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1巻
1-1
しおりを挟む1、【ラスク視点】助けてやろうと思ったのに
その日は本当になんてことのない普通の日で、僕はいつも通り薬剤の調合に使う薬草を採りに、草原に出かけていただけだったんだ。
花がそこここに咲き乱れ、風が柔らかくそよいでいる。気温もちょうどいいし、お日様もぽかぽかと気持ちいい。
そんなものすごくのどかでうららかな、春の日。
あまりに気持ちいい陽気だから、ちょっと足を伸ばして湖まで行ってみるかって、ふと思ったんだ。辿り着いた湖は陽の光を映してキラキラと光っていて、これまで見た中で一番綺麗だった。
来て良かったなぁなんて思いつつ、他には誰もいなかったから薬草をのんびりと採取する。滅多に湖までなんて来ないし、ついでにあれもこれも、と欲を出したのが失敗だった。
湖の一部に群生する背の高い草をかき分けて根本に生えるオーリ草という水草を夢中になって採取していた時、いきなり真後ろで何かが倒れるような鈍い音がしたんだ。
魔物か!?
一瞬震え上がったものの、魔物特有の瘴気は感じられない。
恐る恐る振り返ると、僕と同じくらいおっきい黒い塊が倒れていた。
……犬?
それとも狼か?
漆黒の耳とかしっぽとか、見た感じはイヌ科っぽい。
ピクリとも動かないから、つい凝視する。
その犬っぽい漆黒の塊は、どうやら背中に深い傷を負って気を失っているように見えた。
魔物にでも襲われたんだろうか。
毛並みがものすごくいいから、もしかしたら飼い犬なのかもしれない。
……手当て、するか……?
ちょっと悩む。
魔物じゃなくたって野生化したイヌ科の動物に本気で襲いかかられたら無事じゃ済まないかも。
でも今は気を失っているみたいだし、ものすごく綺麗な毛並みの立派なワンちゃんだから、ワンコ好きの僕としては助けてあげたい。背中なんて、舐めて治癒するのも難しそうだし。
幸い手持ちのポーションが三つほどある。一つくらい使ったって、今日ここから帰る分くらいなら問題ないだろう。今日はいっぱい素材が採れたし、帰ったらまた作ればいいんだから。
薬師ならではの気軽さで、ポーションを使ってやることにした。
ポーション片手に真っ黒ワンコにおずおずと近づく。その途端――
「ガウッッッ」
「ひぃっ!!」
真っ黒ワンコの首がグイッと持ち上がり、思いっきり牙を剥いて吠えられる。
恐ろしすぎて思わず尻餅をついた僕は悪くない。だって心臓が止まるかと思うくらいに怖かった。
めちゃくちゃ威嚇してくるじゃん……!
幸い傷が深くてそれ以上は動けなかったのか、怖い顔でグルグルと唸るだけで飛びかかってくる様子はない。とりあえずは安堵する。
きっとケガして気が立っているんだ。刺激しないようにこの場を去ろう。
そう思ったのに、立ち上がろうとすると力が抜けて、ペタンと地面にへたり込む。
……なんてこった。
最悪だ。あまりの迫力に腰が抜けたらしい。
切ない。僕は涙目で恨み言を零す。
「なんだよもう、助けてやろうと思ったのに……」
「わう……!?」
「びっくりしすぎてポーション、投げちゃったし……」
ほんと最悪。
場所が水際だったせいで泥だらけだ。ポーションはちょっと遠い泥の中に半分埋まっている。
立てないから、真っ黒ワンコを刺激しないようにゆっくりと四つん這いでポーション回収に向かった。
もうヌプヌプの泥まみれだ。全身気持ち悪い上、腰が抜けるレベルで怖い思いをして、さっきまでの心地良さは皆無だ。
もう帰ろう……
でも、背を向けた途端に飛びかかられたら確実に死ぬ。
それが分かっているだけに、僕は真っ黒ワンコから視線を外さないまま、慎重に後ずさる。
つーか、泥の中を四つん這いで後ずさるの、難しすぎない?
「っ! わふっ……?」
僕と目が合ったままの真っ黒ワンコが急に驚いたみたいな声をあげた。僕との距離が離れたのに気が付いたのだろう。
「心配しなくても近づいたりしないよ。もう帰る」
そう言った直後――
「きゅ、キューン! キューン……!」
ぴくっと反応したワンコが、焦ったように切ない声をあげ始めた。
「え!?」
「く、くぅん、キューン」
さっきとは打って変わった態度に、僕は言葉もなく真っ黒ワンコを凝視する。
「くぅん、くぅん、キューン。ぴすぴす、キューン」
「もしかして、僕に帰らないでほしいの?」
「わふっ」
明らかな返事に思わず笑った。
人間と一緒に生活しているワンコは人間の言葉を理解しているって聞いたことはあるけど、本当なんだな。きっと僕が「助けてやろうと思ったのに」って言ったのが分かったのだろう。
これ見よがしにこっちが罪悪感を抱くような悲しげな声をあげた上にしっぽをパタリと振るなんて、なかなか頭がいい。
「お前、やっぱり飼い犬だったことがあるんだろ。現金だなぁ」
「わふ……」
「傷を治してやるから、近づいても怒るなよ?」
「わふっ!」
真っ黒ワンコの目がキラッと煌めいた。本当に現金だ。
近づくにつれ、ぬかるんでいた足場が徐々に硬くなっていく。真っ黒ワンコの雰囲気が穏やかになったおかげか、腰が抜けていた感覚も薄くなり、湖の淵を越える頃には立って歩けるようになった。
でも、まだダッシュで逃げられるほどは足に力が入らない。
僕はことさらゆっくりと真っ黒ワンコに近づいて、できる限り優しく声をかける。
「頼むから、傷が治った途端に襲ってきたりしないでくれよ……?」
「わふ」
真っ黒ワンコは「大丈夫だ」とでも言いたげにしっぽをパタ、と振ってみせた。
こうしてみるとなかなか可愛い。でっかいけど。
念のために防護結界を三回重ねがけしてから、真っ黒ワンコの傍に膝をつく。もう唸ったり威嚇されたりはしなかった。
「うわー、エグい傷」
背中の肉はごっそりと抉り取られている。かなりでかい魔物につけられたようだ。
よくぞ逃げ延びたものだ、と感心しつつポーションを塗り込んでやった。
「グルルルル……」
痛そうに顔をしかめながらも、真っ黒ワンコはじっと耐えている。
僕は傷口が塞がったのを確認してから、ポーションの残りを手のひらに取って口元に差し出した。
真っ黒ワンコは俺をジッと見た後、大人しくそれを舐める。ぴちゃぴちゃと音を立てて舐めとり、なくなるとゆっくりと立ち上がった。
やっぱデカい。僕の腹くらいまで体高がある。
若干動くのが億劫そうではあるけれど、足もよろめいていないし、もう攻撃的な様子もない。
「もう大丈夫そうだな」
ホッとした。
と、同時に自分の汚れっぷりが気になってくる。
さっきは気持ちが折れて帰ろうとしていたものの、こんなに上から下までどろどろの状態で帰るのはさすがにあんまりだ。せっかく湖にいるんだし、湖の中に危険な生き物がいるわけじゃない。
魔物は今のところ姿を現さないし、真っ黒ワンコも襲ってはこないだろう。
手早く水浴びして、服もざっと洗ってしまおう。歩いてりゃそのうち乾くだろうし。
背の高い草が生い茂ったところだと見晴らしが良くないため、開けた場所で水浴びしようとテクテク歩き出す。すると、一定の距離を保ったまま真っ黒ワンコがついてきた。
感謝してくれているのかなぁとちょっとホッコリする。
周囲が見渡せる湖の岸で僕が服を脱ぎだしても真っ黒ワンコは去らなかった。
「元気になって良かったな。気にしなくていいから住処に帰りな」
そう声をかけてみたのに、フンスとでかい鼻息を漏らしてその場でくるんと丸まる。そして、時々こっちをチラリと見た。
立ち去る気はないという意思表示にも見えるけど、もしかしたら単純にまだ体力が回復していないのが不安で人の傍にいたいのかもしれない。
ま、とりあえず今は体と服を洗うほうが先かと思って、僕はさっさと服を脱ぎ体と服をじゃぶじゃぶ洗う。
やっとスッキリした。ああ、僕ののどかな一日が戻ってきた……
心底ホッとしつつパンツを穿いて、ズボンも穿こうとしたその時だ。
「っ!?」
とんでもない瘴気に襲われた。
僕は完全に固まる。だって、こんな濃い瘴気、これまで感じたことなんてない。
眼球だけはなんとか動いたから、恐る恐る瘴気のほうを見ると、見たこともないような立派な銀の鬣を持った魔物が舌舐めずりをしていた。
生物としての圧倒的な格の違い。あちこちケガをしているみたいなのに、その身から醸し出される強者のオーラが燃え上がるように恐ろしい。
あ、僕、死んだ。
「ガウッ!!」
思考停止した耳に、真っ黒ワンコの声が響く。
いつの間にか雄々しく立ち上がった真っ黒ワンコが、僕を守るように魔物と僕の間に立ちはだかった。でもその勇敢な後ろ姿を見られたのはほんの一瞬で、地を蹴った黒い体は銀の鬣を持つ魔物へ躍りかかっていく。
「ひえ……」
激しい戦闘を繰り広げる二頭を前に、僕は情けない声をあげて震えることしかできない。
戦いは互角に見えたが、二頭の間に少しずつ優劣がついてきた。
真っ黒ワンコの劣勢だ。なんせあの銀の鬣の魔物、爪も牙も大きく強靭で、真っ黒ワンコはどんどん傷だらけになっていく。
真っ黒ワンコが倒されたら、僕なんて瞬殺だ。
ゴク、と唾を飲んで、僕は震える手で足元のバッグからポーションを取り出す。
僕のなけなしの魔術でポーションを気化し、効果を凝縮させて真っ黒ワンコを支援した。ポーション二本ですっかり回復した真っ黒ワンコが一気に優勢になる。
そのタイミングで拘束魔術を放つと、ほんの一瞬だけ銀の鬣を持つ魔物の動きが止まった。
勿論その一瞬を見逃す真っ黒ワンコじゃない。喉笛にがっちり噛み付いて、しっかりと息の根を止め勝利の雄たけびをあげた。
凄い!! めっちゃ凄い!! 真っ黒ワンコ、超強い!!
僕は力の限り拍手する。
それに気を良くしたらしい真っ黒ワンコが、鼻先をツンと上げた得意そうな顔で僕のほうにのっしのっしと歩いてきた。
ワンコでもドヤ顔しているって分かるんだなぁ。
内心面白く思いつつ、僕は真っ黒ワンコを手放しで褒めた。
「真っ黒ワンコ、お前凄いじゃん!!」
わしゃわしゃと頭やら首やらを撫でてやると、嬉しそうにわふわふ言う。耳がピーンと立って、しっぽが誇らしげにわさわさと振られた。
こうしていると、真っ黒ワンコも可愛い。
「お前にあんなエグい傷つけたの、あの魔物なんだろ? 良かったなぁ倒せて」
「わふっ!」
嬉しそうにわふわふ鳴いているのが愛らしい。
手持ちの干し肉を差し出してやると元気にバクッと食い付く。はぐはぐと幸せそうに食べているのを見て満足した僕は、よいしょと立ち上がってふと気が付いた。
あ、服着てなかったわ。
ちょっぴり恥ずかしく思いながらもそもそと服を着て、今度こそ町のほうへ足を進める。
「わふっ!?」
なんか真っ黒ワンコの声が聞こえたなぁと思った瞬間、押し倒されていた。
「痛てっ!!」
「わふっ」
目の前に真っ黒ワンコの顔がある。
「なんだよ、お前……」
「わふっ、ガウ、グルルっ」
デッカい前脚で胸を押さえ付けられて凄まれた。
なんなの急に……
ひょいと俺の上から退いた真っ黒ワンコは、なぜか服の裾に噛み付いて、どこかへ引っ張っていこうとする。仕方がないからついていくと、さっきの銀の鬣の魔物のところに導かれた。
「なんなの……?」
「ガウッ」
「なんかやれって言ってる?」
「ガウ」
そうだとでも言いたそうな顔。ちょいちょいと銀の鬣を前脚でかいてみたり、爪や牙の部位を鼻でツンツンと突いて見せたりする。僕はもしかして、と思い当たった。
「素材採取しろって言ってる?」
「わふっ!!」
嬉しそうに肯定される。
「お前、冒険者に飼われてたの……?」
まさかワンコに素材採取を要求されるとは。
確かに素材として冒険者ギルドに持ち込めば、めっちゃ金になりそう。
「うーん……全部自分で解体するのは無理そうだから、特徴的なとこだけ採取して後はギルドで解体をお願いしようかな」
「わふっ!」
僕の言葉を聞いた真っ黒ワンコは満足そうに銀の鬣を前脚で指した。
なるほど、そこを持ってけってコトね。
一旦銀の鬣だけを採取して町に戻り、冒険者ギルドにそれを提出した。ギルドスタッフのアンドルーさんに死ぬほどびっくりされる。
なんでもここらじゃ滅多に出現しない、A級の魔物だったらしい。
僕なんかじゃ名前も聞いたことがなかった。
アンドルーさんたちにこの真っ黒ワンコが倒したんだ……と説明しようとしたものの、ついさっきまでついてきていたのに、いつの間にかいなくなっている。
仕方がないから言葉だけで説明するしかなかった。
そもそも僕みたいなもやしっ子がA級魔物を倒せるはずがないし、魔物の傷痕から見ても僕は薬と魔術でサポートしただけで、倒したのは犬だという主張は理解してもらえたようだ。
それでも真っ黒ワンコが姿を消した以上、僕に報酬が支払われる。今まで手にしたこともない莫大な報酬を貰った僕は、文字通り震え上がった。
こんなに凄い報酬貰えちゃうの……!?
素材や薬を納入したってこんな額にはならない。
ギルドから出た僕は、しばし呆然と立ち尽くす。こんな大金、持って歩くのも怖い。
いや、ほとんどはギルドに預けたんだよ? でも、ちょっとくらいは贅沢してもいいかなと思って、お給料の倍くらいの額を現金で貰ったんだ。
本当はあの真っ黒ワンコにも報酬をあげたいんだけどな……っていうかあのワンコ、いつの間にかいなくなっていたけど、干し肉なんかじゃなくてもっといい肉を食わせてやれば良かった。
「わふ」
「お前……っ」
いなくなっていた真っ黒ワンコが、また目の前にいた。
めちゃくちゃドヤ顔をしている気がする……!
いや、それは置いといて。僕は声を張り上げた。
「アンドルーさん! アンドルーさ――ん!! 真っ黒ワンコいましたー!」
「なにっ!?」
ところが、だ。アンドルーさんがギルドから出てくるよりも早く、真っ黒ワンコが姿を消す。
「あーっ! いなくなった!」
「なんだと!?」
「今いたのに! ドヤ顔してたのに!」
「なんだそりゃ」
アンドルーさんが笑い出す。いつ見ても笑い皺が優しそう。ちょっとタレ目なのが色っぽくって、整えられた顎髭がダンディな彼に、僕は見惚れてしまった。
S級冒険者でも一目置くほど解体や鑑定の腕があるって噂なのに僕みたいなぺーぺーの冒険者にも優しい彼は、憧れの人でもある。
かっこいい。僕もこんなダンディな大人になりたい。
「ま、あんまり人前に姿を見せたくねぇのかもな。でもラスクの前には現れるのなら、ラスクには気を許してくれてるんじゃねぇか?」
「そうかなぁ」
どっちかっていうと、ナメられている気がするけど。
それでもアンドルーさんに頭をポンポンと優しく撫でられているうちに、そうなのかもなって気持ちになってくる。
僕は親の顔を知らないけど、お父さんってこんな感じなのかなぁ。
「ま、その『真っ黒ワンコ』について分かったことがあったら教えてくれ」
「はいっ!」
「気を付けて帰れよ」
「ですよね……」
アンドルーさんの言葉に身が引き締まる。
そうだよね、とりあえずはこの大金を無事に家に持って帰らなければ。
バッグをしっかり抱いた僕は、アンドルーさんと別れて市場に入った。
屋台で豪華に色々買っちゃおうかなぁ、とウキウキして屋台に近づく。美味しい匂いに鼻腔がくすぐられて、幸せな気分だ。
「わう」
またお前か。
いやでも、ちょうどいいっちゃ、ちょうどいい。
「真っ黒ワンコ、お前のおかげで信じられないくらい報酬貰ったから、なんでも好きなもん買ってやるよ。すっげぇいい肉でも食う?」
「わふっ!」
しっぽ、めっちゃ振ってる。腹、減ってたのかなぁ。まぁ、あんだけ戦った後だもんな。
真っ黒ワンコのご要望にお応えして巨大な塊肉を買ってやった。なのに、その辺で食わせてやろうとすると凄い勢いで吠えられ、あげくに拗ねた様子でそっぽを向かれる。
「いらないのかよ」
どうしたらいいのか分からない。ワンコ好きではあるものの飼ったことはない僕に、真っ黒ワンコの気持ちが分かるはずもなかった。
「しょーがないなぁ、暗くなってきたし、帰るか……」
今日は怖い思いもしたし泥だらけになったし、とにかく疲れた。早く家に帰って美味いもん食って、お風呂にゆっくりと浸かってから泥のように眠りたい。
「ここに置いとくから、気が向いたら食えよ」
真っ黒ワンコの横に生肉を袋ごと置いて踵を返す。
家路を急いでいると、後ろからカサカサという音が聞こえてきた。
振り返ると、真っ黒ワンコ。しっかりとでっかい生肉が入った袋を咥えている。
「え……ついてくるの?」
どこまで? まさか家まで?
「おい! ついてきたって僕、飼えないからな!?」
焦ってそうはっきり言うと、真っ黒ワンコはツーンとそっぽを向く。
ちょっと待って、ウソだろ!?
諦めてもらおうとしばらく動かずにいたり撒こうとしてみたり追い立ててみたりしたけど、真っ黒ワンコのほうが二枚も三枚も上手だった。
そして今。
不本意ながら僕と真っ黒ワンコは、僕の家の前で鼻を突き合わせている。
「とうとう家までついてきたな。まさか本当に僕ん家に入り込むつもりか?」
「わふ」
当然みたいな顔、やめてほしい。
「言っとくけど、家に入りたいなら絶対にお風呂に入ってもらうよ」
ピクン、と犬耳が揺れる。目を逸らしたところを見るに、どうやら風呂は嫌らしい。
「僕は薬師だ。魔物の瘴気だのよく分からない雑菌だの虫だの持ち込まれたら、商売あがったりなんだよ。僕ん家に入るなら風呂でくまなく洗ってからだ。これだけは譲れない」
途端に耳がペションと垂れた。ついでにしっぽもシオシオと小さくなる。
でっかいナリして叱られた子どもみたいな雰囲気を出さないでほしい。
「もしずっといたいなら風呂に毎日入ってもらうし、排泄も僕指定の場所でしてもらう。歯磨きも毎食するから暴れるなよ」
「くぅー……ん……」
明らかに本気で悲しそうな声だ。
さっき湖でクゥンって鳴いていたの、あれ、演技だろって思えてくる。まったく油断ならない。
とは言いつつ、会話が成り立っているのかと思えるくらいに表情豊かなこの真っ黒ワンコに、ちょっとずつ情が湧いてきたのも事実だ。
本当にワンコって人の言葉を理解するんだなぁ。
邪険にするのも躊躇われて、僕は一つため息を吐いた。
「……それでもいいなら、飼ってもいい」
「わふっ!?」
「お風呂に入ってから家に入るから、僕ん家の子になるつもりならおいで」
玄関の脇につけられたお風呂への扉を開けて中に入る。
町に出かけたくらいなら玄関から入るけど、魔物を解体した日なんかはまずはお風呂で瘴気や雑菌を落とすのがマイルールだ。家の中にできるだけ雑菌を持ち込みたくない。
「閉めるよ」
さすがに扉を開けたまま全裸になる勇気はないので、そう声をかけた。悩んでいる様子の真っ黒ワンコが慌てて入ってくる。
どうやらうちの子になる覚悟ができたらしい。
正直、飼い方なんて知らないし、これが仔犬だったら世話する自信がないけど、この真っ黒ワンコなら僕の言っていることがほぼ分かっていそうだ。僕にもしものことがあったとしても外に出て自分で食っていけそうだった。
食費はかかりそうだが、さっきこいつが狩ったA級魔物の報酬が何十年分もの前払いになる。
ま、なんとかなるだろう。
僕は腕まくりして水桶を手に取る。
「よーし、じゃ洗うよ!」
「キャウン……」
「ザバン!」と水をかけてやると、真っ黒ワンコがこの世の終わりみたいな声を出した。
お風呂がよっぽど嫌だったのか、真っ黒ワンコは今、部屋の隅で丸まって僕のほうをまったく見ようとしない。ツーンとした顔でそっぽを向いたままだ。
「もう、まだ拗ねてんの?」
ちゃんとタオルでゴシゴシ拭いてやったのになぁ。
「ま、いいや。飯でも作るか」
「わふっ!?」
真っ黒ワンコの耳がピーンと立って、急にガバッと起き上がる。目がキラキラに輝いているんだけど。
「いやいや、君にはデッカいお肉買ってあげたでしょ。作るのは僕の飯だから」
そんなことを言いつつキッチンに向かい、肉やら野菜やらを切っているところに、タシッ、とお尻に衝撃が。
「うわっ?」
なんなの!?
振り返ると、真っ黒ワンコと目が合った。どうやら前脚で押されたらしい。
何、その期待に満ちた目。しかも、さっき買ってやった重量級のお肉の袋を咥えている。ていうか、自分の分のお肉、持ってきたんだ……
なんだかおかしくなって、笑いながらお肉を受け取った。
「しょーがないなぁ。お肉おっきすぎたの? お前の牙ならこれくらい簡単に噛み切れるだろ」
前のご主人様に随分と甘やかされていたらしい。そう思ってお肉を食べやすい大きさに切って皿に入れてやろうとしたところで、またもお尻に衝撃が。
「なんだよ、もう」
「わふっ! わうわう、ガウッ」
何かを訴えたいのは分かるけど、あいにく僕には犬語が分からない。
「分っかんないなー」
「ガウウッ」
前脚が伸びてきて、タシッとコンロを叩いた。
「……え?」
フンスフンスと鼻息荒く必死でコンロを叩く様子に、さすがにニブチンな僕も見当がつく。
「まさか、焼けって言ってるの!?」
「わふっ! わふ、わう、グルルッ」
「そうだ!」と言わんばかりに思いっきりしっぽを振った真っ黒ワンコは、あろうことか伸び上がって塩や胡椒の瓶まで脚先でチョイチョイと突いた。
「マジで……? ワンコに塩胡椒って体に悪くないの?」
「わふぅ!」
大丈夫だと言いたげだけど、ほんとかなぁ。人間にはどうってことないものでもワンコやニャンコには良くないものもあるって、聞いた気がするけど。
ていうか、この真っ黒ワンコのご主人様、甘やかしすぎじゃない!?
驚愕しつつも、まぁ、これまでずっと食べていたならいきなり死んじゃうこともないだろうと判断して、お望み通りに塩胡椒で味付けし、ミディアムレアで焼いてやった。
ご満悦な様子でしっぽをふりふり食べているのが、可愛い。
けれどその後ろ姿を見ながら、僕はなんとなく悲しい気持ちになった。
もしかして、こいつのご主人様は死んじゃったのかな。さっきの魔物と戦って……? それとももっと前に?
味付けした上に火で炙った肉を食わせ、こんなに話が通じるようになるくらい話しかけ、一緒に魔物を狩っていたんだろうか。きっと、お互いにいい相棒だと思っていたに違いない。
あれだけあったお肉をペロリと平らげて満足そうに床に丸くなった真っ黒ワンコに、僕はそっと近づく。
「ご主人様、死んじゃったのか……? 寂しいよなぁ」
撫でると、もふもふと柔らかい。
真っ黒ワンコは驚いたみたいに僕を見上げたものの、撫でられるのを嫌がりはしなかった。
やっぱりご主人様を亡くして、寂しいのかもしれない。可哀想に。
気位が高そうなこの真っ黒ワンコ。そのご主人様はどんな冒険者だったんだろう。
まだ見ぬ人に思いを馳せつつ、僕は真っ黒ワンコの体を優しく撫でてやることしかできなかった。
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