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第一部 星誕
第二四話 火種と氷解
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「んん……」
寝返りを打って、布団の中に潜り込む。暖かく心地よい温もりに、自分の存在そのものが包まれている。こんなにぐっすりと眠ったのは、生まれて初めてかもしれない。
遠くで、誰かの話し声がする。内容まではわからないが、その声を聞いていると、不思議と安心感を覚える。
引き戸が開く音がして、誰かが部屋に入ってくる。その気配を感じても、東雨は目を開ける気にはならなかった。
今までの彼なら、わずかな物音にも反応し、自分や犀星の命を守る行動をとっただろう。だが、今はそんな気持ちも起きない。心底疲れて、泥の中に埋もれていたい。
部屋に入ってきた人物が、自分の横に座るのがわかる。もしかしたら、このまま切り殺されるかもしれない。
それでもいいや。
東雨はそんなことを考えて、気づいていながら、動かなかった。
「大丈夫ですよ」
囁き声が、そう言った。
「何も、心配はいりません」
この声は、玲陽……
そうだ、自分は玲陽の部屋で、彼を殺そうと首を絞めて、そうしたら、何か奇妙なことが起きて……
一気に正気付いて、東雨は飛び起きた。が、視界が暗転し、ぐらりと揺らぐ。それを、玲陽の胸と腕が抱き止めた。
「まだ、横になっていて下さい」
少しずつ、目が見えるようになるにつれ、東雨は、自分が玲陽の部屋の寝台の上にいることに気づいた。
自分を寝かしつける玲陽は、首元に襟巻きをして、普段より厚着だ。
「あ……」
東雨はクラクラする頭で、必死に思い出した。
「俺は……」
「しー」
玲陽が、東雨の唇に指を当てる。
「ここには、結界を張ってあります。今は、私とあなたしか近づけない」
「け、結界?」
「はい」
玲陽は、簡単に、傀儡のことを、東雨に話した。
「昨夜、あなたを狙っていた傀儡たちがここにきました。今のあなたでは、簡単に取り憑かれてしまいます。だから、結界を張りました。出入りできるのは、私だけです」
「わ、若様は……」
玲陽は首を横に振った。
「兄様も、入っては来られません」
「二人きり……ってわけだ」
東雨はどこか諦めたような顔をした。
傀儡だの、結界だの、今更、何を言われても驚きはしない。どうせ、玲家の血を引き、容姿がここまで変貌するほどの力を持った玲陽である。自分の想像しない秘密を抱えていたところで、何の不思議があろう。
「俺を、殺すのか?」
東雨は、小声で訊ねた。玲陽は黙って、襟巻きを外した。あらわになった首には、くっきりと東雨の手形が残っている。
「兄様には気づかれていません」
玲陽は安心させるように言うと、また、襟巻きを戻す。
「まだ、私を殺したいですか?」
東雨は返答に窮した。
「……もう、どうでもいい」
東雨が出した答えは、投げやりというよりも、疲れ切って気力を失っている。
玲陽が先んじて結界を張ったのは正解だったようだ。こんな状態では、昨夜の傀儡に簡単に支配されてしまうだろう。
「そうですね」
玲陽は、静かに、穏やかに言った。
「私も、済んだことは、もう、どうでもいいです」
「あんた……俺が憎くないのかよ? 俺はあんたを殺そうとした。わかってんだろ?」
東雨の言葉に、玲陽は少し驚いてから、にっこりと笑う。
「それが、本当のあなたなのですね」
「え?」
「私はやっと、本当のあなたと、話しをすることができる。頑張った甲斐がありました」
「な、何を言ってんだ?」
嬉しそうに玲陽は目を細めた。
「東雨どの。私はあなたがどんな思いでいたか、もっと早く、気遣うべきでした。そうすれば、あなたをここまで追い詰めることはなかったでしょう。ごめんなさい」
すとん、と玲陽は頭を下げた。どう反応してよいかわからず、東雨は戸惑うばかりである。
「その……」
何か言わなければ、と思いながら、何を言ったら良いのかわからない。
「別に、あんたのせいじゃない」
結局、出てきたのは強がりだった。
「俺が……勝手に……一人で……」
ああ、また、混乱する!
東雨は途方に暮れて、玲陽を見た。
「なぁ。俺は、これからどうしたらいい?」
自分が玲陽に何をしたのかを考えれば、そんな助けを求められる立場ではないことは明らかなのに……
だが、それ以外に、言うべき言葉が見つからない。
玲陽は、東雨を抱き起こし、上体を壁に預けて座らせると、その膝の上に、粥と野菜の煮付けを盆ごと乗せた。
「私が作りました」
東雨が警戒の表情を浮かべる。人が作った料理など、口にはしない。
「召し上がって下さい」
「…………」
「毒なんて入っていませんよ」
「!」
東雨は玲陽と食膳とを見比べた。
自分への仕返しに、何でもできるはずだ。
「あなたがするべきことは、まずは何か召し上がることです。あなたは、丸一日、寝ていたんですよ」
「え?」
「もう、夕刻です」
「…………」
「あなたがするべきこと。それは、食べて、眠って、体と心を十分に休めることです」
玲陽は東雨の手に、匙を握らせて、
「塩をきかせていますが、私は味見ができないので、薄かったらおっしゃって下さい」
東雨は、覚悟を決めた。
殺されても文句など言えないのだ。
恐る恐る、匙を運んで粥をすくうと、口へ入れる。
温かく、程よい塩味が口の中に広がり、何故か涙が流れた。
「……美味しい」
震える声でそれだけ言って、東雨は黙々と食べ続けた。
干した大根と蒟蒻芋、千切りにした人参に胡麻を添えた煮物に、箸をつける。初めて食べる料理だ。
「歌仙で一般的な家庭料理です。私も作るのは子供の頃以来なので……」
「美味しい」
玲陽を遮って、東雨が言う。
「よかった……」
心底嬉しそうな玲陽の顔を、東雨は盗み見た。
そうだ。
こんなに優しい人だ。
目の前のことだけではなく、大局を見て、進むべき道を選び取る。時に大胆で、時に繊細で、影に日向に、身近な人を分け隔てなく守り、助けようとする。
仙如(せんにょ・仙界に住む人)が存在するとしたら、玲陽のような人だろうと思う。彼からは、怒りも憎しみも感じない。ただ、底知れぬ悲しみと、苦しみの中で、精一杯に笑っているような、必死な生き様が見えるだけだ。
「これ……」
「はい」
「今度、教えて。作り方」
「はい」
玲陽は、すんなりと頷く。
今度。
それは、未来の約束。
自分はこれからも、玲陽のそばにいて良いのだという約束だ。
食事を終えると、玲陽は涼景から渡されていた滋養剤を、東雨のために煎じた。
疑うこともなく、渡された薬を東雨は飲み干し、長く息をつく。食器をまとめている玲陽の後ろ姿が、今までとは違って見える。
「なぁ」
「何ですか?」
「次は、どうしたらいい?」
「眠りましょう」
「眠くない」
「では、横になって、少しお話しをしましょうか」
玲陽は東雨を大切なもののように扱って、そっと寝台に横たえ、掛布を整えてやった。
「寒くはありませんか?」
「俺は平気だ。あんたこそ……」
「大丈夫です。体力も戻ってきていますし、冬ももうすぐ終わります」
「でも……その、結界とかで、力を使っているんだろ。疲れたり、無理したりしてるんじゃ……」
「優しいですね」
「う……」
東雨はまた、予想外の言葉に声が出なくなる。
「正直、辛いですよ。でも、隣の部屋に、兄様がいます。兄様から、力を分けてもらいましたし、今も、ちゃんと繋がっています。だから、この結界は、私たち二人からの、あなたへの贈り物です」
「……見えないけど……」
東雨は視線を揺らして、
「……感じる。守られてるの、わかる。こんなに、静かな気持ちは、初めてだ」
玲陽は微笑んで、東雨の髪を撫でた。嫌がるかと思ったが、あっさりと東雨はそれを許した。
「俺に、訊きたいことがあるんだろう」
「ええ、あります」
玲陽は素直に頷く。
「隠さず答える。俺の言葉を信じるかどうかは、あんた次第だけど」
「では、お聞きします」
東雨は身構えた。拷問より、こちらの方が辛く感じる。玲陽は、静かな声で問いかけた。
「あなたの、誕生日はいつですか?」
「…………え?」
「ですから、誕生日……」
「…………え?」
「……お祝いしたいのです」
「…………」
「贈り物も」
「……他にあるだろ、聞くこと!」
思わず、東雨は声を高めた。
「俺が皇帝と内通しているのか、とか、どこまであんたたちのことを報告しているか、とか、手紙を処分していたこととか、祇桜を切ればあんたたちが苦しむと思ったとか……」
「……そんなこと、聞いてどうするんです?」
「……どうする、って……」
「言ったでしょう? 済んだことは、どうでもいい、と」
「……それは、昨夜のこと……」
「それも含めて、です」
玲陽は穏やかだが、意思の強さを感じさせる瞳で、東雨を見つめ、
「あなたも言いました。これから、どうしたらいいか、と」
「…………」
「私たちは、先へ進むしかない。過去にこだわるより、未来をどうするか、そのために、今できることを考えるだけです」
東雨は、自分がばらばらに崩れていくような脱力感に襲われた。
だが、壊れていくのは、自分を閉じ込めていた自分の鎧だ。
その中には、本当の、本心の自分が埋もれている。
玲陽の言葉は、自分のそんな殻を破ってくれた。これで、自由になれる……自由に……自分に……
「あんた…… やっぱり凄いや」
玲陽は、特に自分が何かをした自覚はないが、ただ、東雨が緊張を解いて、笑みを浮かべたことが嬉しかった。
「俺なんか、かないっこない」
「『俺なんか』なんて、言わないでください」
東雨はハッとした。以前、涼景にも同じことを言われたことがあった。
「東雨どの。あなたは世界で、たった一つの存在なんです。誰もが、そうであるように。そこには、準列なんてありません」
「…………」
東雨はじっと、長い間、玲陽を見つめた。夕日が差し込み、その黄金の髪をさらに美しく彩る。
「綺麗」
東雨は手を伸ばした。
「触らせて」
玲陽は枕辺に膝をつくと、顔を寄せた。
東雨はその艶のあるしなやかな髪を指でといた。
さらさらと金の糸のように指の間を抜けていく。
そっと一束すくうと、口元に寄せる。
玲陽が好んでいる、甘い香の匂いがする。
「手……」
言われるままに、玲陽は右手を差し出した。
東雨はその手を撫でて、目を閉じた。ぎゅっと、握ると、玲陽も同じ強さで握り返してくれる。
「あんたのこと、陽様って……呼んでもいい?」
「勿論。『様』はなくてもいいですよ。私はあなたの主人ではありません。友人ですから」
「いや、そう、呼ばせて。そうじゃなきゃ、若様に殺されちゃいます」
「東雨どの」
「若様はあなたのものです」
「東雨どの……」
「あなたになら、安心して若様を任せることができます」
「いいえ。私一人では力不足です。あなたや、涼景様の力が必要です」
「そばにいたいですが……」
東雨は透き通る涙を浮かべた目で、玲陽を見つめた。
「俺はもう、一緒にいない方がいい……」
「なぜ?」
「帝から、あなたを一人で連れてくるように、言いつかっています」
「宝順帝から?」
「はい」
「どうして、彼は私にこだわるのです? 私は男であり、娘を産むことはできません」
「関係ないんです。あの人には」
東雨が、辛そうに目を伏せた。
「自分が気になるもの、興味があるもの、それを試さずにはいられない。そして、何より、人が苦しみ、泣き叫ぶ姿を見るのが好きなんです」
「……私にはわからない。どうして、そのような人を、あなたは尊敬し、お仕えしようと決めたのです?」
東雨は唇を硬く閉ざした。
「あなたは天涯孤独の身のはず。涼景様のように、誰かを庇う必要はないでしょう? 私には、あなたが本心から、宝順帝を慕っているとは思えないのです」
「大嫌いですよ」
東雨は即答した。
「けれど、逆らえないんです。俺は、帝……宝順の子。宝順は俺の実の父親です」
さすがの玲陽も、そこまでは予測していなかった。突然の告白に、戸惑いを覚える。
「俺が、競い合ったのは、皆、母の違う兄弟たちです」
「…………」
「おそらく、あなたがご覧になった傀儡というのは、俺が、殺してきた者たちです。この手で……」
震える東雨の手を、玲陽は両手で包み、そっと口付けた。
「よ、陽様?」
「あなたの手は綺麗です。あなたはこの手で、私の一番大切な人を、十年間、守って下さった。私にとって、あなたは恩人なのです」
「そんな……それは、俺が間者だからで……」
「いいえ。もし、そのためだけにそばにいたなら、兄様はとっくに見抜いて、あなたを帝に突き返していたでしょう。そうしなかったのは、あなたの心に、本当の優しさがあると感じたからです。それに、私を殺したいほど憎んだのは、兄様を愛していた証拠。あなたから、兄様を奪った私は、さぞ、嫌な存在だったでしょう?」
「全て……何もかも、お見通しですか……」
自嘲の笑みを浮かべて、東雨は玲陽の手に口づけを返す。
「俺が、一番知りたいのは……どうやったら、自由になれるのか……」
東雨は目を閉じた。
暖かな涙が顔を伝う。玲陽は静かに、
「私を、御前に連れてくるように、言われたのですね」
今閉じた目を見開いて、東雨は救いを求めるように玲陽を凝視した。
「そろそろだと思いました。いいですよ。行きましょう」
「ダメです!」
東雨が目一杯に首を振る。
「陛下はあなたに何をするかわからない! 死ぬより酷い目に遭わされます!」
「けれど、東雨どの」
玲陽は穏やかに笑みさえ浮かべて、
「私は死なないかもしれません。しかし、あなたが私を連れていかなければ、あなたは確実に殺されます」
「…………」
「賭けてみましょう。大丈夫、私も、あの砦で地獄を見てきた人間です。今更、恐れるものはありません」
「でも……若様は絶対に反対します」
「私が説得します」
あっさりと玲陽は言った。
「陽様……どうして……そんな危険なこと……」
「あなたが殺されるなんて、絶対に嫌です。私だけじゃありません。兄様も、悲しみ、苦しみます」
「でも……」
「次の新月の夜に」
玲陽は、声を低めた。
「私を、天輝殿へ連れて行って下さい」
「新月の夜?」
「はい。そこで、決着をつけましょう。あなたは、自由になるのです」
「陽様……」
「私に任せて下さい。何も心配はいりません」
玲陽の繊細な手が、そっと東雨の瞼を閉じさせた。
「さぁ、もう、お話しは終わりです。眠って下さい。私は、ここにいます」
玲陽の手と、東雨の頬の間に、涙が流れた。
「あなたはもう、俺を救って下さいました……」
東雨の声はまどろみに吸い込まれ、玲陽は悲しい笑みを浮かべた。
寝返りを打って、布団の中に潜り込む。暖かく心地よい温もりに、自分の存在そのものが包まれている。こんなにぐっすりと眠ったのは、生まれて初めてかもしれない。
遠くで、誰かの話し声がする。内容まではわからないが、その声を聞いていると、不思議と安心感を覚える。
引き戸が開く音がして、誰かが部屋に入ってくる。その気配を感じても、東雨は目を開ける気にはならなかった。
今までの彼なら、わずかな物音にも反応し、自分や犀星の命を守る行動をとっただろう。だが、今はそんな気持ちも起きない。心底疲れて、泥の中に埋もれていたい。
部屋に入ってきた人物が、自分の横に座るのがわかる。もしかしたら、このまま切り殺されるかもしれない。
それでもいいや。
東雨はそんなことを考えて、気づいていながら、動かなかった。
「大丈夫ですよ」
囁き声が、そう言った。
「何も、心配はいりません」
この声は、玲陽……
そうだ、自分は玲陽の部屋で、彼を殺そうと首を絞めて、そうしたら、何か奇妙なことが起きて……
一気に正気付いて、東雨は飛び起きた。が、視界が暗転し、ぐらりと揺らぐ。それを、玲陽の胸と腕が抱き止めた。
「まだ、横になっていて下さい」
少しずつ、目が見えるようになるにつれ、東雨は、自分が玲陽の部屋の寝台の上にいることに気づいた。
自分を寝かしつける玲陽は、首元に襟巻きをして、普段より厚着だ。
「あ……」
東雨はクラクラする頭で、必死に思い出した。
「俺は……」
「しー」
玲陽が、東雨の唇に指を当てる。
「ここには、結界を張ってあります。今は、私とあなたしか近づけない」
「け、結界?」
「はい」
玲陽は、簡単に、傀儡のことを、東雨に話した。
「昨夜、あなたを狙っていた傀儡たちがここにきました。今のあなたでは、簡単に取り憑かれてしまいます。だから、結界を張りました。出入りできるのは、私だけです」
「わ、若様は……」
玲陽は首を横に振った。
「兄様も、入っては来られません」
「二人きり……ってわけだ」
東雨はどこか諦めたような顔をした。
傀儡だの、結界だの、今更、何を言われても驚きはしない。どうせ、玲家の血を引き、容姿がここまで変貌するほどの力を持った玲陽である。自分の想像しない秘密を抱えていたところで、何の不思議があろう。
「俺を、殺すのか?」
東雨は、小声で訊ねた。玲陽は黙って、襟巻きを外した。あらわになった首には、くっきりと東雨の手形が残っている。
「兄様には気づかれていません」
玲陽は安心させるように言うと、また、襟巻きを戻す。
「まだ、私を殺したいですか?」
東雨は返答に窮した。
「……もう、どうでもいい」
東雨が出した答えは、投げやりというよりも、疲れ切って気力を失っている。
玲陽が先んじて結界を張ったのは正解だったようだ。こんな状態では、昨夜の傀儡に簡単に支配されてしまうだろう。
「そうですね」
玲陽は、静かに、穏やかに言った。
「私も、済んだことは、もう、どうでもいいです」
「あんた……俺が憎くないのかよ? 俺はあんたを殺そうとした。わかってんだろ?」
東雨の言葉に、玲陽は少し驚いてから、にっこりと笑う。
「それが、本当のあなたなのですね」
「え?」
「私はやっと、本当のあなたと、話しをすることができる。頑張った甲斐がありました」
「な、何を言ってんだ?」
嬉しそうに玲陽は目を細めた。
「東雨どの。私はあなたがどんな思いでいたか、もっと早く、気遣うべきでした。そうすれば、あなたをここまで追い詰めることはなかったでしょう。ごめんなさい」
すとん、と玲陽は頭を下げた。どう反応してよいかわからず、東雨は戸惑うばかりである。
「その……」
何か言わなければ、と思いながら、何を言ったら良いのかわからない。
「別に、あんたのせいじゃない」
結局、出てきたのは強がりだった。
「俺が……勝手に……一人で……」
ああ、また、混乱する!
東雨は途方に暮れて、玲陽を見た。
「なぁ。俺は、これからどうしたらいい?」
自分が玲陽に何をしたのかを考えれば、そんな助けを求められる立場ではないことは明らかなのに……
だが、それ以外に、言うべき言葉が見つからない。
玲陽は、東雨を抱き起こし、上体を壁に預けて座らせると、その膝の上に、粥と野菜の煮付けを盆ごと乗せた。
「私が作りました」
東雨が警戒の表情を浮かべる。人が作った料理など、口にはしない。
「召し上がって下さい」
「…………」
「毒なんて入っていませんよ」
「!」
東雨は玲陽と食膳とを見比べた。
自分への仕返しに、何でもできるはずだ。
「あなたがするべきことは、まずは何か召し上がることです。あなたは、丸一日、寝ていたんですよ」
「え?」
「もう、夕刻です」
「…………」
「あなたがするべきこと。それは、食べて、眠って、体と心を十分に休めることです」
玲陽は東雨の手に、匙を握らせて、
「塩をきかせていますが、私は味見ができないので、薄かったらおっしゃって下さい」
東雨は、覚悟を決めた。
殺されても文句など言えないのだ。
恐る恐る、匙を運んで粥をすくうと、口へ入れる。
温かく、程よい塩味が口の中に広がり、何故か涙が流れた。
「……美味しい」
震える声でそれだけ言って、東雨は黙々と食べ続けた。
干した大根と蒟蒻芋、千切りにした人参に胡麻を添えた煮物に、箸をつける。初めて食べる料理だ。
「歌仙で一般的な家庭料理です。私も作るのは子供の頃以来なので……」
「美味しい」
玲陽を遮って、東雨が言う。
「よかった……」
心底嬉しそうな玲陽の顔を、東雨は盗み見た。
そうだ。
こんなに優しい人だ。
目の前のことだけではなく、大局を見て、進むべき道を選び取る。時に大胆で、時に繊細で、影に日向に、身近な人を分け隔てなく守り、助けようとする。
仙如(せんにょ・仙界に住む人)が存在するとしたら、玲陽のような人だろうと思う。彼からは、怒りも憎しみも感じない。ただ、底知れぬ悲しみと、苦しみの中で、精一杯に笑っているような、必死な生き様が見えるだけだ。
「これ……」
「はい」
「今度、教えて。作り方」
「はい」
玲陽は、すんなりと頷く。
今度。
それは、未来の約束。
自分はこれからも、玲陽のそばにいて良いのだという約束だ。
食事を終えると、玲陽は涼景から渡されていた滋養剤を、東雨のために煎じた。
疑うこともなく、渡された薬を東雨は飲み干し、長く息をつく。食器をまとめている玲陽の後ろ姿が、今までとは違って見える。
「なぁ」
「何ですか?」
「次は、どうしたらいい?」
「眠りましょう」
「眠くない」
「では、横になって、少しお話しをしましょうか」
玲陽は東雨を大切なもののように扱って、そっと寝台に横たえ、掛布を整えてやった。
「寒くはありませんか?」
「俺は平気だ。あんたこそ……」
「大丈夫です。体力も戻ってきていますし、冬ももうすぐ終わります」
「でも……その、結界とかで、力を使っているんだろ。疲れたり、無理したりしてるんじゃ……」
「優しいですね」
「う……」
東雨はまた、予想外の言葉に声が出なくなる。
「正直、辛いですよ。でも、隣の部屋に、兄様がいます。兄様から、力を分けてもらいましたし、今も、ちゃんと繋がっています。だから、この結界は、私たち二人からの、あなたへの贈り物です」
「……見えないけど……」
東雨は視線を揺らして、
「……感じる。守られてるの、わかる。こんなに、静かな気持ちは、初めてだ」
玲陽は微笑んで、東雨の髪を撫でた。嫌がるかと思ったが、あっさりと東雨はそれを許した。
「俺に、訊きたいことがあるんだろう」
「ええ、あります」
玲陽は素直に頷く。
「隠さず答える。俺の言葉を信じるかどうかは、あんた次第だけど」
「では、お聞きします」
東雨は身構えた。拷問より、こちらの方が辛く感じる。玲陽は、静かな声で問いかけた。
「あなたの、誕生日はいつですか?」
「…………え?」
「ですから、誕生日……」
「…………え?」
「……お祝いしたいのです」
「…………」
「贈り物も」
「……他にあるだろ、聞くこと!」
思わず、東雨は声を高めた。
「俺が皇帝と内通しているのか、とか、どこまであんたたちのことを報告しているか、とか、手紙を処分していたこととか、祇桜を切ればあんたたちが苦しむと思ったとか……」
「……そんなこと、聞いてどうするんです?」
「……どうする、って……」
「言ったでしょう? 済んだことは、どうでもいい、と」
「……それは、昨夜のこと……」
「それも含めて、です」
玲陽は穏やかだが、意思の強さを感じさせる瞳で、東雨を見つめ、
「あなたも言いました。これから、どうしたらいいか、と」
「…………」
「私たちは、先へ進むしかない。過去にこだわるより、未来をどうするか、そのために、今できることを考えるだけです」
東雨は、自分がばらばらに崩れていくような脱力感に襲われた。
だが、壊れていくのは、自分を閉じ込めていた自分の鎧だ。
その中には、本当の、本心の自分が埋もれている。
玲陽の言葉は、自分のそんな殻を破ってくれた。これで、自由になれる……自由に……自分に……
「あんた…… やっぱり凄いや」
玲陽は、特に自分が何かをした自覚はないが、ただ、東雨が緊張を解いて、笑みを浮かべたことが嬉しかった。
「俺なんか、かないっこない」
「『俺なんか』なんて、言わないでください」
東雨はハッとした。以前、涼景にも同じことを言われたことがあった。
「東雨どの。あなたは世界で、たった一つの存在なんです。誰もが、そうであるように。そこには、準列なんてありません」
「…………」
東雨はじっと、長い間、玲陽を見つめた。夕日が差し込み、その黄金の髪をさらに美しく彩る。
「綺麗」
東雨は手を伸ばした。
「触らせて」
玲陽は枕辺に膝をつくと、顔を寄せた。
東雨はその艶のあるしなやかな髪を指でといた。
さらさらと金の糸のように指の間を抜けていく。
そっと一束すくうと、口元に寄せる。
玲陽が好んでいる、甘い香の匂いがする。
「手……」
言われるままに、玲陽は右手を差し出した。
東雨はその手を撫でて、目を閉じた。ぎゅっと、握ると、玲陽も同じ強さで握り返してくれる。
「あんたのこと、陽様って……呼んでもいい?」
「勿論。『様』はなくてもいいですよ。私はあなたの主人ではありません。友人ですから」
「いや、そう、呼ばせて。そうじゃなきゃ、若様に殺されちゃいます」
「東雨どの」
「若様はあなたのものです」
「東雨どの……」
「あなたになら、安心して若様を任せることができます」
「いいえ。私一人では力不足です。あなたや、涼景様の力が必要です」
「そばにいたいですが……」
東雨は透き通る涙を浮かべた目で、玲陽を見つめた。
「俺はもう、一緒にいない方がいい……」
「なぜ?」
「帝から、あなたを一人で連れてくるように、言いつかっています」
「宝順帝から?」
「はい」
「どうして、彼は私にこだわるのです? 私は男であり、娘を産むことはできません」
「関係ないんです。あの人には」
東雨が、辛そうに目を伏せた。
「自分が気になるもの、興味があるもの、それを試さずにはいられない。そして、何より、人が苦しみ、泣き叫ぶ姿を見るのが好きなんです」
「……私にはわからない。どうして、そのような人を、あなたは尊敬し、お仕えしようと決めたのです?」
東雨は唇を硬く閉ざした。
「あなたは天涯孤独の身のはず。涼景様のように、誰かを庇う必要はないでしょう? 私には、あなたが本心から、宝順帝を慕っているとは思えないのです」
「大嫌いですよ」
東雨は即答した。
「けれど、逆らえないんです。俺は、帝……宝順の子。宝順は俺の実の父親です」
さすがの玲陽も、そこまでは予測していなかった。突然の告白に、戸惑いを覚える。
「俺が、競い合ったのは、皆、母の違う兄弟たちです」
「…………」
「おそらく、あなたがご覧になった傀儡というのは、俺が、殺してきた者たちです。この手で……」
震える東雨の手を、玲陽は両手で包み、そっと口付けた。
「よ、陽様?」
「あなたの手は綺麗です。あなたはこの手で、私の一番大切な人を、十年間、守って下さった。私にとって、あなたは恩人なのです」
「そんな……それは、俺が間者だからで……」
「いいえ。もし、そのためだけにそばにいたなら、兄様はとっくに見抜いて、あなたを帝に突き返していたでしょう。そうしなかったのは、あなたの心に、本当の優しさがあると感じたからです。それに、私を殺したいほど憎んだのは、兄様を愛していた証拠。あなたから、兄様を奪った私は、さぞ、嫌な存在だったでしょう?」
「全て……何もかも、お見通しですか……」
自嘲の笑みを浮かべて、東雨は玲陽の手に口づけを返す。
「俺が、一番知りたいのは……どうやったら、自由になれるのか……」
東雨は目を閉じた。
暖かな涙が顔を伝う。玲陽は静かに、
「私を、御前に連れてくるように、言われたのですね」
今閉じた目を見開いて、東雨は救いを求めるように玲陽を凝視した。
「そろそろだと思いました。いいですよ。行きましょう」
「ダメです!」
東雨が目一杯に首を振る。
「陛下はあなたに何をするかわからない! 死ぬより酷い目に遭わされます!」
「けれど、東雨どの」
玲陽は穏やかに笑みさえ浮かべて、
「私は死なないかもしれません。しかし、あなたが私を連れていかなければ、あなたは確実に殺されます」
「…………」
「賭けてみましょう。大丈夫、私も、あの砦で地獄を見てきた人間です。今更、恐れるものはありません」
「でも……若様は絶対に反対します」
「私が説得します」
あっさりと玲陽は言った。
「陽様……どうして……そんな危険なこと……」
「あなたが殺されるなんて、絶対に嫌です。私だけじゃありません。兄様も、悲しみ、苦しみます」
「でも……」
「次の新月の夜に」
玲陽は、声を低めた。
「私を、天輝殿へ連れて行って下さい」
「新月の夜?」
「はい。そこで、決着をつけましょう。あなたは、自由になるのです」
「陽様……」
「私に任せて下さい。何も心配はいりません」
玲陽の繊細な手が、そっと東雨の瞼を閉じさせた。
「さぁ、もう、お話しは終わりです。眠って下さい。私は、ここにいます」
玲陽の手と、東雨の頬の間に、涙が流れた。
「あなたはもう、俺を救って下さいました……」
東雨の声はまどろみに吸い込まれ、玲陽は悲しい笑みを浮かべた。
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考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
異世界ぼっち暮らし(神様と一緒!!)
藤雪たすく
BL
愛してくれない家族から旅立ち、希望に満ちた一人暮らしが始まるはずが……異世界で一人暮らしが始まった!?
手違いで人の命を巻き込む神様なんて信じません!!俺が信じる神様はこの世にただ一人……俺の推しは神様です!!
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