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1巻
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プロローグ
じめっとした空気が肌にまとわりつく。
連日の雨で髪のまとまりは悪いし、気温は暑いのか寒いのかはっきりしない。
梅雨というのはこんなに湿気が多かっただろうか、と芹澤美琴は久しぶりの日本の気候に少し辟易していた。
現在、美琴は東南アジアのリゾート企業に勤めている。
そこが今回、日本でフラッグシップホテルを新規開業することになったため、日本人である美琴は、当然のように準備スタッフとしての異動を打診された。
できれば日本に戻りたくなかった美琴は、最初こそやんわりと断った。
けれど、日本への初進出だからできるだけ日本人のスタッフにサポートしてほしい、開業して軌道に乗るまでの期間限定で構わない、給与面や待遇面でも優遇するからと熱心に請われたのだ。
最終的には、現地で散々お世話になった日本人上司が責任者になるということもあり、渋々引き受けた。
よって、美琴は大学卒業以来、六年ぶりに日本に帰国することになった。
新規に建設された高層ビルの上層階に開業したホテルは、美琴が勤めるリゾート企業が運営するホテルの中でも最上級ブランドとなる。
エキゾチックなアジア風の要素をふんだんにちりばめつつも、都会的で洗練された雰囲気に仕上がっている。
日本人よりも、日本に旅行に来る東南アジアの富裕層をメインターゲットとしているため、彼らが快適に過ごせるような配慮も怠っていない。
美琴は窓の外に目を向けた。
快晴であれば、眼下に広がる都会のビル群が見下ろせるのに、今はどんよりとした雲が覆いかぶさり全体的に霞がかっている。
いかにも蒸し蒸しとした空気で、さらに憂鬱さが増した。
『ミコト! マネージャーが呼んでいるよ』
『わかった』
日本進出にあたって派遣されたスタッフは日本語教育を受けたものの、スタッフ間では英語のほうがやりとりしやすい。ファーストネームで呼び合うのも現地に倣っているからだ。会話の練習にもなるので、できるだけ日本語で話すように指示されているがあまり浸透していない。
ホテルがオープンしてから三週間。
開業までの準備でてんやわんやして、オープニングパーティーをなんとか無事終えたが、何度もシミュレーションをして万全の体制を整えたつもりでも、最初は思いもよらない対応をさせられたり、小さなミスを連発したりと散々だった。今ようやく小休止といったところだ。
夏休みの繁忙期になる前には、ある程度落ち着いていればいいけれどと美琴は願う。
「お呼びでしょうか?」
統括マネージャーの部屋に着くと扉が開いていたので、美琴はそのまま声をかけた。
「ああ、美琴。ちょうどよかった」
日本進出の実質的な業務を担ったのは、統括マネージャーの加地貴之だ。
現地スタッフと並んでも見劣りしない高身長に、切れ長の目。冷たさも感じる美貌は、一見近寄りがたい雰囲気だが、気さくな口調がそれをやわらげる。
二十八歳の美琴より十歳年上で、美琴がこの仕事に就くにあたりお世話になった人物でもある。海外で働いていると、やはり同じ日本人というのは心強い存在だった。渋っていた日本行きを決めたのも、彼への恩返しの意味合いが強い。
貴之に心底ほっとした表情をされて、逆に美琴は不審に目を細めた。
「……またなにかトラブルですか?」
現地でいくらトップブランドを誇るリゾート企業でも、日本ではまだ知名度が低い。宿泊客もアジア系の旅行者がメインで、そういう客へは現地スタッフで充分対応できる。
だが、日本人宿泊客に関しては、日本語に不慣れなスタッフが対応すると、どうしてもトラブルになりやすかった。
「トラブルというわけではないが、ブライダル部門のスタッフがヘルプを求めている。予約外の日本人のお客様が見学を希望していてね。君に対応をお願いしたい」
「予約外ですか?」
ブライダルに関する広報活動はまだ積極的に行っていないし、海外からの宿泊客がメインなのに、いったいどこから情報を得たのだろう。
「上層部の知り合いらしい。レストランでの食事中にブライダルに関する話題が出たようで、会場を案内してほしいと頼まれた」
オープニングパーティーには、日本の政財界や芸能界の人たちが参加して、ちょっとしたニュースにもなった。おかげで宣伝にはなったが、こちらの準備がきちんと整わないうちに様々な要望が寄せられ、その対応に日々追われている。
「それって、今からですか?」
「そう、十五分後には案内開始だ」
「……わかりました」
美琴は今回、開業準備推進室のメンバーとして日本に来ている。
けれど蓋を開けてみれば、準備に関するすべてのことに対応する、いわゆるなんでも屋みたいな立ち位置だった。
フロントからバックヤードまで、すべてに関わっており、もちろんブライダル部門についてもおおよそ把握している。
だから、なにかあればこうして貴之から仕事を回されるのだ。
とはいえ、彼は常に上司と部下と客との間に挟まれているから、美琴もなんとかフォローしたいと思っている。今は所属部署など関係なく、スタッフ全員で協力してやっていくしかないのだ。
「悪い。落ち着いたら食事でもご馳走する」
「いつになるかわからなそうですけど、楽しみに待つことにしますね」
冗談めかして言うと美琴はあえてにっこり笑って、その場をあとにした。
美琴が東南アジアのリゾート企業で働き始めたのは、大学卒業後しばらくしてのことだ。
美琴の大学卒業のタイミングで、母親の再婚相手である義理の父親がヨーロッパへと異動することになった。
当初、日本での就職先が決まっていた美琴は、一人で日本に残る予定だった。
けれどあることをきっかけに、急遽就職先の内定を辞退し両親のもとへ行くことにしたのだ。
義父はヨーロッパで短期間仕事をするとすぐに転職し、その後東南アジアへと異動となった。よって美琴も両親とともに東南アジアに移り、以降ずっとそこで暮らしている。それから一度も今日まで、日本には帰国していなかった。
美琴は誰にも行き先を知らせずに、一切の連絡手段を断って日本を離れた。できれば日本には戻りたくなかったから。
美琴は自室に戻ると、倒れるようにベッドに体を投げ出した。
期間限定ということもあって、美琴はホテル内の長期滞在フロアの一角を借りて生活をしていた。
通勤時間のロスはないが、公私の区別がつきづらい。実際、他のスタッフは遠慮しながらも、なにかあれば休日でも美琴を呼び出すことが多い。
本社から派遣されたスタッフと日本で雇用したスタッフ間のトラブルや、お客様や業者とのやりとりなど、日本語が必要な場面が多いため、美琴も甘んじて受け止めていた。
今日も一日、なにをしたのかわからないほど多種多様な業務をこなしたところだ。
「うー、お風呂ためなきゃ……このまま寝てはだめ」
ベッドの寝心地がいいため、ついついこのまま眠りにつきたくなる。
だが、そろそろ電話が来る時間だ。
予想通り、スマートフォンからいつものメロディが流れて美琴は慌てて体を起こした。
「ハイ、真!」
『ママ!』
美琴は笑顔を作って、画面の向こうの息子の名前を呼んだ。真の喜びも露わな表情に疲れが一気に吹き飛ぶ。
今は本当に便利になったと思う。
アプリを使った通話で、こうして簡単に顔を見ながら話ができる。東南アジアとの時差も数時間しかなく、この時間帯が息子と会える唯一の機会だった。
美琴が日本に来るのを渋った一番の理由は、五歳になる息子、真の存在だった。
美琴はシングルマザーだ。
幸い両親と同居しており、協力してもらいながら子育てをすることができた。
今回の日本行きも、悩んでいた美琴の背中を押してくれたのは両親だった。
義父は東南アジアで仕事をしているので、両親は日本に一緒に来ることはできない。日本に頼る人がいないので母子のみで戻るのも、現実的ではない。
それならば、期間限定で単身赴任してはどうかと両親に提案され、最初は反対していた息子にも『ママ頑張って。僕も頑張る』と言われて決断したのだ。
スマートフォンから、プレスクールのお友達や先生のこと、楽しかったイベントなど、真が勢いよく話す声が聞こえる。
真の日常会話の基本は英語だ。プレスクールでは英語と中国語を使っている。
美琴の両親とは英語で会話をしてしまうため、彼が日本語を話すのは美琴とだけだ。
離れて暮らすようになると、真はますます日本語を使わなくなってきた。美琴が日本語で話しかけても、真は英語で答えてくる。
トリリンガルで育つ子どものコミュニケーションの軸をどこに置くかは、各家庭それぞれだろうが、美琴にとっては現在進行形で悩ましい問題だ。
だが、母親と離れて暮らす現実を幼いなりに受け止めて頑張っている息子に、『ママとは日本語でおしゃべりしよう』なんて提案はできない。
美琴は、夏休みになったら近所のサマースクールに通うのが楽しみだとはしゃぐ息子をスマートフォン越しに見つめる。
さらさらの黒髪に、意志の強そうな眼差し。
我が息子ながら整った顔立ちをしていて将来が楽しみだ。それに少し見ない間にもどんどん変わっているようにも思う。
生まれた当初、真は美琴にそっくりだった。自分に似た子どもでほっとしたほどだ。
けれど、大きくなってくるにつれて、少しずつ真の父親に似てきた。顔立ちだけではなく、些細な言動や小さな癖、無意識の仕草や大人びた考え方も。
早産で産まれたからか、小柄で五歳より小さく見えるけれど、成長すれば父親に似て大きくなるに違いない。
日本には真の存在を知らない――父親がいる。
それも美琴が日本に戻りたくなかった理由だ。
決して彼に、真の存在を知られるわけにはいかない。
『ママに早く会いたい。僕も日本に行きたいなぁ』
寂しげな口調で言われると、美琴も胸が締めつけられる。いっそ、今すぐ日本に会いにおいでと言ってしまいたい。でもそれは現実的ではない。
「いつか真が大きくなったら、ね。ママも真に会いたいよ」
美琴はしんみりした空気を払うように、笑顔を見せた。
こうして離れているのも今だけ――美琴はそう自分に言い聞かせた。
開業から一か月、テレビや雑誌での広報活動が功を奏し始めたのか、日本への観光ブームとあいまって海外のアジア系の顧客を中心に順調に予約枠が埋まっている。
日本人の宿泊客はまだ少ないけれど、サービス重視の日本人を相手にするには、急ぎすぎないほうがいいというのが上層部の考えだ。
日本流のサービスのレベルに行きつくには、まだスタッフの教育が足りない。
美琴は再びマネージャーである貴之に呼び出されていた。
今回はどんな無茶ぶりだろうと、最近はあきらめの境地だ。ソファに座るよう促されて美琴は腰を下ろした。
「今日はいったいなんでしょう」
「美琴……最近、君の顔が険しいって評判だ」
「そうしているのは加地さんですけど」
貴之は分が悪いと思ったのか、こほんと咳払いをして真面目な顔つきになる。
「長期滞在者向けフロアで、長期契約を検討しているお客様がいる。契約条件は日本人の専属コンシェルジュがいること」
長期滞在者向けフロアは、主に日本に仕事に来た海外の人が、長期に利用するために設けられた場所だ。共有ラウンジには、ワークスペースやミーティングルームがあり、セルフの軽食サービスなどが利用できる。
もちろんそのフロア専属のコンシェルジュもおり、その中には日本人スタッフもいる。
「はあ」
長い付き合いのせいで、どうしても貴之への態度がフランクになる。
英語には敬語なんてないし、名前もファーストネームで呼び合っていたので、日本語で会話していると中途半端な態度になるのだ。
「君をご指名だ。ちなみに上顧客で、契約が不履行になった場合の損害も大きい。つまり、君に拒否権はない」
雇われの身として、指示された業務は全うするしかない。海外セレブの予想もしない無茶ぶりはこれまでだって経験してきた。だから仕事だと言われれば拒否などしないが、なぜ美琴を指名するのかがよくわからなかった。
「私を個人的に指名するような方に心当たりがないんですけど」
美琴がこのホテルに勤務していることを知っている人など、身内と仕事関係者のみだ。友人の中に長期滞在が必要そうな人物も思い浮かばない。
美琴は首をかしげる。
「日本にいた時の知り合いじゃないのか?」
「日本にいた時の知り合いには、このホテルで働いていることは誰にも教えていませんよ」
美琴がそう答えると、貴之はなんとも言えない表情をした。
彼は美琴の事情をよく知っている。
真を産んでしばらくして、アルバイトをしていた先で貴之に出会った。そして日本語ができるスタッフを探していた貴之に誘われて、ホテルで働き始めたのだ。特別な資格などないのに、正社員として就職できたのも貴之のおかげだった。
「お客様の名前は、黒川優斗。アメリカで起業し成功している若き経営者だ」
想像もしなかった名前が貴之の口から出て、美琴は大きく目を見開いた。心臓がどくどくと音を立てて鳴り始める。
貴之が差し出した資料を、美琴はおそるおそるめくった。
アメリカで起業しているのなら彼のはずがない。同姓同名の別人の可能性だってある。
そう期待を込めて目を通せば、インターネットから拾い上げたらしい彼の写真に学生時代の面影があった。
美琴は思わず息を呑む。
「美琴? やっぱり知り合いか?」
貴之の問いに、美琴はすぐには答えられなかった。
肯定も否定もできないまま、美琴の思考は一瞬で過去の記憶に染まる。
忘れたいのに、忘れられない。
大学時代の恋人で、真の実の父親。
(アメリカで起業――しかも、長期滞在フロアを契約できるほど成功しているんだ……)
彼とは気まずい別れ方をした。
美琴は逃げ出すように日本を離れて海外在住の両親のもとへ行き、そして妊娠に気づいた。
美琴は両親にさえ、真の父親が誰なのかは教えていない。
彼のことを忘れたかったから、別れたのち彼がどうしているかなど気にしないようにしてきた。
大学時代の彼の活躍を思えば、アメリカでの起業も成功も納得はいく。
けれど――
(どうして? ……私だって知っていて指名したの?)
「美琴、大丈夫か?」
はっとして顔を上げると、いつの間にか貴之が目の前にやってきて、心配そうに顔を覗き込んでいた。
美琴は戸惑うように視線を揺らす。迷いつつも、ここで貴之に隠しても意味はないと思い、正直に話すことにした。
「彼は……大学時代にお付き合いしていた人です」
美琴はなんとか冷静さを装ってそう告げた。
貴之は呆気にとられたような表情のあと、考えるように目を眇めた。
勘のいい彼のことだ。すぐにこの台詞の意味に気づくだろう。
案の定、貴之はあからさまなため息をつく。
「……もしかしなくても、真の父親か?」
美琴は少しの間を空けて、小さく頷いた。
「真のことを相手は――」
「知らないと思います」
真は海外で産んだ。美琴が子どもを産んだことも、ましてや子どもの父親が自分だということも知るはずがない。
貴之は頭をがしがしとかいて呟く。
「ただ単に、見知った名前だったから指名しただけか……それともなんらかの意図でもあるのか」
意図などあるのだろうか。
別れて六年だ。
大学時代の恋愛など、所詮おままごとのようなもの。それに、六年という時間は過去を忘れるのに充分な長さだ。
美琴は、真の存在があるから優斗を忘れないだけで、過去の相手でしかない。
それは彼にとっても同様のはずだ。
アメリカで成功しているのなら女性には不自由していないだろうし、なによりも彼の心の中には揺るぎない存在がある。
そのことを思い出し、美琴は過去の記憶を振り払う。
「長期滞在契約してくれる上顧客ですし、仕事ですからきちんとこなします」
元恋人が会いに来たぐらいで動揺するなんてみっともない。
それではまるで、彼に対して未練があるみたいではないか。
この指名に意図があろうとなかろうと、いちホテルスタッフと顧客として対応すればいいだけのことだ。
美琴はそう気持ちを切り替える。
「……まあ君がそう言うなら。でも、困ったことになったらちゃんと言えよ」
「はい、ありがとうございます。頼りにしていますね」
はやる鼓動から意識をそらして、美琴はもう一度笑顔を作った。
美琴が妊娠に気づいたのは、東南アジアの国に渡ってしばらくしてからだ。
いきなりの海外生活に、慣れない気候。基本的な日常英会話は可能でも、発音が聞き取れなかったり、こちらの英語が通じなかったりするストレス。そのせいで体調を崩しているのだと思い込んでいた。
それに元々美琴は生理痛がきつくて、高校生の頃からピルを飲んでいたため、妊娠の可能性に思い及ばなかった。
そんな時、ふと大学四年生の後半にピルを飲めなかった時期があったことを思い出した。薬を飲むと余計に体調が悪くなったので婦人科で相談したところ、一定期間飲まずに様子を見ることになったのだ。おそらくそれが油断に繋がった。
美琴は妊娠検査薬で陽性反応が出た時のことを、はっきりと覚えている。
――優斗の子どもだ、と思った。
そしてこの事実を伝えれば、もしかしたら優斗ともう一度やり直せるかもしれないと。
すぐにそう思った自分を、美琴は嘲笑いたくなった。
自分から別れを切り出したくせに、もう付き合えないのだと限界だと感じて逃げ出したくせに、本音では彼とやり直したかったのかと。
そう気づいたら、この妊娠は優斗を繋ぎとめるために、無意識に美琴が望んだ結果なのかもしれないと思った。
心の奥底の浅ましい本音を象徴しているかのように思えた。
優斗は美琴がピルを飲んでいることを知っていたが、それでも避妊はしていた。交際していた二年の間、避妊をしなかったのは、美琴が望んで直接繋がった数回のみ。
別れる直前の美琴はとにかく精神的に不安定で、優斗の気持ちを確かめるために、戸惑う彼にねだったことも思い出す。
美琴にとっての妊娠は、愛する人との間に望んだ末のものではなく、男の愛にすがった身勝手な欲望の結果だったのだ。
大学を卒業したばかりの娘が、別れた相手との子どもを妊娠している――それを知った母親は嘆いたけれど、義父は中華系出身のアメリカ育ちで、おおらかな考え方をしていた。
だから、別れたとはいえその時少しでも愛していた相手との子どもなら、その命を大切にしてほしいと、子どもは大事な授かりものだから一緒に育てればいいと言ってくれたのだ。
美琴の思惑はどうであれ、すでにお腹の中では命が育まれている。
お腹が大きくなるにつれ、美琴はその存在を愛しく思えたし、無事に産まれてほしいと願った。
真に父親がいないことは申し訳ないと思う。
でも真を、優斗を繋ぎとめる手段にしなくてよかったとも思う。
彼とはすでに道を違えており、それを選んだのは美琴自身。
だから、美琴はできるだけ心を落ち着かせて、優斗との再会に臨むことにした。
美琴が専属コンシェルジュの担当を受け入れるとすぐに、優斗は長期滞在の契約を結んだらしい。
美琴は仕事上の必要に迫られて、今まで意識的に避けていた優斗の情報に目を通すことにした。
彼は大学卒業後に就職したものの、一年後にはアメリカの大学院に進学していた。そして在学中に仲間とともに起業し、いくつかの会社を売買しながら大きくしていったようだ。
活動の拠点はアメリカで、日本では主に承継のためのマッチング事業を展開していた。
日本は中小企業が多く、少子化により後継者のいない会社が増えている。後世に残すべき伝統や技術やノウハウも、廃業してしまえばこれまで培ってきたものはゼロになる。
後継者のいない経営者と、技術を継ぎたいと願う人材をマッチングさせるアプリを開発し、承継サポートをはじめ融資先の選定や、承継後の事業計画案の策定などをトータルでサポートしている。海外ではそれらを軸に、幅広い業種と提携しているらしい。
大学在学中から優斗はいろんな活動をしていて、リーダーシップの素質が充分に備わっていた。だから事業内容を知った美琴は、彼らしい選択だと思った。
誰かに雇われるよりも、トップに立って皆を率いていくほうが彼には向いている。
インターネットで検索すればもっとたくさんの記事も画像も出てきそうな経歴だったけれど、美琴はそれ以上検索するのはやめた。
SNS系の情報はあまり見たくない。情報量は膨大でも、嘘と真実が交錯し正しいかどうか判断するのが困難だからだ。今の美琴は、優斗に関する情報の正誤を見抜ける気がしなかった。
気持ちを切り替えて、美琴は事前に提出された要望にそって整えた部屋をチェックすることにした。
優斗の契約した部屋は、リビングルームとキッチンに、書斎と寝室の個室が備わった少し広めのタイプだ。
華美ではなくシンプルに、優斗の部屋の好みを思い出しながら確認していると、とっくに忘れていたはずの過去があっという間に蘇ってきた。
リネン類は白で、カーテンは遮光性のもの。でも白や黒などコントラストのはっきりしたものではなく、グレーやベージュなど淡いトーンのものがいい。アクセントになる色はクッションなどの小物で取り入れる。
食器類は洋食器を中心に、ホテルのコンセプトを少しだけ織り交ぜて、アジアンテイストのものも入れた。昔お気に入りだったコーヒーメーカーも、コーヒー豆と一緒に準備する。インターネット環境も万全だ。
今日は、優斗がこのホテルにやってくる日だ。この部屋までは、貴之が優斗を案内する。そして美琴と引き合わせるのだ。
貴之は美琴と優斗の再会を心配したのか、その場に同席するために案内役を引き受けてくれた。
(大丈夫。六年経った。気持ちだってとっくにない。昔の知り合いと再会するだけ)
じめっとした空気が肌にまとわりつく。
連日の雨で髪のまとまりは悪いし、気温は暑いのか寒いのかはっきりしない。
梅雨というのはこんなに湿気が多かっただろうか、と芹澤美琴は久しぶりの日本の気候に少し辟易していた。
現在、美琴は東南アジアのリゾート企業に勤めている。
そこが今回、日本でフラッグシップホテルを新規開業することになったため、日本人である美琴は、当然のように準備スタッフとしての異動を打診された。
できれば日本に戻りたくなかった美琴は、最初こそやんわりと断った。
けれど、日本への初進出だからできるだけ日本人のスタッフにサポートしてほしい、開業して軌道に乗るまでの期間限定で構わない、給与面や待遇面でも優遇するからと熱心に請われたのだ。
最終的には、現地で散々お世話になった日本人上司が責任者になるということもあり、渋々引き受けた。
よって、美琴は大学卒業以来、六年ぶりに日本に帰国することになった。
新規に建設された高層ビルの上層階に開業したホテルは、美琴が勤めるリゾート企業が運営するホテルの中でも最上級ブランドとなる。
エキゾチックなアジア風の要素をふんだんにちりばめつつも、都会的で洗練された雰囲気に仕上がっている。
日本人よりも、日本に旅行に来る東南アジアの富裕層をメインターゲットとしているため、彼らが快適に過ごせるような配慮も怠っていない。
美琴は窓の外に目を向けた。
快晴であれば、眼下に広がる都会のビル群が見下ろせるのに、今はどんよりとした雲が覆いかぶさり全体的に霞がかっている。
いかにも蒸し蒸しとした空気で、さらに憂鬱さが増した。
『ミコト! マネージャーが呼んでいるよ』
『わかった』
日本進出にあたって派遣されたスタッフは日本語教育を受けたものの、スタッフ間では英語のほうがやりとりしやすい。ファーストネームで呼び合うのも現地に倣っているからだ。会話の練習にもなるので、できるだけ日本語で話すように指示されているがあまり浸透していない。
ホテルがオープンしてから三週間。
開業までの準備でてんやわんやして、オープニングパーティーをなんとか無事終えたが、何度もシミュレーションをして万全の体制を整えたつもりでも、最初は思いもよらない対応をさせられたり、小さなミスを連発したりと散々だった。今ようやく小休止といったところだ。
夏休みの繁忙期になる前には、ある程度落ち着いていればいいけれどと美琴は願う。
「お呼びでしょうか?」
統括マネージャーの部屋に着くと扉が開いていたので、美琴はそのまま声をかけた。
「ああ、美琴。ちょうどよかった」
日本進出の実質的な業務を担ったのは、統括マネージャーの加地貴之だ。
現地スタッフと並んでも見劣りしない高身長に、切れ長の目。冷たさも感じる美貌は、一見近寄りがたい雰囲気だが、気さくな口調がそれをやわらげる。
二十八歳の美琴より十歳年上で、美琴がこの仕事に就くにあたりお世話になった人物でもある。海外で働いていると、やはり同じ日本人というのは心強い存在だった。渋っていた日本行きを決めたのも、彼への恩返しの意味合いが強い。
貴之に心底ほっとした表情をされて、逆に美琴は不審に目を細めた。
「……またなにかトラブルですか?」
現地でいくらトップブランドを誇るリゾート企業でも、日本ではまだ知名度が低い。宿泊客もアジア系の旅行者がメインで、そういう客へは現地スタッフで充分対応できる。
だが、日本人宿泊客に関しては、日本語に不慣れなスタッフが対応すると、どうしてもトラブルになりやすかった。
「トラブルというわけではないが、ブライダル部門のスタッフがヘルプを求めている。予約外の日本人のお客様が見学を希望していてね。君に対応をお願いしたい」
「予約外ですか?」
ブライダルに関する広報活動はまだ積極的に行っていないし、海外からの宿泊客がメインなのに、いったいどこから情報を得たのだろう。
「上層部の知り合いらしい。レストランでの食事中にブライダルに関する話題が出たようで、会場を案内してほしいと頼まれた」
オープニングパーティーには、日本の政財界や芸能界の人たちが参加して、ちょっとしたニュースにもなった。おかげで宣伝にはなったが、こちらの準備がきちんと整わないうちに様々な要望が寄せられ、その対応に日々追われている。
「それって、今からですか?」
「そう、十五分後には案内開始だ」
「……わかりました」
美琴は今回、開業準備推進室のメンバーとして日本に来ている。
けれど蓋を開けてみれば、準備に関するすべてのことに対応する、いわゆるなんでも屋みたいな立ち位置だった。
フロントからバックヤードまで、すべてに関わっており、もちろんブライダル部門についてもおおよそ把握している。
だから、なにかあればこうして貴之から仕事を回されるのだ。
とはいえ、彼は常に上司と部下と客との間に挟まれているから、美琴もなんとかフォローしたいと思っている。今は所属部署など関係なく、スタッフ全員で協力してやっていくしかないのだ。
「悪い。落ち着いたら食事でもご馳走する」
「いつになるかわからなそうですけど、楽しみに待つことにしますね」
冗談めかして言うと美琴はあえてにっこり笑って、その場をあとにした。
美琴が東南アジアのリゾート企業で働き始めたのは、大学卒業後しばらくしてのことだ。
美琴の大学卒業のタイミングで、母親の再婚相手である義理の父親がヨーロッパへと異動することになった。
当初、日本での就職先が決まっていた美琴は、一人で日本に残る予定だった。
けれどあることをきっかけに、急遽就職先の内定を辞退し両親のもとへ行くことにしたのだ。
義父はヨーロッパで短期間仕事をするとすぐに転職し、その後東南アジアへと異動となった。よって美琴も両親とともに東南アジアに移り、以降ずっとそこで暮らしている。それから一度も今日まで、日本には帰国していなかった。
美琴は誰にも行き先を知らせずに、一切の連絡手段を断って日本を離れた。できれば日本には戻りたくなかったから。
美琴は自室に戻ると、倒れるようにベッドに体を投げ出した。
期間限定ということもあって、美琴はホテル内の長期滞在フロアの一角を借りて生活をしていた。
通勤時間のロスはないが、公私の区別がつきづらい。実際、他のスタッフは遠慮しながらも、なにかあれば休日でも美琴を呼び出すことが多い。
本社から派遣されたスタッフと日本で雇用したスタッフ間のトラブルや、お客様や業者とのやりとりなど、日本語が必要な場面が多いため、美琴も甘んじて受け止めていた。
今日も一日、なにをしたのかわからないほど多種多様な業務をこなしたところだ。
「うー、お風呂ためなきゃ……このまま寝てはだめ」
ベッドの寝心地がいいため、ついついこのまま眠りにつきたくなる。
だが、そろそろ電話が来る時間だ。
予想通り、スマートフォンからいつものメロディが流れて美琴は慌てて体を起こした。
「ハイ、真!」
『ママ!』
美琴は笑顔を作って、画面の向こうの息子の名前を呼んだ。真の喜びも露わな表情に疲れが一気に吹き飛ぶ。
今は本当に便利になったと思う。
アプリを使った通話で、こうして簡単に顔を見ながら話ができる。東南アジアとの時差も数時間しかなく、この時間帯が息子と会える唯一の機会だった。
美琴が日本に来るのを渋った一番の理由は、五歳になる息子、真の存在だった。
美琴はシングルマザーだ。
幸い両親と同居しており、協力してもらいながら子育てをすることができた。
今回の日本行きも、悩んでいた美琴の背中を押してくれたのは両親だった。
義父は東南アジアで仕事をしているので、両親は日本に一緒に来ることはできない。日本に頼る人がいないので母子のみで戻るのも、現実的ではない。
それならば、期間限定で単身赴任してはどうかと両親に提案され、最初は反対していた息子にも『ママ頑張って。僕も頑張る』と言われて決断したのだ。
スマートフォンから、プレスクールのお友達や先生のこと、楽しかったイベントなど、真が勢いよく話す声が聞こえる。
真の日常会話の基本は英語だ。プレスクールでは英語と中国語を使っている。
美琴の両親とは英語で会話をしてしまうため、彼が日本語を話すのは美琴とだけだ。
離れて暮らすようになると、真はますます日本語を使わなくなってきた。美琴が日本語で話しかけても、真は英語で答えてくる。
トリリンガルで育つ子どものコミュニケーションの軸をどこに置くかは、各家庭それぞれだろうが、美琴にとっては現在進行形で悩ましい問題だ。
だが、母親と離れて暮らす現実を幼いなりに受け止めて頑張っている息子に、『ママとは日本語でおしゃべりしよう』なんて提案はできない。
美琴は、夏休みになったら近所のサマースクールに通うのが楽しみだとはしゃぐ息子をスマートフォン越しに見つめる。
さらさらの黒髪に、意志の強そうな眼差し。
我が息子ながら整った顔立ちをしていて将来が楽しみだ。それに少し見ない間にもどんどん変わっているようにも思う。
生まれた当初、真は美琴にそっくりだった。自分に似た子どもでほっとしたほどだ。
けれど、大きくなってくるにつれて、少しずつ真の父親に似てきた。顔立ちだけではなく、些細な言動や小さな癖、無意識の仕草や大人びた考え方も。
早産で産まれたからか、小柄で五歳より小さく見えるけれど、成長すれば父親に似て大きくなるに違いない。
日本には真の存在を知らない――父親がいる。
それも美琴が日本に戻りたくなかった理由だ。
決して彼に、真の存在を知られるわけにはいかない。
『ママに早く会いたい。僕も日本に行きたいなぁ』
寂しげな口調で言われると、美琴も胸が締めつけられる。いっそ、今すぐ日本に会いにおいでと言ってしまいたい。でもそれは現実的ではない。
「いつか真が大きくなったら、ね。ママも真に会いたいよ」
美琴はしんみりした空気を払うように、笑顔を見せた。
こうして離れているのも今だけ――美琴はそう自分に言い聞かせた。
開業から一か月、テレビや雑誌での広報活動が功を奏し始めたのか、日本への観光ブームとあいまって海外のアジア系の顧客を中心に順調に予約枠が埋まっている。
日本人の宿泊客はまだ少ないけれど、サービス重視の日本人を相手にするには、急ぎすぎないほうがいいというのが上層部の考えだ。
日本流のサービスのレベルに行きつくには、まだスタッフの教育が足りない。
美琴は再びマネージャーである貴之に呼び出されていた。
今回はどんな無茶ぶりだろうと、最近はあきらめの境地だ。ソファに座るよう促されて美琴は腰を下ろした。
「今日はいったいなんでしょう」
「美琴……最近、君の顔が険しいって評判だ」
「そうしているのは加地さんですけど」
貴之は分が悪いと思ったのか、こほんと咳払いをして真面目な顔つきになる。
「長期滞在者向けフロアで、長期契約を検討しているお客様がいる。契約条件は日本人の専属コンシェルジュがいること」
長期滞在者向けフロアは、主に日本に仕事に来た海外の人が、長期に利用するために設けられた場所だ。共有ラウンジには、ワークスペースやミーティングルームがあり、セルフの軽食サービスなどが利用できる。
もちろんそのフロア専属のコンシェルジュもおり、その中には日本人スタッフもいる。
「はあ」
長い付き合いのせいで、どうしても貴之への態度がフランクになる。
英語には敬語なんてないし、名前もファーストネームで呼び合っていたので、日本語で会話していると中途半端な態度になるのだ。
「君をご指名だ。ちなみに上顧客で、契約が不履行になった場合の損害も大きい。つまり、君に拒否権はない」
雇われの身として、指示された業務は全うするしかない。海外セレブの予想もしない無茶ぶりはこれまでだって経験してきた。だから仕事だと言われれば拒否などしないが、なぜ美琴を指名するのかがよくわからなかった。
「私を個人的に指名するような方に心当たりがないんですけど」
美琴がこのホテルに勤務していることを知っている人など、身内と仕事関係者のみだ。友人の中に長期滞在が必要そうな人物も思い浮かばない。
美琴は首をかしげる。
「日本にいた時の知り合いじゃないのか?」
「日本にいた時の知り合いには、このホテルで働いていることは誰にも教えていませんよ」
美琴がそう答えると、貴之はなんとも言えない表情をした。
彼は美琴の事情をよく知っている。
真を産んでしばらくして、アルバイトをしていた先で貴之に出会った。そして日本語ができるスタッフを探していた貴之に誘われて、ホテルで働き始めたのだ。特別な資格などないのに、正社員として就職できたのも貴之のおかげだった。
「お客様の名前は、黒川優斗。アメリカで起業し成功している若き経営者だ」
想像もしなかった名前が貴之の口から出て、美琴は大きく目を見開いた。心臓がどくどくと音を立てて鳴り始める。
貴之が差し出した資料を、美琴はおそるおそるめくった。
アメリカで起業しているのなら彼のはずがない。同姓同名の別人の可能性だってある。
そう期待を込めて目を通せば、インターネットから拾い上げたらしい彼の写真に学生時代の面影があった。
美琴は思わず息を呑む。
「美琴? やっぱり知り合いか?」
貴之の問いに、美琴はすぐには答えられなかった。
肯定も否定もできないまま、美琴の思考は一瞬で過去の記憶に染まる。
忘れたいのに、忘れられない。
大学時代の恋人で、真の実の父親。
(アメリカで起業――しかも、長期滞在フロアを契約できるほど成功しているんだ……)
彼とは気まずい別れ方をした。
美琴は逃げ出すように日本を離れて海外在住の両親のもとへ行き、そして妊娠に気づいた。
美琴は両親にさえ、真の父親が誰なのかは教えていない。
彼のことを忘れたかったから、別れたのち彼がどうしているかなど気にしないようにしてきた。
大学時代の彼の活躍を思えば、アメリカでの起業も成功も納得はいく。
けれど――
(どうして? ……私だって知っていて指名したの?)
「美琴、大丈夫か?」
はっとして顔を上げると、いつの間にか貴之が目の前にやってきて、心配そうに顔を覗き込んでいた。
美琴は戸惑うように視線を揺らす。迷いつつも、ここで貴之に隠しても意味はないと思い、正直に話すことにした。
「彼は……大学時代にお付き合いしていた人です」
美琴はなんとか冷静さを装ってそう告げた。
貴之は呆気にとられたような表情のあと、考えるように目を眇めた。
勘のいい彼のことだ。すぐにこの台詞の意味に気づくだろう。
案の定、貴之はあからさまなため息をつく。
「……もしかしなくても、真の父親か?」
美琴は少しの間を空けて、小さく頷いた。
「真のことを相手は――」
「知らないと思います」
真は海外で産んだ。美琴が子どもを産んだことも、ましてや子どもの父親が自分だということも知るはずがない。
貴之は頭をがしがしとかいて呟く。
「ただ単に、見知った名前だったから指名しただけか……それともなんらかの意図でもあるのか」
意図などあるのだろうか。
別れて六年だ。
大学時代の恋愛など、所詮おままごとのようなもの。それに、六年という時間は過去を忘れるのに充分な長さだ。
美琴は、真の存在があるから優斗を忘れないだけで、過去の相手でしかない。
それは彼にとっても同様のはずだ。
アメリカで成功しているのなら女性には不自由していないだろうし、なによりも彼の心の中には揺るぎない存在がある。
そのことを思い出し、美琴は過去の記憶を振り払う。
「長期滞在契約してくれる上顧客ですし、仕事ですからきちんとこなします」
元恋人が会いに来たぐらいで動揺するなんてみっともない。
それではまるで、彼に対して未練があるみたいではないか。
この指名に意図があろうとなかろうと、いちホテルスタッフと顧客として対応すればいいだけのことだ。
美琴はそう気持ちを切り替える。
「……まあ君がそう言うなら。でも、困ったことになったらちゃんと言えよ」
「はい、ありがとうございます。頼りにしていますね」
はやる鼓動から意識をそらして、美琴はもう一度笑顔を作った。
美琴が妊娠に気づいたのは、東南アジアの国に渡ってしばらくしてからだ。
いきなりの海外生活に、慣れない気候。基本的な日常英会話は可能でも、発音が聞き取れなかったり、こちらの英語が通じなかったりするストレス。そのせいで体調を崩しているのだと思い込んでいた。
それに元々美琴は生理痛がきつくて、高校生の頃からピルを飲んでいたため、妊娠の可能性に思い及ばなかった。
そんな時、ふと大学四年生の後半にピルを飲めなかった時期があったことを思い出した。薬を飲むと余計に体調が悪くなったので婦人科で相談したところ、一定期間飲まずに様子を見ることになったのだ。おそらくそれが油断に繋がった。
美琴は妊娠検査薬で陽性反応が出た時のことを、はっきりと覚えている。
――優斗の子どもだ、と思った。
そしてこの事実を伝えれば、もしかしたら優斗ともう一度やり直せるかもしれないと。
すぐにそう思った自分を、美琴は嘲笑いたくなった。
自分から別れを切り出したくせに、もう付き合えないのだと限界だと感じて逃げ出したくせに、本音では彼とやり直したかったのかと。
そう気づいたら、この妊娠は優斗を繋ぎとめるために、無意識に美琴が望んだ結果なのかもしれないと思った。
心の奥底の浅ましい本音を象徴しているかのように思えた。
優斗は美琴がピルを飲んでいることを知っていたが、それでも避妊はしていた。交際していた二年の間、避妊をしなかったのは、美琴が望んで直接繋がった数回のみ。
別れる直前の美琴はとにかく精神的に不安定で、優斗の気持ちを確かめるために、戸惑う彼にねだったことも思い出す。
美琴にとっての妊娠は、愛する人との間に望んだ末のものではなく、男の愛にすがった身勝手な欲望の結果だったのだ。
大学を卒業したばかりの娘が、別れた相手との子どもを妊娠している――それを知った母親は嘆いたけれど、義父は中華系出身のアメリカ育ちで、おおらかな考え方をしていた。
だから、別れたとはいえその時少しでも愛していた相手との子どもなら、その命を大切にしてほしいと、子どもは大事な授かりものだから一緒に育てればいいと言ってくれたのだ。
美琴の思惑はどうであれ、すでにお腹の中では命が育まれている。
お腹が大きくなるにつれ、美琴はその存在を愛しく思えたし、無事に産まれてほしいと願った。
真に父親がいないことは申し訳ないと思う。
でも真を、優斗を繋ぎとめる手段にしなくてよかったとも思う。
彼とはすでに道を違えており、それを選んだのは美琴自身。
だから、美琴はできるだけ心を落ち着かせて、優斗との再会に臨むことにした。
美琴が専属コンシェルジュの担当を受け入れるとすぐに、優斗は長期滞在の契約を結んだらしい。
美琴は仕事上の必要に迫られて、今まで意識的に避けていた優斗の情報に目を通すことにした。
彼は大学卒業後に就職したものの、一年後にはアメリカの大学院に進学していた。そして在学中に仲間とともに起業し、いくつかの会社を売買しながら大きくしていったようだ。
活動の拠点はアメリカで、日本では主に承継のためのマッチング事業を展開していた。
日本は中小企業が多く、少子化により後継者のいない会社が増えている。後世に残すべき伝統や技術やノウハウも、廃業してしまえばこれまで培ってきたものはゼロになる。
後継者のいない経営者と、技術を継ぎたいと願う人材をマッチングさせるアプリを開発し、承継サポートをはじめ融資先の選定や、承継後の事業計画案の策定などをトータルでサポートしている。海外ではそれらを軸に、幅広い業種と提携しているらしい。
大学在学中から優斗はいろんな活動をしていて、リーダーシップの素質が充分に備わっていた。だから事業内容を知った美琴は、彼らしい選択だと思った。
誰かに雇われるよりも、トップに立って皆を率いていくほうが彼には向いている。
インターネットで検索すればもっとたくさんの記事も画像も出てきそうな経歴だったけれど、美琴はそれ以上検索するのはやめた。
SNS系の情報はあまり見たくない。情報量は膨大でも、嘘と真実が交錯し正しいかどうか判断するのが困難だからだ。今の美琴は、優斗に関する情報の正誤を見抜ける気がしなかった。
気持ちを切り替えて、美琴は事前に提出された要望にそって整えた部屋をチェックすることにした。
優斗の契約した部屋は、リビングルームとキッチンに、書斎と寝室の個室が備わった少し広めのタイプだ。
華美ではなくシンプルに、優斗の部屋の好みを思い出しながら確認していると、とっくに忘れていたはずの過去があっという間に蘇ってきた。
リネン類は白で、カーテンは遮光性のもの。でも白や黒などコントラストのはっきりしたものではなく、グレーやベージュなど淡いトーンのものがいい。アクセントになる色はクッションなどの小物で取り入れる。
食器類は洋食器を中心に、ホテルのコンセプトを少しだけ織り交ぜて、アジアンテイストのものも入れた。昔お気に入りだったコーヒーメーカーも、コーヒー豆と一緒に準備する。インターネット環境も万全だ。
今日は、優斗がこのホテルにやってくる日だ。この部屋までは、貴之が優斗を案内する。そして美琴と引き合わせるのだ。
貴之は美琴と優斗の再会を心配したのか、その場に同席するために案内役を引き受けてくれた。
(大丈夫。六年経った。気持ちだってとっくにない。昔の知り合いと再会するだけ)
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