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第一部 星誕
第二五話 夜のとばり
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数日が過ぎ、玲陽は首のあざが消えるころ、犀星を庭へ呼び出した。
庭に佇む玲陽の姿を見て、犀星は息を飲んだ。
白装束に、血で描いたような一輪の曼珠沙華。
目元と唇に紅を差し、ほどいた髪が風に軽やかに舞う。
白い長足袋に赤い鼻緒の黒檀の下駄、銀糸の紋様の入った襟を束ねるのは、深い紅色に染めた流し帯。
それは、玲家の正装であり、一度だけ、玲芳が身につけていたのを、見たことがある。
自分達の力を解き放つ儀式の時に、彼女は似たような出立ちをしていた。
玲芳も美しい女性ではあるが、今、犀星の目に映る玲陽のそれには、遠く及ばなかった。
玲陽の美しさは、人間ではない。
特に、新月の夜には。
今はまだ金色の髪は、日が落ちるにつれて銀色に変わり、同様に金色の目は、まるで満月のような銀光を放つ。
全身がぼんやりと微光を帯びて、仙如の神々しさと狂おしいまでの色香に包まれる。
ちょうど、今夜は新月だ。
いつもなら、その姿を見られることを嫌って、部屋に篭ってしまう玲陽が、敢えて、犀星の前に現れた。
それも、禊を終えて、正装を身につけた姿で。
「どうしても、行くのか?」
犀星の問いかけに、玲陽は、小さく頷いた。
「東雨どののために。そして、何よりも……」
玲陽の引き込まれるような瞳が、真っ直ぐに犀星を捕らえる。
「あなたの邪魔をさせないために」
犀星は黙って庭に降りると、間近で玲陽の髪を指に絡め、口付けた。
「新月の光、か」
「はい。私に勝機があるとすれば、この力だけです」
新月の夜、玲陽は人ではない。もし、宝順の呪縛を祓えるとすれば、それはこの日をおいて他にはない。
いつかは、そうせねばならないことを、二人とも、心の奥で覚悟していた。
そして、そのきっかけは、東雨がもたらした。
もう、何も隠す必要はない。
犀星も、玲陽も、東雨も。
自分達の幸福を、何一つ、諦める必要はない。
東雨の心が砕けたこと、玲陽がそれを癒したこと、互いの希望と苦しみと、そしてこれからの日々のこと。
考え抜いた結果、涼景も含め、皆で出した答えだ。
「お前はずるい」
犀星は眩しげに目を細めた。玲陽はその美貌のため直視できないほどに微笑む。
「あなたは、十年前、私を置き去りにしました。だから、今度は、私があなたを置いていく番です」
「俺は、お前を連れて行きたかった……だが、それはお前を余計に危険に晒すことになる……何もかも、知っているくせに、今になって……」
「同じですよ」
玲陽は、犀星の腕を引き寄せた。
「私だって、あなたのそばにいたい。けれど、巻き込むことは、あなたの命に関わる。状況は全く同じです」
玲陽は、変化の兆しが見える色の混じり合った美しい瞳を、惜しげもなく犀星へ向ける。
「あなたが、泣き叫んで私を求めたように、私も、黙って行けるほど、強くはありません」
「陽……」
犀星は玲陽の反対の腕を引いて抱きしめた。
「宝順を、甘く見るな」
「はい」
犀星は硬く玲陽を抱き、頭を撫でた。
「俺はお前を、迎えに行った。だから、お前も……」
犀星は玲陽に自分の頬をすり寄せた。
「生きて、帰れ」
「もし、私が無事に帰ったら、ご褒美を頂けますか?」
「ああ。なんでもくれてやる」
「でしたら……兄様と、同じ褥で眠らせて下さい。これから、ずっと……」
犀星は安堵の息を吐いた。
「わかった。俺たちの部屋を、作っておく。二人の部屋だ」
「はい」
玲陽は、目を閉じ、犀星の温もりに心が満たされていく幸福を存分に味わう。
これで、最後になど、しない。最後になど、してたまるものか!
愛する者のために、力の限り……
「陽様」
正装を身につけた東雨が、正門からこちらへ馬を引いてくる。馬の鞍には、全身を隠せる外套がかけられていた。玲陽の姿が目立ちすぎるための配慮だ。
「東雨」
犀星は、自分の刀を腰紐ごと解くと、東雨に差し出した。
「若様、それは!」
「陽は丸腰だ。頼んだぞ」
東雨は両手で犀星の護身刀を受け取り、身に着ける。この刀を、主人がどれだけ大切にしているか、東雨は誰よりもよく知っている。
「絶対に死ぬな。俺は、お前を失いたくない」
「はい……」
涙ぐんだ東雨の目を見て、犀星はそっと笑んだ。その笑顔は、今まで東雨が恋焦がれ続けていた、暖かく底知れぬ優しさをたたえたものだ。これが、これだけが、欲しかった!
「若様!」
思わず、東雨は犀星の胸に飛び込んで、抱きしめて泣きじゃくる。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 俺のせいで……」
「もういい、と、何度言えば…… まぁ、いいか。何度でも言ってやる。お前は何も悪くない」
「若様ぁ!」
「おい、せっかく整えた正装が崩れるぞ」
「だって……」
いつしか、自分の肩ほどに、背が伸びた。厳しい訓練にもよく耐えた。風変わりで、変人扱いされる自分に、よくついてきてくれた。
「東雨。お前は俺の自慢の弟だ。泣くな」
「ご自分だって、泣き虫じゃないですか」
「そんな所まで、似なくていい」
東雨はようやく犀星を放すと、玲陽を見た。
「陽様……」
玲陽もまた、東雨に歩み寄って、ほつれた髪を直してくれる。
「東雨どの。決して無茶はしないで下さい。あなたは兄様に似て、頭に血が昇ると何をするかわからないから」
「陽、どういう意味だよ」
「そのままの意味ですよ」
三人の間に、束の間、静かな平穏が訪れる。
嘘のない、素顔で向き合う時間。
それがこんなにも、癒されるものなのか。
東雨は、今日が自分の人生最後の日であろうと、後悔はしなかった。たった一時であろうと、愛し、愛される人のそばで、正直な心のままでいられたのだから。
日が沈むのに合わせて、玲陽を先導して、東雨は天輝殿の前に到着した。
皇帝の命令通り、玲陽を一人でつれてくることは、先に伝えてある。
二騎を見て、護衛は黙って門を開いた。
生きて、ここを出ること。
それだけが、二人の目的である。
五亨庵まで見送りに来ていた犀星の、こちらを案ずる視線が、今でも二人を見守っているように感じる。
「陽様」
小声で、東雨は言った。
「お覚悟を」
陽は小さく頷いた。
気丈な玲陽の瞳は、すでに銀色の光芒を放っている。
馬をおり、外套を取り去ると、警備にあたっていた天輝殿の兵士や女中たちが、一斉にたじろいで道を開けた。
この時刻、誰が見ても、玲陽は人ではなかった。
白い衣はぼんやりと光り、波打つ長髪もまた、白金のごとく風に揺れる。
兵士たちの中には、恐れてその場から動けなくなる者、思わず座り込んで手を合わせる者さえいた。
だが、玲陽には、そんな生きた人間の姿よりも、そこかしこを徘徊する傀儡の方が気掛かりだ。
確かに、これだけの恨み憎しみの渦の中にいれば、わずかなことで気が狂れてもおかしくはない。
東雨の案内で、玲陽は前を見据えたまま、正面の階段を上がり、謁見の棟へと進む。
両開きの重たい扉の前で、東雨は立ち止まった。
「こちらです」
「はい」
玲陽は深く息を吸うと、さらに時間をかけて吐き出した。
「陽様」
東雨はくるりと玲陽に向き直ると、足元にひざまづいた。
「俺はあなたの盾であり、矛です。俺を信じて下さい」
「勿論です」
玲陽は手を差し出すと、東雨を立ち上がらせた。
眼差しを交わしあう。かつて、妬み、憎しみ、殺意にまで至った玲陽を、東雨は命をかけて守ろうと誓う。
誰に命じられたからでもない。初めて、生まれて初めて、自分の意志で決めたことだ。
「陛下。玲光理様をお連れいたしました」
東雨の声に、内側から、扉が開かれる。
東雨の後について、玲陽は部屋に足を踏み入れた。
左右に林立する太い柱と、その間に立つ、近衛兵。幾重にも垂れた美しい絹の布が天井から床までを飾り、正面の数段の階段に続く床には、柔らかな獣の毛皮を繋いだ絨毯が伸びている。その先には、重厚な椅子と肘掛けが置かれ、皇帝、宝順がこちらをじっと見ていた。その脇には、険しい表情を浮かべた涼景が立っている。
背後で扉が閉まる音が響く。
東雨は先んじて前に進み出ると、宝順の前に膝をついた。
玲陽は部屋のちょうど中央まで進むと、そこで立ち止まった。
灯籠の灯りが幾つも灯されていたが、それらなど及ばぬほど、玲陽の身体からは清らかな白い光が放たれている。
髪の一筋一筋が微光を帯び、銀色の瞳は長い睫毛に絡まるように複雑に瞬いた。
事前に知らされていたとはいえ、その容貌は、神か悪鬼か、とかく、人のものではない。
玲家の正統な後継たる、確固とした姿が、そこにあった。
玲家でも、特に力の強い者にしか現れない、新月の夜にだけ起こる特殊な身体変化である。
そのため、身内では、新月の光を持つ者、と呼ばれる。
「ほう……」
宝順が小さく呟き、目を細める。
月のない夜、その身をして、自らが闇夜を照らす。
玲陽の力が、最も強くなる夜。
宝順はじっと玲陽を見ていた。
玲陽も、その目を真っ直ぐに見返した。
無礼であることは承知の上、しかし、玲陽には、宝順に首を垂れる理由はない。
そして、玲陽が本当に見ていたのは、人としての宝順ではなく、彼の魂だった。もし、宝順が傀儡に操られているのだとすれば、その片鱗が見えるはずだ。ならば、この場で傀儡喰らいをする覚悟でここまで来た。
だが、宝順からは、取り憑かれている気配は感じられない。
むしろ、周囲に蠢いている傀儡が、恐れをなして退いていく。
宝順の異常なまでの残虐性は、傀儡のせいではない。
では、彼の本来の性質だというのか。
ならば、なおのこと、厄介である。
「犀陽……いや、玲陽か」
宝順が、ジッと玲陽と目を合わせたまま、静かに言った。
「久しいな」
「……やはり、あなたでしたか」
「え?」
驚いて、東雨が振り返る。涼景も二人を見比べた。
玲陽と宝順は初対面のはずである。
犀星は決して玲陽を宝順には近づけなかったし、どのような行事の際にも、顔を合わせることがないよう、遠ざけていた。
「縁とは不思議なものよ」
「いかにも」
玲陽も宝順も、再会を驚いた様子はない。東雨は涼景を見た。涼景も首を横に振る。
「私をここへ連れてくるよう、東雨にお命じになったとか。この私にいかなる御用がおありですか?」
周囲の兵士たちが息を呑んだ。
皇帝に対して、礼はおろか、対等に顔を見て、物おじなく口をきく玲陽は、まさに正気とは思えない。
白光を纏った仙如のごとき玲陽は、人である帝をも凌駕する存在であるかのようだ。
今夜の近衛たちは皆、涼景を慕う部下である。
事実上、帝はその立場こそ揺るがなかったが、孤立無縁である。
もし、その気になれば、涼景をはじめ、誰もが帝を殺すことも可能な状態なのだ。
宝順自身も、それを知っている。知っていて、敢えて、自らの身を危険に晒す状況を作ったからには、それなりの魂胆があるに違いないのだ。不用意には動けない。
「率直に言おう」
宝順は玲陽を見据え、
「朕のものになれ」
想像していた通りの言葉が下される。
「良いでしょう」
玲陽は動揺一つなく、答えた。
玲家当主、いや、すでに人の域を超えた存在であり、不可思議な術を操る玲陽は、国をも動かす危険な存在である。
手中に収めるか、または殺すか。
選択肢はこれしかない。
「ただし、無条件で、とは参りません。あなたが、私を制するにふさわしいかどうか、試させていただきます」
その場の者は誰もが息を飲み、恐ろしいほどの静寂の中で、玲陽の声だけが凛として響く。
「あなたとしても、単に権力のみで私を手に入れても、面白くはないでしょう」
「よかろう」
宝順もまた、その賭けに乗る。
平静を装ってはいたが、玲陽は心中、何か胸騒ぎがした。宝順の余裕。全てをこちらに有利にした部屋で、唐突な申し出を迷うことなく承知するからには、勝機があってのことではないか。
少なくとも、一方的な決着にはならないだろう。
どちらにも、犠牲が出ることになる。
自分はどこまで、守れるのか。守り切れるのか。
だが、最も力が増す新月の今夜にそれが叶わないのなら、どう足掻いたところで、玲陽に勝ち目はない。
ちょうどその頃、祇桜の根本で、じっと天輝殿の方角を見つめている人影があった。
犀星だ。
まだ来ないのか。
連絡は、まだ……
目を凝らしても月もない中、手持ちの灯籠の小さな光が遠くに、かすかに見えた。
犀星も鞍上で自分の灯籠を掲げる。
「蓮章!」
我慢できずに、彼は叫んだ。
「星!」
「陽たちは?」
蓮章は犀星の前で馬の脚を止めた。
蓮章は涼景の計らいで、今夜の当直から外され、犀星との繋ぎを任されていた。
「天輝殿に無事に入った。だが、やはり何かある。今夜の宝順はあまりにも無防備すぎる」
「護衛の数は?」
「天輝殿内に百はいるが、それは常駐と変わらない。それより、妙なのは謁見の間に涼景の部隊しか入れていない、ということだ」
「いくら涼景の弱みを握っているとはいえ、いざとなれば、自分を殺すかもしれない連中を、敢えて選んだと?」
「ああ。東雨だって自分に恨みを抱いていることくらい、察しているだろう。そこに、新月の陽を招き入れたというのは、いくら何でも、不用心だ」
犀星は祇桜を見上げた。
「祇桜。俺はどうすればいい?」
祇桜の声が、静かに犀星の問に答える。
それが、予想外のものであったことは、さっと表情を変えた犀星を見れば、蓮章にも用意に察しがついた。
「そんなこと、あるはずが……」
震えるような犀星の呟きに、蓮章が馬を寄せる。
「どうする?」
犀星は数秒沈黙してから、
「蓮章、双花苑を知っているか?」
「は? どこかで聞いたような……」
蓮章は記憶を辿りながら、
「そうだ、宮中でも禁足地として三十年以上前から封じられているところだ。ただの荒地で、別に何かあるとは思えないが……」
「すぐにそこへ案内してくれ」
「今からか?」
なぜ、と問いかけようとし、蓮章は苦笑して首を振った。
「わかったよ。涼景から、あんたの命令は俺の命令だと思え、って言われてるんでね」
庭に佇む玲陽の姿を見て、犀星は息を飲んだ。
白装束に、血で描いたような一輪の曼珠沙華。
目元と唇に紅を差し、ほどいた髪が風に軽やかに舞う。
白い長足袋に赤い鼻緒の黒檀の下駄、銀糸の紋様の入った襟を束ねるのは、深い紅色に染めた流し帯。
それは、玲家の正装であり、一度だけ、玲芳が身につけていたのを、見たことがある。
自分達の力を解き放つ儀式の時に、彼女は似たような出立ちをしていた。
玲芳も美しい女性ではあるが、今、犀星の目に映る玲陽のそれには、遠く及ばなかった。
玲陽の美しさは、人間ではない。
特に、新月の夜には。
今はまだ金色の髪は、日が落ちるにつれて銀色に変わり、同様に金色の目は、まるで満月のような銀光を放つ。
全身がぼんやりと微光を帯びて、仙如の神々しさと狂おしいまでの色香に包まれる。
ちょうど、今夜は新月だ。
いつもなら、その姿を見られることを嫌って、部屋に篭ってしまう玲陽が、敢えて、犀星の前に現れた。
それも、禊を終えて、正装を身につけた姿で。
「どうしても、行くのか?」
犀星の問いかけに、玲陽は、小さく頷いた。
「東雨どののために。そして、何よりも……」
玲陽の引き込まれるような瞳が、真っ直ぐに犀星を捕らえる。
「あなたの邪魔をさせないために」
犀星は黙って庭に降りると、間近で玲陽の髪を指に絡め、口付けた。
「新月の光、か」
「はい。私に勝機があるとすれば、この力だけです」
新月の夜、玲陽は人ではない。もし、宝順の呪縛を祓えるとすれば、それはこの日をおいて他にはない。
いつかは、そうせねばならないことを、二人とも、心の奥で覚悟していた。
そして、そのきっかけは、東雨がもたらした。
もう、何も隠す必要はない。
犀星も、玲陽も、東雨も。
自分達の幸福を、何一つ、諦める必要はない。
東雨の心が砕けたこと、玲陽がそれを癒したこと、互いの希望と苦しみと、そしてこれからの日々のこと。
考え抜いた結果、涼景も含め、皆で出した答えだ。
「お前はずるい」
犀星は眩しげに目を細めた。玲陽はその美貌のため直視できないほどに微笑む。
「あなたは、十年前、私を置き去りにしました。だから、今度は、私があなたを置いていく番です」
「俺は、お前を連れて行きたかった……だが、それはお前を余計に危険に晒すことになる……何もかも、知っているくせに、今になって……」
「同じですよ」
玲陽は、犀星の腕を引き寄せた。
「私だって、あなたのそばにいたい。けれど、巻き込むことは、あなたの命に関わる。状況は全く同じです」
玲陽は、変化の兆しが見える色の混じり合った美しい瞳を、惜しげもなく犀星へ向ける。
「あなたが、泣き叫んで私を求めたように、私も、黙って行けるほど、強くはありません」
「陽……」
犀星は玲陽の反対の腕を引いて抱きしめた。
「宝順を、甘く見るな」
「はい」
犀星は硬く玲陽を抱き、頭を撫でた。
「俺はお前を、迎えに行った。だから、お前も……」
犀星は玲陽に自分の頬をすり寄せた。
「生きて、帰れ」
「もし、私が無事に帰ったら、ご褒美を頂けますか?」
「ああ。なんでもくれてやる」
「でしたら……兄様と、同じ褥で眠らせて下さい。これから、ずっと……」
犀星は安堵の息を吐いた。
「わかった。俺たちの部屋を、作っておく。二人の部屋だ」
「はい」
玲陽は、目を閉じ、犀星の温もりに心が満たされていく幸福を存分に味わう。
これで、最後になど、しない。最後になど、してたまるものか!
愛する者のために、力の限り……
「陽様」
正装を身につけた東雨が、正門からこちらへ馬を引いてくる。馬の鞍には、全身を隠せる外套がかけられていた。玲陽の姿が目立ちすぎるための配慮だ。
「東雨」
犀星は、自分の刀を腰紐ごと解くと、東雨に差し出した。
「若様、それは!」
「陽は丸腰だ。頼んだぞ」
東雨は両手で犀星の護身刀を受け取り、身に着ける。この刀を、主人がどれだけ大切にしているか、東雨は誰よりもよく知っている。
「絶対に死ぬな。俺は、お前を失いたくない」
「はい……」
涙ぐんだ東雨の目を見て、犀星はそっと笑んだ。その笑顔は、今まで東雨が恋焦がれ続けていた、暖かく底知れぬ優しさをたたえたものだ。これが、これだけが、欲しかった!
「若様!」
思わず、東雨は犀星の胸に飛び込んで、抱きしめて泣きじゃくる。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 俺のせいで……」
「もういい、と、何度言えば…… まぁ、いいか。何度でも言ってやる。お前は何も悪くない」
「若様ぁ!」
「おい、せっかく整えた正装が崩れるぞ」
「だって……」
いつしか、自分の肩ほどに、背が伸びた。厳しい訓練にもよく耐えた。風変わりで、変人扱いされる自分に、よくついてきてくれた。
「東雨。お前は俺の自慢の弟だ。泣くな」
「ご自分だって、泣き虫じゃないですか」
「そんな所まで、似なくていい」
東雨はようやく犀星を放すと、玲陽を見た。
「陽様……」
玲陽もまた、東雨に歩み寄って、ほつれた髪を直してくれる。
「東雨どの。決して無茶はしないで下さい。あなたは兄様に似て、頭に血が昇ると何をするかわからないから」
「陽、どういう意味だよ」
「そのままの意味ですよ」
三人の間に、束の間、静かな平穏が訪れる。
嘘のない、素顔で向き合う時間。
それがこんなにも、癒されるものなのか。
東雨は、今日が自分の人生最後の日であろうと、後悔はしなかった。たった一時であろうと、愛し、愛される人のそばで、正直な心のままでいられたのだから。
日が沈むのに合わせて、玲陽を先導して、東雨は天輝殿の前に到着した。
皇帝の命令通り、玲陽を一人でつれてくることは、先に伝えてある。
二騎を見て、護衛は黙って門を開いた。
生きて、ここを出ること。
それだけが、二人の目的である。
五亨庵まで見送りに来ていた犀星の、こちらを案ずる視線が、今でも二人を見守っているように感じる。
「陽様」
小声で、東雨は言った。
「お覚悟を」
陽は小さく頷いた。
気丈な玲陽の瞳は、すでに銀色の光芒を放っている。
馬をおり、外套を取り去ると、警備にあたっていた天輝殿の兵士や女中たちが、一斉にたじろいで道を開けた。
この時刻、誰が見ても、玲陽は人ではなかった。
白い衣はぼんやりと光り、波打つ長髪もまた、白金のごとく風に揺れる。
兵士たちの中には、恐れてその場から動けなくなる者、思わず座り込んで手を合わせる者さえいた。
だが、玲陽には、そんな生きた人間の姿よりも、そこかしこを徘徊する傀儡の方が気掛かりだ。
確かに、これだけの恨み憎しみの渦の中にいれば、わずかなことで気が狂れてもおかしくはない。
東雨の案内で、玲陽は前を見据えたまま、正面の階段を上がり、謁見の棟へと進む。
両開きの重たい扉の前で、東雨は立ち止まった。
「こちらです」
「はい」
玲陽は深く息を吸うと、さらに時間をかけて吐き出した。
「陽様」
東雨はくるりと玲陽に向き直ると、足元にひざまづいた。
「俺はあなたの盾であり、矛です。俺を信じて下さい」
「勿論です」
玲陽は手を差し出すと、東雨を立ち上がらせた。
眼差しを交わしあう。かつて、妬み、憎しみ、殺意にまで至った玲陽を、東雨は命をかけて守ろうと誓う。
誰に命じられたからでもない。初めて、生まれて初めて、自分の意志で決めたことだ。
「陛下。玲光理様をお連れいたしました」
東雨の声に、内側から、扉が開かれる。
東雨の後について、玲陽は部屋に足を踏み入れた。
左右に林立する太い柱と、その間に立つ、近衛兵。幾重にも垂れた美しい絹の布が天井から床までを飾り、正面の数段の階段に続く床には、柔らかな獣の毛皮を繋いだ絨毯が伸びている。その先には、重厚な椅子と肘掛けが置かれ、皇帝、宝順がこちらをじっと見ていた。その脇には、険しい表情を浮かべた涼景が立っている。
背後で扉が閉まる音が響く。
東雨は先んじて前に進み出ると、宝順の前に膝をついた。
玲陽は部屋のちょうど中央まで進むと、そこで立ち止まった。
灯籠の灯りが幾つも灯されていたが、それらなど及ばぬほど、玲陽の身体からは清らかな白い光が放たれている。
髪の一筋一筋が微光を帯び、銀色の瞳は長い睫毛に絡まるように複雑に瞬いた。
事前に知らされていたとはいえ、その容貌は、神か悪鬼か、とかく、人のものではない。
玲家の正統な後継たる、確固とした姿が、そこにあった。
玲家でも、特に力の強い者にしか現れない、新月の夜にだけ起こる特殊な身体変化である。
そのため、身内では、新月の光を持つ者、と呼ばれる。
「ほう……」
宝順が小さく呟き、目を細める。
月のない夜、その身をして、自らが闇夜を照らす。
玲陽の力が、最も強くなる夜。
宝順はじっと玲陽を見ていた。
玲陽も、その目を真っ直ぐに見返した。
無礼であることは承知の上、しかし、玲陽には、宝順に首を垂れる理由はない。
そして、玲陽が本当に見ていたのは、人としての宝順ではなく、彼の魂だった。もし、宝順が傀儡に操られているのだとすれば、その片鱗が見えるはずだ。ならば、この場で傀儡喰らいをする覚悟でここまで来た。
だが、宝順からは、取り憑かれている気配は感じられない。
むしろ、周囲に蠢いている傀儡が、恐れをなして退いていく。
宝順の異常なまでの残虐性は、傀儡のせいではない。
では、彼の本来の性質だというのか。
ならば、なおのこと、厄介である。
「犀陽……いや、玲陽か」
宝順が、ジッと玲陽と目を合わせたまま、静かに言った。
「久しいな」
「……やはり、あなたでしたか」
「え?」
驚いて、東雨が振り返る。涼景も二人を見比べた。
玲陽と宝順は初対面のはずである。
犀星は決して玲陽を宝順には近づけなかったし、どのような行事の際にも、顔を合わせることがないよう、遠ざけていた。
「縁とは不思議なものよ」
「いかにも」
玲陽も宝順も、再会を驚いた様子はない。東雨は涼景を見た。涼景も首を横に振る。
「私をここへ連れてくるよう、東雨にお命じになったとか。この私にいかなる御用がおありですか?」
周囲の兵士たちが息を呑んだ。
皇帝に対して、礼はおろか、対等に顔を見て、物おじなく口をきく玲陽は、まさに正気とは思えない。
白光を纏った仙如のごとき玲陽は、人である帝をも凌駕する存在であるかのようだ。
今夜の近衛たちは皆、涼景を慕う部下である。
事実上、帝はその立場こそ揺るがなかったが、孤立無縁である。
もし、その気になれば、涼景をはじめ、誰もが帝を殺すことも可能な状態なのだ。
宝順自身も、それを知っている。知っていて、敢えて、自らの身を危険に晒す状況を作ったからには、それなりの魂胆があるに違いないのだ。不用意には動けない。
「率直に言おう」
宝順は玲陽を見据え、
「朕のものになれ」
想像していた通りの言葉が下される。
「良いでしょう」
玲陽は動揺一つなく、答えた。
玲家当主、いや、すでに人の域を超えた存在であり、不可思議な術を操る玲陽は、国をも動かす危険な存在である。
手中に収めるか、または殺すか。
選択肢はこれしかない。
「ただし、無条件で、とは参りません。あなたが、私を制するにふさわしいかどうか、試させていただきます」
その場の者は誰もが息を飲み、恐ろしいほどの静寂の中で、玲陽の声だけが凛として響く。
「あなたとしても、単に権力のみで私を手に入れても、面白くはないでしょう」
「よかろう」
宝順もまた、その賭けに乗る。
平静を装ってはいたが、玲陽は心中、何か胸騒ぎがした。宝順の余裕。全てをこちらに有利にした部屋で、唐突な申し出を迷うことなく承知するからには、勝機があってのことではないか。
少なくとも、一方的な決着にはならないだろう。
どちらにも、犠牲が出ることになる。
自分はどこまで、守れるのか。守り切れるのか。
だが、最も力が増す新月の今夜にそれが叶わないのなら、どう足掻いたところで、玲陽に勝ち目はない。
ちょうどその頃、祇桜の根本で、じっと天輝殿の方角を見つめている人影があった。
犀星だ。
まだ来ないのか。
連絡は、まだ……
目を凝らしても月もない中、手持ちの灯籠の小さな光が遠くに、かすかに見えた。
犀星も鞍上で自分の灯籠を掲げる。
「蓮章!」
我慢できずに、彼は叫んだ。
「星!」
「陽たちは?」
蓮章は犀星の前で馬の脚を止めた。
蓮章は涼景の計らいで、今夜の当直から外され、犀星との繋ぎを任されていた。
「天輝殿に無事に入った。だが、やはり何かある。今夜の宝順はあまりにも無防備すぎる」
「護衛の数は?」
「天輝殿内に百はいるが、それは常駐と変わらない。それより、妙なのは謁見の間に涼景の部隊しか入れていない、ということだ」
「いくら涼景の弱みを握っているとはいえ、いざとなれば、自分を殺すかもしれない連中を、敢えて選んだと?」
「ああ。東雨だって自分に恨みを抱いていることくらい、察しているだろう。そこに、新月の陽を招き入れたというのは、いくら何でも、不用心だ」
犀星は祇桜を見上げた。
「祇桜。俺はどうすればいい?」
祇桜の声が、静かに犀星の問に答える。
それが、予想外のものであったことは、さっと表情を変えた犀星を見れば、蓮章にも用意に察しがついた。
「そんなこと、あるはずが……」
震えるような犀星の呟きに、蓮章が馬を寄せる。
「どうする?」
犀星は数秒沈黙してから、
「蓮章、双花苑を知っているか?」
「は? どこかで聞いたような……」
蓮章は記憶を辿りながら、
「そうだ、宮中でも禁足地として三十年以上前から封じられているところだ。ただの荒地で、別に何かあるとは思えないが……」
「すぐにそこへ案内してくれ」
「今からか?」
なぜ、と問いかけようとし、蓮章は苦笑して首を振った。
「わかったよ。涼景から、あんたの命令は俺の命令だと思え、って言われてるんでね」
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特別支援学校 中等部で共に学ぶユニークな仲間たちとの青春と医療ケアのお話。

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