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1巻
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金の瞳に見つめられて、俺は途方に暮れていた。着の身着のまま、半ば引き摺られるようにして連れていかれたのは、王の御前という場所だ。
「そなたが我が弟か」
「違います」
王様に言われて、すぐさま否定する。俺の両親は鬼籍に入ったとはいえ、出自ははっきりしている。王都で三代続く、パン屋の親父と女将だ。
「そなたではない。小さいほうだ」
抱き締めた小さな甥っ子は、戸惑って震えていた。俺だってちっとも落ち着いてなんかいないけど、腕の中の温もりのおかげで、なんとか正気を保っている。
甥っ子のリューイの出自と言われては、反論をしかねた。甥っ子の母親は姉さんに違いないのだが、父親のことはわからない――
唐突だけど、俺には前世の記憶とやらがある。細かいプロフィールは覚えていないものの、一番新しいもので朧げに人気ブロガーを母に持つ高校生だったように思う。
前世の母は離婚を機にシングルマザーのライフスタイルをブログに綴り、ハンドルネームでテレビに出演するまでに至った。いわゆるカリスマ主婦である。
しまいには流行りのUちゅーぶなる動画サイトにチャンネルを持ち、俺はそのアシスタントの『こぐまくん』としてこき使われた。なぜ熊なのか……顔バレを嫌がった俺の顔には、常に間の抜けた熊のスタンプが載っていたからだ。
なんのきっかけだか今となっては定かでないけれど、十一歳の誕生日に唐突にそれを思い出した。そんな記憶が夢か現実かわからなくて頭がパーンとしていたとき、年の離れた姉さんが奉公先から暇を貰って帰ってきたのだ。
連絡もなく突然帰ってきた姉さんは、玄関に着くなり母の胸に飛び込んで、身も世もなく泣き崩れた。
母が姉さんをなだめて外套を脱がせると、その下は酷い有様だった。奉公先のお仕着せの胸元が引き裂かれ、身体のあちこちに手指の跡が付いている。スカートの裾に赤黒い血の染みがあり、それを見つけた母が悲鳴を上げた。
姉さんは大層美しい人で、奉公先で身分ある人に強姦されて、逃げてきたのだ。
奉公先は男爵家で、男爵本人がすぐさま後を追ってきた。
普通、平民の部屋付き女中ごときに、当主自らがやってくるなどありえない。姉さんを手篭めにした相手は、よほどの身分だったのだろう。男爵は見舞金と口止め料がたっぷりとつまった皮袋を持参していた。
その後、姉さんは男の子を産む。
姉さんは子どもの父親を知らなかった。彼女は心を病み、ブツブツと男に恨みごとを呟き続ける。その内容から、子どもの父親は男爵の屋敷に出入りしていた軽薄な女たらしで、女中たちの評判が悪い男らしいとわかった。
父も母も、初孫を複雑な思いで見ている。一方的な暴力の末に生まれた命を、歓迎できないのに、見捨てることもできないのだ。
パン屋で忙しく働く両親と心を病んだ姉さんでは、赤ん坊の世話は大変である。
一方、当時の俺は幼くて、姉さんがどんな目にあったのか理解していないと思われていた。だけど、俺の中には高校生だったもうひとりの俺がいる。
姉さんの身に起こった不幸はあってはならない犯罪とはいえ、赤ん坊に罪はないと理解していた。許されざるは姉を襲ったどこぞの貴族であり、それを許した男爵だ。
だが、心に余裕のない大人たちは、赤ん坊から目を逸らす。
俺は小さな生命が不憫で、ただ可愛くて、率先して子守をした。
それからしばらくして、心を病んだ姉さんは身体も弱らせて還らぬ人となる。
それから五年近くが過ぎて、両親が亡くなったのは三ヶ月前だ。小麦の仕入れ交渉に出かけた帰り、暴れ馬に轢かれてしまった。暴れ馬は警邏隊に取り押さえられるまでに七人を蹴り飛ばし、そのうち四人が亡くなる。両親はその中に入っていた。
運が悪かったとしか言いようがない。
俺は既にパン屋を手伝うようになっていたけど、もうすぐ五歳の甥っ子、リューイを抱え、ひとりで店を切り盛りするのは無理だ。営業時間を短くして、売るパンの種類を減らした。
六年前に男爵が置いていった皮袋の中身がそのまま残っていたので、収入が減ってもなんとかなると自分に言い聞かせる。あんな金、びた一文使いたくないものの、リューイを飢えさせるわけにはいかないからな。
そして、両親が亡くなるのと同じころ、この国の王様も亡くなったそうだ。国の大事ではあったが、正直それどころじゃない。両親の葬式と子育てと、店主を失ったパン屋の運営とで、てんてこ舞いだった。
もっとも、城下は一月の間半旗を掲げ、街を警邏する騎士は喪章をつけていた。商店街も経営を自粛していたから、パン屋だけがひっそりとしていたわけでない。俺はそんな自粛期間のうちになんとか生活スタイルを構築したのだ。
あれから二ヶ月。可愛い甥っ子と二人三脚で頑張っていた。
生活に必要な食事のためのシンプルなパンのみ、店に並べる。おやつになる甘いパンはリューイがもう少し大きくなったら考えよう。
ご近所さんの支えがなかったら、とても生きていられないと思う。そう考えると、シングルマザーだった前世の母は、偉大だったな。俺を抱えて立派に働いていたんだから。
パン屋の朝は早い。その日のパンを朝食の前に売るのが普通だ。お客さんはほとんどが常連さんなので、焼く数も決まっている。念のためほんの少しだけ余分に焼いて、売れ残ったら翌日、ラスクを作った。あったりなかったりするラスクは、隠れた人気商品だ。
そうして、やっと作り上げた新たな日常が、今、あっという間に壊されている。
その日、朝の販売が一息ついてリューイとふたりで朝ごはんを食べているところに、店の前に馬車が停まった。
貴族が使う箱馬車で、紋章を見ると姉が奉公していた男爵家のものだ。
街の人々はいちいちお貴族様の紋章なんて覚えていない。俺だってそうだけど、男爵家のものだけは別だった。男爵が置いていった革袋に、焼印がしてあったからだ。
馬車から男爵と若い男の人が現れる。男爵は記憶にあるより老け、ひどく取り乱しているように見えた。一緒に来た若い眼鏡の男の人のほうがずっと落ち着いている。
彼は店の隅でパンを食べていた俺たちを見つけて小さく頷く。何かに納得したような仕草に見える。
「この子たちで間違いありませんね?」
「ハハッ」
男の人の静かな問いに、男爵がガクガクと首を縦に振った。小さなころ誰かにお土産で貰った、首振りの牛人形みたいだ。前世の世界の赤べこに似ている。
それを合図にしたのか、数人の騎士様がわらわらと店に入ってきて、見る間に戸締りを始めた。そうして、あっけにとられた俺たちは、馬車に引き摺り込まれてお城に連行されたのだ。
連れていかれた広い部屋では、上等そうな服を着た大勢のおじさんがひしめいていた。家臣とか貴族とか言われる階級の人たちだろう。部屋の真ん中に赤い絨毯が通路のように敷かれていて、その先の一段高いところに豪華な椅子があった。その椅子に銀色の髪をした男の人が座っている。
王様だ。
代替わりをしたばかりの王様は、二十代半ばに見えた。
俺は怯えるリューイを抱き上げて、絨毯の上をよろよろ歩く。
パン屋の倅が王様の前に引き立てられるなんて、誰が想像しただろう。
怖い。
俺は王様の前まで行くと膝をついてリューイを下ろす。リューイは駄々をこねずに下りてくれたものの、身体をひねって俺の首に腕を回してしがみついた。
「無礼な……っ!」
ざわめきと一緒に、咎める言葉が聞こえる。幼いリューイは震えて、王様にお尻を向けていたのだ。
「よい」
王様が片手を上げておじさん達を制する。ざわめきは一瞬で消え、広間が静かになった。
王様が射るように俺を見る。瞳が灯りを反射して、金色にきらめいた。王族の色だ。
王族の多くは黄金の瞳と白銀の髪を持っている。『金銀の高貴なる方々』という言い回しは、そんなこの国の王族を呼ぶときに使う言葉だ。
王様は甥っ子を弟と言った。
俺は甥っ子の瞳を覗き込む。榛色に金色の星が散っている。髪の色は俺と同じ姉譲りの黒だけど、こんな瞳の色は家族にこの子しかいない。
俺がじっと見つめているからか、甥っ子がふんにゃり笑った。
状況は掴めないものの、この子は俺が守らなきゃならない。
「リューイのお父さんは、前の王様なの?」
呆然と呟くと、後ろから俺たちを連れてきた男の人の声がした。
「左様でございます」
振り向いた先に男の人が悠然と微笑んでいる。その後ろにいる男爵はガクガクと首を縦に振っていた。興奮か緊張かわからないけれど真っ赤な顔をしていて、ますます赤べこに見えた。
「男爵、発言を許す」
王様が怖い目をして男爵に言う。
「ハハッ。六年前にお忍びで城下に下られた前王陛下は、一晩我が館に滞在されました。その折、当家に奉公に上がっていた娘が寵愛を賜りましたが、娘は身分をわきまえて宿下りをいたしました」
「その娘が我が異母弟の母親か」
その答えに頷く。
俺は男爵の言いように、腹が立った。
何が寵愛だ。姉さんは怯えて錯乱し、身支度も整えずに逃げ帰ってきたじゃないか。彼女は訳もわからぬまま男に手篭めにされた。
男爵と前王は姉さんが下手人の素性を知らないのを幸いと、金を渡してなかったことにしたんだ。当時の俺が幼くて、何も知らないとたかをくくっているのがよくわかる。
男爵とはそれきりで、リューイが生まれたことも知らせなかった。押し付けられた革袋の中身も、両親が「いつかたたき返してやる」と言っていたので使っていない。
怒鳴り散らそうとしたのだろうか。俺は口を何度か開きかけたけれど、胸が詰まって言葉が出なかった。甥っ子を抱き締める手に力を込める。
結果的に怒鳴らなくて正解だ。王様の前でそんなことするなんて、無礼打ちされても文句は言えないからな。
王様がゆっくりと立ち上がって、こちらに下りてきた。広間は静まり返り、おじさんたちは王様が歩くのを見つめている。
王様は俺たちの前で立ち止まって、膝をついた。
「王様、ダメです! 立ってください!」
「無礼者! 陛下に直接話しかけるとは何事ぞ!」
とっさに王様に立ってもらおうと身を乗り出したとき、横からツカツカと飛び出してきた人が、俺をリューイごと引き倒す。
「こんな汚い子どもが、金銀の高貴なる御方のわけがない。さっさとつまみ出せ!」
後ろから襟を掴まれて、首が絞まる。
びっくりしたリューイが泣き出して、俺の襟を掴んでいる人は「やかましい」と吐き捨てた。それから王様に向かって、恭しく頭を下げる。
「城から放り出しておきますゆえ、陛下におかれましてはなにとぞ、お心安くお過ごしください」
いや、勝手に連れてこられたんだけど。俺の意思じゃないのに、なんて理不尽なおっさんだ。
「無礼はどちらだ。宰相、侯爵を捕らえよ。我が弟への無体、許しがたい」
王様は俺を男から引き離し、泣く幼子を抱き上げた。俺がよろけながら抱っこしていたリューイを、片手で軽々と抱いている。空いた手で、絨毯に転がっていた俺を起こしてくれた。
リューイがびっくりして、キョトンと目を丸くする。
王様は背が高い。垂らしたままの長い銀髪が、さらさらと俺に落ちかかった。俺の手入れの行き届かないパサパサの髪とまるで違う。
その間に俺たちをここに連れてきた眼鏡の男の人が、侯爵と呼ばれた人を捕まえる。
あの人、宰相様だったのか。とても若い王様なのに、宰相様までこんなに若いなんて。宰相って総理大臣みたいな仕事でしょ? こんなに若くて凄いなぁ。
ぽけっとどうでもいいことを考えてしまう。色々なことがありすぎて、頭が破裂しそうだ。俺の頭は現実逃避を謀っているのだろう。
金色の瞳が優しくこちらを見下ろしていて、俺はそれをぼんやりと見上げて「背が高くていいなぁ」と思ったところで、世界が暗転した。
§
ポカポカと暖かい。柔らかな寝床で微睡み、となりに眠る小さな身体を抱き締める。パン種の美味しい匂いが染み込んだリューイの身体は、幸せの匂いだ。
パンを焼かなきゃ、お客さんが来ちゃう。あれ、昨日捏ねたっけ?
そこで唐突に目が覚めた。
顎の下には甥っ子の黒い巻き毛。フワフワの癖っ毛で、俺の真っ直ぐな髪とは手触りがちがう。心地良い寝心地の寝台は、かつて体験したことのない柔らかさだ。
「どこだ、ここ」
寝台の四隅には細い柱が立っていて、上から紗のカーテンが下がっている。
すよすよと眠るリューイの顔にかかる髪の毛を整えてから、モソモソと起き上がろうとして……動けなかった。お腹に絡んだ太い丸太(?)でシーツに縫いとめられている。
掴んで引き剥がそうとすると、その丸太に引かれて、俺は後ろにのけぞった。
「……! 王様、何してるんですか!?」
丸太は王様の腕だ。
同じ寝台に王様が寝ている。いや、起きていた。黄金の瞳が輝いている。
至近距離で見る美形は破壊力がすぎた。
王様はクスクス笑って俺のお腹に回った腕に力を込める。
俺がリューイを抱いて王様が俺を抱く。なんだこの、親亀子亀孫亀は。
「王様!」
「確かに私は王だが、名はリュシフォードという。私的な場所でまで、王様とは呼ばれたくないな。堅苦しくてかなわない」
親亀もとい王様は、勿体ぶった口調で言った。
「我が弟の叔父殿よ、そなたの名はなんという?」
「エルフィン」
「ではフィンと呼ぼう」
うわぁ、下で略されたのは初めてだ。エルとしか呼ばれたことないよ。
王様はクスクス笑って俺の頸に鼻をこすりつける。さっきからクスクス笑いっぱなしで、ずっとご機嫌だ。謁見の間では凄いしかめっ面だったのに、何がそんなに楽しいんだろう。
そのうちにカーテンの向こうがゆっくりと明るくなってきて、すっかり夜が明けたのがわかった。というか、いったい何時間眠っていたんだ? 王様の前に引き出されてからの記憶が一切ない。
とにかく説明してほしかった。
「――あの、王様」
「リュシー、もしくはフォード」
「リュシフォード様」
「まぁいい、追々だな」
やっぱり王様はクスクス笑う。王様改めリュシフォード様は、金に輝く瞳を優しく細めた。昨日(でいいんだよね?)の厳しい眼差しはどこにもない。
「リュシフォード様、王様に言っていいのかわからないけれど……この状況を説明してください。まずは起き上がって、着替えて、朝の支度を済ませて、きちんとお話がしたいです」
「ぶふッ」
そこで誰かが失笑した。
「陛下、エルフィン様の仰ることが、正しいと思われますよ」
寝台のカーテンが引かれて、宰相様が顔を出す。王様のいる寝室に入り込めるって、どんな権力者だろう。普通の家族だって個人の私室に入るときは、一声かけるもんだろうに。
朝陽を受けて、宰相様の眼鏡がキラリと輝く。
「侍従が扉の前で困っておりましたもので。朝食の準備がもうすぐ終わるそうですよ。殿下とエルフィン様のお着替えもご用意できました。お支度が済まれたころに召し上がっていただけます。私もご一緒しますのでご安心ください」
そう宰相様が言うものの、何に安心すればいいんだろう。王様と宰相様って言ったら、国で一番偉い人と二番目に偉い人じゃないか。前世で言ったら皇室の方と総理大臣と同じテーブルで食事するようなものだ。同じ空気を吸うだけで恐れ多い。
でも、いつまでも寝台の中にいるわけにはいかないため、リューイを起こして着替えさせる。用意されていた衣服は、王様の子どものころのものらしい。俺にも同じようなものが与えられた。派手ではないが、いいものだとわかる。スッキリした襟元の、爽やかなデザインだ。
普段オフホワイトのシャツにマスタードかカーキのパンツ、ベージュのエプロンが定番の俺には勿体なさすぎる。
「ふむ、もう少し可愛らしいほうが似合うか。襟元に華やぎが欲しいな」
キリッとしたお顔の王様は、子どものころもキリッとしていたんだろう。爽やかなデザインは、俺のポヤンとした顔には似合わないらしい。馬子にも衣装にはならなかったようだ。
一方、リューイは可愛い。綺麗寄りの可愛いなので、キリッとしたタイプの服もとても似合う。
「エルぅ、きょうはおみせ、おやすみなの?」
目をしょぼしょぼさせて、リューイが言った。
不本意ながら休業だ。早く食事をして、説明してもらって帰ろう。明日は店を開けなければ。
なんとなく、今までと同じ生活はできないんじゃないかと思いつつ、ため息をもらす。朝の爽やかな光の中にはそぐわない、辛気臭いため息だ。
リューイを手招きして捕まえると、もつれたフワフワの癖っ毛を手櫛ですく。奔放なうねりの髪の毛は、俺の技術では如何ともしがたい。
宰相様がクスクス笑って侍女さんを呼んだ。やってきた侍女さんはあっという間にリューイの髪の毛を縦巻きにして去っていく。
オイルをちょっとだけつけて、大きな房を指で巻くだけだ。参考になる。毎朝リューイの髪に四苦八苦していたので、家に帰ったらオイルを買おう。
そんなことを、ふむふむと考えていると――
「フィンの髪は傷んでいるな。今夜は私のオイルで手入れしてみるか」
王様が俺の髪の毛を一房掴んで、チュッと音を立ててキスをした。
「うにゃッ?」
俺の口から変な声が漏れる。
「陛下、小さなお子様の前で、なに盛ってやがります」
宰相様の目が眼鏡の奥で冷たく細められた。もともと細い目なのに、それがさらにうんと細くなって、俺は背中が寒くなる。
それにしても宰相様、王様に雑な対応してるなぁ。寝室に乗り込んでくるあたり、公私共に仲良しさんらしい。
「大したことはしていない」
王様がそう言いながら、俺に手を差し出す。
「朝食にしよう」
「はい」
そう返事はしたものの、食事の場所がわからない。王様が歩き出したらついていけるのに、誰も動かなかった。
もしかして、身分が低い者から行くのか? そしたら俺とリューイが一番先だけど、行き先知らないぞ。
「ほら、行こう」
「……ン?」
その手は何?
さっきから差し出されたままの手のひら。犬みたいに『お手』をすればいいのか?
ぽふっ。
「わん?」
猫になったり犬になったり、忙しいな、俺。
すると、王様が固まった。なんの反応もない。なんだ『お手』じゃなかったのか。
「ルシオ、なんだこの生き物は。『うにゃッ』の次は『わん』だと?」
「人間かと思ってましたが、いいじゃないですか。陛下のお部屋で室内飼いしてみます?」
王様がプルプル震えて、宰相様がどうでもよさそうに答える。
「さぁさ、リューイ殿下、エルフィン様、せっかくの朝食が冷めますよ。陛下は放っておいて、参りましょう」
「いや、行く。すまないな、エスコートしようと思ったんだ」
エスコート?
いや俺、男だけど?
それなのに王様が俺の手を取って歩き出したので、仕方なくエスコートされる。恐れ多いとは思うけど寝起きどっきりの後だからか、それほどビクつかずに済んだ。
リューイを抱っこした宰相様が後ろをついてきて、俺たちは程なく食堂のテーブルに着いた。
給仕の侍従さんが引いてくれた椅子までエスコートされる。リューイ用の子ども椅子が俺の右どなりに用意してあったので、頼んで左に移してもらった。
右利きなので、子どもの食事の世話のためには左にいてくれたほうが楽だ。もうすぐ五歳のリューイは自分で食べるとはいえ、自宅での食事とは違う。こぼしたり口の周りを汚したりするのをフォローしなくちゃならないからな。
けれど、リューイはあんまり食べなかった。
「リューイ、口に合わないか?」
王様に言われて、首を傾げる。
「おいしくないの? って聞いてるんだよ」
リューイにそんな言い回しは理解できない。口に合わない、なんてオブラートに包んだ言い方、五歳の庶民に理解できるわけがないだろう。
「おうちがいいの……」
消え入るような声でリューイが言った。それは俺も同感だ。俺はチラッと王様と宰相様を見る。ふたりは困ったように微笑んでいた。希望は叶えられませんよって表情。
そりゃそうだ。わざわざ城下街から掻っ攫ってきた王族様だもの。返す気があるなら連れてこない。
「……リューイ、おいで」
食事の途中で席の移動は行儀が悪いものの、今日は特別だ。俺は一度立ち上がってリューイの椅子を引く。リューイは自分で椅子から下り、両手を上げて抱っこをせがんだ。
それを膝に乗せてリューイのお皿を引き寄せる。
「オムレツ、美味しかったよ。はい、あーん」
こうなったらとことん甘やかしてやる。大人向けのスパイシーなソースの部分は避けて、黄身の濃いオムレツをスプーンで掬って口に入れてやった。
それでもリューイは用意されていた朝食を三分の一ほどしか食べない。パンなんてちぎった一口を食べた後、お皿ごとあっちへ押しやってしまう。
なだめすかして口にスプーンを運んでいたけど、最後には口を開かなくなったので諦めた。
環境に慣れたら食べてくれるかな。そう言えばリューイ、外食なんてしたことなかったよ。
リューイの食事は終わった(と言うより諦めた)ものの、俺のはほったらかしだ。自分の皿を全部押しやって、リューイの食べ残しを攻略していると、ふと視線を感じる。
美形がふたり、こちらをガン見していた。
「あ、すみません。行儀悪かったですね。今だけお許しください」
抱っこでごはんもダメだけど、食べ残しを食べるのもダメだよね。俺が手をつけなかったお皿だって、結局は処分されちゃうかもしれない。……ここはお城だ。
「よかったですね、陛下。あなたの異母弟君は愛されている」
「……ああ」
宰相様がニヤリと笑って、王様が震える声で応えた。
俺が食べ終えるころにはおふたりはとっくに食後のお茶を飲んでいて、すっかり食べる姿を観察されている。ガサツな庶民が珍しいようだ。居心地悪い。
さらに場所を移して新たなお茶が供された。茶話室とかいう場所だ。
リューイはプレイスペースで、ふんわりしたおばあちゃんと俺よりちょっと年下の男の子のふたりに遊んでもらっている。そこは広い部屋の一角で、姿は見えて声は聞こえるけど内容まではわからないという、絶妙な場所に設置されていた。
俺にもリューイにも配慮された結果だろう。
「ありがとうございます」
素直に礼を言うと、宰相様がクスクス笑った。
「エルフィン様、もっと怒ったり戸惑ったりしてもいいんですよ」
「それ、もう通り過ぎました。寝起きに悪魔みたいな美形の顔に驚いて、なんだかいちいち驚くのが馬鹿らしくなっちゃって」
「悪魔……そこは天使でいいんじゃないかな?」
「天使が悪魔より美しかったら、誰も悪魔に騙されませんよ」
「なるほど」
宰相様は頷く。
「フィン、ずいぶんとルシオに懐いたな」
王様、フィン呼びは決定ですか。呼ばれ慣れてないから、呼ばれても気づかずにスルーしそうだな。
俺がリュシフォード様って呼ぶのは諦めてくれ。王様は王様だ。
「陛下、焼き餅はみっともないですよ」
ルシオと呼ばれた宰相様がぞんざいに言い放つ。ホント、仲良しさんだなぁ。
美味しいお茶を飲みながら、チラリとリューイを見る。姉さんにそっくりな黒いフワフワの癖っ毛が、楽しげに揺れていた。
「リューイが育った環境が見たい」
ふいにとても真剣な声で王様が言った。宰相様は頭が痛そうに眉間を押さえて首を横に振る。
「陛下の外出に、どれだけの人員と時間の調整が必要なのか、わかっていて仰るんですよね?」
「無論、忍びだ」
「……言うと思っていましたよ」
「勝手なこと言う前に、俺たちのこれからを説明してください。リューイのことが一番大切ですが、店のこともあります。今朝は黙って休店したから、ご近所の奥さんたちが困っているはずです。庶民の朝ごはん、取り上げてるって自覚はありますか?」
そう付け加えると、王様は目を見開く。
思いもよらなかったって顔してるんじゃない!
「うちでパンを買ってくださってるお客さん、今朝はパンがないんですよ。いつ開くかわからないパン屋をいつまでも待ってくれると思いますか? 両親が亡くなってからもとってもよくしてくださったお客さんに、なんの説明もなく店を閉じちゃってるんです。そこら辺、宰相様はどうお考えですか?」
俺は宰相様に馬車に放り込まれてお城に来た。ご近所の皆さんにもその場面を見られているだろう。
「……昨日、失神したから、もうちょっとおとなしい子かと思ってましたよ」
「おとなしくしてたら、この三ヶ月でのたれ死んでます。子どもが子どもを育てながら商売して生活するって、どれだけ大変だと思います?」
「……申し訳ない」
宰相様に謝らせてしまった。いや、でも、ほぼ拉致だよね。
「私からも謝罪しよう」
「ダメです。多分、王様は無闇に謝っちゃいけない方です」
「王様はやめてくれ」
「今、ソレ大事ですか?」
そこで王様も宰相様も黙る。
「まず最初に聞きます。リューイはパン屋で暮らすことができますか?」
「できません」
宰相様が簡潔に言った。
俺はその答えに驚かない。予想していたことだから。
王家の血を引く子どもを、市井にほったらかすなんて狂気の沙汰だ。保護するか監視するか、どっちにしろ、パン屋には帰してもらえない。
「俺はこれから、リューイに会えますか?」
「もちろんだ」
今度は王様が答えてくれる。
「俺はこれから……店を続けられますか?」
俺は王様をじっと見た。黄金の瞳が揺れる。後ろめたそうな曖昧な眼差しだ。
嘘がつけないんだなぁ。
「続けてほしくはない」
続けられないじゃない。ほしくないってことは王様の希望ってことだ。
「続けたら、何か不都合があるんですね?」
「リューイに会わせてやれなくなる。パン屋の店主を度々城に招くのは危険だ。フィンが我らの弱みになると知られれば、命の危険もあるだろう」
パン屋を続けるならリューイと縁を切らなきゃいけないのか。確かに、王様の近くに侍りたくて、俺に擦り寄ってくる奴も現れるかもしれない。
「だが……リューイからフィンを取り上げたくないと思っている。両親の顔も知らず、祖父母は亡くなり、傍にいるのは見知らぬ他人のような兄では可哀想だ」
「できれば、リューイ殿下の養育係として、城に滞在していただきたいのです」
……これ決定じゃん。選択肢を与えているようで与えていないヤツ。俺が失神しているうちに、ふたりで決めたんだろ?
でも、リューイのことを考えてくれている。
平民のパン屋の倅なんかさっさと追い出して、王家の血筋のリューイだけを城に迎える選択肢だってあった。昨日の謁見の間で俺の襟首を掴んだおっさんなんて、絶対そうしようって言い出すはずだ。
「教育係じゃなくて、養育係なんだ」
なんだかおかしくて笑いがこぼれる。絶妙な俺の落とし所だ。王子の叔父を市井にほったらかして、誰かに利用されては困る。王家とは関係なくても、王子の血縁を下働きさせるわけにもいかない。そして、教育は王子教育の専門家が行う。
「乳母ってとこですか?」
「リューイが辛くなったり寂しくなったりしないよう、見守ってくれるだけでいい」
黄金の瞳が俺をすり抜けて、部屋の一角で遊ぶリューイを見た。優しい眼差しに、躊躇がほどけていく。
――そうして俺は、城に住む決心をした。
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だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
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全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
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