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しおりを挟むプロローグ
――はじまりは今でも鮮明に覚えている。
オレンジ色の柔らかな日差しが射しこむ、ふたりきりの終業後のミーティングルーム。
私の告白を聞いたその人は、端整な顔から眼鏡を取り払うと、面白がるように一歩一歩近づいてきた。
「――決めるのは、あなたです」
艶のある低い声。コツコツと響く革靴の音。朝からまったく乱れない質のいいダークスーツ。
サラリと揺れた黒髪の下から、怜悧な美貌が現れた。
「えっ、あの……」
普段のポーカーフェイスからは想像のできない、悪戯っぽく上がる口角と、ゾクッとするほど艶かしい色気に圧され、自然と私の足は後退していく。
「俺があなたの思うような男かどうか、ここでよく確かめていってください」
すぐに腰がデスクにコツンとぶつかって行き場を失う。
それをいいことに、私をしなやかな腕の檻で囲い、さらに身を寄せてくる彼。
「後悔のないようにね」
冷静沈着で、他人に関心のなさそうな彼の突然の行動に驚き頭が働かない。
「あなたの好きな秘書室の悪魔は、あなたを手籠めにしようと目論んでいるような、とっても悪いやつかもしれないですから」
その瞬間、デスクに押し倒され、こちらへ手が伸びてきた。うなじを引き寄せられると同時に、彼の唇が私の唇を深く深く塞いだ。
彼がなんて呼ばれているのか、うちの会社で知らない人はいないだろう。
――秘書室の悪魔。
鷲宮グループのグループセレクタリーである私たちは、ひとりの上司を複数人で担当し、エグゼクティブたちの日々を支えている。
彼はその部門のゼネラルマネージャーだ。
常に物事に動じず、誰よりも仕事に忠実。冷ややかな物言いは、取り入る隙がないと言われているけれども、誰もが一度は見惚れてしまう怜悧な美貌を持っている。
みんなはそんな彼を敬遠しているけれども、偶然彼の優しさに触れた私は、密かに彼を思い続けてきた。
だけど、まさかこんなことになるなんて――
ひとしきりキスで私を翻弄した彼は、唇を首筋に移動させた。
「――あなたみたいに無防備な人は、易々と食べられてしまうかもしれないですね」
唇が胸元に降りていく感覚に、心臓が壊れそうなほど高鳴った。
啄んだ箇所を舌で労わるように優しく舐められ、無意識によじった腰を逃げないように両膝で押さえこまれた。
私の五年越しの恋は、とんでもない転機を迎えてしまった――
第一章 見合いの打診
そんなことのはじまりは、その日の朝にさかのぼる――
一大イベントの株主総会を終えてホッとしていた七月初旬。
出社早々、会長に執務室に呼ばれた私は衝撃的な打診を受けていた。
「え……私が、お見合い、ですか?」
驚いて肩を震わせた拍子に、ひとつに束ねていた長い栗色の髪のひと筋が、はらりと顔の横に落ちてきた。
夏日と予想されている今日は、百四十七センチの体に薄手のシフォンシャツとブルーのAラインのスカートを身に着けている。幼く見られがちな顔には、いつものように軽いメイクをしてきたが、きっともう汗や緊張からほとんど残っていないだろう。
信じられない思いで、プレジデントデスクにいるボス・鷲宮会長を目をパチクリさせて見つめる。
「あぁ、すでに顔見知りだろうが、ぜひともあいつと縁があったらと思ってね」
まさかの言葉に、驚きすぎて二の句が継げなかった。シャツとスカートが、鼓動とともに動いているように錯覚した。
私ひとり呼び出され、なにかとんでもない失態があったのかと不安で仕方なかった。
用件が見合い話で一瞬肩の力が抜けたが、相手の名を聞いて卒倒しそうになってしまった。
まさか、こんなことがあるなんて……
「あいつは不愛想で仕事のことしか考えていないが、誰にでも優しくて仕事にも一生懸命な國井さんとなら、うまくいくような気がしてなぁ」
「で、でも」
「返事は急がないよ。あいつは癖のあるやつだからな。だが、受けてくれる気になったら、すぐにでも声をかけてくれ。じゃ、肇のところへ行ってくるよ」
「あっ、会長――」
会長はそれだけ言うと、私の返事を聞く前に子息である肇社長のもとへ行ってしまった。同族経営の我が社では、仲のいい親子であるおふたりが連携して経営に当たっている。
でも、ちょっと待ってほしい……
予想もしていない、夢みたいなお話に、私はしばらくその場を動くことができなかった。
――ここは、都内港区にそびえる、鷲宮ホールディングス本社ビル、二十七階・役員執務室。旧鷲宮財閥の流れをくむ我が社は、業種や業態が違うあらゆる一流企業をマネジメントする純粋持株会社であり、私、國井桜・二十七歳が、大学を卒業後五年ほど勤める企業である。
千を越える傘下を抱え、国内でも五本指に入る超優良企業。大学で猛勉強し、国際秘書検定を取得した私は、ここのグループセクレタリー、会長・鷲宮榮の第二秘書として、目まぐるしい日々を過ごしていた。
花形職業とは言われているけれども、恋愛はご無沙汰。彼氏ができたのは大学時代のたった一度だけで……入社してからは、不毛な片思いを温め続けていた。
そんな私に、まさか、こんなお話があるなんて。
「会長に呼び出されたと思ったら、見合い話だったって――なにその漫画みたいな出来事」
昼休み。会社近くの行きつけのイタリアンカフェで今朝のことを掻い摘んで話すと、同じ秘書で同期の佐伯友子が目を剥いた。グラビアアイドルのようにセクシーなのに、そんじょそこらの男よりも負けん気の強い彼女は、頼りになる私の親友だ。
ちなみに、我が社でもっとも多忙を極める、会長の子息・肇社長の第二秘書だ。
「それも相手は、ゼネマネ⁉」
うんうん! 何度も頷いて興奮を伝える。
「私もびっくりしちゃって。詳細を聞く前に会長は行っちゃったんだけど」
「バカね……。あんた、ずっと好きだったんだから、こんなチャンスないんじゃない?」
あからさまに言われて、ポッと頬が赤くなる。
――相手の名前を聞いたとき、私もまさかと思った。こんな偶然あるんだろうかって……
ゼネマネとは、鷲宮グループの秘書たちの統制をはかり、秘書統括責任者という秘書の最高峰の役職に就いている、私たちの上司・嶋田千秋さんのことだ。年齢は確か、三十四歳。
長身で均整のとれた体躯。サラリと斜めに流れる漆黒の髪。セルフレームの眼鏡から覗く、誰もが振り返るほどの美貌……
会長のお孫さんでありこの鷲宮ホールディングスの源流企業・鷲宮フーズの社長、鷲宮英斗さんの担当秘書でもある。そもそも鷲宮グループのグループセレクタリーの体制は、他とは少し違う。
通常ならひとりの上司を複数人で担当することを示すほうが多いが、私たちはどちらかというと〝鷲宮グループに所属する秘書〟という意味合いの方が強い。
ひとりの上司につき二名ほどの担当秘書がいて、執務室で業務にあたり行動を共にしている。社内業務を円滑に行うために、上司の不在時は、室長のいる秘書室にて、情報共有をしながら業務を進めている。
そして、グループ会社の秘書室を統括する立場にあるのが、彼、嶋田さんだ。
本来は担当に就く必要のない立場だが、そこは会長からの個人的な依頼なのだとか。
だから普段は、都内にある鷲宮フーズに勤務していて本社にはいない。
私はひょんなことがきっかけで彼に思いを寄せていた。
「――まぁ、あたしはなに考えているかわからない〝秘書室の悪魔〟なんて、いくらボスの頼みだとしても願い下げだけどね~」
「悪魔なんかじゃないってば、もう」
ジロリと見やると、パスタを口に運びながら友子が肩を竦める。
そう、知的で凛とした美貌を持っている彼なのだが、実は――影で〝秘書室の悪魔〟と呼ばれている。
というのも、常に真っ黒いスーツに身を包み、冷静沈着で仕事にとても厳しい。業務をこなす能力は一級品なのだが、歯に衣着せぬうえに慇懃な敬語口調が、周囲から敬遠されているのだ。まぁ、要は……悪口だ。
今回のお見合いは、とっつきにくく仕事人間の彼を心配した会長のお膳立てのようだ。
自分にも周囲にも厳しい嶋田さんは、理性の塊のような人だ。これまで浮いた噂ひとつ聞いたことがない。
そんな彼への思いは不毛だと考えてきたけれど……まさかの事態に胸の鼓動を抑えられない。
「でも、月末から、例のカナダの御曹司のサポートで、こっちに戻ってくるんでしょう? 見合いはいいけど、気まずくならないことを願うばかりね」
「……うっ、それを言われると」
友子の言うことはもっともだ。
今月末から、十一月上旬に控える創業百五十周年レセプションパーティーまでの約三ヶ月間。カナダのグループ企業の御曹司が、事業締結とトップマネジメント研修のため我が社に長期間来社することが決まっている。
身内事情なのもあって、その御曹司は期間中肇社長の傍に身を置くことになっている。その期間中の秘書……いわばその御曹司のサポート役として、経営知識と語学力に長けた嶋田さんに白羽の矢が立ったわけだ。
彼はペンタリンガルという五ヶ国語以上話せる逸材の上に、情報収集能力も高い。周囲への影響を最小限に留め、円滑にサポートをこなせるのは彼しかいないと、満場一致で決まったらしい。
つまり期間中は、彼と勤務地が同じになる。
「もちろん、せっかく同じ場所で働ける機会を台なしにしたくないから、迷惑をかけるつもりはないけれど」
嶋田さんがお見合いについてどう考えているかわからないし、自分の気持ちを押し付けるつもりは毛頭ない。
もっとも、進展を期待している恋ではない。仕事に取り組む彼の姿を見つめているだけで満足だから。
あわよくば……という邪念がないわけではないけれど。
「ふふっ、まぁ、せっかくのチャンスなんだし、その点も伝えた上で会長に取り持ってもらえばいいんじゃないの? この話、受けるんでしょ?」
「……決まったら声をかけてくれって言われたし、今日の帰りに返事をしようと思っているよ」
親友はなにもかもお見通しだ。結果は別として、これを機に少しでも彼のことを知れたら嬉しい。
「あたしや坪井さんは、月末からゼネマネと同じ職場になるってだけで、背筋に悪寒が走って仕方ないのに、幸せそうで羨ましいわ」
アイスティーを飲みながら苦笑する。坪井さんは友子の相棒で、肇社長の第一秘書だ。
「ゼネラルマネージャーはわけもなく厳しくする人じゃないよ」
今までに何度かスケジュール調整やメール対応について、厳しく指導を受けたことがある。
でもそれには、高齢の会長の体調面を考えてだったり、意味の取り違いを防いだりする意図があった。
『少し考えれば、わかることです』と、言いかたはなんとも手厳しいが、目に見えないものまで細やかに想定し気づかう姿に感銘を受けた。
会議資料や報告書を突き返されることが多く、膝から崩れ落ちそうになることもあるけれど。
「あの無表情と敬語のご指摘を前に笑顔でいられるのは、あんたくらいよ」
能天気で楽観的だと揶揄したいのだろう。
「……私だって、凹むときはあるよ? 情状酌量の余地が欲しいなとか」
「はいはい。恋する乙女はいつも幸せで羨ましいわね~。見合いの返事、ちゃんとするのよ?」
――もう、全然聞いていないんだから。
友子がケラケラ笑いながら時計を見て「時間ね」と席を立ち、私もそれにならう。
立った拍子に、取ろうとした伝票がはらりと床に落ちてしまった。
あ……!
すると、ピカピカの革靴が目の前に来て、私が手を伸ばすよりも早く伝票を拾いあげてくれた。
「ありがとうござ……」
革靴の主の顔を見たところで、声を詰まらせてしまった。
「情状酌量の余地もない厳しい男で、すみませんね」
……たった今まで、話題の中心にいた知的で凛とした美貌が、私より頭ふたつ分くらい高い位置から見下ろしていた。
「ぜ、ゼネラル、マネージャー」
友子が「げっ」と小さな悲鳴を上げた。
「どうぞ」
伝票を手渡され、反射的に「ありがとうございます」と受け取る。
嶋田さんはそのまま何事もなかったように、涼しい顔でカフェを出ていってしまった。
嫌味が含まれていたことに気づいたのは、カフェの扉が閉まったあとだった。
――もしかして私、とんでもない誤解をされている……?
仕事に戻りながら、サーッと血の気が引いた。
◇
――恋のきっかけは五年前。
秘書室に配属され、数週間が経過しようとしていた頃だった。
鷲宮会長は年齢を理由に肇社長に経営のほとんどを委ねていて、出勤は週に数回の非常勤形態をとっている。私と第一秘書の藤森さんは、ほかにふたりの非常勤役員秘書も兼任することで業務バランスをとっていた。
今ではこなせる内容だけれど、その頃は社会人になりたてで、ひとり暮らしをはじめたばかりの私にはなかなかのハードワークだった。
『國井、会食は明後日がはじめてだよな? 抜かりないように、会議までの間に最終チェックしておくぞ』
『ありがとうございます。お茶出しを終えたらそっちに行きます、藤森さん』
私の指導役で、第一秘書の藤森さんは、佐藤室長の隣にデスクを置くサブリーダーだ。
格闘選手のようなガタイながらも後輩思いで、熱血指導をしてくれるベテランの先輩だ。
この頃は株主総会が近いことから忙しく、休憩の合間に予習復習に付き合ってもらうことが多かった。手の抜きかたを知らず、毎日あっぷあっぷしていたのも覚えている。
そして、この日とうとう限界がきた――
『失礼します』
給湯室からトレイに会長の好きな茶葉とティーセットを載せて、執務室に持っていく。
プレジデントデスクの顎髭老紳士の前に、ダークスーツの後ろ姿が見えた。
――嶋田さんだ。
会長は彼を定期的に呼び寄せ、秘書室内の報告を受けたり、孫の英斗社長の近況を楽しそうに聞きだしたりしている。
彼の話はよく聞いていた。
綺麗な外見とは裏腹に、クールな物言いと容赦ない指摘をすること。
そんな彼は、みんなから恐れられていて、悪魔だのロボットだのと言われていること。
でも、私はそれを聞いても、みんなと同じように彼を嫌うことはなかった。
仕事上なにかと報告や相談をすることが多いが、みんなが言うほど彼の言葉をキツイとは感じないし、どんなに忙しくてもきちんと足を止めて丁寧に答えてくれる誠実な人だったからだ。秘書業務をしながらグループ会社の秘書室を統括する彼は、想像よりも遥かに多忙だろうから、なかなかできることではないだろう。
『ありがとう、國井さん』
『いえ』
お茶出しを終え、会長に笑みを返しその場をあとにしようとしたときのことだった。
目の前が霞んで、ぐらりと視界が揺れる。
『あ……れ……?』
全身から力が抜けて、膝から崩れ落ちる。
……やだ……倒れる。
遠のく意識の中でそう悟った瞬間、力強い腕がぐっと腹部に回りこみ、ふわりと身体が浮いた。
え……?
『顔色が悪いと思ったら……貧血でしょうか。健康管理を怠るなど言語道断です』
爽やかなグリーンの香りとともに、低く静かな声が鼓膜を震わせ、失いかけた意識がぼんやりと浮上する。
『國井さん! 大丈夫か⁉』
『部屋に入ってきたときから顔色がよくなかったので、おそらく疲労かなにかでしょう。会長はそのままお過ごしください。彼女はこのまま医務室に運びます』
どういうことだ。嶋田さんの整った顔がすぐ近くにある。わけがわからぬまま、心地よい浮遊感に身を委ねていると、会長の声が扉の向こうに消えていく。
パタリと扉が締まり、廊下のひんやりした空気にふれたところで、ようやく気づいた。
お姫さま抱っこされている……!
『すみ、ません……迷惑かけて、じぶんで歩きます……。ふじもりさんにも、ほうこく、しなきゃ……』
そう思うのに……どうしよう。クラクラして体が言うことを聞かない。全身に力が入らない。罪悪感でいっぱいになりながら、グリーンの香りのするスーツに、吸い寄せられるように頭を預けてしまった。
『はぁ、体力バカの藤森さんは加減を知らないからな……少し注意しておくか。あなたも、自分の限界くらい見極めてください。入社したてで夢中になるのはわかりますが、体を壊したら元も子もないでしょう』
藤森さんが……なに? 見極める……?
いつもより穏やかな声。もしかして、心配してくれているんだろうか……? 今にもくっつきそうな瞼を開けて、頑張って聞き取ろうと整った顔を下から見つめていると、
『まぁ……仕事熱心なのは、評価しますが』
柔らかな眼差しが私をとらえて、薄い唇が緩やかに弧を描いた。
その瞬間、朦朧とする私の脳内に、うららかな春の風が舞いこんだ。
あぁ、なんて温かく笑う人なのだろう……
そう――私は一瞬にして、その優しい笑顔に恋をしたのだった。
会長の計らいで、その後私は数日間の有給をもらった。そこから、私生活でも仕事でもいい意味で手を抜くことを覚えていったと思う。
藤森さんからは、しつこいほど謝罪してもらった。彼の熱心な指導が厚意からなのはわかっていたし、私の体調管理が不十分だっただけなのに。
『つい熱が入りすぎて、申し訳なかった!』
出勤してすぐ泣きつかれるものだから、どうしていいのかわからなかった。
――あれから、もう五年になる。
出勤後、お礼と謝罪を兼ねて送った彼への社内メールに返事はなかったし、もちろん仕事以外で会話をすることもなかった。けれど、私の気持ちはずっと変わらない。
◇
会長が出社する日は、だいたい会議や打ち合わせがある。
朝のスケジュール確認からはじまり、メールチェックや資料のファイリング。午後はスケジュール調整や打ち合わせや会議の準備、来客の応対など。このほかに資料作成や視察への同行、会食などが舞いこんでくるのだから、秘書という仕事は本当に日頃から気を抜けないと思う。
友子と慌ててカフェから戻ったこの日も、午後から経営会議が行われた。
「予定通り、クリスの来日後は例の事業で忙しくなるからふたりとも頼んだぞ」
「お任せください」
会議を終え執務室に戻ってきた会長は、表情を緩めて私たちに声をかけた。
留守を預かっていた私も、藤森さんの返事に頷き微笑む。
「今回の主導はレノックスに任せているが、事業発足のために、うちも力を尽くさねばならん。規模が大きいだけにプレッシャーも大きいかもしれないが、いつも通りな」
レノックスとは会長の友人の経営する、例のカナダの御曹司・クリスのいる企業だ。欧米での電子機器事業を担う、ウチのグループ企業のひとつでもある。海外の情報システムやデータ分析事業を展開していて、我が社はそことともに、とあるベンチャー企業との事業提携を試みている。規模が大きいだけに、上層部は一層慎重だ。
会長は書面を見ながら、しばらく難しい顔をしていた。
「……事業といえば、先日会食をした永谷社長から直々にご連絡がありましたね」
先が長い段階で、煮詰めすぎるのはあまりよくない。私は難しそうな顔をしている会長に、それとなく彼が意気投合した提携先の話を振った。
「ああ、永谷社長からなあ」
会長は嬉しそうな表情になって、私を見た。
「はい、会長や肇社長とのお時間がとても楽しかったようで、ぜひまたご一緒したいとのことで」
「あれはきっと、國井さんがセッティングした店と料理がよかったからだね、私たちも、話そっちのけで楽しんでしまったからなぁ」
会長は楽しそうに笑う。会長には見えないところで、藤森さんが『よくやった』と親指を立ててくれる。
私まで褒められるのは計算外だが、表情の明るくなった会長を見て、ほっと胸を撫でおろした。
「そういえば、今日の会議もやけに議題がスムーズに進むと思ったら、あれもあらかじめ進行役と情報共有をしてくれていたんだね」
「え? はっ、はい――」
まさか、別件のことが話題に上るとは思わず、びっくりする。
「おかげで経営会議が早く終わったよ、ありがとう」
長時間だと会長の体への負担が気になり提案したのだが、気づいた会長に藤森さんが話してくれたのだろう。恐縮だが、素直に嬉しい。
「長くなるとお体に負担ですから」
「……君は本当に優しいね、ありがとう。今朝の話も、いい返事を待っているよ」
さりげなくお見合いの返事を催促されてドキリとした。
――そうだ、お見合い……
忙しさでごまかしていたけれど、昼休みのカフェでの一件が頭をよぎり、胸が締め付けられる。
――嶋田さん、完全に誤解している様子だった。私の真意はそういうことではないのに……
お見合いまでに、伝えられればいいのだけれど。
悶々としていると、内線がかかってきて、応答した藤森さんに呼ばれた。
「國井。悪いが、帰りにミーティングルームに寄ってくれるか? 嶋田がお前に渡したい稟議書と書類があるんだとよ」
藤森さんの突然の指示に、心臓が飛びあがった。あと数分で終業時間を迎える。
――ゼネラルマネージャーが……?
図らずもやってきた好機に、鼓動が早鐘を刻みはじめる。
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