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第一部 星誕

第二話 星と太陽の邂逅

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 翌朝、まだ朝靄が立ち込める時刻、犀家の外門の前で犀星はじっと門の木肌にもたれ、硬く腕を組んで足元を睨みつけていた。
 かすかな馬蹄が徐々に霧の奥から近づいてくる。
「随分、早いな、涼景」
 門前で馬を止めたのは、昨夜別れた、燕涼景である。暁将軍とまで呼ばれるほど上り詰めた若き男は、その屈強な体躯を柔らかな墨染めで包んでいた。わざと着崩した胸元から、筋肉の浮く厚い胸板が覗く。堅苦しい宮廷にありながら、本来の彼は山育ちの豪快な男である。
「お前こそ、俺がくるのを知っていたようじゃないか」
 燕涼景は馬を犀家の馬丁に預けると、枯れ草を踏み締めて犀星に近づいた。
「将軍様はせっかちだからな」
「親王様にはかなわないさ」
「……春は?」
「……ああ、体調は落ち着いている」
 ちら、と燕涼景は視線を逸らした。
「お前こそ、気持ちの整理はついたのかよ?」
 将軍の問いかけに、犀星はしばし沈黙した。視線がまた、地面に刺さる。
「涼景」
「あん?」
「もしもの時は、俺を切り捨てる約束、反故にするなよ」
「わかっている。山賊の中に丸腰で放り込んで、眺めていてやるよ」
「自ら手は汚さないつもりか」
 フッと鋭い笑みが犀星の唇を歪める。
「俺の血は、随分と汚れているからな」
「星! それを言うな。お前の悪い癖だ。すぐに命を粗末にする」
「だって、そうだろう? 俺は……」
「冷静になれ」
「俺は落ち着いている」
「いいや!」
 涼景は犀星の襟元を無遠慮に片手で掴み上げると、顔を仰向かせた。
「お前は、怯えているんだ」
「…………」
「東雨はどうした?」
 近づいた顔を背けて、犀星は黙った。抵抗する気はないらしい。
「あいつを連れて行けないのは、怯えている証拠だ。自分がどんな無様な姿を晒すか、自信がないからだ。違うか?」
「……手を、離してくれないか。苦しい」
 数秒、犀星を睨みつけ、やがて静かに涼景は親王を解放した。
「お前だって、春と何かあったんだろう?」
 乱れた襟を正しながら、犀星が呟く。
「だから、顔を合わせないように、こんなに早くに屋敷を出てきた。お互い様だ」
 涼景は否定も肯定もせず、ただ一度、長く息を吐き出した。
「俺のことはどうでもいい。今は、お前だ。行くぞ」
 涼景は振り返りもせずに、細い道を草を分けて歩き始める。数歩を空けて、犀星もそれに続いた。
 この一帯は、起伏が多い地形のため、各所に地滑りの跡が残されている。だが、よほど山歩きに慣れているのか、二人の足取りは確かなものであった。涼景は五歳まで、そして犀星は十五になるまで、ここで育った。
 犀家の小高い丘は、すぐになだらかな草原へと続き、その先に、細い川が流れている。川の水は西側にそびえる山からの滝から下ってきたものだ。この河原は、犀星と、そしてこれから訪ねようとしている、彼の幼馴染の遊び場だった。滝壺は思いのほか深かったが、その裏には小さな洞窟があり、絶好の隠れ家だった。
 同時に、この川は、犀家と領地を接する玲家との、境界でもある。子供の足でも容易に行き来することができる場所に、玲家の屋敷があった。
 玲一族は、今の王朝が建設されるはるか前から、一帯を牛耳っていた旧家である。肥沃な土地が多く、農業を中心として、地域の食糧庫という役割を担っていた。この歌仙地方の有力豪族として、今なお、都にもその存在は伝えられている。
 玲一族が、今の王朝下でもその権勢を保っている要因の一つには、家にまつわる言われがあった。
 玲家の女児には、代々、不思議な力が宿り、魔を滅するという。そのため、男児よりも女児を重んじる、他家にはない慣習が根付いていた。それは同時に、彼女たちにとって幸運でもあり、不幸の種ともなり得た。
  犀星の母、玲心(れいしん)は、この家の出である。帝が、偶然目にした玲心を、夫と離縁させてまで妾にしたのは、その血を欲してのことであった。そんな因縁の末に生まれたのが、犀星である。
「なぁ」
 沈黙に耐えかねて、犀星が涼景の背中に声をかけた。
「お前、最近、何度か、あいつに会っているんだろ?」
「いや。お前から話は聞いていたから、会おうとはしたさ」
「隠すなよ」
「隠していない。本当に会えなかったんだ」
 道幅が広くなったところで、犀星は涼景に並んだ。
「会えなかった、ってどういうことだ? 向こうが断ってきたのか?」
「そんなところだ」
 腑に落ちない、と、犀星は苛ついたように首を振った。だが、涼景が嘘を言っているようには思われない。
「ちゃんと、犀伯華の要件で訪ねた、と伝えた。俺の素性も明かした。それでも、屋敷には入れてもらえなかった」
「……俺がいない間に、状況は悪化したようだな」
「好転するはずがない」
 容赦無く、涼景は言った。
「お前が庇っていたから、あいつはまだ、まともに扱ってもらえたんだ。そのお前が都に出れば、残されたあいつを、誰が守る?」
「叔母上がいる」
「あいつの母親か。無理だな」
 川にかかる軋む橋を渡りながら、涼景は一際大きな玲家の本宅に目を向けた。
「父無し子を産んだ上、実の兄に娶られた芳(ほう)夫人に、何の力がある? 先帝の落胤であるお前がいたからこそ、あいつはまだ、守られていたんだ」
 涼景の言葉は一つ一つが、犀星の心に突き刺さっていく。十年前、現在の帝である宝順帝の命令で、都に召し上げられたとき、自分は、たった一人の大切な人を、この地に置き去りにしたのだ。
 我知らず、犀星の歩みが止まる。気づいて、涼景は振り返ったが、あえて何も言わなかった。
 川の音だけは止むことなく、二人を包み込む。それは、引き返すことのない川の水と同じ、取り戻すことのできない過ぎ去った時間の音にも聞こえた。
「連れて行きたかった」
 犀星が、独り言のようにつぶやいた。
「だが……」
「何も言うな」
 涼景は親友の肩に手を置き、沈んだ表情を見つめた。
「十年前のお前は正しかった。それは、お前が都で過ごした日々を思えば、わかるはずだ。少なくとも、お前は考えた末に決断したんだ。自分を責めるな。それより、償え」
「償う?」
「そうだ。この十年、あいつを一人にしたことを自分の罪だと思うなら、これから償えばいい。今のお前には、その力がある。もう、ここを旅立った十五歳の子どもじゃない。そのために、お前はここへ来たのだろう?」
 犀星は恐る恐る、親友の顔を見上げた。
「涼景。俺は、何に怯えているんだ?」
「星……」
「なぜ、こんなに胸が苦しいんだ?」
「……知らん。だが、すぐに楽にしてやる」
 犀星の手首を掴むと、涼景は足早に歩き出した。
 いつもなら振り払う気力のある犀星だが、今は引きずられるように、その手を頼りについていく。
「涼景、本家はそっちじゃない」
 懐かしい玲家の邸宅を横目に見ながら、犀星が不思議そうに言った。
「離れだ」
「え?」
「どうやら、お前がここを出てすぐ、あいつは離れに幽閉されたらしい」
「何だって!」
「高い塀と堀に囲まれ、唯一の入り口には門番が立っていて、侵入も容易じゃない。俺も何度も追い返された。だが、直接、お前が行けば、いくら玲家でも拒めないはずだ」
「あそこは昔、牢獄だった場所だぞ。本家に楯突いた者を閉じ込めたという……」
「どうしてそんなことになったのかは知らない。本家は俺の密偵に調べさせたが、あいつの姿はなかった。死んだわけでもない。だとしたら、考えられるのは、あそこだけだ」
「……陽(よう)」
 半ば混乱していた犀星の目に、人の背をはるかに超える石壁に囲まれた古い砦が見えた。本家から徒歩で半刻ほどの場所にある、鬱蒼とした下草に覆われた場所に、昔と変わらない威圧感を持って、それは待ち構えていた。砦の裏手は険しい崖になっており、そこから一筋、滝が流れ落ち、庭に池を作っているはずだ。その水は堀を満たし、東側に掘られた側溝を通って、先ほどの川へと繋がっている。
 離れとはいえ、かつては罪人を捕らえていた牢獄である。
 決して、良い環境ではない。
 幼い頃、犀星は興味本位でこの砦に潜り込んだことがあった。あの時は無人だったため、自由に中を見て歩くことができた。庭の池の周りは、放置された野草が茂り、腐りかけた木戸と錆びた閂やらが散乱していた。
 建物自体は半分崩れていたが、門から奥の見張り役の詰所や、資料室はまだ、使われていた当時のまま、残されていたのを覚えている。しかし、それも、十年以上前の話だ。
 堅牢な石壁だけは朽ちることなく、今でも外界と内部とを断絶していた。
 堀にかかった跳ね上げ式の門の辺りに、二人の男が座り込んでいる。どうやら、門番らしいが、警備をしている雰囲気ではない。明らかに退屈そうに世間話でも交わしているようだ。
 涼景は草の陰に腰をひくめて姿を隠し、近づいた。
「星、いいか」
「……な、何が……」
「あいつに会う覚悟、だ」
 ぼんやりとしていた犀星の肩を揺すって、涼景は気合を入れる。
「しっかりしろ! この時のために、お前は十年間、地獄の宮中で生き抜いてきたんだろ!」
「…………」
 犀星は全身で大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。しばし目を閉じ、顔を上げると、真っ直ぐに涼景を見る。
「涼景……」
「うん?」
「行こう」
 そう言って、犀星はしっかりとした足取りで涼景を追い越し、門へ向かう。
 一瞬ではあったが、犀星の目は、生きていた。涼景がよく知る、帝をもしのぐ覇者の目だ。
「お供しますよ、歌仙親王」
 呟くと、涼景も後を追う。
 門のそばにいた二人の男が、犀星たちに気づいて立ち上がった。
 面倒そうにじろりとこちらに向いた男の一人が、覇気のない声で退けた。
「誰だか知らんが」
 中年の、疲れきったその男は、形だけ、槍を構えた。
「ここは、玲家の管轄地だ。誰も通さないよう、領主様より言いつかっている」
「玲家領主、玲格(れいかく)ならば、よく知っている」
 言い放った犀星の語調は、都で培われた凄みを持っている。二人の男は、思わずたじろいだ。
「りょ、領主様を呼び捨てるとは……」
 若い方の男が、槍の先を犀星に向けたが、慣れていないのだろう、どう考えても武術の使い手には見えない。
「随分とお粗末な警備じゃないか」
 涼景が犀星の肩越しに、男たちを笑った。
「お、お前は確か、以前にも……」
「ほう? 覚えていたか」
「確か、都からきた何とか将軍とか、うそぶいていたやつだ」
 中年の男が面倒臭そうに言う。
「あんたもしつこいな。何度来たって、ここは通さない」
「無理に通ることも容易そうだが」
 涼景が一歩前に出たのを、犀星が手で制する。
 こういう時は、犀星に任せておくのが最良の策である。
「彼は私の友人で、燕涼景。燕家の嫡子であり、暁将軍として宝順帝にお仕えする近衛将軍だ」
「ああ、確か、そんなことを言っていたな」
 若い方の男が、恐る恐る、犀星の顔を見て、思わず大声を上げた。
「な、なんだ、どうした!」
 中年の男が、腰を抜かした相棒を振り返る。若い男は、犀星を指差した。
「そ、そいつの目!」
「目、だぁ?」
 視力が良くないのか、中年の男は数歩、犀星に近づき、その瞳の色に気づくや、相方同様、その場に尻もちをついた。
「俺が誰か、わかるか」
「まさか……さ……犀家……の……本物か……」
 男たちは、口々にぶつぶつと言いながら、逃げるように道を開けた。
 犀星はただ静かに二人を目で追い、
「犀家嫡男、犀伯華。都では、歌仙親王と呼ばれている」
「だから、言ったろう? 使いで来た、と」
 涼景が悪戯めいた口調で二人を脅した。
「星、俺はここを見張る。行って来い」
「任せた」
 涼景から遠ざかる犀星の背中には、一部の迷いもなかった。
「頼もしいじゃないか、俺たちの親王様は!」
 すっかり肝をつぶしている門番を相手に、涼景は一声、笑った。
 庭の中を石畳が道しるべのように続いている。以前はなかったように思いながら、犀星はその細い道をゆっくりと奥へ進んだ。左手には、崩れた木造の残骸が放置され、右手には対照的に美しい水を湛えた池と、その周囲に花々が咲き乱れている。
 妙だ。
 犀星は記憶の中の景色と比較して、その変化に疑問を抱いた。
 明らかに、誰かが手入れをし、世話をしている形跡がある。まさか、あの門番たちがやったとは到底思われない。だとすれば、ここに住む誰かか、それとも、その世話をする者か。
 背後で、涼景が門番たちをからかう声が遠のいていく。
 それに代わって、水の流れ落ちる音が大きくなる。
 石畳に沿っていくと、道は大きく右に曲がり、水量はそれほどないが、落差のある滝が見えた。
 と、滝の下に、人が一人、こちらに背を向けて立っている。膝まで水に浸かりながら、落ちてくる滝の水を肩に受け、じっと、動かない。体には白い襦袢を身につけていたが、水に濡れて肌が透けている。
 滝の音のせいか、犀星には気づいていない。
 更に静かに歩み寄って、犀星は思わず足を止めた。
 華奢ではあるが、体つきは男だ。
 水に濡れて肌に張り付いた襦袢越しに、全身に赤や紫のあざや切り傷が見える。まるで、拷問を受けた罪人のような姿である。
 涼景の情報が確かならば、彼こそ、犀星が十年間、想い続けていた人に他ならない。
 だが、まさか、こんな姿で再会するなど、想像だにしていなかった。
 その時、一陣の風が庭を吹き抜け、花々を大きく揺らした。舞い上がった強い風に、犀星は思わず腕で目を庇う。
 風が治まり、辺りに水音だけが戻ってくると、彼は再び目を開けた。
 途端に、体が凍りつく。
 ずっと自分を支配していた恐怖、不安が、一気に蘇ってくる。
 滝を背にして、青年はこちらを見ていた。
 太陽の光が青年の濡れた髪に弾けて、金色に輝く。驚きに見開かれたその目もまた、黄金色をたたえ、人間の目とは思われない光芒を放つ。

「……陽……なのか」
 震える声で、犀星は問いかけた。ささやきにも近い、かすかな声しか出せなかった。
「……星……兄様……」
 犀星は咄嗟に池に飛び込んだ。水に足を取られながらも、真っ直ぐに青年に駆け寄ると、そのままの勢いで彼の冷たく冷えた体を抱きしめる。
 抵抗もせず、されるがままに犀星に体を委ねたまま、青年、玲陽(れいよう)は目を閉じ、意識を失った。
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