漫画家へGO プロ漫画家インタビュー

No. 6ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり
竿尾悟先生

わたしの履歴書

第1回 自分の「好き」を、マイペースに貫いて至った漫画家への道

漫画家になる!そのきっかけは一冊の雑誌にあった

――高校卒業後、大学生になってから本格的に投稿を始められたんですか?

いや、大学時代は漫研に所属していたので、そちらで出す部誌などには描いたりしていましたが、あまり投稿はしていませんでしたね。

――今度はペースが落ちましたね(笑)。その頃愛読していた雑誌や好きだった作家さんは?

その頃から「ドラゴンマガジン」(富士見書房)を買い始めて、ファンタジーにかぶれてきていましたね(笑)。あらいずみるいさんや田中久仁彦さんが好きでした。それと伊藤明弘さんが「コミックドラゴン」で連載していた「ベル☆スタア強盗団」が好きだったんですが、彼が「ジオブリーダーズ」を描いていたのがきっかけで「ヤングキングアワーズ」(少年画報社/以下、「アワーズ」)と出会って……。平野耕太さんが「HELLSING」を始められた時に読者投稿ハガキを送っちゃいました(笑)

――それが「アワーズ」に投稿したきっかけになったんですね。実際に投稿したのはどういう作品だったんでしょうか。

32ページくらいのロボットものですね。シリアス寄りで、人型兵器のロボ娘が主人公でした。第三次世界大戦を舞台にしたSFっぽい感じで、オスプレイが出たり。当時から志向が変わらないんですが(笑)

――ミリタリー知識を存分に盛り込んで(笑)。その作品の手応えはいかがでしたか?

タチキリとか、基本的な漫画の技術ができていなかった原稿なので載ってはいないんですが、奨励賞をいただいて。それが大学4年、卒業間際の頃でした。

――でもその状況だとまだ、卒業してすぐに漫画だけでは……。

記念すべき商業デビュー作は「コンバットコミック」(日本出版社)に掲載された「プロホロフカの対決」。デビュー作とは思えない画力!

食べていけませんでしたね。なので警備員や地方新聞の厨房でバイトしてました。でもどちらもあまり長くはしていなくて、最長で半年くらいで辞めて、その後は地元の漫画家さんのアシスタントに入りました。

――アシスタント先は少年画報社さんの紹介だったんでしょうか。

いえ、地元の画材屋に貼ってあったアシスタント募集の張り紙を見て。

――レコード屋のバンドメンバー募集みたいですね(笑)。具体的にはどなたのアシスタントを?

「月刊少年チャンピオン」(秋田書店)で「鬼組」という作品を連載されていた藤井克己先生です。先生ご本人はかなり郊外に住んでおられて、メインのアシスタントさんが自分が住んでいる場所と同じ市内にいたので、そこに通ってお手伝いをしていました。

――じゃあ原稿はメインのアシスタントさんが受け取ってきて、同時に指示も受けて。

そうですね、先生が描くキャラが入る前にバイクや背景を描く形で。しかもそこに通っていたのは自分1人だったんですよ。

――よく現場が回っていましたね!

回っていたんですよ(笑)

――ではアシスタントをしながら自分の作品を投稿するようになって、どのくらいの期間で初連載に至ったんでしょうか?

賞を取ってから1〜2年くらいでしたかね? 読み切りを2本ほど描いて、そのあと「アワーズ」で「迷彩君」の連載がスタートしたんです。

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