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第一部 星誕

第二二話 深雪の頃

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 ほとぼりが冷めるまで。

 そう言った涼景から、文が届いたのは、翌日の夕刻だった。

 届けに来たのは、涼景の古くからの親友で、彼の部下の近衛でもある、遜蓮章(そんれんしょう)である。

 犀星とも顔馴染みである彼は、世にいう典型的な遊び人で、外見は美男子だが、その放蕩ぶりはおよそ近衛とは思えない。本来なら、犀星が好んで親交を深めるような人間ではない。だが、涼景の仲立ちもあり、また、蓮章が多弁で一方的に話してくれるため、犀星としては聞いているだけで済むのが楽だった。

 そして何より、涼景が宮中で信頼している、数少ない人間の一人である、という点が大きい。

 誰も信じるな、としつこく言い聞かせていた涼景が、信じるに値すると思った相手が、まさか手癖の悪い良家の後継者とは、人の縁とは不思議なものである。

「久しぶりだな」

 蓮章は気軽な調子で話しかけた。

「お前も元気そうだ」

 犀星は少々疲れた顔で応対した。

「どなたです?」

 玲陽がそっと玄関の端から顔を出す。

「お! 初めまして、だな!」

 蓮章は犀星の脇をすり抜けて、ずかずかと玲陽に近づいていく。

「おい!」

「これ、涼景からの手紙」

 と、犀星の顔も見ずに後ろ手で文を押し付ける。受け取りはしたものの、犀星には訊きたいことが山ほどある。

「蓮章、涼景と東雨は無事なんだろうな……」

「お前が陽か?」

「失礼だろう、藪から棒に」

「礼を気にしていたんでは、恋はできないぞ」

「はぁ?」

 きょとん、としている玲陽の手を、素早く蓮章は握った。

「え?」

 どうして良いかわからず、反応に困っている玲陽に、蓮章は笑いかけて、

「俺は遜蓮章。字は梨花(りいか)だが、蓮章と呼んでくれていい」

「は、はぁ」

「涼景から話は聞いていたが、本当に仙女のように美しいな」

 そのまま抱き寄せるのではないかという勢いで、陽の手を引き、蓮章は自分の口元に持っていく。

「蓮章!」

 慌てて、犀星は割って入ると、玲陽の手を取り戻した。

「なんだよ、挨拶くらい、いいだろ」

「よくない! お前の挨拶はロクでもない!」

「おいおい。せっかく文を届けに来たってのに」

「それは感謝してる。だが、文をお前に託したってことは、涼景たちは動けないってことだろ。それに、この内容だって、信頼できる人間にしか…… あいつらに何があった? 無事でいるんだろうな!」

「そう、大きな声を出すな」

 蓮章は珍しく感情をあらわにする犀星に、調子を狂わされてしまった。今までの犀星は、ほとんど自分から話すこともなく、寡黙で感情を見せない印象だったが、今の彼はまるで別人だ。涼景が、今の犀星を見たら驚くぞ、と言っていた意味がよくわかった。

「とにかく、無事だ。二人とも、生きている」

「…………そうか」

 犀星と玲陽は互いにもたれ合って、ほっと安堵のため息を漏らした。その様子を見て、

「なるほどねぇ」

 と、蓮章が納得する。

「とにかく、ちゃんと届けたからな。巡回中なんだ。また来る」

 蓮章は騒ぐだけ騒いで、さっさと馬で駆け去っていく。

「何だか、すごい人ですね」

「ああ。あれで涼景の信頼が厚いんだから、驚くだろ」

「悪い人ではなさそうですけど……」

 玲陽は握られた手を撫でた。

「触られるのは苦手です」

 犀星は玲陽の手をとると、その指に口付ける。

「これで、安心だろ」

「兄様ったら」

 ようやく、玲陽の顔に笑顔が戻った。それを見て、犀星も緊張を緩める。

 昨日から、二人とも落ち着かず、東雨がいつ帰ってくるか、涼景が突然訪ねてきたりはしないか、とそわそわして過ごしていた。その焦りは、一晩を超えて不安に変わり、今日は朝から何も喉を通らないまま、二人で寄り添って寒さをしのぎつつ、風が戸を鳴らす音にも逐一、外を確かめに出ていった。

 取り敢えず、無事が確認できたことで、彼らの極度の不安にも、終止符が打たれた。

 犀星は玲陽とともに部屋に戻り、寝台で布団にくるまると、涼景からの文を開いた。

 彼の字は見慣れてはいるが、だからこそ、わずかな変化にも気づいてしまう。どうやら、よほど身体を痛めたらしい。蓮章に託す、ということを明記してから、ことの仔細が書かれていた。

 自分が東雨を拷問したこと、その後のこと、東雨の傷が癒えるまで、自分の屋敷で面倒を見ること、自分も休暇を願い出て家で養生していること、五亨庵が平穏ですんだこと、祇桜がこれからも無事であること……

 文には、小さな紙包みが三つ入っていた。

 玲陽に当てた、滋養薬である。

 最後に一言、玲陽を決して表に出さないように、との忠告があった。

「そんなに、玲家の力が欲しいのでしょうか」

 皇帝に狙われていることは知っていたが、その危険は次第に間近に迫ってきている。

「私をそばに置いたところで、何もご利益なんてありませんよ」

「先帝が、俺の母上を望んだのも、玲家の力のため。あいつら、玲家の人間に何を期待してるんだろうな」

「それだけ、恨みを買っている、という自覚があるのでしょうね。だから、その恨みから身を守る盾として、役に立つと思っているのかもしれません」

「だとしたら、順序が逆だろ。恨まれないように、理不尽な政治を行わなければいい」

「それが難しいのは、ご存知でしょう」

 玲陽は薬の包みを大切そうに握った。

「為政者が何かを行えば、必ず反発する者がいます。国民全員が納得する政治なんて、空想です」

「確かに」

 犀星は、歌仙で自領をおさめていた時のことを思い出した。犀遠は民の暮らしを第一に考えたが、それでも、満足できない者たちからの苦情や訴えは存在した。

「為政者に必要な素質があるとすれば、それは憎しみに耐えるだけの精神、か」

「星」

 玲陽は犀星の頬を撫でた。

「無理をしないで下さい。私は、国の平穏だとか、民の安寧だとかより、あなたが笑顔でいてくれることを選びます」

「陽」

「私にとって、あなたはこの国の親王ではありません。たった一人の、大切な愛する人です」

 言葉に詰まって、犀星は頬を赤らめ、視線を彷徨わせる。

 昨日は不可抗力があったとはいえ、激しく自分を求めてきた犀星も、本来はこのような性格である。

「なぁ、陽」

「はい」

「愛って、何だ?」

「…………」

 玲陽はしばし沈黙してから、

「究極の難題を持ち出しましたね」

「よく、わからない」

「理屈じゃないですから」

「それは、わかる。だから、余計に困る」

「では、結論だけ言いますね。しっかり私の目を見て下さい」

 玲陽は彷徨っていた犀星の目を、自分に向けさせた。犀星の碧玉の瞳に、玲陽の黄金の瞳が映り込む。

「星、あなたは、私を、愛しています」

 はにかんで、犀星は玲陽を見つめたまま、微笑んだ。

「よく、わかった」

 言って、玲陽を抱き寄せる。

 今は、こうして、そばにいられることを、何よりも大切にしよう。

 二度と、奪われはしない。

 たとえ、相手が皇帝であろうとも、血のつながった兄であろうとも、玲陽を自分から奪うと言うなら、戦うだけの理由になる。

「星? 痛いです」

 強く抱きしめられて、玲陽は戸惑った。

「傷が痛むか?」

「いえ、そうじゃなくて……あなたの力が……」

「俺の力が、何?」

 言いながら、意地悪く犀星はさらに抱く腕に力を込めた。

「はぁ……」

 玲陽が呼吸できないほど、強く……

「……せ……い?」

 なおも力を強める犀星に、玲陽は抗議するように、背中を叩く。

 ようやく、犀星は腕の力を弱めた。

「まだ、足りないのに……」

「あなたが全力で抱きしめたら、骨が砕けます」

「それは困る」

「困るのは私です」

「お前が困るのは、もっと困る」

「星! そうやってふざけて……」

 玲陽は力強い犀星の腕の中で、目を閉じた。額に口付けられる感触に、全身が脱力していく。大きな安心感が自分を包み込む。

「幸せです」

 玲陽が自然と口にした言葉に、犀星は目を見開いた。

「こんな寒いところで、何も食べずに、帝の脅威が迫る中で、お前は幸せなのか?」

「はい」

 よどみない答えが返ってくる。

「あなたがいるから」

 玲陽は疲れが一気に出たのか、そのまま眠りに落ちていく。

「私、強くなりますから。あなたを守れるように……」

「……お前は強いよ。強くなければ、優しくなんてなれない」

 犀星もまた、柔らかい抱擁で玲陽をいたわりながら、うつらうつらとし始める。

 その夜は全ての音を消し去るように、静かに雪が降り続いた。



 目覚めて、東雨は天井を見ていた。

 外は大雪らしい。

 涼景の家人たちは、皆、親切に自分の面倒を見てくれたが、当の涼景は姿を見せなかった。かといって、自分で探して歩けるほど、まだ、自由は効かない。宝順につけられた傷もさることながら、その前に何度も床に叩きつけられたり、棒で打たれた傷が、今になって痛み始めている。

 涼景が手加減してくれたことは知っている。だが、それでも無傷というわけにはいかない。

「あいつ、何やってんだろ」

 家人の話では、涼景も疲れて寝込んでいるということだったが、本当かどうかは怪しい。自分が密告者であるように、東雨は周囲の話を疑ってかかる。誰も、信用はできない。

 眠ろうと目を閉じたが、なかなか寝付けない。寝返りをうとうにも、全身が痛んで落ち着かない。

「くそ……」

 悪態をついてみたが、気が晴れるわけでもない。

 足元の台に置かれた灯籠の火と、炉にくべられた薪の炎が、ゆらゆらと部屋を揺り動かしているような錯覚を覚える。今頃、犀星はどうしているのだろう。自分の無事は、涼景が知らせたはずだが、心配しているだろうか。それとも、気にもしないで過ごしているだろうか。

「あ……」

 東雨は突然、どうして自分が玲陽をこれほど意識するのか、もう一つの答えを見つけた。

 犀星を取られた、という嫉妬だけではない。

 自分が知っていた主人を、別人のように変えてしまった。

 いや、元々、犀星は今のような性格なのだ。根本は変わっていない。だが、見せる表情、感情が豊かになり、生き生きとしている。玲陽が、自分の知る主人を変えてしまった。

「わからない」

 東雨は声に出した。

「若様が何を考えているのか、わからなくなってしまったから……」

 出会った時から変わり者だとは思っていたが、それでも東雨なりに、犀星の気性を掴んでいるつもりだった。どんな時に、どんなことを考えるか、ある程度想像がついた。それなのに、玲陽と再会してから、まるで見当違いの言動を見せる。

 自分は十年間、幻を実体だと信じてきたのだろうか。

 十年。自分は犀星を騙し続けてきた。そして今回は逆に、帝に嘘をついた。どちらにも、正直な自分を見せることができない。どちらをも偽り、裏切った。どうしたらいい? 自分はこれから、何を頼りに生きていけばいい?

 東雨の目から、熱い涙が溢れて、枕を濡らす。

「若様……」

 自分はいつから、これほど、犀星に心を支配されてしまったのだろう。

 犀星は自分の主人であると同時に、見張る対象であり、裏切り続けなければならない存在だったはずだ。

 皇帝だけが、自分を認め、必要としてくれる相手であり、自分に価値を与えてくれた。

 今は、そのどちらも、揺らいでしまった。

 確かなものなど、何もない。

 涼景が言ったように、もし、犀星が自分の正体に気づいているのなら、どんな顔をして、彼と再会すればよいのか。

 笑おうと、泣こうと、全て嘘だと思われるだろう。

 何もかも、自分の全てを信じてはくれないだろう。

 それなのに、犀星の元に戻らねばならない。

 逆恨みだとわかっていても、東雨は玲陽に全ての原因を求めてしまう。玲陽さえいなければ、こんなことにはならなかった。自分から全てを奪ったのは、玲陽だ。

 だというのに、玲陽を憎もうとする自分を嫌悪する気持ちが、確かに心の底に沈んでいる。

 心が砕けてしまいそうで、何を考えているのか、感じているのか、自分で全く理解できない。整理がつかない。

 涼景は、混乱している、と言った。

 そうなのかもしれない。

 一度に様々な相反する感情が押し寄せてきて、どれが本心なのかも見極められない。今まで、こんな迷い方など、したことはなかったのに。

「誰か、教えて……」

 救いを求める東雨の声を、聞く者はいない。



 涼景の私邸にかくまわれて、五日がたった昼、ようやく、涼景本人が姿を見せた。長く会っていなかったわけではないのに、東雨の目に、涼景は懐かしく思われ、逆に涼景には、東雨がやつれ果てたように見えた。

「東雨、これを」

 涼景は、手にしていた着物を東雨の膝の上に置いた。

「この着物……繕ってくれたのか?」

「お前にとって、大切なものなんだろ」

「なぜ、ここまでする? 俺を買収する気か?」

「そんなつもりはない。ただのけじめだ」

 東雨は、じっと涼景を見据えた。この数日の間に、涼景もまた、病床についていたことはその顔色の悪さから、想像に容易い。

「あんた、大丈夫か?」

「ふ……俺を心配してくれるのか?」

「そんなんじゃない。ただ……」

 東雨は迷い、言葉を選びながら、

「俺より、あんたの方が、疲れているようだから」

「心配してくれるのか」

「そうじゃないって言ってんだろ!」

 勢いで、つい、東雨は怒鳴ってしまってから、後悔する。

 複雑な事情があるにせよ、自分にここまで良くしてくれたことは確かだ。

「そんな顔で、若様に会うなよ。若様が気にする」

「わかっている。だから、お前一人で帰れ。家の者に送らせるから」

「……帰る?」

「そうだ」

 当たり前のことだというのに、東雨には実感がわかなかった。自分に、帰る場所などあるのか……

「ほら、着替えてさっさと行け。星たちも心配している。早く安心させてやれ」

 気が進まない様子で、のろのろと支度をする東雨を、涼景は黙って見守っていた。

 このまま、自分のところに置いても良いのだが、それは東雨と皇帝の関係を悪化させるだけだろう。

 東雨は涼景の家人の送りを断り、一人、屋敷を出た。

 新雪が積もった道を、ゆっくりと犀星の屋敷へ向かう。

 近づくにつれ、気持ちはどんどん重たくなっていく。

 今回のことは、決して自分が悪いわけではない。何かをしたわけではない。

 だが、犀星に、何と言ったらよいのだろうか。

 自分の正体を知らないと思っていたからこそ、明るく無邪気な演技ができた。

 だが、涼景の言う通りなら……

 答えなど出ないまま、東雨は目的地に着いてしまった。

 どうやって入ろうか、何をどんな顔で言ったらいいのだろう。玄関の前で立ち尽くしていると、中から慌ただしい気配がする。

 咄嗟に一歩、後ろに下がり、どこかに隠れる場所はないかと見回す。が、それを見つけるより早く、扉が押し開けられた。積もった雪がつっかえて、なかなか開かない。どうにか人一人通れるだけ隙間ができたところで、中から飛び出してきたのは、玲陽だった。

 ビクッと東雨が怯える。何に対しての恐怖なのかわからないが、声が出ない。

「東雨どの!」

 転げるように、雪を踏み分けて駆け寄ると、玲陽は東雨を抱きしめた。

「よかった……本当に……よかった……」

 東雨は何も言えないまま、されるに任せていた。

 こんなに強く、誰かに抱きしめられたことがあっただろうか。

 玲陽は暖かく、東雨はそのまま体を預けてしまう。途端に眠気が押し寄せて、気づいた時にはすっかり玲陽の腕にしがみついていた。

「東雨どの」

 玲陽は犀星にするように、額を合わせた。

「おかえりなさい」

「光理様……」

「東雨!」

 玲陽の後から出てきた犀星が、二人で東雨を包むように抱きしめる。

「若様……」

「体、大丈夫か? 酷い目にあったと聞いている。涼景の奴、お前を一人で帰したのか!」

「いえ、私が送りを断ったんです」

「どうして! 途中で何かあったら危ないだろ!」

「若様……俺……」

「とにかく、中へ入れ」

「何か、温かいものを作りますね」

「ああ、頼む。東雨、俺に捕まれ。抱き上げるぞ」

「うわ!」

 東雨の迷いなど、何も知らないかのように、二人は少年を迎えた。東雨を抱いた犀星が扉の中へ入ってから、玲陽はふと気配を感じ、路地を振り返った。そこには、涼景に頼まれて、こっそりと東雨を見守っていた蓮章がいた。

 玲陽は姿勢を正すと、丁寧に拝啓する。向こうは片手を上げて、軽く答えただけで、姿を消した。

「涼景様……ありがとうございます。私も、あなたのように……」

 天に向かって呟く玲陽を、奥から犀星が呼ぶ。

「今、行きます!」

 弾んだ声で、玲陽は屋敷に入ると、扉を閉めた。
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