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1巻
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プロローグ
「別れよう。他に好きな人ができたんだ」
桜の蕾が膨らみ始めた麗らかな春の日。
卒業式を終えたばかりの高校の裏庭で、三雲瑠衣は恋人の川瀬に突然の別れを告げられた。あまりに突然の出来事に頭が回らない瑠衣に、川瀬は流れるように言った。
もう随分と前から瑠衣には飽きていて、ここ数ヶ月は惰性で付き合っていたこと。
そんな時に年上のOLと出会い、親密な関係になったこと。
「これでも気を遣ったんだぜ? 受験前に振って、お前が落ちたら可哀想だから今日まで待ったんだ。でも、無事合格したしもういいよな。今だから言うけど、お前の澄ました態度にはうんざりしてたんだ。お高くとまってて、いつも見下されてるような気がしてた。どうせ俺と付き合ったのだって気まぐれで、そんなに好きだったわけじゃないだろ?」
「ちがっ、そんなこと――」
「確かにお前は完璧だよ。美人で、頭もよくて、運動もできる。学校一モテる女を彼女にできて、俺も嬉しかった。でもそんなの初めだけだ。全然甘えてこないし、可愛げがないんだよ、お前」
「っ……!」
「大学も違うしこの先会うこともないだろ。じゃあな、それなりに楽しかったよ」
最後にそう言い残して、川瀬はその場に立ち尽くす瑠衣を置いて去っていった。
――その後のことはほとんど覚えていない。
気づけば瑠衣の足は図書室に向かっていた。
読書が趣味の瑠衣にとって、図書室は教室以上に落ち着く場所だ。少しカビ臭くて湿ったような独特の匂い。本のページをめくる音やカリカリとペンを走らせる音。それらは不思議と心地よくて、暇さえあれば図書室を訪れていた。
卒業式の日の図書室は当然のようにしんと静まり返っていた。開け放たれた窓から吹き込む風でゆらゆらと揺れるカーテンに吸い寄せられるように、瑠衣は窓辺へと足を向けた。図書室からは裏庭が見える。もちろん、先ほど瑠衣が振られたばかりの桜の木も。
(……私、振られたんだ)
付き合って二年。瑠衣の青春は常に川瀬と共にあった。だからこそ、川瀬の主張はあまりに突然で、一方的で、瑠衣はなんの反応もできなかった。しかしこうして一人になってようやく実感する。川瀬の気持ちが自分から離れていたことに、瑠衣は全く気づいていなかった。
内部進学する川瀬と違い、外部進学の瑠衣は三年生になって受験勉強が忙しくなった。必然的に川瀬と過ごす時間は減っていたが、時々はデートをしていたし、変わらず上手くいっていると思っていた。でも、それは瑠衣だけだったらしい。
瑠衣が受験勉強に励んでいる間、川瀬は他の女と関係を深めていた。
「……馬鹿みたい」
澄ましてるとか、見下してるとか、そんなことなかったのに。
瑠衣は甘えていたつもりでも、川瀬はそんな風には思っていなかったのだ。
目頭が熱い。気づけば瑠衣は泣いていた。
自分が怒っているのか、悲しんでいるのかもわからないのに、涙は止めどなく溢れて頬を濡らしていく。喉からは声にならない嗚咽が漏れて息苦しい。
何も知らなかった。気づかなかった。そんな自分が愚かしくて、情けなくてたまらなかった。
「三雲さん?」
感情のまま涙を流していた瑠衣は、弾かれたように後ろを向く。
「山田……?」
ドアの前に立っておどおどと答えたのは、図書委員の山田だった。
もじゃもじゃの癖のある黒髪をした猫背の彼は、戸惑いながらもゆっくりと瑠衣の方に近づいてくる。分厚い眼鏡をかけた目元は、長い前髪に隠れてほとんど見えない。しかしその視線が泣いている自分に向けられているのは明らかで、瑠衣はさっと視線を逸らした。
「なんで、ここに」
「最後に司書の先生に挨拶をしようと思って……」
「……先生ならいないよ。職員室に行ってみたら?」
言外に一人にしてほしいと伝えるが、山田が動く気配はない。
「何?」
「泣いてる三雲さんを放っておくなんてできないよ」
「っ……山田には関係ないでしょ?」
嫌な言い方をしている自覚はあった。瑠衣の失恋と山田はなんの関係もないのに、ただ居合わせただけで「どこかに行け」なんて最低だと思う。
それがわかっていても、感情を抑えることができない。だからこそ山田には早く立ち去ってほしかった。彼は、瑠衣にとって唯一の男友達だったから。
一部の生徒から「ヲタク」「キモ眼鏡」「ガリ勉野郎」と酷いあだ名をつけられていたのは知っていたが、山田はとても読書家で、しかも瑠衣と本の好みが似ていた。
クラスも違うし共通の友人もいない。自己紹介の時に苗字しか教えてくれなかったから、いまだに下の名前も知らない。それでも、本について語る時の彼は普段とは別人のように饒舌になるのを知っていた。
いつからか、瑠衣と山田は放課後に顔を合わせて本の貸し借りをする仲になっていた。
学校では何かと目立つ自分に対して、なんの興味も示さない山田の存在は新鮮で、そんな彼と過ごす時間は不思議と嫌いじゃなかった。
「……嫌な言い方をしてごめんね」
顔を逸らしたまま瑠衣は謝罪する。
「私、振られたの。ずっと、うんざりしてたんだって。見下してるとか、お高くとまってるとか……そんなつもり、全然なかったのに」
「三雲さん……」
「……何がいけなかったのかな」
考えても答えはわからない。急にこんなことを聞かされた山田も困るに決まっている。
「……ごめん、最後なのに変なこと言っちゃって」
「最後じゃない。最後になんてしたくない」
はっきりとした声にはっと顔を上げて――驚いた。いつもは俯いて小さな声で話す彼が、初めて瑠衣を正面から見ていたのだ。
「山田?」
「三雲さん……、僕と付き合おう」
「え……?」
「僕と付き合ってほしい」
――聞き間違いではなかった。
それを理解した瞬間、真っ先に感じたのは戸惑いだった。
「……何言ってるの? 付き合うって、私たちは友達でしょ?」
山田なりに慰めてくれようとしているのだろうか。だがその考えはすぐに否定される。
「慰めたくて言ってるんじゃない。それに僕は、三雲さんを友達だと思ったことは一度もない」
友達ではない。明確な否定に、ひゅっと喉の奥が鳴る。
「好きなんだ。初めて会った時からずっと、君のことが好きだった」
瑠衣はそれに反応できなかった。
――知らない。
こんな風に瑠衣を熱っぽく見つめて感情を露わにする山田なんて知らない。力強い声色も、凛と伸びた背筋も、全てが別人のようだった。何よりも友達ではないと否定されたことが苦しくて、辛かった。
「やめて!」
感情のままに瑠衣は叫ぶ。直後にはっと我に返るも、遅かった。
山田が唇をきゅっと引き結んでいる。その姿からは彼が傷ついたのが十分伝わってきた。
――最悪だ。
言い表しようのない罪悪感が襲ってきて、瑠衣はその場から逃げ出した。
「三雲さん!」
すぐに後ろから呼び止める声がしたけれど、足を止めない。図書室を出た瑠衣は階段を駆け下り、校舎を後にした。そのまままっすぐ家に帰って、自室の扉を閉めるなりベッドに突っ伏して声を殺して泣いた。
「ごめ……ごめんなさい……」
最後に見た山田の傷ついた顔が頭から離れない。
十八歳の春。
瑠衣は彼氏と友人を一度に失ったのだった。
1
都内の夜景を一望できる某ラグジュアリーホテル。
そのレストランの一室で一組の男女が向かい合っていた。
一目で質のよさがわかるスーツを着た男の手の中で、ダイヤモンドのリングが眩いばかりの煌めきを放っている。まるでドラマのワンシーンを切り取ったようなこの状況で、男から発せられる次の言葉は容易に想像できた。
もしもここにいるのが恋人同士なら、女は期待で胸を高鳴らせて男の言葉を待つのだろう。
でも、瑠衣は違った。
(お願いだから、その指輪をしまって……!)
なぜなら瑠衣と目の前の男は恋人ではない。仕事の付き合いで何度か顔を合わせただけで、友人ですらないのだから。
瑠衣は現在、株式会社日本マイアフーズ東京支社営業部に所属している。
アメリカに本社を置くマイアフーズは創業百年を超える世界的食品メーカーで、食料品や飲料品、菓子などの製造販売を行っている。現在入社七年目の瑠衣の業務は営業で、取引先であるスーパーやドラッグストア、コンビニや百貨店に自社製品を売り込むのが主な仕事である。
具体的な業務としては、取引先のバイヤーと商談を行ったり、仕入れ後の商品の販売案の企画や提案などがあるが、目の前の男と出会ったのもそんな時だった。
取引先の役員かつ跡取り息子である男は、仕事で訪問していた瑠衣を偶然見かけたらしい。
自分の何を気に入ったのか、会社を来訪するたびに顔を見せては食事に誘ってきた。瑠衣は丁重に断り続けていたのだが、面倒なことにどこかからそれが上司の耳に入ってしまった。
『別に食事くらいいいじゃないか。接待だと思えばいいし、これも仕事のうちだ』
上司は、そう苦言を呈してきたのだ。
勝手なことを言う上司に苛立ちはしたものの、一度食事に行って相手の気が済むのならその方がいいかもしれないと考え直した。だから、瑠衣は上司も同席することを条件に食事を了承したのだが、いざレストランを訪れてみると、待っていたのは男だけだったのだ。
はめられたと気づいた時には後の祭り。しがないOLの自分が、取引先の御曹司を一人残して帰る選択肢はありえなかった。故に瑠衣は、丁重に相手をしてつつがなく食事会を終えようと考えていたのだけれど――
「三雲瑠衣さん!」
「は、はい!」
それは、叶わない願いだったらしい。
「初めて会った瞬間からあなたに惹かれていました。俺と一緒になってくれれば、一生生活には苦労させません。もちろん仕事は辞めていい。だから、俺と結婚を前提に付き合ってください!」
男は瞳を輝かせて笑顔で言い切った。指輪に負けないくらいのキラキラスマイルからは、イエス以外の言葉はありえないと思っているのがひしひしと伝わってくる。
そんな相手を前に言えるわけがなかった。
私たちは知り合ってまだ二ヶ月ですよ、とか。
付き合う前に指輪って、それはもうプロポーズですよ、とか。
なぜ仕事を辞める前提になっているのか、とか。
言いたいことはたくさんあるが、正直に伝える勇気は瑠衣にはない。
男の会社と瑠衣の会社の付き合いは深く、今後も関わっていくことがわかっている。
故に瑠衣は、山のような突っ込みを腹の中にしまい男と向き合った。
「ごめんなさい。あなたとお付き合いすることはできません。――山田さん」
謝罪しながらも頭をよぎったのは、かつて自分が振った男のことだった。
◇
「――それで、振られて泣き出した御曹司を必死に慰めたのか? 振ったお前が?」
「……そうよ」
会社のラウンジで休憩を取っていた瑠衣は、ため息混じりに頷く。すると、隣で缶コーヒー片手に立っていた男はぶはっと噴き出し、堪えきれないように肩を震わせ始めた。
「笑いごとじゃないんだけど」
横目でじろりと睨むと、男は「いや、だって」と笑いを噛み殺す。
「笑うなとか無理だろ。想像しただけで面白すぎる」
目尻に涙を浮かべて笑う男の名前は、同期の神宮寺竜樹。
瑠衣と同じ東京支社営業部に所属する彼は、「ああ可笑しい」と引き攣った声で小さく呟く。
「その後は、秘書に山田さんを引き渡して一人で帰宅した、と」
「……だからそうだってば。本当に大変だったのよ。山田さんを迎えに来た秘書の方には白い目で見られるし、今回のことが原因で山田商事の担当も外されるし」
「しかもその後任者が俺だもんな」
「そうよ。それが一番面白くないの」
よく言えばライバル、悪く言えば目の上のたんこぶ。瑠衣にとって神宮寺はそんな存在だった。
入社年数こそ同じ二人だが、その経歴はまるで違う。瑠衣は、都内の大学を卒業後、新卒で日本マイアフーズに入社して以来、今日までずっと東京支社営業部に所属している。
対する神宮寺はアメリカの大学を卒業後、そのまま現地採用で本社に入社。その後、素晴らしい営業成績を連発して何度も社長賞を受賞するなど目覚ましい活躍をしてきた。
そんな彼は、二年前、本社から東京支社営業部に異動してくるなりあっという間にトップの営業成績を叩き出したのだ。
ちなみにそれまで東京支社でトップをひた走っていたのは瑠衣である。しかし今では「営業部のエースは神宮寺」というのが部内の共通認識で、瑠衣はずっと二番手か三番手に甘んじていた。
それでも、「いつか神宮寺を越えてやる!」の一心で仕事に励んでいたのに、今回、大口取引先である山田商事の担当者を彼に譲ることになってしまったのだ。
そんなの落ち込むなという方が無理な話だ。
「ま、そのうちいいことあるさ」
中身がなさすぎる慰めの言葉に、瑠衣はじろりと神宮寺を睨む。
「山田商事と取引するために私がどれだけ必死に営業をかけてきたかは知ってるでしょ。神宮寺が担当になった途端に売り上げ激減、なんてことになったら許さないから」
「むしろ三雲が担当してた時より売り上げを増やしてやるから、楽しみに待っとけよ。数字を見て悔しがるお前の姿を見るのが今から楽しみだわ」
「言ったわね? 大口を叩いて売り上げが下がったら笑うから」
わかりやすい挑発にあえて乗っかる。だが、神宮寺は余裕綽々な様子でふんと鼻で笑った。
「そんなことにはならないから安心しろ。でも、どうして山田さんを振ったんだ? 山田商事の次期社長夫人なんてなりたいと思ってもなれるもんじゃない。その立場を狙ってる女なんて山のようにいるだろうに」
関東を中心にドラッグストアを展開する山田商事は、国内でも名の知れた大手企業だ。その御曹司の求婚を断るなんて、と当然といえば当然の質問をされた瑠衣は、うんざりして顔をしかめた。
「部長と同じことを言うのね」
「部長?」
瑠衣と山田商事の御曹司を二人きりにするよう仕組んだ部長は、それを謝罪するどころか交際を断った瑠衣を遠回しに責めてきた。
「『取引を打ち切られなくてよかった』『せっかくの玉の輿だったのにもったいない』って、ネチネチネチネチ。だいたい、仕事を辞める前提で話す人と結婚なんてしないわ」
瑠衣は今の仕事が好きだ。もちろん楽しいことばかりではないし、時に苦しいことや辛いこともある。それでも売り上げという目に見える形で成果がわかるのは楽しいし、自分の考えた販売企画が実現して売り場に反映されるのを見るのは素直に嬉しい。
加えて営業職の給与には、基本給の他に営業成績手当が付与される。
トップをひた走る神宮寺には及ばないものの、瑠衣の年収は同年代女子の平均より高い。
自分の好きな仕事をして、生活するのに十分な収入も得られる。それらを捨てて顔見知り程度の男――しかも「山田」だ――と結婚するなんて選択肢は、瑠衣にはなかった。
「玉の輿には乗りたい人が乗ればいい。でも私は興味ないわ。社長夫人にならなくても、自分で食べる分くらいは自分で稼ぐもの」
可愛げの欠片もない自覚は十分あったが、神宮寺も瑠衣にそんなものは期待していないだろう。
そう思っていたのに、彼の反応は違った。彼は、まるで眩しい存在を見つめるような眼差しを瑠衣に向けてきたのだ。
「いいな。お前のそういうとこ、すげー好き。惚れるわ」
「は……?」
好き。惚れる。その言葉にドキッとしたのは一瞬だった。
「男らしくてかっこいい」
即座にオチをつける男に、瑠衣は、はあと深いため息をつく。
「突っ込むのも面倒だけど一応言っておくわ。私、女だから。あと、神宮寺に惚れられても全然嬉しくない」
「馬鹿だな。俺がかなりモテるの知らないのか?」
「自惚れもほどほどにね」
「見る目がないな、事実だっての」
ああ言えばこう言う。本当に口の減らない男だ。しかし悔しいことに、神宮寺の言葉は本当だった。
百八十センチを超える長身。きりりとした眉毛と切れ長の涼やかな目。
すっと通った鼻筋に形のよい唇。それらは完璧な配置をしていて、「イケメン」「美形」という言葉はこの男のためにあるのではと思うほど整っている。
長年海外で暮らしていたため英語はネイティブレベルだし、さりげなくレディーファーストだったりする。エレベーターでは扉を押さえて女性を先に乗せたり、女性の重い荷物を持ってあげたりといったことを、とてもスマートに行う。その上、人当たりが抜群にいい。基本的には笑顔で時々冗談を言いつつも、決める時にはきちんと決めるのだ。
顔がよくて、仕事もできて、その上人もよくて面白い。当然モテないはずがなく、神宮寺は間違いなく社内で最も人気のある男なのは間違いない。
女性関係もかなり華やからしく、噂では「来る者拒まず去る者追わず」「彼女は取っ替え引っ替え」と聞いたことがある。つい先日も秘書課の女性と別れて取引先の社長令嬢に乗り換えた、なんて話を聞いたばかりだ。その真偽のほどは定かではないが、神宮寺は女性社員はもちろん男性社員からの人気も高いのは周知の事実である。
そんな男をライバル視している女なんて、社内中探しても瑠衣くらいのものだろう。
女性から黄色い声を浴びるのが常の神宮寺にとっても、瑠衣の存在は面白いのか、彼は何かと瑠衣に突っかかってはその反応を見て楽しんでいる節がある。今だって、山田商事の担当を外されたショックでラウンジに来ていた瑠衣をわざわざ探しに来たのだ。
(ほんと、腹が立つ)
それなのに嫌いになれないのは、彼が嫌味なだけの男ではないと知っているからだろう。
「とにかく、山田商事については心配するな。これまでのお前の努力を無駄にはしないよ」
意地悪くからかってきたかと思えば、こうして欲しかった言葉をくれる。
そんな男だからこそ、瑠衣は負けたくないと思うのだ。
「……そうなることを祈ってるわ」
「あっ! 神宮寺さん、こんなところにいたんですね!」
その時、ラウンジに甲高い声が響き渡る。談笑していた二人のもとにやってきたのは、同じ営業部に所属する営業事務職の原田理保だ。二十四歳の彼女は瑠衣より頭一つ分は背が低い。小柄な体やくりくりのぱっちりした瞳は「可愛い」の一言に尽きる。
柔らかそうな白いシフォンシャツと明るい茶色のスカートを着た彼女は、きつい顔立ちの瑠衣とは正反対の、守ってあげたくなるような雰囲気を持っていた。
「探しましたよお」
原田は甘えるような声で神宮寺に話しかける。
「原田さん、どうかしたの?」
「先ほど神宮寺さん宛にお電話がありました。山田商事の担当者さんからで、できるだけ早く連絡がほしいそうです」
「わかった。すぐに戻るよ」
「あっ、缶は私が捨てておきます!」
「そう? なら頼むよ、ありがとう。――じゃあな、三雲」
神宮寺は原田に缶を渡すと足早に去っていく。その後ろ姿が見えなくなるなり、原田は乱暴な手つきで空き缶をゴミ箱に投げ捨てた。次いで瑠衣の方を見ると、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。先ほどまでのご機嫌な様子はどこへやら、瑠衣を見る視線はとても鋭い。
「三雲さん。こんなところで仕事をさぼって、神宮寺さんと何を話してたんですか?」
問い詰めるような口調に、たまらずため息が漏れた。
原田が神宮寺を狙っているのは社内でも周知の事実だ。今はまだ片思いの段階らしいが、ことあるごとに神宮寺にアピールしているのを瑠衣もよく目にしている。
そんな彼女にとって彼と同期の瑠衣は目障りな存在らしい。
神宮寺の目を盗んでは、こうして絡んでくるのだ。
――そんなことをする暇があれば仕事をしてよ。
そんな本音をぐっと堪えて、瑠衣は原田に向き合って淡々と答えた。
「仕事の話をしていただけよ。それに少し休憩していただけでさぼっていたわけじゃないわ」
「……本当ですか?」
「本当よ」
疑うような視線さえ煩わしくて、瑠衣は淡々と答える。指導するべき後輩にこんな感情を持つのは褒められたことではない。それはわかっているが、業務外のことで一方的な嫉妬をぶつけられるなんてたまったものではない。
「ならいいですけど。私が神宮寺さんを好きなのは知ってますよね。邪魔だけはしないでくださいよ」
言うだけ言って気が済んだのか、原田はくるりと背中を向けて去っていく。
彼女の子供っぽい牽制に、瑠衣は何も答えなかった。
学生の恋愛ではあるまいし、とても職場でするような話ではない。しかも当の本人は神宮寺に片思いしているだけで恋人ですらないのだ。反応するのも馬鹿らしい。
「はあ……」
疲れる。それが率直な感想だった。
自分が一部の女性社員から煙たがられている自覚はあった。
男女平等が謳われて久しいが、この会社の営業職はいまだ男性社員の比率が高い。そんな中、女ながらに営業の最前線に立つ瑠衣の存在は周囲から「お高くとまってる」ように見えるらしい。
勝気そうな外見や、常に化粧や髪、ネイルに気を抜かないところも面白くないと陰口を叩かれているのを聞いたこともある。加えて、人気者の神宮寺と同期で気安い間柄というのがさらに女性社員の嫉妬を買っていた。
とはいえ、ほとんどの女性社員はそれを表立って口にしたりしないし、瑠衣も仕事に支障がない分には構わないと思っていた。
それ以外の社員とはほどよい関係が築けているし、信頼する同僚も上司もいる。
だが唯一の例外が原田理保なのだ。彼女は昨年、経理部から営業部に異動してきた。
営業事務の彼女は瑠衣の後輩という扱いで、仕事上でもよく関わる。それなのに神宮寺と話すたびに噛みつかれていて、やりにくいことこの上ない。
(会社は学校じゃないのよ。惚れた腫れたはよそでやってよ)
本人の前で言ったことはないものの、何度そう口に出かかったことか。
営業事務としての原田はけして無能ではない。瑠衣と違って愛嬌のあるところは彼女の長所だと思うし、細やかで丁寧な仕事をするところも評価できる。感情が表に出やすいところはどうかと思うものの、基本的に彼女は優秀なのだ。
瑠衣に対する態度は褒められたものではないが、頼んだ仕事はきちんとこなしてくれていた。
だがひとたび神宮寺が絡むと、それらが帳消しになるくらい面倒になるのだ。
――好きだから。
ただ、それだけの理由で。
だがあいにく、瑠衣はその感情が理解できなかった。
最初の失恋から約十年。この間、それなりに恋愛はしてきたつもりだ。しかしその中で、瑠衣の中に生まれた恋愛観は、愛とか恋とかめんどくさい、というなんとも冷めたものだった。
高校の時に初めてできた彼氏との恋は、卒業式の日、相手の浮気という形で桜以上に見事に散った。浮気相手は年上のOL。今の自分なら「男子高校生に手を出すようなOLは、ろくでもないからやめておけ」くらい言えるが、当時は初心な女子高生。傷ついて終わってしまった。
次に付き合ったのは大学生の時で、同じサークルの先輩だった。
最初の彼氏に『可愛げがない』と言われた苦い経験から、先輩には素直に甘えてみた。すると今度は『思っていたのと違う。もっと大人っぽいと思っていた』と振られてしまった。ならばと次にできた彼氏には、極力甘えず冷静に接したところ、またもや『もっと甘えてほしかった』と言われる始末。
「別れよう。他に好きな人ができたんだ」
桜の蕾が膨らみ始めた麗らかな春の日。
卒業式を終えたばかりの高校の裏庭で、三雲瑠衣は恋人の川瀬に突然の別れを告げられた。あまりに突然の出来事に頭が回らない瑠衣に、川瀬は流れるように言った。
もう随分と前から瑠衣には飽きていて、ここ数ヶ月は惰性で付き合っていたこと。
そんな時に年上のOLと出会い、親密な関係になったこと。
「これでも気を遣ったんだぜ? 受験前に振って、お前が落ちたら可哀想だから今日まで待ったんだ。でも、無事合格したしもういいよな。今だから言うけど、お前の澄ました態度にはうんざりしてたんだ。お高くとまってて、いつも見下されてるような気がしてた。どうせ俺と付き合ったのだって気まぐれで、そんなに好きだったわけじゃないだろ?」
「ちがっ、そんなこと――」
「確かにお前は完璧だよ。美人で、頭もよくて、運動もできる。学校一モテる女を彼女にできて、俺も嬉しかった。でもそんなの初めだけだ。全然甘えてこないし、可愛げがないんだよ、お前」
「っ……!」
「大学も違うしこの先会うこともないだろ。じゃあな、それなりに楽しかったよ」
最後にそう言い残して、川瀬はその場に立ち尽くす瑠衣を置いて去っていった。
――その後のことはほとんど覚えていない。
気づけば瑠衣の足は図書室に向かっていた。
読書が趣味の瑠衣にとって、図書室は教室以上に落ち着く場所だ。少しカビ臭くて湿ったような独特の匂い。本のページをめくる音やカリカリとペンを走らせる音。それらは不思議と心地よくて、暇さえあれば図書室を訪れていた。
卒業式の日の図書室は当然のようにしんと静まり返っていた。開け放たれた窓から吹き込む風でゆらゆらと揺れるカーテンに吸い寄せられるように、瑠衣は窓辺へと足を向けた。図書室からは裏庭が見える。もちろん、先ほど瑠衣が振られたばかりの桜の木も。
(……私、振られたんだ)
付き合って二年。瑠衣の青春は常に川瀬と共にあった。だからこそ、川瀬の主張はあまりに突然で、一方的で、瑠衣はなんの反応もできなかった。しかしこうして一人になってようやく実感する。川瀬の気持ちが自分から離れていたことに、瑠衣は全く気づいていなかった。
内部進学する川瀬と違い、外部進学の瑠衣は三年生になって受験勉強が忙しくなった。必然的に川瀬と過ごす時間は減っていたが、時々はデートをしていたし、変わらず上手くいっていると思っていた。でも、それは瑠衣だけだったらしい。
瑠衣が受験勉強に励んでいる間、川瀬は他の女と関係を深めていた。
「……馬鹿みたい」
澄ましてるとか、見下してるとか、そんなことなかったのに。
瑠衣は甘えていたつもりでも、川瀬はそんな風には思っていなかったのだ。
目頭が熱い。気づけば瑠衣は泣いていた。
自分が怒っているのか、悲しんでいるのかもわからないのに、涙は止めどなく溢れて頬を濡らしていく。喉からは声にならない嗚咽が漏れて息苦しい。
何も知らなかった。気づかなかった。そんな自分が愚かしくて、情けなくてたまらなかった。
「三雲さん?」
感情のまま涙を流していた瑠衣は、弾かれたように後ろを向く。
「山田……?」
ドアの前に立っておどおどと答えたのは、図書委員の山田だった。
もじゃもじゃの癖のある黒髪をした猫背の彼は、戸惑いながらもゆっくりと瑠衣の方に近づいてくる。分厚い眼鏡をかけた目元は、長い前髪に隠れてほとんど見えない。しかしその視線が泣いている自分に向けられているのは明らかで、瑠衣はさっと視線を逸らした。
「なんで、ここに」
「最後に司書の先生に挨拶をしようと思って……」
「……先生ならいないよ。職員室に行ってみたら?」
言外に一人にしてほしいと伝えるが、山田が動く気配はない。
「何?」
「泣いてる三雲さんを放っておくなんてできないよ」
「っ……山田には関係ないでしょ?」
嫌な言い方をしている自覚はあった。瑠衣の失恋と山田はなんの関係もないのに、ただ居合わせただけで「どこかに行け」なんて最低だと思う。
それがわかっていても、感情を抑えることができない。だからこそ山田には早く立ち去ってほしかった。彼は、瑠衣にとって唯一の男友達だったから。
一部の生徒から「ヲタク」「キモ眼鏡」「ガリ勉野郎」と酷いあだ名をつけられていたのは知っていたが、山田はとても読書家で、しかも瑠衣と本の好みが似ていた。
クラスも違うし共通の友人もいない。自己紹介の時に苗字しか教えてくれなかったから、いまだに下の名前も知らない。それでも、本について語る時の彼は普段とは別人のように饒舌になるのを知っていた。
いつからか、瑠衣と山田は放課後に顔を合わせて本の貸し借りをする仲になっていた。
学校では何かと目立つ自分に対して、なんの興味も示さない山田の存在は新鮮で、そんな彼と過ごす時間は不思議と嫌いじゃなかった。
「……嫌な言い方をしてごめんね」
顔を逸らしたまま瑠衣は謝罪する。
「私、振られたの。ずっと、うんざりしてたんだって。見下してるとか、お高くとまってるとか……そんなつもり、全然なかったのに」
「三雲さん……」
「……何がいけなかったのかな」
考えても答えはわからない。急にこんなことを聞かされた山田も困るに決まっている。
「……ごめん、最後なのに変なこと言っちゃって」
「最後じゃない。最後になんてしたくない」
はっきりとした声にはっと顔を上げて――驚いた。いつもは俯いて小さな声で話す彼が、初めて瑠衣を正面から見ていたのだ。
「山田?」
「三雲さん……、僕と付き合おう」
「え……?」
「僕と付き合ってほしい」
――聞き間違いではなかった。
それを理解した瞬間、真っ先に感じたのは戸惑いだった。
「……何言ってるの? 付き合うって、私たちは友達でしょ?」
山田なりに慰めてくれようとしているのだろうか。だがその考えはすぐに否定される。
「慰めたくて言ってるんじゃない。それに僕は、三雲さんを友達だと思ったことは一度もない」
友達ではない。明確な否定に、ひゅっと喉の奥が鳴る。
「好きなんだ。初めて会った時からずっと、君のことが好きだった」
瑠衣はそれに反応できなかった。
――知らない。
こんな風に瑠衣を熱っぽく見つめて感情を露わにする山田なんて知らない。力強い声色も、凛と伸びた背筋も、全てが別人のようだった。何よりも友達ではないと否定されたことが苦しくて、辛かった。
「やめて!」
感情のままに瑠衣は叫ぶ。直後にはっと我に返るも、遅かった。
山田が唇をきゅっと引き結んでいる。その姿からは彼が傷ついたのが十分伝わってきた。
――最悪だ。
言い表しようのない罪悪感が襲ってきて、瑠衣はその場から逃げ出した。
「三雲さん!」
すぐに後ろから呼び止める声がしたけれど、足を止めない。図書室を出た瑠衣は階段を駆け下り、校舎を後にした。そのまままっすぐ家に帰って、自室の扉を閉めるなりベッドに突っ伏して声を殺して泣いた。
「ごめ……ごめんなさい……」
最後に見た山田の傷ついた顔が頭から離れない。
十八歳の春。
瑠衣は彼氏と友人を一度に失ったのだった。
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都内の夜景を一望できる某ラグジュアリーホテル。
そのレストランの一室で一組の男女が向かい合っていた。
一目で質のよさがわかるスーツを着た男の手の中で、ダイヤモンドのリングが眩いばかりの煌めきを放っている。まるでドラマのワンシーンを切り取ったようなこの状況で、男から発せられる次の言葉は容易に想像できた。
もしもここにいるのが恋人同士なら、女は期待で胸を高鳴らせて男の言葉を待つのだろう。
でも、瑠衣は違った。
(お願いだから、その指輪をしまって……!)
なぜなら瑠衣と目の前の男は恋人ではない。仕事の付き合いで何度か顔を合わせただけで、友人ですらないのだから。
瑠衣は現在、株式会社日本マイアフーズ東京支社営業部に所属している。
アメリカに本社を置くマイアフーズは創業百年を超える世界的食品メーカーで、食料品や飲料品、菓子などの製造販売を行っている。現在入社七年目の瑠衣の業務は営業で、取引先であるスーパーやドラッグストア、コンビニや百貨店に自社製品を売り込むのが主な仕事である。
具体的な業務としては、取引先のバイヤーと商談を行ったり、仕入れ後の商品の販売案の企画や提案などがあるが、目の前の男と出会ったのもそんな時だった。
取引先の役員かつ跡取り息子である男は、仕事で訪問していた瑠衣を偶然見かけたらしい。
自分の何を気に入ったのか、会社を来訪するたびに顔を見せては食事に誘ってきた。瑠衣は丁重に断り続けていたのだが、面倒なことにどこかからそれが上司の耳に入ってしまった。
『別に食事くらいいいじゃないか。接待だと思えばいいし、これも仕事のうちだ』
上司は、そう苦言を呈してきたのだ。
勝手なことを言う上司に苛立ちはしたものの、一度食事に行って相手の気が済むのならその方がいいかもしれないと考え直した。だから、瑠衣は上司も同席することを条件に食事を了承したのだが、いざレストランを訪れてみると、待っていたのは男だけだったのだ。
はめられたと気づいた時には後の祭り。しがないOLの自分が、取引先の御曹司を一人残して帰る選択肢はありえなかった。故に瑠衣は、丁重に相手をしてつつがなく食事会を終えようと考えていたのだけれど――
「三雲瑠衣さん!」
「は、はい!」
それは、叶わない願いだったらしい。
「初めて会った瞬間からあなたに惹かれていました。俺と一緒になってくれれば、一生生活には苦労させません。もちろん仕事は辞めていい。だから、俺と結婚を前提に付き合ってください!」
男は瞳を輝かせて笑顔で言い切った。指輪に負けないくらいのキラキラスマイルからは、イエス以外の言葉はありえないと思っているのがひしひしと伝わってくる。
そんな相手を前に言えるわけがなかった。
私たちは知り合ってまだ二ヶ月ですよ、とか。
付き合う前に指輪って、それはもうプロポーズですよ、とか。
なぜ仕事を辞める前提になっているのか、とか。
言いたいことはたくさんあるが、正直に伝える勇気は瑠衣にはない。
男の会社と瑠衣の会社の付き合いは深く、今後も関わっていくことがわかっている。
故に瑠衣は、山のような突っ込みを腹の中にしまい男と向き合った。
「ごめんなさい。あなたとお付き合いすることはできません。――山田さん」
謝罪しながらも頭をよぎったのは、かつて自分が振った男のことだった。
◇
「――それで、振られて泣き出した御曹司を必死に慰めたのか? 振ったお前が?」
「……そうよ」
会社のラウンジで休憩を取っていた瑠衣は、ため息混じりに頷く。すると、隣で缶コーヒー片手に立っていた男はぶはっと噴き出し、堪えきれないように肩を震わせ始めた。
「笑いごとじゃないんだけど」
横目でじろりと睨むと、男は「いや、だって」と笑いを噛み殺す。
「笑うなとか無理だろ。想像しただけで面白すぎる」
目尻に涙を浮かべて笑う男の名前は、同期の神宮寺竜樹。
瑠衣と同じ東京支社営業部に所属する彼は、「ああ可笑しい」と引き攣った声で小さく呟く。
「その後は、秘書に山田さんを引き渡して一人で帰宅した、と」
「……だからそうだってば。本当に大変だったのよ。山田さんを迎えに来た秘書の方には白い目で見られるし、今回のことが原因で山田商事の担当も外されるし」
「しかもその後任者が俺だもんな」
「そうよ。それが一番面白くないの」
よく言えばライバル、悪く言えば目の上のたんこぶ。瑠衣にとって神宮寺はそんな存在だった。
入社年数こそ同じ二人だが、その経歴はまるで違う。瑠衣は、都内の大学を卒業後、新卒で日本マイアフーズに入社して以来、今日までずっと東京支社営業部に所属している。
対する神宮寺はアメリカの大学を卒業後、そのまま現地採用で本社に入社。その後、素晴らしい営業成績を連発して何度も社長賞を受賞するなど目覚ましい活躍をしてきた。
そんな彼は、二年前、本社から東京支社営業部に異動してくるなりあっという間にトップの営業成績を叩き出したのだ。
ちなみにそれまで東京支社でトップをひた走っていたのは瑠衣である。しかし今では「営業部のエースは神宮寺」というのが部内の共通認識で、瑠衣はずっと二番手か三番手に甘んじていた。
それでも、「いつか神宮寺を越えてやる!」の一心で仕事に励んでいたのに、今回、大口取引先である山田商事の担当者を彼に譲ることになってしまったのだ。
そんなの落ち込むなという方が無理な話だ。
「ま、そのうちいいことあるさ」
中身がなさすぎる慰めの言葉に、瑠衣はじろりと神宮寺を睨む。
「山田商事と取引するために私がどれだけ必死に営業をかけてきたかは知ってるでしょ。神宮寺が担当になった途端に売り上げ激減、なんてことになったら許さないから」
「むしろ三雲が担当してた時より売り上げを増やしてやるから、楽しみに待っとけよ。数字を見て悔しがるお前の姿を見るのが今から楽しみだわ」
「言ったわね? 大口を叩いて売り上げが下がったら笑うから」
わかりやすい挑発にあえて乗っかる。だが、神宮寺は余裕綽々な様子でふんと鼻で笑った。
「そんなことにはならないから安心しろ。でも、どうして山田さんを振ったんだ? 山田商事の次期社長夫人なんてなりたいと思ってもなれるもんじゃない。その立場を狙ってる女なんて山のようにいるだろうに」
関東を中心にドラッグストアを展開する山田商事は、国内でも名の知れた大手企業だ。その御曹司の求婚を断るなんて、と当然といえば当然の質問をされた瑠衣は、うんざりして顔をしかめた。
「部長と同じことを言うのね」
「部長?」
瑠衣と山田商事の御曹司を二人きりにするよう仕組んだ部長は、それを謝罪するどころか交際を断った瑠衣を遠回しに責めてきた。
「『取引を打ち切られなくてよかった』『せっかくの玉の輿だったのにもったいない』って、ネチネチネチネチ。だいたい、仕事を辞める前提で話す人と結婚なんてしないわ」
瑠衣は今の仕事が好きだ。もちろん楽しいことばかりではないし、時に苦しいことや辛いこともある。それでも売り上げという目に見える形で成果がわかるのは楽しいし、自分の考えた販売企画が実現して売り場に反映されるのを見るのは素直に嬉しい。
加えて営業職の給与には、基本給の他に営業成績手当が付与される。
トップをひた走る神宮寺には及ばないものの、瑠衣の年収は同年代女子の平均より高い。
自分の好きな仕事をして、生活するのに十分な収入も得られる。それらを捨てて顔見知り程度の男――しかも「山田」だ――と結婚するなんて選択肢は、瑠衣にはなかった。
「玉の輿には乗りたい人が乗ればいい。でも私は興味ないわ。社長夫人にならなくても、自分で食べる分くらいは自分で稼ぐもの」
可愛げの欠片もない自覚は十分あったが、神宮寺も瑠衣にそんなものは期待していないだろう。
そう思っていたのに、彼の反応は違った。彼は、まるで眩しい存在を見つめるような眼差しを瑠衣に向けてきたのだ。
「いいな。お前のそういうとこ、すげー好き。惚れるわ」
「は……?」
好き。惚れる。その言葉にドキッとしたのは一瞬だった。
「男らしくてかっこいい」
即座にオチをつける男に、瑠衣は、はあと深いため息をつく。
「突っ込むのも面倒だけど一応言っておくわ。私、女だから。あと、神宮寺に惚れられても全然嬉しくない」
「馬鹿だな。俺がかなりモテるの知らないのか?」
「自惚れもほどほどにね」
「見る目がないな、事実だっての」
ああ言えばこう言う。本当に口の減らない男だ。しかし悔しいことに、神宮寺の言葉は本当だった。
百八十センチを超える長身。きりりとした眉毛と切れ長の涼やかな目。
すっと通った鼻筋に形のよい唇。それらは完璧な配置をしていて、「イケメン」「美形」という言葉はこの男のためにあるのではと思うほど整っている。
長年海外で暮らしていたため英語はネイティブレベルだし、さりげなくレディーファーストだったりする。エレベーターでは扉を押さえて女性を先に乗せたり、女性の重い荷物を持ってあげたりといったことを、とてもスマートに行う。その上、人当たりが抜群にいい。基本的には笑顔で時々冗談を言いつつも、決める時にはきちんと決めるのだ。
顔がよくて、仕事もできて、その上人もよくて面白い。当然モテないはずがなく、神宮寺は間違いなく社内で最も人気のある男なのは間違いない。
女性関係もかなり華やからしく、噂では「来る者拒まず去る者追わず」「彼女は取っ替え引っ替え」と聞いたことがある。つい先日も秘書課の女性と別れて取引先の社長令嬢に乗り換えた、なんて話を聞いたばかりだ。その真偽のほどは定かではないが、神宮寺は女性社員はもちろん男性社員からの人気も高いのは周知の事実である。
そんな男をライバル視している女なんて、社内中探しても瑠衣くらいのものだろう。
女性から黄色い声を浴びるのが常の神宮寺にとっても、瑠衣の存在は面白いのか、彼は何かと瑠衣に突っかかってはその反応を見て楽しんでいる節がある。今だって、山田商事の担当を外されたショックでラウンジに来ていた瑠衣をわざわざ探しに来たのだ。
(ほんと、腹が立つ)
それなのに嫌いになれないのは、彼が嫌味なだけの男ではないと知っているからだろう。
「とにかく、山田商事については心配するな。これまでのお前の努力を無駄にはしないよ」
意地悪くからかってきたかと思えば、こうして欲しかった言葉をくれる。
そんな男だからこそ、瑠衣は負けたくないと思うのだ。
「……そうなることを祈ってるわ」
「あっ! 神宮寺さん、こんなところにいたんですね!」
その時、ラウンジに甲高い声が響き渡る。談笑していた二人のもとにやってきたのは、同じ営業部に所属する営業事務職の原田理保だ。二十四歳の彼女は瑠衣より頭一つ分は背が低い。小柄な体やくりくりのぱっちりした瞳は「可愛い」の一言に尽きる。
柔らかそうな白いシフォンシャツと明るい茶色のスカートを着た彼女は、きつい顔立ちの瑠衣とは正反対の、守ってあげたくなるような雰囲気を持っていた。
「探しましたよお」
原田は甘えるような声で神宮寺に話しかける。
「原田さん、どうかしたの?」
「先ほど神宮寺さん宛にお電話がありました。山田商事の担当者さんからで、できるだけ早く連絡がほしいそうです」
「わかった。すぐに戻るよ」
「あっ、缶は私が捨てておきます!」
「そう? なら頼むよ、ありがとう。――じゃあな、三雲」
神宮寺は原田に缶を渡すと足早に去っていく。その後ろ姿が見えなくなるなり、原田は乱暴な手つきで空き缶をゴミ箱に投げ捨てた。次いで瑠衣の方を見ると、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。先ほどまでのご機嫌な様子はどこへやら、瑠衣を見る視線はとても鋭い。
「三雲さん。こんなところで仕事をさぼって、神宮寺さんと何を話してたんですか?」
問い詰めるような口調に、たまらずため息が漏れた。
原田が神宮寺を狙っているのは社内でも周知の事実だ。今はまだ片思いの段階らしいが、ことあるごとに神宮寺にアピールしているのを瑠衣もよく目にしている。
そんな彼女にとって彼と同期の瑠衣は目障りな存在らしい。
神宮寺の目を盗んでは、こうして絡んでくるのだ。
――そんなことをする暇があれば仕事をしてよ。
そんな本音をぐっと堪えて、瑠衣は原田に向き合って淡々と答えた。
「仕事の話をしていただけよ。それに少し休憩していただけでさぼっていたわけじゃないわ」
「……本当ですか?」
「本当よ」
疑うような視線さえ煩わしくて、瑠衣は淡々と答える。指導するべき後輩にこんな感情を持つのは褒められたことではない。それはわかっているが、業務外のことで一方的な嫉妬をぶつけられるなんてたまったものではない。
「ならいいですけど。私が神宮寺さんを好きなのは知ってますよね。邪魔だけはしないでくださいよ」
言うだけ言って気が済んだのか、原田はくるりと背中を向けて去っていく。
彼女の子供っぽい牽制に、瑠衣は何も答えなかった。
学生の恋愛ではあるまいし、とても職場でするような話ではない。しかも当の本人は神宮寺に片思いしているだけで恋人ですらないのだ。反応するのも馬鹿らしい。
「はあ……」
疲れる。それが率直な感想だった。
自分が一部の女性社員から煙たがられている自覚はあった。
男女平等が謳われて久しいが、この会社の営業職はいまだ男性社員の比率が高い。そんな中、女ながらに営業の最前線に立つ瑠衣の存在は周囲から「お高くとまってる」ように見えるらしい。
勝気そうな外見や、常に化粧や髪、ネイルに気を抜かないところも面白くないと陰口を叩かれているのを聞いたこともある。加えて、人気者の神宮寺と同期で気安い間柄というのがさらに女性社員の嫉妬を買っていた。
とはいえ、ほとんどの女性社員はそれを表立って口にしたりしないし、瑠衣も仕事に支障がない分には構わないと思っていた。
それ以外の社員とはほどよい関係が築けているし、信頼する同僚も上司もいる。
だが唯一の例外が原田理保なのだ。彼女は昨年、経理部から営業部に異動してきた。
営業事務の彼女は瑠衣の後輩という扱いで、仕事上でもよく関わる。それなのに神宮寺と話すたびに噛みつかれていて、やりにくいことこの上ない。
(会社は学校じゃないのよ。惚れた腫れたはよそでやってよ)
本人の前で言ったことはないものの、何度そう口に出かかったことか。
営業事務としての原田はけして無能ではない。瑠衣と違って愛嬌のあるところは彼女の長所だと思うし、細やかで丁寧な仕事をするところも評価できる。感情が表に出やすいところはどうかと思うものの、基本的に彼女は優秀なのだ。
瑠衣に対する態度は褒められたものではないが、頼んだ仕事はきちんとこなしてくれていた。
だがひとたび神宮寺が絡むと、それらが帳消しになるくらい面倒になるのだ。
――好きだから。
ただ、それだけの理由で。
だがあいにく、瑠衣はその感情が理解できなかった。
最初の失恋から約十年。この間、それなりに恋愛はしてきたつもりだ。しかしその中で、瑠衣の中に生まれた恋愛観は、愛とか恋とかめんどくさい、というなんとも冷めたものだった。
高校の時に初めてできた彼氏との恋は、卒業式の日、相手の浮気という形で桜以上に見事に散った。浮気相手は年上のOL。今の自分なら「男子高校生に手を出すようなOLは、ろくでもないからやめておけ」くらい言えるが、当時は初心な女子高生。傷ついて終わってしまった。
次に付き合ったのは大学生の時で、同じサークルの先輩だった。
最初の彼氏に『可愛げがない』と言われた苦い経験から、先輩には素直に甘えてみた。すると今度は『思っていたのと違う。もっと大人っぽいと思っていた』と振られてしまった。ならばと次にできた彼氏には、極力甘えず冷静に接したところ、またもや『もっと甘えてほしかった』と言われる始末。
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