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1巻

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   プロローグ


「えーっと、搭乗ゲートは……」

 私はイタリア旅行に行くために、自分が乗る飛行機のゲートを探した。
 保安検査と出国検査を無事に通過できたものの、初の一人旅は不安のほうが大きい。

「やっぱり夏帆かほを誘えば良かったかな」

 不意に出た弱音にハッとして、頭を左右に振る。
 ダメよ、美奈みな。海外に行って一皮けた自分になるのよ!

「そうよ、あんな男忘れてやるんだから」

 見つけた搭乗ゲートを見ながら、恨み言のようにつぶやく。
 そう。忘れてやるんだから……


   ***


 ――パアァァン!
 呆然と立ち尽くしていると、部屋の中に小気味よい音が響いてハッとする。親友の夏帆が、ベッドの中で見知らぬ女といる私の恋人――みのるの横っ面を思いっきり引っ叩いたようだ。
 今日は稔とデートの約束をしていた。が、昨日からずっと連絡が取れなかった。電話に出てくれないし、メッセージアプリに既読もつかない。嫌な予感ばかりが脳裏をよぎって、とうとう我慢ができなくなり夏帆に泣きつくと、稔の部屋まで一緒に様子を見にいこうと言ってくれたのだ。そして来てみれば、案の定彼は見知らぬ女と裸で寝ていた。
 最近、お互い仕事が忙しくて会えていなかったから、久しぶりのデートをすごく楽しみにしていたのに。それなのに、また浮気をしていたなんて……
 心の中にゆっくりと絶望が広がっていく。

「夏帆……。もういい。もういいわ」
「何を言ってるのよ、美奈! あんたも殴ってやればいいわ、こんな男」

 私以上に憤慨している親友の手を引っ張る。稔の隣では、裸の女が布団で体を隠しながら口元を手で覆って驚いていた。私とは違う明るい茶色の巻き髪のとても綺麗な、そして派手な女性ひと。彼はこういう女性が好みだったのかと、ぼんやり見つめた。
 彼の部屋で浮気相手とご対面なんて情けなさすぎて、殴る気にもなれない。いっそ笑い飛ばしでもすればいいのだろうか。
 それに、稔の浮気は何もこれが初めてじゃない。付き合って二年。何度裏切られたか……。そのたびに彼は「魔が差したんだ」と言って頭を下げるのだ。
 夏帆は稔の悪癖を知っていて、それでも私が不安にならないようにずっと励ましてくれていた。今日だって「きっと大丈夫よ。風邪で倒れているだけかも。ほら、様子見に行ってあげようよ」と言って、なかなか勇気の出ない私についてきてくれたのだ。そんな優しい彼女に手まで上げさせたのだ。ここで稔を許したら女がすたるというもの。

「こんな男、殴る価値もないわよ……」

 二人をキッとにらみつける。
 言いたいことは山程あるが、きっとそれをぶつけたら泣いてしまうだろう。そんなの浮気相手の手に覆われた唇が驚きからあざけりに変わるだけだ。
 それだけは……それだけは嫌だ。
 言葉と一緒にこぼれてしまいそうな涙を呑み込んで、唇をキュッと引き締めた。すると、稔は悪びれもせずにベッドから降りて近づいてくる。私たちに言い逃れのできない現場を見られたことも、夏帆にぶたれたこともまったく気にしていないのだろう。稔はまた私が許すと思っているかのように笑っている。そして両手を合わせて謝ってきた。

「美奈、ごめんな。彼女、すげぇ積極的でさ。次こそはもう絶対にしないから……!」

 自分のしたことを微塵みじんも悪いと思っていない――私を軽んじているのが分かる彼の態度に嘆息たんそくした。
 ――私、何でこんな人を好きになったんだろう……
 呆れた目で稔を見つめると、小首を傾げて私を見つめ返してくる。その表情が何とも言えないくらい苛立ちを誘った。
 きっと彼は、私が「もうしないでね」と言ったら、抱き締めてくるんだろう。そして「俺が本当に好きなのは美奈なんだ。だから、仲直りしよう」と言うのだ。そんなやり取りはこの二年でやり尽くした。毎度毎度、同じことの繰り返し。反省もしないし、隠す気もない。
 正直なところ、こんなことを繰り返されても変わらずに好きでいられるような忍耐力は持ち合わせていない。稔への恋心なんて、とうに色褪いろあせている。残っているのは過去の思い出と情だけだ。
 そんな不毛な感情とも今日でお別れよ。
 私は手を伸ばして私に触ろうとしてくる稔の手を払いのけて、きつい眼差しでにらみつけた。

「もう稔とは別れるわ! あなたなんて大嫌い!」

 そう言い放つと、隣にいた夏帆が手を叩いて「よく言ったわ」と嬉しそうな声を上げる。稔は私の拒絶を予想もしていなかったのだろう。ただひたすらに呆然としている。私はその場に立ち尽くす稔に彼の部屋の合鍵を突き返した。すると、受け取ってもらえなかった鍵がガチャンと派手な音を立てて床に落ちる。

「もういらないから返すわ。あと、この部屋にある私のものはすべて処分しておいて」
「え? 美奈? マジで言ってる?」
「当たり前よ。こんなこと冗談では言えないわ。さようなら。二度と私の前に顔を見せないで」

 私がそう言うと、稔の顔がみるみるうちに蒼白になっていく。私はそんな彼の顔を一瞥いちべつして、夏帆の手を引き、もう今後訪れることもないであろう部屋を飛び出した。


「ふっ、うぅ……ひっ、く」

 彼の部屋を飛び出した途端、涙が止めどなくあふれてくる。すると、夏帆が抱き締めてくれた。

「美奈。あなたはとても素敵な女性よ。あんな節操なしにはもったいないわ。だから、これで良かったのよ。今日はすごく頑張ったね」
「ごめんなさっ……、ううん、ありがとう」

 私は慰めてくれる夏帆と手を繋ぎながら、稔のマンションをあとにした。稔が好きだと言った長い黒髪が、涙の止まらない私の頬にまとわりつく。

「髪、染めようかな……」

 あの女性ひとはとても明るい茶髪だった。稔に未練があるわけではないが、気分転換に茶髪にしてみてもいい気がしたのだ。何より彼が好きだと言った黒髪のままでいたくなかった。

「気分転換になっていいんじゃない? 何なら、ベタだけど髪も切っちゃえば? 今、腰くらいまであるし……」
「そうね。最近この長さで黒髪ストレートはちょっと重く感じると思っていたの。夏帆と同じ焦げ茶にして、胸くらいまで切ろうかなぁ」
「嫌だ。私のは焦げ茶じゃなくココアブラウンよ」
「……何が違うの?」

 焦げ茶とココアブラウンの違いが分からず首を傾げる。いつのまにか涙は止まっていた。

「詳しいことは美容師さんに相談すればいいわ。ほら、予約入れて」

 夏帆がそう急かすから、私はスマートフォンで、私たちの行きつけのヘアサロンの予約を取った。


   ***


「わぁ! すごい!」
「こんなに短くなったの初めてだし、やっぱり雰囲気変わるね。うん、とてもよく似合ってる」
「ありがとうございます」

 鏡の前で夏帆の言うココアブラウン色になった髪を見つめる。胸くらいまでの長さになったストレートの髪がふわりと揺れた。
 長すぎた髪をばっさり切って、髪に色を入れたのは正解だった。髪も心も、とても軽くなる。

「でも、本当に良かったよ。正直、すごく心配してたんだ。別れて正解だね。美奈ちゃん、明るいしいい子だから、すぐにいい人が見つかるよ」
「そうでしょうか……」
「うん。気分転換に旅行でも行ってみたら? もうすぐお盆休みなんだよね? 新しい出会いがあるかもしれないよ」

 そう言ってウインクした美容師の一ノ瀬いちのせさんの背中を叩く。

「もう。そんな簡単に出会いなんて落ちてませんよ。それに、恋はしばらくいいかなぁ。今は一人の時間を楽しみたいです」

 稔と付き合っている時は、彼の部屋の掃除をしなければならなかった。それに毎日お弁当を作ってほしいと頼まれていたので、せっせと早起きしては彼の会社の近くで待ち合わせして渡していたのだ。それがなくなっただけでも、すごく楽だ。もう早起きする必要がないし、彼の部屋の掃除をする必要もない。その時間を使って、何かを始めてみてもいいかもしれない。

「それなら尚更、旅行はおすすめだよ。いつもと違う場所で羽を伸ばしたら、きっと嫌なことも全部どこかに飛んでいくよ」
「ありがとうございます。そうします」
「目一杯楽しんで」

 微笑んでペコリと頭を下げると、一ノ瀬さんが微笑み返してくれる。
 私はその足で、ガイドブックを探すために本屋へ向かった。
 うーん。せっかく行くなら海外がいいかしら。
 日本との違いをこの目で見れば、一気に視野が広がり今後の自分を変えるきっかけになるかもしれない。たくさんの国のガイドブックが並ぶ棚を見ながら、私はまだ見ぬ地へ思いをせた。

「やっぱりイタリアにしようかしら。イタリア語なら少し分かるし……」

 昔、テレビで見た旅番組で憧れてから、いつかイタリアに行ってみたいと思っていた。イタリア語教室に通って、旅行に行けるくらいの語学力は身につけたのだが、結局ずっと行けないままだった。
 旅行一つでも自分で行動しないとダメなのよね。行きたいと思っていても、考えているだけでは日々はあっという間に過ぎていく。イタリアに行きたいなら、行動しなければならないのだ。

「どこにしようかな。イタリアは見どころがいっぱいあって悩む……。うーん、あ! このマリア様の写真綺麗! 自分の目で見てみたいかも」

 私はガイドブックに掲載されているミラノ大聖堂のシンボル――黄金のマリア像に目を奪われた。
 ――この時の私はマリア像への一目惚れで選んだ旅先で、まさかあんなことが起こるなんて思いもしなかった……



   1


「ここがミラノ……」

 失恋の痛みもどこかに飛んでいきそうな気分が上がる可愛らしいワンピースに身を包み、私は感動に打ち震えながらミラノ・マルペンサ空港に降り立った。そして胸一杯に思いっきりミラノの空気を吸い込む。
 ふふ。一人での旅行は不安だったけど、無事に着いて良かったわ。心配性な親友が海外旅行時の注意点をあれこれと言ってくるせいで不安だったが、問題なく入国審査も終えられたし、先行きは明るい。私はほくそ笑みながら、電車とバスの料金を調べるためにスマートフォンを取り出して検索ページを開いた。一人旅は何があるか分からないし、出来る限り費用は抑えたい。
 ホテルまでの行き方は……えっと、あ! バスのほうが安い!
 私はバスにしようと決め、視線を上のほうに向ける。そしてバス乗り場の場所を案内表示で確認した。

「税関を出て左……」

 案内表示を見ながら、一人でブツブツつぶやきながら進む。すると、かなり歩いたなと思い始めた頃にチケット売り場が見えてきた。その瞬間、並んでいるたくさんの人を見て思わずげんなりする。

「やっちゃった。こんなことなら事前に予約購入しておけば良かった……っきゃあ!」

 トホホと肩を落とし列に並ぼうとすると、目の前で突然おばあさんが転んだ。

「大丈夫ですか?」

 荷物を放り出して駆け寄り、たどたどしいイタリア語で話しかける。おばあさんは小さくうなずいて、「ありがとう」と言いながら笑ってくれた。その様子を見て、ホッと息を吐く。
 良かった。怪我はしていないようね。
 ニコッと微笑み、一緒に鞄からこぼれ落ちてしまった荷物を拾う。よろけるおばあさんを支え立ち上がると、彼女が申し訳なさそうに地図を見せてきた。

「迷惑ばかりかけてごめんね……。このターミナルに行きたいんだけど、どうやって行けばいいか分かる?」
「いえいえ。迷惑だなんてそんなことありません。困った時はお互い様ですから。えっと、それは……」

 あ、ここさっき私がいたターミナルだ。
 空港内の地図を見せてもらいながら歩いてきた道を思い出し、慣れないイタリア語でなんとか説明する。
 おばあさんは何度も「ありがとう」と言って頭を下げながら、目的のターミナルへ向かった。その背中を笑顔で見送り、胸を撫で下ろす。
 良かった。さて、バスのチケット買わなきゃ……
 そう思って振り返ろうとすると、誰かに袖口を引っ張られて、体が傾いた。

「え?」
「ママどこ?」
「……えっ⁉」

 引っ張られたほうに視線を向けると、泣き腫らした顔の男の子が立っていた。

「大丈夫だよ」

 慌てて膝をつき声をかけたが、内心たじたじだ。
 ど、どうしよう。迷子センターとかあるのかな?

「一緒にママさがそっか」
「……うん」
「じゃあ、荷物取ってくるから待っててね」

 そう言って男の子から顔を上げて立ち上がった瞬間、ハッとする。先ほど自分が荷物を放り出した場所には何もなかった。
 ――え?
 キョロキョロと辺りを見回しても何もない。

「ここにあった荷物知りませんか?」
「さあ、分からないわ」

 近くの人に訊ねてみてもこんな返事しか返ってこない。
 え? まさか盗まれたってこと? 本当に……?
 血の気が引いていく。私が立ち尽くしていると、男の子が私の手を引っ張った。

「ねぇ、ママは?」
「あ……。ちょっと待っててね」

 どうしよう。
 目の前には泣いている子供。背後には何もなくなってしまった空港の床が見えるのみ。私は冷や汗がだらだらと止まらなかった。
 とりあえず、優先すべきはママを見つけてあげることよね? 私も不安だけど、きっとこの子のほうが不安に違いない。なくなった荷物はあとで空港のスタッフにお願いをして一緒に探してもらえばいい。そう決めて、泣きたい気持ちをこらえ、その子の手を握った。

「ごめんね、ママさがそう」
「とんだお人好しだね」

 手を繋いで歩き出そうとした途端、溜息混じりの流暢りゅうちょうな日本語が聞こえてくる。その声にハッとして振り返ると、栗色の髪にブラウンの瞳の彫りの深い男性が立っていた。
 キリッとして凛々りりしく、スーツの上からでも筋肉質だと分かる彼に一瞬で目を奪われてしまう。
 かっこいい……! まるで俳優さんみたい……!
 私が見惚みとれていると、その男性はやれやれと肩をすくめて呆れた仕草をする。

「ここは日本じゃないんだ。地面に荷物を置いた時点で盗まれると思ったほうがいい」
「えっ……?」
「人助けは結構だが、もう少し自分のことも考えないと、日本に帰るまでに路頭に迷っちゃうよ。君もその子のように困ったことがあるなら、助けてと人を頼っていいんだよ」

 そう言って、私の頭をポンポンと撫でる。その気遣ってくれる優しい声音と言葉に、思わず涙がブワッとあふれ出した。
 あ、あれ、私……!
 自分が思っている以上に不安だったのか、相手は初対面だというのに向けてもらえた気遣いにこらえていたものが決壊して涙が止まらない。彼は、突然泣き出した私を見てギョッとしている。その姿を見ても涙が止まらず、私は涙をぬぐいながら、「ごめんなさい」と頭を下げた。

「いや、僕のほうこそすまない。きつく言いすぎたかい?」
「い、いいえ。私、とても不安で。でも泣いている子を放り出して、荷物をさがしに行くなんてできなくて……」
「荷物は部下にすぐ追いかけさせたから、心配しなくても取り返してくるだろう。それから、その子のママもこちらでさがさせよう」
「え……? あ、ありがとうございます!」

 そう言って、後ろにいた部下の人に何か指示を出して、彼はうやうやしく私の手を取った。そしてすらりとした長身をかがめ、手の甲に軽くキスを落とす。
 海外では普通のことかもしれないが、そのキスに顔にボッと火がついた。

「泣かせたお詫びに、お茶でもご馳走させてくれないかな。お茶をしているうちに、君の荷物も戻ってくるだろうし」
「え? で、でも……!」

 そんなの申し訳ない。彼の申し出を受けるべきか逡巡しゅんじゅんしていると、彼はウインクして名刺を渡してくれた。

「僕はテオフィロ・ミネルヴィーノ。怪しい者じゃないよ。どうか気軽にテオと呼んでほしい」
「よろしくお願いします、テオさん。私は清瀬きよせ美奈です。ミナと呼んでください」
「おお! よろしくね、ミーナ!」

 自己紹介をしながら受け取った名刺に目を通すと、そこには彼の名前と勤務先のホテルの名前が書かれていた。
 トリエステホテル……
 そのホテルの名前を見て体が戦慄わななく。
 日本にもある高級ホテルだ……! テオさん、こんな高級ホテルで働いているの? なんだかすごい!

「自己紹介も終わったし、ミーナも僕が怪しい者じゃないって分かっただろう? だから、お茶をご馳走させてくれないかな?」
「はい。あ! えっと、先に予約しているホテルに遅れるって連絡してもいいですか?」
「もちろん」

 私はペコリと頭を下げて、ポケットからスマートフォンを取り出した。
 これだけは鞄に入れてなくて良かった。
 ホッと息を吐きながら、予約しているホテルに電話をかける。

「……え?」

 電話口からは予想もしていない言葉が聞こえてきて、目の前が真っ暗になった。
 今、予約取れてないって言った? いやいや、まさか。イタリア語に不慣れだから、きっと聞き間違えたんだ。そう思い、しどろもどろになりながら何度確認しても、予約が取れていないとしか聞こえない。

「う、うそ⁉ あ、あの……私……」

 通話の途中なのに硬直していると、私の手からスッとスマートフォンが奪われる。テオさんが電話を代わってくれた。
 そしてしばらく話したあと、彼は残念そうに電話を切った。

「どうやら何かのミスがあったようで予約が取れていないみたいなんだ。でも満室らしく、新しく予約を取るのは無理らしい」
「……そ、そんな」

 私、ここに五泊する予定だったのに……!
 これからどうすればいいの? 出発前にもっとちゃんと確認すれば良かった……
 手足が急速に冷えていく。唇をギュッと噛むと、テオさんが私の肩に手を置いた。

「そんな顔しないで、ミーナ。僕のホテルに泊まればいいよ」
「え……」
「是非この旅行を華のあるものにさせてくれないかい? イタリアは悪いことばかりじゃないと教えてあげるよ。それに君は一人にすると、また何かをやらかしそうで心配だ。僕の心の平穏のためにも、どうか僕のホテルに来てくれないかい? 滞在中は僕が君のバトラーになるよ。『おもてなし』をさせてほしいんだ」

 え……? え? テオさんのホテル? テオさんが働いているホテルって……

「無理です! そんな高いホテルになんて泊まれません」
「僕が提案したんだから費用のことは気にしなくていい。泣かせたお詫びだと思ってくれ。ミーナ、君は今から僕のゲストだ。ゲストであるからには、先ほどのように一人で悩み解決しなくてはならないことなど何一つない」

 彼は優しい。だけど、会ったばかりの人について行って大丈夫なの? けれど、彼の提案に乗らなければ、帰りのチケットまでの期間――ミラノでどう過ごしていいか分からない。
 私の語学力で新しくホテル探しなんてできるの? それにもし今日泊まるホテルすら見つけられなかったら?
 そんなことになったら着いたばかりなのに日本に帰らなきゃいけなくなる。それだけは嫌だ。
 せっかく今後の自分を変えるきっかけになればと思ってここまで来たのに……。それに憧れのイタリアの地を一歩も踏まずに帰るなんてありえない。
 海外で見知らぬ人の手を取る。それがどんなに危険なことか分かってる。それでも私はテオさんが悪い人だとはどうしても思えなかった。
 私は葛藤しながらも自分の直感に従って、彼の提案を受け入れた。すると、彼はエスコートするかのように腕を差し出す。その腕におずおずと手を絡めると、彼が「モルトベーネとてもいい」と言って褒めてくれる。
 どうしよう、なんだかしょっぱなから思ってない始まりになっちゃった。
 空港に着いた時は、普通の一人旅が待っていると思っていたのに……!


   ***


「ほら、もう市内に入ったよ」
「え?」
「空港から車で三十分くらいだからね。すぐだよ」

 そう言って、テオさんが私の頬をつつく。
 ド庶民の私でも知っているイタリアの高級車。しかも運転手つき。そんな車に乗せられ、ビビっているうちに市内へと入ったので、正直なところあっという間に感じてしまった。テオさんの言葉で視線をミラノの街並みに移すと、ほどなくして目的地のホテルが見えてくる。私は口をポカンと開けて、車の窓から見えるその五つ星ホテルを眺めた。
 ここがトリエステホテル……
 日本にもあるのでもちろん存在は知っていたが、自分のような庶民には一生縁がないと思っていた。まさかそこに訪れる日が来るなんて。それも宿泊できるとは、人生何が起きるか分からないものだ。私はやや複雑な心境で、テオさんの顔を見つめた。

「どうぞ」
「は、はい」


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