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1巻

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   プロローグ


 四月一日。
 私は新しい赴任地である市立光南こうなん幼稚園の職員室にいる。
 先月下旬に人事異動内示を受け、この幼稚園へ赴任が決まった。

「先生方、今日から皆さんの仲間になる西川にしかわ愛美まなみ先生をご紹介しますね」

 光南幼稚園の園長、玉井たまい洋子ようこ先生はそう言うと、私に挨拶を促した。
 私は園長先生の言葉を受け、声を発する。
 新しい職場での第一声だ。緊張しながらも、いつも園児たちと接しているようにはきはきと話すよう心掛けた。私は小柄なので、しっかり顔が見えるように目線を上げる。

「ただいま園長先生からご紹介いただきました、本日付けでお世話になる西川愛美です。精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」

 挨拶を済ませお辞儀をすると、在籍する職員から歓迎の拍手が上がった。
 私の挨拶に続いて在籍する先生方が順に挨拶をし、最後に園長先生から、今年度新しく受け持つクラスを伝えられた。
 この幼稚園は、年中さんと年長さんがそれぞれ二クラスあり、私は年中のばら組を受け持つこととなった。この幼稚園の幼稚園教諭は、園長先生を含め五人。今年度は支援員の必要な園児が在籍しておらず、このメンバーで一年を過ごすことになるようだ。
 この中には、私が新規採用で初めて赴任した幼稚園の先輩がいる。知っている先生が一人いるだけでも、本当に心強い。

「愛美先生も、新入園児のみんなと一緒に頑張りましょう」

 園長先生の言葉に、他の先生方からも「よろしくね」と声をかけてもらった。
 春休み期間中につき、園内に園児はいない。子どもの声が聞こえない平日の幼稚園は、当たり前だけど本当に静かで、私は未だそれに慣れない。

「じゃあ、今年度の鍵当番について決めましょう。職員がちょうど五人だから、昨年度のように曜日で固定にしてもいいですか?」

 園長先生の声に、他のメンバーが賛成の声をあげる。私も特に希望はないので、その声に賛成すると、すんなりと決定した。

「愛美先生には、和代かずよ先生が担当だった木曜日をお願いしていいかしら?」

 和代先生とは、私と入れ替わりで異動になったベテランの幼稚園教諭で、今回の異動で違う幼稚園の園長に昇格した。

「はい、大丈夫です。あと、それから職員名簿に記載されている住所なんですが、今回の異動で実家から出て近くに引っ越す予定なので……」
「あら、そうなの? ……ああ、確かにここから自宅まで結構な距離があるわね。じゃあ、住民票を移したら、変更届の提出を忘れないでね」
「はい、わかりました」

 私たちのやり取りを聞いたさつき先生こと吉野よしのさつきが私に声を掛ける。そう、さつき先生こそが私の新人時代の指導教諭なのだ。
 今年度、さつき先生は年長のゆり組の担任だ。

「愛美先生、また一緒に働けて嬉しいわ。ここでもよろしくね」
「私もさつき先生がいらっしゃって心強いです。こちらこそよろしくお願いします」
「それはそうと、ついに一人暮らしを始めるのね」

 さつき先生の声に、私は力強く頷いた。
 就職した時から、一人暮らしへの憧れを抱いている話をしていたことを、どうやら覚えていてくれたらしい。
 私の実家は、この幼稚園から車で約三十分以上かかる距離にある。
 高校を卒業後、ずっと一人暮らしをしたかった私は、それまで短大に通学するのも就職が決まってからの通勤も、『自宅から通えるから』という理由で一人暮らしを許されなかった。けれど、今回の異動をきっかけに、念願の一人暮らしを始めることにしたのだ。
 早起きが苦手な私にとって、車で通勤許容範囲の距離であっても、鍵当番に当たる日の遅刻は絶対に許されない。
 園児たちの登園時間は、原則八時と決まっている。けれど、保護者の仕事の都合でそれより早く登園する園児もいるため、普通の日でも七時五十分までには出勤しなければならない。鍵当番の日は、それよりも早く出勤となるため、実家だと遅くとも朝六時に起きて準備をしないと間に合わないのだ。
 主婦である母は、六時で早起きなんて言っているうちはまだ甘いと言うけれど、昔から早起きが苦手な私には充分早い時間だ。
 話は戻り、鍵当番の日は開錠を済ませると、園児が登園してくるまでに朝の掃除がある。大体この時間帯に他の先生たちも出勤してくるので、それぞれ受け持っているクラスの園児を受け入れ、その時に保護者からの申し送りがあったりと、とにかく朝は忙しい。
 自宅から通勤できない距離ではないけれど、通勤路は交通渋滞が起こることで地元では有名なうえに迂回路は道幅が狭く、小中学生の通学路として利用されている。そのため、貴重な朝の時間に余裕を持たせたいと、渋る両親を説得することに成功した。
 引っ越しは週末。運よく幼稚園のそばにアパートの空室があり、そこへ家電量販店から購入した電気製品を搬入してもらうよう、手配もばっちりだ。

「入園式が終わるまでに、片付けを終わらせて落ち着けたらいいんですけど……」
「初めての一人暮らしでしょう? 防犯面に気を付けなきゃね。愛美先生、とってもかわいいから、変な奴に目を付けられないようにね。そうだ、今度男物の下着でもプレゼントしようか?」

 洗濯物の内容で、その部屋の住人が男性なのか女性なのか、一人暮らしかそうではないかを、空き巣は見極めると何かで聞いたことがある。だから引っ越しをする時に、父の服を数枚借りて、防犯対策に使おうと思っていたところだ。下着まではさすがに考えていなかったけれど、やはり用意していたほうがいいだろうか。

「あはは、そうですね。でも大丈夫ですよ。実家から父の服を持ってくる予定なので」
「そう? ……でも、やっぱり男性用下着は念のために用意しておくといいよ。愛美先生、さすがに男性用の下着を一人で買いに行くの恥ずかしいでしょう? 近いうち旦那の下着買い替える予定があるから、ついでに買っておくよ」
「いや、大丈夫ですよ。この前ドラッグストアで男性用の下着や肌着を販売しているのを見かけたんですけど、結構種類も豊富だったので……お気遣いありがとうございます」

 ありがたい申し出だけど、物が物だけにプレゼントされるとなれば何だか気恥ずかしいため、やんわりとお断りをした。さつき先生も、そこまで深く突っ込んではこない。

「そう? 何か困ったことがあれば、誰でもいいから遠慮なく言うんだよ?」
「はい、その時はよろしくお願いします」

 雑談が一通り落ち着いたところで、もう一人の年中クラス担当の沙織さおり先生こと谷岡たにおか沙織が口を開く。

「愛美先生、これがばら組さんの資料です」

 そう言って私に差し出されたのは、入園前に保護者から提出された園児の家庭調査票だ。ここには園児の家庭環境に関する個人情報をはじめ、園児の持病やアレルギーに関することなどが記載されている。アレルギー物質に接触して身体に反応が出た場合、適切な処置を施さなければならないため、それらを未然に防ぐためにも事前にきちんと把握しておかなければ。

「ありがとうございます」

 沙織先生からファイルを受け取ると、私は用意された自分の席に着き、早速目を通す。
 入園式まであと一週間ちょっと、それまでに頭の中に叩き込まなくては。



   第一章 出会い


 入園式も無事に終わり、幼稚園生活が始まった平日の朝、八時前後から幼稚園は登園ラッシュに見舞われる。
 入園式前に無事荷ほどきも終わり、ようやく自分の城を手に入れた私は、この新しい環境を少しずつ楽しんでいる。
 実家にいる時と比べ、朝もゆっくりと過ごせるせいか、以前より少しだけ気持ちに余裕が生まれた。
 受け持つ園児の人数も少ないため、今のところ全員に目が行き届いている、と思う。
 少子化が進んでいるせいで、公立でも幼稚園は毎年定員割れしており、それまで何とか二組ずつある学年も、今年は下手したらそれぞれ一組ずつになる危機に瀕していた。
 一方で、近くにある公立保育所は毎年定員オーバーで激戦区。なので年中さんや年長さんの中には、保育所に入れなかった子が仕方なくこちらへ流れてくることもある。そのような問題を解決すべく、来年から認定こども園として保育所と幼稚園が合併することになっており、用地買収も無事に終わったところだ。年内にも施設建設に着工し、来年の春には完成予定とのことだ。そしてこの幼稚園と保育所は、取り壊されて駐車場や公園に生まれ変わる。
 こども園になれば受け入れる園児の数も増えるし、保育所の子どもも見ることになるため、幼稚園教諭も保育士の資格を取得することが絶対条件となる。保育士もまた、幼稚園教諭の資格が必要だ。
 今年度でこの幼稚園も長い歴史に幕を下ろし、新しく生まれ変わる。幼稚園、保育所ともに昭和の時代に建てられた趣のある建物だけど、老朽化も進んでおり、耐震面からも新しい建物に変わることが喜ばしい。
 幼稚園という名前はなくなるけれど、これまで巣立っていった園児たちや在籍している園児や保護者たちに、この幼稚園に通わせてよかったと思ってもらえるよう、我々職員も最後まで頑張る気持ちに変わりない。
 四月は慣らし保育期間で給食はなく、午前中降園のため、園児たち――特に年長クラスの園児たちは遊び足りない様子だ。小学一年生にお兄ちゃんやお姉ちゃんのいる家庭も、五月の連休前までは慣らし期間で下校も早く、保護者たちも大忙しだ。年度変わりのこの時期は、園児や保護者、そして我々職員もみんな忙しい。加えて来週、五月の連休前には家庭訪問もある。同じ校区にある小学校と地区割りを同じにしているため、保護者も一日で全てを終わらせることができるよう配慮はしているけれど、仕事の都合で日を入れ替えたり時間帯を調整したりと、こちらもスケジュールを組むのが難しい。

「愛美先生、おはようございます」
「まなみせんせー、おはようございます」

 ばら組の園児、まみちゃんとまみちゃんのお母さんだ。まみちゃんは元気いっぱい挨拶をすると、私に飛びついてくる。小さい子でも、勢いがついていると私もよろけてしまう。
 お母さんはお昼までのアルバイト勤務で、まみちゃんを幼稚園に預けて、その足で今から仕事に出掛ける。

「おはようございます。まみちゃん、今日も元気いっぱいだね、じゃあお靴を履き替えよう。――お母さん、特に変わったこととかはないですか?」

 私はまみちゃんとお母さんに交互に声を掛けると、まみちゃんのお母さんが申し訳なさそうに口を開く。

「愛美先生、すみません。家庭訪問の時間変更って可能でしょうか?」

 昨日、配布したプリントに、来週の家庭訪問の日時決定のお知らせを入れていた。それを見てのことだろう。

「今、プリント持って来ますね。少しだけお時間大丈夫ですか?」

 まみちゃんのお母さんの了解を得て、私は教室のホワイトボードに貼り付けていた家庭訪問の予定表を手に取ると、ポケットに差し込んでいたペンを片手にまみちゃんのお母さんの元へと急ぐ。

「この時間、お兄ちゃんの家庭訪問と被ってたんですよ。前後に少しずらすことって可能ですか?」

 見ると、この日は人数も少なく、余裕を持たせてスケジュールを組んでいる。でも私はこの幼稚園に赴任してまだ日が浅い上に、土地勘がない。

「大丈夫ですよ。何時に変更しましょうか?」
「小学校の家庭訪問が十四時からなんですけど、十四時二十分に変更してもらっても大丈夫でしょうか……?」

 まみちゃんの当初の予定も十四時からになっている。まみちゃんの次に予定している龍之介りゅうのすけくんのお宅まで、そう離れていなかったはずだ。最悪、龍之介くんとまみちゃんを入れ替えればいいだろう。

「大丈夫ですよ。では、十四時二十分に変更しますね」

 私はそう言いながら、家庭訪問予定表にペン入れをする。

「よかった……じゃあ、今日も娘をよろしくお願いします」
「はい、お母さんも行ってらっしゃい」

 まみちゃんのお母さんを見送ると、私はまみちゃんを教室へと連れて行く。園バッグをロッカーにしまうよう促すと、すでに登園している他のクラスのお友達がまみちゃんに声を掛ける。

「先生は他のお友達のお迎えがあるから、時間までみんなで仲良く遊んでいてね」

 教室内にいる園児たちへ声を掛けると、元気のいい返事が返ってくる。この中には早い時間に登園している年長クラスのお友達もいて、新入園児たちのお世話を焼いてくれるのが頼もしい。目を見張る子どもの成長に、将来自分に子どもが生まれたら、きっとこんなふうになるんだろうなと、つい想像してしまう。
 そうこうしていると、続々と園児が登園してくる。園庭へと面した廊下にそれぞれの靴箱を設置してあるため、他の先生たちも廊下で園児を待っている。みんな元気いっぱいで登園してくる姿を見ると、安心するのは私だけではないはずだ。
 そろそろ始業時間の八時半が近づいている。この時点で、ばら組の園児は全員登園している。他のクラスも欠席連絡のあった園児以外、全員登園しているようだ。不審者対策のため、園長先生は職員室から外に出ると、道路に面する門扉を閉めた。


 幼稚園生活が始まって最初の数日は、毎年恒例の各クラスを見学したり、園内探検と称して職員室や遊戯室の場所を確認する。新入園児たちが幼稚園に不安を持たないよう、我々職員は神経を尖らせている。年中クラスのみんなはスタートが同じだけど、中には年長クラスでも家庭の事情で途中から転園してくる子もいる。だから、年齢に関係なく、全員同じように接する必要があるのだ。
 今は午前中保育で短時間の登園でも、子どもたちが少しでも幼稚園を好きになってくれたら嬉しく思う。
 そして今日もあっという間に降園時間を迎え、園児たちが保護者に連れられて帰宅する。
 お迎えにくる保護者の中には、おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さんもいるので、園児たちだけでなく保護者の顔を覚えるのも仕事の一つだ。
 お迎えがくると、すんなり帰宅する子がいれば、遊び足りないと園庭で遊んで帰る子もいる。
 慣らし保育期間中の降園は十一時半。もうすぐお昼ごはんの時間帯なので、今はみんなすんなりと帰宅するけれど、これが五月の連休が明けて本格的な保育になると、降園時間は十五時にまで延びる。
 お迎えの大半が帰宅して、まだお迎えが来ない園児たちの中には不安そうな表情を浮かべる子も少なくない。一人、また一人とお迎えが来て、残る園児はただ一人となった。

「おむかえ、おそいね。もしかしたらママ、おむかえのじかんをまちがえてつたえてるかも」

 言葉を発した子は、さつき先生が受け持つゆり組の沢田さわだ美波みなみちゃんだ。
 さつき先生も時間を気にしている。時計の針は、もうすぐ十一時五十分を指そうとしていた。

「そうだね、ちょっとおうちに電話してみようか。あ、愛美先生、悪いけど美波ちゃんのそばについていてくれますか?」

 電話連絡は、担任であるさつき先生からのほうがいいだろう。

「はい、わかりました。じゃあ美波ちゃん、先生と一緒にここでおうちの人がお迎え来るの待とうね」

 職員室へと向かうさつき先生の後ろ姿を見つめる美波ちゃんの顔は今にも泣きそうだ。そんな美波ちゃんを元気づけようと、私は必死に頭の中で考える。今どきの幼稚園児の関心があるものって、何だろう。

「もうお昼ごはんの時間帯だからお腹すくよね。美波ちゃんは、食べ物は何が好き?」

 無難な食べ物ネタを振ってみると、美波ちゃんも答えてくれる。

「みなみはね、オムライスがすき。まなみせんせいはなにがすき?」
「先生はね、んー、何だろう。……唐揚げかな」
「わあ、せいちゃんといっしょだ!」

 美波ちゃんがはしゃいだ声をあげた。よかった、とりあえずこれでしばらく間が持ちそうだ。その一方で、頭の中では美波ちゃんの言う『せいちゃん』とはいったい誰だろうという疑問が浮かぶ。美波ちゃんの兄弟だろうか。私が質問をする前に、美波ちゃんが言葉を発した。

「みなみのおうちにね、マロンってなまえのワンちゃんがいるの」

 とりあえず、会話の主導権を美波ちゃんに譲ると、美波ちゃんはお喋りを続ける。

「マロンはせいちゃんのことがだいすきでね、みなみのいうことはぜんぜんきかないくせに、せいちゃんのいうことはよくきくの」

 犬の世界は縦社会。自分より上の者、すなわちボスと認める人には忠実だと聞いたことがある。

「でね、せいちゃんがときどき、マロンにからあげをたべさせてるの。ママやおばあちゃんは、『にんげんがたべるものをあげちゃダメ』っておこるけど、それでもこっそりあげていてね」

 たしかに人間が食べるものと動物の食べ物を同じにしないほうがいいというのは聞いたことがある。人間の食べ物の味を覚えてしまうと、ペットフードを食べなくなってしまうことがあるためだ。マロンの犬種がわからないけれど、美波ちゃんが噛みつかれたら大怪我の元だ。小型犬だったとしても、自分の主人だと認めない人間が触れようとすれば、警戒心の強い子は威嚇して吠えるだろう。

「だから、ばんごはんがからあげのひは、マロンがせいちゃんのそばからはなれないの」

 分け前をもらえるとわかれば、当然のことながらそうなるのが目に浮かぶ。

「マロンってワンちゃんは、男の子? それとも女の子?」

 私の質問に、美波ちゃんが笑顔で答える。

「マロンはね、ゴールデンレトリバーのおんなのこだよ。せいちゃんがマロンのおせわをしているから、マロンもせいちゃんのことがだいすきなんだよ」

『せいちゃん』という人がお世話をしてるとのことなら、恐らく美波ちゃんと同居されているご家族の誰かのことだろう。

「ゴールデンレトリバー! もしかしてマロンってお名前は毛の色から付けられたのかな?」

 私の質問に、美波ちゃんがそうだと答える。
 それからしばらくの間マロンの話で盛り上がり、話が一区切りついたところで、固定電話の子機を片手にさつき先生が戻って来た。

「美波ちゃんごめんね。今お家に電話したんだけど、誰も出られなくて。お母さんの職場に連絡したら、どうやらお家の人に時間を十二時と間違えて伝えていたらしくって、もうすぐお迎えが来るからね!」

 さつき先生の声に、美波ちゃんは安堵の表情を見せた。

「よかったね、美波ちゃん」

 私の声に、美波ちゃんは元気よくお返事をしてくれる。

「うん、まなみせんせい、ありがとう!」

 さっきの泣きそうな表情は跡形もない。よかった、ご家族のほうもこれで一安心だろう。
 後のことは、さつき先生へバトンタッチすることにした。

「じゃあ、先生は教室のお掃除しようかな。さつき先生、後をお願いしますね」

 園児が帰宅した後の教室は、床に埃やその日はさみで工作をした紙の残りが落ちている。ハウスダストアレルギーの疾患を持つ園児も少なくはない。そのため、園児たちが帰宅した後と登園前の一日二回、徹底的に床掃除をしている。掃除をしていると、たまに園児のヘアゴムやボタンなどの落とし物も出てくるので、手は抜けない。
 教室の後ろに動かしていた作業用のテーブルを元の位置へ戻していると、廊下から美波ちゃんの挨拶する声が聞こえる。どうやらお迎えが来たようだ。テーブルの移動が終わってから、私も廊下でお見送りをしようと思っていたけれど、思いの外二人の歩くスピードは速い。私が教室を出ると、ちょうど二人が門の外に出たところだった。
 後ろ姿しか見えなかったけれど、もしかして美波ちゃんのお父さんかな? 背の高い、がっしりとした体形の男性と美波ちゃんが手を繋いで門を出ていく姿が目に入った。
 後ろ姿だけの情報なのに、長身な上に広い肩幅、股下から伸びる長い脚など、スタイルの良さに驚いた。
 今どきの保護者って、見た目もかっこいいよな……
 そう思った瞬間、美波ちゃんの保護者の横顔が見え、一瞬視線が合ったような気がした。
 本当に一瞬だったので、きちんとお顔が見えたわけではない。けれど、まさしく私のタイプの顔立ちに、ドキッとした。
 保護者だから、当然既婚者だよね……
 職場が職場だけに、独身男性との接点は皆無に等しい。なので保護者にときめいても仕方ない。
 私は軽く溜め息をついた。

「ああ、いつ見てもイケメンっていいわあ」

 さつき先生はそう言いながら私のほうへ駆け寄ってきた。心なしか、いつもより足取りが軽いように見える。さつき先生は旦那さんとラブラブで、以前一緒に仕事をしていた時はいつも職員室で惚気ていたのに、旦那さん以外の男性でこんなふうに乙女のような表情を見せるなんて、よっぽどのことだ。

「誰がそんなにイケメンなんですか?」

 私は、美波ちゃんの保護者に一瞬でもときめいた自分を戒めるよう、えて普通に振る舞った。ほんの一瞬、横顔を見ただけだ。正面からお顔を見たわけではない。そんな私の声に、さつき先生は首を横に振る。

「え、もしかして愛美先生、今のイケメンのお顔、見てない!?」

 珍しくさつき先生が興奮している。

「掃除中で作業テーブルを移動させていた時に、お迎えに来られたみたいなので、お顔はきちんと見ていないんですよ」

 私の返事にさつき先生はひたすら残念がりながら言葉を続けた。

「うわあ、本当にもったいない! イケメンは目の保養よ。美波ちゃん、朝はお母さんが幼稚園に連れて来るんだけど、日中はお仕事されてるからお迎えは基本的におじいちゃんやおばあちゃんなんだけど、たまにあの人がお迎えに来られるのよ。今度はいつお迎えに来るかわからないけど、絶対見て! 顔だけでなく身体もめっちゃすごいんだから」
「身体もすごいって……先生、どこ見てるんですか?」

『身体もすごい』の発言に、内心同意しながら、それを悟られないよう返事をする私に、さつき先生は笑いながら言葉を続ける。

「どこって、以前半袖Tシャツとジーンズってラフな格好でお迎えに来たことがあるんだけど、胸板がぶ厚いし二の腕の筋肉もすごくってね。めっちゃ筋肉質! 学生の頃スポーツをしていたんだろうと思うけど、あれは絶対鍛えてるわよ。何をすればあんなに筋肉が付くのかしらって、私だけでなくって周りの保護者たちも見る目がすごかったのよ。それこそ他の先生たちにも聞いてみて。みんな私と同意見だから」

 さつき先生がそこまで言うのだからきっとそうなのだろう。

「先生が嘘をついているとは思ってませんよ。私もそのイケメンな保護者のお顔を見たかったなあ……。それよりさつき先生、早くゆり組のお掃除終わらせてお昼にしましょう。私ももうすぐ掃除終わりますよ」
「あ、そうだね。まだ慣らし期間だから、給食がないのはつらいわ……誰か私にお弁当作ってくれないかな」
「本当に。一人暮らしを始めたら、誰もごはんを作ってくれないって当たり前の事実に打ちひしがれてます」
「あはは、その話、お昼の時間にゆっくり聞かせてもらうわよ。でもその前に掃除しなきゃね!」

 さつき先生はそう言うと、ゆり組の教室に戻って行った。その後姿を見送ると、私も掃除の続きを始めた。


 教室の掃除が終わり、廊下に設置してある子ども用の手洗い場で手を洗うと、私たちは職員室へと向かった。
 私は身長が百五十四センチと、成人女性としては少し背が低い。
 美波ちゃんの保護者と並んだら、きっと頭一つ以上の身長差があるだろう。
 給食が始まれば園児たちと昼食をとるので、こうして職員だけで食事をするのは、四月の慣らし期間や夏休みの間くらいだけだろう。
 さつき先生と揃って職員室に戻ると、もう一つある年中クラスのもも組担任である安藤あんどう里佳りか先生が急須にお湯を入れ、お茶の用意をしているところだった。

「さつき先生、愛美先生、お疲れさまでした」

 里佳先生はそう言うと、各自の湯呑み茶碗を机の上に配った。

「じゃあ、いただきましょうか」

 みんなが集まるのを待ってくれていた園長先生の声に、職員みんながいただきますの声をあげ、持参したお弁当を机の上に広げた。


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