あるバーのマスターの話

刹那玻璃

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第1章

『会えないよ』

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 年を越し、友人を見送ったマスターは、残っていた日本酒は是非飲んでくれと置いて帰られ、売り物ではなく自分の新年のお楽しみにと仕舞っておくことにした。
 実際、一人で飲む卵酒は、寒いなと思った時に飲めるカクテルの一種である。

 掃除は少し残っていたものの、カウンターの席の片付けとシャワーを浴びて酒の臭いを消すと、今日のCDを探す。
 そして目に入り取り出したCDをかけた。

 STARDUST REVUEのCDである。
 高坂こうさかが出ていった後に一旦鍵を掛けていた扉を開け、驚く。

「おや? 森田くん……?」
「あ、明けましておめでとうございます、マスター」

 スーツ姿だが、乱れている。
 顔色の悪い、少々線の細い華奢な印象の青年に微笑みながら、

「明けましておめでとうございます。初めてのお客さまが森田くんで嬉しいですよ」
「………ありがとうございます」
「あれ? 谷本くんは?」
「……あ、あいつは結婚するから……その準備で忙しくて……」
「そうだったんですね」

途端に暗い表情になった、まだ30前の息子のような青年に、

「寒くなりましたね……冷えているじゃありませんか、まずは暖かくしましょう」

扉を閉めて、カウンターに案内する。

「あれ?」
「どうしました?」
「いえ、フワッと……」
「あぁ……お恥ずかしい。長年の友人がこちらを離れ実家に帰るのだと、二人で飲んで見送っていたのです。飲みすぎたかもしれません、匂いますか?」

 苦笑するマスターに、森田は、

「いえ、甘い優しい匂いだと……」
「オレンジ・サキニーと言う、日本酒とオレンジジュースのカクテルだったのです。どうぞ。おしぼりです」
「ありがとうございます。いえ、温かい香りでいいと思います」
「それは良かった」

と、森田の携帯が鳴った。

 ビクッ

肩を震わせたが、そのままである。

「あ、大事な電話ではありませんか?」
「……いえ……そうではありません」

 鳴り続ける携帯をポケットから出し、電源を切ると、泣きそうな顔で告げる。

「マスター……僕は……大事なものを失いたくない……! でも、失ってしまいそうで……そうしたら、何となくマスターに会いたくなって……」
「……私に会いに来て下さって、本当に嬉しいですよ」

 マスターは息子のような年の青年に、

「ちょっと待って下さいね。昨日と今日はお休みにしましょう」

カウンターの横の壁のスイッチを押して、冷蔵庫から取り出したのはペットボトルとビールの瓶。
 ロングカクテル用のグラスを用意すると、栓を抜いたビールとペットボトルから静かに液体を流し込む。

 静かに液体を差し出されたものは、黒い炭酸のカクテル……。

「……これは?」
「『トロイの木馬』……『Trojan Horse』と言います。スタウトビールとコーラを割ったカクテルですよ。どうぞ」
「『トロイの木馬』……」
「ご存じだと思いますが、ギリシア神話の逸話の一つに『トロイア戦争』があります。トロイアの木馬の中に人が入っていた。そして戦いが終わることになった。と言うものがあります。……コーラにスタウトビールとを紛れ込ませた……と言う意味をかけたのですよ」
「『トロイの木馬』……」
「黒いコーラに黒いスタウトを混ぜて……紛れ込ませても……飲むと、いつかは真実は解るのです。飲んでみて下さい」

 森田は躊躇ためらうように手を伸ばし、口を寄せた。
 飲み込んだ青年はグラスを見つめ、しばらくしてため息をついた。

「本当ですね……解っていたのに……駄目だと解っているのに……」

 曲が替わった。

『会えないよ』

 STARDUST REVUEのバラードである。

「……僕と谷本と遠野は、同期で本当に仲良くて……」
「遠野さん……ですか」

 マスターは会ったことのある、可愛らしい女性を思い出す。

「……気がついてなくて……ばっかだなぁ……僕は」
「……蕾が開かないこともありますよ」
「……いえ、違うんです……結婚式が3月なんです。でも冬期休暇に入ってから………何度か遠野から電話があって……会いたいって。谷本と別れて、やっぱり僕と付き合いたいって」
「……」

 言葉を控える。

「……僕はノーマルだから変な思いはないんだけど、谷本と遠野を選べって言われたら、谷本を選びたい……ずっと友人として付き合いたい……でも、そうすると遠野との距離が……どうしようかと、それに勘違いとかされたくない……」
「今の距離のままで、それでいいと思いますよ。谷本くんと森田くんは本当に仲のいい親友じゃありませんか」
「……ありがとうございます。マスターに会って良かった……」

 森田は嬉しそうに微笑むと、色々と詳しいマスターに話を聞きながら飲み終えると、

「ありがとうございました! また……」
「いつでもお待ちしていますよ」
「あ、マスター………申し訳ないのですが……谷本が来たらこれを、渡して貰えますか?」
「解りました。お預かりしますね」

受け取った包みに付箋をつけて、マスターは置いておいたのだった。



 仕事始めから数日後、一人の青年が姿を見せた。
 少々童顔の森田に比べ、きりっとしたがっしりタイプの青年は珍しく顔色を変えている。

「マ、マスター。こんばんは!」
「あぁ、谷本くん。明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとうございます……じゃなくて! マスター! 森田が何も言わずにいなくなって……去年末で転勤になったって……」
「……そうでしたか……」

 マスターは、奥から包みを持ってくると差し出す。

「年明けに顔を見せて下さったんです。谷本くんが来たら渡して欲しいと」
「森田が?」

 受けとった紙袋を開けると、ご祝儀袋とメッセージカードが入っていた。

「……な、何で、おめでとうと、式に出られなくてすまないって……」

 目を通した谷本は怒鳴る。

南都子なつこのことが好きだったら……そう言えば!」
「言ってどうするんですか? 谷本くん? 森田くんに譲るんですか?」

 静かにグラスを拭きながら、谷本を見上げる。

「……あの時、流れていた曲は……『会えないよ』と言う曲です」
「『会えないよ』……?」
「えぇ……」

 マスターはCDを変えて流す。

「STARDUST REVUEの曲です。で、森田くんにあの時作ったカクテルです。お飲み下さい」

 席についた青年の前に差し出す黒いドリンク……。

「これは……?」
「『トロイの木馬』と言います。……森田くんの友情だけは否定しないであげて下さい……」
「……っ!……」

 グラスとご祝儀袋、メッセージカードを見つめた谷本は、グラスを手にしたのだった。
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