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1巻
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1
白いカーテンの隙間から真っ青な空が覗いている。
まどろみの中で目覚めた花織がゆっくりと体を起こすと、かけられていたシーツがすとんと落ちた。
暖房がついているのか、二月にもかかわらず室内は暖かい。
ぼうっとしたまま自身の体を見下ろせば、何も身につけていない裸体が視界に飛び込んでくる。
直後、花織の眠気は一気に吹き飛んだ。体のいたるところに刻まれた痕に気づいたからだ。
胸の谷間やぺたんとした腹部、太ももの付け根――
まるで所有欲を示すようなキスマークの数々に一瞬にして頬が熱くなる。
そうして思い起こされたのは、これを体に刻んだ男と過ごした濃密な夜のことだった。
「悠里さんったら、こんなにたくさん……」
恋人の大室悠里とは付き合って三年ほどになる。
出会いは今の職場で、大手文具メーカーの営業として配属された花織の教育係が彼だった。
当時の悠里は、入社四年目にしてすでにやり手の営業マンとして知られていた。
その指導はとても厳しくて、くじけそうになったことは何度もある。しかし、それを上回るくらいの優しさや、仕事に対する誠実さに触れるうちにいつしか尊敬の念を抱き、やがてそれは恋心へと変わっていった。
だからこそ、出会って二年目の春に彼から告白された時は、心の底から嬉しかった。
その気持ちは今も変わらない。
悠里は付き合い始めた当初も今も、花織のことをとても愛してくれる。
互いに仕事が忙しいこともあり平日に時間を取るのは難しいが、週末は悠里の部屋でゆっくり過ごすことが多い。
土曜の夜は花織の手料理を二人で食べて、その後はベッドで愛し合って眠りにつく。そうして朝日が昇る頃、恋人の温もりと共に起きる。そんな時間が花織はたまらなく好きだった。
――自分は一人ではないと、そう思えるから。
花織は父親の顔を知らない。高校を卒業する頃に母親が家を出ていってからは、三歳年上の姉と二人で支え合って生きてきた。
だからだろうか。両親の温もりを知らない花織にとって、愛する人に抱かれて眠り、目覚める週末はとても幸せな時間に感じるのだ。
しかし今、恋人はベッドにいない。
ドアを隔てたリビングに人の気配がするので、近くにはいるのだろう。それなのに少し寂しいと思ってしまうのは、この三年間で徹底的に彼に甘やかされてきたからだ。
昨夜は少しお洒落なイタリアンレストランでディナーを楽しんだ。
悠里の海外出向が内々に決まったので、そのお祝いとして花織が予約した。
花織が入社した当初から海外志向が強かった悠里だが、営業マンとしてあまりに優秀すぎた故に、営業部長がなかなか手放さなかった。
そんな中、入社八年目を前にしてようやく念願の海外出向が決まった。
行き先はロンドンで、期間は二年から三年ほどと聞いている。
離れることへの寂しさはもちろんあるけれど、それ以上に嬉しい気持ちの方が大きかった。
今までずっと、彼の仕事に対する熱意を一番そばで見てきたのだから。
『日本で悠里さんの帰りを待ってます。だから、私のことは気にせず頑張ってきてくださいね』
花織は、お祝いにオーダーメイドの革財布をプレゼントした。
それを心から喜んでくれた彼は、昨夜、いつにも増して情熱的に花織を抱いた。体中に刻まれたキスマークがその激しさを物語っている。
何度『もうだめ』と言っても止まらない彼は雄そのもので、今思い出しても顔が熱くなってしまう。
いつもは宝物に触れるかのような優しい愛撫をする彼だから、なおさらに。
「……そろそろ起きなきゃ」
花織はベッドサイドに置かれた服を――寝ている間に悠里がたたんでくれたのだろう――取ろうと利き腕の左手を伸ばす。
そして、気づいた。昨夜までなかったものが指にある。
ダイヤモンドが煌めく指輪。嵌められていたのは――左手の薬指。
「悠里さん……!」
シーツを体に巻きつけた花織は急いで寝室のドアを開けた。すると、マグカップを片手に悠里が振り返る。
「おはよう。ちょうどよかった、今起こしに行こうと思っていたところなんだ」
穏やかな笑顔と共に鼻をくすぐったのは、淹れたてのコーヒーの香り。
テーブルの上にはトーストしたパンと卵料理、フルーツが見える。
とても美味しそうだが、今はそれどころではない。
「あのっ!」
「ん?」
悠里の前に震える左手をそっと差し出す。すると彼は目を瞬かせ、ふわりと顔を綻ばせた。
「気づいてくれたんだ?」
悪戯が成功した子どものように微笑む悠里を前にこくんと頷く。
当たり前だ。こんなの気づかないはずがない。
「これは……その、つまり……」
付き合って三年ほど。左手の薬指に嵌められた指輪の意味。
そこから導き出される答えは一つしかない。
しかしこんな時、何を言えばいいかわからなくてその場に立ち尽くしていると、悠里はマグカップを静かにテーブルに置いて花織と向き合った。
「『特別なシチュエーションじゃなくていいんです。朝起きて、薬指に婚約指輪が嵌まってる……そんなプロポーズが理想です』」
「あ……」
「昔、花織はそう言っていたよね」
その言葉に一気に思い起こされたのは、当時入社一年目の花織が先輩社員の結婚披露宴に招待された時のこと。その席で『理想のプロポーズは?』という雑談になった際、今彼が言った答えを返したような気がする。
しかし四年も前の話だし、その時はまだ付き合ってすらいなかった。それなのに――
「覚えていたんですか……?」
「もちろん。あの時にはもう花織のことが好きだったからね」
息を呑む花織の前で、悠里は指輪が煌めく左手をそっとすくい取る。そして、指輪の上にそっと触れるだけのキスをした。
「東雲花織さん」
「は、はい」
「俺は、君の家族になりたい」
今この瞬間、体の内側から湧き上がった衝動の正体を花織は知らない。感動なんて言葉ではとても言い表せないような強烈な気持ち。喜びで息が苦しくなるのなんて初めての経験だった。
『家族』
それは、両親の愛を知らない花織が心の底から欲していたものだ。
「ロンドンには花織にもついてきてほしい。その場合仕事は辞めてもらうことにはなるけど、絶対に苦労はさせない。誰よりも大切にすると約束するよ」
だから、と。悠里はシーツごと花織の体を抱きしめた。
「俺と結婚してくれますか?」
答えは、決まっていた。
「はいっ……!」
嬉しかった。感動で涙が溢れて止まらないほどに、彼が自分と一緒に生きる未来を望んでくれたことに心が震えた。今だけは世界で一番幸せなのは自分だと本気で思うくらいに心が浮き立った。
「――よしっ!」
その時、抱擁を解いた悠里が声を上げる。甘い雰囲気の中での突然のガッツポーズにきょとんとしていると、気づいた悠里がハッとした顔をする。
「……ごめん。安心したら、つい」
「悠里さんでも緊張することがあるんですか?」
「そりゃあもちろん。好きな子にプロポーズするんだから緊張くらいするさ。花織とは先輩後輩の関係で始まったし、そもそも年上だからいつもは余裕があるふりをしてるけどね」
照れくさそうにはにかむ彼を見た瞬間、花織の胸がたまらなくきゅうっと締め付けられた。
愛おしいと……幸せだと、心からそう思った。
◇
プロポーズから一ヶ月後の三月上旬。
土曜日の昼過ぎに、花織は何度も訪れたことのある思い出のカフェで悠里の訪れを待っていた。
二人の勤務先からほど近いこの店は、大通りから逸れた細道の一角に位置している。落ち着いた雰囲気と美味しいコーヒーが魅力的なここに初めて来たのは、新人の時。
悠里が外回りに同行する花織を連れてきてくれたのがきっかけだった。
『たまにここで休憩してるんだ。他のみんなには内緒だよ?』
悪戯っぽい笑顔にときめいたのが、もう随分と昔に感じる。
約束の時間まであと十分。待ち合わせは午後二時。しかし花織は三十分以上前からここにいる。
これから自分がする話について考えると、緊張していてもたってもいられなくなり、予定よりもずっと早く家を出た。
コーヒーは最初の一口を飲んだだけで、すっかり冷めてしまっている。
もったいないと思いながら再び手を伸ばすが、どうしても次の一口を飲むことができない。
喉の奥に硬い何かが詰まっているような感覚がするのは緊張しているからか、それとも恐怖のせいか。きっとその両方だろう、と花織はテーブルの下で強く拳を握る。
悠里と会うのが怖いと思う日が来るなんて、想像したこともなかった。
『俺と結婚してくれますか?』
あの時の花織は、間違いなく幸せの絶頂にいたし、これから始まる悠里との将来に胸を弾ませていた。しかし、あの時思い描いていた幸せな未来は、もう見えない。
「花織」
弾かれたように顔を上げる。緊張していたせいか、声をかけられるまで彼が店に入ってきたことに気づかなかった。
「ごめん、待たせた?」
「……私も今来たばかりです」
「それならよかった。――すみません、ホットコーヒーを一つください」
対面に腰を下ろした悠里は注文を済ませ、花織と向き合う。
「こうして落ち着いて話すのは久しぶりだね」
「そうですね。……姉が亡くなってから、ずっとバタバタしていましたから」
花織はわずかに目を伏せる。
二週間前、姉の夏帆が亡くなった。
一人息子の遥希を保育園に迎えに行く途中の事故だった。
「……気持ちは落ち着いた?」
「はい、と言えればいいんですけど……やっぱりまだ難しいです」
姉の突然の死に動揺する花織を支えてくれたのは、悠里だった。
彼は、抜け殻のようになってしまった花織に代わって葬儀の手配や仕事の引き継ぎ、さらには遥希の世話まで、嫌な顔一つせずにしてくれた。彼がいなければどうなっていたかわからない。
「姉を送ることができたのは悠里さんのおかげです。海外赴任の準備で忙しい中、本当にありがとうございました」
「俺は特別なことは何もしていないよ。少しでも力になれたのならよかった」
悠里はこの四月からロンドンに駐在することが決定している。
当初は二月中に入籍を済ませて、花織も会社を退社し悠里に同行する予定だった。しかし、その手続きを始めようとした矢先に姉が亡くなり、今日まで落ち着かない日々を過ごしていた。
「そういえば今日、遥希くんは?」
「沙也加が見てくれています」
友人でもある同僚の名前をあげれば、悠里は納得したように頷く。
「そっか。彼女、確か前職は保育士だもんな。でも、俺は別に遥希くんが一緒でもよかったのに」
「……今日は落ち着いて話がしたかったので」
「話?」
「はい」
花織はすうっと深呼吸をする。そして、居住まいを正して正面の悠里を見つめた。
「――婚約を解消してください」
ひゅっと悠里が息を呑む。
「勝手なことを言ってごめんなさい。でも……私は悠里さんと結婚することも、ロンドンに一緒に行くこともできません」
事務的に告げる花織に対し、悠里の反応は違った。
いつもは柔和な笑みを湛えている顔は強張り、薄茶色の瞳は驚愕に見開かれている。
みるみる血の気の引いていく恋人の姿に心臓が掴まれたような痛みを感じた。しかし花織はそれをおくびにも出さず、淡々と続ける。
「慰謝料が必要であればお支払いします。だから……私と別れてください」
花織はバッグから取り出した小箱を差し出す。それが婚約指輪だと気づいた悠里の表情が一変した。
「……意味がわからない」
その声は震えていた。逞しい肩も、瞳も揺れている。
(ごめんなさい)
心の中で、彼には届かない謝罪の言葉を口にする。それでも表向きは無表情を貫くのをやめなかった。そうでもしないと、今すぐにでも自分の言葉を撤回したくなってしまいそうだったから。
「本気で俺と別れたいと……婚約破棄したいと言ってるのか?」
長く、重苦しい沈黙を破ったのは悠里だった。
まるで否定してくれと言わんばかりの物言いに、花織は迷いなく頷く。
「冗談でこんなことは言いません」
この答えに悠里はようやく花織の本気を感じ取ったのだろう。彼の瞳に明確な怒りが宿る。初めて悠里からそんな視線を向けられた花織は、たまらずテーブルの下で拳を強く握った。
自分に傷つく資格はない。むしろ傷つけているのは花織の方だ。そうわかっていても、初めて直面する悠里の怒りに体が震えそうになってしまう。
「……理由を教えてくれ。突然そんなことを言われても『わかった』なんて言えない」
湧き上がる感情を必死に抑え込むようにして、悠里が低い声で問う。怒りを露わにしながらも、やはり悠里は冷静だった。
立派な人だ。普通なら「ふざけるな!」と一喝して感情のまま問いただしてもおかしくないのに、彼はそうしない。もしも逆の立場であれば、花織は人目も憚らず涙を流して問い詰めていただろう。
改めて恋人の器の大きさを実感しつつ、花織は口を開いた。
「遥希を正式に引き取ることに決めたんです」
「遥希くんを?」
「……はい」
遥希に父親はいない。花織が何度聞いても、夏帆は父親について頑なに答えようとしなかった。
妊娠中は「父親のいない子どもを本当に産むのか」と思ったこともある。それでもいざ生まれてみれば、甥は本当に可愛らしくて、それ以降は夏帆と一緒になって子育てに奮闘してきた。
「姉が亡くなった今、遥希の親族は私だけです。私にとって、遥希は自分の子どもも同然です。あの子を施設に預けて、私だけ結婚して幸せになるなんてできません。だから……ごめんなさい」
花織はきっぱりと告げる。しかし、悠里は納得がいかないように首を横に振る。
「……わからない。どうしてそれが別れることに繋がるんだ?」
「どうしてって――」
「予定通り俺と結婚して、二人で遥希くんを育てればいい。君が彼の母親になるなら、俺が父親になる」
迷いのない言葉に今度は花織が息を呑む番だった。
「……血の繋がらない他人の子どもの父親になるつもりですか?」
「『他人の子ども』じゃない。君にとって大切な子どもなら、俺にとっても身内と同じだ」
「…………」
「俺も遥希くんのことは可愛く思ってる。あの子が夏帆さんのお腹にいる時から見守ってきたんだ。遊んだ回数だって数えきれない。一緒に暮らしてもなんの問題もないはずだ」
「……たまに会って遊ぶのと、親になるのとでは違います」
親になるのは簡単なことではない。花織自身、姉亡き今、遥希を引き取ると決めたものの、母親になる覚悟ができたわけではないのだ。それなのに悠里は微塵も悩むことなく「父親になる」と言い切った。それに対して真っ先に浮かんだのは、喜びではなく戸惑いだ。
――どうしてそんな簡単に言えるのか。
そう、思ってしまった。
「私は、ロンドンには一緒に行けません」
ただでさえ遥希は母親を亡くして不安定になっている。その上、外国に……なんて、考えられなかった。それは悠里もわかっているはずなのに。
「なら、花織と遥希くんは日本に残ればいい。俺もロンドンに行ったきりというわけじゃない。なるべく帰ってくるようにする。父親が海外に単身赴任をしている家庭なんていくらでもある」
「それはもともと家族だった場合の話です。私たちは、違いますよね」
「これから家族になるんだから同じようなものだ。それがだめなら、ロンドン行きを諦める」
花織は絶句した。
ロンドン行きが決まった時の彼の喜びようを昨日のことのように覚えている。
結婚のために長年の夢を諦めるなんて、そんなこと花織は望んでいない。
むしろ自分の存在が彼の未来の妨げになることだけは、絶対にあってはならないと思った。だからこそ苦渋の思いで彼と離れることを決めた。
これから花織は遥希の母親代わりとなる。義務感からではない。そうなろうと自分で決めたのだ。
遥希が好きだから。あの子は大好きな姉の残した、たった一人の大切な甥っ子だから。
でも、悠里は違う。どれだけ遊んだことがあっても、可愛がっていたとしても、彼にとっての遥希は他人の子ども。その子との生活のために夢を諦めるなんて――
(そんなの、絶対にだめよ)
そうなったが最後、花織は自分で自分が許せなくなってしまう。
「結婚して単身赴任の形を取るのも、ロンドン行きを諦めるのも、現実的でないのは悠里さんもわかるでしょう?」
「わからない」
「……悠里さん」
「俺は別れない」
「悠里さん!」
一歩も譲らない悠里に、たまらず花織は声を上げた。
「どうして、わかってくれないんですか……」
「わかるはずないだろう、そんなこと!」
対する悠里もまた、声を荒らげた。
初めて聞く彼の大声に、反射的に肩をすくめる。それに気づいた悠里はすぐにハッとした顔をして「すまない」と小さな声で謝罪するが、そこに普段の余裕のある姿はどこにもなかった。
それは花織も同じだった。
「……今の君は、夏帆さんが亡くなったばかりで動揺してるんだ。だから簡単に『別れる』なんて言える。少し冷静になったらどうだ?」
婚約破棄を申し出た花織に対する怒りのせいか、悠里はため息と共にそう吐き捨てる。
まるで、聞き分けのない子どもに言い聞かせるように。
しかし、そんな彼の言動はかえって花織から冷静さを奪い取った。
(簡単になんて、言えるはずない)
悠里が好きだ。彼とこの先の人生を共に歩むのだと思うと、本当に幸せな気持ちになれた。仕事を辞めることは残念だけど、それ以上にロンドンで過ごす新婚生活を楽しみにしていた。
だからこそ遥希を引き取ると決めるまで、何日も眠れなくなるほど悩んだ。
自分と、悠里と、遥希。三人のためにどうするのが最善なのか、悩んで、悩んで、悩み続けて。
そうしてようやく出した答えを、悠里は「気の迷いだ」と切り捨てた。
「……冷静じゃないのは、あなたも同じでしょう」
「何?」
「『父親になる』『ロンドン行きを諦める』なんて、簡単に言わないでください。もし本当にそうなった時、悠里さんは自分の選択を後悔しないと言えますか?」
悠里は大きく目を見開く。
「長年希望していたキャリアを諦めて、他人の子どもを育てて、『あの時ああしていれば』と思いませんか? 私を……遥希を選んだことを、絶対に後悔しないと言い切れますか?」
「それ、は……」
「もしもそうなったら、私はそれを受け止めきれません。何よりも……あなたが後悔する姿を見たくないんです」
悠里は口を閉ざす。それが、何よりの答えだった。
口では「諦める」と言いながらも、悠里は海外に行くことを望んでいる。
そして、甥を引き取ることを決めた花織が、彼と一緒に行くことはない。
どれだけ愛し合っていたとしても、今の二人はそれぞれ優先するものが違う。
ならばこれ以上はどれだけ話し合っても平行線になるのは明らかだった。
「俺はただ、花織と一緒にいたいだけなんだ」
その言葉も、一心に注がれる強い眼差しも、全てが花織を好きだと告げていた。
「……ありがとうございます」
こんなにも自分を愛してくれる人は後にも先にも悠里だけだろう。
彼と付き合った三年間、花織は本当に幸せだった。誰かを愛する気持ちも、愛される多幸感も全ては悠里が教えてくれた。
「悠里さんには本当に感謝しています」
「やめてくれ! ……そんな言葉が聞きたいんじゃない。頼むから、別れるなんて言わないで」
縋るような声も、こんなにも頼りない姿を見るのも初めてだった。
花織の前の悠里は、いつだって包容力のある大人の魅力に溢れていた。そんな人の顔を苦痛で歪める自分は、やはり相応しくない。
「ごめんなさい」
花織は深く頭を下げる。
「お願いします。……私と、別れてください」
頑なに頭を上げようとしない花織を見て、悠里が何を思ったのかはわからない。やがて彼はため息をつき、震える声で告げた。
「……俺は、君にとってそんなにも頼りない存在だったんだな」
「ちがっ――」
「違わないだろう。相談一つせずに別れを決めたのがその証拠だ」
――そんなことない。
喉元まで出かかった否定の言葉を花織は寸前で呑み込んだ。何を言ったところで結局は言い訳にしかならないとわかっていたから。
「君の気持ちはわかった」
俯いたまま、唇をきつく噛み締める。
「……少し、考える時間をくれ」
席を立つ音がする。
花織が顔を上げた時には、すでに悠里の姿は消えていた。
2
――よかった。今期もなんとか目標は達成できそう。
年度終わり目前の三月下旬。
午前の外回りからオフィスへ戻る道中で花織はホッと一息をつく。
今の会社に入社して早八年。
営業一筋の花織だが、年度末の忙しなさにはいまだに慣れない。
花織の勤める株式会社季和文具は三月が決算期ということもあり、営業部では今月頭からぴりぴりとした雰囲気が続いていた。普段はどちらかと言えば和気藹々としている部署だけに、最後の追い込みとばかりに日々数字に追われる毎日は、精神的にもかなりくるものがある。
しかし、それもあと数日で終わりだと思えば自然と気持ちも上向きになるというものだ。
季和文具は文具の製造、仕入れ、販売を行う国内でも有数の大手文具メーカーだ。
創業八十年を超える老舗企業で、海外にも複数の拠点を有している。
花織は八年前に新卒として入社してから、ずっと東京支社の営業部に所属していた。今は主に都内の文具店をターゲットに営業活動をしている。
元来人と話すのが好きな性格に加え、大学時代は接客メインのアルバイトに従事していたこともあって、営業職は花織の肌に合っていたようだ。おかげで、部内でも上位の成績を収めることができている。
ちなみに九月から三月までの下半期の営業成績は夏季賞与に反映される。
この調子なら次のボーナスは期待できるかもしれない。
(その時は遥希に何かしてあげたいな)
賞与の使い道で真っ先に思い浮かぶのは、愛しの甥っ子・遥希だ。
三年前、姉の死をきっかけに花織は甥を引き取ることに決めた。
今現在、花織は家庭裁判所の許可を得て遥希の未成年後見人――親権者の死亡等により親権を持つ者がいない場合、親権者に代わって未成年者の財産管理や身上監護をする法定代理人を指す――となっている。
白いカーテンの隙間から真っ青な空が覗いている。
まどろみの中で目覚めた花織がゆっくりと体を起こすと、かけられていたシーツがすとんと落ちた。
暖房がついているのか、二月にもかかわらず室内は暖かい。
ぼうっとしたまま自身の体を見下ろせば、何も身につけていない裸体が視界に飛び込んでくる。
直後、花織の眠気は一気に吹き飛んだ。体のいたるところに刻まれた痕に気づいたからだ。
胸の谷間やぺたんとした腹部、太ももの付け根――
まるで所有欲を示すようなキスマークの数々に一瞬にして頬が熱くなる。
そうして思い起こされたのは、これを体に刻んだ男と過ごした濃密な夜のことだった。
「悠里さんったら、こんなにたくさん……」
恋人の大室悠里とは付き合って三年ほどになる。
出会いは今の職場で、大手文具メーカーの営業として配属された花織の教育係が彼だった。
当時の悠里は、入社四年目にしてすでにやり手の営業マンとして知られていた。
その指導はとても厳しくて、くじけそうになったことは何度もある。しかし、それを上回るくらいの優しさや、仕事に対する誠実さに触れるうちにいつしか尊敬の念を抱き、やがてそれは恋心へと変わっていった。
だからこそ、出会って二年目の春に彼から告白された時は、心の底から嬉しかった。
その気持ちは今も変わらない。
悠里は付き合い始めた当初も今も、花織のことをとても愛してくれる。
互いに仕事が忙しいこともあり平日に時間を取るのは難しいが、週末は悠里の部屋でゆっくり過ごすことが多い。
土曜の夜は花織の手料理を二人で食べて、その後はベッドで愛し合って眠りにつく。そうして朝日が昇る頃、恋人の温もりと共に起きる。そんな時間が花織はたまらなく好きだった。
――自分は一人ではないと、そう思えるから。
花織は父親の顔を知らない。高校を卒業する頃に母親が家を出ていってからは、三歳年上の姉と二人で支え合って生きてきた。
だからだろうか。両親の温もりを知らない花織にとって、愛する人に抱かれて眠り、目覚める週末はとても幸せな時間に感じるのだ。
しかし今、恋人はベッドにいない。
ドアを隔てたリビングに人の気配がするので、近くにはいるのだろう。それなのに少し寂しいと思ってしまうのは、この三年間で徹底的に彼に甘やかされてきたからだ。
昨夜は少しお洒落なイタリアンレストランでディナーを楽しんだ。
悠里の海外出向が内々に決まったので、そのお祝いとして花織が予約した。
花織が入社した当初から海外志向が強かった悠里だが、営業マンとしてあまりに優秀すぎた故に、営業部長がなかなか手放さなかった。
そんな中、入社八年目を前にしてようやく念願の海外出向が決まった。
行き先はロンドンで、期間は二年から三年ほどと聞いている。
離れることへの寂しさはもちろんあるけれど、それ以上に嬉しい気持ちの方が大きかった。
今までずっと、彼の仕事に対する熱意を一番そばで見てきたのだから。
『日本で悠里さんの帰りを待ってます。だから、私のことは気にせず頑張ってきてくださいね』
花織は、お祝いにオーダーメイドの革財布をプレゼントした。
それを心から喜んでくれた彼は、昨夜、いつにも増して情熱的に花織を抱いた。体中に刻まれたキスマークがその激しさを物語っている。
何度『もうだめ』と言っても止まらない彼は雄そのもので、今思い出しても顔が熱くなってしまう。
いつもは宝物に触れるかのような優しい愛撫をする彼だから、なおさらに。
「……そろそろ起きなきゃ」
花織はベッドサイドに置かれた服を――寝ている間に悠里がたたんでくれたのだろう――取ろうと利き腕の左手を伸ばす。
そして、気づいた。昨夜までなかったものが指にある。
ダイヤモンドが煌めく指輪。嵌められていたのは――左手の薬指。
「悠里さん……!」
シーツを体に巻きつけた花織は急いで寝室のドアを開けた。すると、マグカップを片手に悠里が振り返る。
「おはよう。ちょうどよかった、今起こしに行こうと思っていたところなんだ」
穏やかな笑顔と共に鼻をくすぐったのは、淹れたてのコーヒーの香り。
テーブルの上にはトーストしたパンと卵料理、フルーツが見える。
とても美味しそうだが、今はそれどころではない。
「あのっ!」
「ん?」
悠里の前に震える左手をそっと差し出す。すると彼は目を瞬かせ、ふわりと顔を綻ばせた。
「気づいてくれたんだ?」
悪戯が成功した子どものように微笑む悠里を前にこくんと頷く。
当たり前だ。こんなの気づかないはずがない。
「これは……その、つまり……」
付き合って三年ほど。左手の薬指に嵌められた指輪の意味。
そこから導き出される答えは一つしかない。
しかしこんな時、何を言えばいいかわからなくてその場に立ち尽くしていると、悠里はマグカップを静かにテーブルに置いて花織と向き合った。
「『特別なシチュエーションじゃなくていいんです。朝起きて、薬指に婚約指輪が嵌まってる……そんなプロポーズが理想です』」
「あ……」
「昔、花織はそう言っていたよね」
その言葉に一気に思い起こされたのは、当時入社一年目の花織が先輩社員の結婚披露宴に招待された時のこと。その席で『理想のプロポーズは?』という雑談になった際、今彼が言った答えを返したような気がする。
しかし四年も前の話だし、その時はまだ付き合ってすらいなかった。それなのに――
「覚えていたんですか……?」
「もちろん。あの時にはもう花織のことが好きだったからね」
息を呑む花織の前で、悠里は指輪が煌めく左手をそっとすくい取る。そして、指輪の上にそっと触れるだけのキスをした。
「東雲花織さん」
「は、はい」
「俺は、君の家族になりたい」
今この瞬間、体の内側から湧き上がった衝動の正体を花織は知らない。感動なんて言葉ではとても言い表せないような強烈な気持ち。喜びで息が苦しくなるのなんて初めての経験だった。
『家族』
それは、両親の愛を知らない花織が心の底から欲していたものだ。
「ロンドンには花織にもついてきてほしい。その場合仕事は辞めてもらうことにはなるけど、絶対に苦労はさせない。誰よりも大切にすると約束するよ」
だから、と。悠里はシーツごと花織の体を抱きしめた。
「俺と結婚してくれますか?」
答えは、決まっていた。
「はいっ……!」
嬉しかった。感動で涙が溢れて止まらないほどに、彼が自分と一緒に生きる未来を望んでくれたことに心が震えた。今だけは世界で一番幸せなのは自分だと本気で思うくらいに心が浮き立った。
「――よしっ!」
その時、抱擁を解いた悠里が声を上げる。甘い雰囲気の中での突然のガッツポーズにきょとんとしていると、気づいた悠里がハッとした顔をする。
「……ごめん。安心したら、つい」
「悠里さんでも緊張することがあるんですか?」
「そりゃあもちろん。好きな子にプロポーズするんだから緊張くらいするさ。花織とは先輩後輩の関係で始まったし、そもそも年上だからいつもは余裕があるふりをしてるけどね」
照れくさそうにはにかむ彼を見た瞬間、花織の胸がたまらなくきゅうっと締め付けられた。
愛おしいと……幸せだと、心からそう思った。
◇
プロポーズから一ヶ月後の三月上旬。
土曜日の昼過ぎに、花織は何度も訪れたことのある思い出のカフェで悠里の訪れを待っていた。
二人の勤務先からほど近いこの店は、大通りから逸れた細道の一角に位置している。落ち着いた雰囲気と美味しいコーヒーが魅力的なここに初めて来たのは、新人の時。
悠里が外回りに同行する花織を連れてきてくれたのがきっかけだった。
『たまにここで休憩してるんだ。他のみんなには内緒だよ?』
悪戯っぽい笑顔にときめいたのが、もう随分と昔に感じる。
約束の時間まであと十分。待ち合わせは午後二時。しかし花織は三十分以上前からここにいる。
これから自分がする話について考えると、緊張していてもたってもいられなくなり、予定よりもずっと早く家を出た。
コーヒーは最初の一口を飲んだだけで、すっかり冷めてしまっている。
もったいないと思いながら再び手を伸ばすが、どうしても次の一口を飲むことができない。
喉の奥に硬い何かが詰まっているような感覚がするのは緊張しているからか、それとも恐怖のせいか。きっとその両方だろう、と花織はテーブルの下で強く拳を握る。
悠里と会うのが怖いと思う日が来るなんて、想像したこともなかった。
『俺と結婚してくれますか?』
あの時の花織は、間違いなく幸せの絶頂にいたし、これから始まる悠里との将来に胸を弾ませていた。しかし、あの時思い描いていた幸せな未来は、もう見えない。
「花織」
弾かれたように顔を上げる。緊張していたせいか、声をかけられるまで彼が店に入ってきたことに気づかなかった。
「ごめん、待たせた?」
「……私も今来たばかりです」
「それならよかった。――すみません、ホットコーヒーを一つください」
対面に腰を下ろした悠里は注文を済ませ、花織と向き合う。
「こうして落ち着いて話すのは久しぶりだね」
「そうですね。……姉が亡くなってから、ずっとバタバタしていましたから」
花織はわずかに目を伏せる。
二週間前、姉の夏帆が亡くなった。
一人息子の遥希を保育園に迎えに行く途中の事故だった。
「……気持ちは落ち着いた?」
「はい、と言えればいいんですけど……やっぱりまだ難しいです」
姉の突然の死に動揺する花織を支えてくれたのは、悠里だった。
彼は、抜け殻のようになってしまった花織に代わって葬儀の手配や仕事の引き継ぎ、さらには遥希の世話まで、嫌な顔一つせずにしてくれた。彼がいなければどうなっていたかわからない。
「姉を送ることができたのは悠里さんのおかげです。海外赴任の準備で忙しい中、本当にありがとうございました」
「俺は特別なことは何もしていないよ。少しでも力になれたのならよかった」
悠里はこの四月からロンドンに駐在することが決定している。
当初は二月中に入籍を済ませて、花織も会社を退社し悠里に同行する予定だった。しかし、その手続きを始めようとした矢先に姉が亡くなり、今日まで落ち着かない日々を過ごしていた。
「そういえば今日、遥希くんは?」
「沙也加が見てくれています」
友人でもある同僚の名前をあげれば、悠里は納得したように頷く。
「そっか。彼女、確か前職は保育士だもんな。でも、俺は別に遥希くんが一緒でもよかったのに」
「……今日は落ち着いて話がしたかったので」
「話?」
「はい」
花織はすうっと深呼吸をする。そして、居住まいを正して正面の悠里を見つめた。
「――婚約を解消してください」
ひゅっと悠里が息を呑む。
「勝手なことを言ってごめんなさい。でも……私は悠里さんと結婚することも、ロンドンに一緒に行くこともできません」
事務的に告げる花織に対し、悠里の反応は違った。
いつもは柔和な笑みを湛えている顔は強張り、薄茶色の瞳は驚愕に見開かれている。
みるみる血の気の引いていく恋人の姿に心臓が掴まれたような痛みを感じた。しかし花織はそれをおくびにも出さず、淡々と続ける。
「慰謝料が必要であればお支払いします。だから……私と別れてください」
花織はバッグから取り出した小箱を差し出す。それが婚約指輪だと気づいた悠里の表情が一変した。
「……意味がわからない」
その声は震えていた。逞しい肩も、瞳も揺れている。
(ごめんなさい)
心の中で、彼には届かない謝罪の言葉を口にする。それでも表向きは無表情を貫くのをやめなかった。そうでもしないと、今すぐにでも自分の言葉を撤回したくなってしまいそうだったから。
「本気で俺と別れたいと……婚約破棄したいと言ってるのか?」
長く、重苦しい沈黙を破ったのは悠里だった。
まるで否定してくれと言わんばかりの物言いに、花織は迷いなく頷く。
「冗談でこんなことは言いません」
この答えに悠里はようやく花織の本気を感じ取ったのだろう。彼の瞳に明確な怒りが宿る。初めて悠里からそんな視線を向けられた花織は、たまらずテーブルの下で拳を強く握った。
自分に傷つく資格はない。むしろ傷つけているのは花織の方だ。そうわかっていても、初めて直面する悠里の怒りに体が震えそうになってしまう。
「……理由を教えてくれ。突然そんなことを言われても『わかった』なんて言えない」
湧き上がる感情を必死に抑え込むようにして、悠里が低い声で問う。怒りを露わにしながらも、やはり悠里は冷静だった。
立派な人だ。普通なら「ふざけるな!」と一喝して感情のまま問いただしてもおかしくないのに、彼はそうしない。もしも逆の立場であれば、花織は人目も憚らず涙を流して問い詰めていただろう。
改めて恋人の器の大きさを実感しつつ、花織は口を開いた。
「遥希を正式に引き取ることに決めたんです」
「遥希くんを?」
「……はい」
遥希に父親はいない。花織が何度聞いても、夏帆は父親について頑なに答えようとしなかった。
妊娠中は「父親のいない子どもを本当に産むのか」と思ったこともある。それでもいざ生まれてみれば、甥は本当に可愛らしくて、それ以降は夏帆と一緒になって子育てに奮闘してきた。
「姉が亡くなった今、遥希の親族は私だけです。私にとって、遥希は自分の子どもも同然です。あの子を施設に預けて、私だけ結婚して幸せになるなんてできません。だから……ごめんなさい」
花織はきっぱりと告げる。しかし、悠里は納得がいかないように首を横に振る。
「……わからない。どうしてそれが別れることに繋がるんだ?」
「どうしてって――」
「予定通り俺と結婚して、二人で遥希くんを育てればいい。君が彼の母親になるなら、俺が父親になる」
迷いのない言葉に今度は花織が息を呑む番だった。
「……血の繋がらない他人の子どもの父親になるつもりですか?」
「『他人の子ども』じゃない。君にとって大切な子どもなら、俺にとっても身内と同じだ」
「…………」
「俺も遥希くんのことは可愛く思ってる。あの子が夏帆さんのお腹にいる時から見守ってきたんだ。遊んだ回数だって数えきれない。一緒に暮らしてもなんの問題もないはずだ」
「……たまに会って遊ぶのと、親になるのとでは違います」
親になるのは簡単なことではない。花織自身、姉亡き今、遥希を引き取ると決めたものの、母親になる覚悟ができたわけではないのだ。それなのに悠里は微塵も悩むことなく「父親になる」と言い切った。それに対して真っ先に浮かんだのは、喜びではなく戸惑いだ。
――どうしてそんな簡単に言えるのか。
そう、思ってしまった。
「私は、ロンドンには一緒に行けません」
ただでさえ遥希は母親を亡くして不安定になっている。その上、外国に……なんて、考えられなかった。それは悠里もわかっているはずなのに。
「なら、花織と遥希くんは日本に残ればいい。俺もロンドンに行ったきりというわけじゃない。なるべく帰ってくるようにする。父親が海外に単身赴任をしている家庭なんていくらでもある」
「それはもともと家族だった場合の話です。私たちは、違いますよね」
「これから家族になるんだから同じようなものだ。それがだめなら、ロンドン行きを諦める」
花織は絶句した。
ロンドン行きが決まった時の彼の喜びようを昨日のことのように覚えている。
結婚のために長年の夢を諦めるなんて、そんなこと花織は望んでいない。
むしろ自分の存在が彼の未来の妨げになることだけは、絶対にあってはならないと思った。だからこそ苦渋の思いで彼と離れることを決めた。
これから花織は遥希の母親代わりとなる。義務感からではない。そうなろうと自分で決めたのだ。
遥希が好きだから。あの子は大好きな姉の残した、たった一人の大切な甥っ子だから。
でも、悠里は違う。どれだけ遊んだことがあっても、可愛がっていたとしても、彼にとっての遥希は他人の子ども。その子との生活のために夢を諦めるなんて――
(そんなの、絶対にだめよ)
そうなったが最後、花織は自分で自分が許せなくなってしまう。
「結婚して単身赴任の形を取るのも、ロンドン行きを諦めるのも、現実的でないのは悠里さんもわかるでしょう?」
「わからない」
「……悠里さん」
「俺は別れない」
「悠里さん!」
一歩も譲らない悠里に、たまらず花織は声を上げた。
「どうして、わかってくれないんですか……」
「わかるはずないだろう、そんなこと!」
対する悠里もまた、声を荒らげた。
初めて聞く彼の大声に、反射的に肩をすくめる。それに気づいた悠里はすぐにハッとした顔をして「すまない」と小さな声で謝罪するが、そこに普段の余裕のある姿はどこにもなかった。
それは花織も同じだった。
「……今の君は、夏帆さんが亡くなったばかりで動揺してるんだ。だから簡単に『別れる』なんて言える。少し冷静になったらどうだ?」
婚約破棄を申し出た花織に対する怒りのせいか、悠里はため息と共にそう吐き捨てる。
まるで、聞き分けのない子どもに言い聞かせるように。
しかし、そんな彼の言動はかえって花織から冷静さを奪い取った。
(簡単になんて、言えるはずない)
悠里が好きだ。彼とこの先の人生を共に歩むのだと思うと、本当に幸せな気持ちになれた。仕事を辞めることは残念だけど、それ以上にロンドンで過ごす新婚生活を楽しみにしていた。
だからこそ遥希を引き取ると決めるまで、何日も眠れなくなるほど悩んだ。
自分と、悠里と、遥希。三人のためにどうするのが最善なのか、悩んで、悩んで、悩み続けて。
そうしてようやく出した答えを、悠里は「気の迷いだ」と切り捨てた。
「……冷静じゃないのは、あなたも同じでしょう」
「何?」
「『父親になる』『ロンドン行きを諦める』なんて、簡単に言わないでください。もし本当にそうなった時、悠里さんは自分の選択を後悔しないと言えますか?」
悠里は大きく目を見開く。
「長年希望していたキャリアを諦めて、他人の子どもを育てて、『あの時ああしていれば』と思いませんか? 私を……遥希を選んだことを、絶対に後悔しないと言い切れますか?」
「それ、は……」
「もしもそうなったら、私はそれを受け止めきれません。何よりも……あなたが後悔する姿を見たくないんです」
悠里は口を閉ざす。それが、何よりの答えだった。
口では「諦める」と言いながらも、悠里は海外に行くことを望んでいる。
そして、甥を引き取ることを決めた花織が、彼と一緒に行くことはない。
どれだけ愛し合っていたとしても、今の二人はそれぞれ優先するものが違う。
ならばこれ以上はどれだけ話し合っても平行線になるのは明らかだった。
「俺はただ、花織と一緒にいたいだけなんだ」
その言葉も、一心に注がれる強い眼差しも、全てが花織を好きだと告げていた。
「……ありがとうございます」
こんなにも自分を愛してくれる人は後にも先にも悠里だけだろう。
彼と付き合った三年間、花織は本当に幸せだった。誰かを愛する気持ちも、愛される多幸感も全ては悠里が教えてくれた。
「悠里さんには本当に感謝しています」
「やめてくれ! ……そんな言葉が聞きたいんじゃない。頼むから、別れるなんて言わないで」
縋るような声も、こんなにも頼りない姿を見るのも初めてだった。
花織の前の悠里は、いつだって包容力のある大人の魅力に溢れていた。そんな人の顔を苦痛で歪める自分は、やはり相応しくない。
「ごめんなさい」
花織は深く頭を下げる。
「お願いします。……私と、別れてください」
頑なに頭を上げようとしない花織を見て、悠里が何を思ったのかはわからない。やがて彼はため息をつき、震える声で告げた。
「……俺は、君にとってそんなにも頼りない存在だったんだな」
「ちがっ――」
「違わないだろう。相談一つせずに別れを決めたのがその証拠だ」
――そんなことない。
喉元まで出かかった否定の言葉を花織は寸前で呑み込んだ。何を言ったところで結局は言い訳にしかならないとわかっていたから。
「君の気持ちはわかった」
俯いたまま、唇をきつく噛み締める。
「……少し、考える時間をくれ」
席を立つ音がする。
花織が顔を上げた時には、すでに悠里の姿は消えていた。
2
――よかった。今期もなんとか目標は達成できそう。
年度終わり目前の三月下旬。
午前の外回りからオフィスへ戻る道中で花織はホッと一息をつく。
今の会社に入社して早八年。
営業一筋の花織だが、年度末の忙しなさにはいまだに慣れない。
花織の勤める株式会社季和文具は三月が決算期ということもあり、営業部では今月頭からぴりぴりとした雰囲気が続いていた。普段はどちらかと言えば和気藹々としている部署だけに、最後の追い込みとばかりに日々数字に追われる毎日は、精神的にもかなりくるものがある。
しかし、それもあと数日で終わりだと思えば自然と気持ちも上向きになるというものだ。
季和文具は文具の製造、仕入れ、販売を行う国内でも有数の大手文具メーカーだ。
創業八十年を超える老舗企業で、海外にも複数の拠点を有している。
花織は八年前に新卒として入社してから、ずっと東京支社の営業部に所属していた。今は主に都内の文具店をターゲットに営業活動をしている。
元来人と話すのが好きな性格に加え、大学時代は接客メインのアルバイトに従事していたこともあって、営業職は花織の肌に合っていたようだ。おかげで、部内でも上位の成績を収めることができている。
ちなみに九月から三月までの下半期の営業成績は夏季賞与に反映される。
この調子なら次のボーナスは期待できるかもしれない。
(その時は遥希に何かしてあげたいな)
賞与の使い道で真っ先に思い浮かぶのは、愛しの甥っ子・遥希だ。
三年前、姉の死をきっかけに花織は甥を引き取ることに決めた。
今現在、花織は家庭裁判所の許可を得て遥希の未成年後見人――親権者の死亡等により親権を持つ者がいない場合、親権者に代わって未成年者の財産管理や身上監護をする法定代理人を指す――となっている。
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