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第1章
朝倉の石湯行宮(いわゆのかりみや)
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なつは大田皇女を支えながらゆっくりと歩く。
船を降りる時に、荒くれ者に華奢な皇女を触れさせてはいけないと思ったのである。
その後ろに、大伯皇女は額田王が抱き、ようやくうとうと始めた赤ん坊を愛おしそうに見つめている。
飛鳥の地に残した、自分の娘の十市皇女の幼い頃を思い出しているのだろうか。
「本当に皇女様はお綺麗なお顔立ちですわ」
小さい赤ん坊は、本当に肌が薄く、赤い顔のまま手を握りしめている。
まだ自分の身体の温度の調節もできない赤ん坊は、何枚も衣を巻きつけても、まだ寒いのだろう。
「大田! 大丈夫か?」
姿を見せたのは、赤ん坊の父である大海人皇子。
本当は母である姫天皇と先に出発するべきだったのだが、産後の大田皇女と生まれたばかりの娘が心配だったのだ。
「大海人皇子さま……どうしてまだこちらに?」
あの後、大山祇神社での祭事に、姫天皇と兄を支え、忙しく動き回っていたので、ようやく現在の第一夫人である大田皇女と生まれたばかりの第二王女に会うことが叶ったのである。
近づき、小柄な大田皇女を抱き上げる。
「大丈夫か? 寒くはないか? 震えておるではないか!」
先ほど母には、
「吾は構わぬ。もう一人の吾子がおる」
と小千守興に体を支えてもらい、輿に乗ると、ゆっくりと出発した。
兄達は別の輿で出発している。
「皇子さま」
額田王が優雅に頭を下げる。
「輿が。大田皇女さまは多分お疲れで、お一人では心細いかと思いますわ。早く宮に……」
「そうだな……額田王。そしてなつ、どうか大伯をよろしく頼む」
丁寧に頼むと、促された輿に大田皇女と共に乗っていった。
次の輿に、なつは額田王を促すが、
「なつどの、いらっしゃい。そのお身体で歩いていくのですか? それに、貴方の故郷を教えてくださいませ」
と、大伯皇女と共に乗りこむことになった。
申し訳なさそうな顔になるなつに、額田王は、
「なつさま、貴方のお腹のあかさまが寒がっていませんか? 今だから特に大事にされてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
なつは拒否するより微笑み、一緒に乗ると、座りやすいように整える。
「額田王さま……ありがとうございます」
「良いのよ。それに、輿はさほど数はありませんし、一人では寒いでしょう。皇女さまが寒がってしまうわ」
古代日本には「輦」という、天皇、皇后、伊勢斎宮のみが乗ることができるとされる輿があった。
形は四方の柱を立てて、正面以外の三方に壁を覆い、曲線を描いた屋根があり、前に簾をかけている。
上に鳳凰の飾りがある「鳳輦」は特に天皇が晴れの儀式の時に乗る輿。
この形は後世の神輿のデザインになった。
「葱花輦/葱華輦」は、背中に板を貼り、三方を簾がある。
上には葱花……ネギの花のような飾りが屋根の上に乗せられている。
華やかな印象だが、こちらは天皇方が儀式以外に出かける際や諸社寺行幸(春日大社、日吉大社以外)の際に用いられる。
この輿は少しずつ形を変えつつ明治時代にまで用いられ、時代背景、移動には牛車の方がいいとか、この時代は飾りは完全に決まってはいなかっただろうが、ある程度のものがあったと思われる。
まだ海風で寒いものの大伯皇女の為、廉を重ね、寒くないようにして、時々隙間から説明する。
「この道はきっと、朝倉に向かいます。旦那様……いえ、守興さまのお父上が、もし何かあった時に、姫天皇さまや額田王さま方のために、滞在できる宮をと……そちらに向かうのではないかと思います」
「そうなのですね」
まだ朝、日は登っているので、早朝に働く民は仕事を終え片付けを始めている。
そうすると、精悍になったこの地域の領主の息子である守興が、馬に乗りながら、1つの鳳輦の前でゆっくりと移動する姿にびっくりする。
「あれぇ? どがいしたんぞね。あれは、守興さまじゃないかね」
「本当じゃ」
「守興さまのお帰りじゃぁ!」
近づいてきた民に、気色ばむ輿を担ぐ者達に、
「姫天皇さま、申し訳ございません。この地の民にございます。この時間には外の仕事を終え、それぞれの家に帰るのです。少し伝えてまいります」
守興は頭を下げて、馬を走らせる。
そして、
「皆。これから朝倉宮に、高貴な方々が滞在される。足の速い者は様子の確認と父上に……」
「はい」
若者が荷物を担ぎ、そして足の速い少年少女が去っていく。
そして輿が近づいてくると、膝をついた姫天皇より若いものの高齢になる守興の祖父や叔父叔母世代の人物が、頭を下げ拝むようにする。
「ようお越し下さりました」
「このような姿で申し訳ございません」
輿の中から声が聞こえ、
「いけません! 姫天皇さま! 翳がご用意できませぬ!」
守興の声がするが、輿が降ろされ簾が上がり、ゆっくりと小柄な女性が姿を見せる。
背中がすっと伸び、ただ穏やかに微笑む優しげな老齢の女性。
衣は質の良いものだが、質素である。
馬を降り、女性に近づいた守興は困ったような顔をする。
「姫天皇さま……駄目でございますよ。まだ準備がございませんでしたから」
「いや、急に手を止めさせてしまい、申し訳ないと思うてな。吾子よ……どうか、皆に無理はせぬようと、伝えてくれぬか?」
「は、はい!」
守興は伝えると、民は涙ぐみ、感謝する。
「姫天皇さま、ありがとうございます」
「我らのような者にまで感謝いたします」
「ありがとうございます。皆、どんなに喜びましょう」
守興も涙を堪えつつ感謝する。
しばらくして、輿が再び形を整え、移動を始める。
その全ての輿の姿が見えなくなるまで、頭を下げ続ける民もいたという。
船を降りる時に、荒くれ者に華奢な皇女を触れさせてはいけないと思ったのである。
その後ろに、大伯皇女は額田王が抱き、ようやくうとうと始めた赤ん坊を愛おしそうに見つめている。
飛鳥の地に残した、自分の娘の十市皇女の幼い頃を思い出しているのだろうか。
「本当に皇女様はお綺麗なお顔立ちですわ」
小さい赤ん坊は、本当に肌が薄く、赤い顔のまま手を握りしめている。
まだ自分の身体の温度の調節もできない赤ん坊は、何枚も衣を巻きつけても、まだ寒いのだろう。
「大田! 大丈夫か?」
姿を見せたのは、赤ん坊の父である大海人皇子。
本当は母である姫天皇と先に出発するべきだったのだが、産後の大田皇女と生まれたばかりの娘が心配だったのだ。
「大海人皇子さま……どうしてまだこちらに?」
あの後、大山祇神社での祭事に、姫天皇と兄を支え、忙しく動き回っていたので、ようやく現在の第一夫人である大田皇女と生まれたばかりの第二王女に会うことが叶ったのである。
近づき、小柄な大田皇女を抱き上げる。
「大丈夫か? 寒くはないか? 震えておるではないか!」
先ほど母には、
「吾は構わぬ。もう一人の吾子がおる」
と小千守興に体を支えてもらい、輿に乗ると、ゆっくりと出発した。
兄達は別の輿で出発している。
「皇子さま」
額田王が優雅に頭を下げる。
「輿が。大田皇女さまは多分お疲れで、お一人では心細いかと思いますわ。早く宮に……」
「そうだな……額田王。そしてなつ、どうか大伯をよろしく頼む」
丁寧に頼むと、促された輿に大田皇女と共に乗っていった。
次の輿に、なつは額田王を促すが、
「なつどの、いらっしゃい。そのお身体で歩いていくのですか? それに、貴方の故郷を教えてくださいませ」
と、大伯皇女と共に乗りこむことになった。
申し訳なさそうな顔になるなつに、額田王は、
「なつさま、貴方のお腹のあかさまが寒がっていませんか? 今だから特に大事にされてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
なつは拒否するより微笑み、一緒に乗ると、座りやすいように整える。
「額田王さま……ありがとうございます」
「良いのよ。それに、輿はさほど数はありませんし、一人では寒いでしょう。皇女さまが寒がってしまうわ」
古代日本には「輦」という、天皇、皇后、伊勢斎宮のみが乗ることができるとされる輿があった。
形は四方の柱を立てて、正面以外の三方に壁を覆い、曲線を描いた屋根があり、前に簾をかけている。
上に鳳凰の飾りがある「鳳輦」は特に天皇が晴れの儀式の時に乗る輿。
この形は後世の神輿のデザインになった。
「葱花輦/葱華輦」は、背中に板を貼り、三方を簾がある。
上には葱花……ネギの花のような飾りが屋根の上に乗せられている。
華やかな印象だが、こちらは天皇方が儀式以外に出かける際や諸社寺行幸(春日大社、日吉大社以外)の際に用いられる。
この輿は少しずつ形を変えつつ明治時代にまで用いられ、時代背景、移動には牛車の方がいいとか、この時代は飾りは完全に決まってはいなかっただろうが、ある程度のものがあったと思われる。
まだ海風で寒いものの大伯皇女の為、廉を重ね、寒くないようにして、時々隙間から説明する。
「この道はきっと、朝倉に向かいます。旦那様……いえ、守興さまのお父上が、もし何かあった時に、姫天皇さまや額田王さま方のために、滞在できる宮をと……そちらに向かうのではないかと思います」
「そうなのですね」
まだ朝、日は登っているので、早朝に働く民は仕事を終え片付けを始めている。
そうすると、精悍になったこの地域の領主の息子である守興が、馬に乗りながら、1つの鳳輦の前でゆっくりと移動する姿にびっくりする。
「あれぇ? どがいしたんぞね。あれは、守興さまじゃないかね」
「本当じゃ」
「守興さまのお帰りじゃぁ!」
近づいてきた民に、気色ばむ輿を担ぐ者達に、
「姫天皇さま、申し訳ございません。この地の民にございます。この時間には外の仕事を終え、それぞれの家に帰るのです。少し伝えてまいります」
守興は頭を下げて、馬を走らせる。
そして、
「皆。これから朝倉宮に、高貴な方々が滞在される。足の速い者は様子の確認と父上に……」
「はい」
若者が荷物を担ぎ、そして足の速い少年少女が去っていく。
そして輿が近づいてくると、膝をついた姫天皇より若いものの高齢になる守興の祖父や叔父叔母世代の人物が、頭を下げ拝むようにする。
「ようお越し下さりました」
「このような姿で申し訳ございません」
輿の中から声が聞こえ、
「いけません! 姫天皇さま! 翳がご用意できませぬ!」
守興の声がするが、輿が降ろされ簾が上がり、ゆっくりと小柄な女性が姿を見せる。
背中がすっと伸び、ただ穏やかに微笑む優しげな老齢の女性。
衣は質の良いものだが、質素である。
馬を降り、女性に近づいた守興は困ったような顔をする。
「姫天皇さま……駄目でございますよ。まだ準備がございませんでしたから」
「いや、急に手を止めさせてしまい、申し訳ないと思うてな。吾子よ……どうか、皆に無理はせぬようと、伝えてくれぬか?」
「は、はい!」
守興は伝えると、民は涙ぐみ、感謝する。
「姫天皇さま、ありがとうございます」
「我らのような者にまで感謝いたします」
「ありがとうございます。皆、どんなに喜びましょう」
守興も涙を堪えつつ感謝する。
しばらくして、輿が再び形を整え、移動を始める。
その全ての輿の姿が見えなくなるまで、頭を下げ続ける民もいたという。
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