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1巻
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「――ジュリエッタ・オーシェイン・アスバル。私はお前との婚約を解消する!」
朗々と響く、自信と信念に満ちた張りのある言葉に、矜持と思慕を打ち砕かれた娘は意識を失い、大理石の床に崩れ落ちた。
パルセミス王国に仕える家臣達の殆どが一堂に会した謁見室の中央で、即位を控えた王太子が直々にくだす糾弾は、それを向けられる娘が既に意識を失っているにも拘らず、尚も続く。
茫然としたままの【俺】の目の前で床に倒れた娘の、白粉で塗り固められた頬に伝う涙を銀糸の髪が覆い隠した。
「……そして私は、ナーシャ・ラトゥリを新たな婚約者と定める。空座となる贄巫女の勤めを……ジュリエッタ・オーシェイン・アスバルに言い渡すものとする」
「ウィクルム様……!」
「心配いらないよナーシャ、大丈夫だ。君のことは、僕が護る」
「……はい!」
堂々と抱擁を交わす王太子ウィクルムと寵姫ナーシャ。そしてその傍らに控え、笑顔で二人を見守る王太子の側近達。あまりにも唐突な展開に、どよめく家臣達。
彼らを他所にこの瞬間、俺は全てを思い出していた。
それは、遠い前世。日本に生まれ、家族に囲まれて、健やかに成長した記憶。
優しい共働きの両親と、困った趣味にいつも巻き込む仲の良かった自慢の妹。ありふれた幸せに満ちた、愛しい、俺の前世。
そして、転生した俺が降り立ったこの世界は、ユジンナ大陸と呼ばれる広大な大陸の上に、ここパルセミス王国を含めた国が幾つか存在する。パルセミス王国は竜の国。大陸の中でも気候の厳しい北方に位置しながらも、王城の地下深くに幽閉された古代竜の齎す恩寵で潤う、豊かな国だ。
だが、これからパルセミス王国では騒乱が吹き荒れる。その全てを、俺は知っていた。
歴史の裏に隠された秘密をも、だ。何故なら俺は、既にそれを体験していたから。
……確か、【竜と生贄の巫女】だったな。
この世界は、前世でやり込んだ「乙女ゲーム」の世界に酷似している。というか、そのものだ。
……まさか異世界の、それもゲームの世界に転生するとはね……
未だに抱擁を続けている二人のうち金髪碧眼の麗しい青年は、この国の王太子であるウィクルム・アトレイ・パルセミス。その腕が抱き締めている黒髪の可憐な少女は、古代竜に捧げられる【贄巫女】として国の外れにある田舎町から王城に招かれた聖なる乙女、ナーシャ・ラトゥリだ。彼女はゲーム本編でのヒロインにあたる。
そんな二人の両脇を固めるのは、メインヒーローである王太子ウィクルムが信頼する仲間達だ。
王太子の背後を護り、凛とした雰囲気で佇む黒髪の青年。少し離れた位置に控え、快活な笑みを浮かべている灰色の髪の青年。人形のように整った顔立ちをした金髪の少年。そして鷹揚な態度を見せつけながらも視線鋭く俺を見据え続けている、赤みを帯びた黒髪の騎士。彼らは所謂、乙女ゲームにおいてヒロインの『攻略対象』となる四人だ。
まぁ、これだけ人々の面前で愛の応酬を繰り広げているのだから、今回ヒロインの辿っている攻略ルートは、王太子ルートで間違いないだろう。
そして、意識をなくしたままの娘。濃い化粧で素顔を隠した彼女の名は、ジュリエッタ・オーシェイン・アスバル。ゲームの開始時点では王太子の婚約者であり、祭事を司る【竜巫女】の身分を持つ。その権力を笠にきて、攻略対象達と心を寄せ合っていくヒロインに嫌がらせを繰り返す悪役令嬢。
彼女は俺の……宰相であるアンドリム・ユクト・アスバルの一人娘だ。
そう、何の因果か知らないが、俺はゲームの中で悪役令嬢と共にヒロインを陥れようとする悪徳貴族に転生してしまっていた。前世の死因は思い出せないが、目立った悪事に手を染めた覚えなどないのにこの仕打ち。そして前世を思い出すのも、微妙すぎるタイミング。
……神様、シビアすぎやしませんか?
心の中で、神様に対して最初で最後のクレームを入れた後、俺は決意を固める。
竜と生贄の巫女は、二部構成のシナリオを持つ乙女ゲームだ。第一部最後の好感度によってヒロインの攻略対象が定まり、第二部はその相手ごとに異なる、王国の歴史に関わる重厚なストーリーが展開される。全ての攻略対象のルートをやり込むことで多角的な視点から物語を見られる。そうして深まっていく世界観が好ましく、男ながらも俺はこのゲームにのめり込んでいた。
今は正にその第一部のラストシーン。ヒロインに選ばれたヒーローが悪役令嬢であるジュリエッタの罪を糾弾する。誰がヒーローに選ばれていても、ジュリエッタは王太子との婚約を解消される。ヒロイン達がジュリエッタの父親である宰相と明確に敵対する一幕だ。
ジュリエッタとの婚約を解消した上で贄巫女にすると王太子に宣告された宰相は、自分の足元を盤石にするはずだった婚約の破棄に激昂し、ヒロインとヒーローを悪し様に詰る。そして宰相側と王太子側とで王国は真っ二つに分かれ、贄巫女が竜に捧げられる半年後を期限とする泥沼の第二部が始まるのだ。
俺は、その先も知っている。投獄の後、断頭台の露と消える宰相のアンドリム。稚拙な策略の全てをヒロインとその仲間達に阻止され、遂には竜の胃袋に呑み込まれるジュリエッタ。
そんなエンディングを辿ってなんて、やるものか。
俺は一つ大きく息を吐くと、薄い銀縁の眼鏡をゆっくりと外した。
レンズとフレームが奏でる硬質な音は、喧騒に満ちた謁見室に不思議なほど大きく響く。
「……ウィクルム王太子殿下」
水を打ったように静まり返った人々の中で臣下の礼を取った俺は、胸に片方の掌を当てて王太子の顔を正面から見据え、薄く笑ってみせた。ヒロインとその仲間達のみならず、居並ぶ家臣や貴族達まで、揃って息を呑む気配が伝わってくる。
「先ほどのお言葉は、紛うことなく、殿下の本意だと考えて宜しいのでしょうか」
アンドリムは、呪われしアスバル家の直系。勇者パルセミスと共に、竜を封じた賢者アスバルの子孫だ。アスバル家の者の容姿は男女問わず端麗にして死の間際まで年齢不詳。衰えぬ美貌と明晰な頭脳を持ち、早逝の宿命に侵されつつも、代々王家を支えてきた宰相の一族。
しかし長いパルセミス王国の歴史の中でその誇りは薄れ、今や王国随一の汚点と認識されていた。
そんな俺が、これほどの恥辱を浴びても声を荒らげることなく、憤りに身体を震わせるでもなく、微笑みながら淡々と言葉を紡いだのだ。
予想外だったのだろう。狼狽する王太子に、俺はゆっくりと繰り返す。
「我が娘ジュリエッタとの婚約を破棄し、贄巫女として王城に迎え入れたナーシャ・ラトゥリ嬢を新たな婚約者とする。そして長く竜巫女を務めたジュリエッタを、ナーシャ嬢の身代わりとして、贄巫女とする……それが、殿下の御意であることに相違ございませぬか?」
俺の言葉に、王太子は訝しみながらも確かに頷いた。多くの貴族や家臣達が見守るこの場所で、王太子の意思だと認めたのだ。まずはこれが、第一歩。
俺は心の中でほくそ笑みつつも表情を変えずに床に膝をつき、意識を失ったままのジュリエッタを腕の中に抱え上げる。そして立ち尽くす王太子に恭しく頭を下げて見せたのだ。
「殿下の御下命、確かに承りました。我が娘ジュリエッタは今この時より王太子殿下の婚約者ではなく、栄えある聖乙女、竜の贄巫女となりますことを、宰相アンドリム・ユクト・アスバルの名において拝命つかまつります」
……さぁ、逆襲の準備を始めようじゃないか。
第一章 盤上に並ぶ駒
謁見の間で起きた前代未聞の巫女交代劇後、俺は王城を早急に辞し、ジュリエッタを連れて王都の一角にある屋敷に戻ってきていた。馬車に乗り込む時もそれから降りる時も、失神したままのジュリエッタを気遣い腕に抱えて移動する俺の姿は、少なからず周囲に衝撃を与えたようだ。
当然だろう。今までアンドリムが娘を気遣うところなど、誰一人目にしたことがない。
野心溢れる宰相にとって、娘は道具、王家との繋がりを保つための駒。周囲の認識はそうであったし、実際、記憶を取り戻すまでの俺は、ジュリエッタをそう見なしていた。
だが、今は違う。ジュリエッタは可哀想な娘だ。
これは前世でゲームをプレイしていた時も感じていたことだった。彼女が竜巫女の任に着いたのは今から十年前、七歳の時。前任の竜巫女が若くして命を落とした機会に乗じ、王太子の婚約者となる娘の地位を高めようと、アンドリムが無理やり就かせたのだ。
幼い頃に生母を亡くし、七歳にして父とも離れ、傅かれはするものの、華やかさのない神殿で暮らさなければならなくなったジュリエッタの心情は、推し量れない。それでもいつかは恋した王太子の妻になれるのだからと、その日を心待ちに過ごしてきた彼女が、ぽっと出のヒロインに婚約者を奪われそうになったのだ。ヒロインへ厳しくあたるのは、当然のことではないだろうか。
確かに同年代の少女達と交流を持つ機会に乏しかったジュリエッタは、与えられた地位も相まって、我儘で高慢な言動の目立つ少女に育ってしまっている。神殿に仕える神官や女官達からの評価も散々だ。だからと言って、十年の間に身につけてきた教養や王妃としての教育、積み重ねた努力の全てを否定されるような罪を彼女は犯していない。それこそ、婚約者がいる王太子と恋に落ちるヒロインのほうが、余程の節操なしだ。
屋敷に辿り着いた後、俺はジュリエッタを寝かせたベッドの枕元に腰掛け、涙に汚れた彼女の顔を湯で濡らしたタオルで丁寧に拭ってやった。
濃い化粧の下に隠された素顔は、思ったよりもずっとあどけない。
ゲームの中では最後までジュリエッタの素顔が明かされることはないが、前世の俺は分厚い設定資料集を買い求め、その隅々にまで目を通していた。だから、没案となりゲームに反映されなかった設定も知っている。自分の容姿に自信の持てないジュリエッタは、原型が分からないほどの厚化粧で愛らしい素顔を隠しているという設定があった。これは、当初は組み込まれるはずだった【和解・友情エンディング】の布石だろう。そしてアンドリムも、ゲーム内のビジュアルでは目の下の隈と銀縁の眼鏡が陰鬱で狡猾な印象を与えるが、設定では『眼鏡を外すとぞっとするほどに際立つ美貌の持ち主』となっているのだ。おそらく、【隠れ攻略対象】だったのではないだろうか。
せっせとジュリエッタの顔を拭っている途中で、小さな呻き声と共に、彼女が意識を取り戻した。
「……ジュリエッタ。目が覚めたかい」
俺は殊さら優しい声をかける。ぱち、ぱちと、俺と揃いの翡翠色の瞳が何度か瞬いて、枕元に座る俺の姿を捉えた後、眦に大粒の涙を溜めた。
「お、とうさま……?」
「そうだよ……私のジュリエッタ」
ジュリエッタは驚いた様子で身体を起こそうとする。俺はやんわりと彼女の肩を押さえ、まだ休んでいなさいと柔らかく告げた。少しの間呆然としていたジュリエッタだったが、謁見の間での出来事を思い出したのだろう、枕に頭を埋めて涙を零し、小さな声で「ごめんなさい」と謝る。
「……お父様。お役に立てなくて、申し訳ありません……ジュリエッタは、ウィクルム様の御心を逃してしまいました」
「そんなことは気にしなくて良い」
「……お父様から、そんなお優しい言葉をいただけるなんて」
嗚咽を呑み込んだジュリエッタは、濡れた瞳で俺の顔を見上げてくる。
「ウィクルム様に捨てられた私に、まだ利用価値があるのでしょうか? あの下賤な女を、ウィクルム様が新たな婚約者にと望まれたのならば」
「……ああ」
「私に、あの女の役割が回ってきたという、ところでしょうか」
「聡い子だ、ジュリエッタ」
やはり彼女は愚かではない。俺は瞳を細め、親愛の感情を込めてジュリエッタの額を撫でる。彼女ならば、俺と共にこの舞台に輝かしい反逆の華を咲かせてくれるだろう。
ジュリエッタは静かに目を閉じ、そんな形でもお父様と殿下のお役に立てるのなら幸いなのでしょうと、諦念を混ぜた抑揚のない台詞を舌に乗せた。
「私の可愛いジュリエッタ。これまで私は、お前を道具だと思っていた」
かけられた言葉を耳にしたジュリエッタは再び目を開け、俺の顔を仰ぎ見る。知っていましたと言いたげな表情に心からの笑みを返し、俺は貝殻の形をした小さな耳に彼女の新たな役割を示す。
「お前は私の愛しい娘。そして今日からは、私が最も信頼する共犯者だ」
「……おとう、さま……?」
「安心しなさい、ジュリエッタ。お前が受けた屈辱は、何倍にも膨らませて私が返してやるから」
私についてきてくれるかいと、俺は手を差し出しながら微笑みかける。
愛しい娘は少しだけ戸惑いを見せた後に、その手をしっかりと握り返してくれた。
翌朝。俺は白いヴェールで顔を隠したジュリエッタを連れて、王城の近くにある竜神神殿を訪れた。この神殿は国教である竜神信仰の中心となる場所で、竜巫女・ジュリエッタの住居でもある。
パルセミス王城の地下深くに幽閉されているのは、カリスと呼ばれる巨大な古代竜だ。この竜が齎す恩寵と、その生命力と魔力に惹かれて集まってくる数多の精霊達の力を利用して、この国の民は豊かな生活を続けていた。
建国以来、幽閉され続けている古代竜カリスは永遠にも等しい生命を持っているが、不老不死というわけではない。十年に一度聖なる乙女の血肉を喰らわなければ、魂の一部を奪われた状態である今、力尽きてしまう。それは、王国の滅亡と同義だ。
その事態を防ぐために、パルセミス王国は竜神信仰を国教と定め、贄を選ぶ仕組みを確立させた。生贄に選ばれた贄巫女は国王と等しく敬われる。一方、ジュリエッタが務めていた竜巫女は、祭事を司り民衆の導き手となる。しかし竜巫女の役割は形骸化して久しく、近代では貴族の子女や王族の末姫などが、地位を高めるためにその任に就くことが多い。そして、竜巫女に選ばれた乙女は、夭折することも知られている。実際に、先代の竜巫女は、既に他界していた。
これにはある理由がある。俺はその「理由」と手を組むために、神殿に立ち寄ったのだ。
「……お待たせいたしました、宰相閣下」
俺が謁見を申し込んだのは、神殿の責任者でありジュリエッタの後見人も務めていた神官長マラキアだ。不機嫌な気配を隠そうともしない彼は、ヴェールを被ったジュリエッタを遠巻きに見つめてヒソヒソと噂話に花を咲かせている女官達に注意すらせず、控え室に入室するや否や、これ見よがしに大きなため息を吐いた。
「可能であれば、もうお会いしたくありませんでしたが」
ストレートに訳せば「泥船には乗りたくない」と言ったところか。
神官長マラキアはアンドリムに手を貸し、竜神信仰の裏で悪事を重ねて私腹を肥やしていた男だ。頭の回転が非常に速く、パルセミス王国内の情勢を正しく見抜いているからこそ、俺ともう会いたくないと言い出したのだろう。その賢さは、有用だ。今までのアンドリムならば、頭をかち割ってやろうと手にしたステッキを振り上げるところだが、当然ながら俺はそんな愚行は犯さない。
「お前のことだから既に、謁見室での騒動は耳にしているだろう」
俺の問いかけに、マラキアは軽く頷き返す。
「ええ。聞き及んでおりますよ。王太子殿下があろうことかジュリエッタ様との婚約を解消し、贄巫女のナーシャ・ラトゥリ嬢を婚約者と定めたのですよね? その上ジュリエッタ様を贄巫女に指名するとは……馬鹿ばかしくて、笑いも出ない。しかも宰相閣下におかれては、それを反論一つせず受け入れられたとか。なかなかの人非人と見える」
「クク、確かにな。このままでは私もジュリエッタもお前も、待つは破滅のみだ」
「何を冷静ぶっていらっしゃるのやら。僕はどうにかしてこの国から逃げ出すつもりですよ。まぁ……困難でしょうがね」
宰相と神官長の癒着は以前から注視されていたので、彼が国外に出ようとすれば阻止されるであろうことは明白だ。
「一つ相談なのだが……マラキア、私に協力するつもりはないか」
「……は?」
訝しむマラキアの前で俺はジュリエッタのヴェールを掬い上げ、その相貌を見せ付けてやった。
言葉を失くし硬直する彼の姿を目の当たりにして、俺はその威力を確認する。
「ジュリエッタ様……で、いらっしゃいます、よ、ね……?」
「……はい」
「ああ……そのお声は確かにジュリエッタ様。いやしかし、これは、また……」
まじまじと見つめられたジュリエッタは、頬を紅色に染めて恥ずかしそうに俯いた。
今日のジュリエッタは、白粉で地肌を塗り固め毒々しい色の口紅を引いた厚化粧ではなく、ナチュラルに見える技術を駆使した薄化粧風のメイクを施されている。公式設定通りに美少女だったジュリエッタは、庇護欲をそそる儚げな美しい少女へ変化を遂げていた。
この蛹から蝶に羽化したかのような変貌は、武器の一つになるだろう。
コスプレイヤーをしていた妹のメイクを何度も手伝った前世の経験が、こんなところで活きるとは思わなかった。
「マラキア。私はこれから、パルセミス王国に嵐を吹き荒れさせようと思っているんだ」
「……嵐、ですか」
「そうだ。それが叶うかどうかは、今から訪う古代竜と盟約を結べるかにかかっているのだが……勝率はそう悪くないと私は考えている。このまま破滅まで足掻くよりも、私と共に、あの清廉潔白な王太子達に一泡吹かせてやらないか」
「……何と」
ようやくジュリエッタから視線を外したマラキアは、唇の端を釣り上げて笑い、俺とジュリエッタが腰掛けたソファの正面に改めて座り直す。
「古代竜カリスと盟約が結べるのであれば……確かに、面白いことができそうですね」
「間違いなくな」
「……それでは、まずは宰相閣下のお手並みを拝見いたしましょうか」
「ああ、望むところだ。案内を頼むぞ」
「承知いたしました」
笑みを浮かべた神官長マラキアに先導され、俺とジュリエッタは、神殿の下層から王城の地下深くに繋がる長い地下道に足を踏み入れた。ランタンを掲げて先導するマラキアの後を追い、俺と手を繋いで歩くジュリエッタの足取りは、何処か楽し気だ。
「ご機嫌だね、ジュリエッタ」
繋いだ手を揺らしながら俺が笑いかけると、ジュリエッタは弾んだ声を返してきた。
「だって、お父様とこんなふうに一緒に歩くのなんて、初めてですもの」
「……そうだな」
前世の記憶を取り戻したとはいえ、アンドリムとして生きてきたそれまでの記憶を失ったわけではない俺は、苦笑いをするしかない。アンドリムは、良い父親とは言えなかった。一人娘のジュリエッタはおろか、嫡男であるシグルドのことさえ、顧みることはなかったのだから。
「殿下に捨てられた哀しみと絶望は胸の内にありますが……お父様とこうやって共に歩けるのなら、贄巫女も悪くないですわ」
「お前という子は……」
俺は隣を歩くジュリエッタの頭に顔を寄せ、銀色の髪に軽く口づけを落とす。マラキアは目を丸くして驚いているが、ジュリエッタは嬉しそうに、はにかんだ笑顔を見せてくれた。
やがて辿り着いた地下道の終着点には、巨大な鋼の扉が聳えていた。
この先に広がる地底湖に魂の一部を奪われ封じられているのが、古代竜カリスだ。
ユジンナ大陸の中でも最北端――作物が育たず、狩りの獲物にも乏しい不毛の氷土を支配していたカリス。それを、千年前、勇者パルセミスと賢者アスバルを中心とした軍勢が死闘の果てに下し、魂の一部である『玉』を奪い四肢に杭を打ち地底湖に封じたのだ。
古代竜カリスは自らが封じられる間際、勇者パルセミスに死の呪いをかけた。賢者アスバルはそれを庇って自らが呪いを引き受けたが、地底湖の水面を利用した秘術を使い、二十二歳で命を落とす呪いを五十五歳に書き換えさせたと伝えられている。
それ以降、賢者アスバルの子孫は、事故や怪我などの不慮の事態を除いては、判で押したように五十五歳で命を落としている。もちろんそれは、俺もジュリエッタも例外ではない。ちなみにジュリエッタの祖父にあたる前宰相は、自領を視察中に落石に巻き込まれ、四十二歳の若さで没していた。それが本当に事故であったかどうかは、はっきりしない。現領主であるアンドリムがそうであるように、その父も自領の領民に重税を課していたからだ。
代々、増やし続けてきた私財は黄金に姿を変え、屋敷の地下にある宝物庫に溜め込まれている。
「ここから先は、まず私が一人でカリス様のもとに赴こう。二人は待っていてくれ」
「言われなくとも……飢えたカリス様に近づくのは恐ろしいですよ」
「フフ、だがまぁ、扉は開けておけ。私がどうなるかを、しっかり見ておくと良い」
古代竜カリスを封じた地底湖に繋がる扉を開けられるのは、当代の神官長のみ。
本来ならば贄を奉じる時にだけ開く扉が、マラキアの手でゆっくりと開かれた。
「ほう……」
途端、虚空の中から溢れ出る、濃密な魔力の気配。マラキアもジュリエッタも思わず息を呑んだが、俺はマラキアの手から取ったランタンを片手に、構わず扉の中に足を踏み入れる。
前世のゲームで、何度か目にした通りの光景だ。足下に敷かれた石畳の道は、古代竜カリスの顎に続く、贄巫女の歩む道。巨大な空洞となっている地底湖の天井を彩る幻想的な光は、古代竜の魔力に惹かれて集う精霊達のものだ。
そしてその中央には、地底湖に半身を浸した古代竜が、銀色の鱗を輝かせながら佇んでいる。革靴が床を鳴らす音に興味を引かれたのか、古代竜は緋色の瞳をぎろりと動かし、久々に現れた『人間』を睥睨した。俺は贄が捧げられる祭壇の下まで来ると、まずは丁寧に臣下の礼を示し、襟を寛げる。
「宰相閣下……?」
「お父様、何を……」
投げかけられる疑問を他所に襟元のクラヴァットを解いて自分の喉を曝け出すと、古代竜は長い首を伸ばし、口を大きく開けた。鋭い牙の隙間から差し出された舌が、俺の喉をゆるりとなぞる。
『我が言葉を聞く術を知るか、忌々しい血の香りを持つ男よ』
脳内に響く、低い声。想定通りの結果に笑みを浮かべた俺は、再度臣下の礼を取り、改めて古代竜の前に平伏した。
「その通りでございます、カリス猊下。御前に侍る誉をいただきましたこと、望外の喜びに心が打ち震えております。私はアンドリム・ユクト・アスバル。賢者アスバルの末裔にございます」
『あの男の子孫か……久方ぶりに、目にしたな。ふむ、まぁ良い。人と言葉を交わすのは数百年ぶりだ。退屈凌ぎに、何か話すと良い』
この台詞も、想定通り。
ゲームの第二部で、神官長マラキアの策に嵌ったヒロインが古代竜カリスと初めて出会う一幕のものだ。地底湖に続く部屋に閉じ込められ巨大な竜の姿を目にして慌てたヒロインに顔を寄せた古代竜カリスは、彼女の喉を舐めることでヒロインと会話ができるようになる。神官長マラキアはヒロインがカリスに喰われるのを期待していたのだが、カリスは体内の魔力循環の影響で儀式が行われると定められた日まで贄を口にすることはない。
後々展開される攻略対象ごとの苦境や試練は、古代竜の力を借りて乗り越えるパターンが多く、俺はまずこの絶大な力を持つ古代竜との親交を、主人公達から取り上げてしまいたかった。
本来のストーリーでは、ジュリエッタが贄巫女となるのを承諾しなかったため、ヒロインであるナーシャの贄巫女という立場は最後まで変わらない。だが今ナーシャは、贄巫女という枷から解放されている。王太子の婚約者となった彼女が古代竜のもとを訪れることは、まずない。
「猊下のお言葉に甘えまして、私の娘と今代の神官長を紹介したいと考えているのですが、御許可いただけますでしょうか?」
『あの扉付近で震えている二人か? 面白いな。疾く呼び寄せよ』
「御意に」
俺は一旦扉まで戻り、涙を浮かべて飛びついてきたジュリエッタを抱き上げ、信じられないといった表情をしているマラキアを促して再び古代竜の前に戻った。
喉を舐められた俺が何か言葉を交わしていた様子を見ていただろう二人は、恐々としながらもそれぞれ喉を曝し、カリスの舌を受け入れる。
「カリス猊下、神官長マラキアにございます」
「アンドリムが息女、ジュリエッタ・オーシェイン・アスバルにございます」
腐っても国教神殿の神官長と、幼い頃から王妃教育を受けてきた貴族の娘だ。言葉が通じるようになった二人に美しい所作で敬意を捧げられ、カリスは満足げに喉を鳴らす。
『良いぞ。我が前に捧げられるは、血肉となるを待つ贄ばかり。泣き声しか漏らさず、飽き飽きしていたところだ』
「お褒めに与り、恐悦至極にございます」
『さぁ、話せ。お前からは、我を愉しませる気配が漂っている。お前は、この退屈な王国に何かとてつもないことを揺り起こそうとしている……そうであろう?』
「間違いなく。カリス猊下におかれましても、愉しんでいただけるかと」
『ほう』
古代竜カリスは、邪悪ではないが、善き隣人でもない。彼の行動原理は、それが愉悦を齎すか否かのみだ。ゲームの中で彼の気を引くことができたのが、たまたまヒロインであっただけ。出会えたのがこちら陣営の人間だけならば、協力を取り付けるのは難しい話ではない。
「それでは、ご説明いたします。まずは王国の現状につきまして……」
賢者アスバルの末裔が、勇者パルセミスの築いた王国を瓦解させる。
その終焉が、他でもない王城の地下から始まるなんて、何とも皮肉なことじゃないか?
† † †
パルセミス王城の中央に位置する王族の執務室。椅子に腰掛け、マホガニーのデスクに肘をついて思案顔をしている王太子ウィクルムの傍には、長い黒髪を背中に流した少女の姿があった。
少女の名は、ナーシャ・ラトゥリ。パルセミス王国の辺境にあるコフォネ村で生まれ育った、聖なる乙女だ。両親と二人の姉と双子の妹、そして身体の弱い弟を含めた七人家族は裕福ではなく、時にはその日の食事にも窮する貧しい生活ではあったが、ナーシャは平穏な村の生活を疎むことなく、毎日を慎ましく生きていた。
けれどある日、神殿の使いを名乗る騎士達が家に現れ、ナーシャは半ば拉致される形で王都に連れてこられる。薄笑いを浮かべた神官長マラキアに自分が竜に捧げられる贄巫女に選ばれたと教えられた彼女は、愕然とした。充てがわれた豪奢な部屋も、贅を尽くした料理も、王族にすら傅かれる立場も、何の慰めにもならない。家族に一目会いたいと願っても、叶えてもらえないのだ。
それでも彼女は諦めなかった。軟禁された部屋を定期的に訪う王太子や近衛騎士に声をかけ続けて信頼関係を築くことに成功すると、彼らはナーシャを部屋の外に連れていってくれるようになる。少しだけ広がった世界で、彼女は状況を打破する方法を必死に探した。
嘆いてばかりいても変わらないからと真っ直ぐに前を見つめ、絶大な権力と悲運に抗う彼女の姿は、王太子やその仲間達の心を揺り動かす。やがてナーシャは王太子と恋に落ち、王太子の婚約者である竜巫女ジュリエッタの妨害にも打ち勝って、運命を覆したのだった。
「――それにしても……予想外でしたね」
沈黙を破ったのは、王太子の正面のソファに腰掛けた金髪の少年だ。柔らかいローブを羽織った彼の名は、モリノ・ツエッツオ。市井出身でありながら、六歳にして王城直属の学士試験に首席合格した神童にして、今は王太子ウィクルムの頭脳だ。
「全くだよ。今頃俺は走り回ってる予定だったってのに」
モリノと対面のソファに身体を沈め、つまらなそうに天井のフレスコ画を仰ぎ見る青年は、リュトラ・ミルカ・オスヴァイン。長身なのに斥候を得意とする、利発な青年だ。
「まさか宰相殿があの挑発に乗ってこないとは……再度策略を練り直す必要があります」
「ぜーったい頭にきて喚き散らした後に、有力貴族辺りに根回しに行くと思ったんだけどなー」
「宰相と繋がりの深い貴族達を洗い出すつもりだったのですが、当てが外れました」
「シグルドは何か思い当たらない? 宰相サンがあんな行動をとった理由」
名指しで問いかけられ、窓から中庭を見下ろしていた青年は、ちらりと視線をリュトラに向ける。
「俺にあの男の考えが分かるとでも?」
「まー、そうだろうけどさ」
「やめなさいリュトラ。シグルドが嫌がっているでしょう」
「へーへー、モリノは堅いなー」
次期騎士団長候補と目されながらも、親友でもある王太子の願いで王太子の近衛騎士になったその青年の名は、シグルド・イシス・アスバル。アンドリムの嫡男であり、竜巫女ジュリエッタの兄に当たる。けれど首の後ろで無造作に束ねられた生母ユリカノ譲りの美しい黒髪と力強い榛色の瞳は、陰鬱な宰相と懸け離れていた。今年で二十歳になるシグルドは、圧政を敷く父親の後継を厭って家を飛び出し、十歳の時に剣の才能を見込まれて騎士団に入団を果たしている。ちょうど剣術の訓練を始めたばかりであった王太子と出会ったのもその頃で、互いの信頼は揺るぎない。だから王太子がアンドリムとジュリエッタを排斥しようとした時も、シグルドは迷わず王太子の味方をした。
そんなシグルドの傍らには、ナーシャとよく似た少女が立っている。彼女はメリア・ラトゥリ。コフォネ村から姿を消した双子の姉を助けようと王都まで追いかけてきた、正義感の強い少女だ。
彼女は王都に向かう道中でならず者達に騙され、身体を穢される寸前にシグルド達に救われた。シグルドはナーシャと瓜二つである彼女に驚き、メリアを王城に連れていく。そこで姉妹は無事再会を果たしたのだ。寡黙で誠実な青年であるシグルドにメリアは恋心を抱き、シグルドも淡く燻っていたナーシャへの秘めやかな想いを断ち切るために、その心に応えた。
「トーマスの話では、ジュリエッタは今日、あの男と一緒に神殿に戻っているそうだ。神殿の中で交わされる会話までは知ることができないが、神官長に会っているのは間違いないだろう」
「神殿の中は不可侵の魔術が掛けられていますからね……こればかりは仕方がないです」
「何はともあれ、ナーシャが贄巫女じゃなくなったのは、万々歳じゃねえの」
「ええ。これで五日後に開催される婚約披露晩餐会での問題はなくなります。ナーシャの安全が確保されたなら、後は宰相を引き摺り下ろす証拠を探すのみです」
「そうなんだが……何か肩透かしを喰らったような気分でならないんだ」
ずっと思案顔をしていたウィクルムは、肩に置かれたナーシャの手に自分の掌を重ね、執務室の入り口側に佇んでいた男に視線を送る。
「騎士団長……私の不安は、杞憂だろうか」
敢えて肩書きで尋ねた王太子に向かい、隙のない出で立ちをした美丈夫は、僅かな笑みを唇の端に浮かべた。鍛え上げられた肉体を軍服の下に隠した男の名はヨルガ・フォン・オスヴァイン。リュトラの実父であり、この国の現騎士団長でもある。腰に帯びた剣は、代々の騎士団長に受け継がれてきた【竜を制すもの】。王太子にとって、剣術を叩き込んでくれた指南役でもある男だ。
「王将はあらゆる不測の事態を考慮していなければならないもの。殿下の憂いもまた、為政者としての役目の一つ。されどこのヨルガと御身をお護りする騎士達が揃っておりますれば、降りかかる火の粉は全て振り払われましょう。どうか迷わず、お進みください」
「ヨルガ……」
幼い頃より幾度も危機から救ってくれた騎士の言葉を受け、ウィクルムはようやく笑顔を見せる。ナーシャも微笑み、ウィクルムを支えるかの如くそっと身体を寄せた。
対面のソファに座ったままのモリノとリュトラは、そんなナーシャの姿に一瞬だけ悲しみを片頬に乗せたが、すぐにいつもの調子を取り戻し、軽口の応酬を執務室の中に響かせた。
「んー流石父上! 言葉の重みが違う!」
「貴方はもう少し騎士団長を見習いなさい!」
おどけた調子で唇を尖らせたリュトラの頭を、モリノが手にしていた分厚い本の角が襲う。
「いてぇ! おま、俺は一応お貴族様だぞ⁉ お前と身分が違うんだぞ!」
「それならもっと敬われる態度を取りなさい! 見なさいヨルガ様とシグルドを! あのように礼節を重んじる御二人こそ敬うべき貴族です!」
「俺もちゃんと父上の息子なんですけどぉ⁉」
リュトラとモリノの掛け合いに、ウィクルムは相変わらずだと微笑み、ナーシャとメリアは顔を見合わせて笑い出す。ヨルガとシグルドもしきりに空咳を繰り返して笑いを誤魔化していた。
そんな同じ誤魔化し方をしているヨルガとシグルドの顔立ちは、全くの他人でありながら、不思議なほど似ている。まるで、血を分けた親子であるかのように――
† † †
パルセミス王国における王家主催の晩餐会は、家臣達が交流を深める場であると同時に、王族の婚約披露などを兼ねる場合が多い。
先日、謁見の間で王太子とその側近達が引き起こした騒乱の余波を受けてか、本日の晩餐会はいつにも増して詮索好きの貴族や豪族達の姿で溢れていた。
俺――アンドリムは敢えて少し遅めの、会の始まる直前に王宮に到着する。夜会服に身を包んだ俺は、今日もまた頭からヴェールを被ったジュリエッタの手を引いて馬車から降りた。
晩餐会の警護をする衛兵から俺とジュリエッタの到着が伝えられるや否や、小さなどよめきと囁きが広がっていく。扇の裏で寄せ合った顔の間では、王太子に捨てられた竜巫女と追い込まれた宰相について面白おかしく語り合っているのだろう。常ならばすぐに媚を売ろうと集まる貴族達も、今宵は俺とジュリエッタを遠巻きに見つめるのみ。
そんな周囲とは裏腹に、笑みを浮かべて真っ直ぐに俺とジュリエッタに近づいて一礼したのは、神官長マラキアだった。今日はジュリエッタだけではなく、彼にも一役演じてもらわなければならない。王太子の婚約披露が行われる豪奢な晩餐会は、舞台の幕開けに相応しいだろう。
「準備は万端か?」
「宰相閣下のご希望通りに、全ての手続きを終えております」
「ご苦労だったな、マラキア。これからは互いに時間ができる。どうだ、最後に一度ぐらい、私と酒宴に興じてみても良いのでは?」
「お戯れを……こう見えても、私は下戸なのですよ」
一頻りマラキアと軽口を交わし合った後で、俺はジュリエッタの手を握り、優しく声をかける。
「ジュリエッタ……あんなに傷つけられたのに、今日もまたこのような場所に連れてこなければならないとは。だが、約束する。こんな茶番に付き合わせるのは、今宵で最後だ」
「宰相閣下……重ねて確認いたしますが、本当に宜しいのですか。貴方様は、全てを捨てることになりますでしょうに」
「マラキア、違うぞ。私はもう捨てているんだ」
「閣下……」
「私は、嫌気がさした。私一人が汚泥に塗れるのは、どうということではない。いくらでも道化を演じてやる。だがあろうことか、殿下はジュリエッタを傷つけ、その上自分が愛した娘の身代わりにと、贄巫女に指名なされた。その意味を知らない御方ではないだろうに」
「……お父様」
そっと手を握り返してくるジュリエッタの頭を撫で、俺は自分が存分に注目を集めていると分かった上で眼鏡を外す。休息と食事を充分に取り、ジュリエッタの化粧を多少拝借して目の下の隈を薄くしてきた俺が優しい微笑みを浮かべると、会場の彼方此方から感嘆の溜息が聞こえてきた。
「あぁ、なんて、麗しい……」
「当然だろう。宰相閣下は賢者アスバルの末裔だ」
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