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第一部 星誕

第二七話 傀儡の哀歌

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 自分を呼ぶ声がした。

 自分の、本当の名を呼ぶ、声がした。​

 自分を強く、痛いほどに抱きしめる腕の中にいる。

 額から伝わってくる脈動は、一つ、一つ、確実に自分を楽にしてくれる。

 これは、何だろう。

 自分は、生きているのか、死んでいるのか、それともこれから、生まれようとしているのか、死のうとしているのか。

 いくつもの影が、真っ白な視界を横切った。

 誰もが笑い、幸せそうに行き交う世界。

 ここは、どこだ?

 知っている気がする。

 私は、ここに来たことがある。いや、ここにいたことがある。

 白い世界に、色鮮やかな草花が一瞬で浮かび上がる。

 高い高い空は色が薄く、かすかに星(ほし)さえ見える。風は穏やかに、空気は暖かに、日射しはゆるゆると地平線をめぐり、甘い雨の滴が頬に落ちた。

 目を開いているはずなのに、自分を抱く人の姿は見えない。

 それでも、体は確かに、誰かに支えられて……誰か……いや、確かに『あの人』の腕に抱かれている。

 また、名を呼ばれた。

 そうだ、長く聞いていなかった、自分の本当の名前だ。

 そして、その名を知るのは、自分と『あの人』しかいない。

「…………」

 まるで、もう一枚、瞼があるように、玲陽は目を開いた。

 視点が合わない近さに、ぼんやりと蒼い瞳がある。

「よく耐えたな、星藍……」

「翔陽……」

 重ねた額の熱。

 抱きしめる力強い腕。

 全身を甘やかせてくれる柔らかな感触。

​ だが、それは地獄の中のいっときの安らぎ……

 初めに気づいたのは、匂いだった。

 先ほどまで感じていた花の香りは消え、臓物と血の匂いが充満している。

 玲陽は犀星に支えられながら、目を動かして部屋の様子を確認した。

 涼景はまだ、虚ろではあるが、意識を取り戻しているようだ。部下の誰かと話しをしている。

 床に転がっていた蛾蓮衆の遺体は見当たらない。先に片付けられたのかもしれない。

 左右の壁や柱のそばには、縛り上げられた涼景の部下たちがいる。

 それは罰ではなく、傀儡に操られて暴れることを防ぐためだろう。

 玲陽は部屋の隅々まで確かめながら、大切な人がいないことに気づいた。

「と……う……」

「東雨は、医務室だ。正直、命の補償はできない。出血が酷すぎる」

 悔し涙か、悲しみか、それとも怒りか。

 頬に落ちた甘い雨と感じたのは、犀星の涙だったのか。

「すまない。俺はお前を助ける」

 たとえ、他の者を犠牲にしても……

 言外の意味を察し、玲陽は甘んじてそれを受け入れた。

 もし、立場が逆なら、自分も同じことをしただろう。その苦悩も罪も、共に背負う。

「星」

 高い位置から、聞き覚えのある声が降ってきた。

 玲陽が目を上げると、疲れた表情の蓮章だ。

「言われた通り、全員に薬は飲ませた。陽は大丈夫……じゃなさそうだな」

 苦笑を返す力もなく、玲陽は黙って蓮章を見つめた。彼が自分達を助けてくれた感謝を込めて。

 照れたように蓮章は息を着くと、

「悪い知らせだ。宝順は無事だ。今、左近衛隊が身辺を警護している。所在は俺たちにも内密とのことだ」

「そうか……」

 短く、犀星が応じる。

「命令が一つ。この謁見の間を清掃しろ、と。元通りに、だそうだ」

「!」

 玲陽はもがくようにして、犀星から額を離した。

 犀星は、その理由を聞かない。自分でも、どうして玲陽がそうしたのか、よくわかっていた。彼は玲陽ほど、感情を抑えることはできない。

 犀星は玲陽を蓮章に預けると、黙って背を向けた。

「蓮章、仕事を増やして悪いが、人目を避けられる場所を用意してくれるか? 部屋の隅でいい」

「わかった」

「せ……」

「陽。すぐに戻る。ここで待っていてくれ」

「や……だ……」

 玲陽は無理に体を動かそうとして、関節に力が入らないことに気づいた。

「すまない。お前は、連れていけない。これ以上、何も見せたくない」

「せ……いっ……」

 絞り出すような玲陽の声を振り切って、犀星は謁見の間を後にした。

 玲陽は蓮章の腕に身を預けるしかなかった。追いかけようにも、体が動かないのだ。



 犀星が向かったのは、禁足地と言われた双花苑である。

 天輝殿から馬で駆けることしばらく、草に覆われた巨石が一つ、境目に置かれていた。そこから先に入ることは許されていない。祇桜は、犀星が一人で行くように、と指示したため、蓮章はこの奥にあるものを知らない。

 犀星だけが、おそらくは見てはならない世界に触れた。

 先ほど訪れた時は、急いでいたこともあり、気づかなかったことが多く見えてくる。

 花の季節ではないため、知らぬ者ならわからないだろうが、巨石から奥の林の中には、一面に曼珠沙華が生息している。それほど広い場所ではないが、人を拒む力が働いているのか、足が重くなる。

 犀星は林の中を、まっすぐに進んだ。

 目印があるわけではない。だが、彼には聞こえるのだ。

 傀儡たちの声が。

 こちらに来い、と呼ぶ泣き声が。

 宮中のありとあらゆる苦悩の中で傷つき、命を奪われ、それでも恨みに身を委ねられず、憎しみ切ることも、許すこともできない、傀儡と人との間に堕ちてしまった、そんな不安定な存在が、そこには無数に漂っていた。

 誰もが泣き、悲しみが溢れ、輪廻に返ることも、かと言って人に取り憑くこともできぬまま、永遠に彷徨う場所。

 泣き声が重なり合い、哀歌を奏でる場所。

 声しか聞こえぬ犀星でさえ、そのあまりある苦悩に胸が苦しくなるというのに、そんな場所に、玲陽を連れて来られるはずがない。

 傀儡たちの歌に導かれ、迷うことなく、犀星は道なき道を進んだ。

 あたりは真の闇だ。枝に遮られた星(ほし)あかりは頼りなく、ただ、手元の灯籠で足元を照らす。

 闇へと、誘われていく感覚。

 だが、不安はない。

 この先に、何が待つか、祇桜に聞かされたときから、犀星は一縷の希望を賭けていた。

 奥まったあたりに、白い着物を着た男が一人、石に腰掛けていた。

 闇の中に、自らが発する光で浮かび上がる姿。

 その容貌は、まるで、玲陽に生写しだ。

 しかも、新月の夜の、銀色の彼に。

「……あの子は?」

 男は、犀星に問うた。犀星は黙って頷いた。

「無事です。あなたが力を貸してくださった」

「我が子を救えるのならば、何も惜しくはない」

 月がない夜。

 それでも、男の体もまた、玲陽と同じように微光を発している。

 その指先からは、まだ、血が滴り続けていた。先刻、自分でつけた傷だ。左袖を破き、そこに血を含ませ、犀星に渡した。犀星は言われた通り、その血を水に解いて取り憑かれた者たちに飲ませたのだ。

「今は皆、落ち着いています」

「そうか。時間稼ぎにしかならない。あとは、あの子に喰らってもらうしか……」

「陽に!」

 犀星は大声を上げた。

「あいつに会っていただけませんか! あいつは、ずっと苦しんでいた。自分の父親が誰なのか、あなたに会えばきっと……」

「絶望する」

「え?」

「自分が、人間ではないと、審判を下すことになる」

「…………」

「翔陽」

「はい」

「感謝している。お前があの子のそばにいてくれることを、私は何より、頼もしく思う」

「……俺は、俺の意思で決めただけです」

「だからこそ、信頼に値する」

 男は、まるで我が子を慈しむように、犀星の頬を撫でた。

「全てが終わったら、もう一度ここに来いと言った。お前は私の言葉通り、一人でここへ来た」

「……はい」

「何のためか、わかるか?」

「…………」

「私のことを、忘れさせてやる」

「え?」

「私の存在を、あの子に隠し続けるのは、お前にとって、苦しみだろう。私にしてやれることは、せめてそれだけだ」

 男は犀星に近づくと、玲陽とそっくりなその顔を近づけた。

「全て、忘れろ。何もかも、ここに置いていけ……」

 深い接吻が、犀星の息を殺した。彼の中の、男の記憶が薄れていく。魂の一部が、喰われていく。死へと近づいている。確実に命を削り取られていくというのに、逆らいがたい快楽が犀星を支配していった。男に身を任せ、命を任せて、目を閉じる。恐怖はない。代わりに、視界が真っ白になるような快感に、世界が震えた。

 脱力していく犀星の体を、男は静かに、その場に座らせた。男の姿が光が霧散するように掻き消え、あたりは闇に沈む。

 しばらく、犀星は俯いて目を閉じていた。

 心は何かを必死に追いかけたが、それが何であるのかも、自分がどこにいるのか、思い出せなかった。

「……そうだ、天輝殿へ行かなくては……」

 犀星は一筋の光のように、その思いで我を取り戻した。

 力を落とした玲陽を癒す。​何より、それが先決だ。それだけは、不思議とはっきり覚えていた。



 とっくに、水時計は一刻を過ぎていたが、天輝殿の惨状は続いている。

 部屋の隅に布で周囲からの視線を遮る一角を、蓮章が用意してくれていた。犀星はそこで、玲陽に精を繰り返し与えた。布の端を噛み、声を押し殺し、達するたびに、命を削るような喪失感を覚える。それは、愛する人との行為には程遠く、互いを傷つけ合うかのようだ。犀星から力を抜き取る玲陽も、確実に生きる力を失う感覚に耐える犀星も、どちらにも、嘆きの表情が浮かぶ。

 玲陽は、自由の効かない体で、どうにか一滴も残すまじと、犀星を求め、それがすむと、天幕を出て、涼景の部下たちに傀儡喰らいを施す。少しでも犀星の回数を少なくするため、彼は限界まで喰らい、精神力と体力の限りに、続け様に数名を喰らった。蓮章が足元のおぼつかない玲陽を支え、限界を見極めて犀星のもとに連れ戻した。

 犀星から新たに力を受け、仮の天蓋を抜け出すと、玲陽は涼景を探した。彼が、一番重症なのだ。

「涼景様……」

 這うように、玲陽は涼景に近づいたが、涼景は首を横に振った。

「俺はまだ、堪えれる。それより、あいつらを先に頼む」

 小さく、何度か頷いて、満身創痍、玲陽は濁った意識を抱えたまま、蓮章に介抱され、気を失う直前まで、近衛たちの浄化を繰り返した。

 力を与える犀星の方も、無事では済まなかった。単なる口淫に止まらず、玲陽が求めるのは生気そのものだ。何度も意識が飛び、思わず堪えきれなかった悲鳴が響くたびに、天幕の外の者たちは、痛ましげに目を逸らした。それは、快感による声ではなく、恐怖の喘ぎそのものだった。

 すでに、何も説明せずとも、犀星と玲陽が何をしているか、傀儡に取り憑かれるとどうなるか、そして、玲陽が行う喰らいの現実を、涼景の部下たちは身を持って思い知らされていた。これは現実なのだ。まやかしや伝承ではなく、今、目の前で、見えない何かが、自分達を支配しようとしている。それに必死にあらがう、犀星と玲陽の存在。そして、内部に傀儡を宿したまま、自分より先に部下を助けるよう指示する涼景。

 何もかもが、悪夢という現実だ。

「蓮……」

 涼景のかすかな呼び声に、蓮章はすぐにそばに駆け寄ると、口元に耳を寄せた。

「犠牲者は?」

「……草侯一名だ」

「侯……昨年、次男が生まれたばかりだ。十分な見舞いと、都から離れた場所に邸宅を用意しろ。子供たちの学問所への取り継ぎも忘れるな」

「わかった」

「骨も……返してやれないのか……」

「死に方が異常だ。肉も骨も千切れ砕けて……」

「そうか……辛かっただろうな」

「一瞬だった。痛みを感じる間もなかっただろう」

​​「……東雨は……」

「医務室じゃ手に負えない」

「伊織庵(涼景が宮中内に設けた私設の医務所)へ連れていけ」

「もう、連れ出している」

「お前は、勝手に……」

「涼、ここは任せて、お前は自分のことだけ考えろ。陽を呼ぶか?」

「いや、俺は最後でいい」

 涼景は、腰の寿魔刀を握りしめた。

「何も知らないあいつらを助けてやってくれ」

「ああ、仰せの通りに」

 蓮章は今夜の当直から離れていた涼景の部下たちを呼び寄せ、密かに天輝殿近くの林に待機させていた。だが、状況は想像を超えていたため、近衛だけではなく、軍部の指揮下に入っている部下たちで、宮中の当直に入っていた者たちも、加勢として呼んだ。

 彼らには、部屋の清掃や、玲陽が喰らい終わった者の介護にあたらせ、できるだけ早く、この場から立ち去れるよう、計らった。長く止まっていて、心に悪い影響が出る恐れが高い。

 人海戦術で、短期処理の方策。何も指示されずとも、涼景ならばどうするか、蓮章には全て見通せた。だからこそ、涼景は彼を、犀星の元に送り、いざというときの命綱としたのだ。

 三十名ほどの憑かれた近衛たちが正気を取り戻すには、一晩を要した。

 気づけば日が昇り、玲陽の髪色も目の色も、平常時に戻っている。

 新月の、力を増した玲陽でなければ、間違いないく、結果は変わっていただろう。

 最悪、ここにいる全員が生きてはいない……

 最後の一人を喰らい終わると、玲陽はそのまま気を失った。

 近くにいた近衛が気づいて助け起こし、犀星の元に運んでくる。

 布をかき分け、中に入ると、犀星は死人のように横たわっていた。

 その姿を直視できず、玲陽を隣に寝かせ、彼は逃げるように天幕を出た。

「どうした?」

 蓮章が変化に気づいて、その近衛を呼び止める。彼は泣いていた。

「蓮章様……」

 その様子に、涼景も重たい目を向けた。

「あんまりです! こんなこと!」

「落ち着け……」

 蓮章は近衛の体を抱いて、背中を撫でる。

「気持ちを静めろ…… これ以上、陽たちに負担をかけたくないだろう? お前まで取り憑かれるぞ」

「……はい」

 涼景は玉座に手をついて立ち上がると、部屋を見回した。

 取り憑かれ、恐怖に打ちひしがれた者。

 仲間を失い、失意を抱える者。

 未知なるものへの、新たな脅威に怯える者。

 惨劇の渦の中で、途方に暮れる者。

 宝順への、激しい怒りに震える者。

 皆が、涼景の動きに気づいて顔をあげ、こちらを見ている。

「すまなかった」

 掠れた声で、涼景は言った。

「俺と共にいるということは、こういうことだ」

「涼景……」

 蓮章が目を細める。

「引き止めはしない。お前たちの思いに、報いることができず、すまない」

 久方ぶりの静寂。

 それまで野戦病院のような慌ただしさのあった室内に、まさに水を打ったような静寂。

「……仙水様」

 砕け散った、草侯の肉片を握りしめた若い近衛が、涼景を真っ直ぐに見た。

「俺は……あなたと行きます」

 覚悟を決めたように、手にした肉塊を頬張ると、飲み干した。

「地獄だろうと煉獄だろうと、あなたのためなら……」

「利巧(りこう)」

「宦官として辛酸を舐めていた俺を、あなたが救ってくれた。俺の命はあなたのものです。連れて行ってください!」

 蓮章は、音もなく、息をついた。

 今、ここに残っている四十名ほどの者たちは、何らかの事情を抱え、涼景に命を救われた因縁を持つ者が多い。また、その人柄に心底惚れ込んだ年かさの連中の意思も固い。

 彼らの信頼と期待。

 それが、どれだけの重責か、蓮章には想像もつかない。彼らと、彼らにつながる人々の運命を、どうして涼景が背負わねばならない?

 断ればいい。もう、楽になればいい。自分には何もできない、と。これ以上、期待するなと!

 そうすれば、涼景はもう、苦しまずに済むのに……

「俺は……」

 涼景は利巧同様、自分に向けられた、嘘偽りのない瞳を受け止めた。

「苦労をかける。お前たちを、守りきれないかもしれない。それでも、いいのか?」

「仙水様をお守りするのが、俺たちの役目です!」

 利巧の言葉に、皆が頷いた。

「お前たちの思いに報いるには、時間がかかる。それでも、支えてくれるのか?」

「最後の一人になろうと!」

 年上の者たちが、苦笑しながら頷く。

 涼景の嘆息は、喜びか、または、苦悶か。

「感謝する」

 頭を下げると同時に崩れ落ちた涼景に、皆が駆け寄る。

 蓮章は一人、その光景を辛そうに見つめていた。

「馬鹿め……」

 涼景も、玲陽も、犀星も……

 勝ち目などない。

 ないかもしれない……そこに夢を抱かせてしまう。

「罪作りな連中だよ、お前らは……」

 これだから、彼もまた、涼景のそばを離れることは考えられないのだ。
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