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1巻

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   プロローグ


「やだっ」

 恐怖で顔を引きつらせながら、私はし掛かってきた男から逃れようと身をよじった。
 しかし体格のまったく違う相手には通じない。布地の裂ける音と、悲鳴が重なる。自分の悲鳴であるはずなのに、どこか遠いところで聞こえた。まるで他人ごとのように、非現実的だった。
 暴かれた裸体を無言で見下ろすその男を、私は憎しみを込めてにらみつける。

「大っ嫌い」

 そう吐き捨ててから首をかたむけ、牢の外からこちらを見ているクリフォード様に、必死で訴えかけた。

「やめさせてください、クリフォード様」

 王太子クリフォード殿下は牢番に用意させた椅子に座り、その膝に元婚約者の公爵令嬢を抱きかかえ、こちらを見物している。髪と同じく銀の輝きを放つ瞳に、感情の色は皆無だった。
 クリフォード様の膝の上──元は私の場所だ──には、さんざん洒落にならないような意地悪を繰り返し、悪役令嬢の名をほしいままにしていたローレッタ様がそこにいる。今は私から目を逸らし、クリフォード様の肩に顔を伏せていた。
 私はクリフォード様の、昔の気持ちにすがりつくように叫んだ。

「クリフォード様、どうしてこんなことをお命じになるのですか! 私のこと、愛していないの?」
「平民の分際で名を呼ぶなニーナ。汚らわしい。王太子殿下と呼べ」

 クリフォード様の怒りに満ちた声に、私は絶望する。さらに私にし掛かる男──王太子の専属騎士が、私を脅してきた。

「静かにしろっ」

 氷のような無表情でそう言ったのは、漆黒の髪に血のような瞳を持つ黒の騎士ノワール。真面目で忠実ゆえに、王室騎兵隊の中から選ばれる王太子直属の護衛の中でも、一番信頼されていた。今だけではない、これまでもずっとクリフォード様に影のごとく付き従っていた、顔見知りの騎士様なのだ。
 無慈悲に剥ぎ取られた胸衣ストマッカーとコルセット、引き裂かれたシュミーズ。黒い革の手袋をした手が伸びる。私はまた悲鳴をあげていた。

「黙れ」

 低い声で再び脅された。
 好きな人からの命令を受けた男に、強姦されそうになっているのよ?
 静かにできるわけがない。

「触らないでっ!」

 もがく私のあらわになっている乳房を大きな手が掴んだ。革の冷たい感触に、私はヒッと息を吸い込む。

「ひねりつぶすぞ、黙れ」

 恐怖で体は固まっていたが、再びクリフォード様の方に目をやった。
 私と黒の騎士ノワール様の様子を見て興奮したのか、いつの間にかローレッタ様とイチャイチャしているではないか。
 こんなの嘘よ。
 ノワール様は何を考えているか分からない真紅の瞳で、じっと私を見下ろしている。私は思いきりにらみ返していた。
 クリフォード様の叱責しっせきする声がした。黒の騎士ノワール様は、その声に弾かれたように動く。
 ドレスの裾をめくられ太腿まであらわにされた私は、もうダメだった。いくら楽天的な私でも、限界だった。

「今さらしおらしくするな、売女ばいため!」

 黒の騎士が吐き捨てた言葉には、一片の同情もなく、憎悪が籠っていた。



   人懐っこい平民の私が断罪されるまで


 どうしてこんなことになったのか。それは、私が調子に乗ったからだ。
 少し前まで、クリフォード様──王太子殿下の心は、完全に私のものだった。
 私の実家は、王都の一等地に店を構える老舗の薬屋だ。王室侍医からも処方依頼が来ていて、それなりに裕福であった。それゆえに、貴族や金持ちしか入れない王立学院の薬学科に入学できたのだ。王立学院の研究室の費用は、貴族からの出資も受けられて潤沢だった。さらに学院には錬金術科もあるため、彼らの力を借りて化学反応を起こす実験も手軽に行える。私は水を得たうおのように、研究に没頭することができた。
 そうしてさまざまな新薬を開発し、優秀な成績を収めていた。学院で臨床試験を繰り返した薬品は、副作用の有無などの確認を経て承認されれば、私の実家で真っ先に取り扱うことも許されている。思えばその頃は、研究が楽しくて毎日が充実していた。悪役令嬢と呼ばれているローレッタ様からの嫌がらせなど、あまり気にならないほどだった。
 入学当初から、ローレッタ様は私に絡んできていた。取り巻きを使って私の学用品を破壊させたり、中庭にある池の中に突き落としたり、平民の学生にも手を回し、仲間外れにさせたり。断れない貴族のお茶会に招待しておきながら、いざ行ってみれば「平民が参加できると思っているの?」と私を笑いものにしたあげく、追い返したこともあった。
 学院時代、物怖じすることのない人懐っこい性格だった私の周りは、老若男女問わず人で溢れていた。ローレッタ様は、それが気に入らなかったのかもしれない。確かに……私がこんな性格でなければ、私とクリフォード様の人生も交わらなかったはずなのだ。
 入学したばかりの頃だった。私は王太子殿下の顔を知らず、他の平民男子らと同じようにクリフォード様にも気軽な調子──馴れ馴れしいタメ口──で接してしまったの。当然、後になってから王太子殿下だと聞いて青ざめたものだ。
 そりゃあね、やけにお付きの人が多い生徒だな、とは思ったわよ? でもお金持ち学校なだけあって、他にも使用人や護衛を控えさせる生徒はいたのだもの。え? 王族オーラ? 分からないわよ!
 ところが、無礼な態度をとっていたはずの私は、なぜかクリフォード様から「おもしれー女!」と言われ、気に入られてしまったのである。
 私は研究に気を遣いすぎているのかそれとも生まれつきなのか、人に対しては大雑把だった。男だとか女だとか、年上だからとか年下だからとか、あまり気にしない。
 だから、彼さえ気にならないのなら、そのまま態度を変えなくていいと思ったの。だって、彼もそうしてほしそうだったから。みんなから気を遣われて、寂しそうだったから……
 王族に限らず、学院の生徒たちには階級や派閥があって、なんとなく校内はギスギスしていた。
 私はそういう雰囲気が大嫌いだった。だから貴族にも平民にも、持ち前の雑さと陽気な性格で、分け隔てなく接してしまったの。王族にもね。
 でもね、そんな私だったからかしら。殿下も他の生徒たちも、苦笑いしつつやがて心を開いてくれるようになったのよ?
 それなのに……。ある時から、最初は仲良くしてくれていた貴族令嬢たちの態度が、徐々に変わってきた。やがては平民を含めた女子生徒らの多くが、まるで潮が引くように私から離れていってしまったのだ。そして、いじめに加担するようになった。
 黒幕は悪役令嬢ローレッタ様。彼女から、女子生徒たちに通達がいったみたいなの。
 ローレッタ様は、並みの貴族とて卒業すれば滅多にお目にかかることができなくなる、エディンプール公爵家の令嬢だもの。逆らえないわよね。
 エディンプール公爵家は、他界された最初の王妃オリビア様のご生家で、その子息であるローレンス王子を王太子にすべく奔走してきた家門だった。病弱だったオリビア様に似たのか、その遺児であるローレンス王子も虚弱体質で、五歳までは生きられぬと診断されていた。なんとか存命中ではあるものの、今もずっとせっておられるとか……。ただ、お体は弱くても昔から利発で慈悲深く、王の器であるという評判だ。
 研究室で成果を出すのは楽しい。それにせっかく学費を出して勉強する環境を与えてくれた両親のことを考えると、弱音は吐けない。私は彼女からのさまざまな嫌がらせに、ひたすら耐えるしかなかった。そんな私に過剰なほど同情したのが、王太子クリフォード殿下だった。
 クリフォード様の母君は現王妃アビゲイル様で、そのご生家であるアシュフィールド公爵家は、元々エディンプール公爵家と険悪な関係にあった。
 つまりローレンス王子の従妹であるローレッタ様は、クリフォード様にとっては政敵なの。そんな関係にあって、そのうえお気に入りの私という存在をいびられ、クリフォード様は本気で腹を立てていた。
 さらにクリフォード様は、他の男子学院生にも分け隔てなく接する私を見て、焦燥感を募らせた。焼き餅を焼きはじめたのだ。
 どうやらクリフォード様の中で私は「守ってやりたいおもしれー女」から「他の男に取られる前に、身分差の障害を乗り越えてでも手に入れたい女」に変わっていったらしい。
 徐々に、私にのめり込んでいったのだと思う。道を踏み外すほど。……だって、私がそうだったから。
 彼の気持ちに気づいた時は、恐れ多いと思った。平民の私に恋をするなんて、さすがに間違っているって。その気持ちは勘違いだって、説得だってしたわ。
 だけどクリフォード様はいつも寂しそうで、私といる時だけくつろいでいるように見えた。私といる時だけは、すさんだ怖い表情から、笑顔になってくれる。そのギャップや自尊心をくすぐられる特別感に、いつしか私も惹かれていったのだ。
 学院の二年目には、私とクリフォード様は相思相愛。密かに交際するようになっていた。
 ところが、最終学年に上がった年のこと。ローレッタ様と、クリフォード様の婚約が発表されたのである。
 私は絶望した。でも、どこかで分かってはいた。相手は王太子殿下だ。私では釣り合わない。公爵令嬢ローレッタ様は、家柄だけではないもの。スラリとした体型の、艶やかな美女なのだ。胸やお尻が大きいのがコンプレックスの庶民的な私なんかじゃ、太刀打ちできるわけがない。
 泣く泣く別れを切り出した私だが、クリフォード様から婚約自体が不本意なものだと告げられ、すがりつかれた。そして熱心に説得されたのである。ローレッタ様との婚約の解消、さらに貴賤結婚の話までされて。
 そこまで言われれば、こちらも夢を見てしまう。なぜなら、ちまたの貴族らの間で貴賎結婚は流行していたからだ。ベストセラー作家による戯曲や小説の中身なんかは、令嬢と執事、メイドと伯爵家子息なんていう、身分差恋愛ものばかりだとか……
 もしかしたら、王家もそうなっていくのかも。時代は変わりゆくと言う。真実の愛なら、恋愛結婚が許されるのかも。そんな風に期待してしまったのだ。
 王族という夢の世界の住人に、囚われてしまった私が悪い。王太子と平民が、ゴールインできるわけがなかったのに……。だけど恋に落ちてしまった私はそれに気づかず、この時はクリフォード様からの愛を信じていた。


 王立学院卒業式の日のことだ。

「エディンプール公爵令嬢ローレッタよ」

 卒業パーティーでクリフォード様はローレッタ様に指を突きつけた。

「これまでのニーナ嬢に対する数々の嫌がらせを、ここで断罪する! 君との婚約は破棄するっ!」

 やった! ついにおっしゃってくれた! 私は嬉しくて嬉しくて、クリフォード様の腕にしがみついた。
 さんざん私に意地悪してきたローレッタ様の顔がみるみる青ざめるのを見て、胸がスカッとしたの。
 護衛で付き添っていた黒の騎士ノワール様が、クリフォード様に聞こえないよう背後でため息をつくのが分かった。
 王太子専属騎士はノワール様だけじゃない。基本ノワール様がピッタリくっついているけれど、ムキムキ筋肉の金の騎士ドレ様と、ちょっぴりチャラい赤の騎士ルージュ様は、もっととっつきやすいのに。
 ノワール様は何かと私とクリフォード様の間に割り込み、邪魔しようとするのだもの。クリフォード様と一緒にいる私を快く思っていないのがよく分かった。軟膏や精力剤、焼き菓子などを作って差し入れしても、彼だけは決して受け取ってくれなかった。相当嫌われているのね。
 でも、それがなんだというのかしら。真実の愛の前に、そんな障害は微々たるもの。

「ニーナに今ここで謝罪してもらおう。嘘をついても無駄だぞ、認めるな?」

 クリフォード様は本気でローレッタ様に怒ってくれていた。嬉しい。
 ローレッタ様の指示で行われたいじめは苛烈かれつで、精神的な攻撃だけにはとどまらず、私の体には生傷が絶えなかった。研究をぶち壊されそうになった時は、本当に頭にきた。同じチームのみんなにも申し訳ないし、何よりも莫大な研究費がパーになってしまうからだ。
 風評被害もすごかった。ありとあらゆる男性に色目を使うビッチだと噂を広げられてしまっていた。純粋な王太子殿下は騙されているのだと……。でもクリフォード様はもちろん信じなかった。私にはそれで十分だった。
 ところが断罪されても悪役令嬢は悪びれない。それどころか、私を見て鼻で笑ったのだ。

「殿下、わたくしがたかが平民ごときに、そのような手間をかけるとでも?」

 悪役令嬢ローレッタ様は、ツンッと横を向く。クリフォード様が隣で憎らしげに彼女をにらみつけた。
 ローレッタ様は、自分で自分の首を絞めている。それが分からないのだろうか。
 私、知っているの。家の関係でこじれていても、ローレッタ様がずっとクリフォード様のことを好きだったってことを……。共に学院生活を送っていたら分かるわ。いつも貴女は羨ましそうに、私とクリフォード様を見ていたものね。でも私だって譲れない。真実の愛のためなら……
 私は、自分が平民初の王太子妃──やがては王妃──となり、歴史に名を残すことになるかもしれない恐れ多さにおののいた。
 ところが次の瞬間、さらなる憎まれ口をきこうとしたと思われるローレッタ様が、口を開いたまま固まった。

「…………?」

 私もクリフォード様も、彼女の異変に気づいた。ローレッタ様は、まるでたった今夢から目覚めたかのように、その紫紺の瞳を見開いたのだ。
 いつもの意地悪そうな、だが美しい顔がへにゃっと崩れる。クリフォード様や私を含め、パーティーの会場にいた者たち全員がぎょっとなった。
 あれ? 何か変だわ。憑き物が落ちたかのような──
 まるで捨てられた子犬みたいに、眉尻を下げた情けない顔になってしまったのだ。
 え? 誰これ……
 ローレッタ様は、茫然としつつ小さく呟いた。

「うそ、これって乙女ゲーム『王宮に咲く紫の薔薇にベルが鳴る』略してバラベルの断罪シーンじゃない!?」

 そんな謎の言葉を、確かに聞いたような気がした。それからしばらく挙動不審な様子でオロオロしていたけど、やがては悲しげにその長いまつ毛を瞬かせ、クリフォード様に向かって言ったのだ。

「ええ! ええ! もちろんですわ。これまでの数々の非道なふるまい、ここに謝罪いたしますわ! 最推しキャラ──いえ、王太子殿下。ヒロイン──ニーナさん、ごめんね」

 えぇぇぇえ!?
 周囲がざわざわとざわめく。あの悪役令嬢ローレッタ様が謝ったですって!?
 私も唖然としたけど、一番驚いていたのはクリフォード様だった。ローレッタのやつ、何か悪いものでも食べたのか!? と激しく動揺している。
 ローレッタ様は藤色の縦ロールを後ろに払うと、ふわっと優しい笑みを浮かべた。それは誰もがうっとりするほど美しくて、そういえばこの方、悪役令嬢のあだ名が定着する前は、王宮に咲く紫の薔薇と謳われた美少女だったと聞いたことがある。

「どうか、お幸せに。わたくしはこれまでの悪行を反省し、修道院に入りますわ」

 そっと涙を拭い、はやくエンディングの鐘よ鳴って! と叫びながら去っていくローレッタ様の背中を、クリフォード様はポカンとして見送った。私もだ。
 とても信じられなかった。おかしい……。何かの罠じゃないかしら。しおらしいふりをして、また私を陥れるつもりなのではないの? もちろん、卒業パーティーにいた誰もがそう思っただろう。
 でも本当にローレッタ様は、それ以来悪役令嬢の片鱗すらなくしてしまったのだ。


 違和感による一抹の不安を残しながらも、これでクリフォード様は私のものになると思った。悪役令嬢からの嫉妬、護衛騎士からの嫌悪の視線を気にしなくてよくなる。
 エディンプール公爵と決めた婚約を勝手に破棄された国王夫妻は大激怒し、クリフォード様に謹慎を命じた。しかし当の彼は私との結婚を強引に進めようとがんばってくれていた。
 嬉しかった。時代は変わってきているのだ。これからは、王族も好きなように伴侶を選べるようになるのだわ。
 ただね……いつも思うの。クリフォード様が、王太子でなければよかったのに、と。ただのイケメン学院生だったらよかったのに。彼と普通に恋愛し結婚し子供を持てれば、私はそれで満足だったのに……。私の家はそこそこ裕福だったから、王家に嫁いで贅沢したいわけではない。王太子妃になるのかと思うと、怖くて仕方なかった。それでもクリフォード様が望むなら、精いっぱい支えるけれど。
 そういえば一度だけ、王太子の座を譲ることはできないのか聞いてみたことがある。
 クリフォード様は驚いたように私を見て「まさかエディンプール公爵家と同じ──」と言いかけた。私が不思議そうに彼を見返すと、探るように私をじっと見つめ、それから言った。

「そんなはず……ないか」
「え?」
「……とにかく二度とそんなことは言わないでくれ。ローレンスの体では耐えられないし、あとは女ばかり。僕が次の国王だ」

 きっぱり言いきられてしまい、私はしゅんと下を向いたのだ。彼の心は決まっているのね。

「君は僕を信じていればいい」

 私は弱々しく頷いた。クリフォード様は王太子。彼と結婚するということは、やはり私が次の王妃になるということなのだろう。
 改めて、真実の愛を貫く重さを感じた。


 謹慎中のクリフォード様と私が、お忍びで街デートを楽しんでいた時のことだ。
 地味な格好をしたローレッタ様が──あの平民いびりで有名なローレッタ様が、慈善活動にいそしんでいるところに出くわした。
 卒業後に会うのは初めてだったが、すっかり様子が変わっていた。ローレッタ様とは思えない慈愛に満ちたやんわりした笑顔をふりまき、浮浪者や孤児を集めて炊き出しをしていたのだ。
 クリフォード様はそれを見て「あり得ない」と呟き、首を横に振った。そして私が止めるのを無視して、ローレッタ様に近づいた。

「何をしている、君はまだ公爵令嬢であろう?」

 ローレッタ様はクリフォード様に気づき、青ざめた。

「まあ、でで、で、殿下。殿下こそ。こんな下町に出てきては危険ですわ」
「騎士らが陰から見守っているから大丈夫だ」

 ローレッタ様は私に気づき、にっこり笑いかけてきた。

「お天気がいいから、デートですのね」

 私はその美しさに恐怖した。私の自慢のクリームブロンドも大きな若草色の垂れ目も、彼女のエレガントでゴージャスな美しさには敵わない。薔薇とオオイヌノフグリくらい違う。
 実際艶のある紫色の髪とアメジストの瞳のローレッタ様は紫の薔薇そのもので、みすぼらしいフード付きのマントを羽織っていても気品に溢れていた。
 客観的に見て、彼女が豪華な銀髪を輝かせるクリフォード様の横に立つと、すごく似合って見えた。
 不安でしょうがなかった。クリフォード様がローレッタ様を食い入るように見ているのが、すごく嫌だった。

「修道院に入るとおっしゃっていたのに」

 気づくと、私はローレッタ様にそう言っていた。

「クリフォード様に全学院生の前で辱められたのに、どうしてまだ王都にいらっしゃるのですか?」

 クリフォード様の顔が気まずそうに歪むが、私は構わず非難する。

「私なら人前には出られません」
「ニーナ」

 クリフォード様にたしなめられて、ハッと口を押さえた。
 ローレッタ様は辛そうに顔を伏せて呟いた。

「わたくしは、公爵令嬢という立場に甘んじ、他の貴族の皆様のようにノブレスオブリージュりませんでしたの」

 ノブレスオブリージュる?
 きょとんとする私の横で、クリフォード様が説明してくれた。貴族には、その地位や財力に応じた社会的義務があるんだよ、と。さらには、平民のニーナには分からないだろうけどね、と付け足され、なんとも言えない気恥ずかしさと、苛立ちがこみ上げた。境界線を引かれたような気分になったのだ。
 ローレッタ様はそんな私には気づいた様子もなく、もじもじしながら言った。

「それで都のスラム街が、急に気になりだしましたの」

 小さく「転生前の日本には、こんなやせ細ったストリートチルドレンはいなかったもの」と呟いたのが聞こえたが、私にはなんのことだか分からなかった。

「クリフォード様が、やがてこの国を変えてくれると信じておりますわ」

 ローレッタ様はたじろぐクリフォード様に、再度眩しいほどの笑顔を向けた後、炊き出しに戻っていった。


 その後くらいから、クリフォード様は物思いにふけることが多くなった。
 卒業後は頻繁に王宮に遊びに行っていた私だ。以前は執務中でも喜んでくれたのに、最近は明るく笑いかけてくれることが少なくなってきた。さらには、私を誘わず一人で街に出るようになった。
 その日も彼は、王宮敷地内にいなかった。
 おかしいわ。今日はちゃんと約束を取りつけていたのに。
 クリフォード様の部屋はもぬけの殻で、使用人たちがせっせと中の掃除をしていただけだった。
 忘れているのかしら。一緒に身分差恋愛物の歌劇を見に行く約束だったのに……
 渡り廊下をとぼとぼ歩いて、きらびやかな建物の正面に向かうと、馬車回しに王室騎兵隊の制服を着用したノワール様を見つけた。おそらく先に出発して小さくなっていく馬車を、今まさに馬で追おうとしているのだ。ならば、クリフォード様が乗っているはず。

「待って!」

 慌てて大声で呼び止め、黒の騎士を捕まえた。別の騎士ならよかったのに、と思う。護衛たちとも仲良くしようと距離を縮めたが、彼だけはずっと私に冷たかったのだ。


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