてそのまま連れ去りたい衝動に駆られた。あんなものを見せられていては、心が正常に動かなくなる。そうわかっていても、自分には何もできない。

 それが、あの夜……

 涼景が頬に傷を受けた、あの夜。

 涼景自身の身に刻みつけられた、烙印へ繋がっていたと、もっと早く気づいていれば……

 蓮章は、震える体を必死に押さえつけた。

 今、自分は正気を失うわけにはいかない。

 涼景の心が再び開かれるまで、自分が彼を守って見せる。

 たとえ、何があろうと、涼景は必ず蘇る。帰ってくる。今はただ、疲れを癒しているだけだ。

 俺たちを置いてなんて、いかないよな……

 蓮章は瞬きもせず、親友の青白い顔を見つめた。

「副長!」

 病室の扉を開けて、利巧が顔を覗かせた。

「仙水様がお戻りになったと!」

「……ああ」

 蓮章は、一瞬だけ利巧を見ると、また、目を戻した。

「東雨は?」

「大丈夫です。尿管の修復はうまくいきました。あとは感染に注意して皮膚が再生すれば大丈夫です」

「心は?」

「……それは、まだ……」

「だろうな」

 蓮章は、感情のない声で言った。

「薬品庫の一番右下の引き出しに、陶器に入れてあいつの陰部を保存している。欲しがることはないだろうが、一応、伝えておく」

「……聞かれたら、教えます」

 利巧は、苦しげに答えた。全身が揃った状態で埋葬されなければ、成仏できないという教えがある。宦官になる者は、自分の切り取られた体の一部を手元に置くのが一般的だ。だが、それは、利巧のように、覚悟を決めた者であって、東雨のように暴力的に傷つけられた身では、心境が違うだろう。

 と、思わず俯いて下を向いた利巧は、蓮章の足元に血溜まりができていることに驚いた。

「副長! それは!」

「気にするな」

「気にします! お怪我を……!」

 近づいて、利巧は全身が凍りついた。蓮章は、自らの手で、短刀を太ももに突き刺していたのだ。

 血はそこから垂れ落ち、床に広がっていく。

 ぎり、と刃を大きく捻って開くと、蓮章は痛みに歯を食いしばった。

「なんてことを!」

 利巧は慌てて、止血薬と化膿止め、包帯を集めると、抱えて蓮章の前に置いた。そこはすなわち、涼景の眠る寝台の上。

「見ただろう」

 蓮章が、無感情のまま、呟く。

「怒りや憎しみが、俺たちを支配するとどうなるか。お前だって、陽に助けられただろう?」

「……あ……」

 利巧は、ぼんやりと三日前の夜を思い出した。

 涼景の嘆願、東雨の惨劇、それを見た瞬間、自分の中に抑えきれない憎しみが溢れて、何かが自分を操るように動かした。

「副長……」

 蓮章は自らの体を傷つけ、その痛みによって、心を誤魔化し、湧き出す憎悪を押さえつけ、理性を保っている。

 蓮章の行為の意味を、利巧は涙を浮かべて見つめた。

「手当、自分でしてください。あなたに何かあったら、仙水様が悲しみます。それを忘れないでください」

「……ああ」

 背を向けたままの蓮章を残し、利巧は部屋を出た。

 結局、涼景の顔は見られなかった。

 無意識に、避けていた。

 きっと、死人のようだっただろう。

 そんな涼景を見たら、自分もまた、心を支配されてしまうかもしれない。

 重い足取りで、利巧は東雨の部屋へ戻った。

「あ! まだ、寝ていないと!」

「帰る」

 東雨は切り裂かれた服をどうにか掻き合わせて、立ちあがろうとしていた。

「無理だ! 今、外の風にあたったら、傷が化膿する」

「帰るんだ。俺を、待っている人がいる。安心させたい」

「歌仙親王と光理様だろ! 無事を伝える伝令を出してある。だから、もう少し、ここにいろ」

「利巧……」

「そばに、いて欲しい……」

 突然、自分の膝にすがって泣き出した利巧に、東雨は焦った。予想外の彼の行動は、東雨を困惑させるのに十分だ。

「なんで、あんたが泣くんだよ」

「どうして、お前は支配されない?」

「え?」

 利巧は、涙声で途切れ途切れになりながら、今、見てきた蓮章の話をした。

「お前は、帝に何をされたか、実の父親に何をされてきたか、わかっているんだろ! なのに、どうしてそんなに穏やかでいられる? 怒りは? 憎しみはないのか!」

「…………ああ」

 東雨はふと、ある人を思い出した。

 その人は、自分のしたこと、罪の全てを許し、憎しみよりも強い、生きる力をくれた人だ。

「俺だって、面白くないことは山ほどある」

 東雨は、自然と利巧の髪を撫でた。

「だけどな。先を見なきゃ」

「先?」

「そうだ。すんだことは、どうにもならない。でも、未来なら変えられる。自由に、思った通りに」

「無理だ」

 利巧は首を振った。

「俺たちの未来なんて、たかが知れている。どんなに足掻いたって、世界は変わらない」

「だったら、さっさと、涼景のもとを出ていけよ」

「!」

 ポロリ、と涙のこぼれた目で、利巧は東雨を見上げた。

「俺は、あいつの理想も、若様の力も、陽様の言葉も、全部信じている。世界は変えられると信じている。だから、帰るんだ」

「東雨……」

「お前だって、本当はそうなんだろ? 涼景のこと、信じてついていきたいんだろ?」

「……ああっ!」

 そうだ、自分は、あの夜、そう叫んで涼景への忠誠を誓った。

 なのに、どうしてこんなにあっさり、心が折れる?

 どうしてこんなに、東雨は強いんだ?

「利巧、ありがとうな」

「え?」

「色々世話になったし……」

 東雨は照れたように、

「同じ年齢くらいの……その、と、友達っていなくって……」

「とも……だち?」

「いや、俺が勝手にそんな気分になっただけだ。忘れて」

「……なるか、友達」

 涙に濡れた目で、利巧は笑った。東雨の方が驚いて言葉に詰まる。

「い、いいのか?」

「私も、友達なんていたことがない。どういうものか、よくわからない。でも、きっと、悪くないと思う」

「俺も同じだ」

 東雨は大人しく、寝台に腰掛けた。

 手当の仕方はすっかり覚えて、自分でもできる。

 ただ、やはり、変わり果てた体を見るのは辛かった。痛みよりも、これが現実だと信じることができない苦しさの方が上回る。

「利巧……教えて欲しい。俺は、これから、生活で気を付けることはあるか?」

「生活で?」

 利巧は涙を拭いながら問い返す。

 こんな時に、なんて現実的なことを考えるのだろう。

 体の変化への戸惑いの方が大きいはずだというのに、感情に左右されず、冷静に事実を知ろうとしている。

「東雨……お前、強いな」

「強い? 俺が?」

 利巧は心から、そう、思った。

「普通、こんなことがあったら、落ち込んだり、塞ぎ込んだり、誰かを恨んだり、気持ちが荒れるものだろうに」

「さぁ、どうかな」

 東雨は目をそらした。

「荒れているのかも知れない。だが、それでもいい。俺は知らなきゃいけない。嘆き悲しむより先に、これからどうするべきか、知って、考えなければいけない」

「……未来のために?」

「そう。大切な人が、俺に教えてくれた」

「……そうかぁ」

 利巧は東雨の寝台に寝転んだ。

「お前はさ、友達はいない、と言ったが、人に恵まれているよ」

「今は、そう、思える」

 並んで横になると、二人は天井を見上げた。

 この伊織庵は涼景が無償で怪我人の手当をするために用意した場所だ。当然、維持費は彼の配当から出されている。そして、ここを利用するのは、主に、宝順の犠牲になった者たちだった。

「お前だって、涼景様に助けられたんだろ? 幸運だったじゃないか」

「それは思うよ。だが、私は、まだ、何の役にも立てていない」

「最初から、何でもできる人間なんていないし、何十年生きていたって、完璧になれる人間もいない」

 東雨はいつになく、穏やかな調子で話した。

「できることは限られている。一番最初にしなきゃいけないのは、それを認めることだと思う」

「諦めるってことか?」

「そうじゃない」

 東雨は首を振った。

「その時にできること、って意味だ。自分が置かれた状況、自分と相手との力の差、自分にできることと、やらなければならないこと。それ以上でも、それ以下でもだめだ。瞬時に判断して行動する」

「お前……ただの密偵じゃないだろ」

「ただの……ただの、帝の落胤だよ。数のうちにも入らないような、塵同然の。でも、そこからすくいあげてくれた人がいた。それが、若様だ。俺のことを、本当の弟のように大切にしてくれた。たくさん叱って、たくさん褒め……てはくれなかったけど、何も言わない時は、認めてくれていたんだと思う」

「私の目には、お前は帝の密偵でも落胤でもなく、一人前の剣士に見える」

「そうか?」

 嬉しそうに、東雨は笑った。腰の刀を鞘ごと抱きしめる。犀星から託されたものだ。

「気づかぬ間に、俺はすっかり、若様に育てていただいたんだな……」

「それ、お前がずっと離そうとしなかった刀だよな」

「若様の一番刀だから」

「え?」

 驚いて、利巧は飛び起きた。

「歌仙親王が、自分の守り刀を、お前に渡したのか?」

「ああ。陽様をお守りするように、って……」

「お前、それ!」

 利巧は愕然としてから、

「それ、正式な主従の儀式だ」

 状況がわからない、と首を傾げる東雨に、利巧が説明する。

「お前は近衛のしきたりを知らないから、そんな顔をしていられるんだ」

「俺は近衛じゃないし、若様だってそんなこと、気にしてた訳じゃないと思うけれど」

「そうだとしても、とにかく、とても重たいことなんだよ!」

 利巧は驚きを通り越して呆れた顔だ。

「歌仙親王は、お前にだけ、許したんだ。その刀の根本には、親王個人の紋様が刻まれているだろ? それを持つ者は、親王と同じ権威を持つことになる」

「どういう意味?」

「だから!」

 利巧はなかなか通じない東雨にいらつきながら、

「その刀を預けられたってことは、お前は歌仙親王の分身、ってことなんだ。お前の言葉は親王の言葉だし、それだけの権力を渡されたってことなんだ」

「まさかぁ……」

 真剣な利巧に反して、東雨は笑い出した。

「あの若様に限って、そんな格式ばったこと、するわけない。単に、自分が一緒に行けなから、丈夫な一番刀を貸してくれただけだって……」

 利巧は、本気でそう信じている東雨を説得することを、諦めた。

 真実がどうあれ、東雨と歌仙親王の関係が揺るぎないものであることに、間違いはないようだ。確かに、二人の関係をとやかく言えるほど、自分は二人を知っている訳ではない。形式など、何の意味も持たないのかも知れない。

(後日わかったことだが、犀星は、そのような近衛の儀礼は知らなかったという。)

「それよりさ」

 東雨は笑いを収めて、

「さっきの話」

「え? 何だっけ?」

「生活の上で、気を付けること」

「あ、ああ……」

 利巧は本気で忘れていた話題を、整理して伝えた。

「無事に放尿はできるだろう? だから、尿毒症の心配はない。まぁ、女と同じように、尿道が少し短くなった、と考えればいい」

「ふぅん」

「周囲の皮膚はまだ再生中だから、感染症に気をつけろ。傷は残るから、見られるのは嫌かも知れないが、生活する上で不自由はない。治りかけに皮膚が吊るようなら、油を塗ると楽になる」

「わかった」

「それから……」

 と、利巧はいいあぐねて、

「当然だけど、女性との交わりは持てない」

「……さすがに、それはわかる」

「だが、体内に前立腺が残っているから、精液は少しだけ、滲むことがある。病気とかじゃないから、それは心配するな」

「…………」

 東雨はふと、過去の記憶を辿った。

「利巧、それってさ……後ろで男を感じるってこと?」

「!」

 あまりに端的な物言いに、利巧の方が黙りこんだ。

「……そういうこと……」

 かすかに、呟くように、彼は答えた。

「何だか、複雑!」

 東雨はため息をつくと、目を閉じた。愛しそうに、刀を撫でる。

 早く帰りたいな。

 犀星や玲陽に会いたい。

 だが、利巧が自分を心配してくれていることもわかる。

「あと二日したら、帰っていい?」

 東雨の頼みに、利巧は仕方なく、頷いた。彼の初めての友人は、誰に似たのか、こうと決めたら譲らない、頑固な人間のようだった。
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