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1巻

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   プロローグ


 篠宮しのみや総合病院の院長で理事長の、篠宮あきら先生は名医である。
 かつては御典医ごてんいだったという篠宮家はずーっとお医者様の家系だ。総合病院だし、気軽に受診するには敷居が高いけれど、先生の評判がいいので通院する患者は多い。
 かくいう私、御園舞桜みそのまおもその一人だ。
 小さい頃、頻繁ひんぱんに原因不明の熱を出して寝込んでいた私を治してくれたのが晃先生だ。ちょっと珍しい症例だったらしく、最初に担当してくれた先生が晃先生に相談し、それからは晃先生が診察してくれることになったのだった。
 初めて顔を合わせた時、また痛い注射や点滴をするのかとおびえる私に、ゆっくりと膝を折って目線を合わせながら、晃先生は優しく言った。

『舞桜ちゃん。舞桜ちゃんの病気を治すお薬はもうあるんだよ。それを飲んで、しばらく様子を見てもいいかな?』

 そのいつくしみに満ちた眼差しと、りんとした表情に、幼いながらにきゅんとしてしまった。
 一週間ほど薬を飲み続けると、あっさり熱は下がって、すぐに退院できた。
 それ以降も、定期的な受診が必要だったものの、私は一年もしないうちにすっかり健康になった。
 双子の妹の舞梨まりは、「よかった、舞桜ちゃんよかったね」と泣きじゃくっていた。
 ――そんなわけで。優しくて穏やかで、でも言いつけを守らないとちょっと怖い顔でしかる還暦過ぎの晃先生は、私の初恋の君である。


 この求人は運命だと思いたい。
 あれから十二年。私は無事に大学を卒業しようとしている。
 晃先生への気持ちを忘れず成長した私は、できれば医療関係に就職したいと思っていた。だけど、文系学部の私が医師や看護師、薬剤師などになるのは当然無理だ。
 そう。悲しいことに、私は文系だ。微分積分高次方程式、聞いただけで頭が痛くなり、医師はもちろん、薬剤師になるのも早々に諦めるしかないレベルなのである。
 ならばせめて、晃先生の病院付近で働きたいという不純な動機で、毎朝、大学の就職相談室に求人案内を見に行くのが日課になっていた。
 そして今日、篠宮総合病院の医療クラーク兼医療事務の求人票を見つけた瞬間、私は就職相談室のお姉さんに飛びつく勢いで声をかけ、面接の予約を取ってもらったのだった。
 まさか、うちの大学に篠宮総合病院からの求人が来るなんて!
 私が驚くのには理由がある。
 篠宮総合病院は地元でも有名な超ホワイト企業。つまり、辞める人が少ないので、採用が毎年あるわけではない。もしあったとしても、私には絶対になれない医師や薬剤師ばかりだ。
 だけど諦めきれなかった私は、医療事務とクラークの資格を取って、学生の時から長期休暇は近くの診療所でバイトをしていた。何故ならこの分野は、資格より経験が優先されるからだ。
 そんなところに、資格を活かせる求人が来るなんて、奇跡だ!

「――それじゃ、御園さん。こちらの紹介状を」

 就職相談室のお姉さんは、私の在学証明を兼ねた紹介状を渡しながら、念を押してきた。

「こちら、なかなか採用されなくて……何人か不採用になってますが、御園さんは資格もあるし、アルバイトとはいえ実務経験もあるから、期待してます。頑張ってね」
「はい。頑張ります」

 これまで、地道に経験を積んできてよかった! 
 すっかり健康になった私は、ここ数年、篠宮総合病院には行っていない。
 ほぼ十年振りに初恋の先生に会えるかもしれないという期待を抱きつつ、私は意気揚々いきようようと面接におもむいたのだった。


     * * *


 面接はとどこおりなく終わった。
 残念なことに面接の場に晃先生はいなかった……当然ではある。
 普通に考えて、院長である晃先生が、医師ならともかく医療事務やクラークの面接にいるわけがないのだ。がっかりしたのは確かだけれど、もちろん、面接は全力で頑張った。
 だけど、面接を終えた感触としては、微妙なところかもしれない。
 というのも、私は診療所での事務経験はあるものの、入院事務を担当したことがなかった。篠宮総合病院ほど大きな病院の事務として働くには、経験が浅いかもしれない。
 採用してほしいなあと思いつつ、職員用の出入り口から病院の裏手に向かった。
 歩きながら足に痛みを感じる。慣れないパンプスを履いてきたから、靴擦れができたのかもしれない、と足下に視線を向けた。
 ……手帳?
 そこに、黒い小さな手帳が落ちていた。革の色艶いろつやからして新品。そして高級品。
 落とし物だと気づいて、場所を確認する。ここは、職員用出入り口のアプローチ階段を下りてすぐ。つまり、病院関係者の落とし物である可能性が高いということだ。
 そう判断した私は、靴擦れした場所に手持ちの絆創膏ばんそうこうで応急処置をしてから、くるっとUターンして院内に戻るのだった。


「これは……」

 職員用出入り口に面した警備室に落とし物を持って行ったら、何故か事務棟に案内された。
 総務課と書かれた部屋のドアをノックし、私は警備室で話したのと同じ内容を話す。
 対応してくれた女性――草葉くさばというネームプレートをつけていた――に落とし物を見せると、困ったように眉を八の字にしている。落とし主を探すには中を確認するしかないけれど、モノが手帳だ。プライベートな内容満載だったら気まずい。
 しかし、見ないことには確認のしようがないのである。ただ、一人で見るのは荷が重いので、二人で同時に見ようとお互いにアイコンタクトして頷き合う。
 そうして開いた手帳の中身に――草葉さんと私は絶句した。
 記されていた内容はともかく、何とも個性的な字だった。特徴的なくせ字とでもいうべきか。
 ところどころ英語やドイツ語っぽいものが交ざっているので、医師の持ち物かもしれない。

「えーと……二十日十八時、加藤かとうDrの講義に出席の返事。二十三日、四辻よつじ教授懇親会は未定」

 適当に読み上げる私に、草葉さんが「え」と小さな声を上げて、こちらを見た。いや、私じゃなくて、手帳を見てください。
 途中まで読んだ私は、草葉さんに話しかけた。

「この、加藤先生……と、四辻先生に関係のある方の落とし物ではないでしょうか……って痛いです、草葉さん!」
「よ、読めるんですか? ミサワさん!」
「御園です」
「失礼しました。それより、コレが読めるんですね御園さん!」

 私の両肩をつかんで揺さぶる草葉さんは、さっきまでの「可愛いふわふわキラキラ女子」の仮面をかなぐり捨てて聞いてきた。その様子は、はっきり言えば怖い。

「読め……ます、けど……」
「このどうしようもなく汚くて下手へたくせが強くて暗号にしか見えないようなモノが、読めるんですね⁉」

 そこまでひどいだろうか……
 開いたまま置かれている手帳に視線を向けてみたけど、普通に読める。

「日本語と数字なら読めま――」
「神様ありがとうございます!」

 言い終わる前に、草葉さんが天に向かって叫んだ。
 ……ヤバい人だろうか。とても可愛いのに。

「ちょっとここでお待ちくださいね、ミサキさん!」
「御園です」

 覚える気がないのか興奮しているせいなのか。草葉さんは、私を応接用らしいソファに座らせると、手帳を持ったままどこかへ走っていった。


 そしてそのあと――私は何故か、再度面接を受けることになり、卒業後の雇用を確定されたのでありました。



   1 私の仕事


 私が篠宮総合病院に医療クラーク兼医療事務として採用されて三ヶ月。
 残念ながら、院長である晃先生とは、未だお会いできていない。だけど、同じ職場に晃先生がいると思うだけで嬉しい。
 この病院では、常勤の医師には必ず専属のクラーク兼事務員を一人付けることになっている。
 入職早々ではあるけれど、私も篠宮たまきという先生に付くことになった。
 環先生はお名前通り、篠宮総合病院の経営者一族の一人だ。
 といっても、跡取りではなく末っ子の三男坊。篠宮家は、環先生をはじめ兄姉きょうだい五人全員が医師。医学部の学費を五人分ぽんと出せる篠宮家って、やっぱりお金持ちだなぁと感心してしまった。
 環先生の担当は小児科。お兄さん達は心臓外科と循環器科、お姉さん達は内科と皮膚科の医師として、現在、五人全員が篠宮総合病院に勤務している。
 そういう環境で、何故新卒の私が環先生の専属クラークに抜擢ばってきされたのか……
 その理由はいたって簡単。
 環先生の字がくせ字すぎて、私以外誰も読めなかったからだ。
 あの日拾った手帳の個性的な字――環先生の走り書きをすらすらと読めてしまった私は、彼のクラークになるべく採用されたのである。
 時代は電子カルテが主流となっており、医師の所見や処方薬剤などはすべてパソコンに直接打ち込んでいくスタイルである。
 しかし環先生は、「人間が作ったものである以上、機械を盲信することはできない」と言って、未だにアナログの手書きカルテを併用している。私が専属になるまでは、看護師や薬剤師や検査技師が、カルテに書かれた内容を直接本人に確認しに来ていたらしい。
 噂では、書いた本人ですら即座に読めないというくらいだから、現場の苦労は相当なものだったろう。そんなところに、環先生のくせ字を読める私が来たものだから、即採用となったそうだ。

「環先生。よろしいですか?」

 午前の診察が終わり、今はお昼休み。私は環先生が午前の診察後に回診した入院患者さんのカルテを入力し、病棟へ転送する前にチェックしてもらおうと声をかけた。
 幼児や小学生向けの可愛いキャラクターで飾られた診察室は、病院というよりは幼稚園に近い雰囲気がある。壁紙やインテリアもピンクや水色、薄緑といった優しい色合いだから、余計にそう感じるのかもしれない。
 私の着ている事務員の制服も看護師さん達の着ている制服もパステル系の色合いなので、白衣の環先生がちょっと浮いて見える。環先生は無表情な美形さんだから、尚更違和感があった。

「何?」
「転送前の確認をお願いできますか」
「ん」

 パソコンの画面と紙カルテの間でにらめっこしながら入力していた私の隣で、優雅に仕出し弁当を食べていた環先生が、画面をのぞき込んできた。
 私は今、環先生の診察デスクにあるパソコンを借りて作業している。環先生が移動してきたことで、息が触れそうな至近距離に彼のとても綺麗な顔が近づいてきて、私の心臓は――大変落ち着いていた。普通に脈打っていますがドキドキなんかしません。

「うん。問題なし。転送していい」

 そう言って、環先生は医師の確認電子印をポンと押印おういんしてくれた。
 落ち着いているのに、時折さらりと耳をくすぐるなめらかな声は、医師より声優の方が向いているんじゃないかと思うくらい色気がある。

「はい」

 ありがとうございます、と軽く頭を下げて転送ボタンを押し、待つこと数分。処置チームその他からの「受信完了」の返信を確かめて、私はふうと息をついた。
 そして、そっと隣の環先生をうかがい見る。
 ――まあ、確かに。
 客観的に見て、環先生は綺麗な人だ。
 顔面偏差値は、私が知る限り世界中で二番目に高い。
 当然、一番は晃先生なんだけど、彼はその晃先生に似ているのだ。
 同じ系統の美形を、柔和で温厚な紳士にしたら晃先生に、玲瓏れいろうとした涼やかさを強くしたら環先生になる……気がする。
 背も高いし、本人が「医師は体力勝負」と言うだけあってジム通いできたえた体は引き締まっている。何より、声がいい。
 声フェチなところのある私は、最初の頃、環先生に「御園」と呼ばれる度にドキドキして、引っ繰り返りそうになっていた。
 晃先生に似た顔も好きだけど、聴覚に直接響いてくる声の威力は圧倒的だった。環先生の麗姿れいしは三日で慣れたけど、あの美声には未だ慣れない。
 ちなみに私が「環先生」と呼ぶのは、ここには「篠宮先生」が多すぎるからだ。
 晃先生と、その跡取りである長男夫婦――環先生のご両親に、叔父にあたる次男さん。そして、環先生達兄姉きょうだい。つまり、現時点で「篠宮先生」は九人もいるのだ。
 なので、職員だけでなく患者さん達も「○先生」と名前で呼んでいた。
 でも、晃先生だけは「院長先生」「理事長先生」と呼ばれている……が、心の中で呼ぶ分には許していただきたい。
 半ば隠居状態の晃先生は、現在は入院患者をメインにている。高名な心臓外科医でもある晃先生は、お年のこともあり、今は手術もしていないそうだ。
 ……入院病棟にあまり立ち入ることのない私は、未だ晃先生にお目にかかれていない。でも、入職した時のパンフレットに載っていた笑顔の写真は、相変わらず素敵だった。
 ――などと思い返していたら、あっという間に十四時。
 小児科看護師の大瀬おおせさんが「お待たせしましたー」と、患者さん親子に優しい声をかけながら診察室の前のプレートを「診察中」に変えた。


     * * *


 社会人三ヶ月目、初夏を迎えた。
 気温が上がり夏が近くなってくると、何故か小児科の患者数は増えて忙しくなってくる。小さな子は、体温調整が上手うまくできないからだろう。
 午後の診察が始まるまでの間、私と小児科の看護師である大瀬さんで、夏用に診察室の模様替えを始めた。
 涼しげな水色や青の色紙を切って星を作ったりしていると、ふと思いついたように大瀬さんが笑った。

「それにしても、舞桜ちゃんが来てくれて助かったなあ」
「どうしたんですか、いきなり」
「だって、環センセへの確認作業しなくてよくなったんだもん。もー、今までは口頭で何度も薬剤名やら量を聞いて、そのあと、また電子カルテで指示確認してたの。その間も、患者さんは放置できないし、本気で分身したかったわ、あたし」

 篠宮総合病院はとても大きな病院なので、小児科には他にも先生がいる。だけど、環先生の「専属」として常勤している看護師は大瀬さんだけだ。
 環先生の指示内容をチェックすると同時に、診察後の患者さん、診察待ちの患者さんの対応をするのは、確かにハードすぎる。

「ずっとクラークがセンセの字を読めればいいのにって思いながら、あの字が読める奇特な人間なんていないって、諦めてたんだよね……」

 大瀬さんは黄昏たそがれつつも、ハサミを持つ手を止めることなく、可愛い星を量産している。
 私は私で、「環先生の字を読んでもらえて助かる」と、事あるごとに感謝されて嬉しいものの、彼の字はそんなにひどいだろうかと思う。
 あの字が読めるというだけで、即採用を決定するくらい困っていたのはわかる。
 でも、環先生自身が、結構それを気にしているっぽいから、あまり触れない方がいいのではないだろうか。とはいえ、そのおかげで採用してもらったので、恩を返す為にも頑張りたい。

「大変だったんですね」
「そうなの。環センセも、診察してたり回診してたりするから、あんまり時間取らせるのも悪いし、皆が神経を張り詰めてたのよ。今は舞桜ちゃんが書き直してくれるから、すごく助かってる」

 ほんと悪筆だからね、あの人……と呟いた大瀬さんは、いつの間にかとても可愛い子熊と子うさぎを作り上げていた。……これはお金を取れるレベルだと思う。私もハンドクラフトを学んだ方がいいかもしれない。

「こんなくせ字、よく読めるよね。舞桜ちゃん」

 小児科の看護師らしく優しげで可愛い雰囲気の大瀬さんは、結構毒舌というか、環先生には点がからい。

「大瀬さんは環先生に厳しいですね」
「環センセを甘やかして、あたしに何の利益があるのよ。あたしの優しさは娘と患者さんにそそぐだけで限界よ」

 ……ご主人にはそそがないらしい。

「ま、あたしが甘やかさない分、舞桜ちゃんが甘やかしてあげればいいじゃない」
「六つも年上の男の人を甘やかす甲斐性は、私にはありません」

 それに、環先生はご家族から存分に甘やかされているっぽいし。時々、お兄さんお姉さんが「誰か環を困らせてないか」と、明後日あさっての方向の心配をして様子を見に来るくらいだ。環先生はかなり嫌がっているけど。
 内心では「どうせなら、晃先生が来てくれればいいな」と、思っているのは内緒だ。

「じゃあ舞桜ちゃんが環センセに甘えたら? 末っ子だから弟か妹が欲しかったって、前に言ってたし、甘やかしてくれるわよきっと」
「何の意味があるんですか、その行為に。何より、公私混同はよくないです」
「意味ならあるわよ。環センセが機嫌良く仕事してくれれば、あたしは助かる。すごく助かる」

 それはわかる。医師と患者さん――保護者との関係が険悪になってしまうと、看護師はとても大変なのだ。

融通ゆうずうが利かないって言うか真面目すぎるからさあ。体調の悪い子をすぐに連れてこない親がいると不機嫌になるでしょ、環センセ。患者を心配するのはいいんだけど、家庭によっては、すぐに病院にかかれない事情もあるってわからないの。深窓しんそうのご令嬢並みの箱入り娘だから」
「……誰が箱入り娘だ」

 タイミング悪く戻って来た環先生は、少し不機嫌そうに大瀬さんに突っ込んだ。

「自覚ないんですかー? センセは、箱入り娘並みの世間知らずですよ」

 むぅ、と拗ねた顔になる環先生が、ちょっと可愛かった。

「俺が世間知らずなのは認めるが、箱入り娘はないだろう」
「たとえ。比喩ひゆですよセンセ。そのくらいわかりましょーよ。無駄に学歴いいんだから」
「確かに無駄な学歴だった……」

 不意に、環先生はずーんと落ち込んだ。

「学歴がどうだろうと、医師としての能力には関係ないしな……やっぱり臨床りんしょう系じゃなくて研究に進んだ方がよかったか……」
「……箱入り娘並みの世間知らずって言われただけで、そこまで飛躍します……?」
「そうやって極論に走るとこが、世間知らずなお子様なんですよ、センセ」

 あ、箱入り娘からお子様に格下げされた。
 それに気づいたのか気づいていないのか、環先生は悩ましげに溜息をついて呟く。

「まあ、家族の過干渉を受け入れている時点で、多少は箱入りの自覚はある」
「多少……」

 多少ってレベルか? と思うくらい、環先生は干渉されまくっている。それを「多少」で済ませてしまうあたり、無関心なのか寛容なのかわからない。
 けど、本人が「多少」と言うんだから、気にしないでおいた。私から見ても、環先生はかなりの箱入り令息だけど、大瀬さんと二人して追い詰めてはいけない。

「箱入りでも世間知らずでも、患者さんに寄り添えるお医者様ならいいんじゃないですか?」
「そう在れればいいんだけどな」

 私の言葉に、環先生が少し笑って頷く。

「舞桜ちゃん、その調子で環センセを甘やかしてちょうだい。さー、午後の診察始めますよー」

 そう言って、大瀬さんが診察室のプレートを「診療中」に変えた。


     * * *


「環」

 ……あ、今日も来た。
 午後の診察時間が終わりに近づいた頃。小児科に現れたその人達に、私だけでなく、環先生も大瀬さんも同じ思いで視線を向ける。
 私はできるだけ丁寧に。大瀬さんは適度に丁寧に。環先生は――見ていなかった。

「今日は腸重積ちょうじゅうせきの患者をたそうだな。あれは発症から二十四時間を超えると大変なんだ、よく気づいたね」
「……症状と検査結果を照らし合わせて気づかなかったら、医師なんてやってられないだろ」
「何言ってるの、問診しただけで超音波検査を指示できたのはすごいわよ。威張っていいのよ、環」

 ひたすら環先生をめて「こっちを向いて構ってくれ」攻撃しているのは、環先生のお兄さんのはじめ先生、お姉さんのまどか先生である。……そんなに可愛いのか、末弟が。

「兄さん。姉さん。正直、俺は馬鹿にされてる気がしてならないんだが」

 ……うん、まあ……腸重積ちょうじゅうせきはそれなりに珍しい症例だけど、あまり「すごいすごい」とめられると「馬鹿にされてる」気持ちになるのは何となくわかる。
 今の環先生の状況をたとえるなら――中学生向けの問題集を解いて、過剰にめられている高校生みたいな心境だろう。

「そういうわけで、やっぱりこの週末は家に帰るのはやめる」
「環っ!」
「待って、そんなのもとき兄さん達に何を言われるか……」
「もう三十近い弟に執着するな、ブラコンか」

 おっと、普段は「二十八だ、三十路みそじって言うな」と大瀬さんに抗議している環先生が、みずからアラサーカードを切っている。これ、かなり嫌がってるなあ。
 ……まあ、ほぼ毎日来られたら、嫌にもなるか。
 大瀬さんに至っては、始先生と円先生を無視して「検査室行ってきまーす」と、血液検査その他の結果をもらいに行ってしまった。本来、結果一覧をもらいに行くのは私の仕事なんだけど、大瀬さんはここから逃げる口実にしたようだ。出し抜かれてしまった。

「それに、俺は忙しい」
「忙しいって。休日医や夜勤は別にいるんだし、土日はちゃんと休めるはずだぞ」
「先月戻されたレセプトを再チェックして、戻された理由を調べたい」

 やはり環先生は真面目だ。レセプトチェックは基本専門チームがやっているけど、たまに医師に戻される場合もある。先月戻された分は、きちんと直して再提出したものの、何故戻されたか調べておきたいらしい。

「薬剤名と病名が一致しないと、拒否されることがあるんですよ。薬剤表に適応病名例が載ってますから、よければお持ちしますけど」

 思わず口を挟んでしまったのは、環先生のこういう真面目なところに私は好感というか敬意を持っているからだ。

「薬剤表って、君、持ってるのか?」
「はい。最新版だけですけど」

 ――勉強に必要なので買ったのだ。高かった……!

「俺のは少し古いから、貸してもらえるなら助かる。ありがとう、御園」

 にっこり笑った環先生は、本当に綺麗だ。大人の男の人なのに、こういう無邪気で素直な笑顔を見ると、何となく庇護欲ひごよくをそそられてしまう。

「クラークには優しいのね、環……」
「いいことだよ、円。部下に厳しく当たるのはよくない。よくないが……」

 うらやましいずるいねたましいという視線で私を見ないでください。
 本当に弟が可愛くて仕方ないらしい始先生と円先生を、環先生は「いい加減、診察室に帰って仕事しろ」と追い返した。
 これ以上環先生の機嫌を損ねたくないらしいお二人がとぼとぼ帰っていくと、環先生は深々と溜息をついている。
 診察室の隣の小休憩スペースには冷蔵庫があるので、私はそこから缶コーヒーを持ってきた。

「どうぞ」
「ん。ありがとう」

 こんな些細ささいなことにもきちんとお礼を言うのだから、環先生は厳しくしつけられているのだろう。

「……あと、さっきは助かった。話をらしてくれて」
らすほどの意図はなかったんですけど……環先生がちょっとご機嫌斜めになってたので」

 私がからかうように答えたら、環先生も苦笑した。


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