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1巻
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プロローグ
「慧、ねえ、慧ってば! 勉強を手伝いに来てくれたのに、寝ていた私が悪かったけど……」
中学二年生の夏休みが、もう終わろうとしている日の夕方。
文月沙弥子は隣に住む幼馴染みの芹沢慧の家を訪ねていた。
八月下旬のうだるような暑さの中、芹沢家の玄関先には、ショートパンツにTシャツを着てサンダルをつっかけている慧が不機嫌な表情で立っている。ぼさっとした髪を利き手である左手で掻き回し、眼鏡をかけた奥の目を沙弥子から逸らしている様子を見ると、気分を害してしまったのは間違いないらしい。そして今、彼の家には慧以外、誰もいないらしく、家に上がっていけばと声をかける人もいない。
そもそもその日は勉強がよくできる慧が、沙弥子の部屋を訪ねてくる予定だった。
数学が苦手な沙弥子が夏休みの宿題をぎりぎりまで残していたのを知って、慧は宿題を仕上げる手伝いをすると約束してくれていたのだ。それなのに、彼が来たタイミングで沙弥子はぐっすりと昼寝をしてしまっていたらしい。
前日の夜寝苦しかったせいもあり、母に起こされてもなかなか目が覚めず、ようやく夕方前に起きた沙弥子は、慌てて慧のところに謝りに来たのだ。
だが慧はそんな沙弥子に対して、視線すら合わせず冷たい態度を崩さない。
普段の慧ならば、こんなことで怒ったりしない。だから謝りに来るまでは、「まったくいい加減にしろよな」ぐらいの一言を言われて、仕方なく宿題を手伝ってくれるものだと信じて疑ってもいなかった。
「ねえ、慧。本当にごめんってば」
慧がまとういつもと違う空気に、焦った沙弥子は必死に頭を下げる。けれど慧はそれでも沙弥子の顔を見てくれることはなかった。
「いやいいよ。別に怒ってないし、謝らなくていい。宿題は……俺が解いたプリントなら渡すから。それを写して提出しておけばいいだろ?」
素っ気ない態度で、相変わらず視線すら合わせず、記入済のプリントを押しつけただけで、慧は沙弥子を玄関の外に追い出した。
いつもとは違う幼馴染みの態度に、沙弥子は小さく溜め息をつく。
(なんで……怒っているの……? 私、そんなに悪いこと、しちゃったかな……)
慧だけはどんな時も味方だった。父や母に叱られた時も、慧だけは『さやこが悲しい思いをしているの、ぼくはわかるよ』と、そう言ってずっと慰めてくれていたのに。
物心つく頃には当然のように慧は傍にいて、何があっても沙弥子のことを好きだと言ってくれていた。
『さやこ、けっこんしよっ』
幼い頃の記憶だ。舌っ足らずな口調でそう言い、慧はいつでも沙弥子の後を追いかけていた。例えば沙弥子と喧嘩しても、どんな時でも慧だけは許してくれた。
小さな頃から目が悪かった彼は、運動神経の良い沙弥子の後をついてくると、足がもつれて時折転んでしまうこともあった。それでも沙弥子が彼の元に駆けつけると、嬉しそうな顔をして、彼女の手を掴み立ち上がった。
『さやこ、だーいすき』
そう言って抱きついて笑っていた。
だからずっと慧だけは沙弥子のことを好きでいてくれると、彼女は無条件で信じていた。けれどいつの間にか、慧は沙弥子と距離を取るようになり、昔のように『大好き』とは言ってくれなくなった。
そしてその後は同じ高校に進んだのにもかかわらず、ずっと隣に住んでいたのにもかかわらず、子供の頃のように仲良く会話したり、一緒に出かけたりすることもなくなった。その上沙弥子は中学校から続けていた吹奏楽にのめりこんでいたし、慧は医学部に進むことを決め、勉強漬けの生活を送っていた。
高校二年生からは理系と文系で完全にクラスが分かれてしまったし、結果として同級生としてすら、彼とは会わない生活を過ごしていた。
「幼馴染みなんてそんなものじゃない?」
高校のクラスメイトがそう言う。確かにそんなものなのかもしれない。大人になれば幼馴染みと言ったって、単なる知り合い程度になってしまうのが普通なのだろう。
(なんだか……寂しいな)
人生の中で、一番自分を好きでいてくれたのは幼い頃の慧だったんじゃないのか、と今でも思う。そして歳を重ねるほど、そんな純粋な思いを向けてくれる人はもう現れないのだと、沙弥子は自然と諦めていったのだった。
第一章 プロポーズは突然に
文月沙弥子は、いつものように合鍵を使って部屋のドアを開けた。手に下げた買い物袋はご馳走を作るための材料でいっぱいだ。
「お、重た……」
恋人である中林晃平の住む一人暮らしのアパートの玄関は小さい。ほとんど段差のない玄関で靴を脱いで、中に入っていくと、相変わらず部屋は散らかっていた。
「……早めに来て正解だったな」
晃平はウェブデザイン事務所勤務で、残業の多い仕事をしており、いつも帰宅が遅い。その上片付けが苦手なので結果として部屋は常に雑然としている。
はぁっと思わず溜め息が出てしまった。今日は彼と付き合って三年目の記念日だ。そして沙弥子は今年で三十二歳になる。
(……二十代のうちに結婚したいって思っていたんだけどな)
一瞬浮かんだ考えを消して、ただ体を動かして部屋を片付けていく。シフト制で勤務している沙弥子は夜勤明けだ。少し眠ってから夕方前にここに来たので時間はまだある。
スッキリと部屋を整理すると、次は食事の準備を始めた。
(去年までは記念日だからって、オシャレなお店へディナー食べに行ったりしていたのに……)
今年は晃平から会おうという話が出てこなかったので「記念日、どうする? 忙しいようなら晃平の家でご馳走用意しておこうか?」というメッセージを送ったら、了解のスタンプを一つ寄越してきただけだったのだ。
(なんで私達、未だに結婚してないんだろう……)
元々お互いいい年齢だからと結婚前提で付き合い始めた。それなのに具体的な話になると、晃平にのらりくらりと誤魔化されている感じで、気づいたら丸三年が経っていたのだ。
(大丈夫だよね。ずっと結婚しようって言ってくれていたし。今日こそ、きちんと話をしないと。私だって早く子供産みたいし……)
沙弥子は軽く拳を握り、決意を新たにすると、記念日のためのご馳走の準備を始めた。だが定時退社の時間を三時間過ぎても、晃平は戻ってこなかった。
そして十時を回ってようやく帰ってきた晃平から予想外の話をされることになったのだった。
「ごめん。記念日のこと、すっかり忘れてた。あとずっと言おうと思っていたんだけど、今後はもう君とは会わない」
突然の話に沙弥子は目を瞠った。
「え、何を言っているの?」
付き合って三年目の記念日に打ち明けられたのは別れ話だった。どうやら彼は本気で言っているらしい。沙弥子は動揺し、せめてその理由を教えてほしいと言った。
すると彼は昔からずっと好きだった人がいた、と告白してきた。それだけではなく……
「沙弥子といる間も、俺の気持ちの真ん中にはずっとあの人がいて……。やっぱり俺はあの人を諦めきれないんだ」
つまり沙弥子と付き合っている間も、ずっと別の人が好きだったというのだ。それなのに晃平は爽やかで整った顔を歪め、苦悶するような表情を浮かべている。このところ彼の様子がおかしいことには気づいていた。だけど、こんな展開は予想もしていなかった。
「沙弥子、俺とあの人のために別れてくれ!」
(なんで知りもしない人のために、別れないといけないの?)
正直、意味がわからなすぎる。そんな大事な人がいたのなら、そもそも沙弥子に告白なんてしなければよかったのではないか。
(よりにもよって、今日じゃなくたっていいのに……)
沙弥子はキッチンにある、後はテーブルに出すだけになっているご馳走を思い出しながら、何も言えずただ息を吐き出す。料理を頑張った分、どうしようもなく空しい気持ちになっていた。
(丸三年、結婚するって話を具体的にしないままの晃平と、それでも一緒にいたのは、私のことが好きって言葉を信じていたからなのに)
悲しさや、怒り、悔しさやが胸の中にこみ上げてくる。間違いなく苦しい表情になっているはずの沙弥子を無視して、彼は一人酔いしれたように話を続けた。
「俺、あの人を諦めた直後に、沙弥子と出会ったんだ。それで彼女を忘れて、沙弥子を一生守って生きていこうって心に決めた」
そこまで言うと、彼はじっと沙弥子を見つめて、うるうると瞳を潤ませた。
「けど……けど! あの強かった人が『一人では生きていけない』って電話で俺に泣きながら言うんだよ!」
彼にはずっと好きだった女性の先輩がいて、何度告白しても振られていたそうだ。そしてついにその先輩が結婚したから、諦めようとして選んだのが沙弥子だったという。
だが夫と離別したと聞いて、やっぱり彼女が忘れられなくなったらしい。だから沙弥子と別れて、本命の女性の元に行って、彼女と彼女の子供を支えて生きていきたいのだと説明された。
(そんな都合のいい話……ある?)
それを聞いて感じたのは、怒りより呆れの感情だった。
それに今の会話の感じだと、沙弥子と付き合っている間もずっと、既婚者だった彼女と連絡を取っていたのだろう。
(私との結婚を口にしていたのに、実はその彼女を全然諦めていなくて、私はある意味控え選手だったって、そういうことだよね)
初めて真剣に付き合った彼氏である晃平に散々振り回され、二十代で結婚したかった沙弥子は独身のまま三十一歳になっていた。
「沙弥子には、本当に申し訳ないと思っている……」
晃平は掠れた声を震わせて、目元には涙を浮かべている。だが心の底からそう思っていたら、こんないい加減なことはしないだろう。誠実な人は他に好きな人がいるのに、別の人と付き合うようなことはしない。
何度か彼に文句を言おうとしたが、胸にこみ上げてきたなんとも言えない感情を言葉にできなかった。所詮自分とはものの考え方が違うのだろう、言うだけ無駄だという考えに至り、最後はあきらめた。
「もう……いいよ、わかった」
そのたった一言ですべてが終わるのだ。二十八歳で初めてできた恋人で、結婚すら考えていた彼との関係が。
「あ、ありがとう! 沙弥子ならわかってくれると思ってた」
だが沙弥子の気持ちなんて想像する気もない図々しい晃平は、彼女の手を握ろうとしてきた。沙弥子はそんな無神経な彼氏に対して最後の抵抗とばかりに、慌てて手を引っ込める。
そうされると思ってなかったのだろう、ちょっとバランスを崩した晃平を見て情けなくなり、沙弥子は泣き笑いの顔になった。
「……もう私、晃平には二度と会わないから。じゃ、さようなら」
さすがにその彼女とお幸せに、とは言うことができなかった。
そこから二ヶ月はどん底だった。今までいて当然だった人が、急にいなくなってしまったのだ。
未だに沈みがちになる気持ちを立て直し、仕事に集中するように自分に言い聞かせる。
「さやこせんせい、どうしたの?」
それでもついぼうっとしてしまっていた沙弥子を見て、担当しているクラスの子供達が顔を覗き込んでくる。
沙弥子は今、近所にある誠清会病院という大きな総合病院に併設されている、院内保育所で保育士をしている。
大学で保育士と幼稚園教諭の資格を取得した後は、沙弥子はしばらく幼稚園で仕事をしていた。だが最初の幼稚園は人間関係がなかなかハードだった。特に大変だったのが、保護者対応だ。
モンスターペアレントではないが、小さな子供を幼稚園に預けている親達は我が子可愛さが少々過ぎた人もいて、ささいなことでクレームに発展しがちだった。最終的に保護者対応に振り回されて、子供以外のことで悩みが多くなり、最初の勤め先は辞めてしまった。
その後、自宅から近い総合病院の院内保育所で保育士を募集していることを知って応募した。もう五年以上勤めている。これまで経験してきたようなトラブルは比較的少なく、保育に集中できる環境がありがたい。
「ぼうっとしていてごめんね。どうしたの、奈那ちゃん」
きゅるんとした黒目がちなつぶらな瞳でじっと見つめてくれるのは、沙弥子が担当しているクラスの四歳の女の子、坂田奈那だ。
「ななの、おひるねうさぎさんがいないの……」
奈那は普段から小さなタオルを持ち歩いている。しっかりしているおませな女の子なのだが、その気持ちの拠りどころとなっているのが、白いうさぎさんが描かれたタオルなのだ。
「ええ、おかしいねえ。今日の朝、奈那ちゃん、持ってきていた?」
「ううん。ママがかばんにいれておくっていってた」
そう言われて沙弥子は慌てて、奈那の保育用の鞄の中を確認する。
(なんか、このところ坂田さん、忘れ物が多いんだよな。それに……)
なんとなく奈那の衛生面が気になっていた。
(爪を切り忘れている。長い髪の毛が少し絡まっている。お着替え用の洋服や、おひるね用のタオルケットになんとなく匂いが残っている感じがする……)
「あ。よかった。入ってたよ」
注意深く奈那の様子を見ながら、沙弥子は奥に入っていた目的のハンドタオルを引っ張り出して奈那に渡してあげる。
「わ、せんせい、ありがとう~」
「あ、そうだ。先生、奈那ちゃんの髪の毛、梳いてあげるね」
院内保育所ということで、子供達は親の勤務シフトによって日ごとメンバーが違う。今日のメンバーは大人しい子が多く、部屋で本を読んだり室内遊びを楽しんだりしている。同じクラスの副担任である後輩の夏美が子供達を見てくれているので、沙弥子は奈那を近くに呼んで膝の上に座らせた。
「はい、床屋さんですよ~」
そう言いながら、奈那の長い髪を下の方からゆっくり櫛で解きほぐし、絡まりを無くしていく。
(坂田さんは最近離婚したって言ってたな。シフト一気に増やしたんだっけ。生活環境の変化で子供の世話まで十分に手が回ってないのかも。少し注意して見てあげよう)
沙弥子はそんなことを考えながら、奈那の髪を梳き終えて彼女を解放する。夏美がこちらを見ているのに気づいて小さく頷いた。
「沙弥子先生。奈那ちゃん、このところちょっと気になりませんか?」
お昼寝の時間、親に保育の状態を報せる保育ノートを書きながら、夏美が話しかけてくる。
「確かにちょっとね。生活スタイルが変わってお母さんの手が回ってないのかも」
保育士は子供の世話をすることで、その家の生活が見えてくる。家庭環境が悪化すると、子供が精神的に不安定になることもある。そうしたときにはできる限り手を差し伸べたいし、場合によっては外部からの支援を求めることもあるが……
「『奈那ちゃんに気をつかってあげてくださいね~』って言っても、坂田さん『言われなくてもわかっているわよ』って素直に聞いてくれなそうですもんね」
パワフルで押しの強い顔を思い出し、沙弥子も溜め息をつく。
(結局、何か気づいても、保育所の外のことは私達にはどうしようもないんだよね……)
このところ感じている無力感を振り払うように、次の子の保育ノートを手に取った。
「てか、離婚かあ……。結婚ってなんなんですかねえ……」
ぽつりと言った夏美の言葉に、沙弥子は曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
***
その日、仕事から帰宅した沙弥子に届いていたのは、小学時代の友人陽菜から来た結婚式の招待状だ。
だが沙弥子はリビングの食卓の上に載ったその招待状を、複雑な感情で見ていた。
(お祝いは、したい。でも今、心から温かい気持ちでお祝いできるかどうか、自信がない)
返事を書くためのボールペンを持った手に力が入りすぎて、いったんペンを下ろす。
仲良くしている小学校からの友人だ。本来なら嬉しくて華やかな気持ちになるところなのに……素直に喜べない結婚願望の強い自分が本当に死ぬほど嫌だ。何度目かの溜め息をついていると、母親がお茶を持って近づいてきた。
「ねえ、沙弥子に頼みたいことがあるのよ~」
招待状を一瞬チラリと横目で見つつ、母は沙弥子の前にお茶を置く。
「ありがとう」
礼を言って温かい湯飲みを手のひらで包む。真向かいの席に座って母は自分の分のお茶を啜り始めた。
「頼みたいことって何?」
とりあえず目の前の招待状から逃げることに成功して密かに安堵しつつ尋ねる。
「ほら、慧君がこっちに戻ってくるってこの間話したじゃない?」
その言葉に沙弥子は大きな目をさらに大きく見開いた。
「え、慧が帰ってくるの?」
慧は沙弥子の幼馴染みで、隣の家に住んでいた同じ歳の男の子だ。目にかかるような長い前髪をしていて、常にぼーっとしたような印象の子だった。けれど頭は抜群に良くて、沙弥子と同じ私立の中高一貫校から内部推薦で付属大学の医学部に進んで卒業し医師免許を取った。その後は外科を専門とし、最新の医学を学ぶためにと渡米してもう二年以上経つのではないか。
沙弥子が慧の顔を思い出して、ちょっと懐かしく思っていると、母は溜め息をついた。
「この間、貴女に話した時にはうんうん、って頷いてたじゃない。話、聞いてなかったの?」
そう言うと母は考え込むような顔をした。
「……色々あったみたいだからね。心ここにあらず、で聞き流していたのかもしれないわねえ」
気遣う母の様子に、晃平と別れたことで、家族にまで心配かけていたことに気づく。彼とは結婚を前提に付き合っていたから、家族達にも紹介済みだった。だから別れたことも母には報告してあった。もちろん情けなくて、その経緯については話をしていなかったのだけれど……。ふと失恋直後の悲しみを思い出して、ツキンと胸が痛んだ。
「で、あの……慧が帰って来るって何? アメリカからの一時帰国?」
「違うのよ。なんか帰国して……沙弥子の勤め先のある病院で働くらしいわよ?」
「え? うちの病院に?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。そういえば、今年、病院内に新たに外科センターが立ち上がったことを思い出した。外科領域で地域の基幹施設となることを目指しているらしい。
「そう、誠清会病院なら自宅から通えるから~って聞いたわよ。だからこのところ、隣の家、由香ちゃんが来て古い家具を処分したり、リフォーム業者が入ったりしてたでしょ?」
そう言えばそうだったかもしれない。隣の家は慧の両親が田舎にある実家に帰ってしまってから、一年ほど空き家になっていた。そして慧の妹の由香は三年前に結婚して、今は夫の会社の傍で、マンション住まいをしているはずだ。
「それでね。慧君、来週の金曜日に帰って来るんだけど、沙弥子、迎えに行ってもらえない? 空港まで。十五時半に着くって言ってたから。朝、仕事終わってから寝て……時間までには迎えに行けるでしょう?」
壁にかかっているカレンダーを見る。確かに来週金曜日は夜勤明けで、昼のシフトは入っていない。しかもその後は二連休で、デートはおろか、予定がまったくない沙弥子は断る理由が見つからない。
「いいけど、なんで私が迎えに行くの?」
「慧君、アメリカから帰ってくるんじゃ疲れているだろうし、荷物も多いだろうしね。小さい頃からずいぶんお世話になっているんだからよろしくね」
母の言葉を聞きながら、もう一度自分のシフトを確認して、沙弥子は頷く。
「わかった。由香ちゃんに連絡先聞いて、私から慧にメッセージ、送ってみる」
沙弥子の返事に母は「そうして」と言いながら皿を洗いに台所に向かった。
「……慧のことだから、きっと……真面目に頑張っていたんだろうな」
小さな頃から仲良くしていた幼馴染みは、思春期にはそれほど親しくはなくなった。ただずっと隣に住んでいたから、彼が何をしてきたのかは親を通じてよく知っている。
彼は懸命な努力の結果、夢だった職業に就いて、自ら希望してアメリカに行った。最先端の技術を学んで、意気揚々と帰ってくるのだろう。
(丸二年付き合った彼氏に振られて、結婚もできずに三十歳を超えたような私とは全く別の人生を歩んでいるよね……)
ふと彼がアメリカに発つ前、最後に交わした会話を思い出す。そう、二年半前にも空港まで沙弥子が送っていったのだ……
アメリカに発つ慧が空港の搭乗口に向かおうとした瞬間、振り返り沙弥子に右手を差し伸べる。慧は生まれつき左利きなのだが、人と握手したり手を繋ぐ時は必ず右手を使うのだ。なんでも憧れのヒーローが、『利き手は大事な人を守るために空けておくものだ』と言ったセリフをかっこ良く感じて、それ以来の癖らしい。
『ぼくの利き手は左だから、さやこをまもるために、右手で手をつなぐね』
幼い頃の慧の姿が脳裏に浮かぶ。
(子供の頃はよく手を繋いでいたな……)
握手を交わしながら、ずっと近くにいた幼馴染みが遠くに旅立つからだろうか、懐かしい気持ちで胸がいっぱいになる。
昔から家が隣同士だった沙弥子の母、頼子と、慧の母、貴子はとても仲がよかった。だから家が隣という物理的な距離以上の関係性で、沙弥子が物心ついた頃には、常に隣に慧がいた。そして小柄だった沙弥子と、運動が苦手だった慧は、二人ともよく転ぶため、親から言われて、お互いを支え合うようにいつだって手を繋いで歩いていた。しかし、中学校に入る頃から少しずつ距離ができて、それ以降は繋いだことはなかった。
「……結局、約束は果たさずじまいだったな」
沙弥子がそんなことを考えていると、彼は小さく呟く。
「……え、なんのこと?」
「いや、こっちのこと」
少し長めの前髪、眼鏡の奥から茶色がかった綺麗な目がじっとこちらを見ている。
「……沙弥子、ちゃんと幸せになるんだぞ」
一瞬黙った後、慧は何かを振り払うように大きく息を吐き出し、真正面から沙弥子の目を見て、真剣な顔をして、そう言った。
「え? 何よ、今世最期の挨拶みたいなの、気になるからやめてよ。慧、これから飛行機乗るんだよ? 縁起でもないって」
笑いながら言うと、彼は沙弥子の言葉に反応せず、先ほどの怖いほど気迫のこもった表情をいつも通りの飄々としたものに戻し肩を竦めた。
「俺が飛行機事故に遭うよりも、沙弥子が帰りの車で事故る可能性の方が高いよ。統計的にはね。……だから気をつけてね」
心配しているのかなんなのか、微妙な言葉を告げられて、沙弥子は苦笑する。するとそんな彼女を見て、慧は小さく、少し寂しそうに笑った。
「……次、俺が帰ってくる時は、できたら空港まで沙弥子が来てよ。その時、沙弥子に話したいことがあるから」
そう言って彼は沙弥子との握手を解く。
「話したいことって何? 今言ってよ」
昔みたいに慧の肩を叩こうとしたら、思ったより慧の身長が高くて距離があって、一瞬手が止まる。そんな沙弥子を見つめて、慧は複雑な笑みを浮かべた。
「気になるんだったら迎えにきてよね。俺はその可能性にかけるから。……じゃあ」
だがなんの話かは結局言わないまま、彼はくるりと背を向け搭乗口に向かって歩き出す。
「うん。気をつけてね~」
最後にかけた沙弥子の言葉に、彼は後ろ手に手を振っただけで振り向くこともなかった。
(そっか、あれから二年半経つのか……)
慧の様子は変わっているだろうかと一瞬考える。長めに伸びた前髪に、ぬぼーっとしている立ち姿。身長は高かったけれど、手足が長くてひょろひょろしていて、しゃれっ気のない眼鏡姿の慧を思い出し、沙弥子は首を横に振る。
(……いやない。慧に限って変わった、なんてことはあり得ない。なんだったら身長が伸びた中学生の頃から全然変わってなかったし。どうせアメリカでも仕事三昧だったんだろうし。でもせっかく同じ病院に勤めるんだから、昔みたいに少しぐらいは仲良くできたらいいな)
久しぶりの幼馴染みとの再会のおかげで、このところ失恋のショックで下がっていた気持ちが、ほんの少しだけ上向きになったのだった。
「慧、ねえ、慧ってば! 勉強を手伝いに来てくれたのに、寝ていた私が悪かったけど……」
中学二年生の夏休みが、もう終わろうとしている日の夕方。
文月沙弥子は隣に住む幼馴染みの芹沢慧の家を訪ねていた。
八月下旬のうだるような暑さの中、芹沢家の玄関先には、ショートパンツにTシャツを着てサンダルをつっかけている慧が不機嫌な表情で立っている。ぼさっとした髪を利き手である左手で掻き回し、眼鏡をかけた奥の目を沙弥子から逸らしている様子を見ると、気分を害してしまったのは間違いないらしい。そして今、彼の家には慧以外、誰もいないらしく、家に上がっていけばと声をかける人もいない。
そもそもその日は勉強がよくできる慧が、沙弥子の部屋を訪ねてくる予定だった。
数学が苦手な沙弥子が夏休みの宿題をぎりぎりまで残していたのを知って、慧は宿題を仕上げる手伝いをすると約束してくれていたのだ。それなのに、彼が来たタイミングで沙弥子はぐっすりと昼寝をしてしまっていたらしい。
前日の夜寝苦しかったせいもあり、母に起こされてもなかなか目が覚めず、ようやく夕方前に起きた沙弥子は、慌てて慧のところに謝りに来たのだ。
だが慧はそんな沙弥子に対して、視線すら合わせず冷たい態度を崩さない。
普段の慧ならば、こんなことで怒ったりしない。だから謝りに来るまでは、「まったくいい加減にしろよな」ぐらいの一言を言われて、仕方なく宿題を手伝ってくれるものだと信じて疑ってもいなかった。
「ねえ、慧。本当にごめんってば」
慧がまとういつもと違う空気に、焦った沙弥子は必死に頭を下げる。けれど慧はそれでも沙弥子の顔を見てくれることはなかった。
「いやいいよ。別に怒ってないし、謝らなくていい。宿題は……俺が解いたプリントなら渡すから。それを写して提出しておけばいいだろ?」
素っ気ない態度で、相変わらず視線すら合わせず、記入済のプリントを押しつけただけで、慧は沙弥子を玄関の外に追い出した。
いつもとは違う幼馴染みの態度に、沙弥子は小さく溜め息をつく。
(なんで……怒っているの……? 私、そんなに悪いこと、しちゃったかな……)
慧だけはどんな時も味方だった。父や母に叱られた時も、慧だけは『さやこが悲しい思いをしているの、ぼくはわかるよ』と、そう言ってずっと慰めてくれていたのに。
物心つく頃には当然のように慧は傍にいて、何があっても沙弥子のことを好きだと言ってくれていた。
『さやこ、けっこんしよっ』
幼い頃の記憶だ。舌っ足らずな口調でそう言い、慧はいつでも沙弥子の後を追いかけていた。例えば沙弥子と喧嘩しても、どんな時でも慧だけは許してくれた。
小さな頃から目が悪かった彼は、運動神経の良い沙弥子の後をついてくると、足がもつれて時折転んでしまうこともあった。それでも沙弥子が彼の元に駆けつけると、嬉しそうな顔をして、彼女の手を掴み立ち上がった。
『さやこ、だーいすき』
そう言って抱きついて笑っていた。
だからずっと慧だけは沙弥子のことを好きでいてくれると、彼女は無条件で信じていた。けれどいつの間にか、慧は沙弥子と距離を取るようになり、昔のように『大好き』とは言ってくれなくなった。
そしてその後は同じ高校に進んだのにもかかわらず、ずっと隣に住んでいたのにもかかわらず、子供の頃のように仲良く会話したり、一緒に出かけたりすることもなくなった。その上沙弥子は中学校から続けていた吹奏楽にのめりこんでいたし、慧は医学部に進むことを決め、勉強漬けの生活を送っていた。
高校二年生からは理系と文系で完全にクラスが分かれてしまったし、結果として同級生としてすら、彼とは会わない生活を過ごしていた。
「幼馴染みなんてそんなものじゃない?」
高校のクラスメイトがそう言う。確かにそんなものなのかもしれない。大人になれば幼馴染みと言ったって、単なる知り合い程度になってしまうのが普通なのだろう。
(なんだか……寂しいな)
人生の中で、一番自分を好きでいてくれたのは幼い頃の慧だったんじゃないのか、と今でも思う。そして歳を重ねるほど、そんな純粋な思いを向けてくれる人はもう現れないのだと、沙弥子は自然と諦めていったのだった。
第一章 プロポーズは突然に
文月沙弥子は、いつものように合鍵を使って部屋のドアを開けた。手に下げた買い物袋はご馳走を作るための材料でいっぱいだ。
「お、重た……」
恋人である中林晃平の住む一人暮らしのアパートの玄関は小さい。ほとんど段差のない玄関で靴を脱いで、中に入っていくと、相変わらず部屋は散らかっていた。
「……早めに来て正解だったな」
晃平はウェブデザイン事務所勤務で、残業の多い仕事をしており、いつも帰宅が遅い。その上片付けが苦手なので結果として部屋は常に雑然としている。
はぁっと思わず溜め息が出てしまった。今日は彼と付き合って三年目の記念日だ。そして沙弥子は今年で三十二歳になる。
(……二十代のうちに結婚したいって思っていたんだけどな)
一瞬浮かんだ考えを消して、ただ体を動かして部屋を片付けていく。シフト制で勤務している沙弥子は夜勤明けだ。少し眠ってから夕方前にここに来たので時間はまだある。
スッキリと部屋を整理すると、次は食事の準備を始めた。
(去年までは記念日だからって、オシャレなお店へディナー食べに行ったりしていたのに……)
今年は晃平から会おうという話が出てこなかったので「記念日、どうする? 忙しいようなら晃平の家でご馳走用意しておこうか?」というメッセージを送ったら、了解のスタンプを一つ寄越してきただけだったのだ。
(なんで私達、未だに結婚してないんだろう……)
元々お互いいい年齢だからと結婚前提で付き合い始めた。それなのに具体的な話になると、晃平にのらりくらりと誤魔化されている感じで、気づいたら丸三年が経っていたのだ。
(大丈夫だよね。ずっと結婚しようって言ってくれていたし。今日こそ、きちんと話をしないと。私だって早く子供産みたいし……)
沙弥子は軽く拳を握り、決意を新たにすると、記念日のためのご馳走の準備を始めた。だが定時退社の時間を三時間過ぎても、晃平は戻ってこなかった。
そして十時を回ってようやく帰ってきた晃平から予想外の話をされることになったのだった。
「ごめん。記念日のこと、すっかり忘れてた。あとずっと言おうと思っていたんだけど、今後はもう君とは会わない」
突然の話に沙弥子は目を瞠った。
「え、何を言っているの?」
付き合って三年目の記念日に打ち明けられたのは別れ話だった。どうやら彼は本気で言っているらしい。沙弥子は動揺し、せめてその理由を教えてほしいと言った。
すると彼は昔からずっと好きだった人がいた、と告白してきた。それだけではなく……
「沙弥子といる間も、俺の気持ちの真ん中にはずっとあの人がいて……。やっぱり俺はあの人を諦めきれないんだ」
つまり沙弥子と付き合っている間も、ずっと別の人が好きだったというのだ。それなのに晃平は爽やかで整った顔を歪め、苦悶するような表情を浮かべている。このところ彼の様子がおかしいことには気づいていた。だけど、こんな展開は予想もしていなかった。
「沙弥子、俺とあの人のために別れてくれ!」
(なんで知りもしない人のために、別れないといけないの?)
正直、意味がわからなすぎる。そんな大事な人がいたのなら、そもそも沙弥子に告白なんてしなければよかったのではないか。
(よりにもよって、今日じゃなくたっていいのに……)
沙弥子はキッチンにある、後はテーブルに出すだけになっているご馳走を思い出しながら、何も言えずただ息を吐き出す。料理を頑張った分、どうしようもなく空しい気持ちになっていた。
(丸三年、結婚するって話を具体的にしないままの晃平と、それでも一緒にいたのは、私のことが好きって言葉を信じていたからなのに)
悲しさや、怒り、悔しさやが胸の中にこみ上げてくる。間違いなく苦しい表情になっているはずの沙弥子を無視して、彼は一人酔いしれたように話を続けた。
「俺、あの人を諦めた直後に、沙弥子と出会ったんだ。それで彼女を忘れて、沙弥子を一生守って生きていこうって心に決めた」
そこまで言うと、彼はじっと沙弥子を見つめて、うるうると瞳を潤ませた。
「けど……けど! あの強かった人が『一人では生きていけない』って電話で俺に泣きながら言うんだよ!」
彼にはずっと好きだった女性の先輩がいて、何度告白しても振られていたそうだ。そしてついにその先輩が結婚したから、諦めようとして選んだのが沙弥子だったという。
だが夫と離別したと聞いて、やっぱり彼女が忘れられなくなったらしい。だから沙弥子と別れて、本命の女性の元に行って、彼女と彼女の子供を支えて生きていきたいのだと説明された。
(そんな都合のいい話……ある?)
それを聞いて感じたのは、怒りより呆れの感情だった。
それに今の会話の感じだと、沙弥子と付き合っている間もずっと、既婚者だった彼女と連絡を取っていたのだろう。
(私との結婚を口にしていたのに、実はその彼女を全然諦めていなくて、私はある意味控え選手だったって、そういうことだよね)
初めて真剣に付き合った彼氏である晃平に散々振り回され、二十代で結婚したかった沙弥子は独身のまま三十一歳になっていた。
「沙弥子には、本当に申し訳ないと思っている……」
晃平は掠れた声を震わせて、目元には涙を浮かべている。だが心の底からそう思っていたら、こんないい加減なことはしないだろう。誠実な人は他に好きな人がいるのに、別の人と付き合うようなことはしない。
何度か彼に文句を言おうとしたが、胸にこみ上げてきたなんとも言えない感情を言葉にできなかった。所詮自分とはものの考え方が違うのだろう、言うだけ無駄だという考えに至り、最後はあきらめた。
「もう……いいよ、わかった」
そのたった一言ですべてが終わるのだ。二十八歳で初めてできた恋人で、結婚すら考えていた彼との関係が。
「あ、ありがとう! 沙弥子ならわかってくれると思ってた」
だが沙弥子の気持ちなんて想像する気もない図々しい晃平は、彼女の手を握ろうとしてきた。沙弥子はそんな無神経な彼氏に対して最後の抵抗とばかりに、慌てて手を引っ込める。
そうされると思ってなかったのだろう、ちょっとバランスを崩した晃平を見て情けなくなり、沙弥子は泣き笑いの顔になった。
「……もう私、晃平には二度と会わないから。じゃ、さようなら」
さすがにその彼女とお幸せに、とは言うことができなかった。
そこから二ヶ月はどん底だった。今までいて当然だった人が、急にいなくなってしまったのだ。
未だに沈みがちになる気持ちを立て直し、仕事に集中するように自分に言い聞かせる。
「さやこせんせい、どうしたの?」
それでもついぼうっとしてしまっていた沙弥子を見て、担当しているクラスの子供達が顔を覗き込んでくる。
沙弥子は今、近所にある誠清会病院という大きな総合病院に併設されている、院内保育所で保育士をしている。
大学で保育士と幼稚園教諭の資格を取得した後は、沙弥子はしばらく幼稚園で仕事をしていた。だが最初の幼稚園は人間関係がなかなかハードだった。特に大変だったのが、保護者対応だ。
モンスターペアレントではないが、小さな子供を幼稚園に預けている親達は我が子可愛さが少々過ぎた人もいて、ささいなことでクレームに発展しがちだった。最終的に保護者対応に振り回されて、子供以外のことで悩みが多くなり、最初の勤め先は辞めてしまった。
その後、自宅から近い総合病院の院内保育所で保育士を募集していることを知って応募した。もう五年以上勤めている。これまで経験してきたようなトラブルは比較的少なく、保育に集中できる環境がありがたい。
「ぼうっとしていてごめんね。どうしたの、奈那ちゃん」
きゅるんとした黒目がちなつぶらな瞳でじっと見つめてくれるのは、沙弥子が担当しているクラスの四歳の女の子、坂田奈那だ。
「ななの、おひるねうさぎさんがいないの……」
奈那は普段から小さなタオルを持ち歩いている。しっかりしているおませな女の子なのだが、その気持ちの拠りどころとなっているのが、白いうさぎさんが描かれたタオルなのだ。
「ええ、おかしいねえ。今日の朝、奈那ちゃん、持ってきていた?」
「ううん。ママがかばんにいれておくっていってた」
そう言われて沙弥子は慌てて、奈那の保育用の鞄の中を確認する。
(なんか、このところ坂田さん、忘れ物が多いんだよな。それに……)
なんとなく奈那の衛生面が気になっていた。
(爪を切り忘れている。長い髪の毛が少し絡まっている。お着替え用の洋服や、おひるね用のタオルケットになんとなく匂いが残っている感じがする……)
「あ。よかった。入ってたよ」
注意深く奈那の様子を見ながら、沙弥子は奥に入っていた目的のハンドタオルを引っ張り出して奈那に渡してあげる。
「わ、せんせい、ありがとう~」
「あ、そうだ。先生、奈那ちゃんの髪の毛、梳いてあげるね」
院内保育所ということで、子供達は親の勤務シフトによって日ごとメンバーが違う。今日のメンバーは大人しい子が多く、部屋で本を読んだり室内遊びを楽しんだりしている。同じクラスの副担任である後輩の夏美が子供達を見てくれているので、沙弥子は奈那を近くに呼んで膝の上に座らせた。
「はい、床屋さんですよ~」
そう言いながら、奈那の長い髪を下の方からゆっくり櫛で解きほぐし、絡まりを無くしていく。
(坂田さんは最近離婚したって言ってたな。シフト一気に増やしたんだっけ。生活環境の変化で子供の世話まで十分に手が回ってないのかも。少し注意して見てあげよう)
沙弥子はそんなことを考えながら、奈那の髪を梳き終えて彼女を解放する。夏美がこちらを見ているのに気づいて小さく頷いた。
「沙弥子先生。奈那ちゃん、このところちょっと気になりませんか?」
お昼寝の時間、親に保育の状態を報せる保育ノートを書きながら、夏美が話しかけてくる。
「確かにちょっとね。生活スタイルが変わってお母さんの手が回ってないのかも」
保育士は子供の世話をすることで、その家の生活が見えてくる。家庭環境が悪化すると、子供が精神的に不安定になることもある。そうしたときにはできる限り手を差し伸べたいし、場合によっては外部からの支援を求めることもあるが……
「『奈那ちゃんに気をつかってあげてくださいね~』って言っても、坂田さん『言われなくてもわかっているわよ』って素直に聞いてくれなそうですもんね」
パワフルで押しの強い顔を思い出し、沙弥子も溜め息をつく。
(結局、何か気づいても、保育所の外のことは私達にはどうしようもないんだよね……)
このところ感じている無力感を振り払うように、次の子の保育ノートを手に取った。
「てか、離婚かあ……。結婚ってなんなんですかねえ……」
ぽつりと言った夏美の言葉に、沙弥子は曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
***
その日、仕事から帰宅した沙弥子に届いていたのは、小学時代の友人陽菜から来た結婚式の招待状だ。
だが沙弥子はリビングの食卓の上に載ったその招待状を、複雑な感情で見ていた。
(お祝いは、したい。でも今、心から温かい気持ちでお祝いできるかどうか、自信がない)
返事を書くためのボールペンを持った手に力が入りすぎて、いったんペンを下ろす。
仲良くしている小学校からの友人だ。本来なら嬉しくて華やかな気持ちになるところなのに……素直に喜べない結婚願望の強い自分が本当に死ぬほど嫌だ。何度目かの溜め息をついていると、母親がお茶を持って近づいてきた。
「ねえ、沙弥子に頼みたいことがあるのよ~」
招待状を一瞬チラリと横目で見つつ、母は沙弥子の前にお茶を置く。
「ありがとう」
礼を言って温かい湯飲みを手のひらで包む。真向かいの席に座って母は自分の分のお茶を啜り始めた。
「頼みたいことって何?」
とりあえず目の前の招待状から逃げることに成功して密かに安堵しつつ尋ねる。
「ほら、慧君がこっちに戻ってくるってこの間話したじゃない?」
その言葉に沙弥子は大きな目をさらに大きく見開いた。
「え、慧が帰ってくるの?」
慧は沙弥子の幼馴染みで、隣の家に住んでいた同じ歳の男の子だ。目にかかるような長い前髪をしていて、常にぼーっとしたような印象の子だった。けれど頭は抜群に良くて、沙弥子と同じ私立の中高一貫校から内部推薦で付属大学の医学部に進んで卒業し医師免許を取った。その後は外科を専門とし、最新の医学を学ぶためにと渡米してもう二年以上経つのではないか。
沙弥子が慧の顔を思い出して、ちょっと懐かしく思っていると、母は溜め息をついた。
「この間、貴女に話した時にはうんうん、って頷いてたじゃない。話、聞いてなかったの?」
そう言うと母は考え込むような顔をした。
「……色々あったみたいだからね。心ここにあらず、で聞き流していたのかもしれないわねえ」
気遣う母の様子に、晃平と別れたことで、家族にまで心配かけていたことに気づく。彼とは結婚を前提に付き合っていたから、家族達にも紹介済みだった。だから別れたことも母には報告してあった。もちろん情けなくて、その経緯については話をしていなかったのだけれど……。ふと失恋直後の悲しみを思い出して、ツキンと胸が痛んだ。
「で、あの……慧が帰って来るって何? アメリカからの一時帰国?」
「違うのよ。なんか帰国して……沙弥子の勤め先のある病院で働くらしいわよ?」
「え? うちの病院に?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。そういえば、今年、病院内に新たに外科センターが立ち上がったことを思い出した。外科領域で地域の基幹施設となることを目指しているらしい。
「そう、誠清会病院なら自宅から通えるから~って聞いたわよ。だからこのところ、隣の家、由香ちゃんが来て古い家具を処分したり、リフォーム業者が入ったりしてたでしょ?」
そう言えばそうだったかもしれない。隣の家は慧の両親が田舎にある実家に帰ってしまってから、一年ほど空き家になっていた。そして慧の妹の由香は三年前に結婚して、今は夫の会社の傍で、マンション住まいをしているはずだ。
「それでね。慧君、来週の金曜日に帰って来るんだけど、沙弥子、迎えに行ってもらえない? 空港まで。十五時半に着くって言ってたから。朝、仕事終わってから寝て……時間までには迎えに行けるでしょう?」
壁にかかっているカレンダーを見る。確かに来週金曜日は夜勤明けで、昼のシフトは入っていない。しかもその後は二連休で、デートはおろか、予定がまったくない沙弥子は断る理由が見つからない。
「いいけど、なんで私が迎えに行くの?」
「慧君、アメリカから帰ってくるんじゃ疲れているだろうし、荷物も多いだろうしね。小さい頃からずいぶんお世話になっているんだからよろしくね」
母の言葉を聞きながら、もう一度自分のシフトを確認して、沙弥子は頷く。
「わかった。由香ちゃんに連絡先聞いて、私から慧にメッセージ、送ってみる」
沙弥子の返事に母は「そうして」と言いながら皿を洗いに台所に向かった。
「……慧のことだから、きっと……真面目に頑張っていたんだろうな」
小さな頃から仲良くしていた幼馴染みは、思春期にはそれほど親しくはなくなった。ただずっと隣に住んでいたから、彼が何をしてきたのかは親を通じてよく知っている。
彼は懸命な努力の結果、夢だった職業に就いて、自ら希望してアメリカに行った。最先端の技術を学んで、意気揚々と帰ってくるのだろう。
(丸二年付き合った彼氏に振られて、結婚もできずに三十歳を超えたような私とは全く別の人生を歩んでいるよね……)
ふと彼がアメリカに発つ前、最後に交わした会話を思い出す。そう、二年半前にも空港まで沙弥子が送っていったのだ……
アメリカに発つ慧が空港の搭乗口に向かおうとした瞬間、振り返り沙弥子に右手を差し伸べる。慧は生まれつき左利きなのだが、人と握手したり手を繋ぐ時は必ず右手を使うのだ。なんでも憧れのヒーローが、『利き手は大事な人を守るために空けておくものだ』と言ったセリフをかっこ良く感じて、それ以来の癖らしい。
『ぼくの利き手は左だから、さやこをまもるために、右手で手をつなぐね』
幼い頃の慧の姿が脳裏に浮かぶ。
(子供の頃はよく手を繋いでいたな……)
握手を交わしながら、ずっと近くにいた幼馴染みが遠くに旅立つからだろうか、懐かしい気持ちで胸がいっぱいになる。
昔から家が隣同士だった沙弥子の母、頼子と、慧の母、貴子はとても仲がよかった。だから家が隣という物理的な距離以上の関係性で、沙弥子が物心ついた頃には、常に隣に慧がいた。そして小柄だった沙弥子と、運動が苦手だった慧は、二人ともよく転ぶため、親から言われて、お互いを支え合うようにいつだって手を繋いで歩いていた。しかし、中学校に入る頃から少しずつ距離ができて、それ以降は繋いだことはなかった。
「……結局、約束は果たさずじまいだったな」
沙弥子がそんなことを考えていると、彼は小さく呟く。
「……え、なんのこと?」
「いや、こっちのこと」
少し長めの前髪、眼鏡の奥から茶色がかった綺麗な目がじっとこちらを見ている。
「……沙弥子、ちゃんと幸せになるんだぞ」
一瞬黙った後、慧は何かを振り払うように大きく息を吐き出し、真正面から沙弥子の目を見て、真剣な顔をして、そう言った。
「え? 何よ、今世最期の挨拶みたいなの、気になるからやめてよ。慧、これから飛行機乗るんだよ? 縁起でもないって」
笑いながら言うと、彼は沙弥子の言葉に反応せず、先ほどの怖いほど気迫のこもった表情をいつも通りの飄々としたものに戻し肩を竦めた。
「俺が飛行機事故に遭うよりも、沙弥子が帰りの車で事故る可能性の方が高いよ。統計的にはね。……だから気をつけてね」
心配しているのかなんなのか、微妙な言葉を告げられて、沙弥子は苦笑する。するとそんな彼女を見て、慧は小さく、少し寂しそうに笑った。
「……次、俺が帰ってくる時は、できたら空港まで沙弥子が来てよ。その時、沙弥子に話したいことがあるから」
そう言って彼は沙弥子との握手を解く。
「話したいことって何? 今言ってよ」
昔みたいに慧の肩を叩こうとしたら、思ったより慧の身長が高くて距離があって、一瞬手が止まる。そんな沙弥子を見つめて、慧は複雑な笑みを浮かべた。
「気になるんだったら迎えにきてよね。俺はその可能性にかけるから。……じゃあ」
だがなんの話かは結局言わないまま、彼はくるりと背を向け搭乗口に向かって歩き出す。
「うん。気をつけてね~」
最後にかけた沙弥子の言葉に、彼は後ろ手に手を振っただけで振り向くこともなかった。
(そっか、あれから二年半経つのか……)
慧の様子は変わっているだろうかと一瞬考える。長めに伸びた前髪に、ぬぼーっとしている立ち姿。身長は高かったけれど、手足が長くてひょろひょろしていて、しゃれっ気のない眼鏡姿の慧を思い出し、沙弥子は首を横に振る。
(……いやない。慧に限って変わった、なんてことはあり得ない。なんだったら身長が伸びた中学生の頃から全然変わってなかったし。どうせアメリカでも仕事三昧だったんだろうし。でもせっかく同じ病院に勤めるんだから、昔みたいに少しぐらいは仲良くできたらいいな)
久しぶりの幼馴染みとの再会のおかげで、このところ失恋のショックで下がっていた気持ちが、ほんの少しだけ上向きになったのだった。
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