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第一部 星誕
第十九話 二つの命
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翌日、鳩は息を引き取った。
涙こそ流さなかったが、玲陽はその冷たい脚と嘴を自分の手で包み、温めながら、ずっと部屋の隅に座っていた。
羽毛に包まれた体は、手で温めればまだ生きているように温みをもつ。
犀星は朝から帝に呼び出され、東雨を連れて出掛けている。五亨庵には玲陽を一人にしないように、と、早くから緑権と慈圓が駆けつけてくれた。
「光理どの、大丈夫ですかね」
緑権は玲陽から離れた場所にある自分の仕事机に頬杖をつきながら、心配そうに玲陽を見つめていた。
緑権から、祇桜に関わる話を聞き出した慈圓は、昨日のうちにあらゆる方面の歴史書を宮中から探し出し、自分の机の周りに積み上げている。その一冊を緑権に差し出し、
「ぼんやりする暇があるなら、少しでもお役に立てる情報を探せ」
「探すと言ったって、文献に残ってはいない、と言ったのは、仲草(ちゅうそう)どのじゃありませんか」
「他にできることもあるまい?」
「それより、薪の調達先を考えないと…… 都の西側の林を切るという案も出ているようですが」
「あれは防風林の役割もある。どこの能無しだ、そんなことを言い出したのは」
「宝順陛下です」
「全く、ろくでもない奴が後目をつぎおって……」
「仲草どのは先代のこともよく思っていなかったですよね」
「ああ、ここ最近の宮中はどうかしておるわ。せめて、伯華様が帝位について下されば……」
「しー! そんなこと、誰かに聞かれたら、反逆者として死罪ですよ!」
「ふん。人も獣も、皆やがて死ぬ運命だ。そんな決まりきったことを恐れてどうする?」
「な、何もこんな時に言わなくても……」
緑権は、寂しそうに鳩を撫でている玲陽を見た。
反して、慈圓は普段通りの堂々とした態度で、玲陽に近づいていく。
「光理どの」
呼ばれて、玲陽は顔を上げた。
慈圓は一呼吸置いてから、
「その鳩を、どうなさるおつもりですかな?」
「どうする、とは?」
「たとえば……墓を作って埋めてやる、とか?」
「ああ、そういうことですか」
玲陽はじっと鳩を見た。
「考えていたんです。どうすることが、この鳩の命を無駄にしないかを」
「ほう。それで、案は浮かびましたか?」
「兄様にも聞いてみようと思うのですが……」
玲陽は淡々と、
「一つは、焼いて食べること。一つは、野外で獣の食糧になるよう、目につくところに置くこと。一つは、木の根本に埋めて、土に返すこと。一つは、医者に見せること」
「医者に見せる?」
慈圓は不思議そうに、
「もう、亡くなった鳩を医者に見せて、どうするのです?」
「体を開いて、中のつくりを調べて、記録してもらうんです。そうすれば、次に怪我をした鳩と出会ったとき、その医者は治すことができるかもしれない」
「これは驚いた」
慈圓は膝を打った。
「聞いたか、謀児。皇帝より賢い、将来を見通す賢人がここにもいたぞ」
「光理どのが聡いことは、とっくに知っています」
緑権は慈圓に渡された書物をぱらぱらとめくりながら、
「それより、ですね。あの桜について調べろ、と言ったのは仲草どので……」
「陽っ!」
突然、五亨庵の扉が乱暴に開けられ、血相を変えた犀星が飛び込んでくる。
「すぐに来い!」
「え?」
「いいから!」
玲陽は慌てて鳩を引き出しの藁の上に戻すと、犀星に腕を引かれて連れ出されていく。
「何があったんでしょう? あんな伯華さま、初めて見ました」
緑権が呆然と見送る。
「……桜に、何か合ったのかもしれん」
慈圓が外套を羽織って後を追う。五亨庵を無人にはできないため、緑権は一人残された。
犀星は玲陽を引きずるように急ぎ足で、小道を朱雀大路へ向かう。
「陛下が、祇桜を切ると言い出した」
「え!」
「古木ゆえ、いつ倒れてもおかしくないから、と」
「なぜ、そんなことをいきなり……」
「知らん! ただ、五亨庵へ行き来する俺たちが怪我をしないよう、まずは枝をはらって、それから幹をたち、根こそぎ取り除く、と!」
「承知したんですか?」
「するわけがないだろう! だが、俺が何を言おうと、陛下が聞くものか!」
「待って!」
玲陽は体重をかけて、犀星を引き戻した。
「おかしいです、その話!」
「え?」
犀星も、玲陽の言葉に立ち止まり、振り返った。どこか怯えたような犀星の表情に、玲陽は安心させるように両手で頬を包んだ。
「落ち着いて下さい。陛下の理屈はわかります。しかし、どうしてそれを、兄様に言ったのです? それも、朝早くに呼び出してまで」
「……それは……わからないが」
「第一、祇桜は兄様のものではありません。この宮中の木の一本にすぎない。帝がそう決めたのなら、勝手に切るはずです。わざとそんな話をするなんて、何か裏があるとは思いませんか?」
「うむ……」
「それに、いくら薪が少ないとはいえ、生木では燃えにくい。燃料対策として備蓄するにしても、時期がおかしいです」
「光理様のおっしゃる通りです」
後を追ってきた慈圓が後押しする。
「早まってはなりませんぞ。あの狸、何を考えているか知れたものではない」
慈圓にも諭され、犀星は一呼吸置いた。大切なもののためとなると、つい頭に血がのぼる犀星の悪癖は、相変わらずらしい。玲陽がふと、周囲を見回す。
「東雨どのは? 姿が見えませんが?」
「天輝殿を出てから走ってきたから、どこかではぐれたかも……」
玲陽は、助けを求めるように、慈圓を見た。この古株の文官なら、東雨の正体にも、見当がついているだろう。慈圓は、わかっています、と言わんばかりに、何度か頷いた。
玲陽は力づけるように、犀星の手を握った。
「とにかく、もう一度、陛下に頼んでもらえませんか? 祇桜には越冬芽が出ています。また、来年花を咲かせる力がある木です。せめて一度、私にその花を見せて下さい!」
玲陽の訴えに、犀星は目を瞬きながら、少しずつ気持ちを落ち着かせていく。
玲陽が何かを求めることは珍しい。その彼が言うのだから、叶えてやりたい。だが、正直に訳を話して納得してくれるとは思われない。玲陽が言うように、わざわざ、早朝に呼び出して告知したということは、こちらの出方を伺って、さらに何かを仕掛けてくる可能性もある。
「おそらく、光理どのをおびき出すつもりでしょう」
慈圓が顎髭をねじりながら、思案顔で言った。
「もし、伯華様が、従兄弟が見たがっている、と言えば、ならば直接その者が頼みに来い、と」
「陽を陛下に近づけたくはない。俺でさえ、玲家の血を引くというだけで、興味を持たれている。次期玲家当主の陽を連れて行けば、何をされるか……」
「陛下は、玲家に伝わる力に興味がおありなのでしょう?」
「ああ、おそらく。先帝もそうだった。そのために、俺の母上は……」
と、言いかけ、犀星は傀儡と化した母の恨み言を思い出し、黙り込む。
「わしも、陛下と光理どのを会わせるのは反対じゃ。何を代償に求められるか、わかったものではない」
「取引のできない相手、ということですね」
「光理どのが命と身体を捨てるというなら、話は別じゃが」
「そんなこと、絶対にさせない」
「でしょうな。だったら、落ち着いて案を練りましょう。その、祇桜とやらと、話ができると聞きましたが?」
「……慈圓、何でそのことを?」
「緑権の口を割らせるくらい、造作もない」
と、慈圓は悠々と笑った。緑権は決して口が軽い男ではなかったが、慈圓にかかればひとたまりもなかっただろう。幸い、祇桜のことだけで、傀儡についての話はしていないようだ。
「東雨どのが気になります。宮中で迷うはずもないですし」
「寄り道をするような用事は頼んでいないんだが……」
「わしが探してきましょう」
慈圓が自ら名乗りを上げる。
「お二人は、桜のそばにおいで下さい。さすがに、直接、伯華様の静止を振り切って、枝をはらったりはしないでしょう」
「わかった」
慈圓は早足で周囲を注意深く観察しながら、東雨を探しに向かう。
犀星と玲陽は、気持ちを落ち着けながら、その後を追って祇桜の所までやってきた。
「祇桜」
犀星が声をかける。玲陽はそのみきに両手を添えて、頬を寄せた。
「祇桜、私たちの声が聞こえますか?」
「……返事はない」
犀星が通訳する。玲陽は言いづらそうに、
「あなたから預かった鳩を、助けることはできませんでした。一晩中温めたのですが、今朝、亡くなりました。御免なさい」
「……え?」
犀星が驚きの声を上げる。
「兄様?」
「本気か、祇桜! それで、助かるのか?」
犀星の頭の中に、直接祇桜の声が聞こえてくる。
「そんなこと……」
「兄様? なんと?」
「陽、麻紐と鳩をここへ」
「え? 祇桜がそう、言っている」
「わ、わかりました」
玲陽は急いで五亨庵にとって返すと、鳩の死骸を再び抱き、薪を縛っていた麻紐を解いて、すぐにまた、祇桜の元へ戻ってくる。
「ここからは俺がやる。向こう、向いてろ」
「嫌です。兄様だけに背負わせることなんて、しませんから」
「陽……ありがとう」
ようやく落ち着いたのか、犀星に笑みが見られて、玲陽は胸を撫で下ろした。
その頃、東雨は天輝殿の前で、うろうろしながら、犀星が戻ってくるのを待っていた。
犀星のことだ。玲陽に泣きついて、一緒に帝に頼みにくるに違いない。そうすれば、玲陽の身と引き換えに、桜を切る計画を断念する筋書きだ。
昨日、東雨は宝順に、あの二人が山桜を大切にし、さらに何やら言葉を交わすような素振りがあることを伝えていた。犀星にとっては、山桜も、玲陽も、大切な存在であることを知ると、それを天秤にかけてみよう、という話になった。
「どちらに転んでも良い」
と、宝順は言っていた。
山桜を諦めて玲陽をとるか、玲陽を差し出して山桜を守るか、どちらにせよ、犀星を苦しめることは間違いない。
てっきり、すぐに戻ってくるものだと思っていた東雨は、犀星がなかなか姿を見せないことに焦っていた。まさか、あの強情な犀星が、あっさり引き下がったとは思えない。必ず、もう一度談判しにくるはずだ。
東雨は寒空の下、そわそわと主人を待っていた。と、見慣れた人影がこちらにやってくる。だが、それは犀星ではなく、慈圓だ。正直、東雨は何もかも見通しているこの男が苦手だった。当然、自分の裏にも勘づいているだろう。
「親王殿下なら、いくら待ってもいらっしゃらないぞ」
慈圓は、東雨が犀星を待っていたことを見越して言い放った。
「若様は、桜のこと、納得されたのですか? てっきり、また交渉に来るかと思って……」
「あの伯華様が、納得などするわけがないわ」
慈圓は厳しい顔で東雨を見ながら、
「わしを甘く見ないことだ、若造。伯華様を陥れようとしても、無駄だ。あの方には、わしらは愚か、臣子どのがついていらっしゃる。そう安易と鬼道な皇帝の思うようにはならんぞ」
東雨は視線を合わせることなく、慈圓の言葉を聞きながら、唇を固く閉ざした。
涼景といい、慈圓といい、皆、自分を爪弾きにする。自分とて、望んでこのような処遇に甘んじているわけではない。ただ、生まれ落ちた運命には逆らえない。それを拒むのなら、死が待っているだけだ。
拳を固く握り、東雨は慈圓を振り切るように、朱雀大路を下っていく。
「哀れな子よ。伯華様ならば、いかようにも許し、救おうとして下さるだろうに」
慈圓は深いため息をついた。東雨のような立場のものは、主人に素性が知れた時点で、暗殺される。だからこそ、周囲は気づいていようと、その身を案じるがゆえに、主人に漏らすことはない。もっとも、大概はすぐにばれて、主人から拷問を受け、殺されるのが通例だが、いかんせん、犀星はそのあたりの事情に疎い。それに加え、犀星の周囲の者たちは皆、心根が優しく、東雨を憐れみこそすれ、その命を危険に晒すことは選ばない。
「こんなにも、周りに思われていることに、まだ、気づかないのか」
東雨の後ろ姿を見送って、慈圓は首を振った。
わずか五歳の頃から、慈圓は東雨を見てきた。小さな手を腫らして、必死に力仕事をしたり、難しい書物を時間をかけて学んだり、人一倍、努力してきた姿を知っている。そうしなければ、いつ、犀星に見捨てられるかもしれないという恐怖と、不安を抱えていたのだろう。犀星の信頼を得られなければ、自分が生きていけないことを、東雨は幼いながらに身にしみて思い知っていた。
そんないたいけな姿を、五亨庵の誰もが見てきた。毎日のように顔を出していた涼景も、東雨の様子を気にかけていた。だというのに、当の本人は、そんな周囲の思いやりに気づくことはなかった。それほど、東雨が厳しい環境で洗脳されてきたことは明らかだ。いや、その支配は、今も続いているだろう。彼の雇い主は、この国の第一権力者なのだから。
と、銅鑼の音が響き、慈圓は急いで道の端に避けた。
三度目の音が響く中、門が開き、馬上の宝順が現れる。先導する近衛の中に、一際目立つ緋色の衣を纏った涼景がいる。他の近衛が甲冑である中で、一人だけ、優雅な着物の袖が風になびいた。
この時刻ならば、夜勤明け、といったところか。
慈圓はチラリと顔を上げて涼景を見た。向こうもこちらに気づいたらしく、苦笑した。
二人の仲は親密である。慈圓は元々、涼景の師の一人だった。学問一式、涼景は彼から学んだのだ。ついでに、口の悪さも受け継いでしまいおった、と慈圓は自嘲してよく笑う。今でも、涼景は困りごとがあると、この老いた文官の助けを求めにくる。
涼景が、宝順の治世に疑問を抱くきっかけは、明らかに慈圓にあるだろう。
二人は一瞬の目配せで、おおよそ、相手がどのような事情で、今、ここにいるのか、察しがついた。
宝順の方は、改めて、その祇桜という山桜ともども、犀星の様子を見ようというのだろう。
加虐趣味のいかれた小僧が……
と、慈圓は心の中で愚弄したが、表情には微塵も出さず、拝啓したまま、一行が通り過ぎるのを見送る。
災難なのは、涼景も同じだった。
昨夜から、宝順に付き合わされ、身体は疲れ切っている。
皇帝がようやく満足すると、遊び所を片付け、湯殿で身体を清め、夜明け前に帰ろうとした時、歌仙親王が来るから、と、急遽延長勤務で衣を替え(こういう場合に備えて、涼景は天輝殿の一部屋に様々な私物を預けてある)、数刻前には人に見せられるような姿ではなかったことを微塵も感じさせない、凛々しさを取り戻す。
馬上にいるのも苦しいほど、全身が痛んだが、周囲から見れば、気づきもしないだろう。ただ、宝順だけは斜め前にぴたりと馬を寄せている涼景の横顔を、楽しそうに眺めている。涼景の裏の顔を知るのは、自分だけだ。その優越感が、宝順にはたまらなく心地よい。この、人々の羨望を集める美青年の全ては、自分の手中にある。
必ず、犀星も手に入れる。そして、まだ直接会ったことがない、犀陽……玲家の跡取りも、我がものとする。精神的に支配すること。自分には逆らえぬよう、しっかりと牙も爪も抜いておかねばならない。それが、治世を保つことにつながり、繁栄への礎となる。
前方に、噂の山桜が見えてくる。だが、どうにも様子がおかしい。
宮中を巡回していた警備兵たちが、山桜の前に数名集まり、じっと枝を見上げていた。
また、その中には東雨の姿もある。
さらに遠巻きに、騒ぎを聞きつけた女官たちが、怯えたように桜を指差している。
「ここでお待ちを」
涼景は、部下の近衛に宝順を任せると、自分が先に桜の元へと駆けた。
「なんの騒ぎだ?」
「あ、仙水様!」
助かった、とばかりに、兵士たちが涼景を振り返る。
「あれ…… 夜中にここを通った時は、気づかなかったんですが……」
兵士が指差す先には、山桜の枝に、麻紐で首をくくられた鳩の死骸が一つ、かけられていた。
涙こそ流さなかったが、玲陽はその冷たい脚と嘴を自分の手で包み、温めながら、ずっと部屋の隅に座っていた。
羽毛に包まれた体は、手で温めればまだ生きているように温みをもつ。
犀星は朝から帝に呼び出され、東雨を連れて出掛けている。五亨庵には玲陽を一人にしないように、と、早くから緑権と慈圓が駆けつけてくれた。
「光理どの、大丈夫ですかね」
緑権は玲陽から離れた場所にある自分の仕事机に頬杖をつきながら、心配そうに玲陽を見つめていた。
緑権から、祇桜に関わる話を聞き出した慈圓は、昨日のうちにあらゆる方面の歴史書を宮中から探し出し、自分の机の周りに積み上げている。その一冊を緑権に差し出し、
「ぼんやりする暇があるなら、少しでもお役に立てる情報を探せ」
「探すと言ったって、文献に残ってはいない、と言ったのは、仲草(ちゅうそう)どのじゃありませんか」
「他にできることもあるまい?」
「それより、薪の調達先を考えないと…… 都の西側の林を切るという案も出ているようですが」
「あれは防風林の役割もある。どこの能無しだ、そんなことを言い出したのは」
「宝順陛下です」
「全く、ろくでもない奴が後目をつぎおって……」
「仲草どのは先代のこともよく思っていなかったですよね」
「ああ、ここ最近の宮中はどうかしておるわ。せめて、伯華様が帝位について下されば……」
「しー! そんなこと、誰かに聞かれたら、反逆者として死罪ですよ!」
「ふん。人も獣も、皆やがて死ぬ運命だ。そんな決まりきったことを恐れてどうする?」
「な、何もこんな時に言わなくても……」
緑権は、寂しそうに鳩を撫でている玲陽を見た。
反して、慈圓は普段通りの堂々とした態度で、玲陽に近づいていく。
「光理どの」
呼ばれて、玲陽は顔を上げた。
慈圓は一呼吸置いてから、
「その鳩を、どうなさるおつもりですかな?」
「どうする、とは?」
「たとえば……墓を作って埋めてやる、とか?」
「ああ、そういうことですか」
玲陽はじっと鳩を見た。
「考えていたんです。どうすることが、この鳩の命を無駄にしないかを」
「ほう。それで、案は浮かびましたか?」
「兄様にも聞いてみようと思うのですが……」
玲陽は淡々と、
「一つは、焼いて食べること。一つは、野外で獣の食糧になるよう、目につくところに置くこと。一つは、木の根本に埋めて、土に返すこと。一つは、医者に見せること」
「医者に見せる?」
慈圓は不思議そうに、
「もう、亡くなった鳩を医者に見せて、どうするのです?」
「体を開いて、中のつくりを調べて、記録してもらうんです。そうすれば、次に怪我をした鳩と出会ったとき、その医者は治すことができるかもしれない」
「これは驚いた」
慈圓は膝を打った。
「聞いたか、謀児。皇帝より賢い、将来を見通す賢人がここにもいたぞ」
「光理どのが聡いことは、とっくに知っています」
緑権は慈圓に渡された書物をぱらぱらとめくりながら、
「それより、ですね。あの桜について調べろ、と言ったのは仲草どので……」
「陽っ!」
突然、五亨庵の扉が乱暴に開けられ、血相を変えた犀星が飛び込んでくる。
「すぐに来い!」
「え?」
「いいから!」
玲陽は慌てて鳩を引き出しの藁の上に戻すと、犀星に腕を引かれて連れ出されていく。
「何があったんでしょう? あんな伯華さま、初めて見ました」
緑権が呆然と見送る。
「……桜に、何か合ったのかもしれん」
慈圓が外套を羽織って後を追う。五亨庵を無人にはできないため、緑権は一人残された。
犀星は玲陽を引きずるように急ぎ足で、小道を朱雀大路へ向かう。
「陛下が、祇桜を切ると言い出した」
「え!」
「古木ゆえ、いつ倒れてもおかしくないから、と」
「なぜ、そんなことをいきなり……」
「知らん! ただ、五亨庵へ行き来する俺たちが怪我をしないよう、まずは枝をはらって、それから幹をたち、根こそぎ取り除く、と!」
「承知したんですか?」
「するわけがないだろう! だが、俺が何を言おうと、陛下が聞くものか!」
「待って!」
玲陽は体重をかけて、犀星を引き戻した。
「おかしいです、その話!」
「え?」
犀星も、玲陽の言葉に立ち止まり、振り返った。どこか怯えたような犀星の表情に、玲陽は安心させるように両手で頬を包んだ。
「落ち着いて下さい。陛下の理屈はわかります。しかし、どうしてそれを、兄様に言ったのです? それも、朝早くに呼び出してまで」
「……それは……わからないが」
「第一、祇桜は兄様のものではありません。この宮中の木の一本にすぎない。帝がそう決めたのなら、勝手に切るはずです。わざとそんな話をするなんて、何か裏があるとは思いませんか?」
「うむ……」
「それに、いくら薪が少ないとはいえ、生木では燃えにくい。燃料対策として備蓄するにしても、時期がおかしいです」
「光理様のおっしゃる通りです」
後を追ってきた慈圓が後押しする。
「早まってはなりませんぞ。あの狸、何を考えているか知れたものではない」
慈圓にも諭され、犀星は一呼吸置いた。大切なもののためとなると、つい頭に血がのぼる犀星の悪癖は、相変わらずらしい。玲陽がふと、周囲を見回す。
「東雨どのは? 姿が見えませんが?」
「天輝殿を出てから走ってきたから、どこかではぐれたかも……」
玲陽は、助けを求めるように、慈圓を見た。この古株の文官なら、東雨の正体にも、見当がついているだろう。慈圓は、わかっています、と言わんばかりに、何度か頷いた。
玲陽は力づけるように、犀星の手を握った。
「とにかく、もう一度、陛下に頼んでもらえませんか? 祇桜には越冬芽が出ています。また、来年花を咲かせる力がある木です。せめて一度、私にその花を見せて下さい!」
玲陽の訴えに、犀星は目を瞬きながら、少しずつ気持ちを落ち着かせていく。
玲陽が何かを求めることは珍しい。その彼が言うのだから、叶えてやりたい。だが、正直に訳を話して納得してくれるとは思われない。玲陽が言うように、わざわざ、早朝に呼び出して告知したということは、こちらの出方を伺って、さらに何かを仕掛けてくる可能性もある。
「おそらく、光理どのをおびき出すつもりでしょう」
慈圓が顎髭をねじりながら、思案顔で言った。
「もし、伯華様が、従兄弟が見たがっている、と言えば、ならば直接その者が頼みに来い、と」
「陽を陛下に近づけたくはない。俺でさえ、玲家の血を引くというだけで、興味を持たれている。次期玲家当主の陽を連れて行けば、何をされるか……」
「陛下は、玲家に伝わる力に興味がおありなのでしょう?」
「ああ、おそらく。先帝もそうだった。そのために、俺の母上は……」
と、言いかけ、犀星は傀儡と化した母の恨み言を思い出し、黙り込む。
「わしも、陛下と光理どのを会わせるのは反対じゃ。何を代償に求められるか、わかったものではない」
「取引のできない相手、ということですね」
「光理どのが命と身体を捨てるというなら、話は別じゃが」
「そんなこと、絶対にさせない」
「でしょうな。だったら、落ち着いて案を練りましょう。その、祇桜とやらと、話ができると聞きましたが?」
「……慈圓、何でそのことを?」
「緑権の口を割らせるくらい、造作もない」
と、慈圓は悠々と笑った。緑権は決して口が軽い男ではなかったが、慈圓にかかればひとたまりもなかっただろう。幸い、祇桜のことだけで、傀儡についての話はしていないようだ。
「東雨どのが気になります。宮中で迷うはずもないですし」
「寄り道をするような用事は頼んでいないんだが……」
「わしが探してきましょう」
慈圓が自ら名乗りを上げる。
「お二人は、桜のそばにおいで下さい。さすがに、直接、伯華様の静止を振り切って、枝をはらったりはしないでしょう」
「わかった」
慈圓は早足で周囲を注意深く観察しながら、東雨を探しに向かう。
犀星と玲陽は、気持ちを落ち着けながら、その後を追って祇桜の所までやってきた。
「祇桜」
犀星が声をかける。玲陽はそのみきに両手を添えて、頬を寄せた。
「祇桜、私たちの声が聞こえますか?」
「……返事はない」
犀星が通訳する。玲陽は言いづらそうに、
「あなたから預かった鳩を、助けることはできませんでした。一晩中温めたのですが、今朝、亡くなりました。御免なさい」
「……え?」
犀星が驚きの声を上げる。
「兄様?」
「本気か、祇桜! それで、助かるのか?」
犀星の頭の中に、直接祇桜の声が聞こえてくる。
「そんなこと……」
「兄様? なんと?」
「陽、麻紐と鳩をここへ」
「え? 祇桜がそう、言っている」
「わ、わかりました」
玲陽は急いで五亨庵にとって返すと、鳩の死骸を再び抱き、薪を縛っていた麻紐を解いて、すぐにまた、祇桜の元へ戻ってくる。
「ここからは俺がやる。向こう、向いてろ」
「嫌です。兄様だけに背負わせることなんて、しませんから」
「陽……ありがとう」
ようやく落ち着いたのか、犀星に笑みが見られて、玲陽は胸を撫で下ろした。
その頃、東雨は天輝殿の前で、うろうろしながら、犀星が戻ってくるのを待っていた。
犀星のことだ。玲陽に泣きついて、一緒に帝に頼みにくるに違いない。そうすれば、玲陽の身と引き換えに、桜を切る計画を断念する筋書きだ。
昨日、東雨は宝順に、あの二人が山桜を大切にし、さらに何やら言葉を交わすような素振りがあることを伝えていた。犀星にとっては、山桜も、玲陽も、大切な存在であることを知ると、それを天秤にかけてみよう、という話になった。
「どちらに転んでも良い」
と、宝順は言っていた。
山桜を諦めて玲陽をとるか、玲陽を差し出して山桜を守るか、どちらにせよ、犀星を苦しめることは間違いない。
てっきり、すぐに戻ってくるものだと思っていた東雨は、犀星がなかなか姿を見せないことに焦っていた。まさか、あの強情な犀星が、あっさり引き下がったとは思えない。必ず、もう一度談判しにくるはずだ。
東雨は寒空の下、そわそわと主人を待っていた。と、見慣れた人影がこちらにやってくる。だが、それは犀星ではなく、慈圓だ。正直、東雨は何もかも見通しているこの男が苦手だった。当然、自分の裏にも勘づいているだろう。
「親王殿下なら、いくら待ってもいらっしゃらないぞ」
慈圓は、東雨が犀星を待っていたことを見越して言い放った。
「若様は、桜のこと、納得されたのですか? てっきり、また交渉に来るかと思って……」
「あの伯華様が、納得などするわけがないわ」
慈圓は厳しい顔で東雨を見ながら、
「わしを甘く見ないことだ、若造。伯華様を陥れようとしても、無駄だ。あの方には、わしらは愚か、臣子どのがついていらっしゃる。そう安易と鬼道な皇帝の思うようにはならんぞ」
東雨は視線を合わせることなく、慈圓の言葉を聞きながら、唇を固く閉ざした。
涼景といい、慈圓といい、皆、自分を爪弾きにする。自分とて、望んでこのような処遇に甘んじているわけではない。ただ、生まれ落ちた運命には逆らえない。それを拒むのなら、死が待っているだけだ。
拳を固く握り、東雨は慈圓を振り切るように、朱雀大路を下っていく。
「哀れな子よ。伯華様ならば、いかようにも許し、救おうとして下さるだろうに」
慈圓は深いため息をついた。東雨のような立場のものは、主人に素性が知れた時点で、暗殺される。だからこそ、周囲は気づいていようと、その身を案じるがゆえに、主人に漏らすことはない。もっとも、大概はすぐにばれて、主人から拷問を受け、殺されるのが通例だが、いかんせん、犀星はそのあたりの事情に疎い。それに加え、犀星の周囲の者たちは皆、心根が優しく、東雨を憐れみこそすれ、その命を危険に晒すことは選ばない。
「こんなにも、周りに思われていることに、まだ、気づかないのか」
東雨の後ろ姿を見送って、慈圓は首を振った。
わずか五歳の頃から、慈圓は東雨を見てきた。小さな手を腫らして、必死に力仕事をしたり、難しい書物を時間をかけて学んだり、人一倍、努力してきた姿を知っている。そうしなければ、いつ、犀星に見捨てられるかもしれないという恐怖と、不安を抱えていたのだろう。犀星の信頼を得られなければ、自分が生きていけないことを、東雨は幼いながらに身にしみて思い知っていた。
そんないたいけな姿を、五亨庵の誰もが見てきた。毎日のように顔を出していた涼景も、東雨の様子を気にかけていた。だというのに、当の本人は、そんな周囲の思いやりに気づくことはなかった。それほど、東雨が厳しい環境で洗脳されてきたことは明らかだ。いや、その支配は、今も続いているだろう。彼の雇い主は、この国の第一権力者なのだから。
と、銅鑼の音が響き、慈圓は急いで道の端に避けた。
三度目の音が響く中、門が開き、馬上の宝順が現れる。先導する近衛の中に、一際目立つ緋色の衣を纏った涼景がいる。他の近衛が甲冑である中で、一人だけ、優雅な着物の袖が風になびいた。
この時刻ならば、夜勤明け、といったところか。
慈圓はチラリと顔を上げて涼景を見た。向こうもこちらに気づいたらしく、苦笑した。
二人の仲は親密である。慈圓は元々、涼景の師の一人だった。学問一式、涼景は彼から学んだのだ。ついでに、口の悪さも受け継いでしまいおった、と慈圓は自嘲してよく笑う。今でも、涼景は困りごとがあると、この老いた文官の助けを求めにくる。
涼景が、宝順の治世に疑問を抱くきっかけは、明らかに慈圓にあるだろう。
二人は一瞬の目配せで、おおよそ、相手がどのような事情で、今、ここにいるのか、察しがついた。
宝順の方は、改めて、その祇桜という山桜ともども、犀星の様子を見ようというのだろう。
加虐趣味のいかれた小僧が……
と、慈圓は心の中で愚弄したが、表情には微塵も出さず、拝啓したまま、一行が通り過ぎるのを見送る。
災難なのは、涼景も同じだった。
昨夜から、宝順に付き合わされ、身体は疲れ切っている。
皇帝がようやく満足すると、遊び所を片付け、湯殿で身体を清め、夜明け前に帰ろうとした時、歌仙親王が来るから、と、急遽延長勤務で衣を替え(こういう場合に備えて、涼景は天輝殿の一部屋に様々な私物を預けてある)、数刻前には人に見せられるような姿ではなかったことを微塵も感じさせない、凛々しさを取り戻す。
馬上にいるのも苦しいほど、全身が痛んだが、周囲から見れば、気づきもしないだろう。ただ、宝順だけは斜め前にぴたりと馬を寄せている涼景の横顔を、楽しそうに眺めている。涼景の裏の顔を知るのは、自分だけだ。その優越感が、宝順にはたまらなく心地よい。この、人々の羨望を集める美青年の全ては、自分の手中にある。
必ず、犀星も手に入れる。そして、まだ直接会ったことがない、犀陽……玲家の跡取りも、我がものとする。精神的に支配すること。自分には逆らえぬよう、しっかりと牙も爪も抜いておかねばならない。それが、治世を保つことにつながり、繁栄への礎となる。
前方に、噂の山桜が見えてくる。だが、どうにも様子がおかしい。
宮中を巡回していた警備兵たちが、山桜の前に数名集まり、じっと枝を見上げていた。
また、その中には東雨の姿もある。
さらに遠巻きに、騒ぎを聞きつけた女官たちが、怯えたように桜を指差している。
「ここでお待ちを」
涼景は、部下の近衛に宝順を任せると、自分が先に桜の元へと駆けた。
「なんの騒ぎだ?」
「あ、仙水様!」
助かった、とばかりに、兵士たちが涼景を振り返る。
「あれ…… 夜中にここを通った時は、気づかなかったんですが……」
兵士が指差す先には、山桜の枝に、麻紐で首をくくられた鳩の死骸が一つ、かけられていた。
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