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第一部 星誕
第十八話 悪夢の始まり
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祇桜。
再び、突拍子もない話をしなければならない犀星たちの心中は複雑だった。
また、同時に、された緑権も反応に窮した。
決して疑う訳ではないにせよ、立て続けに夢物語を語られては、さしもの緑権も手に余るというものだ。
だが、今回の山桜の話は、緑権にも思い当たる節があった。
彼はあまり昔の話は持ち出さないのだが、一番年上の五亨庵官吏、慈圓(じえん)ならば、詳しいことを知っている、と教えてくれた。ちょうどいい所に、話題の慈圓が帰ってくる。犀星から都への薪の支給案を頼まれ、備蓄庫を訪ねに行っていた。
「全く、伯華様は老体をこき使いおるわ」
自分で言うだけあって、すでに五十を半ば以上すぎた男である。だが、犀星が選び出しただけあって、歯に衣着せぬ苦言も呈する、頼りになる五亨庵のまとめ役である。子も孫も宮中におり、慈家といえば名門に数えられる。
「お疲れ様でございました」
辛気臭くなっていた雰囲気を和らげようと、玲陽が明るく声をかけ、外套を脱ぐのを手伝いに走る。
慈圓は玲陽を大変気に入っており、自分の孫娘の婿にこないか、とまで言っている始末だ。
この老体、なかなかの曲者で、あの宝順さえ一目置いているほどだった。
「備蓄庫の様子は、いかがでしたか?」
玲陽が外套の雫を払いながら尋ねる。
「いかがも何もないわ。奴ら、金でしか動かん。全く、昔は情けというものがあったものだが、今の連中ときたら、帳簿がどうの、管理がどうの、準列がどうの、と、人の心を母親の腹の中に置き忘れてきおった奴ばかりで……」
慈圓の愚痴が続く中、いつもなら苦笑くらいは浮かべる緑権まで、今日はぼんやりとしているだけだ。
「どうした? 留守中に何かあったか?」
「え、ええと……」
玲陽がちらりと犀星を見る。
犀星は炉の前の引き出しを指した。
「陽が鳩を拾ってきた」
いや、その話じゃないでしょう、と、緑権が肩を落とす。わざとなのか天然なのか、犀星は時折、的外れなことを言い出す。
「鳩?」
慈圓は焚き付けの藁の中で、じっと目を瞑っているおとなしい灰鳩を見た。
「ほう。どこぞの屋根裏から落ちたか、仲間とはぐれたか」
「翼を怪我しているんです。多分、永くは持たないと思うのですが……」
玲陽がかがみ込んで様子を見る。
「どれ」
慈圓は興味深そうに、鳩を観察し始めた。熱心なのはいいが、彼はこだわると時間を忘れる癖がある。
「慈圓、聞きたいことがある」
「鳩のことならよく知らんです」
「いや、桜のことだ」
「桜?」
慈圓は振り返った。
三人を順に見回し、何やら普段より深刻そうな顔をしていることに気づく。
「桜とは……もしや、そこの山桜のことですかな?」
「ああ、よくわかったな」
犀星は頷いた。
「あれには、色々因縁がありますからなぁ」
卓を囲んで座ると、改めて犀星が口を開いた。
「あの桜は、随分年数がたっているようだが、いつからあるか、知っているか?」
「さて。わしが生まれる前、ということは確かですが……」
「それくらいは想像できます」
緑権が口を挟む。
「ここに都が移ったのが百五十年ほど昔ですから、その間でしょうな」
「それくらいは想像できます」
緑権は同じことを繰り返した。
「あの木にまつわる言われなどを知っていたら、教えてほしいのだが」
犀星が、具体的に話題を絞った。
「言われ……ですか」
途端に、慈圓の表情が暗くなる。他の三人は顔を見合わせた。
「あれは、人喰い桜と呼ばれていた時期がありまして……」
「!」
玲陽が、そっと犀星の手を卓の下で握った。黙って握り返すと、犀星は得意の感情を消した顔で、
「桜が人を食うと?」
「いや、まさか!」
慈圓は笑い飛ばしたが、すぐに神妙な表情を浮かべる。
「わしも伝え聞いた話ですが……都がこの地に建設されたとき、ちょうどあの桜のあたりが、皇帝の住まいどころだったそうです。しかし、当時はまだ政権が安定しておらず、身内でのいざこざも多く、兄弟で争った結果、初代の皇帝は弟に惨殺され、帝の住まいは今の天輝殿へ、新たに建て直されといいます」
「当初、内紛が続いていたという話は聞いたことがあったが、あの桜の場所に、旧御所が?」
「ええ。御所は取り壊されましたが、その後、夜な夜な怪異が出るとの噂が広まり、殺された初代皇帝の恨みではないかと恐れられまして……」
ぎゅっと、犀星が玲陽と指を絡ませ、強く握る。こういう話をするときは、よく近くの傀儡が吸い寄せられてくることがある。自分は声だけだが、玲陽には、いつ、どんな姿の傀儡が見えてもおかしくはない。怖がることはしないが、警戒だけは怠らない。
「そんなことがありまして」
と、慈圓は続けた。
「鎮魂の意味も込めて、あの桜を植えたそうです」
「そ、それから、怪異は出なくなったのですか?」
緑権はこの手の話が苦手と見えて、すっかり怯えている。毎日、その桜の前を行き来しているのだから、今後の彼の心中が心配になるほどだ。
「まぁ、怪異はおさまったようなのですが、成長したあの桜の枝で、首を吊る者が幾人も……」
緑権が大人気なく耳を塞いで悲鳴を上げた。よほど、苦手らしい。
「それで、人喰い桜と?」
冷静に、犀星が言う。
「まぁ、ちょうど人目について、すぐに見つけてもらえる場所に、手頃な木の枝があった、と言うだけのことだと思いますが」
あっさりと言い放って、慈圓は茶をすすった。別段、恐れている風でもない。
「そ、それで?」
怖がりながらも気になるらしく、緑権は続きを求めた。
「まぁ、そういう噂は尾鰭がつくもの。桜の呪いだの、皇帝の祟りだの、色々言われたようですが、五、六年もした頃、一人の霊媒師が都を訪れまして、その者が呪いをしようとしましたが失敗し、結局、その霊媒師も枝で首を吊ったと。ところが、その翌日、春でもないのに瞬く間に蕾が噴き出し、花が咲き、次の春まで半年ほど、満開のままだったそうです。それ以来、あの木で首をくくる者もなく、いつしか、神木とさえ言われるようになったとか。まぁ、人間なんてのは勝手ですから、呪いだなんだと嫌っておいて、不思議なことがあると、途端に手のひらを返したようにありがたがる、そんな話ですわ」
興味深そうに聞き入っていた玲陽が、不意に口を開いた。
「その、旅の霊媒師、名前をご記憶でしょうか?」
「名前ですか? さぁ、かれこれ、百年ほど前のことですから……」
「歴史書に記録は?」
「今、わしが話したのは、ただの伝承ですじゃ。物語にでもして残す物好きがいれば別ですが、公式には残りませんな」
「そうですか……」
目を伏せて考え込んだ玲陽を、犀星が覗き込む。
「何か、心当たりが?」
「私の……玲家の先祖に、百年ほど前、一族を勘当された男性がいます。その人の名前が、玲祇桜と……」
「そういえば、あの木の名前を聞いたときも、お前は考え込んでいたな」
犀星が思い出しながら、玲陽の手を自分の膝の上に引き寄せる。
「何の話です?」
自分だけ、情報が足りない気がして、慈圓が首を傾げる。
「ああ、お茶が切れますね、お継ぎいたしましょう」
身を乗り出した慈圓を、緑権が止める。
「あの桜が気になるとは、やはり親子ですな」
「え?」
犀星と玲陽が、同時に慈圓を見た。
二人に見つめられて、慈圓は少々照れ臭そうに、
「いや、お二人のお母上、玲心様と玲芳様も、よくあの木を愛でていらっしゃったもので……」
「母上が!」
犀星と玲陽の声が重なる。
玲家の血をひく者が皆、心を寄せるとなれば、やはり何らかの繋がりがあるに違いない。
「私、祇桜に直接聞いてきます!」
玲陽は立ち上がると、繋いでいた手に引かれて、犀星が身を崩す。
「おい、ちょっと待て! 陽! 一人じゃ危ない!」
「危ない? 何かあるのか?」
残された緑権には、慈圓を誤魔化しきる自信はない。
「さ、さぁ、何でしょう? 私にはさっぱり……」
緑権は背中を丸めて炉の前に座り込み、口を閉ざしてそれ以上何も言わないことに徹しようとしたが、老獪には敵わず、祇桜について知りうることを全て、白状させられた。
雪の舞い散る中を、外套も羽織らずに玲陽は祇桜まで駆けた。
「祇桜!」
桜の幹に取りつき、枝を見上げる。
その肩を、追いかけてきた犀星が後ろから抱きしめる。
「星、この木に宿っている人は……」
「おそらく、俺たちの先祖だろう」
犀星は、小道から五亨庵への領域が、宮中のどこよりも清浄化している理由がわかった気がした。
「この木に宿って、この地の傀儡を浄化し続けていた……百年の間、ずっと……」
「優しい」
玲陽は、冷たい幹に頬擦りした。犀星も、玲陽の体ごと抱き抱えるように、古木に腕を回す。
「辛かったでしょうに……それだけの傀儡を取り込んで、どれだけ苦しかったか……」
「母上にも、叔母上にも、それがわかったのだろうな。命をかけて、今も、ここを守っている」
「だから、この場所は綺麗なんですね。私にはできない。百年もの間、たった一人で喰らい続ける苦しみなんて……気が狂ってしまう……」
「俺が初めて宮中に上がったとき、この木の下で涼景と出会ったと話したことがあったな」
「はい」
「あの時、俺もお前のように、この木に惹かれ、身を預けていた。俺たちにとって、この木は、ただの山桜じゃない。ずっと、玲家を、迷う者を守り、救ってきたんだ」
「祇桜……いえ、玲祇桜様……私たちを、どうか、お導きください」
犀星は耳を澄ませるように、気持ちを統一した。
だが、返答はない。玲陽にも、何も答えは聞こえない。
ただ、強い風が吹いても、微動だに揺れ動かない枝先は、強くあれ、と告げているかのように、二人には思われるのだった。
「星。何があっても、私は負けません」
「ああ。俺もだ。祇桜に恥じぬ一生を約束する」
「共に参ります」
「勿論だ」
犀星は強く玲陽を抱きしめた。
見上げる曇天に、桜の枝先がはっきりと映し出される。そこには越冬芽がすでに膨らみ初め、厳しい冬を前に、その先の春を信じる命が宿っている。自分達も同じだ。祇桜は一人で耐えたのだ。自分達が耐えられずしてどうする?
玲陽を抱き、祇桜に誓う犀星の眼差しには、今までにない、強い力が込められていた。自分のするべきことを貫く覚悟が、ありありと滲んでいた。
この国を変える。
自分が今、この場所にいる意味は、ただ、その一点である。
本降りになってきた雪の中、五亨庵を飛び出した東雨は、荷車の調達より先に、天輝殿へ向かった。
今頃、玲陽はどうしているだろう。
犀星の申し出を断りはしたが、あの二人を一緒にさせておくこと自体が、何か嫌な気持ちにさせる。自分がこんなに嫉妬深いとは、東雨自身、気づきもしなかった。玲陽さえ現れなければ、そんな自分を知らずに済んだものを。優秀な間者として、皇帝の信頼を得ていくことができたはずだった。
だが、今、自分の心は無様に揺れ動いている。犀星や玲陽の動きを密告しながらも、どこかで居場所のない自分を感じている。皇帝のために働けるのは名誉であると、教えられてきた。それが叶ったというのに、なぜ、こんなに心が重いのだろう。
天輝殿の護衛たちは、東雨が一人である時は、無言で通らせる。ここの兵士たちは、皆、宝順に逆らうことのない、裏の状況を知り尽くしている者たちだ。
東雨の立場は、第四親王付きの侍従であり、本来であれば、単独で天輝殿に参上できるものではない。親王の供としてか、または親王からの許可証がなければ、門を通されることはない。
寒さのため、皆が部屋にこもり、閑散とした廊下を、東雨は堂々と歩いていく。
時折すれ違う女中は、皆、東雨に道を開け、立ち止まって会釈をする。彼が皇帝と繋がっていることを、彼女たちも知っていた。ここでは、彼の身分は誰よりも高い。
東雨は真っ直ぐに謁見室へ向かった。
先客があったらしく、中から話し声が聞こえる。一方は宝順のものだ。それに答えているのは、涼景らしい。
近衛である涼景が帝の側に常駐しているのは、主に夜間だ。この時刻にいるということは、何か報告か相談事だろう。内容が気にならない訳ではないが、部屋に近づけば、勘のいい涼景に見破られるのは目に見えている。
東雨は瞬時に、その場を離れ、帰る涼景と鉢合わせしないよう、更に奥の廊下のかげに潜んだ。中庭に面した廊下は外と同じで、酷く冷える。
しばらくすると、扉の開閉する音と、涼景の挨拶とが聞こえてきた。東雨は息を殺した。自分が一人でここにいる理由などない。しかも、涼景には自分の素性を掴まれている。余計な揉め事にならぬよう、接触は避けたかった。
涼景が立ち去ってから、と、じっと時を待っていた東雨は、足音がしないことを不審に思った。
扉を閉めたのだから、当然、その場から立ち去るはずだ。だが、涼景が動いた音が聞こえない。嫌な予感がして、東雨は深く深呼吸をした。気づかれるはずがない。
心の中で、ゆっくりと百まで数えて、東雨は目を開けた。
自分に聞こえなかっただけで、涼景はもう、去っているだろう。これだけ時間がたったのだから。
東雨はそっと、廊下の角から謁見室の前を覗いた。
「!」
目の前で、涼景が腕組みをしながら、じっと自分を見ていた。
「俺が近づいたことにも気づかないとは…… そんな状態では、星たちを任せてはおけないな」
「な、なぜ?」
「なぜ、気付いたか、と?」
涼景はにこりともせずに、静かな声色で、
「わずかだが、五亨庵で炊く香の匂いがした。それから、水滴が廊下にいくつか落ちていた。雪が溶けたものだろう。外から誰かが入ってきた証拠だ。それが星だとすれば、謁見中とはいえ、相手が俺なら無遠慮に扉を開けたはず。それをせずに、身を隠す者がいるとすればお前だけだ」
「……さすがは、燕涼景だ」
東雨は開き直った。
「やっぱり、あんたには敵わないや」
「東雨」
涼景は厳しい顔のまま、少年を見つめた。
「そんな目で見るなよ」
十六歳の少年とは思えない、ふてぶてしさで、東雨は頭の後ろで手を組むと、柱にもたれて涼景の視線を受け止めた。
「ここで俺を斬るか?」
「…………」
「できないよな。そう、あんたには何もできない。若様に真実を伝えることも、俺を止めることも。ただ、見ていることしかできない」
「なぜわからない? お前は利用されているだけだ」
「だから?」
「東雨」
「だったらどうだっていうんだ? 俺にはこうして生きる他に道はない。あんただって似たようなものだろ」
吐き捨てた東雨の言葉に、涼景は動じなかった。ただ、互いに視線を外すことはない。
「東雨、お前をずっと見てきた。最近のお前は自分の感情に戸惑って、迷いを抱え始めた。このままでは、遅かれ早かれ、もたなくなる」
「別に。俺はずっと俺のままだ。やることをやる。忠義を尽くす。私情なんてない」
「強がるな。何もかも台無しにする前に、考え直せ」
「何を考えると?」
笑い飛ばしたが、東雨の強気はそこまでだった。
「じゃ、俺は俺の『仕事』があるので」
逃げたい気持ちを押し殺し、余裕のある素振りで涼景の前を通り過ぎ、謁見室へ向かって背を向けた東雨に、
「気付いているのだろう?」
涼景が低く言った。
「これ以上、抱え続けることはやめろ。壊れるぞ」
「…………」
「星なら、全てを受け入れるだろう。お前から話せ」
「……あんたに……何がわかる!」
「お前のことはわからない。だが、似たような奴は見てきた。今ならまだ、間に合う」
「……俺は、誰とも違う」
東雨は振り返ることができなかった。背後に感じる涼景の気迫は、圧倒的だ。今、目が合えば自分は負ける。完全に心を見透かされている。怖いほどに、自分の心理を掴まれている。
まるで逃げ込むように、東雨は謁見室へと姿を消した。
再び、突拍子もない話をしなければならない犀星たちの心中は複雑だった。
また、同時に、された緑権も反応に窮した。
決して疑う訳ではないにせよ、立て続けに夢物語を語られては、さしもの緑権も手に余るというものだ。
だが、今回の山桜の話は、緑権にも思い当たる節があった。
彼はあまり昔の話は持ち出さないのだが、一番年上の五亨庵官吏、慈圓(じえん)ならば、詳しいことを知っている、と教えてくれた。ちょうどいい所に、話題の慈圓が帰ってくる。犀星から都への薪の支給案を頼まれ、備蓄庫を訪ねに行っていた。
「全く、伯華様は老体をこき使いおるわ」
自分で言うだけあって、すでに五十を半ば以上すぎた男である。だが、犀星が選び出しただけあって、歯に衣着せぬ苦言も呈する、頼りになる五亨庵のまとめ役である。子も孫も宮中におり、慈家といえば名門に数えられる。
「お疲れ様でございました」
辛気臭くなっていた雰囲気を和らげようと、玲陽が明るく声をかけ、外套を脱ぐのを手伝いに走る。
慈圓は玲陽を大変気に入っており、自分の孫娘の婿にこないか、とまで言っている始末だ。
この老体、なかなかの曲者で、あの宝順さえ一目置いているほどだった。
「備蓄庫の様子は、いかがでしたか?」
玲陽が外套の雫を払いながら尋ねる。
「いかがも何もないわ。奴ら、金でしか動かん。全く、昔は情けというものがあったものだが、今の連中ときたら、帳簿がどうの、管理がどうの、準列がどうの、と、人の心を母親の腹の中に置き忘れてきおった奴ばかりで……」
慈圓の愚痴が続く中、いつもなら苦笑くらいは浮かべる緑権まで、今日はぼんやりとしているだけだ。
「どうした? 留守中に何かあったか?」
「え、ええと……」
玲陽がちらりと犀星を見る。
犀星は炉の前の引き出しを指した。
「陽が鳩を拾ってきた」
いや、その話じゃないでしょう、と、緑権が肩を落とす。わざとなのか天然なのか、犀星は時折、的外れなことを言い出す。
「鳩?」
慈圓は焚き付けの藁の中で、じっと目を瞑っているおとなしい灰鳩を見た。
「ほう。どこぞの屋根裏から落ちたか、仲間とはぐれたか」
「翼を怪我しているんです。多分、永くは持たないと思うのですが……」
玲陽がかがみ込んで様子を見る。
「どれ」
慈圓は興味深そうに、鳩を観察し始めた。熱心なのはいいが、彼はこだわると時間を忘れる癖がある。
「慈圓、聞きたいことがある」
「鳩のことならよく知らんです」
「いや、桜のことだ」
「桜?」
慈圓は振り返った。
三人を順に見回し、何やら普段より深刻そうな顔をしていることに気づく。
「桜とは……もしや、そこの山桜のことですかな?」
「ああ、よくわかったな」
犀星は頷いた。
「あれには、色々因縁がありますからなぁ」
卓を囲んで座ると、改めて犀星が口を開いた。
「あの桜は、随分年数がたっているようだが、いつからあるか、知っているか?」
「さて。わしが生まれる前、ということは確かですが……」
「それくらいは想像できます」
緑権が口を挟む。
「ここに都が移ったのが百五十年ほど昔ですから、その間でしょうな」
「それくらいは想像できます」
緑権は同じことを繰り返した。
「あの木にまつわる言われなどを知っていたら、教えてほしいのだが」
犀星が、具体的に話題を絞った。
「言われ……ですか」
途端に、慈圓の表情が暗くなる。他の三人は顔を見合わせた。
「あれは、人喰い桜と呼ばれていた時期がありまして……」
「!」
玲陽が、そっと犀星の手を卓の下で握った。黙って握り返すと、犀星は得意の感情を消した顔で、
「桜が人を食うと?」
「いや、まさか!」
慈圓は笑い飛ばしたが、すぐに神妙な表情を浮かべる。
「わしも伝え聞いた話ですが……都がこの地に建設されたとき、ちょうどあの桜のあたりが、皇帝の住まいどころだったそうです。しかし、当時はまだ政権が安定しておらず、身内でのいざこざも多く、兄弟で争った結果、初代の皇帝は弟に惨殺され、帝の住まいは今の天輝殿へ、新たに建て直されといいます」
「当初、内紛が続いていたという話は聞いたことがあったが、あの桜の場所に、旧御所が?」
「ええ。御所は取り壊されましたが、その後、夜な夜な怪異が出るとの噂が広まり、殺された初代皇帝の恨みではないかと恐れられまして……」
ぎゅっと、犀星が玲陽と指を絡ませ、強く握る。こういう話をするときは、よく近くの傀儡が吸い寄せられてくることがある。自分は声だけだが、玲陽には、いつ、どんな姿の傀儡が見えてもおかしくはない。怖がることはしないが、警戒だけは怠らない。
「そんなことがありまして」
と、慈圓は続けた。
「鎮魂の意味も込めて、あの桜を植えたそうです」
「そ、それから、怪異は出なくなったのですか?」
緑権はこの手の話が苦手と見えて、すっかり怯えている。毎日、その桜の前を行き来しているのだから、今後の彼の心中が心配になるほどだ。
「まぁ、怪異はおさまったようなのですが、成長したあの桜の枝で、首を吊る者が幾人も……」
緑権が大人気なく耳を塞いで悲鳴を上げた。よほど、苦手らしい。
「それで、人喰い桜と?」
冷静に、犀星が言う。
「まぁ、ちょうど人目について、すぐに見つけてもらえる場所に、手頃な木の枝があった、と言うだけのことだと思いますが」
あっさりと言い放って、慈圓は茶をすすった。別段、恐れている風でもない。
「そ、それで?」
怖がりながらも気になるらしく、緑権は続きを求めた。
「まぁ、そういう噂は尾鰭がつくもの。桜の呪いだの、皇帝の祟りだの、色々言われたようですが、五、六年もした頃、一人の霊媒師が都を訪れまして、その者が呪いをしようとしましたが失敗し、結局、その霊媒師も枝で首を吊ったと。ところが、その翌日、春でもないのに瞬く間に蕾が噴き出し、花が咲き、次の春まで半年ほど、満開のままだったそうです。それ以来、あの木で首をくくる者もなく、いつしか、神木とさえ言われるようになったとか。まぁ、人間なんてのは勝手ですから、呪いだなんだと嫌っておいて、不思議なことがあると、途端に手のひらを返したようにありがたがる、そんな話ですわ」
興味深そうに聞き入っていた玲陽が、不意に口を開いた。
「その、旅の霊媒師、名前をご記憶でしょうか?」
「名前ですか? さぁ、かれこれ、百年ほど前のことですから……」
「歴史書に記録は?」
「今、わしが話したのは、ただの伝承ですじゃ。物語にでもして残す物好きがいれば別ですが、公式には残りませんな」
「そうですか……」
目を伏せて考え込んだ玲陽を、犀星が覗き込む。
「何か、心当たりが?」
「私の……玲家の先祖に、百年ほど前、一族を勘当された男性がいます。その人の名前が、玲祇桜と……」
「そういえば、あの木の名前を聞いたときも、お前は考え込んでいたな」
犀星が思い出しながら、玲陽の手を自分の膝の上に引き寄せる。
「何の話です?」
自分だけ、情報が足りない気がして、慈圓が首を傾げる。
「ああ、お茶が切れますね、お継ぎいたしましょう」
身を乗り出した慈圓を、緑権が止める。
「あの桜が気になるとは、やはり親子ですな」
「え?」
犀星と玲陽が、同時に慈圓を見た。
二人に見つめられて、慈圓は少々照れ臭そうに、
「いや、お二人のお母上、玲心様と玲芳様も、よくあの木を愛でていらっしゃったもので……」
「母上が!」
犀星と玲陽の声が重なる。
玲家の血をひく者が皆、心を寄せるとなれば、やはり何らかの繋がりがあるに違いない。
「私、祇桜に直接聞いてきます!」
玲陽は立ち上がると、繋いでいた手に引かれて、犀星が身を崩す。
「おい、ちょっと待て! 陽! 一人じゃ危ない!」
「危ない? 何かあるのか?」
残された緑権には、慈圓を誤魔化しきる自信はない。
「さ、さぁ、何でしょう? 私にはさっぱり……」
緑権は背中を丸めて炉の前に座り込み、口を閉ざしてそれ以上何も言わないことに徹しようとしたが、老獪には敵わず、祇桜について知りうることを全て、白状させられた。
雪の舞い散る中を、外套も羽織らずに玲陽は祇桜まで駆けた。
「祇桜!」
桜の幹に取りつき、枝を見上げる。
その肩を、追いかけてきた犀星が後ろから抱きしめる。
「星、この木に宿っている人は……」
「おそらく、俺たちの先祖だろう」
犀星は、小道から五亨庵への領域が、宮中のどこよりも清浄化している理由がわかった気がした。
「この木に宿って、この地の傀儡を浄化し続けていた……百年の間、ずっと……」
「優しい」
玲陽は、冷たい幹に頬擦りした。犀星も、玲陽の体ごと抱き抱えるように、古木に腕を回す。
「辛かったでしょうに……それだけの傀儡を取り込んで、どれだけ苦しかったか……」
「母上にも、叔母上にも、それがわかったのだろうな。命をかけて、今も、ここを守っている」
「だから、この場所は綺麗なんですね。私にはできない。百年もの間、たった一人で喰らい続ける苦しみなんて……気が狂ってしまう……」
「俺が初めて宮中に上がったとき、この木の下で涼景と出会ったと話したことがあったな」
「はい」
「あの時、俺もお前のように、この木に惹かれ、身を預けていた。俺たちにとって、この木は、ただの山桜じゃない。ずっと、玲家を、迷う者を守り、救ってきたんだ」
「祇桜……いえ、玲祇桜様……私たちを、どうか、お導きください」
犀星は耳を澄ませるように、気持ちを統一した。
だが、返答はない。玲陽にも、何も答えは聞こえない。
ただ、強い風が吹いても、微動だに揺れ動かない枝先は、強くあれ、と告げているかのように、二人には思われるのだった。
「星。何があっても、私は負けません」
「ああ。俺もだ。祇桜に恥じぬ一生を約束する」
「共に参ります」
「勿論だ」
犀星は強く玲陽を抱きしめた。
見上げる曇天に、桜の枝先がはっきりと映し出される。そこには越冬芽がすでに膨らみ初め、厳しい冬を前に、その先の春を信じる命が宿っている。自分達も同じだ。祇桜は一人で耐えたのだ。自分達が耐えられずしてどうする?
玲陽を抱き、祇桜に誓う犀星の眼差しには、今までにない、強い力が込められていた。自分のするべきことを貫く覚悟が、ありありと滲んでいた。
この国を変える。
自分が今、この場所にいる意味は、ただ、その一点である。
本降りになってきた雪の中、五亨庵を飛び出した東雨は、荷車の調達より先に、天輝殿へ向かった。
今頃、玲陽はどうしているだろう。
犀星の申し出を断りはしたが、あの二人を一緒にさせておくこと自体が、何か嫌な気持ちにさせる。自分がこんなに嫉妬深いとは、東雨自身、気づきもしなかった。玲陽さえ現れなければ、そんな自分を知らずに済んだものを。優秀な間者として、皇帝の信頼を得ていくことができたはずだった。
だが、今、自分の心は無様に揺れ動いている。犀星や玲陽の動きを密告しながらも、どこかで居場所のない自分を感じている。皇帝のために働けるのは名誉であると、教えられてきた。それが叶ったというのに、なぜ、こんなに心が重いのだろう。
天輝殿の護衛たちは、東雨が一人である時は、無言で通らせる。ここの兵士たちは、皆、宝順に逆らうことのない、裏の状況を知り尽くしている者たちだ。
東雨の立場は、第四親王付きの侍従であり、本来であれば、単独で天輝殿に参上できるものではない。親王の供としてか、または親王からの許可証がなければ、門を通されることはない。
寒さのため、皆が部屋にこもり、閑散とした廊下を、東雨は堂々と歩いていく。
時折すれ違う女中は、皆、東雨に道を開け、立ち止まって会釈をする。彼が皇帝と繋がっていることを、彼女たちも知っていた。ここでは、彼の身分は誰よりも高い。
東雨は真っ直ぐに謁見室へ向かった。
先客があったらしく、中から話し声が聞こえる。一方は宝順のものだ。それに答えているのは、涼景らしい。
近衛である涼景が帝の側に常駐しているのは、主に夜間だ。この時刻にいるということは、何か報告か相談事だろう。内容が気にならない訳ではないが、部屋に近づけば、勘のいい涼景に見破られるのは目に見えている。
東雨は瞬時に、その場を離れ、帰る涼景と鉢合わせしないよう、更に奥の廊下のかげに潜んだ。中庭に面した廊下は外と同じで、酷く冷える。
しばらくすると、扉の開閉する音と、涼景の挨拶とが聞こえてきた。東雨は息を殺した。自分が一人でここにいる理由などない。しかも、涼景には自分の素性を掴まれている。余計な揉め事にならぬよう、接触は避けたかった。
涼景が立ち去ってから、と、じっと時を待っていた東雨は、足音がしないことを不審に思った。
扉を閉めたのだから、当然、その場から立ち去るはずだ。だが、涼景が動いた音が聞こえない。嫌な予感がして、東雨は深く深呼吸をした。気づかれるはずがない。
心の中で、ゆっくりと百まで数えて、東雨は目を開けた。
自分に聞こえなかっただけで、涼景はもう、去っているだろう。これだけ時間がたったのだから。
東雨はそっと、廊下の角から謁見室の前を覗いた。
「!」
目の前で、涼景が腕組みをしながら、じっと自分を見ていた。
「俺が近づいたことにも気づかないとは…… そんな状態では、星たちを任せてはおけないな」
「な、なぜ?」
「なぜ、気付いたか、と?」
涼景はにこりともせずに、静かな声色で、
「わずかだが、五亨庵で炊く香の匂いがした。それから、水滴が廊下にいくつか落ちていた。雪が溶けたものだろう。外から誰かが入ってきた証拠だ。それが星だとすれば、謁見中とはいえ、相手が俺なら無遠慮に扉を開けたはず。それをせずに、身を隠す者がいるとすればお前だけだ」
「……さすがは、燕涼景だ」
東雨は開き直った。
「やっぱり、あんたには敵わないや」
「東雨」
涼景は厳しい顔のまま、少年を見つめた。
「そんな目で見るなよ」
十六歳の少年とは思えない、ふてぶてしさで、東雨は頭の後ろで手を組むと、柱にもたれて涼景の視線を受け止めた。
「ここで俺を斬るか?」
「…………」
「できないよな。そう、あんたには何もできない。若様に真実を伝えることも、俺を止めることも。ただ、見ていることしかできない」
「なぜわからない? お前は利用されているだけだ」
「だから?」
「東雨」
「だったらどうだっていうんだ? 俺にはこうして生きる他に道はない。あんただって似たようなものだろ」
吐き捨てた東雨の言葉に、涼景は動じなかった。ただ、互いに視線を外すことはない。
「東雨、お前をずっと見てきた。最近のお前は自分の感情に戸惑って、迷いを抱え始めた。このままでは、遅かれ早かれ、もたなくなる」
「別に。俺はずっと俺のままだ。やることをやる。忠義を尽くす。私情なんてない」
「強がるな。何もかも台無しにする前に、考え直せ」
「何を考えると?」
笑い飛ばしたが、東雨の強気はそこまでだった。
「じゃ、俺は俺の『仕事』があるので」
逃げたい気持ちを押し殺し、余裕のある素振りで涼景の前を通り過ぎ、謁見室へ向かって背を向けた東雨に、
「気付いているのだろう?」
涼景が低く言った。
「これ以上、抱え続けることはやめろ。壊れるぞ」
「…………」
「星なら、全てを受け入れるだろう。お前から話せ」
「……あんたに……何がわかる!」
「お前のことはわからない。だが、似たような奴は見てきた。今ならまだ、間に合う」
「……俺は、誰とも違う」
東雨は振り返ることができなかった。背後に感じる涼景の気迫は、圧倒的だ。今、目が合えば自分は負ける。完全に心を見透かされている。怖いほどに、自分の心理を掴まれている。
まるで逃げ込むように、東雨は謁見室へと姿を消した。
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