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1巻
1-1
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プロローグ
「――誰?」
一条美弦、二十八歳。
彼女は今、生まれて初めての経験に動揺していた。
高級ホテルと見紛うほどの洗練されたベッドルームの中、ひときわ存在感を放つキングサイズのベッドの上で、バスローブ姿で目覚めた自分。
隣には、かろうじてシーツで下半身が隠れているだけの裸の男が静かな寝息を立てている。しかもその顔立ちは、どこの媒体から飛び出してきたのだろうと疑うほど端整だ。
わずかに乱れた焦茶色の髪。扇形の眉の下の目は、長いまつ毛に縁取られていて、鼻筋はすっと通っている。薄くて形のいい唇といい、完璧な造作だ。
男性が並外れた美形であることは、瞼を閉じていてもわかった。
「……待って、何これどういうこと」
男を起こさないように静かに体を起こす。だがすぐに、あまりの頭痛に顔をしかめて片手でこめかみを押さえた。この痛みの原因は――二日酔い。
昨夜、美弦は行きつけの居酒屋で一人酒を呷っていた。とあることが原因で、日付が変わるまでやけ酒をしていたのははっきりと覚えている。
(その後は……どうしたっけ)
そうだ。美弦があまりにハイペースで飲むものだから、マスターが「そろそろ終わりにした方がいい」と心配してくれた。
そんな時、店に入ってきた男性客と話をした気がする。けれど、どんな会話をしたのか、男性がなんと言ったのか、まるで思い出せない。
――じゃあ、この人があの時の……?
自分は初めて会った男と一夜を共にしたというのか。
今現在恋人がいないとはいえ、過去の交際経験が一人だけの自分がこんなイケメンと?
部屋の雰囲気を見る限り、おそらくここはホテルではない。となると、一番可能性が高いのは男性の自宅マンションだろうか。
(……本当にしちゃった、の?)
この状況を考えれば「そう」としか思えない。けれど、もしかしたらそうじゃないかも……と淡い期待を抱いた美弦は、自分の体を見下ろしてハッとする。
――胸元にある小さな痣。
まさか、とバスローブの紐を解いてみれば、それは体中、至るところにあった。
胸元はもちろん、太ももの付け根にまでくっきりと刻まれたそれは、昨夜の情事の激しさを表しているようだ。
キスマークというこれ以上ない状況証拠に、一瞬、記憶がフラッシュバックする。
『俺を見て。俺を感じて――俺に夢中になって』
呼吸する間もないほど激しく降り注ぐキス。自分に覆い被さった男が放つ眩暈がするほど強烈な色気――
「っ……!」
覚えているのは断片的なことばかり。けれど、彼に触れられたことは間違いない。
(何してるのよ、私は)
いくら心が弱っていたとはいえ、一夜限りの関係を持つなんてどうかしている。少なくとも普段の自分ならばありえない行動だ。
「……避妊、したっけ」
そんな重要なことすら覚えていない自分が、なんとも情けない。
「まずは産婦人科に行って……その後は、仕事が溜まってるから会社に行かないと」
ベッドサイドのデジタル時計に視線を向ける。現在、土曜日の午前九時十五分。
一度自宅に戻って身支度を整えて、休日も開いている産婦人科に駆け込んでピルを処方してもらおう。その後は出勤して溜まった仕事を片付けなければ。
動揺する気持ちを落ち着かせようと、頭の中で今日一日のスケジュールを立てる。そして床に散らばった服を集めようと、ベッドからそっと足を床につけようとした時だった。
「どこに行くつもり?」
「え……きゃあ!」
「まさか、このまま『さよなら』なんてことはしないよな」
背後から艶のある声が聞こえたと思った瞬間、腕を引かれてベッドの上に戻される。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
ぽん、とベッドに仰向けになった美弦に覆い被さるのはもちろん裸の男。
「寝てたんじゃないの?」
「さっきまではな。でも、起きるなり『産婦人科と仕事に行かなきゃ』って、意外と冷静で驚いた」
「全部聞いてたんじゃない……」
「そうとも言う。君の表情がコロコロ変わるのが可愛くて、声をかけるタイミングを逃した。ごめんな」
にこりと微笑む笑顔の破壊力が凄まじい。
予想通り、瞼を開けた男はとんでもないイケメンだった。
アーモンド型の瞳の色は濃い茶色。どこか人懐っこい甘い顔立ちの男に見下ろされて、美弦はたまらず視線を逸らす。下着こそ履いているものの、眼前に晒された体躯はあまりに見事で目の毒だ。
「あの、この体勢はっ!」
お願いだから離れてほしい。こんな状態ではドキドキしすぎて、とてもじゃないがまともな会話なんてできそうにない。けれど男は自分の下で慌てる美弦に、どこか嬉しそうに唇の端を上げると、そっと美弦の耳元に顔を寄せた。
「恥ずかしいの? ――昨日は、もっとすごいことをしたのに」
色気の塊のような囁きに今度こそ顔が真っ赤になる。視覚に加えて聴覚まで刺激されて、寝起きの頭はパンク寸前だ。
「もう、お願いだから離れてっ……!」
泣きそうな声で懇願する。すると、ぽん、と大きな手のひらが美弦の頭を軽く撫で、ゆっくりと体が離れていった。
「ごめん。君が可愛すぎてからかいたくなった」
こちらを見つめる瞳はとろけるように甘く、美弦はますます何も言えなくなる。男は美弦の乱れたバスローブをさっと直すと、ベッドから下りて散らばった服を集めて手渡した。
「君も動揺してるようだし、リビングで話そう。そうだ、食べられないものやアレルギーはある?」
「ないけど……」
「オーケー。それじゃあ俺は先に行ってる。シャワーを使いたいならあそこのドアの奥がそうだ。タオルやアメニティもあるから自由にどうぞ。リビングは部屋を出て廊下の突き当たり。急がなくていいからゆっくりおいで」
男はもう一度美弦の頭を優しく撫でると部屋から出て行った。パタン、とドアが閉まるなり、美弦はぽすんとベッドに沈み込む。
――なんだ、あれは。
甘い。甘すぎる。男の美弦への態度はまるで愛する恋人に対するもののようで、とても一夜限りの相手にするものとは思えない。
混乱したまま、美弦は彼の言葉に甘えてシャワーを借りることにする。
二日酔いもあり、ぬるめのお湯でさっと汗を流すとだいぶさっぱりした。
昨日と同じ服を着て教えられたリビングに向かう。
扉を開けると香ばしい香りが鼻をくすぐる。見れば、男がダイニングテーブルに何かをセッティングしているところだった。
男は美弦に気づくなり目尻を下げる。
「シャワーの使い方はわかった?」
「え、ええ」
「じゃあまずは朝食にしよう。今ちょうどトーストが焼き上がったところなんだ。さあ、どうぞ」
男は美弦の手を引きダイニングチェアへ誘う。あまりにスマートなエスコートに流されるように着席すると、目の前にはとても美味しそうな料理が並んでいた。
焼きたてのトースト、ベーコンにレタスとトマトのサラダ、オニオンスープ。他にも瑞々しいいちごやキウイフルーツまである。
ここはホテルかと錯覚するような朝食に、ごくりと喉が鳴った。
「お腹が空いてるだろうと思って作ってみた。何か苦手なものでもあった?」
「ないけど……これ、私のために?」
ぽかんとする美弦に、対面に座った男は「他に誰がいる」とおかしそうに笑う。
「話は食べてからにしよう。腹が減ってはなんとかって言うしな」
自分たちは食後に戦をするのか……?
そんなくだらないことを考えてしまうくらい意外な展開だった。
本当は今すぐ昨夜から今に至るまでの顛末を聞きたい。けれど、せっかく作ってくれたのに食べないなんてもったいない。
「いただきます」
戸惑いながら食べた朝食は、感動の連続だった。
(なにこのパン、ふわっふわ!)
表面はカリッと焼かれていて中はとても柔らかい。ほどよい甘味といい、目が覚めるような美味しさだ。サラダのドレッシングも最高で、思わずどこで売っているのか尋ねたら、なんと手作りだという。
(なんだか、すっごく幸せ)
普段、こうして人に食事を作ってもらうことなんてないため、やけに胸に染みる。
フルーツも美味しくて、結局美弦は全てをぺろりと平らげた。
「ごちそうさまでした。全部美味しくて、びっくりしちゃった」
「あり合わせで作ったものだけど、そう言ってもらえると嬉しいな。――待ってて、今コーヒーを淹れる」
「あっ、お構いなく!」
席を立とうとする美弦を男は笑顔で止めた。
「俺も飲みたいからついでだよ。適当にそこのソファに座って待ってて」
「……ありがとう」
言われるままソファに移動して腰を下ろすと、すぐにマグカップを二つ持った男が戻ってきて、ソファ前のローテーブルに一つ置いた。
男は立ったまま壁に背中を預けてカップの縁に口を付ける。そんな些細な仕草さえ絵になって、自然と視線が釘付けになった。
そんな自分に気づき、美弦は慌てて視線を手元に戻して、ほのかに湯気の立つコーヒーを飲む。「昨日のことだけど」と男が切り出したのは、一口飲み終えるのと同時だった。
「避妊はした。というか、最後まではしていない。だから心配しなくても大丈夫」
それを聞いて「よかった」と素直に思う。
子供は好きだ。けれど、今の自分は母親になる覚悟も自信も持てない。
「あの……」
「ん?」
躊躇ったのち、美弦は切り出した。
「正直、昨日のことはほとんど覚えてないの。自分がここにいる理由も、あなたの名前も」
素直に告げると男は目を丸くする。
「確かにかなり酔ってはいたけど、さすがに結婚の約束をしたのは覚えてるよな?」
「――今、なんて」
空耳が聞こえた。だが男はもう一度、今度ははっきりと言った。
「だから、結婚」
けっこん、ケッコン――結婚⁉
「だ、誰が?」
「俺と君が。――まさか、それも?」
あまりの衝撃に返事もできない。目が覚めて見知らぬ裸の男が隣にいることにも驚いたが、今はそれ以上だった。その動揺は言うまでもなく男にも伝わったのだろう。
男は再度大きく目を見開くと、小さくため息をついて、チェストの引き出しからスマホと何やら一枚の紙を取り出して差し出してきた。それを受け取った美弦は息を呑む。
――記入済みの婚姻届。
「妻になる人」の部分は間違いなく美弦の自筆。その隣の「夫になる人」を見て、美弦は今度こそ絶句したのだった。
1
「寝る間も惜しんで仕事を頑張って、お給料を稼いで、自分の好きなことにお金を使って何が悪いの!」
三月下旬の金曜日、午前一時過ぎ。居酒屋『善』の店内に大声が響き渡る。
美弦が生ビールの入ったジョッキをカウンターに叩きつけると、その弾みで溢れた泡が手の甲を濡らす。すかさずマスターがおしぼりを手元に置いてくれるけれど、既に目が据わるほど酔っている美弦は気づかない。
(私の何が悪かったのよ)
美弦は現在、御影ホテル株式会社本社のフランチャイズ事業部で営業をしている。日頃から日付が変わるまで残業することもざらにあるなかなかの多忙ぶりだが、美弦自身は概ねこの生活に満足していた。仕事で結果を出せば、その分給与に反映される。おかげで年収は同世代の平均と比較して抜群に高い。
そんな美弦にとって、多忙な生活を支えてくれる人の存在は何より大きかった。
二歳年上の銀行員である恋人にプロポーズされたのは、三ヶ月前のクリスマスイブのこと。
『僕と結婚してくれますか?』
夜景の見えるレストランで恋人の鈴木浩介から結婚を申し込まれた時、美弦は涙が出るほど嬉しかった。答えはもちろんイエス。もう付き合って四年になる恋人とはいつかそうなるだろうと思っていたからこそ、返事に迷いはなかった。
多忙ながらもやりがいのある仕事。
そんな自分を理解し、支えてくれる優しい婚約者。
――美弦は確かに幸せだった。一ヶ月前、婚約者に突然別れを告げられるその時までは。
「月一でヘアサロンとネイルサロンに行ったくらいでどうして責められるの。ブランドもののバッグを買ったからってどうして引かれなきゃいけないの。九センチのヒールを履いたら『見下されてる気分になる』って何よそれ、そんなの知らないわよ! 全部私が汗水垂らして稼いだお金でやっていることよ、それなのに文句を言われる筋合いなんてない!」
美弦は残りのビールを一気に飲み干すと、腹の底に溜め込んでいた鬱憤を一気にぶちまけた。
「マスター、ビールもういっぱいください!」
カウンター越しに空になったジョッキを突き出すと、受け取ったマスターはため息まじりに「美弦ちゃん」と窘めてきた。
「もうそろそろやめておきなって。元々お酒はあんまり強くないんだから」
「いーんです! こんなの飲まなきゃやってられないわ」
「はあ……じゃあもうこれで最後だよ。これを飲んだらまっすぐ家に帰ること。いい?」
子供に言い聞かせる父親のようなマスターの言葉に美弦は素直に頷く。その様子にマスターは「本当に最後だよ」と再度念押しした上で、ビールジョッキをそっと目の前に置いてくれた。
駅から少し離れた高架線下にひっそりと佇むこの店は、カウンター席が六席あるだけの小さな居酒屋だ。
古びた外観はお世辞にも洒落ているとは言えないが、還暦を迎えたばかりのマスターが作る料理はどれも絶品で、知る人ぞ知る優良店である。
普段美弦は、ほとんど外食をしない。毎日飲んでいたら酒代が馬鹿にならないから、飲酒をするのはもっぱら仕事の付き合いの時だけで、基本的には自炊を心がけている。
とはいえ美味しい食事もお酒も大好きな美弦の一番の楽しみが、月に一度の給料日に『善』に飲みにくることだった。
美弦が初めて『善』を訪れたのは、新入社員になってしばらく経った頃。
仕事に行き詰まって、ふと入ったのがこの店だった。
就職で上京した美弦は、密かにマスターを「第二の父」と呼ぶほど慕っている。そんなマスターの前で美弦はいつだって上機嫌だった。しかしこの店に通ってかれこれ六年、美弦は通い慣れたこの店で初めて荒れていた。
もう何杯飲んだかわからない。けれど二十八年間の人生で一番飲んでいるのは確かだ。
おかげで頭はガンガンするし、心臓は長距離を走り終えた時のように激しく脈打っている。だがそうまでしても、美弦の心は一向に晴れなかった。
「でも、美弦ちゃんがうちの店に来てくれるようになってだいぶ経つけど、こんなに荒れているのは初めて見た。よっぽど彼のことが好きだったんだね」
「……好きじゃなきゃ、四年間も付き合わないわ」
「そりゃそうだ」
マスターはそう言って肩をすくめると、口を閉ざして洗い物を始める。
美弦に気を遣ってくれたのだろう。
話したい時は聞いてくれるし、静かに飲みたい時はそっと離れる。
そんなマスターが営んでいるからこそ、美弦はこの居酒屋が大好きだった。
面倒な客の相手をさせてマスターには申し訳ないが、六年前にこの店を見つけた自分を今日ほど褒めたいと思ったことはない。
「こんばんは」
その時、店の扉がガラリと開いた。
「いらっしゃいませ!」
「まだ開いてますか?」
一人しんみりと飲んでいた美弦は見もしないが、どうやら男性客のようだ。
「はい! ……あっ、ちょっとお待ちくださいね」
マスターが気遣うように美弦をちらりと見る。それは「他の客がいてもいいか」と尋ねているようで、美弦はすぐに「私は大丈夫だから」とマスターにだけ聞こえるように小さい声で伝えた。
自分のせいで他のお客さんを断るなんて、そんなことさせてはいけない。
ベロベロに酔っていてもそれくらいの分別はある。
「お待たせしました。さ、お好きな席にどうぞ!」
「ありがとうございます」
男性客が座ったのは、美弦の隣。
(わざわざそこに座る?)
客は美弦と男性の二人だけなのだから、せめて席を一つ空けてくれればいいのに。
そんなことを思いながら引き続き酒を飲む美弦の横で、男性は愛想良くオーダーをする。
彼がまず頼んだのはビールと牛すじ煮込み。いずれも美弦が大好きなメニューで、ほんの少しだけ親近感が生まれる。
「この牛すじ煮込み、美味しいですね」
感心した様子の男性に「そうでしょう」と心の中で同意する。美弦が作ったわけでもないのに、自分の好きなものを褒められるとなんだかやけに嬉しい。
「他に何かおすすめのものを適当にいただけますか?」
「はいよー!」
二人の何気ない会話を聞きながら美弦はそっと瞼を伏せた。
(……浩介は、こんな風にマスターと話したりしなかったな)
付き合い始めてすぐの頃、美弦は浩介をこの店に連れて来たことがある。
自分の大好きな店を恋人に紹介したい。
そんなつもりで一緒に訪れたのだが、彼はこの店が肌に合わなかったらしい。「もう少し綺麗な店の方がいいな」と言われたのが、自分でも驚くくらいショックだった。
あの後も、美弦が『善』に通っていることを浩介は知らないだろう。
いいや、きっとそれ以外にも互いに知らないことはたくさんあった。
婚約者が自分以外の女性に心を奪われていたことに、美弦がまるで気づかなかったように。
(四年も一緒にいたのに)
一ヶ月前。美弦が久しぶりのデートに心を弾ませて待ち合わせ場所に行くと、見知らぬ女性が一緒にいた。そして突然別れを告げられたのだ。
青天の霹靂とはまさにあの時のことを言うのだろう。
少なくとも美弦にとっては寝耳に水だった。
『……本当にごめん、美弦』
こちらの顔を見もせず俯く浩介と、その隣で勝ち誇ったように微笑む女。
その時の光景を思い出すたび、胸が引き裂かれそうに痛む。
あの瞬間、視界は真っ黒に塗り潰され、絶望的な気持ちになった。
それは一ヶ月経った今も変わらない。
泣きたくないのに目に涙が滲み、虚しくて切なくてたまらなくなる。
それが少しでも和らぐようにビールをごくんと呷る。そんなことをしても胸の痛みが収まらなくて、込み上げてきた涙で視界が滲んだ、その時。
「大丈夫?」
不意に隣からかけられた声に視線を向けると、こちらを見ていた男性と視線が重なった。その顔立ちに美弦は思わず目を見張る。
濃い茶色の髪、扇形の眉に縁取られたアーモンド型の瞳。すっと通った鼻筋に形のいい唇。滅多にお目にかかれないような端整な顔立ちだったのだ。
(あれ、でもこの人……)
なんだか見覚えがある。けれど酔っ払ってぼうっとしているせいか思い出せない。
いったいどこで見かけたのだろう――酔いでうまく回らない頭でぼんやり考えていると、男性は心配そうにハンカチを差し出した。
甘いマスクについ見惚れていた美弦は、はっと我に返る。
「え……あっ!」
直後、手が滑った。ジョッキが転がり、こぼれた中身がカウンターに広がる。
「やだ、ごめんなさい!」
慌てておしぼりでカウンターを拭き始める。幸い被害は美弦の手元だけで、男性の方までは広がっていない。とはいえ、来店早々目の前でビールをこぼされたらたまったものではないだろう。
「……すみません」
「俺にはかかってないから大丈夫」
男性は手にしていたハンカチをそっと美弦の膝に置く。
「それよりスカートを拭いた方がいい」
指摘されて気づいた。ビールがカウンターから滴り落ちて膝上に染みを作っている。
「あ、それなら自分のもので拭くので大丈――」
言いながらバッグに手を伸ばすもハンカチが見当たらない。
そういえば退社前に化粧室に寄って、手を洗ってすぐに後輩の女性社員に声をかけられて……多分、その場に置いてきてしまった。
――最悪だ。
いい年をした大人が一人やけ酒をしてマスターに絡んだ挙句、お酒をこぼして他の客に迷惑をかけるなんて。酔いも手伝って泣きたい気分になってくる。
「……お借りします」
「どうぞ」
平謝りの美弦に男性は柔らかく笑む。
彼の醸し出す柔らかな雰囲気に少しだけ慰められながらスカートを拭くと、改めて感謝を伝えて新品で返したい旨を伝える。けれど男性は「そのままでいいよ」と、さっと濡れたハンカチを美弦の手から抜き取った。
「それより、さっき俺を見た時に何か言いたげだったけど、気のせいかな?」
あなたがカッコよすぎて見惚れていたんです、とはさすがに言いにくい。
「あなたを見ていたのは……その、以前どこかで見たことがあるような気がして」
男性は驚いたように目を見張ったかと思うと、その目を細めて唇の端を上げる。甘いマスクに突如浮かんだ色気に美弦はたまらず息を呑んだ。
「それは口説かれてると思っていいのかな?」
「え⁉」
「嬉しいな。君みたいな美人にナンパされるなんて、男名利に尽きる」
「違っ、そんなつもりじゃ……本当にそう思ったから言っただけです!」
全くそんな意図のなかった美弦が真面目に言い返すと、すぐに「冗談だよ」と肩をすくめられた。
「もう……」
からかわれたことに少しだけ立腹する美弦に、男性は「でもよかった」と目尻を下げる。
「綺麗な女性が一人で泣いているから心配していたんだ。でも今の姿を見て少しだけ安心した」
その時の笑顔があまりに優しくて、カッコよくて。何よりさらりと「綺麗」と褒めてくるスマートさに美弦が戸惑っていると、男性は重ねて優しい言葉を口にした。
「俺でよければ話を聞くよ」
「……聞いても何も面白くないと思いますよ。それに、名前も知らない相手に話すようなことじゃないですし」
「恭平」
「え?」
「俺の名前。『うやうやしい』の恭に、『たいら』の平。君は」
「あ……一条美弦です。漢字は、『美しい弦』」
「綺麗な名前だな。君にぴったりだ」
「っ……ありがとうございます」
またもやさらりと褒められて、恥ずかしいやら嬉しいやらでうまく答えられない。そんな美弦に恭平は「これで『名前を知らない相手』ではなくなったね」と柔らかく笑む。こちらを見つめる眼差しはとても優しくて、美弦は思わず見惚れた。
「それに、他人だからこそ話せることもあると思うけど、どうかな」
――正直、誰かに聞いてほしい気持ちはある。
だから美弦は、彼の言葉に甘えることにした。
婚約破棄から今日まで、怒りも悲しみも喪失感も……ありとあらゆる感情を自分一人で抱え込むのは、もう限界だったのだ。
「――誰?」
一条美弦、二十八歳。
彼女は今、生まれて初めての経験に動揺していた。
高級ホテルと見紛うほどの洗練されたベッドルームの中、ひときわ存在感を放つキングサイズのベッドの上で、バスローブ姿で目覚めた自分。
隣には、かろうじてシーツで下半身が隠れているだけの裸の男が静かな寝息を立てている。しかもその顔立ちは、どこの媒体から飛び出してきたのだろうと疑うほど端整だ。
わずかに乱れた焦茶色の髪。扇形の眉の下の目は、長いまつ毛に縁取られていて、鼻筋はすっと通っている。薄くて形のいい唇といい、完璧な造作だ。
男性が並外れた美形であることは、瞼を閉じていてもわかった。
「……待って、何これどういうこと」
男を起こさないように静かに体を起こす。だがすぐに、あまりの頭痛に顔をしかめて片手でこめかみを押さえた。この痛みの原因は――二日酔い。
昨夜、美弦は行きつけの居酒屋で一人酒を呷っていた。とあることが原因で、日付が変わるまでやけ酒をしていたのははっきりと覚えている。
(その後は……どうしたっけ)
そうだ。美弦があまりにハイペースで飲むものだから、マスターが「そろそろ終わりにした方がいい」と心配してくれた。
そんな時、店に入ってきた男性客と話をした気がする。けれど、どんな会話をしたのか、男性がなんと言ったのか、まるで思い出せない。
――じゃあ、この人があの時の……?
自分は初めて会った男と一夜を共にしたというのか。
今現在恋人がいないとはいえ、過去の交際経験が一人だけの自分がこんなイケメンと?
部屋の雰囲気を見る限り、おそらくここはホテルではない。となると、一番可能性が高いのは男性の自宅マンションだろうか。
(……本当にしちゃった、の?)
この状況を考えれば「そう」としか思えない。けれど、もしかしたらそうじゃないかも……と淡い期待を抱いた美弦は、自分の体を見下ろしてハッとする。
――胸元にある小さな痣。
まさか、とバスローブの紐を解いてみれば、それは体中、至るところにあった。
胸元はもちろん、太ももの付け根にまでくっきりと刻まれたそれは、昨夜の情事の激しさを表しているようだ。
キスマークというこれ以上ない状況証拠に、一瞬、記憶がフラッシュバックする。
『俺を見て。俺を感じて――俺に夢中になって』
呼吸する間もないほど激しく降り注ぐキス。自分に覆い被さった男が放つ眩暈がするほど強烈な色気――
「っ……!」
覚えているのは断片的なことばかり。けれど、彼に触れられたことは間違いない。
(何してるのよ、私は)
いくら心が弱っていたとはいえ、一夜限りの関係を持つなんてどうかしている。少なくとも普段の自分ならばありえない行動だ。
「……避妊、したっけ」
そんな重要なことすら覚えていない自分が、なんとも情けない。
「まずは産婦人科に行って……その後は、仕事が溜まってるから会社に行かないと」
ベッドサイドのデジタル時計に視線を向ける。現在、土曜日の午前九時十五分。
一度自宅に戻って身支度を整えて、休日も開いている産婦人科に駆け込んでピルを処方してもらおう。その後は出勤して溜まった仕事を片付けなければ。
動揺する気持ちを落ち着かせようと、頭の中で今日一日のスケジュールを立てる。そして床に散らばった服を集めようと、ベッドからそっと足を床につけようとした時だった。
「どこに行くつもり?」
「え……きゃあ!」
「まさか、このまま『さよなら』なんてことはしないよな」
背後から艶のある声が聞こえたと思った瞬間、腕を引かれてベッドの上に戻される。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
ぽん、とベッドに仰向けになった美弦に覆い被さるのはもちろん裸の男。
「寝てたんじゃないの?」
「さっきまではな。でも、起きるなり『産婦人科と仕事に行かなきゃ』って、意外と冷静で驚いた」
「全部聞いてたんじゃない……」
「そうとも言う。君の表情がコロコロ変わるのが可愛くて、声をかけるタイミングを逃した。ごめんな」
にこりと微笑む笑顔の破壊力が凄まじい。
予想通り、瞼を開けた男はとんでもないイケメンだった。
アーモンド型の瞳の色は濃い茶色。どこか人懐っこい甘い顔立ちの男に見下ろされて、美弦はたまらず視線を逸らす。下着こそ履いているものの、眼前に晒された体躯はあまりに見事で目の毒だ。
「あの、この体勢はっ!」
お願いだから離れてほしい。こんな状態ではドキドキしすぎて、とてもじゃないがまともな会話なんてできそうにない。けれど男は自分の下で慌てる美弦に、どこか嬉しそうに唇の端を上げると、そっと美弦の耳元に顔を寄せた。
「恥ずかしいの? ――昨日は、もっとすごいことをしたのに」
色気の塊のような囁きに今度こそ顔が真っ赤になる。視覚に加えて聴覚まで刺激されて、寝起きの頭はパンク寸前だ。
「もう、お願いだから離れてっ……!」
泣きそうな声で懇願する。すると、ぽん、と大きな手のひらが美弦の頭を軽く撫で、ゆっくりと体が離れていった。
「ごめん。君が可愛すぎてからかいたくなった」
こちらを見つめる瞳はとろけるように甘く、美弦はますます何も言えなくなる。男は美弦の乱れたバスローブをさっと直すと、ベッドから下りて散らばった服を集めて手渡した。
「君も動揺してるようだし、リビングで話そう。そうだ、食べられないものやアレルギーはある?」
「ないけど……」
「オーケー。それじゃあ俺は先に行ってる。シャワーを使いたいならあそこのドアの奥がそうだ。タオルやアメニティもあるから自由にどうぞ。リビングは部屋を出て廊下の突き当たり。急がなくていいからゆっくりおいで」
男はもう一度美弦の頭を優しく撫でると部屋から出て行った。パタン、とドアが閉まるなり、美弦はぽすんとベッドに沈み込む。
――なんだ、あれは。
甘い。甘すぎる。男の美弦への態度はまるで愛する恋人に対するもののようで、とても一夜限りの相手にするものとは思えない。
混乱したまま、美弦は彼の言葉に甘えてシャワーを借りることにする。
二日酔いもあり、ぬるめのお湯でさっと汗を流すとだいぶさっぱりした。
昨日と同じ服を着て教えられたリビングに向かう。
扉を開けると香ばしい香りが鼻をくすぐる。見れば、男がダイニングテーブルに何かをセッティングしているところだった。
男は美弦に気づくなり目尻を下げる。
「シャワーの使い方はわかった?」
「え、ええ」
「じゃあまずは朝食にしよう。今ちょうどトーストが焼き上がったところなんだ。さあ、どうぞ」
男は美弦の手を引きダイニングチェアへ誘う。あまりにスマートなエスコートに流されるように着席すると、目の前にはとても美味しそうな料理が並んでいた。
焼きたてのトースト、ベーコンにレタスとトマトのサラダ、オニオンスープ。他にも瑞々しいいちごやキウイフルーツまである。
ここはホテルかと錯覚するような朝食に、ごくりと喉が鳴った。
「お腹が空いてるだろうと思って作ってみた。何か苦手なものでもあった?」
「ないけど……これ、私のために?」
ぽかんとする美弦に、対面に座った男は「他に誰がいる」とおかしそうに笑う。
「話は食べてからにしよう。腹が減ってはなんとかって言うしな」
自分たちは食後に戦をするのか……?
そんなくだらないことを考えてしまうくらい意外な展開だった。
本当は今すぐ昨夜から今に至るまでの顛末を聞きたい。けれど、せっかく作ってくれたのに食べないなんてもったいない。
「いただきます」
戸惑いながら食べた朝食は、感動の連続だった。
(なにこのパン、ふわっふわ!)
表面はカリッと焼かれていて中はとても柔らかい。ほどよい甘味といい、目が覚めるような美味しさだ。サラダのドレッシングも最高で、思わずどこで売っているのか尋ねたら、なんと手作りだという。
(なんだか、すっごく幸せ)
普段、こうして人に食事を作ってもらうことなんてないため、やけに胸に染みる。
フルーツも美味しくて、結局美弦は全てをぺろりと平らげた。
「ごちそうさまでした。全部美味しくて、びっくりしちゃった」
「あり合わせで作ったものだけど、そう言ってもらえると嬉しいな。――待ってて、今コーヒーを淹れる」
「あっ、お構いなく!」
席を立とうとする美弦を男は笑顔で止めた。
「俺も飲みたいからついでだよ。適当にそこのソファに座って待ってて」
「……ありがとう」
言われるままソファに移動して腰を下ろすと、すぐにマグカップを二つ持った男が戻ってきて、ソファ前のローテーブルに一つ置いた。
男は立ったまま壁に背中を預けてカップの縁に口を付ける。そんな些細な仕草さえ絵になって、自然と視線が釘付けになった。
そんな自分に気づき、美弦は慌てて視線を手元に戻して、ほのかに湯気の立つコーヒーを飲む。「昨日のことだけど」と男が切り出したのは、一口飲み終えるのと同時だった。
「避妊はした。というか、最後まではしていない。だから心配しなくても大丈夫」
それを聞いて「よかった」と素直に思う。
子供は好きだ。けれど、今の自分は母親になる覚悟も自信も持てない。
「あの……」
「ん?」
躊躇ったのち、美弦は切り出した。
「正直、昨日のことはほとんど覚えてないの。自分がここにいる理由も、あなたの名前も」
素直に告げると男は目を丸くする。
「確かにかなり酔ってはいたけど、さすがに結婚の約束をしたのは覚えてるよな?」
「――今、なんて」
空耳が聞こえた。だが男はもう一度、今度ははっきりと言った。
「だから、結婚」
けっこん、ケッコン――結婚⁉
「だ、誰が?」
「俺と君が。――まさか、それも?」
あまりの衝撃に返事もできない。目が覚めて見知らぬ裸の男が隣にいることにも驚いたが、今はそれ以上だった。その動揺は言うまでもなく男にも伝わったのだろう。
男は再度大きく目を見開くと、小さくため息をついて、チェストの引き出しからスマホと何やら一枚の紙を取り出して差し出してきた。それを受け取った美弦は息を呑む。
――記入済みの婚姻届。
「妻になる人」の部分は間違いなく美弦の自筆。その隣の「夫になる人」を見て、美弦は今度こそ絶句したのだった。
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「寝る間も惜しんで仕事を頑張って、お給料を稼いで、自分の好きなことにお金を使って何が悪いの!」
三月下旬の金曜日、午前一時過ぎ。居酒屋『善』の店内に大声が響き渡る。
美弦が生ビールの入ったジョッキをカウンターに叩きつけると、その弾みで溢れた泡が手の甲を濡らす。すかさずマスターがおしぼりを手元に置いてくれるけれど、既に目が据わるほど酔っている美弦は気づかない。
(私の何が悪かったのよ)
美弦は現在、御影ホテル株式会社本社のフランチャイズ事業部で営業をしている。日頃から日付が変わるまで残業することもざらにあるなかなかの多忙ぶりだが、美弦自身は概ねこの生活に満足していた。仕事で結果を出せば、その分給与に反映される。おかげで年収は同世代の平均と比較して抜群に高い。
そんな美弦にとって、多忙な生活を支えてくれる人の存在は何より大きかった。
二歳年上の銀行員である恋人にプロポーズされたのは、三ヶ月前のクリスマスイブのこと。
『僕と結婚してくれますか?』
夜景の見えるレストランで恋人の鈴木浩介から結婚を申し込まれた時、美弦は涙が出るほど嬉しかった。答えはもちろんイエス。もう付き合って四年になる恋人とはいつかそうなるだろうと思っていたからこそ、返事に迷いはなかった。
多忙ながらもやりがいのある仕事。
そんな自分を理解し、支えてくれる優しい婚約者。
――美弦は確かに幸せだった。一ヶ月前、婚約者に突然別れを告げられるその時までは。
「月一でヘアサロンとネイルサロンに行ったくらいでどうして責められるの。ブランドもののバッグを買ったからってどうして引かれなきゃいけないの。九センチのヒールを履いたら『見下されてる気分になる』って何よそれ、そんなの知らないわよ! 全部私が汗水垂らして稼いだお金でやっていることよ、それなのに文句を言われる筋合いなんてない!」
美弦は残りのビールを一気に飲み干すと、腹の底に溜め込んでいた鬱憤を一気にぶちまけた。
「マスター、ビールもういっぱいください!」
カウンター越しに空になったジョッキを突き出すと、受け取ったマスターはため息まじりに「美弦ちゃん」と窘めてきた。
「もうそろそろやめておきなって。元々お酒はあんまり強くないんだから」
「いーんです! こんなの飲まなきゃやってられないわ」
「はあ……じゃあもうこれで最後だよ。これを飲んだらまっすぐ家に帰ること。いい?」
子供に言い聞かせる父親のようなマスターの言葉に美弦は素直に頷く。その様子にマスターは「本当に最後だよ」と再度念押しした上で、ビールジョッキをそっと目の前に置いてくれた。
駅から少し離れた高架線下にひっそりと佇むこの店は、カウンター席が六席あるだけの小さな居酒屋だ。
古びた外観はお世辞にも洒落ているとは言えないが、還暦を迎えたばかりのマスターが作る料理はどれも絶品で、知る人ぞ知る優良店である。
普段美弦は、ほとんど外食をしない。毎日飲んでいたら酒代が馬鹿にならないから、飲酒をするのはもっぱら仕事の付き合いの時だけで、基本的には自炊を心がけている。
とはいえ美味しい食事もお酒も大好きな美弦の一番の楽しみが、月に一度の給料日に『善』に飲みにくることだった。
美弦が初めて『善』を訪れたのは、新入社員になってしばらく経った頃。
仕事に行き詰まって、ふと入ったのがこの店だった。
就職で上京した美弦は、密かにマスターを「第二の父」と呼ぶほど慕っている。そんなマスターの前で美弦はいつだって上機嫌だった。しかしこの店に通ってかれこれ六年、美弦は通い慣れたこの店で初めて荒れていた。
もう何杯飲んだかわからない。けれど二十八年間の人生で一番飲んでいるのは確かだ。
おかげで頭はガンガンするし、心臓は長距離を走り終えた時のように激しく脈打っている。だがそうまでしても、美弦の心は一向に晴れなかった。
「でも、美弦ちゃんがうちの店に来てくれるようになってだいぶ経つけど、こんなに荒れているのは初めて見た。よっぽど彼のことが好きだったんだね」
「……好きじゃなきゃ、四年間も付き合わないわ」
「そりゃそうだ」
マスターはそう言って肩をすくめると、口を閉ざして洗い物を始める。
美弦に気を遣ってくれたのだろう。
話したい時は聞いてくれるし、静かに飲みたい時はそっと離れる。
そんなマスターが営んでいるからこそ、美弦はこの居酒屋が大好きだった。
面倒な客の相手をさせてマスターには申し訳ないが、六年前にこの店を見つけた自分を今日ほど褒めたいと思ったことはない。
「こんばんは」
その時、店の扉がガラリと開いた。
「いらっしゃいませ!」
「まだ開いてますか?」
一人しんみりと飲んでいた美弦は見もしないが、どうやら男性客のようだ。
「はい! ……あっ、ちょっとお待ちくださいね」
マスターが気遣うように美弦をちらりと見る。それは「他の客がいてもいいか」と尋ねているようで、美弦はすぐに「私は大丈夫だから」とマスターにだけ聞こえるように小さい声で伝えた。
自分のせいで他のお客さんを断るなんて、そんなことさせてはいけない。
ベロベロに酔っていてもそれくらいの分別はある。
「お待たせしました。さ、お好きな席にどうぞ!」
「ありがとうございます」
男性客が座ったのは、美弦の隣。
(わざわざそこに座る?)
客は美弦と男性の二人だけなのだから、せめて席を一つ空けてくれればいいのに。
そんなことを思いながら引き続き酒を飲む美弦の横で、男性は愛想良くオーダーをする。
彼がまず頼んだのはビールと牛すじ煮込み。いずれも美弦が大好きなメニューで、ほんの少しだけ親近感が生まれる。
「この牛すじ煮込み、美味しいですね」
感心した様子の男性に「そうでしょう」と心の中で同意する。美弦が作ったわけでもないのに、自分の好きなものを褒められるとなんだかやけに嬉しい。
「他に何かおすすめのものを適当にいただけますか?」
「はいよー!」
二人の何気ない会話を聞きながら美弦はそっと瞼を伏せた。
(……浩介は、こんな風にマスターと話したりしなかったな)
付き合い始めてすぐの頃、美弦は浩介をこの店に連れて来たことがある。
自分の大好きな店を恋人に紹介したい。
そんなつもりで一緒に訪れたのだが、彼はこの店が肌に合わなかったらしい。「もう少し綺麗な店の方がいいな」と言われたのが、自分でも驚くくらいショックだった。
あの後も、美弦が『善』に通っていることを浩介は知らないだろう。
いいや、きっとそれ以外にも互いに知らないことはたくさんあった。
婚約者が自分以外の女性に心を奪われていたことに、美弦がまるで気づかなかったように。
(四年も一緒にいたのに)
一ヶ月前。美弦が久しぶりのデートに心を弾ませて待ち合わせ場所に行くと、見知らぬ女性が一緒にいた。そして突然別れを告げられたのだ。
青天の霹靂とはまさにあの時のことを言うのだろう。
少なくとも美弦にとっては寝耳に水だった。
『……本当にごめん、美弦』
こちらの顔を見もせず俯く浩介と、その隣で勝ち誇ったように微笑む女。
その時の光景を思い出すたび、胸が引き裂かれそうに痛む。
あの瞬間、視界は真っ黒に塗り潰され、絶望的な気持ちになった。
それは一ヶ月経った今も変わらない。
泣きたくないのに目に涙が滲み、虚しくて切なくてたまらなくなる。
それが少しでも和らぐようにビールをごくんと呷る。そんなことをしても胸の痛みが収まらなくて、込み上げてきた涙で視界が滲んだ、その時。
「大丈夫?」
不意に隣からかけられた声に視線を向けると、こちらを見ていた男性と視線が重なった。その顔立ちに美弦は思わず目を見張る。
濃い茶色の髪、扇形の眉に縁取られたアーモンド型の瞳。すっと通った鼻筋に形のいい唇。滅多にお目にかかれないような端整な顔立ちだったのだ。
(あれ、でもこの人……)
なんだか見覚えがある。けれど酔っ払ってぼうっとしているせいか思い出せない。
いったいどこで見かけたのだろう――酔いでうまく回らない頭でぼんやり考えていると、男性は心配そうにハンカチを差し出した。
甘いマスクについ見惚れていた美弦は、はっと我に返る。
「え……あっ!」
直後、手が滑った。ジョッキが転がり、こぼれた中身がカウンターに広がる。
「やだ、ごめんなさい!」
慌てておしぼりでカウンターを拭き始める。幸い被害は美弦の手元だけで、男性の方までは広がっていない。とはいえ、来店早々目の前でビールをこぼされたらたまったものではないだろう。
「……すみません」
「俺にはかかってないから大丈夫」
男性は手にしていたハンカチをそっと美弦の膝に置く。
「それよりスカートを拭いた方がいい」
指摘されて気づいた。ビールがカウンターから滴り落ちて膝上に染みを作っている。
「あ、それなら自分のもので拭くので大丈――」
言いながらバッグに手を伸ばすもハンカチが見当たらない。
そういえば退社前に化粧室に寄って、手を洗ってすぐに後輩の女性社員に声をかけられて……多分、その場に置いてきてしまった。
――最悪だ。
いい年をした大人が一人やけ酒をしてマスターに絡んだ挙句、お酒をこぼして他の客に迷惑をかけるなんて。酔いも手伝って泣きたい気分になってくる。
「……お借りします」
「どうぞ」
平謝りの美弦に男性は柔らかく笑む。
彼の醸し出す柔らかな雰囲気に少しだけ慰められながらスカートを拭くと、改めて感謝を伝えて新品で返したい旨を伝える。けれど男性は「そのままでいいよ」と、さっと濡れたハンカチを美弦の手から抜き取った。
「それより、さっき俺を見た時に何か言いたげだったけど、気のせいかな?」
あなたがカッコよすぎて見惚れていたんです、とはさすがに言いにくい。
「あなたを見ていたのは……その、以前どこかで見たことがあるような気がして」
男性は驚いたように目を見張ったかと思うと、その目を細めて唇の端を上げる。甘いマスクに突如浮かんだ色気に美弦はたまらず息を呑んだ。
「それは口説かれてると思っていいのかな?」
「え⁉」
「嬉しいな。君みたいな美人にナンパされるなんて、男名利に尽きる」
「違っ、そんなつもりじゃ……本当にそう思ったから言っただけです!」
全くそんな意図のなかった美弦が真面目に言い返すと、すぐに「冗談だよ」と肩をすくめられた。
「もう……」
からかわれたことに少しだけ立腹する美弦に、男性は「でもよかった」と目尻を下げる。
「綺麗な女性が一人で泣いているから心配していたんだ。でも今の姿を見て少しだけ安心した」
その時の笑顔があまりに優しくて、カッコよくて。何よりさらりと「綺麗」と褒めてくるスマートさに美弦が戸惑っていると、男性は重ねて優しい言葉を口にした。
「俺でよければ話を聞くよ」
「……聞いても何も面白くないと思いますよ。それに、名前も知らない相手に話すようなことじゃないですし」
「恭平」
「え?」
「俺の名前。『うやうやしい』の恭に、『たいら』の平。君は」
「あ……一条美弦です。漢字は、『美しい弦』」
「綺麗な名前だな。君にぴったりだ」
「っ……ありがとうございます」
またもやさらりと褒められて、恥ずかしいやら嬉しいやらでうまく答えられない。そんな美弦に恭平は「これで『名前を知らない相手』ではなくなったね」と柔らかく笑む。こちらを見つめる眼差しはとても優しくて、美弦は思わず見惚れた。
「それに、他人だからこそ話せることもあると思うけど、どうかな」
――正直、誰かに聞いてほしい気持ちはある。
だから美弦は、彼の言葉に甘えることにした。
婚約破棄から今日まで、怒りも悲しみも喪失感も……ありとあらゆる感情を自分一人で抱え込むのは、もう限界だったのだ。
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