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第2章
『My Way(マイ ウェイ)』
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今日は、遼とのんびりとしていた。
かけていたCDはフランク・シナトラ。
アメリカのジャズやポピュラーソング歌手である。
扉が開き、マスターがこの店を開店させた頃から時々話に来る、現在は杖をついているものの、かくしゃくとしている老齢の男性が久しぶりに姿を見せた。
「照川さま。ようこそ。お待ちしておりました」
「おや? マスターは嫁さんと二人が良かろうが。このクソジジイの悪態を聞くよりも」
「おじいちゃん!」
付いてきていた女性がハラハラと、ペコペコと頭を下げる。
「申し訳ございません」
「いえ。照川さまにもご連絡をと思っていたのですが、私たちの知人が多くて、照川さまが落ち着かないだろうと思っていたのです。そう言えば高坂さんが、照川さまにお会いしたいと言われていましたよ?」
「あぁ、あいつか。うるさいが、義理人情にあつい……時代劇に出そうな」
「ふふふ。本当に。どうぞ。お孫さんですか?」
「はい、要と申します。よろしくお願い致します」
女性は頭を下げる。
「あぁ、孫だよ。孫。息子夫婦がうるさくてなぁ……。わしは何ともないと言うのに、 年より扱いしおって」
「おじいちゃん。無茶しないでよ! いつもふらっと出ていって、心配して探す私たちの身になってよ!」
「あぁ……要は、口うるさいのう。ばあちゃんに似たんか?」
「いつもそんなことばっかり!」
頬を膨らませる要を、目を細めて……何とも目を入れても痛くないと言いたげににこにこと聞いている。
と、曲が変わる。
フランク・シナトラのポピュラーソング『My Way(マイ ウェイ)』である。
1969年に発表されたこの曲は、日本語訳詞で歌われている。
「あぁ、『マイウェイ』か。わしは『今船出が~』と言うのよりも、もう一つの方がえぇわい」
「あぁ、中島潤さんの訳詞は『今船出が~』ですが、『やがて私も~』と始まる岩谷時子さんの訳詞の方ですか?」
「よう知っとるのう? えと、マスターの……」
「はじめまして。遼と申します。照川さま。声楽をかじりではあるのですが、学んでおりまして……私も、岩谷時子さんの歌詞の方が好きなのです」
遼が深々と頭を下げる。
辛口のじいさんと有名だが、初対面の女性には優しいらしく、髭を撫でながら微笑む。
「遼さんか。でも、あの『マイ ウェイ』は渋くないかのう?」
「自分なりに生きていきたい……たとえ、最後に心残りがあったとしても、できる限り努力したと言えるように頑張ろうと、ずっと自分に言い聞かせていたんです」
苦笑とゆらゆらと揺れるような影がにじむ遼に、
「あんたはようやっとるやないか。その無意識やろうけど、マスターをサポートしたり、わしと話すときはきちんと目を向けて話そうとしよる。でも、目が合わんのは辛い思いをしたんやな……」
「あ、あの……昔は辛いことが多かったですが、しょ、マスターと結婚して、今は本当に幸せです」
「……」
遼を見つめた老人は、
「お願いがあるんやけど、遼さんの……あんたの今の『マイ ウェイ』を聞かせてくれんかなぁ? かまんかな?」
「あ、はい、CDの音量を下げて歌いますね」
デッキに向かう遼を追い、照川はマスターを見つめる。
「いつもは、マスターに選んで貰うけど、今日はわしが頼んでもかまんやろか?」
「えぇ。照川さまのお望みのカクテルを」
「ほら、要。座らんか」
自分の横の席を示し座らせると、マスターに、
「ほんなら『ギムレット』を頼むわ」
「……『ギムレット』ですね。かしこまりました」
音を小さくし、一瞬目を伏せると息を吸い、遼は歌い始めた。
その声域に音量に、要は驚くが、老人は、
「ほうほう……見事な声や。そこらの歌手よりもうまいわ」
感心する。
その様子を見つつ、マスターはゆっくりと作っていく。
遼は、フランク・シナトラの歌に添うように伸びやかに歌い上げる。
「おぉ! 素晴らしいわ!」
大きく拍手の音に、恥ずかしそうに、
「ありがとうございます。我流ですが……」
「いやいや。マスターにだけ聞かせるんも勿体無いわ。この店でシャンソンとか歌ったらえぇのに」
「いえいえいえ! まだほとんど覚えていないんです。でも、この曲は思い入れがあるんです……」
赤面症で頬を赤く染めた遼は、深々と頭を下げる。
「聞いて下さってありがとうございます」
「照川さま、要さん。『ギムレット』を……」
マスターは、カウンターにカクテルグラスを二つ並べる。
「本来の『ギムレット』では絞ったライムの酸味が強いかと思いますので、コーディアルライム(ライムジュース)を使わせて頂きました。どうぞ。照川さまのお口に合うと良いのですが……」
「あぁ、ありがとう。要。乾杯しようか」
「おじいちゃん……」
「お前のこれからに……乾杯じゃ。『マイ ウェイ』にもあるだろう? 恋愛をせい。ほら、目の前に理想の二人がおる」
珍しく無表情を取り繕う夫と、孫と飲むのが嬉しいといった雰囲気の照川、そして祖父を心配そうに見つつ、飲んだカクテルに、
「美味しいです……本当に、ちょうどいい美味しいです!」
「要さん、ありがとうございます。音楽と、おじいさまと心ゆくまでお過ごし下さい」
「じゃぁ、マスター! 遼さんに、シャンソンとか唄って貰えんか? 声がいい!」
「いつもはお断りしてますが、照川さまは特別ですよ? ……遼? 歌ってくれるかな?」
「えぇ。歌える曲は限られているけれど……」
その日は、照川のアンコールに遼は知っているだけのミュージカル音楽やシャンソンなどを歌った。
照川は笑い、要はその様子に表情を緩め微笑む。
マスターはノンアルコールカクテルを間に挟みつつ、照川の希望のカクテルを作ったのだった。
タクシーを呼び、照川と要を見送ったマスターは、遼には完全に分かる程暗い顔をしてグラスを洗い、道具を片付け始めた。
遼は、あえて夫に問いかけもせず、ほうきを持ち出しカウンターの外を掃いて、テーブルを拭いたのだった。
数日後、新聞を見ていた遼が、
「彰一さん! き、昨日……照川さまが亡くなったって書かれているのです。……タクシーで帰られる時に住所をおっしゃってました。この方は先日お越しになられた照川さまですか?」
新聞を手に駆け寄る妻に、確認をした彰一は、
「……あの日、珍しくご自分で指名されたカクテルで……何となく理解していたよ」
「えっ?」
「『ギムレット』のカクテル言葉は『長いお別れ』と言うんだ。最後に会いに来られたんだね……」
「……そう、だったんですね……素敵な方でした……」
ただ一度会っただけの照川の死に、涙を流す遼を抱き締め、
「『私は私の道を行く』……照川さまは、長い旅に出たんだ。あの方は好奇心旺盛の方だから、きっと……」
「そうですね……」
夫婦は通夜は仕事の為出られなかったものの、葬儀に参列したのだった。
かけていたCDはフランク・シナトラ。
アメリカのジャズやポピュラーソング歌手である。
扉が開き、マスターがこの店を開店させた頃から時々話に来る、現在は杖をついているものの、かくしゃくとしている老齢の男性が久しぶりに姿を見せた。
「照川さま。ようこそ。お待ちしておりました」
「おや? マスターは嫁さんと二人が良かろうが。このクソジジイの悪態を聞くよりも」
「おじいちゃん!」
付いてきていた女性がハラハラと、ペコペコと頭を下げる。
「申し訳ございません」
「いえ。照川さまにもご連絡をと思っていたのですが、私たちの知人が多くて、照川さまが落ち着かないだろうと思っていたのです。そう言えば高坂さんが、照川さまにお会いしたいと言われていましたよ?」
「あぁ、あいつか。うるさいが、義理人情にあつい……時代劇に出そうな」
「ふふふ。本当に。どうぞ。お孫さんですか?」
「はい、要と申します。よろしくお願い致します」
女性は頭を下げる。
「あぁ、孫だよ。孫。息子夫婦がうるさくてなぁ……。わしは何ともないと言うのに、 年より扱いしおって」
「おじいちゃん。無茶しないでよ! いつもふらっと出ていって、心配して探す私たちの身になってよ!」
「あぁ……要は、口うるさいのう。ばあちゃんに似たんか?」
「いつもそんなことばっかり!」
頬を膨らませる要を、目を細めて……何とも目を入れても痛くないと言いたげににこにこと聞いている。
と、曲が変わる。
フランク・シナトラのポピュラーソング『My Way(マイ ウェイ)』である。
1969年に発表されたこの曲は、日本語訳詞で歌われている。
「あぁ、『マイウェイ』か。わしは『今船出が~』と言うのよりも、もう一つの方がえぇわい」
「あぁ、中島潤さんの訳詞は『今船出が~』ですが、『やがて私も~』と始まる岩谷時子さんの訳詞の方ですか?」
「よう知っとるのう? えと、マスターの……」
「はじめまして。遼と申します。照川さま。声楽をかじりではあるのですが、学んでおりまして……私も、岩谷時子さんの歌詞の方が好きなのです」
遼が深々と頭を下げる。
辛口のじいさんと有名だが、初対面の女性には優しいらしく、髭を撫でながら微笑む。
「遼さんか。でも、あの『マイ ウェイ』は渋くないかのう?」
「自分なりに生きていきたい……たとえ、最後に心残りがあったとしても、できる限り努力したと言えるように頑張ろうと、ずっと自分に言い聞かせていたんです」
苦笑とゆらゆらと揺れるような影がにじむ遼に、
「あんたはようやっとるやないか。その無意識やろうけど、マスターをサポートしたり、わしと話すときはきちんと目を向けて話そうとしよる。でも、目が合わんのは辛い思いをしたんやな……」
「あ、あの……昔は辛いことが多かったですが、しょ、マスターと結婚して、今は本当に幸せです」
「……」
遼を見つめた老人は、
「お願いがあるんやけど、遼さんの……あんたの今の『マイ ウェイ』を聞かせてくれんかなぁ? かまんかな?」
「あ、はい、CDの音量を下げて歌いますね」
デッキに向かう遼を追い、照川はマスターを見つめる。
「いつもは、マスターに選んで貰うけど、今日はわしが頼んでもかまんやろか?」
「えぇ。照川さまのお望みのカクテルを」
「ほら、要。座らんか」
自分の横の席を示し座らせると、マスターに、
「ほんなら『ギムレット』を頼むわ」
「……『ギムレット』ですね。かしこまりました」
音を小さくし、一瞬目を伏せると息を吸い、遼は歌い始めた。
その声域に音量に、要は驚くが、老人は、
「ほうほう……見事な声や。そこらの歌手よりもうまいわ」
感心する。
その様子を見つつ、マスターはゆっくりと作っていく。
遼は、フランク・シナトラの歌に添うように伸びやかに歌い上げる。
「おぉ! 素晴らしいわ!」
大きく拍手の音に、恥ずかしそうに、
「ありがとうございます。我流ですが……」
「いやいや。マスターにだけ聞かせるんも勿体無いわ。この店でシャンソンとか歌ったらえぇのに」
「いえいえいえ! まだほとんど覚えていないんです。でも、この曲は思い入れがあるんです……」
赤面症で頬を赤く染めた遼は、深々と頭を下げる。
「聞いて下さってありがとうございます」
「照川さま、要さん。『ギムレット』を……」
マスターは、カウンターにカクテルグラスを二つ並べる。
「本来の『ギムレット』では絞ったライムの酸味が強いかと思いますので、コーディアルライム(ライムジュース)を使わせて頂きました。どうぞ。照川さまのお口に合うと良いのですが……」
「あぁ、ありがとう。要。乾杯しようか」
「おじいちゃん……」
「お前のこれからに……乾杯じゃ。『マイ ウェイ』にもあるだろう? 恋愛をせい。ほら、目の前に理想の二人がおる」
珍しく無表情を取り繕う夫と、孫と飲むのが嬉しいといった雰囲気の照川、そして祖父を心配そうに見つつ、飲んだカクテルに、
「美味しいです……本当に、ちょうどいい美味しいです!」
「要さん、ありがとうございます。音楽と、おじいさまと心ゆくまでお過ごし下さい」
「じゃぁ、マスター! 遼さんに、シャンソンとか唄って貰えんか? 声がいい!」
「いつもはお断りしてますが、照川さまは特別ですよ? ……遼? 歌ってくれるかな?」
「えぇ。歌える曲は限られているけれど……」
その日は、照川のアンコールに遼は知っているだけのミュージカル音楽やシャンソンなどを歌った。
照川は笑い、要はその様子に表情を緩め微笑む。
マスターはノンアルコールカクテルを間に挟みつつ、照川の希望のカクテルを作ったのだった。
タクシーを呼び、照川と要を見送ったマスターは、遼には完全に分かる程暗い顔をしてグラスを洗い、道具を片付け始めた。
遼は、あえて夫に問いかけもせず、ほうきを持ち出しカウンターの外を掃いて、テーブルを拭いたのだった。
数日後、新聞を見ていた遼が、
「彰一さん! き、昨日……照川さまが亡くなったって書かれているのです。……タクシーで帰られる時に住所をおっしゃってました。この方は先日お越しになられた照川さまですか?」
新聞を手に駆け寄る妻に、確認をした彰一は、
「……あの日、珍しくご自分で指名されたカクテルで……何となく理解していたよ」
「えっ?」
「『ギムレット』のカクテル言葉は『長いお別れ』と言うんだ。最後に会いに来られたんだね……」
「……そう、だったんですね……素敵な方でした……」
ただ一度会っただけの照川の死に、涙を流す遼を抱き締め、
「『私は私の道を行く』……照川さまは、長い旅に出たんだ。あの方は好奇心旺盛の方だから、きっと……」
「そうですね……」
夫婦は通夜は仕事の為出られなかったものの、葬儀に参列したのだった。
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