27 / 62
第一部 星誕
第二七話 傀儡の哀歌
しおりを挟む
自分を呼ぶ声がした。
自分の、本当の名を呼ぶ、声がした。
自分を強く、痛いほどに抱きしめる腕の中にいる。
額から伝わってくる脈動は、一つ、一つ、確実に自分を楽にしてくれる。
これは、何だろう。
自分は、生きているのか、死んでいるのか、それともこれから、生まれようとしているのか、死のうとしているのか。
いくつもの影が、真っ白な視界を横切った。
誰もが笑い、幸せそうに行き交う世界。
ここは、どこだ?
知っている気がする。
私は、ここに来たことがある。いや、ここにいたことがある。
白い世界に、色鮮やかな草花が一瞬で浮かび上がる。
高い高い空は色が薄く、かすかに星(ほし)さえ見える。風は穏やかに、空気は暖かに、日射しはゆるゆると地平線をめぐり、甘い雨の滴が頬に落ちた。
目を開いているはずなのに、自分を抱く人の姿は見えない。
それでも、体は確かに、誰かに支えられて……誰か……いや、確かに『あの人』の腕に抱かれている。
また、名を呼ばれた。
そうだ、長く聞いていなかった、自分の本当の名前だ。
そして、その名を知るのは、自分と『あの人』しかいない。
「…………」
まるで、もう一枚、瞼があるように、玲陽は目を開いた。
視点が合わない近さに、ぼんやりと蒼い瞳がある。
「よく耐えたな、星藍……」
「翔陽……」
重ねた額の熱。
抱きしめる力強い腕。
全身を甘やかせてくれる柔らかな感触。
だが、それは地獄の中のいっときの安らぎ……
初めに気づいたのは、匂いだった。
先ほどまで感じていた花の香りは消え、臓物と血の匂いが充満している。
玲陽は犀星に支えられながら、目を動かして部屋の様子を確認した。
涼景はまだ、虚ろではあるが、意識を取り戻しているようだ。部下の誰かと話しをしている。
床に転がっていた蛾蓮衆の遺体は見当たらない。先に片付けられたのかもしれない。
左右の壁や柱のそばには、縛り上げられた涼景の部下たちがいる。
それは罰ではなく、傀儡に操られて暴れることを防ぐためだろう。
玲陽は部屋の隅々まで確かめながら、大切な人がいないことに気づいた。
「と……う……」
「東雨は、医務室だ。正直、命の補償はできない。出血が酷すぎる」
悔し涙か、悲しみか、それとも怒りか。
頬に落ちた甘い雨と感じたのは、犀星の涙だったのか。
「すまない。俺はお前を助ける」
たとえ、他の者を犠牲にしても……
言外の意味を察し、玲陽は甘んじてそれを受け入れた。
もし、立場が逆なら、自分も同じことをしただろう。その苦悩も罪も、共に背負う。
「星」
高い位置から、聞き覚えのある声が降ってきた。
玲陽が目を上げると、疲れた表情の蓮章だ。
「言われた通り、全員に薬は飲ませた。陽は大丈夫……じゃなさそうだな」
苦笑を返す力もなく、玲陽は黙って蓮章を見つめた。彼が自分達を助けてくれた感謝を込めて。
照れたように蓮章は息を着くと、
「悪い知らせだ。宝順は無事だ。今、左近衛隊が身辺を警護している。所在は俺たちにも内密とのことだ」
「そうか……」
短く、犀星が応じる。
「命令が一つ。この謁見の間を清掃しろ、と。元通りに、だそうだ」
「!」
玲陽はもがくようにして、犀星から額を離した。
犀星は、その理由を聞かない。自分でも、どうして玲陽がそうしたのか、よくわかっていた。彼は玲陽ほど、感情を抑えることはできない。
犀星は玲陽を蓮章に預けると、黙って背を向けた。
「蓮章、仕事を増やして悪いが、人目を避けられる場所を用意してくれるか? 部屋の隅でいい」
「わかった」
「せ……」
「陽。すぐに戻る。ここで待っていてくれ」
「や……だ……」
玲陽は無理に体を動かそうとして、関節に力が入らないことに気づいた。
「すまない。お前は、連れていけない。これ以上、何も見せたくない」
「せ……いっ……」
絞り出すような玲陽の声を振り切って、犀星は謁見の間を後にした。
玲陽は蓮章の腕に身を預けるしかなかった。追いかけようにも、体が動かないのだ。
犀星が向かったのは、禁足地と言われた双花苑である。
天輝殿から馬で駆けることしばらく、草に覆われた巨石が一つ、境目に置かれていた。そこから先に入ることは許されていない。祇桜は、犀星が一人で行くように、と指示したため、蓮章はこの奥にあるものを知らない。
犀星だけが、おそらくは見てはならない世界に触れた。
先ほど訪れた時は、急いでいたこともあり、気づかなかったことが多く見えてくる。
花の季節ではないため、知らぬ者ならわからないだろうが、巨石から奥の林の中には、一面に曼珠沙華が生息している。それほど広い場所ではないが、人を拒む力が働いているのか、足が重くなる。
犀星は林の中を、まっすぐに進んだ。
目印があるわけではない。だが、彼には聞こえるのだ。
傀儡たちの声が。
こちらに来い、と呼ぶ泣き声が。
宮中のありとあらゆる苦悩の中で傷つき、命を奪われ、それでも恨みに身を委ねられず、憎しみ切ることも、許すこともできない、傀儡と人との間に堕ちてしまった、そんな不安定な存在が、そこには無数に漂っていた。
誰もが泣き、悲しみが溢れ、輪廻に返ることも、かと言って人に取り憑くこともできぬまま、永遠に彷徨う場所。
泣き声が重なり合い、哀歌を奏でる場所。
声しか聞こえぬ犀星でさえ、そのあまりある苦悩に胸が苦しくなるというのに、そんな場所に、玲陽を連れて来られるはずがない。
傀儡たちの歌に導かれ、迷うことなく、犀星は道なき道を進んだ。
あたりは真の闇だ。枝に遮られた星(ほし)あかりは頼りなく、ただ、手元の灯籠で足元を照らす。
闇へと、誘われていく感覚。
だが、不安はない。
この先に、何が待つか、祇桜に聞かされたときから、犀星は一縷の希望を賭けていた。
奥まったあたりに、白い着物を着た男が一人、石に腰掛けていた。
闇の中に、自らが発する光で浮かび上がる姿。
その容貌は、まるで、玲陽に生写しだ。
しかも、新月の夜の、銀色の彼に。
「……あの子は?」
男は、犀星に問うた。犀星は黙って頷いた。
「無事です。あなたが力を貸してくださった」
「我が子を救えるのならば、何も惜しくはない」
月がない夜。
それでも、男の体もまた、玲陽と同じように微光を発している。
その指先からは、まだ、血が滴り続けていた。先刻、自分でつけた傷だ。左袖を破き、そこに血を含ませ、犀星に渡した。犀星は言われた通り、その血を水に解いて取り憑かれた者たちに飲ませたのだ。
「今は皆、落ち着いています」
「そうか。時間稼ぎにしかならない。あとは、あの子に喰らってもらうしか……」
「陽に!」
犀星は大声を上げた。
「あいつに会っていただけませんか! あいつは、ずっと苦しんでいた。自分の父親が誰なのか、あなたに会えばきっと……」
「絶望する」
「え?」
「自分が、人間ではないと、審判を下すことになる」
「…………」
「翔陽」
「はい」
「感謝している。お前があの子のそばにいてくれることを、私は何より、頼もしく思う」
「……俺は、俺の意思で決めただけです」
「だからこそ、信頼に値する」
男は、まるで我が子を慈しむように、犀星の頬を撫でた。
「全てが終わったら、もう一度ここに来いと言った。お前は私の言葉通り、一人でここへ来た」
「……はい」
「何のためか、わかるか?」
「…………」
「私のことを、忘れさせてやる」
「え?」
「私の存在を、あの子に隠し続けるのは、お前にとって、苦しみだろう。私にしてやれることは、せめてそれだけだ」
男は犀星に近づくと、玲陽とそっくりなその顔を近づけた。
「全て、忘れろ。何もかも、ここに置いていけ……」
深い接吻が、犀星の息を殺した。彼の中の、男の記憶が薄れていく。魂の一部が、喰われていく。死へと近づいている。確実に命を削り取られていくというのに、逆らいがたい快楽が犀星を支配していった。男に身を任せ、命を任せて、目を閉じる。恐怖はない。代わりに、視界が真っ白になるような快感に、世界が震えた。
脱力していく犀星の体を、男は静かに、その場に座らせた。男の姿が光が霧散するように掻き消え、あたりは闇に沈む。
しばらく、犀星は俯いて目を閉じていた。
心は何かを必死に追いかけたが、それが何であるのかも、自分がどこにいるのか、思い出せなかった。
「……そうだ、天輝殿へ行かなくては……」
犀星は一筋の光のように、その思いで我を取り戻した。
力を落とした玲陽を癒す。何より、それが先決だ。それだけは、不思議とはっきり覚えていた。
とっくに、水時計は一刻を過ぎていたが、天輝殿の惨状は続いている。
部屋の隅に布で周囲からの視線を遮る一角を、蓮章が用意してくれていた。犀星はそこで、玲陽に精を繰り返し与えた。布の端を噛み、声を押し殺し、達するたびに、命を削るような喪失感を覚える。それは、愛する人との行為には程遠く、互いを傷つけ合うかのようだ。犀星から力を抜き取る玲陽も、確実に生きる力を失う感覚に耐える犀星も、どちらにも、嘆きの表情が浮かぶ。
玲陽は、自由の効かない体で、どうにか一滴も残すまじと、犀星を求め、それがすむと、天幕を出て、涼景の部下たちに傀儡喰らいを施す。少しでも犀星の回数を少なくするため、彼は限界まで喰らい、精神力と体力の限りに、続け様に数名を喰らった。蓮章が足元のおぼつかない玲陽を支え、限界を見極めて犀星のもとに連れ戻した。
犀星から新たに力を受け、仮の天蓋を抜け出すと、玲陽は涼景を探した。彼が、一番重症なのだ。
「涼景様……」
這うように、玲陽は涼景に近づいたが、涼景は首を横に振った。
「俺はまだ、堪えれる。それより、あいつらを先に頼む」
小さく、何度か頷いて、満身創痍、玲陽は濁った意識を抱えたまま、蓮章に介抱され、気を失う直前まで、近衛たちの浄化を繰り返した。
力を与える犀星の方も、無事では済まなかった。単なる口淫に止まらず、玲陽が求めるのは生気そのものだ。何度も意識が飛び、思わず堪えきれなかった悲鳴が響くたびに、天幕の外の者たちは、痛ましげに目を逸らした。それは、快感による声ではなく、恐怖の喘ぎそのものだった。
すでに、何も説明せずとも、犀星と玲陽が何をしているか、傀儡に取り憑かれるとどうなるか、そして、玲陽が行う喰らいの現実を、涼景の部下たちは身を持って思い知らされていた。これは現実なのだ。まやかしや伝承ではなく、今、目の前で、見えない何かが、自分達を支配しようとしている。それに必死にあらがう、犀星と玲陽の存在。そして、内部に傀儡を宿したまま、自分より先に部下を助けるよう指示する涼景。
何もかもが、悪夢という現実だ。
「蓮……」
涼景のかすかな呼び声に、蓮章はすぐにそばに駆け寄ると、口元に耳を寄せた。
「犠牲者は?」
「……草侯一名だ」
「侯……昨年、次男が生まれたばかりだ。十分な見舞いと、都から離れた場所に邸宅を用意しろ。子供たちの学問所への取り継ぎも忘れるな」
「わかった」
「骨も……返してやれないのか……」
「死に方が異常だ。肉も骨も千切れ砕けて……」
「そうか……辛かっただろうな」
「一瞬だった。痛みを感じる間もなかっただろう」
「……東雨は……」
「医務室じゃ手に負えない」
「伊織庵(涼景が宮中内に設けた私設の医務所)へ連れていけ」
「もう、連れ出している」
「お前は、勝手に……」
「涼、ここは任せて、お前は自分のことだけ考えろ。陽を呼ぶか?」
「いや、俺は最後でいい」
涼景は、腰の寿魔刀を握りしめた。
「何も知らないあいつらを助けてやってくれ」
「ああ、仰せの通りに」
蓮章は今夜の当直から離れていた涼景の部下たちを呼び寄せ、密かに天輝殿近くの林に待機させていた。だが、状況は想像を超えていたため、近衛だけではなく、軍部の指揮下に入っている部下たちで、宮中の当直に入っていた者たちも、加勢として呼んだ。
彼らには、部屋の清掃や、玲陽が喰らい終わった者の介護にあたらせ、できるだけ早く、この場から立ち去れるよう、計らった。長く止まっていて、心に悪い影響が出る恐れが高い。
人海戦術で、短期処理の方策。何も指示されずとも、涼景ならばどうするか、蓮章には全て見通せた。だからこそ、涼景は彼を、犀星の元に送り、いざというときの命綱としたのだ。
三十名ほどの憑かれた近衛たちが正気を取り戻すには、一晩を要した。
気づけば日が昇り、玲陽の髪色も目の色も、平常時に戻っている。
新月の、力を増した玲陽でなければ、間違いないく、結果は変わっていただろう。
最悪、ここにいる全員が生きてはいない……
最後の一人を喰らい終わると、玲陽はそのまま気を失った。
近くにいた近衛が気づいて助け起こし、犀星の元に運んでくる。
布をかき分け、中に入ると、犀星は死人のように横たわっていた。
その姿を直視できず、玲陽を隣に寝かせ、彼は逃げるように天幕を出た。
「どうした?」
蓮章が変化に気づいて、その近衛を呼び止める。彼は泣いていた。
「蓮章様……」
その様子に、涼景も重たい目を向けた。
「あんまりです! こんなこと!」
「落ち着け……」
蓮章は近衛の体を抱いて、背中を撫でる。
「気持ちを静めろ…… これ以上、陽たちに負担をかけたくないだろう? お前まで取り憑かれるぞ」
「……はい」
涼景は玉座に手をついて立ち上がると、部屋を見回した。
取り憑かれ、恐怖に打ちひしがれた者。
仲間を失い、失意を抱える者。
未知なるものへの、新たな脅威に怯える者。
惨劇の渦の中で、途方に暮れる者。
宝順への、激しい怒りに震える者。
皆が、涼景の動きに気づいて顔をあげ、こちらを見ている。
「すまなかった」
掠れた声で、涼景は言った。
「俺と共にいるということは、こういうことだ」
「涼景……」
蓮章が目を細める。
「引き止めはしない。お前たちの思いに、報いることができず、すまない」
久方ぶりの静寂。
それまで野戦病院のような慌ただしさのあった室内に、まさに水を打ったような静寂。
「……仙水様」
砕け散った、草侯の肉片を握りしめた若い近衛が、涼景を真っ直ぐに見た。
「俺は……あなたと行きます」
覚悟を決めたように、手にした肉塊を頬張ると、飲み干した。
「地獄だろうと煉獄だろうと、あなたのためなら……」
「利巧(りこう)」
「宦官として辛酸を舐めていた俺を、あなたが救ってくれた。俺の命はあなたのものです。連れて行ってください!」
蓮章は、音もなく、息をついた。
今、ここに残っている四十名ほどの者たちは、何らかの事情を抱え、涼景に命を救われた因縁を持つ者が多い。また、その人柄に心底惚れ込んだ年かさの連中の意思も固い。
彼らの信頼と期待。
それが、どれだけの重責か、蓮章には想像もつかない。彼らと、彼らにつながる人々の運命を、どうして涼景が背負わねばならない?
断ればいい。もう、楽になればいい。自分には何もできない、と。これ以上、期待するなと!
そうすれば、涼景はもう、苦しまずに済むのに……
「俺は……」
涼景は利巧同様、自分に向けられた、嘘偽りのない瞳を受け止めた。
「苦労をかける。お前たちを、守りきれないかもしれない。それでも、いいのか?」
「仙水様をお守りするのが、俺たちの役目です!」
利巧の言葉に、皆が頷いた。
「お前たちの思いに報いるには、時間がかかる。それでも、支えてくれるのか?」
「最後の一人になろうと!」
年上の者たちが、苦笑しながら頷く。
涼景の嘆息は、喜びか、または、苦悶か。
「感謝する」
頭を下げると同時に崩れ落ちた涼景に、皆が駆け寄る。
蓮章は一人、その光景を辛そうに見つめていた。
「馬鹿め……」
涼景も、玲陽も、犀星も……
勝ち目などない。
ないかもしれない……そこに夢を抱かせてしまう。
「罪作りな連中だよ、お前らは……」
これだから、彼もまた、涼景のそばを離れることは考えられないのだ。
自分の、本当の名を呼ぶ、声がした。
自分を強く、痛いほどに抱きしめる腕の中にいる。
額から伝わってくる脈動は、一つ、一つ、確実に自分を楽にしてくれる。
これは、何だろう。
自分は、生きているのか、死んでいるのか、それともこれから、生まれようとしているのか、死のうとしているのか。
いくつもの影が、真っ白な視界を横切った。
誰もが笑い、幸せそうに行き交う世界。
ここは、どこだ?
知っている気がする。
私は、ここに来たことがある。いや、ここにいたことがある。
白い世界に、色鮮やかな草花が一瞬で浮かび上がる。
高い高い空は色が薄く、かすかに星(ほし)さえ見える。風は穏やかに、空気は暖かに、日射しはゆるゆると地平線をめぐり、甘い雨の滴が頬に落ちた。
目を開いているはずなのに、自分を抱く人の姿は見えない。
それでも、体は確かに、誰かに支えられて……誰か……いや、確かに『あの人』の腕に抱かれている。
また、名を呼ばれた。
そうだ、長く聞いていなかった、自分の本当の名前だ。
そして、その名を知るのは、自分と『あの人』しかいない。
「…………」
まるで、もう一枚、瞼があるように、玲陽は目を開いた。
視点が合わない近さに、ぼんやりと蒼い瞳がある。
「よく耐えたな、星藍……」
「翔陽……」
重ねた額の熱。
抱きしめる力強い腕。
全身を甘やかせてくれる柔らかな感触。
だが、それは地獄の中のいっときの安らぎ……
初めに気づいたのは、匂いだった。
先ほどまで感じていた花の香りは消え、臓物と血の匂いが充満している。
玲陽は犀星に支えられながら、目を動かして部屋の様子を確認した。
涼景はまだ、虚ろではあるが、意識を取り戻しているようだ。部下の誰かと話しをしている。
床に転がっていた蛾蓮衆の遺体は見当たらない。先に片付けられたのかもしれない。
左右の壁や柱のそばには、縛り上げられた涼景の部下たちがいる。
それは罰ではなく、傀儡に操られて暴れることを防ぐためだろう。
玲陽は部屋の隅々まで確かめながら、大切な人がいないことに気づいた。
「と……う……」
「東雨は、医務室だ。正直、命の補償はできない。出血が酷すぎる」
悔し涙か、悲しみか、それとも怒りか。
頬に落ちた甘い雨と感じたのは、犀星の涙だったのか。
「すまない。俺はお前を助ける」
たとえ、他の者を犠牲にしても……
言外の意味を察し、玲陽は甘んじてそれを受け入れた。
もし、立場が逆なら、自分も同じことをしただろう。その苦悩も罪も、共に背負う。
「星」
高い位置から、聞き覚えのある声が降ってきた。
玲陽が目を上げると、疲れた表情の蓮章だ。
「言われた通り、全員に薬は飲ませた。陽は大丈夫……じゃなさそうだな」
苦笑を返す力もなく、玲陽は黙って蓮章を見つめた。彼が自分達を助けてくれた感謝を込めて。
照れたように蓮章は息を着くと、
「悪い知らせだ。宝順は無事だ。今、左近衛隊が身辺を警護している。所在は俺たちにも内密とのことだ」
「そうか……」
短く、犀星が応じる。
「命令が一つ。この謁見の間を清掃しろ、と。元通りに、だそうだ」
「!」
玲陽はもがくようにして、犀星から額を離した。
犀星は、その理由を聞かない。自分でも、どうして玲陽がそうしたのか、よくわかっていた。彼は玲陽ほど、感情を抑えることはできない。
犀星は玲陽を蓮章に預けると、黙って背を向けた。
「蓮章、仕事を増やして悪いが、人目を避けられる場所を用意してくれるか? 部屋の隅でいい」
「わかった」
「せ……」
「陽。すぐに戻る。ここで待っていてくれ」
「や……だ……」
玲陽は無理に体を動かそうとして、関節に力が入らないことに気づいた。
「すまない。お前は、連れていけない。これ以上、何も見せたくない」
「せ……いっ……」
絞り出すような玲陽の声を振り切って、犀星は謁見の間を後にした。
玲陽は蓮章の腕に身を預けるしかなかった。追いかけようにも、体が動かないのだ。
犀星が向かったのは、禁足地と言われた双花苑である。
天輝殿から馬で駆けることしばらく、草に覆われた巨石が一つ、境目に置かれていた。そこから先に入ることは許されていない。祇桜は、犀星が一人で行くように、と指示したため、蓮章はこの奥にあるものを知らない。
犀星だけが、おそらくは見てはならない世界に触れた。
先ほど訪れた時は、急いでいたこともあり、気づかなかったことが多く見えてくる。
花の季節ではないため、知らぬ者ならわからないだろうが、巨石から奥の林の中には、一面に曼珠沙華が生息している。それほど広い場所ではないが、人を拒む力が働いているのか、足が重くなる。
犀星は林の中を、まっすぐに進んだ。
目印があるわけではない。だが、彼には聞こえるのだ。
傀儡たちの声が。
こちらに来い、と呼ぶ泣き声が。
宮中のありとあらゆる苦悩の中で傷つき、命を奪われ、それでも恨みに身を委ねられず、憎しみ切ることも、許すこともできない、傀儡と人との間に堕ちてしまった、そんな不安定な存在が、そこには無数に漂っていた。
誰もが泣き、悲しみが溢れ、輪廻に返ることも、かと言って人に取り憑くこともできぬまま、永遠に彷徨う場所。
泣き声が重なり合い、哀歌を奏でる場所。
声しか聞こえぬ犀星でさえ、そのあまりある苦悩に胸が苦しくなるというのに、そんな場所に、玲陽を連れて来られるはずがない。
傀儡たちの歌に導かれ、迷うことなく、犀星は道なき道を進んだ。
あたりは真の闇だ。枝に遮られた星(ほし)あかりは頼りなく、ただ、手元の灯籠で足元を照らす。
闇へと、誘われていく感覚。
だが、不安はない。
この先に、何が待つか、祇桜に聞かされたときから、犀星は一縷の希望を賭けていた。
奥まったあたりに、白い着物を着た男が一人、石に腰掛けていた。
闇の中に、自らが発する光で浮かび上がる姿。
その容貌は、まるで、玲陽に生写しだ。
しかも、新月の夜の、銀色の彼に。
「……あの子は?」
男は、犀星に問うた。犀星は黙って頷いた。
「無事です。あなたが力を貸してくださった」
「我が子を救えるのならば、何も惜しくはない」
月がない夜。
それでも、男の体もまた、玲陽と同じように微光を発している。
その指先からは、まだ、血が滴り続けていた。先刻、自分でつけた傷だ。左袖を破き、そこに血を含ませ、犀星に渡した。犀星は言われた通り、その血を水に解いて取り憑かれた者たちに飲ませたのだ。
「今は皆、落ち着いています」
「そうか。時間稼ぎにしかならない。あとは、あの子に喰らってもらうしか……」
「陽に!」
犀星は大声を上げた。
「あいつに会っていただけませんか! あいつは、ずっと苦しんでいた。自分の父親が誰なのか、あなたに会えばきっと……」
「絶望する」
「え?」
「自分が、人間ではないと、審判を下すことになる」
「…………」
「翔陽」
「はい」
「感謝している。お前があの子のそばにいてくれることを、私は何より、頼もしく思う」
「……俺は、俺の意思で決めただけです」
「だからこそ、信頼に値する」
男は、まるで我が子を慈しむように、犀星の頬を撫でた。
「全てが終わったら、もう一度ここに来いと言った。お前は私の言葉通り、一人でここへ来た」
「……はい」
「何のためか、わかるか?」
「…………」
「私のことを、忘れさせてやる」
「え?」
「私の存在を、あの子に隠し続けるのは、お前にとって、苦しみだろう。私にしてやれることは、せめてそれだけだ」
男は犀星に近づくと、玲陽とそっくりなその顔を近づけた。
「全て、忘れろ。何もかも、ここに置いていけ……」
深い接吻が、犀星の息を殺した。彼の中の、男の記憶が薄れていく。魂の一部が、喰われていく。死へと近づいている。確実に命を削り取られていくというのに、逆らいがたい快楽が犀星を支配していった。男に身を任せ、命を任せて、目を閉じる。恐怖はない。代わりに、視界が真っ白になるような快感に、世界が震えた。
脱力していく犀星の体を、男は静かに、その場に座らせた。男の姿が光が霧散するように掻き消え、あたりは闇に沈む。
しばらく、犀星は俯いて目を閉じていた。
心は何かを必死に追いかけたが、それが何であるのかも、自分がどこにいるのか、思い出せなかった。
「……そうだ、天輝殿へ行かなくては……」
犀星は一筋の光のように、その思いで我を取り戻した。
力を落とした玲陽を癒す。何より、それが先決だ。それだけは、不思議とはっきり覚えていた。
とっくに、水時計は一刻を過ぎていたが、天輝殿の惨状は続いている。
部屋の隅に布で周囲からの視線を遮る一角を、蓮章が用意してくれていた。犀星はそこで、玲陽に精を繰り返し与えた。布の端を噛み、声を押し殺し、達するたびに、命を削るような喪失感を覚える。それは、愛する人との行為には程遠く、互いを傷つけ合うかのようだ。犀星から力を抜き取る玲陽も、確実に生きる力を失う感覚に耐える犀星も、どちらにも、嘆きの表情が浮かぶ。
玲陽は、自由の効かない体で、どうにか一滴も残すまじと、犀星を求め、それがすむと、天幕を出て、涼景の部下たちに傀儡喰らいを施す。少しでも犀星の回数を少なくするため、彼は限界まで喰らい、精神力と体力の限りに、続け様に数名を喰らった。蓮章が足元のおぼつかない玲陽を支え、限界を見極めて犀星のもとに連れ戻した。
犀星から新たに力を受け、仮の天蓋を抜け出すと、玲陽は涼景を探した。彼が、一番重症なのだ。
「涼景様……」
這うように、玲陽は涼景に近づいたが、涼景は首を横に振った。
「俺はまだ、堪えれる。それより、あいつらを先に頼む」
小さく、何度か頷いて、満身創痍、玲陽は濁った意識を抱えたまま、蓮章に介抱され、気を失う直前まで、近衛たちの浄化を繰り返した。
力を与える犀星の方も、無事では済まなかった。単なる口淫に止まらず、玲陽が求めるのは生気そのものだ。何度も意識が飛び、思わず堪えきれなかった悲鳴が響くたびに、天幕の外の者たちは、痛ましげに目を逸らした。それは、快感による声ではなく、恐怖の喘ぎそのものだった。
すでに、何も説明せずとも、犀星と玲陽が何をしているか、傀儡に取り憑かれるとどうなるか、そして、玲陽が行う喰らいの現実を、涼景の部下たちは身を持って思い知らされていた。これは現実なのだ。まやかしや伝承ではなく、今、目の前で、見えない何かが、自分達を支配しようとしている。それに必死にあらがう、犀星と玲陽の存在。そして、内部に傀儡を宿したまま、自分より先に部下を助けるよう指示する涼景。
何もかもが、悪夢という現実だ。
「蓮……」
涼景のかすかな呼び声に、蓮章はすぐにそばに駆け寄ると、口元に耳を寄せた。
「犠牲者は?」
「……草侯一名だ」
「侯……昨年、次男が生まれたばかりだ。十分な見舞いと、都から離れた場所に邸宅を用意しろ。子供たちの学問所への取り継ぎも忘れるな」
「わかった」
「骨も……返してやれないのか……」
「死に方が異常だ。肉も骨も千切れ砕けて……」
「そうか……辛かっただろうな」
「一瞬だった。痛みを感じる間もなかっただろう」
「……東雨は……」
「医務室じゃ手に負えない」
「伊織庵(涼景が宮中内に設けた私設の医務所)へ連れていけ」
「もう、連れ出している」
「お前は、勝手に……」
「涼、ここは任せて、お前は自分のことだけ考えろ。陽を呼ぶか?」
「いや、俺は最後でいい」
涼景は、腰の寿魔刀を握りしめた。
「何も知らないあいつらを助けてやってくれ」
「ああ、仰せの通りに」
蓮章は今夜の当直から離れていた涼景の部下たちを呼び寄せ、密かに天輝殿近くの林に待機させていた。だが、状況は想像を超えていたため、近衛だけではなく、軍部の指揮下に入っている部下たちで、宮中の当直に入っていた者たちも、加勢として呼んだ。
彼らには、部屋の清掃や、玲陽が喰らい終わった者の介護にあたらせ、できるだけ早く、この場から立ち去れるよう、計らった。長く止まっていて、心に悪い影響が出る恐れが高い。
人海戦術で、短期処理の方策。何も指示されずとも、涼景ならばどうするか、蓮章には全て見通せた。だからこそ、涼景は彼を、犀星の元に送り、いざというときの命綱としたのだ。
三十名ほどの憑かれた近衛たちが正気を取り戻すには、一晩を要した。
気づけば日が昇り、玲陽の髪色も目の色も、平常時に戻っている。
新月の、力を増した玲陽でなければ、間違いないく、結果は変わっていただろう。
最悪、ここにいる全員が生きてはいない……
最後の一人を喰らい終わると、玲陽はそのまま気を失った。
近くにいた近衛が気づいて助け起こし、犀星の元に運んでくる。
布をかき分け、中に入ると、犀星は死人のように横たわっていた。
その姿を直視できず、玲陽を隣に寝かせ、彼は逃げるように天幕を出た。
「どうした?」
蓮章が変化に気づいて、その近衛を呼び止める。彼は泣いていた。
「蓮章様……」
その様子に、涼景も重たい目を向けた。
「あんまりです! こんなこと!」
「落ち着け……」
蓮章は近衛の体を抱いて、背中を撫でる。
「気持ちを静めろ…… これ以上、陽たちに負担をかけたくないだろう? お前まで取り憑かれるぞ」
「……はい」
涼景は玉座に手をついて立ち上がると、部屋を見回した。
取り憑かれ、恐怖に打ちひしがれた者。
仲間を失い、失意を抱える者。
未知なるものへの、新たな脅威に怯える者。
惨劇の渦の中で、途方に暮れる者。
宝順への、激しい怒りに震える者。
皆が、涼景の動きに気づいて顔をあげ、こちらを見ている。
「すまなかった」
掠れた声で、涼景は言った。
「俺と共にいるということは、こういうことだ」
「涼景……」
蓮章が目を細める。
「引き止めはしない。お前たちの思いに、報いることができず、すまない」
久方ぶりの静寂。
それまで野戦病院のような慌ただしさのあった室内に、まさに水を打ったような静寂。
「……仙水様」
砕け散った、草侯の肉片を握りしめた若い近衛が、涼景を真っ直ぐに見た。
「俺は……あなたと行きます」
覚悟を決めたように、手にした肉塊を頬張ると、飲み干した。
「地獄だろうと煉獄だろうと、あなたのためなら……」
「利巧(りこう)」
「宦官として辛酸を舐めていた俺を、あなたが救ってくれた。俺の命はあなたのものです。連れて行ってください!」
蓮章は、音もなく、息をついた。
今、ここに残っている四十名ほどの者たちは、何らかの事情を抱え、涼景に命を救われた因縁を持つ者が多い。また、その人柄に心底惚れ込んだ年かさの連中の意思も固い。
彼らの信頼と期待。
それが、どれだけの重責か、蓮章には想像もつかない。彼らと、彼らにつながる人々の運命を、どうして涼景が背負わねばならない?
断ればいい。もう、楽になればいい。自分には何もできない、と。これ以上、期待するなと!
そうすれば、涼景はもう、苦しまずに済むのに……
「俺は……」
涼景は利巧同様、自分に向けられた、嘘偽りのない瞳を受け止めた。
「苦労をかける。お前たちを、守りきれないかもしれない。それでも、いいのか?」
「仙水様をお守りするのが、俺たちの役目です!」
利巧の言葉に、皆が頷いた。
「お前たちの思いに報いるには、時間がかかる。それでも、支えてくれるのか?」
「最後の一人になろうと!」
年上の者たちが、苦笑しながら頷く。
涼景の嘆息は、喜びか、または、苦悶か。
「感謝する」
頭を下げると同時に崩れ落ちた涼景に、皆が駆け寄る。
蓮章は一人、その光景を辛そうに見つめていた。
「馬鹿め……」
涼景も、玲陽も、犀星も……
勝ち目などない。
ないかもしれない……そこに夢を抱かせてしまう。
「罪作りな連中だよ、お前らは……」
これだから、彼もまた、涼景のそばを離れることは考えられないのだ。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集
あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。
こちらの短編集は
絶対支配な攻めが、
快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす
1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。
不定期更新ですが、
1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
書きかけの長編が止まってますが、
短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。
よろしくお願いします!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる