悲しみは純白

翼 翔太

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第2話

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 次の日からみさとは居候させてもらう代わりに家事全般を引き受けることにした。さすがになにもしないのは気が引けるし、どうしても元婚約者にふられたことを思い出してしまうので、手を動かしていたかった。
「それではおねがいします」
「はい、わかりました。気を付けてくださいね」
 朝七時。尾上は『ラナンキュラス』へ出勤する。静かにドアを閉じる。みさとは尾上を見送った。彼の機嫌を損ねればここにいられなくなる。それだけは無一文の今最も避けなければいけないことだ。
 見送りを終えるとみさとは自分の朝食を用意する。トーストを焼いている間に目玉焼きとインスタントのスープを用意する。トーストは一分だけ焼いてからマーガリンを塗るとさくさくに仕上がる。テレビで知って以来ずっとこの焼き方だ。
「あれ、塩ってどこにあるって言ってたっけ?……ああ、あったあった」
 かつての部屋ではガス台のすぐ横に調味料をまとめて置いていた。しかし尾上は台所のタイルの壁に小さな棚をとりつけ、そこに料理で使うすべてのものをまとめていた。しかも尾上の身長に合わせているので、めいいっぱい背伸びしなければならず取りにくい。
「ふ、ぐぐぐ……」
 なんとか塩と胡椒を取り目玉焼きに振った。いちいち背伸びするのも疲れるのでガス台の近くに出しっぱなしにしてことにした。
「ちょっと焦げちゃったな……。よし。いただきます」
 そういえば婚約者と最初にした喧嘩は目玉焼きになにをかけるか、だったことをふと思い出した。みさとは塩コショウ、婚約者は醤油とケチャップだった。まだ同棲する前だった。
 みさとは過去から目をそらすようにパンを口に運びながら部屋を見回した。一日経ってようやく部屋をじっくり見る余裕ができた。独身男性が住んでいる割に片付いている。いやみさとの独り暮らしのときよりきれいだ。
 ここは尾上自身だけの世界。そんな中によそ者である自分は踏み荒らさない程度に片隅でひっそりと住まわせてもらう。それがこれからの生活だ。
「婚約者に逃げられた女にしては、思ったよりいいんじゃない?」
 みさとは自嘲気味に呟いた。テレビもついていない静かな部屋では思った以上に響いた。落ち込みそうな心を押さえるように食事を流し込む。
 食事を終えたみさとは掃除をすることにした。
「実家は一軒家だったからいつ掃除機かけてもよかったけど、マンションはやっぱり気を遣うなあ……。さっさと終わらせるほうが楽なんだけど」
 リビング、尾上の寝室、みさとの部屋など順番に掃除機をかける。なにも敷いていないので掃除しやすい。しかしリビングと玄関のちょうど真ん中に位置する一室、そこだけは尾上から掃除しないように言われた昨夜のことを思い出す。
『あの部屋は作業部屋なんで、あまり入らないでください。針もあって危ないですし、見た目は小さな布切れでも商品の飾りだったりするので』
 尾上がみさとに気を遣ってウエディングドレスのことを商品と言い換えたことに気付けるほどの余裕はまだない。ただみさとはすぐに純白のドレスのことを思い浮かべたので尾上のしたことはあまり意味がなかった。多くの人なら気になるだろう作業部屋はみさとにとって今一番近づきたくない場所だった。その部屋のドアノブを握ることなく掃除を終えた。
 
 日が傾く。空にオレンジ色と紫色が混ざる。夕飯の時間が近づいてきた。
 夕飯の準備にとりかかるべく、みさとは冷蔵庫の中になにがあるか確認した。
「あ、ひき肉がある。えっと牛乳と卵もある。パン粉は……ないか。でも豆腐があるからハンバーグ作れる。あ」
 ふとみさとはある疑問が浮かんだ。
「イヌ科っていうか獣人って玉ねぎ食べても大丈夫なのかな……?アレルギーとかあったらどうしよう」
 腕を組んで考える。メールでもしてみようか、と思ったがそういえば尾上の連絡先を知らないことに気付く。彼が帰ってきたら聞いておかなくてはいけない。
 みさとはなぜか屈んでスマートフォンで玉ねぎ抜きのハンバーグのレシピを検索した。するとあっという間に千件以上ものレシピが出てきた。便利な世の中である。
「へえ人参やレンコンでもいいんだ。えっと人参は……うん、ある」
 今度は野菜室を見る。そこには玉ねぎはなかったので食べられない可能性が高くなってきた。みさとはようやく料理にとりかかることにした。
 作業をしながらみさとは独身時代のことを思い出した。男性は肉じゃがよりもハンバーグやオムライスのほうが好きだ、となにかの雑誌で読んだことがきっかけで料理本まで買って練習したものである。まだ元婚約者と付き合い始めたばかりのことだ。結局一度しか食べてもらえなかった。彼は和食のほうが好きだったのだ。
「……もっと食べてもらいたかったな」
 ハンバーグだけでなく、もっといろんな料理を。ふと玉ねぎなど切っていないのにじわりと視界がにじんだ。下唇を噛み親指で乱暴にぬぐう。
「玉ねぎ、あればよかったのに」
 そうすれば涙の理由を誤魔化すことができたのに、とみさとは思った。

 夜の七時を少し過ぎたころに尾上が帰ってきた。
「お、おかえりなさい」
「……た、ただいま戻りました」
 ぽかんとした尾上の顔から察するに、みさとがいることを忘れていたらしい。尾上は気まずそうに「い、いや独りが長くて……」と言い訳をした。みさとはその言葉を素直に受け入れた。そして話題を変える。
「えっと、すぐにご飯にされます?」
「ええ。いただきます」
 部屋着に着替えた尾上は料理が並んだテーブルを見て「おおっ」と小さく感嘆の声をもらした。ハンバーグには人参のエシャロットが添えられている。ジャガイモのコンソメスープ、パックの豆の煮物。一汁三菜には一品足りないがそれでも独り暮らしが長い尾上にとって十分手の込んだ食事だった。
「豪華ですね。おいしそうだ」
「そ、そんなことないですよ」
 尾上は心が躍るのを隠さず椅子に腰を下ろす。みさとも座ると二人とも手を合わせて、食事をはじめた。尾上はさっそくハンバーグを口に運ぶ。
「うん、おいしい」
「お口に合ってよかったです」
 それ以来、ふたりのあいだに会話はなかった。それを気まずく思っているのはみさとだけのようで、尾上はもくもくと夕食を食べている。料理の減りも速いのでみさとは気に入ってもらえたと解釈することにした。
「あ、あの」
 みさとは勇気を出して声をかけた。尾上は食事の手をとめる。
「お、お聞きしたいことが……」
「はい」
「た、玉ねぎって平気ですか?」
「は?」
 尾上の顔にははっきりと書かれていた。いきなりなにを聞いてくるんだ、と。しかしその文字はすぐに消えて「ああ」と気が付いた風に声を上げた。
「もしかして狼の獣人だからそんな風に思われたんですか?」
「え、あ、はい……。それでハンバーグに入れていいものか悩んでしまったので。あ、えっと、身近なところに獣人の方っていなかったんで」
 言葉のひとつひとつに気を付けながらみさとは言った。家主が気を悪くするようなことがあれば、みさとはこの家に居座らせてもらえなくなるからだ。しかしそんなみさとの気持ちなど知らずに尾上は答えた。
「気を遣ってくれてありがとうございます。別に平気ですよ。玉ねぎもチョコレートも。獣人だからとくに食べてはいけないものはありません。まあ今の職場に勤め始めたころはよく聞かれていましたけどね」
 尾上は「ああ、でも」と言葉を付け足した。
「ヨーグルトと納豆は……ちょっと」
「お嫌いなんですか?」
 尾上は箸を置いて力説した。
「においがね、強すぎると思うんですよね。とくに納豆。くさいったらなんの。ヨーグルトは酸いにおいがどうにもだめで。だってあれ、腐ったにおいじゃないですか。鼻がねじ曲がってしまう」
「え、ええまあ、発酵食品なので……。わかりました、じゃあ出さないようにしますね」
 やはり嗅覚は鋭いようで、みさとは明日の夕飯をタンドリーチキンにするつもりだったことは内緒にしておくことにした。あれはヨーグルトを使うのだ。
「そうしてもらえるとうれしいです」
 尾上の必死な様子がなんとなくおかしくて小さく笑った。そんなみさとを見て尾上は少し安心したように笑った。
「よかったです」
「え?」
「女性の涙は武器ですが、ほんとうに悲しいときに使うべきではありませんから」
 尾上なりの慰めになんと反応したらいいかわからなかったみさとは、ただハンバーグを口に運ぶことしかできなかった。
 
 食事を終えると、尾上が片付けを引き受けてくれた。みさとは自分がやると言ったのがだ、尾上は片付けくらいさせてほしいと彼女の言葉を聞かなかった。さらに先に風呂を勧められた。「まだ少し部屋で作業をするので、お先に」と付け加えられた。これはみさとがどう言っても無駄だと悟り、遠慮なく一番風呂に浸からせてもらうことにする。
 ゆったりと足が伸ばせる浴槽、肩まで浸かれるほどたっぷり張られた湯。まともに入浴したのは久しぶりである。ここのところずっとシャワーで済ませていた。風呂を沸かす元気もなかった。
 ずっと他人の家にいるためやはり緊張していたのか、全身の力が抜けていくのがわかった。
「ぷはあー、気持ちいー……」
 油断していると眠ってしまいそうである。みさとは一度湯船から上がり体と髪を洗うことにした。目に入ったのはボディーソープとシャンプーのボトルだった。こんな些細な事でも嫌だが以前の暮らしと比べてしまう。体を洗うのはみさとがお気に入りのハニーソープだった。シャンプーは赤、リンスは白のボトルだった。
「ほんとうに他人の家にいるんだなあ……」
 ふとこぼした呟きが水面のように浴室に広がる。途端にいろんな感情がみさとを襲ってくる。悲しみ、苦しみ、惨め、悔しい。それでもなぜか元婚約者を恨む気持ちや彼の不幸をねがうことはなかった。
「なんでだろう……。あんな屈辱的なことされたのに」
 疑問に思いながら、予想以上に立ってしまった泡を流した。ボディーソープに慣れていないせいで、どれくらい使えばいいのかわからなかったのだ。ポンプから出したシャンプーは馴染みのない、メンソールのにおいがした。
 次の日、生まれて初めて髪がきしきしと嫌な感触がしてリンスを買いに行くのはまた別の話である。

                                続く
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