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2巻
2-1
しおりを挟む第一章
中央大陸において遠大な国土を誇るツェルバキア。建国四百年を誇る歴史ある帝国で、前代未聞の皇太子指名選が始まってから五ヶ月が経とうとしていた。
『これから三年の後、もっとも財を築き、国と皇宮を豊かにした者を皇太子として指名する』
皇帝の号令に応じたのは、十人の皇子と一人の皇女。それぞれ豊かにする方策を練り動き出していたが、先日事件が起こった。第四皇子が悪事を働き、指名選を失格となったのだ。
それを暴いたのは、皇帝に見捨てられたと陰口される第五皇女――すなわち、たった一人の皇女の立候補者だった。
「一体どんな手を使ったのでしょうね。母君も後ろ盾の諸侯もいないような皇女が」
「財産だって持たないはず。母君の祖国のフォレストリアは特に豊かな領地ではないし」
「今までろくに人付き合いだってしていないのだから、誰かを頼ったとも思えませんしね」
第四皇子失脚以降、宮廷の話題はこの件でもちきりだった。長らく戦や天候不良などに悩まされることのない太平の世において、格好の暇つぶしというわけである。
「ただの偶然か、幸運か。まあ、それならば次はないでしょうけれど」
「これまでこの国で女帝が即位したことはないのですから。どこまでやれるか見物ですね」
意地の悪い笑みと囁きが行き交い、好き勝手に噂しあう。
見捨てられたはずの第五皇女は、彼らのあらたな娯楽となってしまったのだった。
皇帝とその妃、子女が住まう皇宮。絢爛豪華で広大な城の北西に、そのうらぶれた館はあった。
薄墨をかけたような外壁。古ぼけた屋根や雨戸。苔の生した石畳。紙で塞がれた割れた窓。とても皇族の私宮とは思えないが、まさしく宮廷でその一挙手一投足を注目されることとなった第五皇女ユーゼリカの住まいである。その名を森緑の宮といった。
第四皇子であるベルレナードが皇太子指名選を失格となった日から数日後。
彼女は、とある決意を胸に従者たちを集めていた。
月光を集めたような儚くまぶしい銀色の髪を背へ流し、ほっそりした体躯を濃紺のドレスに包んでいる。侍女よりも控えめに見える服装は、彼女の倹約精神によるものだ。
宮廷で『氷柱の皇女』と渾名されているにふさわしい、冷ややかにも見える冷静さを翠の瞳にともし、彼女は従者たちを見渡して告げた。
「商売を始めるわ」
その重々しくも唐突な宣言に、従者らは一様に固まった。
「……えっ? 姫様。商売……ですか? つまり、何か商いをなさると?」
確認ですけど、と言いたげに最初に口を開いたのは、護衛騎士のキースである。金茶の髪をゆるくなでつけ、いかにも女性にもてそうな甘い顔立ちをした彼はその陽気さで従者たちの中でも調整役を務めるが、さすがに今は面食らった顔をしていた。
「店を開いて客を呼び、利益をあげる。その意味の商売のことだけれど」
「ちょ、お待ちくださいっ。すでに下宿館をやっておられるのに、今度は何を企んでおいでなのです?」
たじろいだ様子で口を挟んだのは同じく護衛騎士のロランだ。黒髪に青い瞳、眼鏡が特徴の彼は従者の中でもユーゼリカと歳が近いせいか、幼なじみのような間柄でもある。突拍子もない発言にいつも振り回されているが、今回もわけがわからないと言いたげだ。
彼らの横で最年長のラウルは無言のまま主の話を聞いている。短い黒髪の寡黙な彼はユーゼリカの母の代から仕える忠実な騎士である。ユーゼリカの奇行に近い行動にもまったく動揺しないのは彼くらいだろう。
三者三様に説明を待っている彼らを見回し、ユーゼリカは静かに口を開いた。
「ベルレナード殿下の一件以来、前にも増して注目を浴びているのは皆も感じているわね」
さっと騎士たちの表情が引き締まる。
彼らの主は、女ながらに皇太子指名選に立候補し、帝国始まって以来の女帝となるのを目指している。それだけでも悪目立ちし、口さがない噂の的となっていたのに、ベルレナード皇子の不正を暴き、皇帝の御前で糾弾したことにより、彼を指名選から追い落としたとして宮廷でさらなる話題にのぼることとなった。もちろん良い意味でばかりではない。
「この先、私に対する監視はますます厳しくなるはずよ。これまでも城外へ出る時は細心の注意を払っていたけれど、それだけではごまかすのは難しくなるでしょう。私が本当は一体何をやって指名選に勝つつもりなのか、こぞって探ろうとしてくるでしょうから」
キースとロランが微妙な顔つきになって目を見交わす。
「まあ、ベルレナード殿下の周辺からは恨みを買ったでしょうし、その他の殿下方からは最要注意人物として見なされたでしょうね」
「以前とは比べられないくらい接触を求める書簡が届いていますし、宮殿のどこにいても注目されてる感じですし」
「そこで先ほどの話に戻るわ」
すかさずユーゼリカはテーブルに紙の束を広げた。昨夜寝ずに練った策をまとめたものだ。
「本当の方策のことは知られるわけにいかない。だから目くらましを仕掛ける。堂々と店を開き、そちらで儲けるつもりだと思わせるの。私が何をやろうとしているのかを知りたくてたまらないのでしょうから、店を始めたとわかれば少しは彼らも安心するでしょう」
「なるほど。商売といってもあくまでも表向きということですね」
やっと理解したというふうにキースがぽんと手をたたく。
皇帝が皇太子指名選の候補者たちに出したのは、『三年後、もっとも国と皇宮を豊かにできた者』を跡継ぎにするという衝撃の条件だった。
豊かにするというのが正しくはどういう意味なのか、それはわからない。ユーゼリカは考えた末、国に貢献できる才能、つまり人材を育てることを思いついた。
厳正なる選考の末に集めた人々は、今、自身が所有する館で下宿生活を送っている。ユーゼリカも二週間おきにそちらに赴き、彼らとともに過ごしていた。
ベルレナードの一件に関連し、店子の一人である皇宮医官のリックが提言した薬を作る機関が立ち上がり、動き出している。いずれは医療の発展に繋がり、国に利益をもたらすはずだ。
リック自身も医局で出世を果たし、医官としての道を着実に進んでいる。喜ばしいことだし、このまま援助を続けるつもりだ。ここでよそから邪魔が入るのは絶対に避けたかった。
「監視が激化すれば、今までのようにあちらに向かうのも難しくなるかもしれない。だからこれからは、城にいる間はほどよくお付き合いに顔を出し、いない間は身代わりにそれとなく存在感を出してもらうわ。私が城にいないことを決して悟られないように」
「例の影武者ですね」
「ええ。館周辺をこれ見よがしに散歩したり庭で花を摘んでみたり、それくらいなら遠目に窺われてもばれはしないでしょう。新しい彼女も背格好は私とよく似ているし」
これまでも館の侍女に影武者を務めてもらっていたが、キースがより似ている者を探したという新たに連れてきたのだ。おとなしそうな顔立ちをした無口な娘で、キースが自信ありげにしていたわりには自分とはさほど似ていなかった。
「フォレストリアの暗器騎士の家の者ですから、腕は立ちます。姫様が城においでの間は護衛にもつかせます」
「暗器騎士。なんだか強そうね」
「武器の扱いに長けている騎士、という意味ですが、実際強いそうですよ」
「それは頼もしいわ。万が一、命を狙われた時にも自分で対処できるということね」
皇太子指名選の立候補者にはいくつか条件が出されている。『民を虐げてはならぬこと』『皇族の品位を落とさぬこと』といったものの他に、立候補者同士の私闘が禁じられていた。傷つけるのはもちろんのこと、故意に命を奪うような事態になれば加害者は即刻失格、皇籍剥奪となるのだ。
それでも何か仕掛けてくる者がいないとは限らないし、用心に越したことはない。自分には随時護衛がついているが、影武者自身が腕が立つなら、彼女が襲われた場合も幾分安心できる。
つい先日に対面した影武者候補の侍女を思い出しながら、ユーゼリカはテーブルの書類に視線を戻した。
「商売ということで考えたのは飲食店だけれど、あくまでも私が経営しているとは公表しない。ただしいくつか種は蒔いておくわ。フォレストリアから出てきて皇都に住んでいる者を雇い、店で出す食事もフォレストリア風のものを中心に出しましょう。内装は、若い娘が好みそうな可愛らしい感じで」
「公表せずとも匂わせる、と」
「私のことを探っている方々ならそれだけで察しがつくでしょう。そこで安心して、監視をやめてくれれば喜ばしいのだけれどね」
あれだけ探られているのだから自分は彼らに警戒されている。だからあえて手の内を見せてやる。もちろん偽の手の内だ。そこで『なんだそんな策か』と侮り、興味をなくしてくれれば万々歳なのだが。
「基本的に私は店に行くことはしないけれど、あなたたちのいずれかは時折見に行ってくれるかしら。ほどよく隠密行動を心がけながらお願いするわ」
「こそこそしながらってわけですね。堂々とやるより信憑性が出ると」
「しかし姫様、そんな急ごしらえの店を開いて、儲けが出るでしょうか」
納得した様子のキースの隣で、ロランが心配そうに眉尻を下げている。これまで下宿館の経営で支払金がかさんでいるだけに気になるようだ。
「儲けるのが目的ではなく目くらましなのだから、少し話題に上ればそれでいいわ。もちろん、店が軌道に乗れば言うことはないけれど。それとシグルスにはこのことを知らせる必要はないわ。お金のことで心配させたくないから」
一つ下の弟であるシグルスは現在、国立大学院、通称アカデメイアの関連施設で生活している。皇宮と館を行き来するユーゼリカに護衛を割いているため、彼の安全が皇宮内で確保できない恐れがあるという懸念からだ。
彼は皇子たちの中で唯一皇太子指名選に手を上げなかった。母を亡くし父の寵愛をなくし、皇宮の人々に蔑まれて育ってきたせいか、宮廷や権力といったものを憎んでいる節がある。立候補したユーゼリカに今もねちねちと反対し続けているのは彼だけだ。
それが心配の裏返しであるのはわかっているし、できれば傍で慈しんでやりたいとも思う。だがユーゼリカが女帝の座を目指すのは、たった二人きりの家族となった彼を守るためでもあるのだ。誰も頼る者がいないと嘆くのではなく、自分が弟を守れる存在になればいい。そう思ったから。
「まずは何から取りかかりましょう?」
それまで黙って聞いていたラウルが口を開いた。動くのなら早いに越したことはない。構想を即時理解してくれて頼もしい限りだと、ユーゼリカもすぐに指示を飛ばす。
「店舗をいくつか探してきてほしいの。立地などを考慮した上で選ぶわ。あとは皇都にいるフォレストリアの民の中から料理人の経験のある人を探して雇って。人選は任せるわ。その中の一人の名前で店を契約し、役所にも届け出を。何か問題が起きた時にはこちらが責を負うからと」
「御意」
畏まったラウルの横で、キースが興味深そうに顎をなでている。
「料理人というと、軽食屋のような店をお考えなので?」
「メニューはいくつか考えているわ。この後、助言をもらうつもりよ」
「助言って、誰にです?」
ロランが怪訝そうに言った時、部屋の扉がノックされ、侍女のリラが入ってきた。今日もいつものようににこにこと楽しそうな笑みを浮かべている。
「失礼いたします。――ああっ、なんて素敵なのでしょう。今朝も奥ゆかしい夜色のドレスがお似合いですわ。姫様の内面から湧き出る美しさが一層引き立つようですわ。今すぐに絵師を呼んでわたくしのために絵画に収めていただきたいほどの端麗さですわ」
皇女の熱烈な信奉者である彼女はこちらを見るなり頬を上気させて麗句を連発してきたが、はたと思い出したのか背後を示した。
「レネットの支度ができましたので連れてまいりました。姫様がご出発の後、早速近くを散歩してもらいますわ」
新しくやってきた例の影武者の名前だ。まさに今日これから自分の身代わりとして動いてもらうことになっているのである。
ユーゼリカはリラの後ろから現れた娘をまじまじと見つめ、二拍ほど置いてから目を見開いた。
姿勢正しく、しずしずと入ってきた銀髪の女性。自分と同じような地味な色のドレスをまとい、まっすぐこちらを見ている。その仕草や目線のやり方までが以前に会った彼女とは別人のようで、それにも驚いたのだが――。
「……この前と顔が違うわ」
思わずつぶやいたユーゼリカに、キースが満足げに微笑む。
「そっくりでしょ? 姫様と」
目の前にいるレネットはユーゼリカと同じ髪型に服装をして、顔つきまでも似せている。まさに影武者といっていいだろう。
しかし最初に挨拶に来た彼女はこんな顔立ちではなかった。キースは容姿が似た者を探したようだが、ユーゼリカとしてはそこまで望んでいなかったし、背格好が同じならそれでいいと思っていたから、まったく似ても似つかぬ彼女と対面した時もなんとも思わなかったのだ。
「これがレネットの武器といいますか。彼女の家に伝わる化粧術だそうですよ」
「化粧術? 化粧でこれだけ顔つきを変えられるというの?」
「秘伝の術だそうで詳しいことは教えてくれませんが、そうみたいですよ」
「秘伝……」
そう言われては納得するしかない。
ユーゼリカはあらためて目の前のレネットを見つめた。
彼女も淡々とこちらを見つめ返してくる。おそらく皇女になりきっているのだろう。そうしているとだんだん鏡をのぞいているような気分になってきた。
「素晴らしい。あなたで一儲けしたいくらいだわ」
「ちょ、なんでも儲け話に結びつけないでくださいっ」
目をむいてたしなめるロランをよそに、レネットが「恐れ入ります」と一礼する。些細なことでは動じないところも皇女に似せているようだ。
「姫様、そろそろお時間です」
ラウルが生真面目な顔で言い、ユーゼリカはうなずいた。
今日はこれから二週間ぶりに下宿館へ向かうことになっている。こちらの経営が皇太子指名選の方策の本命だ。
「ではよろしく頼むわ。レネット」
ユーゼリカの声かけに、レネットがかしこまって膝を折る。皇女にふさわしい優雅な仕草で。
「御意にございます。姫様」
その声までもが自分にそっくりで、思わず息を呑む。
ユーゼリカは瞬き、それからふと微笑んだ。
これだけ完璧な影武者がいれば安心して留守にできる。遠目どころか隣室くらいならごまかせることだろう。
***
皇都の街中にある小高い丘の中腹に、下宿館は建っている。
あたりは果樹園が広がり、職人の工房が点在するのどかな場所だ。道を上り進めれば貴族の別荘地があるが、奥まったこの場所は高貴な人々には知られていない。
煉瓦造りの二階建ての館は尖った柵を持つ高い塀に囲まれ、黄緑色の明るい葉を茂らせた大樹が八方に枝を伸ばして頭上を屋根のように覆っている。店子の皆が開墾した庭は野菜や薬草が生い茂り、緑豊かな風景が広がっていた。
亡き母が父帝から賜ったというこの館を下宿館として蘇らせてから、かれこれ五ヶ月近くになる。最初こそ幽霊屋敷かと思うほど荒れていたが、手入れをし、掃除が行き届いた今は暮らしやすい家になったという自負があった。
「――あ、お帰りなさーい」
馬車を降りたところで庭のほうから明るい声が聞こえた。
振り向くと、腕まくりをした若い男と白衣を着た眼鏡の男が手を振っている。白衣の男の傍には一抱えもあるような樽に管のついた機械が鎮座していた。
「ごきげんよう、リックさん、エリオットさん。良い庭作業日和ね」
ユーゼリカが返事をすると、二人はこちらへやってきた。
「ええ、本当に。草取りしていたら、エリオットさんが水まきを手伝ってくれて。助かりました」
まくっていた袖を直しながら笑ったのは、皇宮医官のリック・カルマンだ。先日は彼の活躍で皇都で起きた中毒事件を解決し、彼も医局で出世を果たした。薬の研究をしたいそうで、この館でも庭を開墾して薬草園を作り、世話している。緑がかった茶髪が理知的な印象の好青年だ。
「いえいえー、これも試作の一環ですから。水まき機を改良したので試したかったんですよ~」
のんびりと言った白衣の男はエリオット・アンバー。自称発明家で様々な機器を発明しており、こうして館内でも試している。もっともこちらはまだその発明品で稼ぐという域には達していないが、本人はくすぶった様子もなく毎日呑気そうに暮らしている。灰色のふわふわした髪をした、不思議な雰囲気の男である。
二週間ぶりに会ったが二人とも元気そうだ。店子の健康を管理するのも大家の仕事のうちだと思っているので、ほっとした。
「今日は皆さん、こちらで過ごしているのかしら?」
「イーサンとアンリさんは出かけてます。あ、フィルさんはさっき帰ってきました。リリカさんを待ってましたよ」
リリカというのは、この館でのユーゼリカの名だ。当然ながら皇女の身分は隠さねばならないので、ここでは富豪の娘ということにしている。一部の店子の間では『金にものを言わせるドラ娘』といった評があるようだが、そちらは不本意ながら流すことにしていた。
「ありがとう。お邪魔したわね。では、お気張りになって」
「はいはーい」
ユーゼリカの労いに、二人はにこにこと手を振って応じた。
二人と別れて館の中へ入ると、廊下を進み奥へ向かう。
この館は二つの建物が渡り廊下で繋がれている。店子たちの部屋がある本館と、ユーゼリカが生活する別館だ。万が一にも皇女ということがばれないように、店子たちにはそちらには入らぬよう伝えている。
今日もまず自室のある別館へ行こうとしたのだが、食堂の前を通りかかった時、中にいる人影に気づいた。まさに会いたいと思っていた人物だったため、ユーゼリカは迷わず食堂へと入った。
「ごきげんよう、シェリルさん。少しよろしいかしら?」
厨房へ入ろうとしていた女性が、驚いたように振り返る。栗色の髪をまとめ、地味な身なりをしているが、その容貌は水もしたたるほどの美しさだった。
「まあ、リリカさん。お帰りでしたのね」
笑みを見せた彼女にうなずき、ユーゼリカは歩み寄った。
「ルカさんは、学校へ?」
「ええ。もうすぐ帰ると思いますけれど。その前に夕食の支度をしておこうと思って」
若き未亡人であるシェリル・ウンベルトは五歳になる息子のルカと二人でこの下宿館に暮らしている。彼女は商会に所属して様々な内職をし、ルカは幼年学校に通っていた。
ユーゼリカがこの下宿館を経営するのは、将来的に国に利益をもたらす才能を持つ者を支援するというのが一番の目的だが、彼女たちに関しては身寄りのない母子を保護するという側面も大きい。もちろん、彼女たちのどちらかがこれから素晴らしい才能を開花させる可能性もあるわけだから、まったく期待していないわけではない。
「わたしに何かご用ですか?」
小首をかしげたシェリルに、ユーゼリカはずいっと迫った。
「あなたは以前、菓子職人をなさっていたのでしょう? どういった類いの菓子をお作りだったのかしら?」
「え……?」
「とても興味があるの。できれば素人にもわかる範囲で詳しく教えてくださる?」
いきなりの要求に、シェリルは濡れたような瞳をぱちくりさせたが、頬に手を当てて考え込んだ。
「そうですね、いろいろやりましたわ。クリームや果物を使った甘いものや、日持ちのする木の実や洋酒の入った焼き菓子とか……、軽食用のポテトパイやハムとチーズのパンだとか」
身近に菓子職人がいたことを思い出し参考までにと訊いてみたのだが、手広くいろんなものを作っていたようだ。思いがけず頼もしい発言である。
ぎらり、とユーゼリカの目が光った。
「シェリルさん。これは他言無用でお願いしたいのだけれど」
「は、はい」
「しばらく臨時で私に雇われてくださらない? 時間給はこちらで。場合により監修料も払うわ」
「…………はい?」
謎の誘い文句にシェリルはたじろいだ顔で瞬いている。
困惑する彼女に時給の書かれた契約書をぴしりと差し出しつつ、ユーゼリカの脳内は飲食店開業に向けて忙しく動き始めていた。
それから短い時間ではあったが、二人で菓子や軽食のレシピについて話し合った。
誰にも内緒で出店を考えているのだという告白をシェリルは重大な秘密を聞いたような顔で受け止め、自分にできることがあればと様々な助言をくれた。彼女の出身地である北方の街の味だという甘いお菓子は、聞いただけでおいしそうだったのでメニューに加えることにした。
「近頃はあまり作ってませんでしたけれど、ふふ、なんだか楽しいですわね」
レシピを教えてくれたシェリルは嬉しそうにしていた。美しいがどこか影があり、自信がない様子で人目を気にしている――そんな彼女を見てきただけに、ひとときでもそう思えたならよかったと、こちらも穏やかな気持ちになる。
息子を迎えに行くからという彼女と別れると、ユーゼリカは二階へ向かった。
もう一人、会いたい人がいるのだ。しかもそちらには事前に話を通している。来るのを待っていることだろう。
「助言をもらうって、彼女のことだったのですね」
後ろをついてきながらロランが意外そうに言う。
ユーゼリカは「ええ」とうなずき、ふとため息をついた。
(そういえば、またあのことを聞けなかった)
才能を重視して選んできた店子たちの中で、彼女たちを採用したのには他にも理由がある。選考書類に書かれていた彼女の出身地だ。
それはかつて、六年前の北伐で親征した皇帝が敗走し、潜伏していたとされる場所だった。
同じ頃、ユーゼリカは妹と母を相次いで亡くした。父帝に早く帰ってきてほしいとあんなに願ったのに叶わなかった――今でも苦さがこみ上げる辛い日々だった。
妹と母が病で苦しんでいた時。彼女たちがこの世を去った時。残された十二歳の自分と一つ下の弟が父の帰還を待ち望んでいた時。父帝は北の街でどう過ごしていたのだろう。当の父帝にそれを聞けないまま疎遠になったけれど、当時その街にいたシェリルなら、もしかしたら噂くらいは聞いたことがあるかもしれない――いつかそれを確かめてみたいというごくごく私的な感情が、彼女たち母子を店子に選んだもう一つの理由だった。もちろん、弟にも従者たちにも言ったことはないので、その機会もつかめずにいる。
「姫様、お疲れですか? やはり休まれては?」
ため息を聞かれたのか、ロランが心配そうに言う。城からここまで尾行を避けるため回り道をしてやっとたどり着き、一息もつかずシェリルと話していたのだ。彼が気をもむのも無理はない。
「大丈夫よ。お待たせしているのだから先にお会いするわ」
ユーゼリカが答えた時、廊下に並んだ扉の一つが開いた。
目指していたその部屋から出てきたのは、二十代前半ほどの青年だった。こちらを見て、にこりと人懐こそうな笑みを見せる。
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