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第一部 星誕
第二二話 深雪の頃
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ほとぼりが冷めるまで。
そう言った涼景から、文が届いたのは、翌日の夕刻だった。
届けに来たのは、涼景の古くからの親友で、彼の部下の近衛でもある、遜蓮章(そんれんしょう)である。
犀星とも顔馴染みである彼は、世にいう典型的な遊び人で、外見は美男子だが、その放蕩ぶりはおよそ近衛とは思えない。本来なら、犀星が好んで親交を深めるような人間ではない。だが、涼景の仲立ちもあり、また、蓮章が多弁で一方的に話してくれるため、犀星としては聞いているだけで済むのが楽だった。
そして何より、涼景が宮中で信頼している、数少ない人間の一人である、という点が大きい。
誰も信じるな、としつこく言い聞かせていた涼景が、信じるに値すると思った相手が、まさか手癖の悪い良家の後継者とは、人の縁とは不思議なものである。
「久しぶりだな」
蓮章は気軽な調子で話しかけた。
「お前も元気そうだ」
犀星は少々疲れた顔で応対した。
「どなたです?」
玲陽がそっと玄関の端から顔を出す。
「お! 初めまして、だな!」
蓮章は犀星の脇をすり抜けて、ずかずかと玲陽に近づいていく。
「おい!」
「これ、涼景からの手紙」
と、犀星の顔も見ずに後ろ手で文を押し付ける。受け取りはしたものの、犀星には訊きたいことが山ほどある。
「蓮章、涼景と東雨は無事なんだろうな……」
「お前が陽か?」
「失礼だろう、藪から棒に」
「礼を気にしていたんでは、恋はできないぞ」
「はぁ?」
きょとん、としている玲陽の手を、素早く蓮章は握った。
「え?」
どうして良いかわからず、反応に困っている玲陽に、蓮章は笑いかけて、
「俺は遜蓮章。字は梨花(りいか)だが、蓮章と呼んでくれていい」
「は、はぁ」
「涼景から話は聞いていたが、本当に仙女のように美しいな」
そのまま抱き寄せるのではないかという勢いで、陽の手を引き、蓮章は自分の口元に持っていく。
「蓮章!」
慌てて、犀星は割って入ると、玲陽の手を取り戻した。
「なんだよ、挨拶くらい、いいだろ」
「よくない! お前の挨拶はロクでもない!」
「おいおい。せっかく文を届けに来たってのに」
「それは感謝してる。だが、文をお前に託したってことは、涼景たちは動けないってことだろ。それに、この内容だって、信頼できる人間にしか…… あいつらに何があった? 無事でいるんだろうな!」
「そう、大きな声を出すな」
蓮章は珍しく感情をあらわにする犀星に、調子を狂わされてしまった。今までの犀星は、ほとんど自分から話すこともなく、寡黙で感情を見せない印象だったが、今の彼はまるで別人だ。涼景が、今の犀星を見たら驚くぞ、と言っていた意味がよくわかった。
「とにかく、無事だ。二人とも、生きている」
「…………そうか」
犀星と玲陽は互いにもたれ合って、ほっと安堵のため息を漏らした。その様子を見て、
「なるほどねぇ」
と、蓮章が納得する。
「とにかく、ちゃんと届けたからな。巡回中なんだ。また来る」
蓮章は騒ぐだけ騒いで、さっさと馬で駆け去っていく。
「何だか、すごい人ですね」
「ああ。あれで涼景の信頼が厚いんだから、驚くだろ」
「悪い人ではなさそうですけど……」
玲陽は握られた手を撫でた。
「触られるのは苦手です」
犀星は玲陽の手をとると、その指に口付ける。
「これで、安心だろ」
「兄様ったら」
ようやく、玲陽の顔に笑顔が戻った。それを見て、犀星も緊張を緩める。
昨日から、二人とも落ち着かず、東雨がいつ帰ってくるか、涼景が突然訪ねてきたりはしないか、とそわそわして過ごしていた。その焦りは、一晩を超えて不安に変わり、今日は朝から何も喉を通らないまま、二人で寄り添って寒さをしのぎつつ、風が戸を鳴らす音にも逐一、外を確かめに出ていった。
取り敢えず、無事が確認できたことで、彼らの極度の不安にも、終止符が打たれた。
犀星は玲陽とともに部屋に戻り、寝台で布団にくるまると、涼景からの文を開いた。
彼の字は見慣れてはいるが、だからこそ、わずかな変化にも気づいてしまう。どうやら、よほど身体を痛めたらしい。蓮章に託す、ということを明記してから、ことの仔細が書かれていた。
自分が東雨を拷問したこと、その後のこと、東雨の傷が癒えるまで、自分の屋敷で面倒を見ること、自分も休暇を願い出て家で養生していること、五亨庵が平穏ですんだこと、祇桜がこれからも無事であること……
文には、小さな紙包みが三つ入っていた。
玲陽に当てた、滋養薬である。
最後に一言、玲陽を決して表に出さないように、との忠告があった。
「そんなに、玲家の力が欲しいのでしょうか」
皇帝に狙われていることは知っていたが、その危険は次第に間近に迫ってきている。
「私をそばに置いたところで、何もご利益なんてありませんよ」
「先帝が、俺の母上を望んだのも、玲家の力のため。あいつら、玲家の人間に何を期待してるんだろうな」
「それだけ、恨みを買っている、という自覚があるのでしょうね。だから、その恨みから身を守る盾として、役に立つと思っているのかもしれません」
「だとしたら、順序が逆だろ。恨まれないように、理不尽な政治を行わなければいい」
「それが難しいのは、ご存知でしょう」
玲陽は薬の包みを大切そうに握った。
「為政者が何かを行えば、必ず反発する者がいます。国民全員が納得する政治なんて、空想です」
「確かに」
犀星は、歌仙で自領をおさめていた時のことを思い出した。犀遠は民の暮らしを第一に考えたが、それでも、満足できない者たちからの苦情や訴えは存在した。
「為政者に必要な素質があるとすれば、それは憎しみに耐えるだけの精神、か」
「星」
玲陽は犀星の頬を撫でた。
「無理をしないで下さい。私は、国の平穏だとか、民の安寧だとかより、あなたが笑顔でいてくれることを選びます」
「陽」
「私にとって、あなたはこの国の親王ではありません。たった一人の、大切な愛する人です」
言葉に詰まって、犀星は頬を赤らめ、視線を彷徨わせる。
昨日は不可抗力があったとはいえ、激しく自分を求めてきた犀星も、本来はこのような性格である。
「なぁ、陽」
「はい」
「愛って、何だ?」
「…………」
玲陽はしばし沈黙してから、
「究極の難題を持ち出しましたね」
「よく、わからない」
「理屈じゃないですから」
「それは、わかる。だから、余計に困る」
「では、結論だけ言いますね。しっかり私の目を見て下さい」
玲陽は彷徨っていた犀星の目を、自分に向けさせた。犀星の碧玉の瞳に、玲陽の黄金の瞳が映り込む。
「星、あなたは、私を、愛しています」
はにかんで、犀星は玲陽を見つめたまま、微笑んだ。
「よく、わかった」
言って、玲陽を抱き寄せる。
今は、こうして、そばにいられることを、何よりも大切にしよう。
二度と、奪われはしない。
たとえ、相手が皇帝であろうとも、血のつながった兄であろうとも、玲陽を自分から奪うと言うなら、戦うだけの理由になる。
「星? 痛いです」
強く抱きしめられて、玲陽は戸惑った。
「傷が痛むか?」
「いえ、そうじゃなくて……あなたの力が……」
「俺の力が、何?」
言いながら、意地悪く犀星はさらに抱く腕に力を込めた。
「はぁ……」
玲陽が呼吸できないほど、強く……
「……せ……い?」
なおも力を強める犀星に、玲陽は抗議するように、背中を叩く。
ようやく、犀星は腕の力を弱めた。
「まだ、足りないのに……」
「あなたが全力で抱きしめたら、骨が砕けます」
「それは困る」
「困るのは私です」
「お前が困るのは、もっと困る」
「星! そうやってふざけて……」
玲陽は力強い犀星の腕の中で、目を閉じた。額に口付けられる感触に、全身が脱力していく。大きな安心感が自分を包み込む。
「幸せです」
玲陽が自然と口にした言葉に、犀星は目を見開いた。
「こんな寒いところで、何も食べずに、帝の脅威が迫る中で、お前は幸せなのか?」
「はい」
よどみない答えが返ってくる。
「あなたがいるから」
玲陽は疲れが一気に出たのか、そのまま眠りに落ちていく。
「私、強くなりますから。あなたを守れるように……」
「……お前は強いよ。強くなければ、優しくなんてなれない」
犀星もまた、柔らかい抱擁で玲陽をいたわりながら、うつらうつらとし始める。
その夜は全ての音を消し去るように、静かに雪が降り続いた。
目覚めて、東雨は天井を見ていた。
外は大雪らしい。
涼景の家人たちは、皆、親切に自分の面倒を見てくれたが、当の涼景は姿を見せなかった。かといって、自分で探して歩けるほど、まだ、自由は効かない。宝順につけられた傷もさることながら、その前に何度も床に叩きつけられたり、棒で打たれた傷が、今になって痛み始めている。
涼景が手加減してくれたことは知っている。だが、それでも無傷というわけにはいかない。
「あいつ、何やってんだろ」
家人の話では、涼景も疲れて寝込んでいるということだったが、本当かどうかは怪しい。自分が密告者であるように、東雨は周囲の話を疑ってかかる。誰も、信用はできない。
眠ろうと目を閉じたが、なかなか寝付けない。寝返りをうとうにも、全身が痛んで落ち着かない。
「くそ……」
悪態をついてみたが、気が晴れるわけでもない。
足元の台に置かれた灯籠の火と、炉にくべられた薪の炎が、ゆらゆらと部屋を揺り動かしているような錯覚を覚える。今頃、犀星はどうしているのだろう。自分の無事は、涼景が知らせたはずだが、心配しているだろうか。それとも、気にもしないで過ごしているだろうか。
「あ……」
東雨は突然、どうして自分が玲陽をこれほど意識するのか、もう一つの答えを見つけた。
犀星を取られた、という嫉妬だけではない。
自分が知っていた主人を、別人のように変えてしまった。
いや、元々、犀星は今のような性格なのだ。根本は変わっていない。だが、見せる表情、感情が豊かになり、生き生きとしている。玲陽が、自分の知る主人を変えてしまった。
「わからない」
東雨は声に出した。
「若様が何を考えているのか、わからなくなってしまったから……」
出会った時から変わり者だとは思っていたが、それでも東雨なりに、犀星の気性を掴んでいるつもりだった。どんな時に、どんなことを考えるか、ある程度想像がついた。それなのに、玲陽と再会してから、まるで見当違いの言動を見せる。
自分は十年間、幻を実体だと信じてきたのだろうか。
十年。自分は犀星を騙し続けてきた。そして今回は逆に、帝に嘘をついた。どちらにも、正直な自分を見せることができない。どちらをも偽り、裏切った。どうしたらいい? 自分はこれから、何を頼りに生きていけばいい?
東雨の目から、熱い涙が溢れて、枕を濡らす。
「若様……」
自分はいつから、これほど、犀星に心を支配されてしまったのだろう。
犀星は自分の主人であると同時に、見張る対象であり、裏切り続けなければならない存在だったはずだ。
皇帝だけが、自分を認め、必要としてくれる相手であり、自分に価値を与えてくれた。
今は、そのどちらも、揺らいでしまった。
確かなものなど、何もない。
涼景が言ったように、もし、犀星が自分の正体に気づいているのなら、どんな顔をして、彼と再会すればよいのか。
笑おうと、泣こうと、全て嘘だと思われるだろう。
何もかも、自分の全てを信じてはくれないだろう。
それなのに、犀星の元に戻らねばならない。
逆恨みだとわかっていても、東雨は玲陽に全ての原因を求めてしまう。玲陽さえいなければ、こんなことにはならなかった。自分から全てを奪ったのは、玲陽だ。
だというのに、玲陽を憎もうとする自分を嫌悪する気持ちが、確かに心の底に沈んでいる。
心が砕けてしまいそうで、何を考えているのか、感じているのか、自分で全く理解できない。整理がつかない。
涼景は、混乱している、と言った。
そうなのかもしれない。
一度に様々な相反する感情が押し寄せてきて、どれが本心なのかも見極められない。今まで、こんな迷い方など、したことはなかったのに。
「誰か、教えて……」
救いを求める東雨の声を、聞く者はいない。
涼景の私邸にかくまわれて、五日がたった昼、ようやく、涼景本人が姿を見せた。長く会っていなかったわけではないのに、東雨の目に、涼景は懐かしく思われ、逆に涼景には、東雨がやつれ果てたように見えた。
「東雨、これを」
涼景は、手にしていた着物を東雨の膝の上に置いた。
「この着物……繕ってくれたのか?」
「お前にとって、大切なものなんだろ」
「なぜ、ここまでする? 俺を買収する気か?」
「そんなつもりはない。ただのけじめだ」
東雨は、じっと涼景を見据えた。この数日の間に、涼景もまた、病床についていたことはその顔色の悪さから、想像に容易い。
「あんた、大丈夫か?」
「ふ……俺を心配してくれるのか?」
「そんなんじゃない。ただ……」
東雨は迷い、言葉を選びながら、
「俺より、あんたの方が、疲れているようだから」
「心配してくれるのか」
「そうじゃないって言ってんだろ!」
勢いで、つい、東雨は怒鳴ってしまってから、後悔する。
複雑な事情があるにせよ、自分にここまで良くしてくれたことは確かだ。
「そんな顔で、若様に会うなよ。若様が気にする」
「わかっている。だから、お前一人で帰れ。家の者に送らせるから」
「……帰る?」
「そうだ」
当たり前のことだというのに、東雨には実感がわかなかった。自分に、帰る場所などあるのか……
「ほら、着替えてさっさと行け。星たちも心配している。早く安心させてやれ」
気が進まない様子で、のろのろと支度をする東雨を、涼景は黙って見守っていた。
このまま、自分のところに置いても良いのだが、それは東雨と皇帝の関係を悪化させるだけだろう。
東雨は涼景の家人の送りを断り、一人、屋敷を出た。
新雪が積もった道を、ゆっくりと犀星の屋敷へ向かう。
近づくにつれ、気持ちはどんどん重たくなっていく。
今回のことは、決して自分が悪いわけではない。何かをしたわけではない。
だが、犀星に、何と言ったらよいのだろうか。
自分の正体を知らないと思っていたからこそ、明るく無邪気な演技ができた。
だが、涼景の言う通りなら……
答えなど出ないまま、東雨は目的地に着いてしまった。
どうやって入ろうか、何をどんな顔で言ったらいいのだろう。玄関の前で立ち尽くしていると、中から慌ただしい気配がする。
咄嗟に一歩、後ろに下がり、どこかに隠れる場所はないかと見回す。が、それを見つけるより早く、扉が押し開けられた。積もった雪がつっかえて、なかなか開かない。どうにか人一人通れるだけ隙間ができたところで、中から飛び出してきたのは、玲陽だった。
ビクッと東雨が怯える。何に対しての恐怖なのかわからないが、声が出ない。
「東雨どの!」
転げるように、雪を踏み分けて駆け寄ると、玲陽は東雨を抱きしめた。
「よかった……本当に……よかった……」
東雨は何も言えないまま、されるに任せていた。
こんなに強く、誰かに抱きしめられたことがあっただろうか。
玲陽は暖かく、東雨はそのまま体を預けてしまう。途端に眠気が押し寄せて、気づいた時にはすっかり玲陽の腕にしがみついていた。
「東雨どの」
玲陽は犀星にするように、額を合わせた。
「おかえりなさい」
「光理様……」
「東雨!」
玲陽の後から出てきた犀星が、二人で東雨を包むように抱きしめる。
「若様……」
「体、大丈夫か? 酷い目にあったと聞いている。涼景の奴、お前を一人で帰したのか!」
「いえ、私が送りを断ったんです」
「どうして! 途中で何かあったら危ないだろ!」
「若様……俺……」
「とにかく、中へ入れ」
「何か、温かいものを作りますね」
「ああ、頼む。東雨、俺に捕まれ。抱き上げるぞ」
「うわ!」
東雨の迷いなど、何も知らないかのように、二人は少年を迎えた。東雨を抱いた犀星が扉の中へ入ってから、玲陽はふと気配を感じ、路地を振り返った。そこには、涼景に頼まれて、こっそりと東雨を見守っていた蓮章がいた。
玲陽は姿勢を正すと、丁寧に拝啓する。向こうは片手を上げて、軽く答えただけで、姿を消した。
「涼景様……ありがとうございます。私も、あなたのように……」
天に向かって呟く玲陽を、奥から犀星が呼ぶ。
「今、行きます!」
弾んだ声で、玲陽は屋敷に入ると、扉を閉めた。
そう言った涼景から、文が届いたのは、翌日の夕刻だった。
届けに来たのは、涼景の古くからの親友で、彼の部下の近衛でもある、遜蓮章(そんれんしょう)である。
犀星とも顔馴染みである彼は、世にいう典型的な遊び人で、外見は美男子だが、その放蕩ぶりはおよそ近衛とは思えない。本来なら、犀星が好んで親交を深めるような人間ではない。だが、涼景の仲立ちもあり、また、蓮章が多弁で一方的に話してくれるため、犀星としては聞いているだけで済むのが楽だった。
そして何より、涼景が宮中で信頼している、数少ない人間の一人である、という点が大きい。
誰も信じるな、としつこく言い聞かせていた涼景が、信じるに値すると思った相手が、まさか手癖の悪い良家の後継者とは、人の縁とは不思議なものである。
「久しぶりだな」
蓮章は気軽な調子で話しかけた。
「お前も元気そうだ」
犀星は少々疲れた顔で応対した。
「どなたです?」
玲陽がそっと玄関の端から顔を出す。
「お! 初めまして、だな!」
蓮章は犀星の脇をすり抜けて、ずかずかと玲陽に近づいていく。
「おい!」
「これ、涼景からの手紙」
と、犀星の顔も見ずに後ろ手で文を押し付ける。受け取りはしたものの、犀星には訊きたいことが山ほどある。
「蓮章、涼景と東雨は無事なんだろうな……」
「お前が陽か?」
「失礼だろう、藪から棒に」
「礼を気にしていたんでは、恋はできないぞ」
「はぁ?」
きょとん、としている玲陽の手を、素早く蓮章は握った。
「え?」
どうして良いかわからず、反応に困っている玲陽に、蓮章は笑いかけて、
「俺は遜蓮章。字は梨花(りいか)だが、蓮章と呼んでくれていい」
「は、はぁ」
「涼景から話は聞いていたが、本当に仙女のように美しいな」
そのまま抱き寄せるのではないかという勢いで、陽の手を引き、蓮章は自分の口元に持っていく。
「蓮章!」
慌てて、犀星は割って入ると、玲陽の手を取り戻した。
「なんだよ、挨拶くらい、いいだろ」
「よくない! お前の挨拶はロクでもない!」
「おいおい。せっかく文を届けに来たってのに」
「それは感謝してる。だが、文をお前に託したってことは、涼景たちは動けないってことだろ。それに、この内容だって、信頼できる人間にしか…… あいつらに何があった? 無事でいるんだろうな!」
「そう、大きな声を出すな」
蓮章は珍しく感情をあらわにする犀星に、調子を狂わされてしまった。今までの犀星は、ほとんど自分から話すこともなく、寡黙で感情を見せない印象だったが、今の彼はまるで別人だ。涼景が、今の犀星を見たら驚くぞ、と言っていた意味がよくわかった。
「とにかく、無事だ。二人とも、生きている」
「…………そうか」
犀星と玲陽は互いにもたれ合って、ほっと安堵のため息を漏らした。その様子を見て、
「なるほどねぇ」
と、蓮章が納得する。
「とにかく、ちゃんと届けたからな。巡回中なんだ。また来る」
蓮章は騒ぐだけ騒いで、さっさと馬で駆け去っていく。
「何だか、すごい人ですね」
「ああ。あれで涼景の信頼が厚いんだから、驚くだろ」
「悪い人ではなさそうですけど……」
玲陽は握られた手を撫でた。
「触られるのは苦手です」
犀星は玲陽の手をとると、その指に口付ける。
「これで、安心だろ」
「兄様ったら」
ようやく、玲陽の顔に笑顔が戻った。それを見て、犀星も緊張を緩める。
昨日から、二人とも落ち着かず、東雨がいつ帰ってくるか、涼景が突然訪ねてきたりはしないか、とそわそわして過ごしていた。その焦りは、一晩を超えて不安に変わり、今日は朝から何も喉を通らないまま、二人で寄り添って寒さをしのぎつつ、風が戸を鳴らす音にも逐一、外を確かめに出ていった。
取り敢えず、無事が確認できたことで、彼らの極度の不安にも、終止符が打たれた。
犀星は玲陽とともに部屋に戻り、寝台で布団にくるまると、涼景からの文を開いた。
彼の字は見慣れてはいるが、だからこそ、わずかな変化にも気づいてしまう。どうやら、よほど身体を痛めたらしい。蓮章に託す、ということを明記してから、ことの仔細が書かれていた。
自分が東雨を拷問したこと、その後のこと、東雨の傷が癒えるまで、自分の屋敷で面倒を見ること、自分も休暇を願い出て家で養生していること、五亨庵が平穏ですんだこと、祇桜がこれからも無事であること……
文には、小さな紙包みが三つ入っていた。
玲陽に当てた、滋養薬である。
最後に一言、玲陽を決して表に出さないように、との忠告があった。
「そんなに、玲家の力が欲しいのでしょうか」
皇帝に狙われていることは知っていたが、その危険は次第に間近に迫ってきている。
「私をそばに置いたところで、何もご利益なんてありませんよ」
「先帝が、俺の母上を望んだのも、玲家の力のため。あいつら、玲家の人間に何を期待してるんだろうな」
「それだけ、恨みを買っている、という自覚があるのでしょうね。だから、その恨みから身を守る盾として、役に立つと思っているのかもしれません」
「だとしたら、順序が逆だろ。恨まれないように、理不尽な政治を行わなければいい」
「それが難しいのは、ご存知でしょう」
玲陽は薬の包みを大切そうに握った。
「為政者が何かを行えば、必ず反発する者がいます。国民全員が納得する政治なんて、空想です」
「確かに」
犀星は、歌仙で自領をおさめていた時のことを思い出した。犀遠は民の暮らしを第一に考えたが、それでも、満足できない者たちからの苦情や訴えは存在した。
「為政者に必要な素質があるとすれば、それは憎しみに耐えるだけの精神、か」
「星」
玲陽は犀星の頬を撫でた。
「無理をしないで下さい。私は、国の平穏だとか、民の安寧だとかより、あなたが笑顔でいてくれることを選びます」
「陽」
「私にとって、あなたはこの国の親王ではありません。たった一人の、大切な愛する人です」
言葉に詰まって、犀星は頬を赤らめ、視線を彷徨わせる。
昨日は不可抗力があったとはいえ、激しく自分を求めてきた犀星も、本来はこのような性格である。
「なぁ、陽」
「はい」
「愛って、何だ?」
「…………」
玲陽はしばし沈黙してから、
「究極の難題を持ち出しましたね」
「よく、わからない」
「理屈じゃないですから」
「それは、わかる。だから、余計に困る」
「では、結論だけ言いますね。しっかり私の目を見て下さい」
玲陽は彷徨っていた犀星の目を、自分に向けさせた。犀星の碧玉の瞳に、玲陽の黄金の瞳が映り込む。
「星、あなたは、私を、愛しています」
はにかんで、犀星は玲陽を見つめたまま、微笑んだ。
「よく、わかった」
言って、玲陽を抱き寄せる。
今は、こうして、そばにいられることを、何よりも大切にしよう。
二度と、奪われはしない。
たとえ、相手が皇帝であろうとも、血のつながった兄であろうとも、玲陽を自分から奪うと言うなら、戦うだけの理由になる。
「星? 痛いです」
強く抱きしめられて、玲陽は戸惑った。
「傷が痛むか?」
「いえ、そうじゃなくて……あなたの力が……」
「俺の力が、何?」
言いながら、意地悪く犀星はさらに抱く腕に力を込めた。
「はぁ……」
玲陽が呼吸できないほど、強く……
「……せ……い?」
なおも力を強める犀星に、玲陽は抗議するように、背中を叩く。
ようやく、犀星は腕の力を弱めた。
「まだ、足りないのに……」
「あなたが全力で抱きしめたら、骨が砕けます」
「それは困る」
「困るのは私です」
「お前が困るのは、もっと困る」
「星! そうやってふざけて……」
玲陽は力強い犀星の腕の中で、目を閉じた。額に口付けられる感触に、全身が脱力していく。大きな安心感が自分を包み込む。
「幸せです」
玲陽が自然と口にした言葉に、犀星は目を見開いた。
「こんな寒いところで、何も食べずに、帝の脅威が迫る中で、お前は幸せなのか?」
「はい」
よどみない答えが返ってくる。
「あなたがいるから」
玲陽は疲れが一気に出たのか、そのまま眠りに落ちていく。
「私、強くなりますから。あなたを守れるように……」
「……お前は強いよ。強くなければ、優しくなんてなれない」
犀星もまた、柔らかい抱擁で玲陽をいたわりながら、うつらうつらとし始める。
その夜は全ての音を消し去るように、静かに雪が降り続いた。
目覚めて、東雨は天井を見ていた。
外は大雪らしい。
涼景の家人たちは、皆、親切に自分の面倒を見てくれたが、当の涼景は姿を見せなかった。かといって、自分で探して歩けるほど、まだ、自由は効かない。宝順につけられた傷もさることながら、その前に何度も床に叩きつけられたり、棒で打たれた傷が、今になって痛み始めている。
涼景が手加減してくれたことは知っている。だが、それでも無傷というわけにはいかない。
「あいつ、何やってんだろ」
家人の話では、涼景も疲れて寝込んでいるということだったが、本当かどうかは怪しい。自分が密告者であるように、東雨は周囲の話を疑ってかかる。誰も、信用はできない。
眠ろうと目を閉じたが、なかなか寝付けない。寝返りをうとうにも、全身が痛んで落ち着かない。
「くそ……」
悪態をついてみたが、気が晴れるわけでもない。
足元の台に置かれた灯籠の火と、炉にくべられた薪の炎が、ゆらゆらと部屋を揺り動かしているような錯覚を覚える。今頃、犀星はどうしているのだろう。自分の無事は、涼景が知らせたはずだが、心配しているだろうか。それとも、気にもしないで過ごしているだろうか。
「あ……」
東雨は突然、どうして自分が玲陽をこれほど意識するのか、もう一つの答えを見つけた。
犀星を取られた、という嫉妬だけではない。
自分が知っていた主人を、別人のように変えてしまった。
いや、元々、犀星は今のような性格なのだ。根本は変わっていない。だが、見せる表情、感情が豊かになり、生き生きとしている。玲陽が、自分の知る主人を変えてしまった。
「わからない」
東雨は声に出した。
「若様が何を考えているのか、わからなくなってしまったから……」
出会った時から変わり者だとは思っていたが、それでも東雨なりに、犀星の気性を掴んでいるつもりだった。どんな時に、どんなことを考えるか、ある程度想像がついた。それなのに、玲陽と再会してから、まるで見当違いの言動を見せる。
自分は十年間、幻を実体だと信じてきたのだろうか。
十年。自分は犀星を騙し続けてきた。そして今回は逆に、帝に嘘をついた。どちらにも、正直な自分を見せることができない。どちらをも偽り、裏切った。どうしたらいい? 自分はこれから、何を頼りに生きていけばいい?
東雨の目から、熱い涙が溢れて、枕を濡らす。
「若様……」
自分はいつから、これほど、犀星に心を支配されてしまったのだろう。
犀星は自分の主人であると同時に、見張る対象であり、裏切り続けなければならない存在だったはずだ。
皇帝だけが、自分を認め、必要としてくれる相手であり、自分に価値を与えてくれた。
今は、そのどちらも、揺らいでしまった。
確かなものなど、何もない。
涼景が言ったように、もし、犀星が自分の正体に気づいているのなら、どんな顔をして、彼と再会すればよいのか。
笑おうと、泣こうと、全て嘘だと思われるだろう。
何もかも、自分の全てを信じてはくれないだろう。
それなのに、犀星の元に戻らねばならない。
逆恨みだとわかっていても、東雨は玲陽に全ての原因を求めてしまう。玲陽さえいなければ、こんなことにはならなかった。自分から全てを奪ったのは、玲陽だ。
だというのに、玲陽を憎もうとする自分を嫌悪する気持ちが、確かに心の底に沈んでいる。
心が砕けてしまいそうで、何を考えているのか、感じているのか、自分で全く理解できない。整理がつかない。
涼景は、混乱している、と言った。
そうなのかもしれない。
一度に様々な相反する感情が押し寄せてきて、どれが本心なのかも見極められない。今まで、こんな迷い方など、したことはなかったのに。
「誰か、教えて……」
救いを求める東雨の声を、聞く者はいない。
涼景の私邸にかくまわれて、五日がたった昼、ようやく、涼景本人が姿を見せた。長く会っていなかったわけではないのに、東雨の目に、涼景は懐かしく思われ、逆に涼景には、東雨がやつれ果てたように見えた。
「東雨、これを」
涼景は、手にしていた着物を東雨の膝の上に置いた。
「この着物……繕ってくれたのか?」
「お前にとって、大切なものなんだろ」
「なぜ、ここまでする? 俺を買収する気か?」
「そんなつもりはない。ただのけじめだ」
東雨は、じっと涼景を見据えた。この数日の間に、涼景もまた、病床についていたことはその顔色の悪さから、想像に容易い。
「あんた、大丈夫か?」
「ふ……俺を心配してくれるのか?」
「そんなんじゃない。ただ……」
東雨は迷い、言葉を選びながら、
「俺より、あんたの方が、疲れているようだから」
「心配してくれるのか」
「そうじゃないって言ってんだろ!」
勢いで、つい、東雨は怒鳴ってしまってから、後悔する。
複雑な事情があるにせよ、自分にここまで良くしてくれたことは確かだ。
「そんな顔で、若様に会うなよ。若様が気にする」
「わかっている。だから、お前一人で帰れ。家の者に送らせるから」
「……帰る?」
「そうだ」
当たり前のことだというのに、東雨には実感がわかなかった。自分に、帰る場所などあるのか……
「ほら、着替えてさっさと行け。星たちも心配している。早く安心させてやれ」
気が進まない様子で、のろのろと支度をする東雨を、涼景は黙って見守っていた。
このまま、自分のところに置いても良いのだが、それは東雨と皇帝の関係を悪化させるだけだろう。
東雨は涼景の家人の送りを断り、一人、屋敷を出た。
新雪が積もった道を、ゆっくりと犀星の屋敷へ向かう。
近づくにつれ、気持ちはどんどん重たくなっていく。
今回のことは、決して自分が悪いわけではない。何かをしたわけではない。
だが、犀星に、何と言ったらよいのだろうか。
自分の正体を知らないと思っていたからこそ、明るく無邪気な演技ができた。
だが、涼景の言う通りなら……
答えなど出ないまま、東雨は目的地に着いてしまった。
どうやって入ろうか、何をどんな顔で言ったらいいのだろう。玄関の前で立ち尽くしていると、中から慌ただしい気配がする。
咄嗟に一歩、後ろに下がり、どこかに隠れる場所はないかと見回す。が、それを見つけるより早く、扉が押し開けられた。積もった雪がつっかえて、なかなか開かない。どうにか人一人通れるだけ隙間ができたところで、中から飛び出してきたのは、玲陽だった。
ビクッと東雨が怯える。何に対しての恐怖なのかわからないが、声が出ない。
「東雨どの!」
転げるように、雪を踏み分けて駆け寄ると、玲陽は東雨を抱きしめた。
「よかった……本当に……よかった……」
東雨は何も言えないまま、されるに任せていた。
こんなに強く、誰かに抱きしめられたことがあっただろうか。
玲陽は暖かく、東雨はそのまま体を預けてしまう。途端に眠気が押し寄せて、気づいた時にはすっかり玲陽の腕にしがみついていた。
「東雨どの」
玲陽は犀星にするように、額を合わせた。
「おかえりなさい」
「光理様……」
「東雨!」
玲陽の後から出てきた犀星が、二人で東雨を包むように抱きしめる。
「若様……」
「体、大丈夫か? 酷い目にあったと聞いている。涼景の奴、お前を一人で帰したのか!」
「いえ、私が送りを断ったんです」
「どうして! 途中で何かあったら危ないだろ!」
「若様……俺……」
「とにかく、中へ入れ」
「何か、温かいものを作りますね」
「ああ、頼む。東雨、俺に捕まれ。抱き上げるぞ」
「うわ!」
東雨の迷いなど、何も知らないかのように、二人は少年を迎えた。東雨を抱いた犀星が扉の中へ入ってから、玲陽はふと気配を感じ、路地を振り返った。そこには、涼景に頼まれて、こっそりと東雨を見守っていた蓮章がいた。
玲陽は姿勢を正すと、丁寧に拝啓する。向こうは片手を上げて、軽く答えただけで、姿を消した。
「涼景様……ありがとうございます。私も、あなたのように……」
天に向かって呟く玲陽を、奥から犀星が呼ぶ。
「今、行きます!」
弾んだ声で、玲陽は屋敷に入ると、扉を閉めた。
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