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1巻

1-1

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 その日は人生で一番ついてなかった。
 ハマっているアプリゲームでは、やっと十連ガチャを引くためのクリスタルが溜まったのに、既に持っているカードしか当たらなかった。イベントガチャは今日までなのにと朝からへこんだ。
 いつも通り始業時間よりニ時間も早く出社して仕事をしていたら、クレームの電話をとってしまい、自分の担当顧客でもないのに対処に追われるハメにおちいった。ちなみに担当営業は今日からいきなり出張に行ったらしい。予知していたのだろうか。
 更に、上司が得意先から帰ってきたら、他社とのプレゼンに負けたらしく、別室へ呼ばれて説教された。何でも俺が作った資料の出来が悪くて負けたらしい。
 じゃあ自分で作れや。何で俺がお前の得意先へアプローチする為の資料を作らなきゃならないんだ。遅くまで残業している俺と、毎日定時で帰ってるあんたとじゃ使える時間も違うだろうが。何故こんなクズが上司なんだ。チェンジだ、チェンジ!
 そう思ったが口にはせず、虚ろな目をしながら適当に相槌を打って一時間も耐えた。
 無駄にした時間は戻らないし、嘆いてもどうにもならない。必死に頑張ったが、今日も誰よりも遅くまで仕事をすることになった。
 そして、蓄積されたストレスと疲労で注意力散漫になっていたのか、俺は帰宅中に赤信号に気づくことなく横断歩道を渡り、トラックに撥ねられてしまった。
 痛みと出血で少しずつ薄れていく意識の中、死ぬ直前までついてないんだな、と思った。


 次に意識が浮上して最初に思ったのは、暑い、ということだった。正確には全身が熱く重だるい。瞼を上げれば見知らぬ天井が見えた。薄暗く、寝かされている周りにはけたカーテンのような物がかかっている。左側だけ開放され、そこには誰かがいた。視線をそちらに向けると、優しそうな年配の女性がいて、手にした濡れた布を額に載せてくれた。布の冷たさが気持ちいい。その女性は、今度は違う布で顔や首の汗を拭ってくれ、俺の口からは思わず安堵の息が漏れた。自分の吐く息も熱く不快だった。熱が出ているのだろう。

「坊っちゃま。お水をお飲みになられますか?」

 再び落ちてしまっていた瞼を上げると、女性が吸い飲みを手にこちらを見ていた。
 坊っちゃま? 聞き間違いだろうか。
 喉は渇いていたので頷くと、吸口をくわえさせてくれる。こくこくと飲む水は冷たくて美味しかった。水を飲んだらまた眠くなってきた。そうやって寝ては起きての生活を繰り返し、起きている時間が増えるにつれ、自分がトラックに撥ねられて奇跡的に助かったわけではないことを知った。


 部屋にある一番大きな鏡の中で、小さな子どもが両手を上げた。今度は片手を下げる。次は上げていた方の手を額に近づけて敬礼した。
 何てことだ。自分と同じ動きをするではないか。
 後ろでは、微笑ましそうにメイドのアマーリアが見守っている。熱を出した俺の世話を付きっきりでしてくれた女性だ。白のエプロンに黒いワンピースのメイド服を着ている。
 視線をアマーリアから子どもへと戻す。ミルクティーのような色の髪はふわふわしている。生まれつき癖毛なのかもしれない。大きな瞳は青色で、髪色と同じ睫毛は長く、ふっくらとした頬は指先でつつきたくなるように愛らしい。
 ふむ。控えめに言っても天使のように可愛らしい子どもだが、本当にこれは俺なのだろうか。
 事故に遭うまでの俺は、この子どもとは似ても似つかない人間だった。三十四歳で独身、彼女なしのオタクで社畜。ストレス発散は、ゲームをしたり、漫画や小説を読んだりすること。最近では異世界転生というジャンルにハマっていて、プロのから素人が創作したものまで幅広く読み漁っていた。
 これは、そのまさかの異世界転生だったりするのだろうか。
 俺はトラックに撥ね飛ばされて宙に浮き、道路に叩きつけられた筈だ。助かったとしても、確実に後遺症は残るような事故だった。
 しかし、今の俺は昨日まで熱を出していたとはいえ、至って健康体の可愛らしい幼児になっている。それに、混乱していた頭が冷静になっていくにつれ、少しずつ今世の自分の記憶も戻ってきていた。
 今世の俺の名前はフィン・ローゼシュバルツ。二週間前に子どものいないローゼシュバルツ家の養子になったばかりだ。だから、今いる部屋も使用人たちも見慣れなくて、居心地が悪い。

「フィン。寝てないと駄目ではないですか」

 後ろから声がかかり振り返ると、淡い水色の髪を綺麗に結い上げた女性が立っていた。

「ラーラ伯母さま」

 口にしてしまってから失敗したと気づく。今後はこの呼び方をしてはいけないとたしなめられた記憶がある。俺の言葉に目の前にいる女性、ラーラ・ローゼシュバルツは微かに眉をひそめた。

「慣れないかもしれませんが、母上と呼びなさいと言ったでしょう?」
「申し訳ありません。母上」

 すぐに言い直すとラーラは頷いてくれたので、ほっと胸を撫で下ろす。

「熱が下がったばかりなのですから、まだ安静にしてなさい」

 ラーラに手を引かれ、俺は再びベッドへ寝かされた。丁寧に肩まで上掛け布団をかけてくれたラーラは、アマーリアがベッドの横に持ってきた椅子へと腰掛ける。

「……」
「……」

 会話もなく、見つめ合っているのも気まず過ぎて、俺は不自然にならないように視線をゆっくりとベッドの天井へと向けた。天蓋付きのベッドで、見上げた先の天井には花や鳥などの姿が描かれており、一枚の絵のようになっていた。元々あった物なのか、俺がこの家に来ると決まって用意してくれた物なのか分からないが、癒される。チラッとラーラに視線を戻すと、表情のない顔で俺の方をじっと見つめていた。眠るまで見張ってるつもりなのかもしれない。仕方なく俺は目を閉じた。一週間も寝込んでいたから、こんな昼間から眠れるだろうかと思ったのは杞憂で、すぐに睡魔が訪れた。眠りに落ちる少し前に、優しい手に頭を撫でられたような気がしたけど、夢か現実か分からなかった。


 ラーラは、俺が寝込んでいる間ずっと、部屋にお見舞いに来てくれていたらしい。熱が出ていた時には意識が朦朧として気づかなかったが、庭に咲いている花を自ら摘んで、ラーラは毎朝持ってきてくれていたそうだ。今日も桃色のスイートピィのような可愛いらしい花が、窓辺にある花瓶に生けられている。何気なく可愛い花だねと言ったら、アマーリアが嬉々として教えてくれた。表情こそ乏しいが、ラーラは新しい息子になった俺を心配してくれているようだ。不器用な人なのかもしれない。
 昨日、無意識に口にした通り、俺にとってラーラは、本来は伯母に当たる。実父の姉のラーラは、結婚してから子に恵まれなかった。ラーラの夫であるルッツは、妻一人を生涯愛すると決めており、愛人もいないので庶子も存在しない。ローゼシュバルツ家は侯爵家で、跡取りは絶対に必要になる。そこから養子をもらう話になり、俺が選ばれたというわけだ。
 だが、昨日会った時の印象では、ラーラはまだ子を諦めるような年齢ではないように見えた。こんなに早く実際に養子を引き取ることになったのは、俺のせいなのかもしれない。
 今世の俺は、伯爵家の三男としてこの世に生を受けた。俺の母親は産後の肥立が悪く、俺を産んですぐに亡くなってしまう。父は妻を亡くした悲しみを癒すためか、妻が亡くなって一年後に若く新しい妻を娶った。更にその一年後、新しい妻は女児を出産した。
 この世界では元々女性の数が減少傾向にあったが、十数年前から女児が産まれる数が極端に減っていた。女性が少なければ必然的に子どもの数が減り、少子化問題も深刻になってきている。子どもを一人でも多く産んでもらおうと、出産時には国から褒賞金が出る制度もあり、女児を産んだ場合は男児の三倍の褒賞金が出た。
 女児を産んだ女性は称賛の的で、後妻である継母は女児を産んで気が大きくなったのか、随分と傲慢な態度を取るようになった。産んだ娘を殊更可愛がり、歳の近い俺と比べては娘の素晴らしさを語った。
 この態度に兄二人は憤慨した。元々父が妻を亡くして一年で若い女を新しく娶ったことに思うところがあった彼らは、父を避けるようになり、継母や妹のことを嫌って、ほとんど部屋から出てこなくなった。父も仕事に忙しくて家にあまりおらず、顔を合わせる機会が一番多い俺が、継母から叱責されることが増えた。
 妹が転んで泣いていれば、足を引っ掛けたのではないかと疑われ、妹が熱い紅茶が入ったカップをひっくり返せば、俺が注意して見るべきだと叱られる。そしてついには、妹が池に落ちた日、俺が妹に嫉妬して突き落としたのだと言われた。

『なんて酷いことができるの! 罰です! 鞭打ちよ!』

 その体罰が元で俺は熱を出し、あまりの仕打ちに流石に堪えかねた執事が父へ報告した。継母と俺が上手くいっていないことを、父も何となく感じていたようだが、熱を出すほどの体罰までするとは思っていなかったらしい。継母に苦言を呈したが、逆に俺が妹を虐めていると訴えられたらしく、反省の色は微塵もなかったそうだ。妹の方も、泣きながら俺に嫌がらせをされると父に告げたらしい。執事や使用人たちは、我が儘な継母と妹に嫌気が差していたのか、俺が理不尽に叱責されていたことをきちんと証言してくれた。
 父は事の重大さを認め、このまま一緒に暮らすのはよくないと判断し、俺がローゼシュバルツ家に養子へ出されることが決まったのである。
 ただ、俺は継母や妹が言ったことを父が信じ、家を追い出されたと思い込んでショックを受けた。泣きながら嫌だと抗議したが聞き入れてもらえるはずもなく、伯父夫婦のところへ送り出されてしまった。伯父夫婦とはあまり会ったことがなく、俺にとっては赤の他人も同然なのに、今日から新しい父と母だと言われても納得などできなかった。
 自分が悪い子なら直すからどうか見放さないでほしい。嫌なことがいっぱいあったけど、生まれ育った家に帰りたかった。
 そう思っては眠れない日が続き、新しい家に住み始めて一週間後、とうとう俺は衝動的に雪が降る夜に家を飛び出してしまった。けれど、もちろん子どもの足で帰れる距離でもなく、前の家へ帰る道も分からなかった。結局俺は、雪道で力尽きて座り込んでいたところを、俺を探していた使用人に発見され、ローゼシュバルツ家に連れ戻されることとなる。寝巻きのまま薄着で寒い夜道を歩いたことで、俺はその夜から高熱を出し、そのせいかは分からないが前世の記憶を取り戻した。
 俺はフィン・ローゼシュバルツ。ローゼシュバルツ家の長男として、これからこの家で暮らしていかなければならない。高熱を出す前までの俺は、実父が俺を守るためだと説明してくれても信じきれなかった。
 しかし、前世で三十数年生きた記憶が戻った今、それが父の苦肉の策だったことは理解できる。後妻の暴走を止められなかったのは父の責任であるが、仕方がないと諦めるしかない。

「坊っちゃま。そろそろ朝食に参りましょうか。旦那様と奥様もお待ちですよ」

 使用人が迎えに来たことで、アマーリアが声をかけてくれた。ラーラが摘んでくれた桃色の花をもう一度見てから、俺は部屋を後にする。これからの生活に思いを巡らせながら。


 記憶が戻ってから、初めてルッツとラーラと共に食卓を囲む。ルッツも俺が寝込んでからは、度々部屋を覗きに来てくれていたらしい。仕事が忙しく夜遅くにしか来れなかった為、俺が起きている時は一度もなかったそうだ。

「元気になって良かった」

 そう言ったルッツは、ラーラと負けず劣らず表情筋があまり機能していない。
 ルッツ・ローゼシュバルツ。侯爵家の当主であり、この国の宰相でもあった。面立ちは整っているが、役職の影響か生来の性格か、冷たく突き放すような印象を与えている。
 どことなく、前世で尊敬していた営業一課の課長だった人に似ている。他人に厳しいが自分にはもっと厳しい人だった。口煩く言われ毛嫌いしている人も多かったが、仕事が早くミスも少なく営業成績は常にトップだった。あの課長の下で働きたい、三課から一課に異動したいと何度願ったことか。クズな上司によって異動願いを裏で勝手に握り潰されていて、その願いが叶うことはなかったが。憧れの人に似ていると感じただけで、ルッツへの好感度は上がった。表情がないなんて問題じゃない。かけてくれた言葉も優しかった。
 俺が揃ったことで朝食が運ばれ始める。食事作法が心配だったが、体が覚えていたので問題はなかった。初めに声をかけられて以降、会話はなく、三人が食事をする食器の音だけが部屋に響いた。静かな朝食だったけれど、誰かと食べる食事は美味しかった。前の家ではいつも一人だったので、食事は味気なく寂しかったのだ。
 パンを口に入れて顔を上げれば、父上になったルッツがサラダを食べていて、母上になったラーラがスープを飲んでいる。その光景が嬉しくて、俺は無意識にニコニコと笑いながら食べていたらしい。俺の様子に気づいた二人が僅かに頬を緩めてくれて、嬉しいけど恥ずかしくなって慌ててうつむいた。照れてしまったことを誤魔化すように、俺は再びパンに手を伸ばしながら、こっそり安堵のため息をつく。
 良かった。この二人なら、これから父上と母上として、素直に慕えそうだ。
 新しく親子になった俺たちを、使用人たちも嬉しそうに見守ってくれていて、俺が想像していたよりも和やかな時間が過ぎていった。


 父上は今日も仕事で忙しい。朝食が終わると、訪れた側近と領主としての仕事の打合せをしてから、宰相として王城へ出勤して夜遅くに帰宅するというハードスケジュールだった。
 朝食も片手で食べれるゼリーで済ませ、慌てて家を飛び出すような前世の俺とは大違いなスマートさである。
 母上と玄関まで初めてお見送りに付いてきたが、俺は『あること』を言うタイミングを見計う為に、そわそわしていた。こんなことなら朝食の時に勇気を出して言えばよかった。でも、大きなテーブルで距離もあったし、なかなか言い出せなかったのだ。

「じゃあ、行ってくるよ」
「はい。お気をつけて。いってらっしゃいませ」

 父上は、母上と頬に口づけを交わした後、やっとこっちを見てくれた。

「フィン。行ってくるよ」
「ち、父上! あの、少しだけいいですか?」

 思った以上に大きな声が出て、玄関ホールにいた人たちの視線が一気に集中した。父上のそばに控えていた側近が、一瞬すごく嫌そうな顔をしたことが見え、萎縮してしまう。
 分かるよ。出勤前の一分一秒を争う時に呼び止められるなんて、面倒以外の何ものでもないもんな。これだけは言わなければと意気込んだのに、他人から嫌な顔をされると足が震えてきてしまった。
 勢いよく呼び止めた後、すぐに眉を下げてうつむいてしまった俺に、父上はわざわざ膝を折って顔を覗き込んでくれた。

「何だい?」

 優しい声音に勇気をもらって顔を上げる。父上は相変わらず無表情だけれど、グレーの瞳は穏やかにこちらを見ていた。

「あ、謝りたくて。一週間前、夜中に突然家を飛び出してしまって、ごめんなさい。それから、捜してくださってありがとうございました」

 言い切ってから頭を下げる。しんっと沈黙が降りた。
 今更なのは分かっている。本当は顔を合わせて最初に謝るべきだった。俺が記憶を取り戻してから回復に向かっている間、顔を合わせた母上も使用人も誰も何も問わなかった。まるで、風邪をひいて熱を出しているかのように接してくる。でも、みんなが何も言わないからって、そのままじゃ駄目だ。元はと言えば、俺が夜に薄着で家を飛び出したのが原因なのだから。
 頭を下げ続けるが、父上は何も言ってくれない。謝るのが遅過ぎて呆れて言葉も出ないのだろうかと不安になってきた。じわじわと涙が出てきそうになって、必死に歯を食いしばる。
 三十路過ぎた男が謝罪する時に泣くなんて気持ち悪いだけだぞ。見た目は幼児だが、中身は大人なんだからな。

「フィン」
「わっ」

 父上に突然抱き上げられて、頑張って食い止めていた涙がポロリとこぼれてしまった。片腕に座らされて、立ち上がった父上と同じ目線になる。

「捜すのは当然だ。フィンは私たちの息子なんだからね。でも心配したんだよ。頼むから、危ないことはしないと約束しておくれ」

 父上の指先が、こぼれた涙を拭ってくれたけど、後から後から溢れてきてしまった。

「うっ、ひっく、ごめ、ごめんなさい。もう、しませ」

 父上は、俺が泣き止むまで背中をさすってくれた。泣き止んだ後は、くしゃりと俺の頭を撫でて額に口付けてから『行ってくる』と言って、颯爽と出かけて行った。
 俺は泣き止むのに精一杯だったので、ぼんやりとそれを見送ってしまった。今度は行ってらっしゃいの挨拶を言いそびれたと、父上が出て行った後の扉を見つめて肩を落とす。
 だが、失敗にくよくよしてはいられない。これからいくらでも挽回のチャンスはある。
 振り返ると、玄関ホールに残っていたみんなが俺を見ていた。

「母上もアマーリアもみんなも、夜中に家を飛び出してごめんなさい。捜してくれてありがとうございました」

 再び母上たちにも謝罪する。悪いことをしたら謝る。これ常識。深々と頭を下げる俺の頭を、今度は母上が撫でてくれた。

「本当に……いなくなったのを知った時は肝が冷えました。あまり心配させないでね」
「はい、母上。あと、素敵なお花をありがとうございました」
「あれはこの時期にのみ咲く花なの。白い雪の中で咲く、桃色や黄色の花がとても綺麗なのよ。まだ咲いているから、あとでお庭を見に行ってみる?」
「見たいです!」

 俺は差し出された手を握って、母上と手を繋ぎながら部屋へと戻った。
 さぁ、新しい生活のスタートだ。


「君は、いつからそんなに偉くなったんだい?」

 馬車に乗る前に、近くに控えていた側近へと声をかける。
 フィンが何か言いたげだったことには気づいていた。まだ距離感が掴めず、こちらから声をかけていいものかと考えているうちに、フィンは自ら声をかけてきた。それなのに、一瞬でその勢いが落ちた。フィンは視線を私の斜め後方に向けた後、顔が強張こわばうつむいてしまった。その場所にいたであろう側近にちらりと視線を向けると、顔を青褪め体を震わせている。

「私の息子に対して不快感を表すなど、いい度胸だ。私はね、身の程を弁えない者はあまり好きではない」
「もっ、申し訳ありません!」

 頭を下げる側近に頷いてから馬車に乗り込む。走り出した馬車の中で、持ってきた書類に目を通しながら、あの側近は駄目だなと思った。長年勤めてくれていた側近がやむ得ぬ事情で退職し、推薦された者を雇ったが、ミスも多く使い勝手も悪い。何より、子ども相手に不快にさせたと悟られるほど感情を隠しきれないのは、侯爵家の側近として失格だ。
 潮時だな。
 すぐに解雇して、今日のことが原因とフィンを逆恨みされても困る。新しい適任者を見つけたら、どこかへ飛ばすか。そんなことを考えているうちに、フィンの顔を思い出した。
 朝食の時にみせた笑顔は可愛かった。謝りながらしゃくり上げる泣き顔も。屋敷を飛び出す前は、感情を押し殺すような必死に我慢している顔しか見られなかった。熱を出して寝込んだ後、何かが吹っ切れたのだろうか。
 そういえば、時間がなかったので屋敷を飛び出した理由を聞きそびれてしまった。帰ったら、フィンと話す時間を作らなくてはいけない。

「これからだな。フィン」

 これから、私たちは家族になっていくのだ。


「わぁ、すごい!」

 部屋の壁すべてが本棚になっている。吹き抜けで天井が高く、二階へと続く階段もあり、見上げるとそこにも整然と本棚が並んでいた。まるで図書館のような本の多さだ。
 目の前の光景に目をキラキラさせて喜んでいると、一緒に来ていた母上がクスリと笑う声が聞こえた。慌てて視線を向けると、母上は穏やかな笑みを浮かべていた。
 あまり表情が変わらないと思っていた父上と母上だったが、そんなことはなかった。距離が縮まるにつれ、いろんな顔を見せてくれる。もしかしたら、新しい息子との接し方に悩み、二人とも緊張していたのかもしれない。

「ここはローゼシュバルツ家が代々収集した本が集めてあるの。貴重な本もあるから扱いは慎重にね。見たい本があればモリーに言ったら探してくれるわ」

 この部屋の管理をしているモリーを紹介された。モリーは、どこに何があるのかすべて覚えているらしく、何冊か幼児向けの絵本を出してきてくれた。一冊の本をパラパラめくると、書かれている文字は当然日本語ではなかったが、簡単な単語なら理解することができた。出された本の表紙を順番に眺めているうちに、一冊の本が目に止まる。タイトルに『魔法』という単語が入っていた。全部は読めなくて首を傾げていると『指輪魔法と四人の魔法使い』というタイトルの絵本だとモリーが教えてくれた。
 どこかで聞いたことがあるような気がする。異世界ものは似たような設定が多いので、前世で読んだ本の中に似たようなものがあったのかもしれない。俺は異世界の作品では特に魔法が好きで、魔法使いが出てくる作品を多く読んでいた。魔道具を使ったり、剣に魔法を纏わせたりして戦うっていうのも好きだった。
 魔法っていいよな。なんと、この世界には魔法があるんだ! 神様ありがとう!
 まだ生活魔法と呼ばれる程度のものしか見たことはないが、魔法を専門に使ってる人に会うのが楽しみだ。
 この世界は近代のヨーロッパに似ているが、いろいろ違うところも多い。一番驚いたのは水道があることだった。上下水道が整備されているらしく、水洗トイレもあるしお風呂にも入れた。綺麗好きの元日本人としてはありがたい。
 俺が手に取って見つめている絵本を見て、母上が懐かしそうに言った。

「この本もあったのね」
「母上はこの絵本読んだことあるんですか?」
「フィンはないの? 子どもに必ず読ませる本の一つよ。孤児院でも読み聞かせの時には絶対に入っているわ」

 フィンとしての記憶はほとんど戻っているはずだが、読んだ覚えはないように思う。誰かに遊んでもらったり、絵本を読んでもらったりした数は少なかった。俺の世話を必要以上にすると継母の不興を買うようで、誰もあまり近寄ってこなかったのだ。思い返すと結構可哀想な境遇で育ったんだなフィン。俺のことだけど。

「多分、読んだことないと思います」
「そう……じゃあ、一緒に読んでみましょうか。他にも気になる本があれば借りましょう」
「!」

 母上の言葉が思った以上に嬉しくて、俺は声が出てこなかった。でも、全身で喜びを表していたらしく、母上が自分の言った言葉に少し気恥ずかしそうにしている。

「好きなだけ選んでいいのよ。全部でもいいわ。でも絵本は数が少ないから、全部選んでも毎日読んだらすぐに読み終わってしまうわね」
「毎日!」

 それは毎日母上が読んでくれるということだろうか。犬であれば尻尾を高速で振っているくらいの喜びが全身に広がる。良かったなフィン。俺だけど。
 母上に促されてモリーが更に追加で探してくれた絵本も交え、俺は数冊選んで借りていくことにした。
 中庭に面した母上お気に入りの部屋に戻ると、アマーリアがお茶を入れてくれた。母上と並んでソファに座る。最初に指輪魔法の絵本を手渡した。

「フィンは、この世界に魔王がいたことを知っているかしら」

 母上はいきなり物騒なことを言い出した。魔法があるファンタジーな世界観なら魔王がいても不思議ではないが、実在しただと……?

「知りません。魔王がいたのですか?」
「いたのよ。今から千年以上も前に。この絵本はその時のお話」

 母上に読み聞かせてもらった絵本の内容は、簡単に言うとこんな感じだ。
 昔、この世界と魔界が繋がっていた時代、魔王がこの世界を乗っ取ろうと攻め込んできた。魔王は瘴気を振り撒き、草木を枯らせ、魔物や魔獣を放っては生き物を殺していった。人間たちは戦った。何年も戦ったが、魔王は強く、倒すことなどできなかった。苦肉の策として、何とか魔王を魔界へと追い戻すことに成功した。そして、魔王がこちらに来られないように、四人の魔法使いが魔道具の指輪を使って魔界との間に強力な結界を張り、世界は平和を取り戻しましたとさ。めでたしめでたし。
 いやいやいや、続きはどうなった。倒せてないし、魔王は生きてるってことだよね。魔王ってくらいだから、寿命がきっとすごく長いと思うんだ。

「これは本当にあった話なんですよね? 結界はそのまま大丈夫なんですか?」

 千年以上も前の結界が保つものだろうか。どこかに綻びが出て、こっそり魔王が近くにいる可能性とかあるよね。

「本当の話よ。そして、結界は三百年に一度緩むと言われている。そうなる前に再び結界を張り直すの。王家に伝わる四つの指輪が、四人の魔法使いが使ったとされる魔道具。時期が近づけばその指輪を使える人物を王家が四人捜し出し、結界を張る儀式が行われるわ。そうね。次は四度目の儀式になるかしら」

 今までに三度も結界が緩み、三度張り直すことに成功しているということか。

「次にそれが来るのはいつ頃ですか?」
「多分、あと十五年後くらいかしら。成功するといいのだけれど」

 そう言いながらお茶のカップに口をつけた母上は普通の顔だ。明日晴れるといいのだけれど、みたいな口調だった。
 ちょっと待って?
 成功しなかったら魔王再び降臨大戦争勃発とかそういう感じじゃん。全然平和な世界じゃなかった。のんきに神様ありがとうとか言ったの誰だよ。俺だよ。
 青褪めた俺に気づいた母上が頭を撫でてくれる。優しい手に、少し気持ちが落ち着いた。

「母上は怖くないんですか?」
「失敗したらと思うと怖いわ。でも、私にはどうすることもできないしね。王家が指輪の使い手を無事に見つけ出してくれることを祈るしかないわ。今から右往左往しても仕方ないでしょう」
「そうですけど……」
「何かあったら、ルッツがきっと助けてくれるわ」

 うちの父上ってば魔王に対抗できるほど強いらしい。すげーな、ってそんな訳あるかい!
 眼光は鋭そうだけど、流石にそんな嘘には騙されませんよ。何とかしてくれると思うくらい、母上が父上を信頼していることはよく分かりました。

「じゃあ今度、怖くなくなる方法を父上に聞いてみます」
「そうね。それがいいわ。さぁ、次はどの絵本にする? それとも休憩にして、お菓子を食べようかしら?」
「お菓子を食べましょう!」

 料理人が作った甘い焼き菓子を食べた後、母上に新たに二冊ほど絵本を読んでもらってから自室へ戻った。


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