アンズトレイル

ふみ

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 杏さんのため息まで耳に入るも、富士山から目を離せない。心を奪われる体験は初めてで、しばらく絵画のような景色を目に焼き付けた。
「あんちゃんも飲んで」
 満足のため息に杏さんが気付いたのか、ペットボトルを差し出してきた。受け取ってすぐはその意味は分からなかった。けれどキャップを回して麦茶を口に含んだところで、喉の渇きにようやく気が付いた。
「涼しいとはいえ、水分補給はしないとね。富士山見つめて熱中症になっても笑えないし」
「すみません。つい夢中になっちゃって」
 ハンカチを取り出して額を拭う。乱れた髪を手櫛で整えながら、日差しから逃げるように日陰へと避難した。杏さんと二人小さくため息をつき、再び湖へ目をやる。けれどもすぐに富士山へ視線が流れそうになり、とっさに目をつむった。
 もう見なくても大丈夫。心にしっかり刻み込んだ。すっかり忘れていたけれど、やらなければならないことがある。
 静かに押し寄せる波へ目をやっていると、杏さんが波打ち際へ。その背中と光る水面を視界に入れる。ここを離れれば、後はもう死ぬだけ。どうにかして杏さんに生きてもらわないと。
 さらに深く考えようとして、ふと自分の中から声が聞こえた。
 どうして生きてもらわないと駄目なんだろう。私が死んでしまえば、後のことは気にしなくて済むのに。杏さんが死んでいようが生きていようが、この世にいない私には関係ない。関与しようがない。
 それなのに、なぜ、私は杏さんに肩入れしようとしているの。
「ねえ、あんちゃんさ」
 背中越しの声。こちらへ振り返らず、背中で組んだ手は人差し指を揉んでいる。
「どうして死のうと思ったか、教えて」
「いじめられて――」
「原因だけじゃなくてさ、私と出会った日までのこと、全部教えてほしいの。いじめられて死のうと思った時まで全部」
 波に揺れる海藻の匂いに混じり、鼻をくすぐる杏さんの香り。確かにそこにいる。私のそばにいてくれる。
 聞いたってなんの得にもならない。きっと気を悪くするだけ。それに今はそんなことしている場合じゃない。そう頭では分かっていても、不思議な安心感につい口を開いてしまった。
「小学生の頃から人見知りで、高校に入っても友だちは一人もいなかったんです」
 それに味方もいなかった。家庭にも学校にも、私に手を差し伸べる人は存在しなかった。私を疎ましく思う人間か、無関係の人間のどちらか。腫れ物のような扱いは高校生になっても変わらなかった。
「だから今年、高校二年生になって初めてコンタクトにしてみたんです。映画のように何かが変わるかもって」
「それが、昨日話してくれたいじめのきっかけ?」
 頷くも杏さんは振り返らない。後ろに回した手は忙しなく遊び続けている。
「はい。教科書や筆箱がなくなったり、廊下ですれ違うと悪口を言われました。何も、悪いことなんかしていないのに」
「そこまで急にひどくなったの? たった一人に嫌われただけなのに?」
「多分、皆でスタートの合図を待っていたんだと思うんです」
「合図?」
「今まで腫れ物を眺めていたけれど、一人がいじめたから、私も俺もやってみよう。多分そんな軽い気持ちだったんです。理性で抑えつけてたものが栓を抜いたように一斉にあふれ出した。そんなところですよ」
 投げやりに吐き捨てる。目をつむると焼き付けたはずの富士山の姿は欠片もなく、あの地獄が色鮮やかに浮かび上がった。
 毎日毎日悪夢にうなされて朝を迎え、吐き気を催しながら登校し、胸の痛みに耐えながら日が沈むのをひたすら待つ生活。
 今思うと、もっと早く死ねばよかった。もっと早く楽になればよかった。
「ご両親に相談は?」
「母には相談しました」
「それで?」
「何も、何も変わりませんでした」
 杏さんから聞こえた息をのむ音。けれどもすぐに葉擦れにかき消された。
「私が弱いからだと言われました。父にも相談しようと思いましたが、仕事が忙しいみたいで相談すらできなくて」
「だから自殺を選んだの?」
「そう、ですね。両親があまり好きでなかったにしても、心の底では信じていたんです。家族だから助けてくれるって。でもそんなことはなくて、ただの扶養だったんです」
「すごい言い方するね」
 杏さんが肩をすくませた。
「衣食住を用意してくれるだけですから。家族にも見捨てられて、何もかも嫌になって、夏休みが明ける前に死のうと思ったんです」
 何かをやり遂げたような気になって深く息を吸う。磯の香りが肺に広がっても、脳裏に浮かぶ光景は消えない。余計なことを考え過ぎてしまった。こんなことをしている場合じゃない。それは分かってる。だけど、もう一度口を開いてしまった。
「友だちなんてできないと諦めていました。でも、杏さんと出会って間違いだと分かったんです」
 ずっと見つめていた背中。手遊びをしていた指がピタリと止まる。後ろ手に組んでいた手がぶらりと垂れ下がった。
「杏さんに出会えて本当によかったです。だから――」
「そろそろ行こうか」
 振り返った杏さんの目を見て、喉まで出かけた言葉は霧散した。目の前に広がる湖の底よりも深く、泥のように濁った瞳。見覚えがある。私が一番よく知っている。自殺を決意した夜、鏡に映っていた私の目とそっくりだった。
「待ってください。もう少し、もう少しだけ見ていきませんか」
「早めに行かないと検問で捕まっちゃうかもしれないよ。死ねなくなるの、嫌でしょ?」
 一瞬だけこちらを見るも、杏さんはそのまま去ってしまった。波の音と砂利を踏む音。そんなのが聞きたくてここに来たんじゃない。ちゃんと想いを伝えたかった。その答えを聞きたかった。
 生きる価値のない私に喜びを教えてくれた杏さん。離れることの痛みを教えてくれた杏さん。それに自分の知らない自分を何度も表に出せた。杏さんとの触れ合いで暖かさを覚えられた。
 そんな杏さんが死ぬ。許せるはずがない。私なんかより価値のある杏さんが死んでいいわけがない。私だけ死ねばいいはずなのに、どうしてそこまで彼氏さんを想えるのだろう。
 そんなの、恋も愛も知らない私に知る由もない。分かりきった疑問に頭を抱えながら、とぼとぼと後を追った。


 これほどまでに頭を使うのは受験の時以来。どうすれば杏さんの死を回避できるか。走り続ける車内でひたすらに考え続けた。
 絶えず視界に広がる富士山も、カーナビから聞こえるニュースもさして気にならない。両手で持ったスマホに映る地図を見続け、時折杏さんに聞かれたことを答える。
 それ以外の時間は自分の中へ深く潜り込んだ。表面上は無表情を貫きながらも、必死に脳を動かし続けた。
 けれどもそれは、結果的に意味をなさなかった。
「着いたよ」
 ただ開けていた視界に色が戻る。到着と聞いて樹海の真っただ中かと思ったけれど、車窓に映るのは多くの車と人の賑わい。あれほどあった時間で、ついに何もできなかった。
「ここ、ですか?」
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