アンズトレイル

ふみ

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「そっか。あんちゃん、ちょっと来て」
 杏さんがちらと背後のベッドを見た後、その縁に腰掛けた。ぽんぽんとベッドを軽く叩いて私を呼んでいる。
 ゆっくりとまばたきを一つ置いた後、ほんの少し距離を空けて杏さんの隣に腰を下ろした。何度も嗅いできた柔らかい匂いと、忘れかけていたほんのり香る腐敗臭。鼻の奥につんと来る臭いに無表情で耐えていると、急に杏さんが抱き着いてきた。
「ごめんなさい」
 背中へ回された手と、耳元で囁く涙声。少しだけ肩が温かい。
「今更信用してとは言わないし、無理にも連れて行かない。私が嫌ならお金を渡すから、一人で樹海へ行っていいよ。だけど、だけど」
 私を抱く腕に力が込められる。その痛いほどの強さがなんだか嬉しい。誰かにここまで必要とされている。それがたとえ殺人を犯した人だとしても、その気持ちは変わらない。
 そう考える私はもう、杏さんと同じように壊れてしまったらしい。いや、初めから壊れていたんだろう。壊れていたからこそ、出会ってしまった。
「あんちゃんとはもう少しだけ一緒にいたいの。お願い」
 顔の見えない杏さんの泣き顔が脳裏にあり続ける。一度冷静になったせいか、心の奥にいた闇がそっと顔を覗かせた。
 ひょっとしたらこれは演技なのかもしれない。また私を遺体遺棄に利用したいだけ。この必死さも明日には終わる。死にゆく私に価値はない。埋め終わった途端、ぽいっと捨てられるに決まっている。
 まるで耳元で囁くような声を全て受け入れた。確かに杏さんを信じる理由は何一つない。殺人犯で、後始末を手伝わせようとして、いないはずの彼氏さんと話す人。それが今の杏さんだ。
 けれども信じる理由がないのと同じくらいに、裏切られた時に失うものは何もなかった。
 私には命の他に何もない。金も名誉も友だちも家族もない。胸の痛みも悲しみも、どうせすぐに感じなくなる。それこそ杏さんに殺されるのなら本望だ。
「私でよければ」
 ずっと空いていた手を杏さんの背中へ回す。恐らく誰かと喜びを分かち合ったり、悲しみを共有するというのはこういうことなのだろう。十数年感じえなかったものが杏さんを通して胸に広がっていく。大げさだろうけど、この暖かさは紛れもないものだった。
「ありがとう。ほんとに、ありがとう」
 密着していた体が離れ、杏さんの顔が目に入った。想像よりもだいぶ泣いていたようで、頬を伝う涙の他に鼻の周りが目についた。
「杏さん。あの」
 体を捻り、ナイトテーブル上のティッシュへ手を伸ばす。数枚取って杏さんに差し出した。初めは意味が分からないとまばたきを繰り返す杏さん。しかし私が鼻先を指さすと、照れくさそうにしながら受け取ってくれた。
「ごめんね。泣いちゃうといつもこうなの……ねえ」
「はい」
「私のこと、嫌いになった?」
 ティッシュを片手に泣き腫らした目で私を見る杏さん。その表情はとても魅力的で、加虐心がなくとも胸がどきりと高鳴ってしまった。
「なりませんよ」
「そっか、そっか。ありがとう」
 涙と鼻水を拭いて現れたのは、いつもより柔らかい笑み。年上だとは分かっていても、なぜか小さな子どもの笑みに見えて仕方がなかった。
「私の顔に何か付いてる?」
「あ、いや、えっと、そうだ、一つ聞きたいことがあって」
 ごまかすように目をそらした先、杏さんの荷物が目に入った。そういえば彼氏さんの頭部はどうするのだろう。
 二人きりで話したいと言っていたけれど、その後はどうするつもりなのか。自首して罪を償うのか。それとも殺人犯として逃げ続けるのか。
「彼氏さんの頭はどうするんですか」
「彼を抱いて死ぬつもりだけど?」
 杏さんは柔らかい表情を崩さない。しぬ。シヌ。死ぬ。たった二文字を理解するのに時間がかかった。
 そして理解したのと同時に襲いかかる、ズキズキとした胸の痛み。顔が歪みそう。涙がこぼれそう。自分の死よりも杏さんの死を前にして吐き気さえ催しそう。それほどまでに私は杏さんを……。
「死ぬって、そんな、どうして」
 急に恐ろしくなって口を開いた。問いを投げても頭の中は杏さんの死で埋もれ、思考がうまくまとまらない
「生きていてもつまらないもの」
 杏さんが背後に倒れベッドに寝そべった。栗色の髪が扇のように広がっている。
「彼のいない世界で生きてもいいことなんかないし。だから彼を抱えながら一緒に死ぬ。すてきじゃない?」
「もしかして初めから死ぬつもりだったんですか?」
「うん。死ぬつもりだからこそ彼を適当に埋めてきたんだよ。見付かるかどうかはどうでもよかったし」
 あっけらかんと語る杏さんから目を離せない。彼氏さんのアパート、海水浴場のごみ箱、小学校の中庭、駄菓子屋。深く考えれば分かることだった。
 なんてずさんな計画。まるで生き死により忘れたいものがあると暗に告げているよう。ひょっとしたら真意にたどり着けたかもしれない。そんな後悔も今となっては遅いけれど。
「彼を憎む気持ちに別れを告げて、想い出と一緒に心の外へ置きたかったの。その後で彼を愛する気持ちだけ抱いて、一緒に死にたかったんだ」
 杏さんが横に放っていた手を持ち上げ、天井へと手を伸ばす。今まで見てきた中で一番穏やかで、何もかもを諦めたような顔で。
 優しい表情のはずなのに、感じたことのない胸の痛みに襲われる。クラスメイトや家族が死のうと、関係ないと思考停止していただろう。けれど杏さんは違う。杏さんだけは違う。
 それだけはどうしても、受け入れ難かった。
「駄目……駄目です」
「え?」
 急に腰を上げた私に気付いたのか、杏さんも体を起こした。こちらを見上げる視線と交差し、互いの息遣いしか聞こえなくなった。
「死なないでください。杏さんは、駄目です」
「どうして? 自分は死ぬのに?」
「私はいいんです。死んだら何も残りませんから。でも杏さんは素晴らしい人で優しくて、その、友だちだから」
「そっか。その気持ちは嬉しいけれど、ごめんね」
 杏さんが立ち上がる。そのまま入り口へ歩いたものの、すぐに足を止めた。
「あんちゃんより彼が大事なの」
 私を見ているようで見ていない瞳。向き合っているはずなのに視線は交差しなかった。
「ちょっと飲み物買ってくるね」
 振り返ることなく杏さんは廊下へ。ドアが閉まるのと同時に、力が抜けたようにベッドに座り込んでしまった。
 室内にいるのに手足が氷のように冷たい。けれど体は日差しが当たるように熱を帯びて、鼓動が耳のすぐそばで聞こえる。これは、何だろう。
 絡まってぐちゃぐちゃになった思考の糸を一つ一つ解いてく。彼氏さんを見た衝撃じゃない、言い合いじゃない。となれば、そう、そうだ。
 杏さんを失うのが、怖いんだ。
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