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   第一章 はじまり


「すまないが、ジョシュア、君とは結婚できない」

 生まれた時からの婚約者。
 約十九年を共に過ごしてきた幼馴染は気まずそうに、だが確固たる信念を瞳に宿して、そう告げた。

「僕よりもその女を取るのか?」
「ああ。本気なんだ。心から彼女を愛している」

 僕が不遜ふそんに顎で示した先には、婚約者の背に庇われる女が一人。
 確か、平凡な伯爵家の長女だっただろうか?
 そばかすの浮いた笑顔が眩しい、気立てのいい令嬢だ。
 僕と目が合うと、ゆらゆらと瞳を揺らす。だが、己を守る男と同じように、固い決意を抱いているようだった。
 先ほどまでは小動物のように身を縮こまらせていたというのに、男の背から姿を現すと、僕を凜然と見つめて深く腰を折る。

「ジョシュア様。わたくし……っ、わたくしも──彼を愛しております!」
「ハッ、笑える」

 婚約者がいる男に心を奪われておいて「わたくしも愛しております」とは、おかしくはないか?
 何を綺麗ごとでまとめようとしているんだよ。
 許してくれも何も、当然──

「──許す! むしろよくここまで耐えたな!」
「は?」
「へ?」

 満面の笑みで親指を立てた僕に、二人はぽかんと同じ表情を浮かべた。
 きっと誰が見ても今の僕の笑顔は、心からの喜びをこらえきれない、といった風だろうか。だから、彼らが困惑する気持ちも理解できた。
 なんせこれまでの僕は悪役らしくじめじめとこのご令嬢を虐めては、婚約者の僕への嫌悪感と彼女への気持ちをあおってきたのだ。それもこれも、相手から婚約破棄されるため。
 しかし、その生活も今日までか……
 これでようやく、僕は小姑こじゅうとのような悪役を演じなくてよくなったのだ。
 だが、そんな思惑を何も知らない二人は、僕に肩を叩かれてビクリと身を震わせた。

「まあまあ、そんなおびえないでよ! というか、僕も散々意地悪なことをしてごめんね?」
「い、っいえ、とんでもありませんわ……!」
「えー、本当に? ほんとに許してくれる? あとからあーだこーだ言わない?」
「はいっ」

 戸惑う令嬢の顔を覗き込むようにずいっと顔を寄せると、彼女は振り子のように勢いよく頷いた。

「じょ、ジョシュア、意味が分からないのだが」
「あーん? だからぁ、僕はお前たちを応援しているってことさ。あとで婚約破棄に同意する書類を送るから、サインをしてくれよ。あ! あと、僕が令嬢にしてきたあれこれについて、不問に付す誓約書にもサインをよろしくね」

 ひとつふたつと指を折り、言いそびれたことがないように思い出しながら伝え終わる頃には、二人は恐ろしいものでも見るかのように青白い顔をしていた。

「ん? どうした」
「い、いや……」
「あ! そうだ、最後に大事なことを言い忘れたね。婚約の証人になってほしかったら、僕が喜んでなるから言ってね。でも来月にはここにはいない予定だから、必要ならお早めに」

 最後にパチンとウインクを残し、僕は軽い足取りで婚約者の部屋を出る。
 いや、正しくは元婚約者、か。
 屋敷の廊下に出ると、何やら大勢の使用人がこちらを見ていた。
 僕が、たった今婚約破棄を突きつけられた人には見えないからだろう。
 彼女を虐めていたという噂を知っていて、興味津々に聞き耳を立てていたに違いない使用人どもは、姿を見せた僕の様子が想像と違うことに驚愕を隠せていない。
 誰も彼もが感情を押し隠すこともせず、いつまでも呆気にとられたようにこちらを見つめているのだ。
 まあいい。今日は僕も念願が叶って気分がいいからね。
 にこやかに彼らに手を振りながら、二度と訪れることはない屋敷を出る。
 しかし、正門の前で待つ四頭立ての馬車に乗り込もうとしたところで足を止めた。
 ふと、新緑の香りが身を包んだのだ。
 振り返ると、美しく咲き誇ったバラ園が目に入る。
 この家に初めて来た時。婚約者を心から想い、笑い合った時の、思い出の香りが。

「ばいばい」

 僕はかすかな笑みを口元に乗せて、今度こそ馬車に乗り込んだ。


 目に眩しいほど豪華な花々が咲き誇る、庭園の中心。
 その美しささえかすむほど華やかな容姿を持つ、三人の男女が僕を呼ぶ。

「可愛いジョシュア、シェフが新しいケーキを作ってくれたよ。ほらお食べ?」
「ジョシュア、俺のも食べろ。美味いぞ」
「お兄様、あたくしのもあげますわ」

 ステンドグラスから射し込む陽光が、彼らの白銀の髪を照らしていた。
 光のもとで微笑む姿は普段よりもうんとまばゆい。
 僕は紅茶を一口飲むと、青色のソーサーにカップを置き、兄妹に微笑み返した。
 ケーキが載った皿を僕に差し出した順に、王太子の兄レネ、魔導騎士副隊長の兄シエル、唯一の姫である妹のエステレラだ。
 我が兄妹ながら宝石のような美しさを前に、思わず恍惚こうこつのため息が零れ落ちる。
 髪の白銀は、獣人国──アンニーク王国の王族のみが受け継ぐ色だ。
 猫の獣人である僕も、当然ながら白銀の髪を持っている。瞳は透き通るような空色に、肌は雪のように真っ白。さらに頭部にはふわふわの猫耳が生えていて……
 どれもこれも前世では有り得なかった風貌だ。
 いや、そもそも、この世界に転生したこと自体が、有り得ないことなのだけれど──
 おかしな話だが、僕には前世の記憶がうっすらとある。
 元々病弱だった僕は、三歳の頃に死の間際をさまよった。
 その時、ひとまず天啓てんけいと言おうか――とあることが起きて、僕は前世というものを思い出したのだ。
 ただ、そこで思い出せたのは、ぼんやりとした記憶ばかり。
 僕がどういう人間で、どんなふうに生きて、どうして死んだのか。
 前世の世界がどういった場所だったかは覚えていることが多いというのに、僕自身がどんな人生を送っていたのか、「僕」という個については分からないことだらけ。
 唯一分かったのは、前世の僕は二十歳で死んだということだけ。
 とはいえ、前世を思い出した、というだけでも信じがたいことだろう。
 しかし、僕に関する驚きの事実はそれだけではなかった。
 三歳で前世を思い出して数年。僕は鏡を見るたびに違和感を抱くようになった。
 はじめはその違和感が何か、分からなかった。
 鏡に映るのは見慣れた自分の姿。
 鎖骨の下あたりまで伸びた緩やかな白銀の髪に、色素の薄い空色の瞳と、泣き黒子ぼくろ
 いつ見てもふんわりと飾り毛のある美しい耳に、ふわふわで優雅な尻尾は、猫の獣人として誇らしく立派だ。
 しかし、何よりも違和感を抱いたのは、庇護欲をあおる中性的なこの──眠たげな美貌。
 くっきりとした二重まぶたのくせにまなじりが垂れ下がっているからか、どこか重たげな目元で表情にとぼしい印象を与える。
 ぽやぽやしているようでいて、冷たい雰囲気がぬぐいきれないこの顔が……
 違和感の尻尾を掴むため、じーっと鏡を見ていたある日、ハッとした。
 ──もしかして僕、アニメ化までされたあの小説に出てくる悪役の王子では?
 その瞬間。前世で見た光景が、目まぐるしく頭の中に流れ込んできたのだ。
「テレビ」という映像の中で、カラフルに軽やかに動き回っていた彼ら。
 ──ああ、そうだ……やっぱり僕だ!
 そうと気づいたらもう、受け入れざるを得ない。
 成長するにつれて、僕の容姿はますます前世の記憶通りのものになっていった。
 何より、事実を受け入れてから、真っ先に調べたが実在していると知った時の感情と言ったら、言葉にはできないものだ。
 まさかまさか、前世で読んでいた小説『希望のフィオレ』に登場する悪役に、転生するとは。
 もし、記憶を思い出せず、あのまま知らずに育っていたらと考えると、今でもゾッとする。
 前世で一読者だった時は、ジョシュアに対して特別に注目したことはなかった。しいて言うならば、わがままで自分勝手な王子だなー、ぐらい。
 だけど、それが今の自分なのだとしたら?
 あんなどうしようもない悪役王子と同じ人生を歩むなど、絶対にお断りである。
 物語の結末通りに奴隷になるなんてまっぴらごめんだし、原作と同じように好き勝手に生きていたら、大切な家族にまで迷惑をかけることになるのだ。
 よりにもよって破滅する設定の悪役に転生とはツイていない。まあ、それでも、転生に気づいた時に安堵したのも事実だった。
 なぜなら『希望のフィオレ』がラブコメ風の恋愛ファンタジー小説だったから。
 もしも、これが世界滅亡の危機を救う話だったり、争いごとの絶えない世界観だったならば、苦労が多くなっていたことだろう。展開を知っていればなおさら気が気でないはずだ。
 それを考えると、『希望のフィオレ』の世界は平和でいい。
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 ベルデ大公にズロー侯爵、そして僕――ジョシュア・アンニーク第三王子。
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 まったくもって笑えない。
 皇帝のために間違いを犯して、最後は酷い目に遭う運命だと?
 そもそも、僕が好きなのは皇帝じゃなく──

「ジョシュア? 具合が悪いのかい?」

 不安そうな声に、パチリと瞬く。
 テーブルを挟んだ向かいに座るレネが、腕を伸ばして僕のおでこに触れていた。
 心からにじみ出るような不安げな表情に、チクリと胸が痛んだ。
 僕は微笑むと、皆を安心させるために首を横に振る。
 ……こんなことではダメだな。いちいち心配をかけてどうする。
 念願の婚約破棄ができて浮かれるのは仕方ない。しかし、家族に負担をかけていい理由にはならないのだから。
 気を抜くとすぐに空想の世界へ飛んでしまう意識をしっかりとわし掴みにし、僕は居住まいを正した。
 兄妹は婚約破棄の件を聞くなり、さらう勢いで僕をこの茶会に連行したのだ。
 そして今、僕を溺愛する彼らによる、甘やかしタイムなのである。

「お兄様方、それにエステレラも。僕は元気ですし、何より婚約破棄には傷ついていませんよ」
「当然だろ! 俺のジョシュアをあんな軟派にくれるなど、もったいないと思っていたんだ」

 勝気な双眸そうぼうを吊り上げて、僕の否定に真っ先に食らいついたのは次男のシエルだった。
 口調があまり優雅ではなく、騎士なのに少々短気で直情的なところが玉にキズだ。
 ほら見ろ。今だって全く僕の声が聞こえていないのか、シエルは腹立たしげにテーブルに拳をついた。
 おかげでティーカップが机の上で小躍りしている。
 嘆息して、いまだに激しく揺れる紅茶の水面を見ていると、頭上からすっと影が差す。
 顔をあげると、テーブルに倒れ込むのではないかと思うほど身を乗り出したレネがいた。
 目が合うなり、とろんと目尻を甘く垂らし、僕の頬を撫でくりまわす。

「ジョシュア……もうどこにも行かず、ずっと私の傍にいなさい」
「お兄様。お言葉ですが、お兄様こそ早く婚約者を見つけて、お父様を安心させてあげてください」

 レネの手から逃れながら言えば、彼のアメジストのような瞳が潤んだ。

「アァッ! ジョシュアッ、なんて優しい子なんだいっ⁉ こんな時にまで私の心配をするとは、この世の全てを捧げても君のような天使には会えないだろう!」

 ……大丈夫? 目が腐っているの?
 僕が天使ならば兄様は神よりも尊い何かになってしまうよ。
 王太子とはいえただのブラコンが神よりも尊いだなんて、その時はこの世界もついに終わってしまうね。
 ハハッ、と乾いた笑みを浮かべると、今度は左手をぎゅっと掴まれる。

「お兄様。あたくしも賛同いたしますわ。レネお兄様の言う通りです。結婚などせずにずっとここにいてくださいませ」

 まだあどけない顔に悲愴ひそうな色を乗せて、末っ子らしくエステレラが言った。
 あざといことに、するりと長い尻尾を僕の脚に巻き付けてくる。
 エステレラは知っている。この甘え方が、僕には一番効果的であることを。
 我が妹ながら、その策士的思考に拍手を送りたいぐらいだ。
 考え方が僕によく似ているから、今後はますます狡賢ずるがしこくなることだろう。

「エステレラ、お前もいずれは好きな人と出会うんだ。なのに、僕だけがここにいたら一人ぼっちになるだろう?」
「そんなことはない!」

 僕の言葉に三人が声を揃えて否定する。
 先ほどよりも燃え上がった熱量に、どうやって落ち着かせようかと途方に暮れた。
 この後の展開を考えると、頭痛がしそうだ。
 だって僕は──もう一人の悪役と婚約するのだから。


 白亜の宮殿の最奥には王の間がある。
 そこへやってきた僕は、おごそかな雰囲気に呑まれて、いささか緊張していた。
 僕の背よりもうんと高く重厚な扉の両脇には、国王陛下をお守りすべく鍛え抜かれた騎士が凜然と立っている。
 二人の騎士は僕を見て礼をとると、金の意匠が施された真っ白い扉を開けた。
 大理石でできた道を行き、玉座に繋がる階段が見えたところで足を止める。
 目線を下げたまま国王陛下を前に片膝を折り、ご挨拶を述べようと口を開いた時。

「──よい。こちらに来なさい」
「はい、国王陛下」

 すっ、と伸びるように耳心地のいい声音が鼓膜を揺らした。
 そこで初めて視線をあげた僕は、ギクリと身を固める。
 深い藍色の瞳に、僕と同じ白銀の髪。ビロードで作られた、紺色のマントに身を包んだ美丈夫。
 白虎である国王陛下は、威風堂々とした居住まいで僕を見下ろしていた。
 しかし……その背後で揺れる尻尾はどうしたものか。
 ぶんぶん、ぶんぶん、と左右に揺れていて、溢れんばかりの感情が丸見えなのだ。

「あの、国王陛下──」
「お父様だ!」

 僕の言葉に被せて、国王陛下がそう叫ぶ。
 僕は思わずスッと目を細めた。

「いや、パパと呼びなさい!」

 さらに続いた呆れる言葉に、げんなりしてしまう。
 そうだ。この人の威厳はもって五秒。いや、三秒ほど。
 先ほどまでの国王然とした姿はどこへ行ったのだろう。
 今はまるで初孫を見るおじいちゃんのように、もしくは好きな女の子を見る変態のように、緩みきった表情をしている。

「こく──」
「おや、パパに逆らうのかな?」
「……お父様。周囲の目もありますから、そういった態度はやめてくれません?」

 呆れてものも言えない。
 にこにこと優しく微笑みながら権力を振りかざすなんて、さすがは僕の父親。腹黒い。
 国王陛下 ──いや、お父様のもとへ行くと、熱烈な抱擁に歓迎された。
 頭部におでこに耳に頬に……。唇を除いた至るところに口付けが降ってくる。
 こうしてされるがままでいるのにはわけがあった。過去に一度だけ拒絶したことがあるのだが、お父様は大層傷ついたらしく寝込んでしまったのだ。当時のご機嫌取りに比べれば、我慢をするほうが労力は少ない。
 お父様が満足する頃を見計らって、僕はようやく「いい加減にしてくれ」と、背中を反らせて顔を上げた。
 視界を占めるのが華やかな美形であることが救いだな……
 これで、見た目がでっぷりとした中年親父だったら、流石に耐えられなかった。魔法で燃やしていたかもしれない。
 想像に身を震わせた僕は、腕の中からもがいて脱出すると、居住まいを正した。
 二歩後ろに下がり気を引き締め、率直に例の件を口にする。

「お父様、婚約破棄できたので、僕との約束を守ってくれますよね?」
「ジョシュア」
「お父様?」

 攻守交替である。
 今度は僕が、にこにこと微笑みを浮かべて首を傾げる。
 うっ、と口ごもったお父様は、右に左に視線をさまよわせるばかり。

「お、と、う、さ、ま?」
「だってぇ!」

 やめろ。やめてくれ。さすがの美形でも中年の「だってぇ」にはきついものがある。
 ぶわっと鳥肌が立ち、僕は腕をさすった。

「だってもクソもないですよ。僕と約束しましたよね? 相手から婚約破棄された場合に限り、を婚約者にしてくれるって」

 五年前の約束を持ち出すと、お父様は肩を落とす。

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「ふーん。じゃあ僕との約束を破るんですね?」
「いや、だが、しかし!」
「お父様。こうして僕が大人しくお願いするためにお父様の前にいるのと、勝手に城を抜け出してどこかへ行ってしまうの、どっちがいい?」
「……」

 長くも感じる数秒の後、お父様はしょんもりと耳を伏せて頷いた。

「…………分かった。ジョシュアとの約束だ。オウトメル帝国ノクティス・ジェア・ベルデ大公との婚約を認めよう」
「ふふっ、お父様だぁーいすき」
「ぐっ」

 胸を押さえたお父様にギュッと抱きつく。今度は僕の顔がでろでろにとろける番だった。
 オウトメル帝国とは主人公のサナたちが住まう小説の舞台だ!
 そして、ノクティス・ジェア・ベルデこそが僕の推し……!
 そう、相手は三人いる悪役の中の一人である。
 けれど、彼は悪役ながらも悲しい過去を背負い、最後までむくわれなかった裏の主人公だ。
 あまりの救いのなさに、ベルデ大公に落ちるファンも多かった。
 小説の設定でも現実でも、ヒーローであるレーヴ皇帝の「腹違いの兄」とされているが、実は同じ母を持つ双子の兄なのだ。
 だが、オウトメル帝国──人間たちの間では、双子は不吉だとみ嫌われている。
 そのせいで、本来なら愛されて育つはずだったベルデ大公は、不幸な境遇で育った。
 ……実は彼が不遇な扱いを受けることになった理由には、双子であること以外にもうひとつの真実がある。
 その真実が帝国にとって不利益になる……そんな身勝手な事情で、ベルデ大公の父である当時の皇帝は、ベルデ大公を皇后付きの侍女との間にできた庶子だと言ったのだ。
 要は、正式な跡取りではない腹違いの息子であると、周囲に偽ったということ。
 そのため、彼は二十五年間の人生で一度も、本当の誕生日を祝われたことがない……はずだ、小説通りであれば。もしかすると生まれたことを祝われたことさえないと思う。
 それだけでも僕は泣けてしまうのに、彼の悲愴ひそうな人生はこんなものではなかった。
 み子として嫌悪されながらも、唯一の跡取り息子に何かあった時のためだけに、生かされることを許された存在。
 狭くて暗い宮の中で息を潜めて暮らしてきたのだ。
 だが悲劇は、容赦なく幼い彼に襲いかかる。
 人生を大きく歪ませる原因となる、ある事件が起きるのだ。
 そうして心に深い傷を負ったまま大人になったベルデ大公は、物語が進むにつれて弟を憎み、自分が皇帝だったらどんな人生であったのかと、考えるようになる。
 皇帝の代えとして生かされてきた人生。真実を知らぬ者からはあやまちにより生まれた子供とあざけられ、真実を知る者からは厄災の子供と忌避される。
 どこまでも冷たくて、痛みばかりが待ち受ける空虚な世界。
 そんな苦しみの中、唯一の光となったのが主人公のサナだった。
 幼い頃に出会った二人は、互いに惹かれ合っていた。
 つまり、最初にサナと心の距離を詰めていたのは、ベルデ大公なのだ。
 けれど、物語とはヒロインとヒーローが結ばれるもの。
 悪役という名の脇役は、何があろうとも主人公にはなれない。
 ベルデ大公の光は、いともあっさりと、羨望せんぼうの世界に身を置く双子の弟に奪われてしまう。
 そして、初めて切ないほど愛した人さえ奪っていく皇帝を、憎むようになるのだ。
 それを嗅ぎつけたのが三人目の悪役――ズロー侯爵である。
 狡猾こうかつな男は、人が心に秘めた欲をたやすく暴く。
 ベルデ大公の憎悪に気づいたズロー侯爵は、レーヴ皇帝をおとしめるために手を組もうと、彼を誘惑するのだ。
 結局、最後に大公は愛する人の幸せを選ぶ。
 ズロー侯爵の企みと己の罪を打ち明けて、彼女を守るために──大公は死んでしまうのだ。
 帝都を襲った瘴気しょうきを払うため、己の身を犠牲にして。

「じょ、ジョシュアよ、泣いているのかい?」
「うう……」

 僕の推し、可哀想すぎる……!
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 さすがの僕でも、誰かを思う気持ちを、どうにかすることはできない。
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 待っていて、大公!

「お父様! そうと決まれば今すぐにでも用意をしなくちゃ!」
「本当に行ってしまうのかい? 大公は皇族だが……噂で聞くには、あまりいい待遇とは言えない扱いをされているらしいじゃないか。大公本人は礼儀正しく柔和な男だとは聞くが、ジョシュアを行かせるのを躊躇ためらう気持ちも理解しておくれ」

 ふふん。チッチッチ、お父様は甘いね。
 大公が礼儀正しくて柔和だぁ~?
 本物の彼はセクシーで、退廃的な色気をまとった、危険な男なんだよ!
 お父様は知らないだろうけど、僕は小説を読んでいるから、大公が噂とは違い冷たくてぶっきらぼうな男であることを知っている。
 こんなことを明かせば今以上に反対されるだろうから言わないけれど。
 実は、誠実で優しく見えるのは偽の姿で、本性は無骨だし冷めているのだ。
 だというのに主人公だけを一途に想う健気さ、そして、ピンチには必ず駆けつけてくれるデキる男っていうのが、もう!
 推さずにはいられないっ。
 お父様が躊躇ためらう最大の理由はきっと、大公の住まう場所が危ないからだろう。
 推しが与えられた領地は、物語の終盤で大事な山場となる、瘴気しょうきけがれた土地なのだ。
 ベルデ領は元々緑溢れる豊かな土地だった。
 だが今では瘴気しょうきが溢れて土地は干からび、魔物が活発化している。
 そこを治めるということは、毎日が命懸けと言っても過言ではない。
 なんせ大公自らが指揮をとり、魔物の討伐を行っているのだから。
 皇族であり大公なのだから、私兵に任せればいいのにさ……。まあ、そんな責任感があって無情になりきれないところが、愛おしいのだけれど。
 僕はお父様を見上げて笑った。大丈夫だから信じてほしいと心を込めて。

「お父様、僕は不幸になりに行くんじゃない。幸せになれるって思うから行くんだよ」
「ジョシュア……」
「ねえ、あの日からずっと僕の幸せを考えてくれてありがとう」

 お父様はわずかに睫毛まつげを震わせ、そっと僕を抱きしめた。
 陽だまりのにおいに包まれながら、続けて思いを告げる。

「半年。半年だけでいいから、大公のもとに行かせて。……わがままを言ってごめんね」
「よい。お前が心より求める願いがあるならば、私は必ず叶えてみせるよ」

 僕とお父様の会話は、ある意味で「未来を手放す」と認めたことにもなるのだろう。
 けれど、想像してほしい。
 もしも、自分が生きられるを知っていたとしたら?
 決められた残りの時間を生きるのならば、僕はやっぱり──大公の傍にいたい。

「お父様、愛しているよ」

 その言葉に返事はなく、けれども僕を抱きしめる腕の力は強くて、安らかだった。

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