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2巻
2-1
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序、冬の足音
冬の訪れを知らせる北紅尾鴝がキィキィと甲高い鳴き声を上げた。
高貴妃の前で叩頭する下級女官の耳には、それがまるで彼女を馬鹿にしているように聞こえたかもしれない。両手をむき出しの石畳の上に重ねる下級女官の指先は真っ赤で、御花苑における真冬の水やりの仕事がどれだけ過酷かが推し量れた。
「も、ももも申し訳ございません。貴妃娘娘。どうか、どうか命だけは……」
しかし彼女は、昨夜の冷え込んだ空気を閉じ込めたような石畳にその身を投げ出すことを躊躇う余裕もなく、ただただ恐縮した様子で平伏していた。
いつもはあまり苑祺宮から出ない高貴妃が、御花苑の北西にある澄雪亭のあたりを散歩しようと思い立ったのは、この下級女官の不運であったとしか言いようがないだろう。まして、思いがけず現れた高貴妃に驚いた彼女が、持っていた柄杓を取り落として貴妃の前の石畳の上に水を撒いてしまったことは――手元の不注意があったとはいえ――そこまで責められるべきようなものでもないはずだ。
だが、高良嫣は冷たく言い放った。
「この娘を死ぬまで打ち据えて」
「も、申し訳ございません、娘娘。お許しください!」
失態を犯した同僚を横目に見ながら同じように平伏していた下級女官らは、怯えたように身を縮こまらせた。しかし冷血で残酷な苑祺宮の高貴妃は、額を石畳に擦り付けて懇願する下級女官に視線を投げることもしない。顔の下半分が絹の面紗に覆われているにもかかわらず、その触れたら切れてしまいそうな冷たさは、切れ長の双眸から滲み出るようであった。
英賢なる元徽帝が治める宸国の後宮において、苑祺宮に住まう高貴妃の恐ろしさを知らぬ者はいないだろう。
二年前に起きた景承宮の火事によって顔に傷を負った彼女は、自らに仕える女官らが、主人の顔を見ることも笑うことも許さないと噂されている。まして、粗相を働いてしまったとなれば……。
「お許しください! お許しください!」
貴妃付きの女官が「かしこまりました」と答えたことで、自らの死を予感した下級女官が取り乱す。それを無視して通り過ぎようとした貴妃であったが、背後からかけられた声に足を止めた。
「貴妃」
冬の冷たい空気を震わせたのは、凛とした低い声だ。貴妃はすっと顔だけを動かして、背後に視線を投げる。するとまるで立ち位置の決まった芝居のように、貴妃付きの女官が主人の視界を遮らぬよう身を引いた。
「まさか、こちらでお会いできるとは」
声の主は、はっとするほどに美しい顔立ちの、藍色の袍を身に纏った郎君であった。今の皇宮で、親王だけに許されるその色の袍を着られるのは一人しかいない。
毅王、秦白禎だ。皇帝の兄。
「毅王殿下」
現れた人物を見定めてから身体の向きを変えた貴妃は、にこりと微笑むこともなく言った。
「なぜ、御花苑に?」
貴妃の問いかけはもっともなことであった。御花苑は後宮の一部なので、皇帝の許しなく踏み入ることはできない。貴妃の言葉には相手の首元に切先を向けるような鋭さがあったが、毅王は笑顔のまま答えた。
「陛下のお呼びがございまして。貴妃こそ、苑祺宮を出ていらっしゃるなど珍しい」
そう言いながら歩みを止めることなく貴妃の前までやってくると、男は滑らかな仕草で右手を差し出す。
「濡れた石の上を歩くことを厭われるのなら、失礼ながら私がお運び申し上げましょうか?」
ぴりり、と張り詰めた緊張の糸が目に見えるようであった。
「毅王殿下。お戯れを」
そう言った貴妃の目は弧を描いて笑みを象っているが、声音に柔らかさはない。しかし毅王はさらに言った。
「たやすいことです。貴妃は翠鳥の風切羽よりも軽いでしょうから」
「殿下、親王としての節度を保たれませ。陛下のご寵愛を笠にきては、廷臣らの中に不信が生まれても不思議ではないわ」
「貴妃以上に陛下がご寵愛を傾ける相手がこの皇宮におられるわけがない」
「私など、後宮の妃嬪の一人にすぎません。陛下のたった一人の兄であらせられる毅王殿下に敵うはずがありませんでしょう」
「貴妃は陛下のことをよくご存知のようだ。ならば慈悲深い陛下が些細な失態を犯した女官をどう処するかもご存知でしょう」
「陛下のお気持ちを臣下が推しはかろうなどと恐れ多いことだと、毅王殿下の方こそよくご承知のはずですね」
二人とも声こそ荒らげないものの、さながら龍と虎、はたまた獅子と鳳凰が対峙しているかのような応酬である。
この時、貴妃付きの女官である春児が心の中で(また始まった……)と息を吐いたことには、その場の誰も気づかなかった。
貴妃と毅王は、顔を合わせるといつもこうなのだ。
滅多に会うことはないというのに、会うとこうして舌戦を繰り広げる。
ずっと死んだと思われていた皇兄・秦白禎が突然皇宮に現れ、奸臣馬膺を排斥したのはほんのひと月前のことだ。ここ二年ずっと苑祺宮に閉じこもっていた高貴妃が、皇帝の寵愛と後宮内での地位を取り戻したのも、ちょうど同じ頃のこと。
同時期に名声を回復した二人だからこそ、皇帝の関心を奪い合っているのであろう……、などというのは、後宮の女官らの間で交わされる噂話だ。だが、それが真実なのではと思えるほど、この寵臣と寵妃は仲が悪いようであった。
「では貴妃。この娘は、下がらせてもよろしいですね」
「お優しい毅王殿下の顔を潰すわけにはいかないわ」
思ってもみない方向に話が転がったことで、石畳に額を打ちつけすぎて額が赤くなった下級女官はしばらく呆然としていたが、周囲の仲間に礼を申し上げるよう促されて、慌てて再度平伏した。
「あ、ありがとうございます、貴妃娘娘。毅王殿下。感謝申し上げます。ありがとうございます」
すると貴妃が煩わしげに袖を振る。
「目障りだわ。春児、下がらせなさい」
「かしこまりました、娘娘」
貴妃に命じられた春児が下級女官に手を貸して立たせる。そうして女官らがその場からいなくなると、ようやく貴妃と毅王は二人きりになったのだった。
「……冷血な貴妃を演じるのもご苦労なことだな」
秦白禎が、静かに言った。
「何がですか?」
高貴妃――孫灯灯はむっとしたように眉を上げる。そうするだけで、先ほどまでよりもよほど、表情が豊かに見えた。
白禎が歩き出すと、灯灯もまた歩みを始める。不注意で石畳を濡らしてしまった下級女官を打ち据えようとしていたのに、彼女は濡れた石畳に頓着せず足を進めて、襦裙の裾を持ち上げもしなかった。
「後ろから俺が来ているのがわかってひと芝居打ったのだろう?」
「殿下なら、止めてくださると思ってました」
「これでまた貴妃の悪名が増えるな。些細なことで女官を打ち殺そうとしたと」
言葉を交わしているが、連れ立って歩いているわけではない。灯灯が白禎の少し前を行きながら保っている二人の距離は、第三者に見られてもどうとでも言い訳のできる、ちょうどよい距離なのであった。
「望むところです。ところで……白禎殿下は、陛下に呼ばれたと?」
「ああ、この先にいらっしゃるはずだ」
白禎が指し示した先には確か、石造りの築山の上に、同じく石造りの椅子や卓子が設えられた、雲慰台があるはずだ。手すりもない階段を上がっていかなくてはならないので、妃嬪らは滅多に行かない場所である。
「どこへ行く」
さっと踵を返して来た道を戻ろうとした灯灯だったが、白禎に行く道を阻まれてちろりと男を睨んだ。
「……お邪魔でしょうから」
(明らかに人目を避けて兄弟で会うんじゃない。なんの話をするのかわかったものじゃないわ)
灯灯は心の中で毒づいた。
――かつてこの国には、馬膺という名の丞相がいた。多くの官吏を操って強大な権勢を保っていたその男がいなくなってから、朝廷がまだ落ち着いていないのは灯灯も感じているところである。馬膺の影響が大きすぎたのだ。その手は朝廷内外に凌霄花の蔦のように伸びていたため、皇帝はやむを得ず苛烈な手段を取らざるをえなくなった。馬膺の命令で不正を働いた証拠のある官吏は、問答無用で全員罷免、投獄、そして一部を処刑したのだ。
灯灯は、朱皇后を通して皇帝――将桓の悲哀を耳にした。
本来なら将桓は、それぞれの事情を調べ、情状酌量の余地を残して処断したかったのだという。相手の弱みを握って操るのが馬膺の常套手段であった。だから、中には大切な者を守るため、断腸の思いで馬膺の言うなりになった人間もいたはずだ。将桓はそのような者には減刑を与えることを望んでいた。
それを、そんなことをしている場合ではない、と一刀両断したのが他ならぬ毅王、秦白禎である。
馬膺の一件は、早急に決着をつけて終わらせなければならない。馬膺の影が残っている限り親政などありえないと語った兄に、将桓は同意し、刑を下したのだった。
……つまり、皇帝と皇兄が二人きりで話そうとすることなど、そういった政治がらみの内容に違いないのだ。
後宮が政治に口を出すのは御法度だ。苑祺宮の高貴妃がそんな場にいたことが知られたら、どこでどんな憶測を呼び嫉みや害意を買うかわからない。
それは、灯灯が後宮にいる目的と相反することであった。
「皇后もいらっしゃるはずだ。ちょうどよいからお前もおいで」
その目的を承知しているはずの白禎は、いたって自然な仕草で灯灯の手を引いて言った。ぎょっとした灯灯は、ぱっと自らの手を取り返し、数歩相手から距離を取る。
どぎまぎしながら周囲を見まわしたが、幸運なことに誰にも見られていなかったようだ。灯灯は、白禎を睨みつけた。
「……白禎殿下。外で私にそんなふうに話しかけるのはご遠慮ください」
「そんなふうに、とは?」
白禎が心外そうに肩をすくめる。
自分を殺そうとした奸臣を失脚させるため、実に八年もの間雌伏していた男が考えていることなど、灯灯には理解できるはずもない。
「そんなふうには、そんなふうにです!」
灯灯が声をひそめながらもきっと睨みつけると、白禎は眉尻を上げてにこりと笑った。御花苑の花も恥じらうほど美しい顔と冷たい眼差しを持つ毅王殿下がこんな笑顔一つ見せるだけで、女官らが身を投げ出さんばかりに色めき立つのを灯灯は知っている。
「両陛下の前でなら、お前の求める節度を保とう」
だから、共に来いということだ。
「でも春児が……」
すぐにこちらに戻ってくるはずだ。
「春児には劉太監から伝えさせればいい」
劉太監は皇帝付きの宦官だ。確かに彼に頼めば、春児が無駄に灯灯を捜し回るということはないだろう。
「……わかりました」
これ以上抵抗しても無意味だと悟った灯灯は、しぶしぶ白禎の前に立って歩き出した。
先ほどと同じ距離を保って二人は歩き始める。道すがら、灯灯は淡い黄色の蝋梅の花弁がほころんでいるのを見つけて目で追った。蝋梅が咲き始めたということは、そろそろ雪も降るだろう。冬を司る玄帝がその裳裾でしっかりと宸国を覆い尽くし、国中が白い静けさの中に沈むのだ。
そんなことを考えていると、ふいに白禎と目が合った。一度どきりと心臓が跳び上がったが、なんとか平静を装って視線をずらす。不自然でなかっただろうかと心配したが、背後を歩く白禎からなんのからかいも飛んでこなかったので、灯灯はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
やがて二人が雲慰台に辿り着くと、今度は白禎が灯灯の前に出た。
「貴妃」
そう言って、皇兄がうやうやしく右腕を差し出す。そちらにちょこんと左手の指先だけ預けて、二人はゆっくりと石を削り出して作られた階段を登った。
築山の上に作られた雲慰台には屋根がなく、代わりに楊梅の葉が雲慰台を覆うように生い茂っている。その下に設えられた椅子に座り、茶を楽しんでいたらしい皇帝と皇后を視界に入れると、灯灯はすっと白禎から手を離した。
「兄上。良嫣も来たのか」
灯灯らに気づいた将桓がそう言って笑った。帝后の側に、劉太監と皇后付きの女官がいるのを見て灯灯は礼をする。
「陛下、皇后。良嫣がご挨拶いたします」
「白禎がご挨拶申し上げます」
「ああ」
二人の懸念に気づいた将桓がさっと腕を振ると、劉太監が素早く動いて女官や宦官らを下がらせた。
「さぁ、二人とも座って。斉微が茶を淹れてくれたよ」
聞き耳を立てている人間がいなくなったと見て、白禎は遠慮なく弟の隣に腰を下ろした。そして砕けた口調で言う。
「将桓。この寒いのに、どうして雲慰台なんぞに呼び出すんだ」
「いいじゃないか。ここなら人目を気にする必要がないだろう」
「人目を気にしないと話せないことがあるのなら、一国の皇帝である甲斐がない」
「お望みならいつでも代わってもらっていいんだよ」
「陛下」
将桓の言葉に、普段はほとんど表情を変えることのない皇后、朱斉微が眉間に皺を寄せた。
「そのようなことをおっしゃるものではございません」
「ああ、わかっているよ、斉微。よくわかっている。この重責が簡単に下ろせるものでないことも、兄上が肩代わりしてくれないこともね」
灯灯は瞬きをした。
ほんの十数年前までは、市井でも底辺の暮らしを送り、冬を越すだけの蓄えもなく盗みを働いてなんとか食い繋いでいた自分が……当時は神にも等しいほどの存在であった皇族の軽口を耳にしていることが、しばしば信じられなくなる灯灯である。
彼女のそんな困惑に気づいてか、立ち尽くす灯灯に白禎が言った。
「何をしている。早く座れ」
「あ、は、はい」
促されて腰を下ろしたのは、皇兄と皇后の間の席だ。灯灯の前に斉微が置いてくれた茶杯からは、まだ湯気がたちのぼっていた。
「益州の岩骨茶よ。温まるわ」
「ありがとうございます」
「……」
礼を言って茶杯を左手に取った灯灯は、斉微にじっと見られていることに気づいて面紗を持ち上げた手を止めた。
「あの、皇后。私の顔に何か?」
少し前まで灯灯は、朱斉微のことを思考が読めない女性だと苦手に思っているところがあった。けれどひと月前の一件で、その苦手意識は薄れつつある。
朱斉微は奸臣馬膺の養女であったにもかかわらず、恩人とも言える養父を討つことに協力してくれたのだ。そして灯灯に、いつも感情の宿らないその瞳に炎が灯るところを見せてくれて、本音を打ち明けてくれた。
「貴妃、顔が緩んでいるわ。気をつけた方がいい」
しかし、未だ感情が顔に浮かぶことの方が珍しい皇后に、叱責とも憂慮ともつかない声音でそう指摘されて、灯灯は面紗の下の頬に触れた。
(顔が緩んでいる?)
そんなつもりはなかったのだが。
「それは杞憂というものですよ、皇后。先ほどもこちらの恐ろしい高貴妃は、ささやかな失態を犯した女官を杖刑に処すところだったのですからね」
白禎がからかうように言った。
「杖刑に?」
将桓はそう言った後、心配そうな様子で灯灯を見る。
「と……良嫣。やりすぎはよくないよ。以前のように宮に閉じこもっているわけではないんだ。あまり敵を増やさない方がいい」
「はい、陛下」
神妙な顔で将桓のやんわりとした注意を聞いた灯灯であるが、俯いて垂れた前髪の下で隣の白禎を睨んだ。皇兄が余計なことを言わなければ、将桓を心配させることも自分が注意されることもなかったのに。
灯灯の睥睨に気づいた白禎は、楽しげににやりと笑って茶杯を傾けた。
「特に今後は、気をつける必要があると思う」
将桓のその物言いには、どこか含みがあった。
灯灯が気づいたのだから当然白禎もそれに気づいた様子で、眉を上げて弟を見る。詳細を促すその視線に、将桓は一度斉微と視線を合わせてから言った。
「実は、数日後に太皇太后がお戻りになる」
(たいこうたいごう……)
あまり聞きなれない称号に、灯灯が一呼吸の間思考停止していると、「いつかは戻ってくるだろうと思ったが、早いな」と白禎が毒づいた。
「安楽長公主も連れて戻られるそうだ」
「当然何か企んでいるだろう」
「兄上がお相手を頼むよ。私はお祖母様が苦手なんだ」
「あの狐婆さんが得意な奴なぞいるものか」
灯灯が完全に話題に取り残されていると、横から斉微が助け舟を出してくれた。
「謝太皇太后は、先帝のお母様よ」
先帝……つまり、嘉世帝の母親か。
「十六年前、まだ二歳でいらした安楽長公主を連れて、洸州の別院に移られたの」
「洸州……ですか」
洸州といえば、南東にある交易地だ。大きな港がある上に街道に面しているので、多くの人間が行き交う要地となっている。
半年ほど前に起きた水害で大きな被害を受けたが、今は徐々に復興しつつあるという。
「我らがお祖母様は馬膺を蛇蝎の如く嫌っていてね。奴の専横が抑えられなくなったと見ると、さっさと別院に隠れてしまわれたんだ。俺たちも何年かに一度お会いする程度だったが……」
「とにかく、一筋縄ではいかない方なのは確かだよ」
灯灯は、その場にいる三人の皇族が全員自分の方を見ていることに気づいて少し身を引いた。
「な、なんでしょうか……」
「良嫣。太皇太后は、高諒の乱で先帝をお支えした烈女だ」
「あ、はい……」
高諒の乱とは、三十年以上前に起きた事件だ。道士の専横を許していた宣和帝の時代に、後の嘉世帝――当時の第三皇子が挙兵し道士を誅殺した。その後宣和帝が自害したため、第三皇子が即位し元号を嘉世に改めたのだった。馬膺が嘉世帝を助けてその寵愛を受けるようになったのも、この乱の時であったと聞く。
また、嘉世帝の挙兵には母である当時の謝貴妃――太皇太后の後ろ盾があったという話も、灯灯は知識として知っていた。
「容赦のない婆さんだから、高良嫣の正体がばれたら即処刑される。くれぐれも言動に気をつけるんだな」
相手を慮るところの一切ない白禎の言葉に、灯灯はきゅっと口を引き結んだ。
高良嫣の正体。
確かにそれは、決して明らかになってはいけない秘密だ。
苑祺宮の高貴妃が……かつての景承宮の女官、孫灯灯であることは、この場にいる四人の他の誰にも暴露されてはいけない、最大の秘密なのであった。
一、太皇太后の帰還
高良嫣は、孫灯灯にとって姉であり、母であり、世界そのもののような人であった。もともとは珠蘭という名の芸妓であったが、将桓に見初められて子を孕み、後宮に入ったのだ。そして、二年前に亡くなった。
芸妓時代は小間使いとして、貴妃時代は側付き女官として、珠蘭――そして良嫣に仕えた灯灯が、主人の死後『高良嫣』として苑祺宮に残ったのは、亡き主人の遺児を守るために他ならない。
良嫣が産み落とした第二皇子啓轅は……良嫣が亡くなった当時まだ二歳だった。
陰謀渦巻く後宮において、母という後ろ盾を失った皇子が辿る末路は想像に難くない。見捨てられるか利用されるか。最悪の場合は、非業の死を遂げるだろう。
だから灯灯は、良嫣の死が外に漏れる前に、景承宮に火を放ったのだ。
そして将桓の協力のもと遺体を運び出し、自らが『高良嫣』となって新たに与えられた苑祺宮に閉じこもった。すべては大切な良嫣の息子、啓轅を守るために。
そうやって二年間、周囲の畏怖と敬遠を纏うことで啓轅を大切に守ってきた灯灯であったが、今彼女は――ひと月前にはなかった深刻な悩みを抱えていた。
冬の訪れを知らせる北紅尾鴝がキィキィと甲高い鳴き声を上げた。
高貴妃の前で叩頭する下級女官の耳には、それがまるで彼女を馬鹿にしているように聞こえたかもしれない。両手をむき出しの石畳の上に重ねる下級女官の指先は真っ赤で、御花苑における真冬の水やりの仕事がどれだけ過酷かが推し量れた。
「も、ももも申し訳ございません。貴妃娘娘。どうか、どうか命だけは……」
しかし彼女は、昨夜の冷え込んだ空気を閉じ込めたような石畳にその身を投げ出すことを躊躇う余裕もなく、ただただ恐縮した様子で平伏していた。
いつもはあまり苑祺宮から出ない高貴妃が、御花苑の北西にある澄雪亭のあたりを散歩しようと思い立ったのは、この下級女官の不運であったとしか言いようがないだろう。まして、思いがけず現れた高貴妃に驚いた彼女が、持っていた柄杓を取り落として貴妃の前の石畳の上に水を撒いてしまったことは――手元の不注意があったとはいえ――そこまで責められるべきようなものでもないはずだ。
だが、高良嫣は冷たく言い放った。
「この娘を死ぬまで打ち据えて」
「も、申し訳ございません、娘娘。お許しください!」
失態を犯した同僚を横目に見ながら同じように平伏していた下級女官らは、怯えたように身を縮こまらせた。しかし冷血で残酷な苑祺宮の高貴妃は、額を石畳に擦り付けて懇願する下級女官に視線を投げることもしない。顔の下半分が絹の面紗に覆われているにもかかわらず、その触れたら切れてしまいそうな冷たさは、切れ長の双眸から滲み出るようであった。
英賢なる元徽帝が治める宸国の後宮において、苑祺宮に住まう高貴妃の恐ろしさを知らぬ者はいないだろう。
二年前に起きた景承宮の火事によって顔に傷を負った彼女は、自らに仕える女官らが、主人の顔を見ることも笑うことも許さないと噂されている。まして、粗相を働いてしまったとなれば……。
「お許しください! お許しください!」
貴妃付きの女官が「かしこまりました」と答えたことで、自らの死を予感した下級女官が取り乱す。それを無視して通り過ぎようとした貴妃であったが、背後からかけられた声に足を止めた。
「貴妃」
冬の冷たい空気を震わせたのは、凛とした低い声だ。貴妃はすっと顔だけを動かして、背後に視線を投げる。するとまるで立ち位置の決まった芝居のように、貴妃付きの女官が主人の視界を遮らぬよう身を引いた。
「まさか、こちらでお会いできるとは」
声の主は、はっとするほどに美しい顔立ちの、藍色の袍を身に纏った郎君であった。今の皇宮で、親王だけに許されるその色の袍を着られるのは一人しかいない。
毅王、秦白禎だ。皇帝の兄。
「毅王殿下」
現れた人物を見定めてから身体の向きを変えた貴妃は、にこりと微笑むこともなく言った。
「なぜ、御花苑に?」
貴妃の問いかけはもっともなことであった。御花苑は後宮の一部なので、皇帝の許しなく踏み入ることはできない。貴妃の言葉には相手の首元に切先を向けるような鋭さがあったが、毅王は笑顔のまま答えた。
「陛下のお呼びがございまして。貴妃こそ、苑祺宮を出ていらっしゃるなど珍しい」
そう言いながら歩みを止めることなく貴妃の前までやってくると、男は滑らかな仕草で右手を差し出す。
「濡れた石の上を歩くことを厭われるのなら、失礼ながら私がお運び申し上げましょうか?」
ぴりり、と張り詰めた緊張の糸が目に見えるようであった。
「毅王殿下。お戯れを」
そう言った貴妃の目は弧を描いて笑みを象っているが、声音に柔らかさはない。しかし毅王はさらに言った。
「たやすいことです。貴妃は翠鳥の風切羽よりも軽いでしょうから」
「殿下、親王としての節度を保たれませ。陛下のご寵愛を笠にきては、廷臣らの中に不信が生まれても不思議ではないわ」
「貴妃以上に陛下がご寵愛を傾ける相手がこの皇宮におられるわけがない」
「私など、後宮の妃嬪の一人にすぎません。陛下のたった一人の兄であらせられる毅王殿下に敵うはずがありませんでしょう」
「貴妃は陛下のことをよくご存知のようだ。ならば慈悲深い陛下が些細な失態を犯した女官をどう処するかもご存知でしょう」
「陛下のお気持ちを臣下が推しはかろうなどと恐れ多いことだと、毅王殿下の方こそよくご承知のはずですね」
二人とも声こそ荒らげないものの、さながら龍と虎、はたまた獅子と鳳凰が対峙しているかのような応酬である。
この時、貴妃付きの女官である春児が心の中で(また始まった……)と息を吐いたことには、その場の誰も気づかなかった。
貴妃と毅王は、顔を合わせるといつもこうなのだ。
滅多に会うことはないというのに、会うとこうして舌戦を繰り広げる。
ずっと死んだと思われていた皇兄・秦白禎が突然皇宮に現れ、奸臣馬膺を排斥したのはほんのひと月前のことだ。ここ二年ずっと苑祺宮に閉じこもっていた高貴妃が、皇帝の寵愛と後宮内での地位を取り戻したのも、ちょうど同じ頃のこと。
同時期に名声を回復した二人だからこそ、皇帝の関心を奪い合っているのであろう……、などというのは、後宮の女官らの間で交わされる噂話だ。だが、それが真実なのではと思えるほど、この寵臣と寵妃は仲が悪いようであった。
「では貴妃。この娘は、下がらせてもよろしいですね」
「お優しい毅王殿下の顔を潰すわけにはいかないわ」
思ってもみない方向に話が転がったことで、石畳に額を打ちつけすぎて額が赤くなった下級女官はしばらく呆然としていたが、周囲の仲間に礼を申し上げるよう促されて、慌てて再度平伏した。
「あ、ありがとうございます、貴妃娘娘。毅王殿下。感謝申し上げます。ありがとうございます」
すると貴妃が煩わしげに袖を振る。
「目障りだわ。春児、下がらせなさい」
「かしこまりました、娘娘」
貴妃に命じられた春児が下級女官に手を貸して立たせる。そうして女官らがその場からいなくなると、ようやく貴妃と毅王は二人きりになったのだった。
「……冷血な貴妃を演じるのもご苦労なことだな」
秦白禎が、静かに言った。
「何がですか?」
高貴妃――孫灯灯はむっとしたように眉を上げる。そうするだけで、先ほどまでよりもよほど、表情が豊かに見えた。
白禎が歩き出すと、灯灯もまた歩みを始める。不注意で石畳を濡らしてしまった下級女官を打ち据えようとしていたのに、彼女は濡れた石畳に頓着せず足を進めて、襦裙の裾を持ち上げもしなかった。
「後ろから俺が来ているのがわかってひと芝居打ったのだろう?」
「殿下なら、止めてくださると思ってました」
「これでまた貴妃の悪名が増えるな。些細なことで女官を打ち殺そうとしたと」
言葉を交わしているが、連れ立って歩いているわけではない。灯灯が白禎の少し前を行きながら保っている二人の距離は、第三者に見られてもどうとでも言い訳のできる、ちょうどよい距離なのであった。
「望むところです。ところで……白禎殿下は、陛下に呼ばれたと?」
「ああ、この先にいらっしゃるはずだ」
白禎が指し示した先には確か、石造りの築山の上に、同じく石造りの椅子や卓子が設えられた、雲慰台があるはずだ。手すりもない階段を上がっていかなくてはならないので、妃嬪らは滅多に行かない場所である。
「どこへ行く」
さっと踵を返して来た道を戻ろうとした灯灯だったが、白禎に行く道を阻まれてちろりと男を睨んだ。
「……お邪魔でしょうから」
(明らかに人目を避けて兄弟で会うんじゃない。なんの話をするのかわかったものじゃないわ)
灯灯は心の中で毒づいた。
――かつてこの国には、馬膺という名の丞相がいた。多くの官吏を操って強大な権勢を保っていたその男がいなくなってから、朝廷がまだ落ち着いていないのは灯灯も感じているところである。馬膺の影響が大きすぎたのだ。その手は朝廷内外に凌霄花の蔦のように伸びていたため、皇帝はやむを得ず苛烈な手段を取らざるをえなくなった。馬膺の命令で不正を働いた証拠のある官吏は、問答無用で全員罷免、投獄、そして一部を処刑したのだ。
灯灯は、朱皇后を通して皇帝――将桓の悲哀を耳にした。
本来なら将桓は、それぞれの事情を調べ、情状酌量の余地を残して処断したかったのだという。相手の弱みを握って操るのが馬膺の常套手段であった。だから、中には大切な者を守るため、断腸の思いで馬膺の言うなりになった人間もいたはずだ。将桓はそのような者には減刑を与えることを望んでいた。
それを、そんなことをしている場合ではない、と一刀両断したのが他ならぬ毅王、秦白禎である。
馬膺の一件は、早急に決着をつけて終わらせなければならない。馬膺の影が残っている限り親政などありえないと語った兄に、将桓は同意し、刑を下したのだった。
……つまり、皇帝と皇兄が二人きりで話そうとすることなど、そういった政治がらみの内容に違いないのだ。
後宮が政治に口を出すのは御法度だ。苑祺宮の高貴妃がそんな場にいたことが知られたら、どこでどんな憶測を呼び嫉みや害意を買うかわからない。
それは、灯灯が後宮にいる目的と相反することであった。
「皇后もいらっしゃるはずだ。ちょうどよいからお前もおいで」
その目的を承知しているはずの白禎は、いたって自然な仕草で灯灯の手を引いて言った。ぎょっとした灯灯は、ぱっと自らの手を取り返し、数歩相手から距離を取る。
どぎまぎしながら周囲を見まわしたが、幸運なことに誰にも見られていなかったようだ。灯灯は、白禎を睨みつけた。
「……白禎殿下。外で私にそんなふうに話しかけるのはご遠慮ください」
「そんなふうに、とは?」
白禎が心外そうに肩をすくめる。
自分を殺そうとした奸臣を失脚させるため、実に八年もの間雌伏していた男が考えていることなど、灯灯には理解できるはずもない。
「そんなふうには、そんなふうにです!」
灯灯が声をひそめながらもきっと睨みつけると、白禎は眉尻を上げてにこりと笑った。御花苑の花も恥じらうほど美しい顔と冷たい眼差しを持つ毅王殿下がこんな笑顔一つ見せるだけで、女官らが身を投げ出さんばかりに色めき立つのを灯灯は知っている。
「両陛下の前でなら、お前の求める節度を保とう」
だから、共に来いということだ。
「でも春児が……」
すぐにこちらに戻ってくるはずだ。
「春児には劉太監から伝えさせればいい」
劉太監は皇帝付きの宦官だ。確かに彼に頼めば、春児が無駄に灯灯を捜し回るということはないだろう。
「……わかりました」
これ以上抵抗しても無意味だと悟った灯灯は、しぶしぶ白禎の前に立って歩き出した。
先ほどと同じ距離を保って二人は歩き始める。道すがら、灯灯は淡い黄色の蝋梅の花弁がほころんでいるのを見つけて目で追った。蝋梅が咲き始めたということは、そろそろ雪も降るだろう。冬を司る玄帝がその裳裾でしっかりと宸国を覆い尽くし、国中が白い静けさの中に沈むのだ。
そんなことを考えていると、ふいに白禎と目が合った。一度どきりと心臓が跳び上がったが、なんとか平静を装って視線をずらす。不自然でなかっただろうかと心配したが、背後を歩く白禎からなんのからかいも飛んでこなかったので、灯灯はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
やがて二人が雲慰台に辿り着くと、今度は白禎が灯灯の前に出た。
「貴妃」
そう言って、皇兄がうやうやしく右腕を差し出す。そちらにちょこんと左手の指先だけ預けて、二人はゆっくりと石を削り出して作られた階段を登った。
築山の上に作られた雲慰台には屋根がなく、代わりに楊梅の葉が雲慰台を覆うように生い茂っている。その下に設えられた椅子に座り、茶を楽しんでいたらしい皇帝と皇后を視界に入れると、灯灯はすっと白禎から手を離した。
「兄上。良嫣も来たのか」
灯灯らに気づいた将桓がそう言って笑った。帝后の側に、劉太監と皇后付きの女官がいるのを見て灯灯は礼をする。
「陛下、皇后。良嫣がご挨拶いたします」
「白禎がご挨拶申し上げます」
「ああ」
二人の懸念に気づいた将桓がさっと腕を振ると、劉太監が素早く動いて女官や宦官らを下がらせた。
「さぁ、二人とも座って。斉微が茶を淹れてくれたよ」
聞き耳を立てている人間がいなくなったと見て、白禎は遠慮なく弟の隣に腰を下ろした。そして砕けた口調で言う。
「将桓。この寒いのに、どうして雲慰台なんぞに呼び出すんだ」
「いいじゃないか。ここなら人目を気にする必要がないだろう」
「人目を気にしないと話せないことがあるのなら、一国の皇帝である甲斐がない」
「お望みならいつでも代わってもらっていいんだよ」
「陛下」
将桓の言葉に、普段はほとんど表情を変えることのない皇后、朱斉微が眉間に皺を寄せた。
「そのようなことをおっしゃるものではございません」
「ああ、わかっているよ、斉微。よくわかっている。この重責が簡単に下ろせるものでないことも、兄上が肩代わりしてくれないこともね」
灯灯は瞬きをした。
ほんの十数年前までは、市井でも底辺の暮らしを送り、冬を越すだけの蓄えもなく盗みを働いてなんとか食い繋いでいた自分が……当時は神にも等しいほどの存在であった皇族の軽口を耳にしていることが、しばしば信じられなくなる灯灯である。
彼女のそんな困惑に気づいてか、立ち尽くす灯灯に白禎が言った。
「何をしている。早く座れ」
「あ、は、はい」
促されて腰を下ろしたのは、皇兄と皇后の間の席だ。灯灯の前に斉微が置いてくれた茶杯からは、まだ湯気がたちのぼっていた。
「益州の岩骨茶よ。温まるわ」
「ありがとうございます」
「……」
礼を言って茶杯を左手に取った灯灯は、斉微にじっと見られていることに気づいて面紗を持ち上げた手を止めた。
「あの、皇后。私の顔に何か?」
少し前まで灯灯は、朱斉微のことを思考が読めない女性だと苦手に思っているところがあった。けれどひと月前の一件で、その苦手意識は薄れつつある。
朱斉微は奸臣馬膺の養女であったにもかかわらず、恩人とも言える養父を討つことに協力してくれたのだ。そして灯灯に、いつも感情の宿らないその瞳に炎が灯るところを見せてくれて、本音を打ち明けてくれた。
「貴妃、顔が緩んでいるわ。気をつけた方がいい」
しかし、未だ感情が顔に浮かぶことの方が珍しい皇后に、叱責とも憂慮ともつかない声音でそう指摘されて、灯灯は面紗の下の頬に触れた。
(顔が緩んでいる?)
そんなつもりはなかったのだが。
「それは杞憂というものですよ、皇后。先ほどもこちらの恐ろしい高貴妃は、ささやかな失態を犯した女官を杖刑に処すところだったのですからね」
白禎がからかうように言った。
「杖刑に?」
将桓はそう言った後、心配そうな様子で灯灯を見る。
「と……良嫣。やりすぎはよくないよ。以前のように宮に閉じこもっているわけではないんだ。あまり敵を増やさない方がいい」
「はい、陛下」
神妙な顔で将桓のやんわりとした注意を聞いた灯灯であるが、俯いて垂れた前髪の下で隣の白禎を睨んだ。皇兄が余計なことを言わなければ、将桓を心配させることも自分が注意されることもなかったのに。
灯灯の睥睨に気づいた白禎は、楽しげににやりと笑って茶杯を傾けた。
「特に今後は、気をつける必要があると思う」
将桓のその物言いには、どこか含みがあった。
灯灯が気づいたのだから当然白禎もそれに気づいた様子で、眉を上げて弟を見る。詳細を促すその視線に、将桓は一度斉微と視線を合わせてから言った。
「実は、数日後に太皇太后がお戻りになる」
(たいこうたいごう……)
あまり聞きなれない称号に、灯灯が一呼吸の間思考停止していると、「いつかは戻ってくるだろうと思ったが、早いな」と白禎が毒づいた。
「安楽長公主も連れて戻られるそうだ」
「当然何か企んでいるだろう」
「兄上がお相手を頼むよ。私はお祖母様が苦手なんだ」
「あの狐婆さんが得意な奴なぞいるものか」
灯灯が完全に話題に取り残されていると、横から斉微が助け舟を出してくれた。
「謝太皇太后は、先帝のお母様よ」
先帝……つまり、嘉世帝の母親か。
「十六年前、まだ二歳でいらした安楽長公主を連れて、洸州の別院に移られたの」
「洸州……ですか」
洸州といえば、南東にある交易地だ。大きな港がある上に街道に面しているので、多くの人間が行き交う要地となっている。
半年ほど前に起きた水害で大きな被害を受けたが、今は徐々に復興しつつあるという。
「我らがお祖母様は馬膺を蛇蝎の如く嫌っていてね。奴の専横が抑えられなくなったと見ると、さっさと別院に隠れてしまわれたんだ。俺たちも何年かに一度お会いする程度だったが……」
「とにかく、一筋縄ではいかない方なのは確かだよ」
灯灯は、その場にいる三人の皇族が全員自分の方を見ていることに気づいて少し身を引いた。
「な、なんでしょうか……」
「良嫣。太皇太后は、高諒の乱で先帝をお支えした烈女だ」
「あ、はい……」
高諒の乱とは、三十年以上前に起きた事件だ。道士の専横を許していた宣和帝の時代に、後の嘉世帝――当時の第三皇子が挙兵し道士を誅殺した。その後宣和帝が自害したため、第三皇子が即位し元号を嘉世に改めたのだった。馬膺が嘉世帝を助けてその寵愛を受けるようになったのも、この乱の時であったと聞く。
また、嘉世帝の挙兵には母である当時の謝貴妃――太皇太后の後ろ盾があったという話も、灯灯は知識として知っていた。
「容赦のない婆さんだから、高良嫣の正体がばれたら即処刑される。くれぐれも言動に気をつけるんだな」
相手を慮るところの一切ない白禎の言葉に、灯灯はきゅっと口を引き結んだ。
高良嫣の正体。
確かにそれは、決して明らかになってはいけない秘密だ。
苑祺宮の高貴妃が……かつての景承宮の女官、孫灯灯であることは、この場にいる四人の他の誰にも暴露されてはいけない、最大の秘密なのであった。
一、太皇太后の帰還
高良嫣は、孫灯灯にとって姉であり、母であり、世界そのもののような人であった。もともとは珠蘭という名の芸妓であったが、将桓に見初められて子を孕み、後宮に入ったのだ。そして、二年前に亡くなった。
芸妓時代は小間使いとして、貴妃時代は側付き女官として、珠蘭――そして良嫣に仕えた灯灯が、主人の死後『高良嫣』として苑祺宮に残ったのは、亡き主人の遺児を守るために他ならない。
良嫣が産み落とした第二皇子啓轅は……良嫣が亡くなった当時まだ二歳だった。
陰謀渦巻く後宮において、母という後ろ盾を失った皇子が辿る末路は想像に難くない。見捨てられるか利用されるか。最悪の場合は、非業の死を遂げるだろう。
だから灯灯は、良嫣の死が外に漏れる前に、景承宮に火を放ったのだ。
そして将桓の協力のもと遺体を運び出し、自らが『高良嫣』となって新たに与えられた苑祺宮に閉じこもった。すべては大切な良嫣の息子、啓轅を守るために。
そうやって二年間、周囲の畏怖と敬遠を纏うことで啓轅を大切に守ってきた灯灯であったが、今彼女は――ひと月前にはなかった深刻な悩みを抱えていた。
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