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第一部 星誕

第二六話 破綻

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 静寂の中、玲陽には異様な光景が見えていた。

 部屋は確かに、謁見用に整えられた美しい場所だ。そこに居並ぶ宝順をはじめ、涼景以下、近衛の立ち居振る舞いも整然としている。自分を振り返って心配そうに見つめる東雨の愛らしさが際立って、場違いですらある。

 だが、それらはまるで、玲陽にとっては、世界の背景のようだった。

 玲陽には、部屋に満ち満ちる傀儡の群れが、壁から天井から柱の間から、自分達を伺う様子こそが現実だった。

 這い回るもの、体を引きずって歩くもの、じっと座り込むもの、倒れたままのた打つもの、体の一部だけが壁から突き出しているもの…

 まさに、地獄絵図である。しかし、それが見えているのは、自分だけだ。

 玲陽は宝順から目を離さぬまま、呪を唱えた。

 周囲の者たちが見守る中、玲陽を中心として、半球形のぼんやりと輝く空間が広がり、中にいた傀儡たちがその力に浄化されて、次々と消滅していく。結界だ。新月の光によって、玲陽にできることは、攻撃ではない。ただ、周囲を照らし、清めること。

 玲家は攻勢の力ではない。どこまでも、守ることによってのみ、その力を発揮する。

 結界が完成すると、玲陽は浄化された空間で、一人、孤立する。この中で生きることができるのは、彼だけだ。

「宝順どの」

 玲陽は皇帝をそう、呼んだ。

 引き下がる意志も、媚びへつらうつもりもないことの表れだ。

「あなたが、私に指一本でも触れることができたなら、私はあなたに従います」

「ほう」

 玲陽の堂々とした態度に、宝順は明らかに愉悦を浮かべている。

「今夜は新月です。私の力が最も強くなる夜です。その私に勝るというのなら、あなたに全てを委ねます」

「なるほどな。自分より弱い者に従うつもりはない、と」

「はい」

 二人のやりとりを、東雨も涼景も、その部下も息を潜めてじっと体をこわばらせ、見守っている。

「もし、朕がお前に触れられなければ、何を望む?」

「東雨どのを、あなたの呪縛から解放してください」

「ククク!」

 珍しく、宝順は声を立てて笑うと、身を乗り出した。

「仙如の命と、このようなくだらん者の命を天秤にかけ、釣り合うというのか?」

​「命の重さに、違いなどありません」

 眉ひとつ動かさず、玲陽は悠然と答えた。

「お前の力は深夜に絶頂を迎えると聞く。ならば、今からちょうど、一刻。その時間内で決着をつけてやろう」

 宝順は近衛に指示すると、部屋の隅にあった水時計を動かした。

 本来ならば、謁見時間を計るためのものである。

 染み出す水が全て上の器から下の器へ垂れ落ちれば、一刻を示す。

 水滴の音が、時を刻み始めた。

 宝順が片手を上げて、何らかの合図をする。と、涼景が身を翻して宝順を背に庇い、剣を抜いた。

 玉座の後ろにある扉が開き、武装した兵士が数名、宝順を取り囲むように槍を構えた。

「陛下!」

「落ち着け、涼景」

「この者たちは?」

「蛾蓮衆の強者よ。今夜は玲家の御曹司が相手だ。趣向をこらさねばな」

​ 宝順が用意していた隠し刀が、宮中や都を暗躍する暗殺集団・蛾蓮衆となれば、これは血を見ずには済まないだろう。

 やはり、罠か。

 玲陽は表情を変えず、涼景は剣を納めながら、二人とも、それぞれに、この一刻のありようを想像した。

 東雨は玉座と玲陽の結界との間で、どちらに身を向けて良いかわからず、動揺している。そこに、宝順は目をつけた。

「東雨」

「! 陛下!」

 反射的に、東雨は宝順に向いて跪く。

「まずは、お前が試せ」

「え?」

「玲陽に近づいてみよ」

「!」

「案ずるな。お前ならば、傷つくことはない。何と言っても、玲陽の望みがお前の無事なのだからな」

 東雨を捨て駒にする気か。

 涼景は歯噛みした。

 宝順のやり方を、涼景はよく知っている。決して自分の手は汚さない。可能な限り、周囲を利用し、その目論みを達成する。そのために、周りがどれだけ理不尽に傷つけられてきたことか…

 自分の心に、ふつ、と一点、怒りの穴が開いたことに、涼景は気づいていた。蛾蓮衆がいなければ、たとえ後日、反逆者となろうとも、宝順の首を取ることができた。今とて、隙をつけば、皇帝を手にかけることも可能なはずだ。控えている近衛たちは皆、自分を信頼し、志を知る者たちである。自分が動けば、必ず味方してくれる。しかし、たとえ宝順の命を取ったところで、自分はもちろん、一族も、近衛たちも、その家族も、そしておそらく、犀星も……生きてはいられないだろう。殺されるか、自害するか、どちらにせよ、世の中を建て直し、善政を夢見る自分達の未来が遠ざかることは確かだ。第二第三の宝順が現れるだけで、世の中は変わることはない。

 宝順ひとりを殺せば済む問題ではないのだ。

 彼の取り巻きも、制度そのものも、何もかもを、破壊せねばならない。衝動的に動いて良い時ではない。

 涼景は拳を握りしめ、やるせなさに耐えた。

 その様子を、気遣わしげに、近衛たちが見守る。

 彼らにとって、涼景は帝よりも守るべき人物であり、慕い、命を賭して共に戦う覚悟を固めた主人である。近衛の何人かが、涼景に同調して、思わず、刀の柄に手をかけようとするのを、近くの仲間が目で制した。全員、気持ちは同じだ。だが、涼景が動かない限り、自分達が先に動くことはない。彼らはすべからく、涼景に身命を預けている。

 じっと黙って床を見つめていた東雨が、ゆっくりと立ち上がった。

 玲陽を振り返る。

「陽様……」

 玲陽は首を横に振った。

「あなたでは、結界を越えることはできません。近づいてはなりません。命を落とします」

「ですが……」

 と、斜めに首を捻って、宝順を伺う。

「やれ」

 宝順の言葉に、蛾蓮衆の一人が動いた。

 槍の切っ先を、東雨の胸元に突きつける。結界へと押しやるように、一歩ずつ…

 後退った東雨の服の端が、光を放つ玲陽の結界に触れた。途端に、ジュッというきな臭い匂いがして、どろりと床に溶けた着物が垂れ落ちた。

 全員が凍りつく。

 玲陽に近づくこと、その結界に触れるということは、全てを溶解し、滅するということ。単なる強固な壁ではないのだ。

「あ!」

 蛾蓮衆の槍が迫って、東雨は飛び退いた。もちろん、玲陽の結界からも距離をとる。

「かわいそうに」

 宝順が、言葉と裏腹、嬉しげに言う。

「そんなに東雨が欲しいなら、結界の中に入れてやればいいものを、自分だけが逃げ込むとは」

「この力に耐えられるのは、私だけです。そこに例外はない」

「なるほど。では、結界の外で起こることは、朕が支配しよう」

 宝順が東雨を狙っていた蛾蓮衆に指先で示す。殺せ、と言うのだ。

「私が東雨どのを望む以上、彼に手出しはしないでください!」

 玲陽の声など、宝順は聞く耳を持たない。そういう男である。

「さぁ、玲家の御曹司。どうする? お前がその術を解かない限り、東雨の命はないぞ」

​ 状況を、完全に楽しむ宝順の駆け引き。

「東雨!」

 涼景の叫び声と同時に、東雨は床に転がって槍の一撃を避け、飛び跳ねるように起き上がると、腰の剣を抜いた。

 その間に、他の蛾蓮衆が宝順の身を守るよう、構えをとる。涼景はそれを横目で見て、さらに憎悪した。

 いくら東雨が、犀星に鍛えられているとはいえ、相手は人殺しを生業としている連中である。真っ当な剣術など、通用するものではない。しかも、多勢に無勢とはこのことだ。それでも、この状況下で東雨が蛾蓮衆と刃を交えるか、もしくは、直接宝順を狙うか、どちらにせよ、刀一つにかかっている。

「東雨どの!」

 玲陽が口おしげに顔を歪めた。

 彼がこの部屋に入って、初めて見せた感情だ。それを見逃す宝順ではない。彼が求めているのは、そんな苦渋に歪む玲陽の姿だ。

 濃い茶褐色の蛾蓮衆の鎧が、東雨と重なる。その場を動けない玲陽は、ただ無事を祈るしかなかった。

 何度か、東雨が槍を刀の峰で弾き返す音が響く。

 しかし、それも長くは続かない。

 一撃一撃が、必殺の槍さばきである。未熟な東雨の腕は何度目かに悲鳴をあげ、柄を握る手が震えた。取り落としそうになる刀を、ただ、精神力だけで握り続ける。

 東雨がすでに反撃する力を持たぬことを察して、容赦のない、袈裟斬りが少年を切り裂いた。

 悲鳴は、聞こえなかった。東雨は、寸での所で全身の筋肉を使って距離を稼ぎ、致命傷を避けた。着物が帯まで切り裂かれ、体に纏わりつく。肌を晒し、その胸に傷を負っても、東雨は両手で、刀を握り直した。これだけは、死んでも放すものか、と言う目だ。

 その時初めて、涼景はその刀が犀星のものであることに気づいた。

 この場にいられない自分の代わりに、東雨を守る犀星の想い。

 あれだけ強烈な槍の大振りを防ぎ切ったのも、あの刀だったからこそだ。並みの刀では、木っ端微塵に砕けていただろう。

 星……

 涼景が唇を噛む。

​ 犀星も、玲陽も、東雨のために身を投げ出していると言うのに、自分は一番有利な立場にいながら、何もできずにいる。

「陛下っ……」

 涼景は宝順の前に最拝礼して手をついた。

 それはあまりに素早い動きで、蛾蓮衆さえ、その涼景の首元に槍を突きつけるのが一瞬遅れる。

「東雨様の刀に覚えがあるはず。あれは、歌仙親王殿下の守刀。今の東雨様に危害を加えるは、親王殿下を傷つけることも同じこと! どうぞ、お考え直しを!」

 宝順は涼景が出てくることさえ、考えに入れていたらしく、驚きもしない。

「歌仙親王か……先皇にも望まれぬ、田舎育ちの親王如き、朕に楯突くものではないわ」

「ではせめて……」

 涼景は、これだけは言いたくなかった言葉を、ついに口にした。

「東雨様は、陛下のご落胤! ならば、かような手荒な扱いはご容赦の程を!」

「そうだな、確かに、朕の子だ」

 東雨が少しでも息を整えようと荒い呼吸を繰り返す中、宝順は悠々と手元の酒を一口、飲んだ。

 こういう人間なのだ。自分で火をつけておきながら、焼き殺される相手を素知らぬ顔で眺めているような……

 涼景の胸の怒りが、その火力を増す。積年の恨み、憎しみ、抑えてきたものが、彼の心を侵食していく。

「まさか……」

 玲陽は宝順の目を見据え、そして、ぞくりと体を震わせた。

『宝順を、甘くみるな』

 犀星の言葉が蘇る。

 宝順は、己の思いを成し遂げるならば、何を犠牲にすることも厭わない。

 負ける戦をする者ではない。

 彼には、勝利しかあり得ない。

 だとすれば……

「涼景様! 駄目です!」

 玲陽が叫んだ。

「その人の言葉を聞いちゃいけな……」

「朕の子ではあるが!」

 明らかに玲陽を妨げて、宝順は声を高めた。

「皇子など、掃いて捨てるほどいる。しかも、そいつの母親はとっくに死んでいる。ただの孤児と同じだ」

「!」

 涼景と同時に、東雨の体にも震えが走った。宝順が、止めを指すように、

「そいつ一人しか産めず、出産中に命を落とすような、弱い女の子供など、必要ない」

「やめろぉ!」

 絶叫したのは、東雨だった。完全に目が狂気に見開かれ、我を失うように喘ぐ。

 玲陽には、東雨の体に這い上がる子供の姿が見えていた。

 かつて、東雨を狙っていた子供たちだ。はっきりとした意思を持って、東雨に取り憑こうとしている。

 これが、これこそが、宝順の狙いだったのだ!

 東雨も、涼景も、その部下も、敢えて自分に怒りを向け、憎しみを増幅させる者たちばかりを集めたのは、傀儡さえ利用するつもりだった!

 なんということを……

 玲陽すら、久しくなかった怒りが体を駆け抜けた。

「あんたは鬼だ…… 人の心なんかわからない、鬼だ!」

 東雨の本心からの声なのか、傀儡の嘆きなのか。東雨は刃を宝順に向けた。

「わずか、十一歳の少女に、子供なんて産めるわけがないだろうがっ!」

 東雨の告白は、涼景をも動かした。ドクン、と胸が鳴り、息苦しさに涼景は、自分に何が起きているのかを察する。

「涼景様! 東雨どの! 駄目です! 怒りも憎しみも、全て捨ててっ!」

 二人を狙うように、部屋の中の傀儡が俄に動きを増す。

 壁から、床から、這い出すように、吸い寄せられ、新たに傀儡たちが……宮中の傀儡たちが集まってくる。

 玲陽の直感は当たっていた。

 部屋にいるのは、涼景と同様に、皇帝を憎み、その残虐性を憎み、怒りを押し殺している近衛たちだ。

 背後から悲鳴が上がり、咄嗟に玲陽は振り返った。

 近衛の一人が、全身を痙攣させて硬直している。

 憑かれた!

 次々と、涼景の部下たちが傀儡に支配されていく。そして、自分へと近づいてくる。

 もし、彼らが結界に触れたら最後、肉体ごと消滅する。傀儡だけではなく、人としての彼らまで……

 死。

 殺してしまう!

 涼景の、大切な仲間達を……誰かの、愛する人たちを、殺してしまう!

 玲陽はじりじりと結界を狭めた。

 近衛に気を取られていた玲陽は、東雨の断末魔に振り返った。東雨の口をこじ開けて、傀儡が入り込もうとするたびに、犀星の刀が鼓動するように光り、それを退ける。ここにいなくても、犀星もまた、東雨を守るために必死なのだ。

 それを知ってか、精一杯、刀を握りしめ、東雨も犀星の力にすがろうとしている。

 力を込めるたび、胸の傷から血が噴き出す。

 その一滴が、宝順の着物の裾にシミを作った。

 と、宝順の目が変わる。

 自ら動こうとしなかった宝順が立ち上がり、自分の刀を抜いた。

「やめてっ!」

 玲陽はついに、結界を解いた。

 そのまま東雨に向かって駆け出す。

 だが、宝順の方が早かった。

 宝順は片手で東雨の陰茎を鷲掴みにすると、腰ごと持ち上げた。

「ぎゃっ!」

 その痛みに、東雨が悲鳴を上げたのも束の間、宝順は狙い違わず、東雨の下半身に刀身を突き刺すと、陰嚢ごと、陰茎を切り落とし、向こうの壁に投げつけた。

 ほとばしった血と尿がおびただしく周囲を染めていく。

 東雨は意識を無くし、自らの血の中に沈み込む。それでも、刀だけは手放さない。犀星の光が、静かに傀儡を遠ざけていく。

「興醒めだ。好きにしろ」

 まるで、別人のように、宝順は感情のない声で、血を浴びたまま、玲陽を顧みた。

 凍りついたように、玲陽は動けなかった。

 真っ白な着物は、東雨の血でみるみる赤黒く、重く染まっていく。

 宝順が堂々と正面から、謁見室を出ていこうと歩き出す。

 と、すぐそばで、悲鳴が耳をつんざく。

 蛾蓮衆の一人の首が、玲陽の足元に転がった。

『宝順!』

 涼景の声が、涼景ではない者の言葉を叫ぶ。

 その場に残っていた四名の蛾蓮衆を、凪ぐように突き刺し、斬り殺し、全身に浴びた返り血のままに、狂気をあらわにした涼景の顔。完全に、傀儡に操られている。

 涼景より先に、宝順の行手にいた近衛の一人が、皇帝に切り掛かった。

 その刹那、玲陽は確かに見た。

 宝順に迫った近衛の体が、帝に触れることなく、刀も届かぬ位置で全身を破裂させるように爆死したのを。

 まるで、飲み込んだ火薬が腹の中で暴発したような、異様な死に様。

 傀儡のなせる技ではない。

 だとすれば、宝順が……だが、皇帝は顔色ひとつ変えず、何事もなかったように部屋を出ていく。

「涼景様!」

 玲陽は涼景の前に立つと、刀でその身が傷つくことも構わず、迷うことなく口付けた。

 予想以上の多量の傀儡が涼景から流れ込んでくる。飲み込み切れるのか? 心豊かな人間ほど、より多くの魂を呼び寄せてしまう。涼景の懐の深さを知る玲陽には、それが逆に恐ろしかった。飲み込むと同時に、浄化を始める。せめて、涼景が正気を取り戻すことが出来るだけ、取り除かなければ……

 気が遠くなりながら、玲陽は涼景におおいかぶさって、喰らい続けた。

 玲陽の手足の血管に黒い筋が走り激しく脈打つ。顔に浮き出すアザが、もう、限界を告げる。

 玲陽がいくら喰らっても、次々と涼景の中に傀儡が飛び込んでいく。

 一筋、血の涙が、玲陽の頬を伝った。

「星……」

 最期に想うのは、愛しい人のこと……

 ただ、それだけ……

​ それを最後に、玲陽は自分が内部から崩壊していく衝動を感じた。
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