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1巻
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婚約破棄
「君との婚約を、取り消すことになった」
イリスの婚約者である王太子が、静かな声で告げた。
イリスは彼に呼ばれ、王宮に出向き、華やかな応接室でソファに向かい合って座っていた。
用件は、すでに彼女が自身の父親であるウィンドミア公爵から聞いていた内容である。
この国の大神官が聖女の召喚に成功し、王太子は聖女と婚約することになった。そのためにイリスとの婚約を一方的に破棄したというものだ。
彼女の紫がかった青い瞳は悲しみも怒りも見せず静かなまま。控えめに伏せられた金のまつ毛が、婚約者と目を合わせるためにぱちりと上がる。上品に口紅で彩られた唇が、柔らかく弧を描く。
「承知いたしました。聖女様を迎えられた今、当然のことと心得ておりますわ。至らぬ身でありながら、これまで殿下にお仕えできて光栄でした」
お幸せに、と言いそうになり、さすがに皮肉っぽいかと思って口を閉じる。
王太子は陰鬱な表情のまま、黙って頷いた。彼は多分謝罪しようとしたのだが、立場上それができないのだろう。
「……わたくしはヴェルディアに赴く予定です。ノア・ヴァンデンブルク卿との婚約の話が出ておりますの」
王太子がはっと顔を上げた。ヴェルディアは王都から最も離れた辺境の領地である。
「実は楽しみなこともあります。イルサリアという植物で染めた糸がふんだんに使えるようになりますし、美しい場所だと聞いております」
イリスは明るく無邪気な顔を装って告げた。ヴェルディアの特産の糸は王都で手に入れるには高価だが、生産地ではもう少し入手しやすくなるはずだ。
彼女はこの婚約解消が悪いことばかりではないと伝えようとしたのだが、王太子には自分が刺繍に馴染みがあることを話したことがなかったかもしれない、と後から気づいた。それに、二人の間になんの感情もなかったにしても、婚約の解消を喜ぶことを言ったのは失礼かもしれない、とも。
王太子の顔はわずかに和らいでいた。イリスは自分の言葉が上手く彼の罪悪感を緩和できたことに安心する。
「彼は……気さくで人のいい青年だったと記憶している」
イリスの指がぴくりと動く。何人かノアについて同じことを言うのを聞いたことがあった。
しかし、ほとんど王都に顔を見せない彼の人柄について言及する人は多くない。それより噂になっていることといえば、彼が従妹のアンナに懸想していることだ。社交界では有名な話だった。
(どうでもいいことだわ。夫のひととなりも、誰を想ってるかも、それで何か変わるわけじゃないもの)
イリスの生家は歴史ある公爵家なのにここのところ王家と縁遠い。父の悲願である王妃になれないなら、イリスがこの世に生まれた価値はない。王宮から遠い領地に行けば、そのことを思い出す機会も減りそうだったので、彼女は話したこともないノアの妻になることを拒否しなかった。そもそも拒否する権利はないのだが、心の中でも拒否しなかった。
イリスの手にある選択肢は、今までもこれからも「求められた役割を果たす」こと。結婚して何か変わるとすれば、彼女に道を示す人が父親から夫になることくらい。それが王太子だろうと、辺境の地の公爵家の跡取りだろうと同じ。
最後に、イリスは王太子に向かって教育されたとおりの美しい微笑みを見せ、別れの挨拶を口にした。
顔合わせ
挙式を済ませたイリスは、メイドに案内されて夫婦の寝室にやってきた。公爵家本邸からほど近い、二人のために用意された別邸の一室である。
部屋は広く、天井近くまで伸びる大きな窓からは月明かりが差し込んでいる。四柱式ベッドの脇にサイドテーブルがあり、その上のオイルランプの光が、部屋を淡く照らしていた。
夫のノアはイリスよりも緊張した面持ちをしている。今から負担を引き受けるのはどちらかといえばイリスのほうなのに。
イリスはその不公平さに不満は抱かず、好いた女がいるのに今から自分を抱かなければならない彼にほんの少し哀れみを感じた。
夫は多分、自分と違って、気持ちや心の繋がりといった形のないものを大切にする人だ。
ノアはイリスに手を差し伸べ、緊張を隠すように微笑んだ。
彼の手は、イリスをベッドではなくその横の椅子に誘導する。
「少し話をしない?」
「お話……ですか。ええ、喜んで」
イリスは「貴方と話すことなどありません」などと、冷たい態度をとる気はない。
(きっとアンナ嬢のことね。「君を愛するつもりはない」とでも言うつもりかしら)
これから人生をともにする妻に対し政略結婚を理由にそう宣言するのは、幼くて、愚かで、甘えだと思う。
そして、ある意味誠実だ。
イリスにはノアの妻としての役目を果たす意思がある。彼に微笑み愛の言葉を紡ぐつもりはあるが、そこに気持ちを伴わせる必要はないと考えている。だが、それをわざわざ宣言する予定もなかった。
「ありがとう。今までイリス嬢を見かけてはいたけれど話をしたことはなかったから、少し話してみたくて。あ、もうイリス嬢ではないのか」
彼は照れたように笑った。淡い橙色の明かりに照らされて、明るいブラウンの瞳がオレンジ色に見える。
立場のある身分なのに、ノアは感情を隠すのがあまり上手くない。挙式では緊張を隠せていなかったし、仲の良い知人と話すと表情が緩む。
結ばれることのない女性を見つめる瞳に熱があると周囲に知られてしまうような、そういう男だ。
「イリスとお呼びくださいませ、旦那様」
「うん、分かった。イリスも私のことはノアでいいよ。ほら、旦那様だと使用人が父と勘違いしそうで紛らわしいだろ。家族になったんだから、口調も楽にしてよ」
ノアは明るく笑った。
「しかし、それは……」
将来の公爵夫人として相応しくない。そう思うが、夫に口答えするのは妻としてよくない。
迷ったイリスはノアに尋ねる。
「それは、ご命令ですか?」
「え? 私の名を呼ぶのはそんなに嫌?」
「いえ、その、妻は一般的には夫のことを名前で呼ばないでしょう」
「そう? 私の両親はお互いを名前で呼ぶよ」
家族という存在が、ノアと自分では大きく意味が異なるらしい。
「かしこまりました。では、ノア様とお呼びいたします」
「それが一番楽? 私は敬称も、丁寧な言葉遣いもいらないけど」
「……では、ノアと。これでいい?」
多分夫が求めている答えはこれだと察して、イリスはノアを呼び捨てにし、丁寧な言葉を使うのも控えた。きちんと正解を引き当てたようで、ノアが嬉しそうに笑う。
そのまま雑談をしていると、いつの間にか夜が更けていた。壁掛け時計が深夜を告げ、ノアがはっと顔を上げた。
「しまった。もうこんな時間だ」
「楽しくて時間を忘れてしまったわ。明日に差し支えてしまいそうね」
半分社交辞令で半分本音。イリスの言葉に、ノアは目を見開く。
「そんなことを言ってくれるんだ? 嬉しいな。私も時間を気にするのを忘れてしまったよ。イリスってすごく聞き上手だよね」
(それはそういう教育を受けているんだから当たり前じゃない)
そんなことを言うのは失礼になると分かっているので、イリスは軽く微笑むに留める。
ノアはそんな彼女の心中には気づかず、リラックスした雰囲気で機嫌よさそうに笑った。
「でも明日のことは気にしなくて大丈夫だよ。一日なんの予定も入れていないんだ。初夜の翌日に仕事のために朝早く起きなければいけないなんて、味気ないだろ?」
その手がイリスの手に重なる。イリスは驚きで目を見開いた。
ノアが会話を長引かせたのは何もせずに眠るためだと思っていた。白い結婚を望んでいるのだと。
彼女の一瞬の戸惑いを、ノアは見逃さなかった。さっと彼の顔が曇り、重ねた手を自分のもとへ戻す。
「やはり私を夫にするのは嫌かな」
「え!? いえ、そんなことは……!」
「本来なら君は王太子妃になるはずだった。こんな辺境の領地でまともに会話したことのない男の妻になるような女性ではないよね」
イリスは返答に困った。正直なところ、今日ノアと会話した量は、いつもの王太子との会話の一年分より多いくらいだ。
ノアの不安に対し綺麗な言葉を返すこともできるけれど、きっと彼はそれを喜ばない。そう感じて、イリスは正直に答える。
「私は貴方との結婚が決まって嫌だと思ったことは一度もないわ。貴方こそ、その、アンナ様のことはいいの?」
アンナの名前を出すべきか迷ったが、この話に決着をつけるには自分が戸惑いを顔に出してしまった理由を正直に話すしかない。
ノアが目を見開き、それから頬をわずかに赤くし、困ったように眉を下げる。
「君にまでそんなことを言われるなんて! 噂を聞いて不快に思っただろう。君にそのことで何か失礼なことを言った人がいないことを祈るよ。私はアンナを妹のように思っていて、そんなつもりはない……と言っても、信じられないだろうね」
イリスは即答できなかった。
噂によると、ノアはアンナに恋をしている。現に、イリスは夜会で隣にいた友人に声をかけられ一瞬だけノアとアンナに視線を投げたことがある。その時の彼らはよく夜会で見かける男女ペアらしく親しげで、お互いを想い合っているように見えた。
もっとも、恋愛に重きを置かないイリスにとって、社交界で噂になるほど視線で気持ちを伝え合う人たちは尊敬の対象ではなかった。
――私とは関係のない世界。
そう思って、じっくり観察したことがない。
「私には貴方たち二人のことは分からないわ。それに事実はあまり大切ではないの。貴方が誰を愛していても、もう結婚は成立していて、後戻りはできないもの」
ノアは少しだけ傷ついたような顔をした。
「そうだね。君の言うとおりだ。ただ、私のアンナに対する気持ちは今言ったとおりで、それが事実だ。私はこれから夫として君を愛していくつもりでいるよ。君と話して、ますますそう思った」
「ありがとう。私も妻として貴方を愛するわ」
イリスは美しく微笑んだ。
ノアが夫の役割として愛すると言及してくれたことに安心する。イリスも役割を果たすのは得意で、今のノアの言葉になら同じように迷わず答えられた。
ノアがじっとイリスの顔を見て、手を差し出す。イリスは今度こそ戸惑いを見せるような失敗をせず、すぐに自分の手を重ねた。
ノアに手を引かれ、椅子から立ち上がる。思いの外、力強く引かれたことに驚きつつも、軽く目を見開くに留めて声はあげない。そして、手を繋いだまま二人でベッドの上に向かい合って座る。
ノアがイリスの指先に軽く口付けした。
指先にキスをする時、軽いリップ音がした。挨拶のキスで音を立てるのは喜ばしい作法ではないが、ここにはイリス以外礼儀作法を気にする人もいない。
そして彼はイリスをじっと見つめた。その視線の強さに怯みそうになる。強く睨み返すのも目を逸らすのもどちらもおかしい気がして、戸惑いが顔に出てしまう。
ノアは視線を合わせたまま、指先、手の甲、手のひら、手首の内側、とキスを繰り返しながら、彼女をベッドにゆっくり横たえた。とすんと軽く音を立てて、イリスは仰向けになる。
その髪を一房すくって、ノアが口付けした。そしてゆっくり髪をベッドに落として、優しく彼女の頬を撫でる。頬に口付けて、額にも口付けした。
イリスが教育係に聞いていた話と、ノアの行動は異なる。
閨では夫は妻の身体のうち、性的な快感を得る部分に触れると聞いていた。それによって夫を受け入れる準備をさせ、身体を繋げて妻の中で子種を出すのだと。
ノアの行動には無駄が多すぎる。
(今になって怖気づいたってわけ? 引き延ばすのもいい加減にしなさいよ)
ただでさえ雑談したせいで時間が遅いのに、これ以上無駄なことをしていたら眠る時間がなくなる。
「ノア」
「何?」
「その……貴方の行っていることは、私が教育係から聞いた作法と少しだけ異なるわ。もしかしたら私はこの地域の作法を理解していないかもしれないの。教えてくれない?」
できるだけノアの顔を立てて質問してみる。
「教育係にはなんと言われたの?」
「夫に任せるようにと」
「では間違っていないんじゃないかな。任せてくれて構わないよ」
「でもこれでは、その、夜が明けてしまわない?」
いつまで経っても終わらないなどとは言えず、イリスは言葉を選んだが、結局同じようなことを言ってしまった。ノアがおかしそうに笑う。
「私たちが夜が明けるまで愛し合ったって、誰にも咎められないよ。言っただろ? 明日は何も予定を入れてない。君は教育係以外からは、閨の話を聞いていないの?」
「他の誰に聞くというの? 閨は夫婦の閉ざされた時間でしょう。私の友人はそんな話を外でするような方ではないわ」
イリスはむっと顔を顰めた。
「ごめん。そんなつもりで聞いたわけではないんだ。イリス嬢と言えば、博識で聡明で完璧な……そういう女性だと思っていた」
ノアの言葉はイリスが実際はそうではないということを示している。
今まで彼女はどんな場所で何をしても周りから博識で聡明で完璧だと言われてきた。今日だって夫の意図を汲んで正しく振る舞ってきたはずだ。欠陥があるように評価されるのは心外だった。
「どういう意味?」
「手を出すのを躊躇ってしまうほど、何も知らないとは思わなかった」
「そんなことは……んっ」
イリスの抗議の声は口の中に消える。
唇が軽く触れ、そのまま押しつけられる。思ったよりも柔らかく乾いたそれが何度か角度を変えてイリスの唇に触れた。そのうちノアは唇を甘く噛む。驚いて口を開いたところに湿ったものが入り込んで、彼女の舌を搦め捕った。
「んんっ!?」
ぴちゃ、と水音が響く。
わざといやらしい音を立てるようにノアの舌は動いていた。時折、唇の間から彼の熱い息が漏れる。
「ふっ……ぅん……!」
夫に任せるようにと言われていたのに、イリスはつい抵抗してしまった。
その抵抗を咎めるように、ノアが彼女に体重を掛ける。握っていないほうの手で夜着の上からイリスの足を撫で回した。
不快とは違う、しかしやめてほしいと思う。ぞわぞわと湧き上がってくる未知の感覚に、イリスの肌に鳥肌が立つ。その間もノアは口付けをやめてくれない。ようやく解放された時には、彼女の息はすっかり上がっていた。
イリスは潤んだ瞳でノアを見つめる。彼は慈しむように微笑み、イリスの頬を撫でる。そしてもう一度イリスに覆い被さり、今度は首元に顔を沈めて熱い息を吐いた。首筋を下から上に耳元まで舌が這う。
「ん……っ、いや……!」
「すまない、少し、我慢してほしい」
ぬるっとした感触に驚いて、反射的に拒絶の言葉が口から出た。
親切そうに見えた夫は、イリスがせっかく主張したのを無視した。ノアの舌が首を舐めるたびに、彼女の喉の奥から意図しない声が漏れそうになり、唇を噛む。
「イリス、唇を噛んではダメだよ。声を出して」
「でも……」
「閨では夫に任せるのが作法なんだろう? 私が言っているのに聞いてくれないの?」
「分かっ、……あっ!」
イリスは渋々頷いた。その途端にノアの手が胸に触れる。布越しに、やわやわ乳房を揉んで形を変えさせた。そんな場所、着替えを手伝ってくれる侍女でさえ触れたことがない。
「あっ……はぁ、ん」
ノアが声を抑えるなと言ったからその通りにしようとしたのだが、自分の声の甘さにゾッとした。
自分が自分ではなくなったようで怖くなる。背中のあたりから這い上がってくる、ぞくぞくとした感覚。嫌なのにやめてほしいと思えないこれが、性的な快感なのだと気づき、頬が自然に熱くなる。
「イリス、脱がしていいかな」
「えっ」
イリスが答える前に、ノアはずっと握っていた手を離して夜着のリボンに触れた。しゅるっと音がして前がくつろぎ、白い乳房が空気に晒される。
「綺麗だ」
裸の上半身を見つめる視線が強すぎて、イリスは気まずくなった。この国で最も位が高い女になる予定だった彼女の身体は、昔から丁寧に磨かれてきた。シミ一つない白い柔肌だ。
他人のために準備されてきたものを綺麗だと言われても、どう反応していいか分からない。
褒められたら微笑み、謙遜しすぎず相手を褒め返すもの。そう教わっているが、今それが相応しい作法だとは思えなかった。
ノアが困ったように笑う。
「イリス、君は……いろいろと考えているんだね。考えなくていいんだ。私とこうしている時は、他の人に言われた作法を持ち込まないで。私と二人の時間にしてほしい」
その手がイリスの胸に触れた。彼は前かがみになってそこにキスして乳房を下から上に持ち上げるように舐め、先端を弾く。
経験したことのない甘い痺れに押し出されて、イリスの口から声が漏れた。
「あっ、あ……のあ……っ」
制止のために名前を呼ぶ声も甘ったるく、ますます顔が熱くなる。
「や、ん……っ、私、どうしたら……」
「何もしなくていい。何も考えなくていいから、感覚に身を任せて。声も抑えないで、聞かせて」
「ああっ!」
乳首に軽く歯を立てられて、イリスは意図せず大きな声を出した。ノアがそれを聞いて微笑む。
「可愛い。もっと聞かせてほしい」
イリスが戸惑っている間に、彼は胸以外にも鎖骨や首筋、腹部など、あちこちにキスして、舐め、撫でた。イリスが反射でびくびく震えるのを嬉しそうに目を細めて眺めている。
「そろそろ、ここも触れていいかな」
ノアの手がイリスの足を撫でた。濡れたあわいにそっと触れる。そのまま指を軽く押し込まれるような感覚がして、彼女は思わずその腕を掴んだ。けれど手は止まらず、彼女の柔らかいところに触れた。
イリスもこの場所を柔らかくしてノアを受け入れなければならないことは知っている。
知ってはいるが、実際に触られると耐え難いほど恥ずかしくて、目に涙が滲む。ノアの指に自分の体液が絡んで、水音を立てる。心がついていかなくても、身体はしっかり準備していた。
「イリス、力を抜いて」
「む、り……」
「イリス」
ノアは困ったようにイリスの名を呼び、口付けをする。気遣うような優しい口付けに、緊張が少しほぐれた。
閨でのことは夫に任せないといけないのに、今すぐやめてほしいと願う。恥ずかしくて苦しくて、どうしていいか分からない。
何も言えぬままノアの顔を見つめていると、彼は指を引き抜く。その解放感にほっと息をついたのも束の間、濡れた部分の少し上、小さな突起に触れた。
「あっ!」
「ごめん。性急にしすぎたね。ここも一緒に触れたら、君ももう少しいいかもしれない」
「あっ、あ! や! 嫌、嫌、そこ、やめて……!」
イリスはみじろぎして抵抗する。
ノアは敏感なところを指で撫でつつ、先ほどからずっと蜜を溢れさせている中にも触れていた。ちゅぷ、と生々しい水音がして、イリスは耐え難い気持ちになる。
「気持ちよくない?」
「わ、分からないっ! 分からないの……だからやめて! ああっ!」
全身に力が入り、また弛緩する。呆然として浅い呼吸を繰り返していると、彼が口付けを繰り返す。
「今のは多分気持ちよかったんだよ。中がねだるように締まって、すごくよかった」
何をねだるというのだろうか。イリスは恨めしげにノアを見た。
「イリス、もう限界だ。受け入れて」
彼が自身の夜着に手をかけて、裸になる。彼のものが大きくなっているのを見て、イリスはさらに恐怖を覚えた。
指を入れただけでひどい圧迫感と軽い痛みがあったのに、そんな場所にあれを受け入れたらどうなるのか想像もつかない。
「待っ……ぅ、ん!」
イリスの制止の声より、唇を塞がれるほうが早かった。そのまま熱いものが膣口に触れて、ぐっと中に押し入ってくる。
「っ痛!」
体を引き裂かれるような痛みだ。イリスは思わず顔を背けて叫んだ。
ノアはそこで動きを止める。ただ入れたものを引き抜いてはくれず、彼女の頬や額に口付けを繰り返す。
「少しこのままでいるから、耐えて。夫婦になるのに必要なことなんだ」
そんなことはイリスも知っているが、耐え難い。
しかし何度もキスされていると、少しずつ痛みが引いていく。余裕が出てくると感想が漏れた。
「はぁ、なんて大変なの。こんなに、大きくて硬いものを受け入れないといけないなんて……あっ! な、何!?」
せっかく馴染んできたのに、中の質量が増えた。イリスは息を詰まらせる。不満を顔に滲ませて見上げると、ノアは何かに耐えるように眉を寄せていた。彼の口から、はぁ、と短く息が漏れる。
「イリス、今のは君が悪い」
「私の何が悪いと言うの」
「今のは男を煽る言葉だよ。知らないなら覚えておいて」
ノアのものがさらに奥まで入ってきた。イリスの身体はのけぞったが、先ほどのようにひどい痛みはない。
ノアがイリスの唇を再び塞いだ。
「んっ」
舌が咥内に入ってくる。
もう不快だとは思わないものの、どうしていいか分からないのは変わらない。
「イリス、動いてもいいかな。辛いんだ」
「辛い……?」
「君との婚約を、取り消すことになった」
イリスの婚約者である王太子が、静かな声で告げた。
イリスは彼に呼ばれ、王宮に出向き、華やかな応接室でソファに向かい合って座っていた。
用件は、すでに彼女が自身の父親であるウィンドミア公爵から聞いていた内容である。
この国の大神官が聖女の召喚に成功し、王太子は聖女と婚約することになった。そのためにイリスとの婚約を一方的に破棄したというものだ。
彼女の紫がかった青い瞳は悲しみも怒りも見せず静かなまま。控えめに伏せられた金のまつ毛が、婚約者と目を合わせるためにぱちりと上がる。上品に口紅で彩られた唇が、柔らかく弧を描く。
「承知いたしました。聖女様を迎えられた今、当然のことと心得ておりますわ。至らぬ身でありながら、これまで殿下にお仕えできて光栄でした」
お幸せに、と言いそうになり、さすがに皮肉っぽいかと思って口を閉じる。
王太子は陰鬱な表情のまま、黙って頷いた。彼は多分謝罪しようとしたのだが、立場上それができないのだろう。
「……わたくしはヴェルディアに赴く予定です。ノア・ヴァンデンブルク卿との婚約の話が出ておりますの」
王太子がはっと顔を上げた。ヴェルディアは王都から最も離れた辺境の領地である。
「実は楽しみなこともあります。イルサリアという植物で染めた糸がふんだんに使えるようになりますし、美しい場所だと聞いております」
イリスは明るく無邪気な顔を装って告げた。ヴェルディアの特産の糸は王都で手に入れるには高価だが、生産地ではもう少し入手しやすくなるはずだ。
彼女はこの婚約解消が悪いことばかりではないと伝えようとしたのだが、王太子には自分が刺繍に馴染みがあることを話したことがなかったかもしれない、と後から気づいた。それに、二人の間になんの感情もなかったにしても、婚約の解消を喜ぶことを言ったのは失礼かもしれない、とも。
王太子の顔はわずかに和らいでいた。イリスは自分の言葉が上手く彼の罪悪感を緩和できたことに安心する。
「彼は……気さくで人のいい青年だったと記憶している」
イリスの指がぴくりと動く。何人かノアについて同じことを言うのを聞いたことがあった。
しかし、ほとんど王都に顔を見せない彼の人柄について言及する人は多くない。それより噂になっていることといえば、彼が従妹のアンナに懸想していることだ。社交界では有名な話だった。
(どうでもいいことだわ。夫のひととなりも、誰を想ってるかも、それで何か変わるわけじゃないもの)
イリスの生家は歴史ある公爵家なのにここのところ王家と縁遠い。父の悲願である王妃になれないなら、イリスがこの世に生まれた価値はない。王宮から遠い領地に行けば、そのことを思い出す機会も減りそうだったので、彼女は話したこともないノアの妻になることを拒否しなかった。そもそも拒否する権利はないのだが、心の中でも拒否しなかった。
イリスの手にある選択肢は、今までもこれからも「求められた役割を果たす」こと。結婚して何か変わるとすれば、彼女に道を示す人が父親から夫になることくらい。それが王太子だろうと、辺境の地の公爵家の跡取りだろうと同じ。
最後に、イリスは王太子に向かって教育されたとおりの美しい微笑みを見せ、別れの挨拶を口にした。
顔合わせ
挙式を済ませたイリスは、メイドに案内されて夫婦の寝室にやってきた。公爵家本邸からほど近い、二人のために用意された別邸の一室である。
部屋は広く、天井近くまで伸びる大きな窓からは月明かりが差し込んでいる。四柱式ベッドの脇にサイドテーブルがあり、その上のオイルランプの光が、部屋を淡く照らしていた。
夫のノアはイリスよりも緊張した面持ちをしている。今から負担を引き受けるのはどちらかといえばイリスのほうなのに。
イリスはその不公平さに不満は抱かず、好いた女がいるのに今から自分を抱かなければならない彼にほんの少し哀れみを感じた。
夫は多分、自分と違って、気持ちや心の繋がりといった形のないものを大切にする人だ。
ノアはイリスに手を差し伸べ、緊張を隠すように微笑んだ。
彼の手は、イリスをベッドではなくその横の椅子に誘導する。
「少し話をしない?」
「お話……ですか。ええ、喜んで」
イリスは「貴方と話すことなどありません」などと、冷たい態度をとる気はない。
(きっとアンナ嬢のことね。「君を愛するつもりはない」とでも言うつもりかしら)
これから人生をともにする妻に対し政略結婚を理由にそう宣言するのは、幼くて、愚かで、甘えだと思う。
そして、ある意味誠実だ。
イリスにはノアの妻としての役目を果たす意思がある。彼に微笑み愛の言葉を紡ぐつもりはあるが、そこに気持ちを伴わせる必要はないと考えている。だが、それをわざわざ宣言する予定もなかった。
「ありがとう。今までイリス嬢を見かけてはいたけれど話をしたことはなかったから、少し話してみたくて。あ、もうイリス嬢ではないのか」
彼は照れたように笑った。淡い橙色の明かりに照らされて、明るいブラウンの瞳がオレンジ色に見える。
立場のある身分なのに、ノアは感情を隠すのがあまり上手くない。挙式では緊張を隠せていなかったし、仲の良い知人と話すと表情が緩む。
結ばれることのない女性を見つめる瞳に熱があると周囲に知られてしまうような、そういう男だ。
「イリスとお呼びくださいませ、旦那様」
「うん、分かった。イリスも私のことはノアでいいよ。ほら、旦那様だと使用人が父と勘違いしそうで紛らわしいだろ。家族になったんだから、口調も楽にしてよ」
ノアは明るく笑った。
「しかし、それは……」
将来の公爵夫人として相応しくない。そう思うが、夫に口答えするのは妻としてよくない。
迷ったイリスはノアに尋ねる。
「それは、ご命令ですか?」
「え? 私の名を呼ぶのはそんなに嫌?」
「いえ、その、妻は一般的には夫のことを名前で呼ばないでしょう」
「そう? 私の両親はお互いを名前で呼ぶよ」
家族という存在が、ノアと自分では大きく意味が異なるらしい。
「かしこまりました。では、ノア様とお呼びいたします」
「それが一番楽? 私は敬称も、丁寧な言葉遣いもいらないけど」
「……では、ノアと。これでいい?」
多分夫が求めている答えはこれだと察して、イリスはノアを呼び捨てにし、丁寧な言葉を使うのも控えた。きちんと正解を引き当てたようで、ノアが嬉しそうに笑う。
そのまま雑談をしていると、いつの間にか夜が更けていた。壁掛け時計が深夜を告げ、ノアがはっと顔を上げた。
「しまった。もうこんな時間だ」
「楽しくて時間を忘れてしまったわ。明日に差し支えてしまいそうね」
半分社交辞令で半分本音。イリスの言葉に、ノアは目を見開く。
「そんなことを言ってくれるんだ? 嬉しいな。私も時間を気にするのを忘れてしまったよ。イリスってすごく聞き上手だよね」
(それはそういう教育を受けているんだから当たり前じゃない)
そんなことを言うのは失礼になると分かっているので、イリスは軽く微笑むに留める。
ノアはそんな彼女の心中には気づかず、リラックスした雰囲気で機嫌よさそうに笑った。
「でも明日のことは気にしなくて大丈夫だよ。一日なんの予定も入れていないんだ。初夜の翌日に仕事のために朝早く起きなければいけないなんて、味気ないだろ?」
その手がイリスの手に重なる。イリスは驚きで目を見開いた。
ノアが会話を長引かせたのは何もせずに眠るためだと思っていた。白い結婚を望んでいるのだと。
彼女の一瞬の戸惑いを、ノアは見逃さなかった。さっと彼の顔が曇り、重ねた手を自分のもとへ戻す。
「やはり私を夫にするのは嫌かな」
「え!? いえ、そんなことは……!」
「本来なら君は王太子妃になるはずだった。こんな辺境の領地でまともに会話したことのない男の妻になるような女性ではないよね」
イリスは返答に困った。正直なところ、今日ノアと会話した量は、いつもの王太子との会話の一年分より多いくらいだ。
ノアの不安に対し綺麗な言葉を返すこともできるけれど、きっと彼はそれを喜ばない。そう感じて、イリスは正直に答える。
「私は貴方との結婚が決まって嫌だと思ったことは一度もないわ。貴方こそ、その、アンナ様のことはいいの?」
アンナの名前を出すべきか迷ったが、この話に決着をつけるには自分が戸惑いを顔に出してしまった理由を正直に話すしかない。
ノアが目を見開き、それから頬をわずかに赤くし、困ったように眉を下げる。
「君にまでそんなことを言われるなんて! 噂を聞いて不快に思っただろう。君にそのことで何か失礼なことを言った人がいないことを祈るよ。私はアンナを妹のように思っていて、そんなつもりはない……と言っても、信じられないだろうね」
イリスは即答できなかった。
噂によると、ノアはアンナに恋をしている。現に、イリスは夜会で隣にいた友人に声をかけられ一瞬だけノアとアンナに視線を投げたことがある。その時の彼らはよく夜会で見かける男女ペアらしく親しげで、お互いを想い合っているように見えた。
もっとも、恋愛に重きを置かないイリスにとって、社交界で噂になるほど視線で気持ちを伝え合う人たちは尊敬の対象ではなかった。
――私とは関係のない世界。
そう思って、じっくり観察したことがない。
「私には貴方たち二人のことは分からないわ。それに事実はあまり大切ではないの。貴方が誰を愛していても、もう結婚は成立していて、後戻りはできないもの」
ノアは少しだけ傷ついたような顔をした。
「そうだね。君の言うとおりだ。ただ、私のアンナに対する気持ちは今言ったとおりで、それが事実だ。私はこれから夫として君を愛していくつもりでいるよ。君と話して、ますますそう思った」
「ありがとう。私も妻として貴方を愛するわ」
イリスは美しく微笑んだ。
ノアが夫の役割として愛すると言及してくれたことに安心する。イリスも役割を果たすのは得意で、今のノアの言葉になら同じように迷わず答えられた。
ノアがじっとイリスの顔を見て、手を差し出す。イリスは今度こそ戸惑いを見せるような失敗をせず、すぐに自分の手を重ねた。
ノアに手を引かれ、椅子から立ち上がる。思いの外、力強く引かれたことに驚きつつも、軽く目を見開くに留めて声はあげない。そして、手を繋いだまま二人でベッドの上に向かい合って座る。
ノアがイリスの指先に軽く口付けした。
指先にキスをする時、軽いリップ音がした。挨拶のキスで音を立てるのは喜ばしい作法ではないが、ここにはイリス以外礼儀作法を気にする人もいない。
そして彼はイリスをじっと見つめた。その視線の強さに怯みそうになる。強く睨み返すのも目を逸らすのもどちらもおかしい気がして、戸惑いが顔に出てしまう。
ノアは視線を合わせたまま、指先、手の甲、手のひら、手首の内側、とキスを繰り返しながら、彼女をベッドにゆっくり横たえた。とすんと軽く音を立てて、イリスは仰向けになる。
その髪を一房すくって、ノアが口付けした。そしてゆっくり髪をベッドに落として、優しく彼女の頬を撫でる。頬に口付けて、額にも口付けした。
イリスが教育係に聞いていた話と、ノアの行動は異なる。
閨では夫は妻の身体のうち、性的な快感を得る部分に触れると聞いていた。それによって夫を受け入れる準備をさせ、身体を繋げて妻の中で子種を出すのだと。
ノアの行動には無駄が多すぎる。
(今になって怖気づいたってわけ? 引き延ばすのもいい加減にしなさいよ)
ただでさえ雑談したせいで時間が遅いのに、これ以上無駄なことをしていたら眠る時間がなくなる。
「ノア」
「何?」
「その……貴方の行っていることは、私が教育係から聞いた作法と少しだけ異なるわ。もしかしたら私はこの地域の作法を理解していないかもしれないの。教えてくれない?」
できるだけノアの顔を立てて質問してみる。
「教育係にはなんと言われたの?」
「夫に任せるようにと」
「では間違っていないんじゃないかな。任せてくれて構わないよ」
「でもこれでは、その、夜が明けてしまわない?」
いつまで経っても終わらないなどとは言えず、イリスは言葉を選んだが、結局同じようなことを言ってしまった。ノアがおかしそうに笑う。
「私たちが夜が明けるまで愛し合ったって、誰にも咎められないよ。言っただろ? 明日は何も予定を入れてない。君は教育係以外からは、閨の話を聞いていないの?」
「他の誰に聞くというの? 閨は夫婦の閉ざされた時間でしょう。私の友人はそんな話を外でするような方ではないわ」
イリスはむっと顔を顰めた。
「ごめん。そんなつもりで聞いたわけではないんだ。イリス嬢と言えば、博識で聡明で完璧な……そういう女性だと思っていた」
ノアの言葉はイリスが実際はそうではないということを示している。
今まで彼女はどんな場所で何をしても周りから博識で聡明で完璧だと言われてきた。今日だって夫の意図を汲んで正しく振る舞ってきたはずだ。欠陥があるように評価されるのは心外だった。
「どういう意味?」
「手を出すのを躊躇ってしまうほど、何も知らないとは思わなかった」
「そんなことは……んっ」
イリスの抗議の声は口の中に消える。
唇が軽く触れ、そのまま押しつけられる。思ったよりも柔らかく乾いたそれが何度か角度を変えてイリスの唇に触れた。そのうちノアは唇を甘く噛む。驚いて口を開いたところに湿ったものが入り込んで、彼女の舌を搦め捕った。
「んんっ!?」
ぴちゃ、と水音が響く。
わざといやらしい音を立てるようにノアの舌は動いていた。時折、唇の間から彼の熱い息が漏れる。
「ふっ……ぅん……!」
夫に任せるようにと言われていたのに、イリスはつい抵抗してしまった。
その抵抗を咎めるように、ノアが彼女に体重を掛ける。握っていないほうの手で夜着の上からイリスの足を撫で回した。
不快とは違う、しかしやめてほしいと思う。ぞわぞわと湧き上がってくる未知の感覚に、イリスの肌に鳥肌が立つ。その間もノアは口付けをやめてくれない。ようやく解放された時には、彼女の息はすっかり上がっていた。
イリスは潤んだ瞳でノアを見つめる。彼は慈しむように微笑み、イリスの頬を撫でる。そしてもう一度イリスに覆い被さり、今度は首元に顔を沈めて熱い息を吐いた。首筋を下から上に耳元まで舌が這う。
「ん……っ、いや……!」
「すまない、少し、我慢してほしい」
ぬるっとした感触に驚いて、反射的に拒絶の言葉が口から出た。
親切そうに見えた夫は、イリスがせっかく主張したのを無視した。ノアの舌が首を舐めるたびに、彼女の喉の奥から意図しない声が漏れそうになり、唇を噛む。
「イリス、唇を噛んではダメだよ。声を出して」
「でも……」
「閨では夫に任せるのが作法なんだろう? 私が言っているのに聞いてくれないの?」
「分かっ、……あっ!」
イリスは渋々頷いた。その途端にノアの手が胸に触れる。布越しに、やわやわ乳房を揉んで形を変えさせた。そんな場所、着替えを手伝ってくれる侍女でさえ触れたことがない。
「あっ……はぁ、ん」
ノアが声を抑えるなと言ったからその通りにしようとしたのだが、自分の声の甘さにゾッとした。
自分が自分ではなくなったようで怖くなる。背中のあたりから這い上がってくる、ぞくぞくとした感覚。嫌なのにやめてほしいと思えないこれが、性的な快感なのだと気づき、頬が自然に熱くなる。
「イリス、脱がしていいかな」
「えっ」
イリスが答える前に、ノアはずっと握っていた手を離して夜着のリボンに触れた。しゅるっと音がして前がくつろぎ、白い乳房が空気に晒される。
「綺麗だ」
裸の上半身を見つめる視線が強すぎて、イリスは気まずくなった。この国で最も位が高い女になる予定だった彼女の身体は、昔から丁寧に磨かれてきた。シミ一つない白い柔肌だ。
他人のために準備されてきたものを綺麗だと言われても、どう反応していいか分からない。
褒められたら微笑み、謙遜しすぎず相手を褒め返すもの。そう教わっているが、今それが相応しい作法だとは思えなかった。
ノアが困ったように笑う。
「イリス、君は……いろいろと考えているんだね。考えなくていいんだ。私とこうしている時は、他の人に言われた作法を持ち込まないで。私と二人の時間にしてほしい」
その手がイリスの胸に触れた。彼は前かがみになってそこにキスして乳房を下から上に持ち上げるように舐め、先端を弾く。
経験したことのない甘い痺れに押し出されて、イリスの口から声が漏れた。
「あっ、あ……のあ……っ」
制止のために名前を呼ぶ声も甘ったるく、ますます顔が熱くなる。
「や、ん……っ、私、どうしたら……」
「何もしなくていい。何も考えなくていいから、感覚に身を任せて。声も抑えないで、聞かせて」
「ああっ!」
乳首に軽く歯を立てられて、イリスは意図せず大きな声を出した。ノアがそれを聞いて微笑む。
「可愛い。もっと聞かせてほしい」
イリスが戸惑っている間に、彼は胸以外にも鎖骨や首筋、腹部など、あちこちにキスして、舐め、撫でた。イリスが反射でびくびく震えるのを嬉しそうに目を細めて眺めている。
「そろそろ、ここも触れていいかな」
ノアの手がイリスの足を撫でた。濡れたあわいにそっと触れる。そのまま指を軽く押し込まれるような感覚がして、彼女は思わずその腕を掴んだ。けれど手は止まらず、彼女の柔らかいところに触れた。
イリスもこの場所を柔らかくしてノアを受け入れなければならないことは知っている。
知ってはいるが、実際に触られると耐え難いほど恥ずかしくて、目に涙が滲む。ノアの指に自分の体液が絡んで、水音を立てる。心がついていかなくても、身体はしっかり準備していた。
「イリス、力を抜いて」
「む、り……」
「イリス」
ノアは困ったようにイリスの名を呼び、口付けをする。気遣うような優しい口付けに、緊張が少しほぐれた。
閨でのことは夫に任せないといけないのに、今すぐやめてほしいと願う。恥ずかしくて苦しくて、どうしていいか分からない。
何も言えぬままノアの顔を見つめていると、彼は指を引き抜く。その解放感にほっと息をついたのも束の間、濡れた部分の少し上、小さな突起に触れた。
「あっ!」
「ごめん。性急にしすぎたね。ここも一緒に触れたら、君ももう少しいいかもしれない」
「あっ、あ! や! 嫌、嫌、そこ、やめて……!」
イリスはみじろぎして抵抗する。
ノアは敏感なところを指で撫でつつ、先ほどからずっと蜜を溢れさせている中にも触れていた。ちゅぷ、と生々しい水音がして、イリスは耐え難い気持ちになる。
「気持ちよくない?」
「わ、分からないっ! 分からないの……だからやめて! ああっ!」
全身に力が入り、また弛緩する。呆然として浅い呼吸を繰り返していると、彼が口付けを繰り返す。
「今のは多分気持ちよかったんだよ。中がねだるように締まって、すごくよかった」
何をねだるというのだろうか。イリスは恨めしげにノアを見た。
「イリス、もう限界だ。受け入れて」
彼が自身の夜着に手をかけて、裸になる。彼のものが大きくなっているのを見て、イリスはさらに恐怖を覚えた。
指を入れただけでひどい圧迫感と軽い痛みがあったのに、そんな場所にあれを受け入れたらどうなるのか想像もつかない。
「待っ……ぅ、ん!」
イリスの制止の声より、唇を塞がれるほうが早かった。そのまま熱いものが膣口に触れて、ぐっと中に押し入ってくる。
「っ痛!」
体を引き裂かれるような痛みだ。イリスは思わず顔を背けて叫んだ。
ノアはそこで動きを止める。ただ入れたものを引き抜いてはくれず、彼女の頬や額に口付けを繰り返す。
「少しこのままでいるから、耐えて。夫婦になるのに必要なことなんだ」
そんなことはイリスも知っているが、耐え難い。
しかし何度もキスされていると、少しずつ痛みが引いていく。余裕が出てくると感想が漏れた。
「はぁ、なんて大変なの。こんなに、大きくて硬いものを受け入れないといけないなんて……あっ! な、何!?」
せっかく馴染んできたのに、中の質量が増えた。イリスは息を詰まらせる。不満を顔に滲ませて見上げると、ノアは何かに耐えるように眉を寄せていた。彼の口から、はぁ、と短く息が漏れる。
「イリス、今のは君が悪い」
「私の何が悪いと言うの」
「今のは男を煽る言葉だよ。知らないなら覚えておいて」
ノアのものがさらに奥まで入ってきた。イリスの身体はのけぞったが、先ほどのようにひどい痛みはない。
ノアがイリスの唇を再び塞いだ。
「んっ」
舌が咥内に入ってくる。
もう不快だとは思わないものの、どうしていいか分からないのは変わらない。
「イリス、動いてもいいかな。辛いんだ」
「辛い……?」
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