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しおりを挟む俯きがちな杏さんの両肩をつかみ、無理やり目を合わせる。ひどく濁っていて、悲観して何も見えなくなった目。かつての私と同じ。それならやることは決まっている。杏さんがしてくれたように私も寄り添えばいい。
「すごく嫌です。ただのわがままですけど、杏さんがいなくなるのはすっごく嫌なんです!」
単純で至極簡単な理由に、杏さんも目を丸くしてしまった。
「彼氏さんが大切で、どれほど好きなのか私には分かりません。だけど杏さんが死んではいけないことは分かります。彼氏さんが大切で一緒に死ぬくらいなら、私のために生きてくれませんか」
「あんちゃんの、ために?」
「私も杏さんのために生きます。もう死ぬなんて言いません。杏さんにふさわしい人間になります。杏さんが頼れるような人間に必ずなりますから、死なないで、ください」
やんだはずの嗚咽とともに想いをぶちまけた。ただのわがまま。ただの迷惑。ただのお願い。けれどそれでいい。親友はこれぐらいがちょうどいいと教えてもらったから。
「ふふ。何それ。もう、あんちゃんってば」
固まっていた杏さんから漏れた笑み。それはどこか懐かしく、それでいて初めて見た泣き笑いだった。頬を伝う涙をそのままに、目を細め肩を震わせ笑う姿をただただ眺めるしかなかった。
「あー、おっかし。あんちゃんってば、急にプロポーズしてくるから驚いたよ」
「プロポーズ?」
「うん」
杏さんが口元に笑みを残したまま涙を拭う。必死に言葉を紡いでいたから覚えてなんか……いや、思い出した。とんでもないことを口走った。どれも本音には違いないけれど、面と向かって言うにはさすがに恥ずかし過ぎる。
「私のために生きるってべた過ぎ。そんなに私が好きだったの?」
「いや、あの、違うんです。今のは親友としての言葉でして、好きは好きでも友愛というか親愛というか」
「分かってる分かってる」
慌てふためく私に笑いかけ、杏さんが立ち上がった。
「そこまで言われたら断れないじゃん」
杏さんが彼氏さんへと歩み寄り、リュックへと仕舞った。
「あの、杏さん」
「うん?」
「もう、死なないですよね?」
恐る恐る尋ねると杏さんは大きく頷き、リュックを背負ってこちらへ戻ってきた。
「あんちゃんのお嫁さんにならないといけないからね。不束者ですが、よろしくお願いします」
ひどくきれいなお辞儀に後退る。
「ですからあの、さっきのは親友としてですね」
「はいはい。それにしてもあんちゃんが情熱的だとは知らなかった。もっと他に告白の言葉ないの? ロマンチックなやつとかさ」
断片的に覚えている自分の言葉が頭の中で反芻し、頬に熱が宿る。杏さんを説得できた喜びか、それとも単なる恥ずかしさか。どちらにしてもいいものとして噛みしめることにした。
「とりあえず戻ろう。迷いやすくても、真っすぐ歩いてきたし大丈夫でしょ。えっと、どこから来たっけ?」
「私の背後です。ここに来てすぐ、この木に手を突いたので」
下半身に付いた汚れを払い、苔だらけの木に目を凝らした。うっすらと私の手の跡が残っている。
「あんちゃんがしっかり者で助かった。これなら自首しても大丈夫だね」
すれ違う杏さんを目で追えなかった。突然というか、当たり前のことに驚いて動けない。
死ぬことは回避しても、その後はどうなるか考えてなかった。そもそも杏さんは人を殺している。それがどういう意味なのか、もっとちゃんと考えるべきだった。
恐らくはもう普通には暮らせない。人を殺して、バラバラにして、あちこちに埋めた。法律には明るくないものの、刑が重くなる方へ動いていたことだけは分かる。このままいけば十数年会えなくなるか、それとも永遠の別れになるか。
そんな杏さんに告げた、わがままな願い。なんて残酷なことをしてしまったのだろう。どうなるかも分からない未来を勝手に描いたのに、どうして杏さんは考え直してくれたのだろう。
「待ってください」
先を行く杏さんの前に立ちふさがる。捕まったら会えなくなるかもしれない。ひょっとしたらずっと会えない可能性もある。
目を泳がせ、伝えたい思いが暴走する私を、杏さんはじっと待っていてくれている。そんな姿に飛び出たのは、子どものようなわがままだった。
「自首、しないでください」
私は何を言っているの。そんなの許されるわけがない。たとえ杏さんが親友だとしても、罪を犯したのなら償わなければならない。それが普通、当然、明白。
そんなの分かってる。頭で考える必要がないほどに。でも、でも。
「会えなくなるかもしれないなんて、嫌なんです」
「それは私もそうだけどさ」
「私、逃げる手伝いをします。どこかアパートを借りてそこで二人で暮らしませんか。買い物も家事も全部私がやりますから」
杏さんは目を細めたまま動かない。
「きっとうまくいきますよ。捕まったとしても私が無実を証明します。アリバイとか話せばきっとどうにかなります」
杏さんは下唇を噛んで動かない。
「他にも、えっと、そう、そうだ。彼氏さんを殺したのは私ってことにしませんか。私が捕まれば杏さんは無実で――」
「あんちゃん。駄目。駄目だよ」
ふるふると首を振る杏さんに、夢想ばかりを並べていた口は閉じた。
「その気持ちはすごく嬉しい。だけど私が彼のためにしたことを奪わないで」
「奪うってそんな、私はただ」
「助けたいって気持ちはもちろん分かるよ。だけどね、あんちゃんが罪を被ったら、彼への愛まで失いそうで怖いの」
意味が分からない。罪は罪で愛は関係ないはず。何を、言っているの。
「彼を愛していた気持ちも、憎んでいた気持ちも全て私と彼のものなの。それをあんちゃんに取られたら何も残らなくなっちゃう。前へ、進めなくなるんだよ」
その清々しい笑みの意味を、今の私にはきっと理解できない。誰かを心から愛し、心の底から憎む。いつかその感情を理解できるのだろうか。杏さんのように穏やかな顔つきになれるのだろうか。
「それにさ」
私の肩に軽く乗せられた手。軽くぽんぽんと叩いた後で杏さんは再び歩きだした。その背中に儚さを感じてとっさに追った。
「犯罪者のまま、あんちゃんの親友になりたくないんだ」
にこやかに微笑んだ後、杏さんは何も語らず歩き続けた。樹海というのに堂々と胸を張っている。自首する決意は変わらないらしい。それを受け入れるしかないのか。本当にそうするしかないのかまだ迷ってしまう。
十分ほど考え込みながら歩いた後、ついに我慢できなくなって声をかけた。
「杏さん」
「うん」
杏さんはこちらを見ない。足を止めず前を見ている。
「自首しても、また会えますよね」
「さあね。どうかな」
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