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1巻
1-1
しおりを挟む序章
窓の外を眺めて、獣人獅子王は誰かを呼ぶように小さく吠える。
(ああ、今日で三万年が過ぎた……)
三万年前の今日、獅子王の主である戦司帝はこの国を去った。
当時この国は呪われた力を使うとされる禍人の脅威に晒されていた。この国の武神である四天王と戦司帝は長い長い戦いの末、辛くも軍勢を打ち倒し、国は滅びる寸前で勝利を収めたのだ。
人々が喜びに沸く中、しかし戦司帝だけは本当の脅威に気付いていた。
『獅子丸。……これはちょっと大ごとだぞ』
獅子王を字で呼んだ戦司帝は顔を顰めた。曰く、死した禍人の怨念が砂丘の魔泉近くに渦巻いているらしい。
国を奪うなどという意志すらなくし、ただ破壊を尽くすだけの塊。そんなものが襲ってきたら、滅びかけたこの国は今度こそ力尽きる。
あの時の戦司帝の姿は、獅子王の脳裏に今でも鮮明に蘇る。
わずかに水色が乗った白い髪。浅葱色の瞳は優しく弧を描き、美しい唇が艶やかに開く。
『大丈夫、僕が行くよ。誰にも伝えないでおくれ。どうせすぐに分かることだ』
ちょっとそこまで出てくる。そんな軽い態度で彼はこの屋敷を出ていった。
その後、魔泉で閃光が轟き、この国一番の輝きを放っていた戦司帝の気配が消えた。
国を挙げて彼の捜索が行われたが、魔泉は干上がり、そこに一本の巨木が聳えるだけだった。
彼の痕跡は一切ない。
葬儀を行おうと言う者もいた。
しかし皇王はそれを一蹴し、共に戦った四天王も彼が死んだと認めないまま、丸三万年だ。
獅子王はそれから、彼の屋敷を守り続けている。
主の帰還を心から祈りながら。
第一章
枯れた葉が指先に触れて、流れていく。
細く開いた視界に映るのは、銀白色の世界だった。真っ白な砂丘が広がり、風に乗ってさらさらと砂が流れ落ちていく。
(どこから葉っぱが来たのだろう)
見上げると、枯れた大木が目に映った。もう葉は一枚も残っていない。ゆっくりと上体を起こしてみると、水色の髪が顔全体を覆うように落ちてくる。
(髪が伸びたな。……それにこの身体はなんだ?)
自分のものとは思えないほど小さな身体。鍛え上げたはずの筋肉は、わずかしか残っていない。
心臓に手を当てると、信じられないほどか細い鼓動が手に伝わってくる。
(半分以上炭化しているな。もって数年か、悪くて半年か)
立ち上がれば、緩くなった下衣がずるりと脱げた。上衣が膝下まで届いているから見えることはないが、どうも落ち着かない。
「あれから何年経った?」
言いながらつい笑ってしまう。声が若い。戦司帝としての力を使い果たし、身体が縮んでしまったのだろう。
ここまで来て、自分はもう戦司帝ではないのだと思い知る。
自分は、ただの翡燕なのだ。
禍人の塊が渦巻いていた魔泉は淵だけを残して干上がっている。もう気配は一つも残っていない。我が身を犠牲にして禍人を鎮めようとしたが、この命が崩れず残ったとは驚きだった。
「とりあえず、戻ってみるか。皆の元へ」
翡燕は歩き出そうとしたところで、自身の髪の長さに再度閉口した。引き摺るほど長い。
「その前に断髪だな」
懐に手を入れ、ぶかぶかの上衣の中を探る。背中側に回ってしまっていた財布には、幸い劣化していない硬貨が入っていた。
魔泉から街まではそう遠くはない。しばらく歩くと、砂塵にくすんだ街並みが見えてきた。
(戻ってはみたが……これは、ずいぶんと変わったなぁ)
翡燕は目の前の光景に驚き、浅葱色の瞳をぱちぱちと瞬かせる。
ユウラ国は資源に富み、国民は陽気な気質を持った朗らかな国だった。都には露店が多く建ち並び、年中活気付いていたはずだ。
それがどうだ。目の前にある街は荒み、露店など一軒も出ていない。道端に浮浪者がちらほら見え、中には子供もいる。
(一体どれだけの月日が流れたのか……)
ユウラ国の民族は長命で平均十万年は生きるとされている。力が強い者ほど長く、特に皇族となれば十万年を優に超えて生きる者もいた。
国を離れた時、翡燕は五万を数える年であったが、果たしてあれから何年が経ち、そして自分は何歳になっているのか、まったく見当がつかない。
街並みも以前のものとは異なり、故郷であるのによそに来たような気分だ。
翡燕は困惑しながら街を見渡し、灯りのついた店の中を覗く。
小さな店内には、色とりどりの菓子が並んでいた。会計のために並んでいた客が財布を取り出しているのが見える。そこから覗く硬貨は、見たことのないものだった。
(なんだそのお金。おい誰だ、硬貨を変えたのは)
今持っている金が使えないとなれば、由々しき事態である。外見も変わった上に文なしとなれば、これから先が思いやられる。
財布を握りしめながら呆然としていると、店主である女が翡燕に気が付いた。
「あれ? 見ない顔だね。菓子が欲しいのか? 金はあるかい?」
「……これはもう使えないでしょうか?」
翡燕は財布の紐を解き、中から白銀の硬貨を取り出した。
諦め半分で差し出した硬貨を見て、店主は目を大きく見開く。
「これは……! 戦司帝様が生きていた頃の硬貨じゃないか! こんな貴重なもの、どこで?」
「貴重?」
「もちろん貴重だよ! あの頃の硬貨は今では高値で取引されているんだ。好きなだけ持っていっていいから、一つおくれ!」
翡燕が硬貨を一つ渡すと、店主はまるで宝石に触れるかのように受け取り、そしてすぐに金庫へ走っていった。戻るなり、お返しとばかりに紙袋に菓子を詰め込み始める。
にこにこと満面の笑みを浮かべる店主へ、翡燕は気になっていたことを問いかけた。
「その、戦司帝が生きていた時代って、どれくらい前なの?」
「……う~ん、三万年前くらいじゃなかったかね?」
「三万年!」
衝撃の事実に唖然とすると共に、腹の底からくすぐったさが湧いてくる。
(僕は三万年も寝ていたのか! そりゃ、寝すぎだな! 街並みも硬貨も変わるはずだよ)
耐えきれずクスクス笑うと、店主が菓子を詰め込む手を止めた。視線は翡燕へ向いており、少しばかりの驚きの表情を浮かべている。
翡燕は笑い顔のまま咳払いを零すと、髪を束ねて掴んだ。
「髪を整えたいのだけど、お店はありますか? あと服も」
「ああ、向かいの店で揃うよ。その髪は切ったら売ると良い。きっと良い値段がつく」
翡燕がお礼代わりに微笑むと、店主の頬が朱に染まる。菓子袋を翡燕へと渡しながら、ぽつりと呟いた。
「いやぁ……あんたみたいな綺麗な顔、初めて見たよ。よその御曹司か何かかい?」
「御曹司? まさか」
「気を付けた方がいい。顔がいいとこの街では狙われるよ」
「……と、いうと?」
「人攫いが増えているんだ。ここらは治安も悪いし、あまり出歩かない方がいいよ」
詳しく聞けば、ここらでは獣人による人身売買が当たり前のように行われているのだという。
人攫いも増え、治安は悪化する一方だ。しかし国は取り締まりを強化することもなく、獣人国に対しても特に動いているというわけでもないらしい。
(……まったく、四天王は何をやっているんだ?)
この国には四天王という、国を守る柱がいる。彼らはそれぞれの役割をきっちりこなし、国のために尽くせる者たちだ。
翡燕が戦司帝だった頃、のらりくらりとしていた自分とは違い、彼らは精力的に執務をこなしていた。四天王がいながら国が荒んでいるならば、何かしらの理由があるのかもしれない。
とはいえ、身を挺して守った国が廃れているのは、腹が立つのも事実である。少々複雑な気持ちを抱えながら、翡燕は向かいの店へ向かう。
看板は出ていないが、今度は覗き込むことなく店へと入る。
すると暇そうにしていた店主が、翡燕を見て急に立ち上がった。
店主の様子を不思議に思いながらも、翡燕は自身の髪を一房掴む。
「この髪を整えてくれないか? できれば服も欲しい。髪が売れるなら代金は相殺したいと思っているが……」
「おお、水色の髪じゃないか! 色合いもいいし、珍しいな。……まるで戦司帝様の髪だ。こんなに長いし、髪を整えた後にお釣りがくるぞ」
「それは良かった」
微笑んで返事をするものの、やたらと出てくる『戦司帝』という言葉に、翡燕は疑念を持ち始めた。
あれから三万年も経ったというのに、話題に出てきすぎではないだろうか。まるでまだ生きているかのようだ。
戦司帝という地位に新たな人間が就いたとも考えられるが、あの地位は翡燕のために無理くり作られた役職なのだ。『全体統括』という、ぼんやりとした仕事内容の役割を今度は誰が務めているのか、気になるところである。
店主が促し、翡燕は鏡の前に座った。そして鏡に映る自分の姿にひくひくと頬を痙攣させる。
目覚めてから初めて見る自分の姿は、若い頃の姿そのものだった。
柔く瑞々しい少年が、青年になろうとする転換期ぐらいの見た目だ。筋肉はまったくと言っていいほど付いておらず、かなり細身に見えた。若返ったといえば聞こえはいいが、これでは若返りすぎである。
思わず溜息を漏らし、自嘲気味に笑う。その声は、自分でも驚くほど落ち込んだ音を含んでいた。
翡燕は少年の頃、皇家に拾われた。ちょうど今のような年だ。
その時の翡燕といえば、一見すれば少女のような可憐さを持っていた。このか弱い姿がまさか、戦司帝として雄々しく活躍するなど誰も思わなかっただろう。それだけ、戦司帝とこの鏡に映る翡燕は乖離しているのだ。
翡燕がかつてこの姿だったと知るのは、ごく一部の人間に限られる。
皇王と皇妃、そして皇子くらいだろう。
翡燕は髪を切られながらぼんやりと思う。この姿で帰っても、多分誰も気付くまいと。
それ以前に、力を失った戦司帝など誰も求めていないだろう。戦司帝という役職は埋まっているようであるし、自分がいなくとも国は回っている。
(……何をのこのこと帰ろうとしていたんだか……。僕はもう、彼らの中では死んだ存在なのだろうし……)
「……っ、こりゃあ……」
店主の息を呑む声が聞こえて、翡燕ははっと意識を目の前の鏡へと移した。
綺麗に整えられた髪は高く結われ、髪の先は肩甲骨に届くぐらいまで切られている。
軽くなった頭を左右に動かしていると、後ろに映る店主が自身の頭をガリガリとかきむしった。
「あちゃ~……あんた、前の髪型でいた方が良かったかもな。服はなるべく抑えめにしておかねぇと、身が危ない。黒色で無地の服がいいだろう」
店主から薦められた黒の上衣を着て、同じく黒の下衣を身に着ける。全身真っ黒になり、隠密にでもなったような気分だ。
しかしこれで街をぶらぶら歩き回れる格好にはなれた。次なる問題は今後のことである。直近で言うなれば、今晩の宿が最重要事項だろう。
翡燕は思案しながら店頭に戻り、店主から余った金を受け取る。
宿の場所を聞こうとも思ったがやめた。なるべく街中を歩き回り、場所を覚えておいた方がいいだろう。
街中を歩いていると、生活臭と共に饐えた匂いも漂ってくる。
以前は食べ物の匂いと賑やかな声が響く場所だった。こうも変わるものかと呆れ顔で歩いていると、街の隅で固まる浮浪者の集団が見えた。何かを燃やして暖を取っているようだが、誰も会話することなく表情は虚ろだ。
翡燕は集団に近付き、その側にしゃがみ込む。
浮浪者たちは突然来た翡燕にぎょっと目を見開くが、翡燕は構わずニコニコと笑顔で語りかけた。
「やぁ、僕は久しぶりにユウラに来たんだけど、ずいぶんと変わったね。あ、これどうぞ?」
翡燕は軽い口調で捲し立てながら菓子屋から貰った菓子を配る。浮浪者たちは戸惑いの表情を浮かべるものの、目の前の甘い誘惑には勝てなかったようだ。菓子へ猛然と食いつき始めた。
年若い浮浪者が菓子を食らいながら言い捨てる。
「ユウラはずっと前から酷い国さ。だけどほかの国よりましだ」
「そうか? 以前はもっと活気のある街だったと思うが」
首を捻る翡燕を見て年若い浮浪者が嘲るように笑った。まだまだ働き盛りの男だ。本来ならこんな町の隅で、縮こまって暖を取ることもないだろう。
「……まったく、ユウラに活気があったなんて、いつの話をしてるんだ」
「……? ユウラは一体いつから……」
言葉なかばで、翡燕は背後からの気配に気付いた。
わずかに首を傾け、肩を押さえようとしていた腕を掴む。その腕は逞しく、獣毛が生えている。
振り返ると、腕を掴まれたことに驚愕する獣人と目が合った。褐色の獣毛が全身にびっしりと生えた、犬の獣人だ。
「何か御用でも?」
翡燕がやんわりと笑うと、獣人は更に驚いた顔を浮かべた後、にやりと下賤な笑みを貼りつける。
「こりゃあいい。超が付くほどの一級品だ。いい拾い物をした」
掴んでいた手を逆の腕で掴まれ、翡燕は強制的に立たされた。いとも簡単に引っ張られる身体に呆れるものの、これだけの体格差なら無理もない。
「来てもらうぞ。大人しくしていたら、手荒な真似はしねぇ」
「人攫いか?」
「よく分かったな」
翡燕に力がないと分かったのか、獣人は荒々しく翡燕の手を引いた。危うく転びそうになるが、獣人の腕が腰へと回ると翡燕の身体は容易く宙へ浮く。俵のように抱えられながら、翡燕はうんと唸る。
(……なるほど。同意なしの立派な人攫いだ。さて、このまま本拠地まで行って、中から瓦解させるのもありかな?)
しかし今の翡燕ではどれほど力を発揮できるのか分からない。自分の力量が把握できていない今の状況はあまりに危険だろう。
呑気に考えていたところで、翡燕はまた新たな気配を感じ取った。
懐かしい気配だ。
抱えられたまま翡燕が目線を上げると、前方に立ち竦むその人物と目が合った。
筋骨隆々の体躯に、燃えるような黄金の髪が風に靡く。瞳も金色で瞳孔が縦長い。獣人だ。
しかし身体に獣毛が生えていないところを見ると、人型に完全に擬態した上位の獣人だと見受けられた。
金色の瞳を最大限見開き、その獣人は翡燕を凝視している。
翡燕はくしゃりと笑うとその獣人に向かって口を開いた。
「上手に擬態できているね。獅子丸」
その言葉を聞いた瞬間、その獣人の金色の瞳からボロボロと涙が零れ落ちた。漏れ出す嗚咽をかき消すように、獅子王がこちらへと猛然と駆け寄ってくる。
翡燕を抱き上げでいた獣人から、ひ、と小さい悲鳴が上がった。同時に身体を拘束する力が緩む。獣の本能が『逃げろ』と告げたのだろう。翡燕を置いて逃げようとしたが、しかし手遅れだった。
獅子王の拳が見事に顔へと突き刺さり、拘束が解けた翡燕は宙に投げ出される。
獅子王はそのまま地面に膝をつき、まるで壊れ物を受け取るように翡燕を抱きかかえた。
「うっ、うぅ……! 主……!」
「……お前、よく僕が分かったね」
身体を包む温かさがひどく懐かしい。翡燕は獅子王の頭を撫で、くすりと笑った。
獅子王の主である戦司帝は、誰もが平伏すほどの美しさだった。
逞しい肉体を持ちながら、神々しいまでの光を放つ。美しく優雅でありながら、常に驚異的な強さで彼は国を守ってきた。戦司帝は、まさに神がこの国に与えた宝だった。
しかし今、獅子王の目の前に立つのは、逞しさを削ぎ落とした戦司帝だ。その儚さが美を際立たせ、庇護欲を掻き立てる。端的に言えば、驚異的な可愛さである。
三万年前、どこかに買い物でも行くようにふらりと出ていった彼は、今まさに、何もなかったかのように屋敷へ帰ってきていた。
獅子王は主が屋敷にいることに感動を覚えながらも、困惑せずにはいられない。
翡燕はきょろきょろと、かつて自身が暮らしていた屋敷を見回している。柱も床も、飾ってある調度品でさえ、当時のままだ。
「……まさか、こんなに綺麗に残されているなんて」
「あ、当たり前では、ないですか! ひぐッ、あるじの、あるじの……!」
「もういい加減泣きやんだら? そんなに大きい身体で泣かれると正直困るよ」
困り顔を浮かべる翡燕の身体を獅子王は上から下まで眺めた。そして涙腺が、今日何度目か分からない崩壊を起こす。
姿形は変わっているが、獅子王には彼が戦司帝だと分かる。主従関係は魂の結びつきである。主の姿が変わろうとも関係が変化することはなく、獣徒は確実に主を見抜く。
しかしそれはそれ。視覚で捉える主の姿がこうも可愛く変わってしまえば、情緒もおかしくなるというものである。
しかし当の本人はあどけない笑顔を浮かべながら、おもむろに獅子王の胸を小さな手で挟み込む。
「ああ、本当に大きくなったね。育ちすぎたんじゃないのか? ムッキムキだ」
獅子王が驚愕で固まるのにも気付かず、翡燕は胸から手を離さない。押したり揉んだりしながら、感嘆の声を上げる。
「結構やわらかい!」
底まで見えそうな澄んだ瞳で見上げられ、獅子王は心の中で悲鳴を上げる。
そうだった、と思い出す。獅子王の主は戦司帝である時から、やたらくっつきたがる人だったのである。容易に肩を抱いたり額をくっつけたりと、親愛を身体全体で表す人だった。もちろん性的な意味はない。だからこそ厄介な部分もあったのは確かだ。
三万年前の獅子王はまだ小さい獣だったから良かったが、当時の大人たちが戦司帝に翻弄されるのをずっと見てきた。
よもや今、自分が翻弄されるとは思わなかったが。
「そういえば、僕の弟子たちはどうなった?」
「主のお弟子さんたちは、それぞれ管理職に就いていますよ」
「管理職?」と口にしながら、翡燕は以前使っていた戦司帝の寝椅子へと座る。身体が小さくなったせいか埋もれるようになってしまい、笑い声が翡燕から漏れた。
獅子王は埋もれる翡燕を助け出しながら、口を開く。
「そうですね、ナギ様は皇宮の秘書官長となられ、トツカ様は皇家護衛軍の副官です」
「おお、立派立派」
にこやかに笑う翡燕を獅子王は見つめる。そこには確かに、戦司帝の面影があった。
笑いながら親指を歯に当てる癖や人の話を聞く時は目を離さないまま微笑むところ。
すべてが一致するが、何しろ可愛さが全面に出て戸惑ってしまう。
「本当に様々ですよ。サガラ様は皇都巡衛軍の隊長ですし、タクト様は傭兵団の団長です」
「……ほう。なかなか面白いことになっているね。四天王は許したのかい? 僕は彼らの部下を育てていただけで、弟子たちは本来四天王の管理下のはずだ」
「それが……」
言葉に詰まった獅子王を見ながら、翡燕はテーブルにあった葡萄を小さな口に放り込む。咀嚼しながらもう一つ手に取る様は、目の前の果実を独占せんとする可愛い栗鼠のようだ。しかし眼光は、かつての厳しさを確かに宿している。
「あいつら、ちゃんと仕事してる?」
「……以前よりはしていませんね」
「なぜ? いつから?」
「主が……」
「んん?」と唸りつつ、翡燕が眉を寄せる。
獅子王はその視線から逃げるように目を逸らし、口を噤んだ。
『四天王も、皇家も、戦司帝がいなくなってから、ボロボロと崩れ出した』
そう告げれば、きっと彼は自分を責めるだろう。
四天王は消えた戦司帝を、まさに血眼になって探した。何百年と探し続け、遠く国交がない国までも捜索の手は伸びた。その頃はまだ良かったのだ。もしかしたら戦司帝は帰ってくるかもという望みに縋って、国を立て直す原動力に変えていた。
しかし数千年が過ぎた頃から、戦司帝が戻らないという現実味が大きくなり、そこから崩れていくのは早かった。
「……あ、亜獣族がこの国を狙うようになって、少しずつ崩れ始めたのです」
「亜獣が? あんなに仲が良かったのにか?」
「ええ、そうです。主がいた頃は友好的でしたが……今は脅威となっています」
本人に自覚はないようだが、亜獣が友好的だったのは戦司帝がいたからだ。まさに天性の人たらし兼、獣人たらしの戦司帝は亜獣の王とも獣人の王とも仲が良かった。
彼がいなくなってからはこの国と同じく、友好関係もぐずぐずと崩れていった。
ユウラ国は戦司帝に依存しすぎていたのだ。いろんな、本当に大きな意味で。
獅子王が口を引き結んでいると、くわぁ、と翡燕が呑気に欠伸をする。目を擦りながら翡燕は寝椅子から立ち上がり、にわかに言い放った。
「よし獅子丸、半獣の姿になって」
「へ?」
「いいから。獣毛多めで」
言われるがまま獅子王は擬人化を少し解き、半獣の姿になった。全身に黄金の毛が生え、尻尾も生えてくる。
「では、僕の寝椅子に寝転んでくれ」
「え?」
「いいから」
獅子王が寝椅子に座ると、翡燕がすぐさま膝に跨る。
予想外の行動に、獅子王の心臓がばくばくと暴れ出した。戦司帝の行動はいつも破天荒だったが、誰かの膝に跨るなど、想定の範囲を大きく超えている。
獅子王が身を硬くしていると、翡燕が胸に抱きつき、小さな顔を擦りつけてきた。
「うわぁ、いい! モコモコで柔らかい」
「あ、あ、あぁ主……」
体格差があるため、翡燕の身体は獅子王の体にすっぽりと納まる。狼狽える獅子王を完全に無視し、翡燕は半獣の身体を枕のように抱きしめると、また欠伸を漏らした。
「ししまる……ねる……」
「ひっ! え? このまま、ですか!?」
獅子王の問いに小さく頷いたものの、間もなく小さな寝息が聞こえてきた。獅子王の両腕は宙に浮いたまま、心許なくさ迷うしかない。
翡燕の身体は獅子王の上にあるため、安定していない。翡燕の安全を考えれば、彼の身体を抱き込むのが正解だろう。しかし、翡燕の身体に触ること自体が烏滸がましい上に、抑えが利かなくなりそうで怖い。
(な、何を考えているんだ、おれは! 相手は主だぞ!)
自分を叱咤しながら寝ている翡燕の顔を覗く。しかしそれがいけなかった。
長い睫毛がふさりと閉じて白磁の肌に影を落としている。わずかに見える桃色の唇は無防備に小さく開いていた。
(ひぃいいいぃ! なんだこれ、馬鹿みたいに可愛いじゃないか!)
伸し掛かられているはずなのに、華奢な身体からはまったく重さを感じない。巻き付いている腕も信じられないくらい細い。
庇護欲が腹の底から湧いてきて、じわじわと違う何かに変わりそうで恐ろしい。
(ううう、本当に……厄介なお人だ……)
主の人たらし兼獣人たらしは、健在どころか威力を増してしまったようだ。
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