君に何度も恋をする

美珠

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1巻

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 ――失恋したわけではなく、心には大好きな気持ちがあっても、何も行動を起こさなかった、という話。


「いつまでも、いつまでも、私の心の中だけに、あなたがいる……これって、もっと文章をスマートにできますかね?」

 同僚で大先輩の山本愛子やまもとあいこに問いかけると、自分と同じく眼鏡をかけた彼女は、赤字だらけの紙をジッと見る。

「……そうね……いつまでも、いつまでも、は表現の繰り返しだけど、敢えてかどうか確認して。あと、私の心の中だけに、じゃなくて私の心の中に、でもいいよね? 赤字を入れてOKかどうか聞いてみたら?」

 珠莉じゅり明倫社めいりんしゃという出版社の校閲部門で働いているが、人の文章に手を入れる仕事は未だに迷うことが多い。

「そうですね……そうします」

 うんうん、と頷いていると、山本が顔を覗き込んでくる。

「珠莉ちゃん、今日はお化粧ちゃんとして行かないとね! 朝一番で楽しみって言ってたもんね」

 古川こがわ珠莉は普段そんなにメイクをしない。日焼け止めとファンデーション、血色がよくなる程度の薄いチークとリップ、あとはほんの少し目元にハイライトを入れるだけ。
 ハイライトの反射でそばかすを飛ばしているのだ。

「いや、でもいつものメンバーで会うだけだから」
「だって、あの色気のあるイケメンも来るんでしょ? 元カレの野上のがみれい君。会うのは久しぶりじゃない?」

 うふふ、と頬を染めて笑う山本の方が、楽しみにしているような表情をしている。
 一年に一回、海外勤務をしている玲が日本に帰ってきたタイミングで、友人四人で集まりオシャレな居酒屋で飲み会をする。彼は仕事で帰ってきてるので、二泊ほどしたらすぐにまた勤務先の海外へ戻ってしまうのだ。

「ええ、まぁ……でも今はもう、友達っていうか……二人きりになっても何もないですし、何よりも玲……野上さんは結婚してますから……」

 玲は色気のある端整な顔立ちをした男だ。初めて会った時、一目見ただけでドキドキしてしまったほどで、直視できなかったのを覚えている。
 今ですら、久しぶりに会うとそうなる。スーツの時など途端に色気が増して……と、彼のことを思い出すだけでため息が出そうだ。
 そんな相手と、一年にも満たない間ではあるが自分が付き合っていた事実を、今も奇跡のように感じる。
 当時は大学を卒業したてで、早生まれのため二十二歳になったばかりの珠莉は、はっきり言って地味だったと思う。
 オシャレなんて気恥ずかしくてできなかった。お化粧をすると、なんだか全然違う顔になるから違和感しかない。眼鏡からコンタクトに変えることも、落ち着かなくてできなかった。
 薄い化粧と眼鏡の珠莉は、素朴と言えば聞こえはいいが、やっぱり地味に変わりない。
 それなのに、出会った時の玲は、隣にいた美人の友人ではなく、珠莉のことをジッと見ていた。目が合うと微かに笑った彼の顔を、今も鮮明に覚えている。

「あの色気のある人が結婚しているなんて。まぁ、だからいいのかなぁ……あの存在は罪よねぇ」

 山本の言う通り、彼は結婚しているからいいのだろう。
 どんなに素敵でも、結婚している人。彼は決して女遊びをするタイプではないし、真面目な人だから、妻以外とどうにかなることもない。

「彼、今日も迎えに来るの?」

 玲はいつものメンバーで会う日は、必ず会社まで珠莉を迎えに来る。退社すると会社のロビーで待っているから、なんとなく面映おもはゆい気持ちになるのだ。

「えっと……はい。連絡があったので、六時にはロビーにいると思います」

 彼と別れて、もう六年。
 当時、明論社に就職したばかりの珠莉は、希望した部署に配属されたけれど、要領も勝手もなかなか掴めなかった。仕事としての校正も校閲も初めてで、毎日一生懸命やっているつもりでも、全然上手くいっている感じがなかった。そんな中、作者の先生を怒らせてしまい、精神的にも参っていたように思う。けれど、仕事は待ってくれなくて、全てがいっぱいいっぱいだった。
 そんな時、フランスへ転勤が決まった彼からプロポーズをされた。とにかく驚いたし、結婚することにも海外で生活をすることにも自信が持てなかった。
 何より珠莉は、仕事を辞めたくなかったし、もっときちんと仕事ができるようになりたいという気持ちが強かった。だから、彼のプロポーズを断ったのだけれど、それと同時に玲との付き合いをダメにしてしまったわけだ。
 玲とは正確には七ヶ月付き合っていた。嫌いで別れたのではなく、きっと、お互いにタイミングが悪かったのだと思う。
 あの時は、何もかもが上手くいかず、自分の心すら相手にきちんと伝えられなかった。もしも今、あの時に戻れるのなら、遠距離恋愛を選んでいたかもしれない。
 しかし、あんなに精神的に参っていた自分に、そんなことができたかは怪しいものだ。
 別れてからも、玲とは一年に一回は会って話をするし、いつものメンバーで飲み会をした翌日、誘われてランチに行くこともあった。
 自分と別れてすぐに結婚したと聞いた時は、精神的にも参っていたから酷く落ち込んだ。別れたことを後悔して泣いたりもしたけれど、いつものメンバーの一人である新川正広あらかわまさひろから見せてもらった彼の結婚相手は、美人で背も高く、思わず納得してしまうほど玲とお似合いだった。
 玲の妻の写真を見た時、やっぱり自分と玲とは縁がなかったのだと思い知った。
 そして同時に、彼への未練を断ち切るいいきっかけとなったと思う。

「いいなぁ……目の保養に私も一目見たいところだけど、今日中にコレを終わらせないといけないのよ。じゃないと、明日、確認に行けないしねー……」

 酷く残念そうに言った山本に苦笑し、でも、そう思うだけのことはあると内心で頷く。
 珠莉だって、人生においてあれほど容姿端麗ですごい男性が彼氏だったなんて、未だに奇跡だと思っている。
 何しろ、野上玲という男は、都市銀行系列の大手証券会社に勤め、高学歴で高収入、税理士と公認会計士など国家資格を多数持ち、語学に堪能で超スピード出世中のエリートなのだ。
 きっと今日も、見ただけでドキドキするのだろうな、と思いながら、珠莉は目の前の原稿に集中するのだった。


     ☆


 珠莉は時間通りに仕事を終え、午後六時にロビーで待ち合わせをしている玲のことを思い出した。

「化粧直しくらいはしようかな……」

 山本から言われたからというわけではないが、もうそれなりの年齢だし、きちんとしていこうと思った。
 会うのはいつものメンバーだから、あまり気にしないとは思うけれど。
 いつものメンバーというのは、大学時代からの友達の新川美優紀みゆき、その夫で銀行員の新川正広。そして玲と珠莉だ。
 この四人の出会いは、美優紀と珠莉が大学を卒業したてで、まだお互いに会社の仕事に慣れていない頃。
 休日に海に出かけたものの、泳ぎもせずに二人してボーッと海を眺めて他愛もない話をしていた。そんな時、正広と玲に声をかけられたのだ。
 それからの付き合いで、その後、珠莉は玲と交際して別れ、美優紀は正広と結婚した。人の出会いというのは、どこで何があるかわからない。
 数年前のことを反芻はんすうしながら、大きくため息をつく。
 とりあえず化粧室に行って、崩れかけているファンデーションを塗り直し、ハイライトを軽く入れて、できるだけ薄くチークを塗った。

「やっぱりお化粧も、もう少しちゃんとできた方がいいよね……」

 もう二十九になるのだから、顔色をよくするためにも化粧の仕方をもっと覚えた方がよさそうだ。
 今度、時間を作ってもらって美優紀と一緒に化粧品を買いに行こう。
 鏡に映る自分は、可もなく不可もない。ただ、玲と出会った頃よりは、社会人として経験を重ねた分、大人になったように思う。
 ここ二年ほど、彼と会う時は、いつも考えてしまうこと。

「私の取り柄と言ったら、毎日しっかり仕事をして、堅実な暮らしをしていることくらいかなぁ……」

 再度鏡を見て、相変わらず普通の顔だと思いながら、化粧ポーチをバッグにしまった。
 約束の時間の六時になり、珠莉はロビーに向かう。打ち合わせをしている出版関係者もいる中、すぐに玲を見つけることができた。
 仕事帰りに直接来たのだろう、背の高いスタイルのいい身体に紺色のビジネススーツがよく似合っている。もともと色気のある彼は、スーツを着ると特にそれが増す。
 スマホを操作していた彼が顔を上げた。すぐに見つけたと言わんばかりに珠莉を見つめ、端整な顔に微笑みを浮かべる。
 玲は目元がはっきりとしている。瞳も大きく、キリッとした雰囲気があった。
 スマホをスーツの内ポケットに入れ、珠莉の方へ歩いてくる。やっぱり直視ができないな、と思いながら珠莉は軽く手を振った。

「珠莉」

 低く甘い声に名前を呼ばれて、ドキッとする。

「久しぶり、元気だった?」
「あ……はい、久しぶりです、野上さん」

 彼と会うのは、一年ぶりだった。
 打ち合わせをしている人たちがこちらを見ているのに気付き、珠莉は笑みを浮かべて彼に会社の出入り口を指さした。

「遅れるといけないから、行きましょうか」

 微かに笑って頷いた玲と、一緒に会社を出る。
 道に出たところで、珠莉は玲に言った。

「恥ずかしいから、もう会社に迎えに来るのやめません?」
「恥ずかしいって、何が?」

 顔も身体もイイから目立つんですよ、と心の中で呟き、ため息をつく。

「野上さんはイケメンだし、私みたいなフツーの女子を迎えに来るような感じじゃないんです。それに、それぞれ個人で集合した方が手間がはぶけるでしょう?」

 歩きながら、ちらりと上を見上げると、玲はただ微笑んでいた。

「珠莉も可愛いよ?」
「そんなこと言うのは、野上さんだけ。奥さんがいるんだから、やめてください。とにかく野上さんはいるだけで目立つし、私が居たたまれなくなっちゃう」

 ずっと見ていられず珠莉は顔を下に向ける。
 中高の頃からスカウトもされていたらしいし、大学時代はモデルのバイトもしていたと聞いている。今でも、イイ感じに細身で締まった身体をしているから、スーツがよく似合う。
 これから会う新川美優紀なんて、玲のお尻がキュッと上がっているのが好きだと、冗談めかしてセクハラっぽく触るくらいなのだ。

「そうかな……ところで珠莉、前も言ったと思うけど、野上じゃなくて玲って呼ぶのはダメなのか?」

 玲とは一年に満たない程度しか付き合っていないし、別れてすでに六年が経とうとしている。何より妻のいる相手をいつまでも下の名前で呼ぶのはよくないと、呼び方を改めたのだ。

「そもそも! そういう呼び捨てにする関係は、ずっと前に解消しています」

 玲とは決して無関係とは言えないが、別れたあとも、元カレとこんな風に会い続けること自体、あまりよろしくないだろう。

「迎えに行くのは、迷惑?」

 顔を見ながらそう言われたので、迷惑なことなんてないが、きちんと一線は引きたいと思う。

「私を迎えに来るような関係ではないと、そう思うんですけど……違いますか?」

 はっきり言うと、玲は考えるように上を見て、それから珠莉に視線を移す。

「関係も何もないよね? 珠莉は俺のこと、友達か……それ以下くらいにしか思ってないだろう。だから……いけなかった?」

 友達というか、ただ年に一回か多くて二回会うだけの、元カレだ。でも、玲は珠莉のことを友達と思っているのだろうか。そのことに、なぜか胸がチクリとする。
 チクリどころか、なんだかモヤモヤしてきた。
 元カレの玲がこうして堂々と珠莉の会社まで迎えに来るのは、自分をバカにしているようにしか思えない。
 どうせ今も彼氏なんていないんだろう、というていで迎えに来ているのだとしたら、すごく嫌だ。

「野上さんは、私にとって友達でもなんでもないです。ただの元カレです。元カレを友達にできるほど私は器用じゃないし、あなたみたいな人と連れ立って歩けるほど美人でもないから……迎えに来ないでほしいだけです」

 それに、と目的の場所へと歩きながら早口で言う。

「野上さんには、美人でスタイルのいいお似合いの奥さんがいるでしょう? 既婚者がなんの関係もないとはいえ、日本に帰国するたびに独身の女性を迎えに来るのは、浮気と勘違いされるかもしれないし、そう思われるのも嫌です」

 玲と別れて六年。珠莉は来年の二月で三十歳になる。
 最近はそろそろ、結婚も考えようと思っていた。それは少し離れた場所で暮らす母の身体の具合がよくないからだ。父を病気で亡くしているため、早く母を安心させてあげなければならない。
 二十代最後の珠莉にとって、今年は人生の節目なのかもしれない。だから、玲とは無関係で生きていきたいと、今日が近づくにつれ思っていた。
 玲と会うと昔に気持ちが引っ張られる。それに、彼は何もかもがイイ男すぎて、無意識に比べてしまい他の男性と付き合う気になれない。
 でも本気で結婚を考えるなら、彼とは離れ、もう会わないようにするべきだ。

「それなんだけど……その、性格の不一致、でね」

 あと数歩でいつも飲み会をする洋風居酒屋に着くというところで立ち止まった玲は、髪の毛を掻き上げ大きく息を吐いた。

「先日、離婚が成立した。それより、まさか珠莉がそんな風に思っていたとは気付かなくて、申し訳なかった。嫌だったとは思いもしなくて」

 背が高い彼が、頭を下げるのを見て、珠莉はちょっと焦った。

「そんな、頭を下げるほどのことでは……あれ? 今、離婚って言った?」

 玲は少しばつが悪そうに、額に手を当てた。

「今日はそれを伝えるつもりだった……二人が来る前だけど……日本にポストがいて、こちらに戻ってくることになった。そのタイミングで、妻と別れた」

 何それ、と言いたくなってしまう気持ちをとりあえず呑み込んだ。
 ポストってなんだろうか。もともと、海外勤務を長くしていたし、仕事のことを詳しく聞いたことはなかった。だがもしかして、野上玲という人は、自分が思っている以上に、ものすごく優秀な人なのかもしれないと考える。

「あの……どうして? フランスに行ってすぐに結婚したから、それほどすごく好きになった人と結婚したんだと思ってました。写真で見せてもらった奥さんはとても綺麗だったし、一気に気持ちが燃え上がったのかと」

 彼はフランス勤務になった数ヶ月後に結婚したと、美優紀から聞いた。そうなのか、とショックを受けたのは、別れる前に珠莉も結婚を申し込まれていたからだ。
 だからきっと、すごくいい人が現れて、すぐに好きになって、その気持ちが燃え上がって、スピード結婚したのだろうと思っていた。

「君と別れたあとで、どうして燃え上がるって思うのかわからないな……」

 玲はため息をつきながらそう言って、今度は頭を掻く。短い期間だったとはいえ、確かに玲と珠莉は付き合っていた。それも、交際を申し込んだのは玲の方からだ。
 その時の珠莉は、男性と付き合ったことがなかった。もともと母と二人暮らしで、高校からは女子高で、大学も女子大学。男の人に免疫がなかった。
 だから、出会ってすぐ彼から告白された時も、ものすごい勢いで断った。なのに、なぜか色気のある年上のイケメンに押しに押されて付き合うようになり、プロポーズまでされた。

「妻とは……もう何年も前から関係が冷え切っていた。気持ちが燃え上がって結婚したわけじゃないけど、好きだったよ。だけど……結局は性格と生活の不一致……離婚の原因はそこにあるかな」

 額を覆っていた手を首筋にやり、珠莉を見る玲の視線に、ドキッとしてしまう。時折流し目みたいに見てくるから困る。玲の目は形が綺麗で色気があるから、本当にやめてほしい。
 玲が結婚した時、実はとても傷付いた。
 自分のことで精いっぱいで彼のプロポーズを断ったのは珠莉だけど、どうして別の人と結婚してしまったのだ、という思いがあった。
 それからしばらくは、なかなか気持ちの整理がつかなかったくらいだ。
 六年経った今は、玲が既婚者であることをきちんと受け入れ、もう彼への思いはすっかり断ち切ったつもりでいた。
 なのになんで、今更そんな熱のこもった目で見つめてくるのか。いたずらに私の心を騒がせないでくれ、と思う。

「職場に迎えに行くことは配慮がなくて……ごめん、珠莉」
「……一年に一回のことだから、嫌とは言えなかっただけです。私も、強く言いすぎて、すみませんでした、野上さん」

 動揺を抑えて謝罪の言葉を口にした珠莉を、彼はなんだかもの言いたげな目で見つめてきた。

「なんですか?」

 彼はすぐにクスッと笑って、それから視線を珠莉の後ろに向けた。

「ごめん、ごめん、遅れたー!」

 後ろから正広の声が聞こえた。玲は軽く手を振って正広にこたえており、珠莉が後ろを見ると、満面の笑みを浮かべた正広と、その妻の美優紀がいた。
 きっと仕事終わりに夫婦で待ち合わせて、一緒にここまで来たのだろう。

「遅れたって言っても、五分くらいだ」

 玲がそう言って、いつもの魅力的な笑みを浮かべる。美優紀はその顔をジッと見て、微笑んだ。

「野上さん、いつもカッコイイ」

 人差し指と親指を交差してキュンマークを作る美優紀に、玲は首を傾げた。

「え? 何それ……」

 玲はカッコイイとかイケメンなどのワードは昔から言われ慣れているのか、スルーする。玲ほどの男になると、どんなに容姿をめられても響かないんだろうな、と思ってしまう。
 それより、しばらく日本に住んでいなかったから、キュンマークがわからないのかもしれない。

「店入ろうよ? 俺、お腹いた!」

 正広がお腹を撫でさするのを見て、玲は俺も、と言った。

「久しぶりね、珠莉。って言っても、一ヶ月前に会ったかぁ」

 ふふ、と笑う美優紀も相変わらず美人だった。正広と二人で並ぶのを見ると、ああ夫婦なんだなぁ、という雰囲気がある。
 二人に子供はいないが、そろそろ、と思っているらしい。
 先に玲と正広が店に入って、次に美優紀と珠莉が中に入る。
 出会った頃から変わらない店を、いつも新川の名前で正広が予約してくれた。一年に一回、恒例の飲み会だ。
 珠莉は、スッとして男らしい玲の背中から目を逸らす。
 たとえ玲が離婚したとしても、自分と彼との関係は変わらない。
 彼は、元カレだ。この先も、彼とどうこうなることはない。
 珠莉は自分に言い聞かせるように、心の中で何度も呟いた。
 この先、誰かと結婚したら、きっと玲を思い出して気持ちを揺らすこともなくなる。
 早くそういう人を見つけなければと思いながら、珠莉は店に入るのだった。



   2


 美優紀とは割と頻繁ひんぱんに会っているが、彼女の夫、正広とは数ヶ月ぶりに顔を合わせた。
 案内された席に着きながら、珠莉は内心で首を傾げた。
 いつものメンバーで集まる時、珠莉の隣に座るのはたいてい美優紀だった。しかし、なぜか今日は玲が珠莉の隣の席に座った。
 けれど、そう思っているのは珠莉だけで、正広も美優紀も、特に気にする様子もなく、いつもの調子で話をしている。だから珠莉も気にしないことにした。
 久しぶりの飲み会は楽しく、会話も弾む。だが、話題が玲の離婚になった時、すでに正広も美優紀も知っていて、知らなかったのは珠莉だけだった。
 自分だけが知らされてなかったのかと聞くと、首を振った正広から「前に離婚するかもしれないって聞いてたから」と返ってきた。
 さっき玲が言っていた離婚の理由について再び聞くが、あまり耳に入ってこない。珠莉はただ、いつも着けていた銀色の指輪のない彼の左手の薬指を見ていた。
 そんな中、彼がすでに日本に帰国していること、荷物を先に出したから生活に必要なものは新居で受け取っていることを知った。
 有休を使って荷解きをすると聞いた正広が、手伝いに行くと申し出る。

「あ、じゃあ、私も手伝うよ! 明日ちょうど休みだし……珠莉も行くよね?」
「えっ!?」

 嬉々ききとして手を挙げた美優紀が、珠莉にも声をかけてくる。
 なんで自分に振るんだと思った。流れで声をかけてくれたのだとわかるが、さすがに玲の荷解きを手伝いに行くなんてとんでもないと思った。

「えっと……私は、今、仕事が押してるから、なー……」

 やんわりと断りを入れると、隣にいる玲がクスッと笑う。

「仕事は順調?」

 聞かれて、珠莉は頷き、できるだけ自然に笑った。

「おかげさまで順調です。最初は丁寧にやりすぎて大変だったけど、今は校正に求められるものが何か、だいぶわかってきたから、大丈夫」

 そもそも、玲と別れた理由は、もっと仕事をきちんとやりたい気持ちがあったからだ。校正者として経験も積みたかった。
 別れる時に、仕事をもっと頑張りたいと言ったので、順調かどうか聞いてくるのは当たり前だ。

「そうか、ならよかった」

 スーツのジャケットの下にベストを着ているので、ジャケットを脱いだ姿はスタイルのよさもあって、モデルのようだ。服装や雰囲気から仕事ができそうで、年齢以上の落ち着きを感じる。
 そもそも、付き合っていた当時から彼はエリートだった。仕事のことを聞きすぎてはいけないと思い、ほどほどにしか聞いたことがなかった。
 しかし、フランスへ転勤と聞いた時は、さすがに未熟な珠莉でも、それが栄転とわかったので、自分が思っていたよりずっとすごい人と付き合っていたのではないかと、あとから考えることが多かった。
 日本でポストがいたと言ったので、玲は今後あの大手証券会社で、さらに責任のある役職に就くということだろう。

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